赤い花 あたたかな日射しが、その野原を照らしていた。
見渡す限り一面に咲いた赤い花の野に、風が吹きわたる。
細く長い茎に、ふわりとした花びらを持った花が一輪づつ、首を傾げるように揺れていた。
ひょろりとやせた木が、まばらに生えている。
その一本に寄り添うように、小さな家があった。
粗末な木の柵で囲ったなかに、数羽のにわとりが遊び、杭に繋がれたヤギが草を食んでいる。
ほんの少しの畑と、古い井戸。
ひとりの老婆が、わずかな木陰に置いた小さな腰掛けにじっと座っていた。
花の揺れる音に、耳をかたむけているかのように。
ふいに、強い風が吹き、老婆は結った髪を押さえたが間にあわず、花を模した古ぼけた髪飾りが草の上に転がった。
老婆は手をのばし、草の上を探ったが、見つからない。
悲しげにため息をつきかけたその時、そっと肩に触れる手があった。
「これ、どうぞ」
その手はごつごつとして大きかったが、明るく響く声は、まだ少年と言っていいものだった。老婆の手をとり、髪飾りをのせる。
「…まあ、拾ってくれたのかい。ありがとうね」
さっきまであたりに誰の気配も感じなかったのに。不思議なこともあるもんだねえ。
盲目の老婆は、白髪にもとのように髪飾りをさしながら、心のなかで呟いた。
「お若い方、あんたもパプニカの…調査の人なのかい?」
何かに驚いたように、一瞬息を飲む気配がしたが、少年は落ち着いた声で言った。
「いえ…違います。旅の途中で…」
「旅の…?こんな所に旅人がくるなんて本当にめずらしい。あんまりめずらしいから、妖精か小鬼の類いかもと思ったよ。まあそうだとしても、親切な小鬼だけど」
「小鬼…」
少年が困ったようにくり返すのを聞いて、老婆は笑った。
「もし水が欲しかったら、井戸を使っていいよ。もちろん…この土地の水が嫌じゃなければの話だけど」
「嫌だなんて…助かります。有難うございます」
少年がぺこり、とおじぎをしたのがわかる。
井戸まで走ると、大急ぎでつるべを引き上げる音がきこえた。がぶがぶと水に口をつける音に、老婆の皺だらけの口元が思わず笑んだ。
少年は、また走ってもどってきた。
「ごちそうさまでした」
老婆は見えない目を細めた。
「いいんだよ。もし良かったら、少し木陰で休んでいかないかい?」
「有難うございます。じゃあ…少し…」
少年は老婆の隣に、腰をおろした。
「…あの、さっきの、パプニカの調査…というのは…」
おずおずと口を開く。
「ああ、魔王との戦いが終わってからね、時折このあたりの様子を見に来てくれるのさ。困ったことがあれば相談にものってくれる。苗や食料を持ってきてくれたりね。最初はうさんくさい、施しは受けない、と言い出す者もいたが…今じゃこのあたりの者はずいぶん助けられてるのさ。他の国はおろか、もとはこの国にいた者さえ近づかない、見捨てられた土地だと思っていたが…」
「そうなんですか…パプニカが…」
少年の声に、年に似合わない、郷愁のような響きがあるのを老婆はふといぶかしく思ったが、口にはださなかった。
「おばあさんはずっとここに…?」
「おやおや。竜の騎士様の怒りを買って滅びた国に、もう人なんかいないって思ってたかい?生き残った若い者は、呪いや瘴気を恐れて、散り散りに国を出たけれど、身寄りのない年寄りはねえ…行くところもないし…死ぬなら自分の国でって思ったのさ。そんな年寄りだけがまばらに住んでるよ。あれからどれくらいになるのかねえ…もうよくわからないが、それなりに元気に暮らしてるよ」
呪いや瘴気は、噂だけだったのかも知れないねえ、と老婆は笑った。
「おれ…おばあさんの言うとおり、この国にはもう誰もいないって思ってました。はじめて、この国に来たんです。…おばあさんに会えて良かった」
「嬉しいことを言ってくれるねえ」
ふたりは、それきり黙ったまま、同じ野原を向いて、風に吹かれていた。
しばらくたって、少年がひとりごとのように呟いた。
「赤い花…遠くまでずっと、赤い花だ…」
「昔から、この国では馴染みのある花さ。さっきあんたが拾ってくれた髪飾り、これも同じ花だろ?これほどたくさん咲いていた訳ではないが…きっとここの風景は、都が築かれる前の、ずっと昔の風景に似ているんだろうね」
老婆も目の前の花野が見えているかのように言った。
「花の野原に都が作られて、石畳や建物の下になった土のなかの種たちは、ずっと眠ってたんだね。でも、あの爆発で、みんな吹き飛んだ。地表がえぐれ、古い土がむき出しになって、種たちが目を覚ましたんだろう。次の春、都があった場所に一面に赤い花が咲いたのさ。そのとき、私はもう、それを見ることは出来なくなっていたが…」
「目を…?」
少し掠れた声で、少年が尋ねた。
「爆風でやられてね…私は命は拾ったけど、うちのひとはそのときに…これは、その少し前にあのひとがくれた細工物でねえ、いまでも新品のときの赤い、綺麗な色が目に浮かぶよ。私はこんなもの、もう似合わない、って言ったんだけど、あのひとは似合うって…」
言いながら、素朴な、今は色褪せた髪飾りを、老婆はそっと撫でた。
「古ぼけてるが、私にとっちゃ大事なものだったのさ。さっき、あんたが拾ってくれて助かったよ」
それから、ふと、驚いたように少年のほうに顔をむける。
「どうしたの。まさか…泣いてるのかい?」
「……」
老婆は穏やかなため息をついた。
「なんて優しい子なんだろ。でもあんたが悲しく思うことはないんだよ。…もう、ずっと昔のことなんだ」
老婆のてのひらが、少年の頭にのせられた。
固くて、癖のある髪を、何度も何度も撫でる。
少年は、自分の膝をかかえよせて、そのまましばらく身動きしなかった。
「もう、行きなさい。引き止めて、悪かったね。こんなおばばの話を聞いてくれてありがとうね」
老婆は、明るい声で言った。
ぐしぐしとこぶしで目をぬぐって、少年は立ち上がる。
自分を撫でてくれた老婆の手を、そっと握った。
「おばあさん、どうか、これからもお元気で」
「あんたもね。竜の神様の護りがあるように祈ってるよ。泣き虫の小鬼さん」
まだ涙の残る目のまま、少年は照れたように笑んだのだろう。
そんな気配をかすかに風の中に残して、少年はあらわれたときと同じように、静かに去っていった。
老婆は、思わず立ち上がる。
どうしてか、そうせずにはいられなかった。
「…もう、行ったのかい?」
老婆は、少年が向かったと思われる花の野に、嗄れた声で呼びかけた。
「もし、あんたの懐かしい人がパプニカにいるのなら、あの子に聞いてみればいい。消息を聞けるかもしれないよ。きっとまだ野原にいるよ…」
その声を、柔らかな風がさらっていった。
どこまでも続く、赤い、赤い花。
血みたいに、鮮やかな赤。
ダイはそのなかを歩いていた。
迷い続ける心のまま、ただ地上を彷徨い、はじめてアルキードの地を踏んだ。
ダイの足下で、ゆらゆらと花たちは風に揺れる。
父さんを襲ったような、あまりに大きい悲しみや怒りが、自分に襲いかかってきたらどうなるのだろう、とダイは思った。
ずっとずっと受け継がれてきた戦いの記憶の大地から、そのとき芽吹くのは、きっと恐ろしい力なのだろう。
眠る種が、次々に目覚めて、こんなにも地平を赤く染めるように。
だから、だから、やっぱり会っちゃいけないんだ。
いつか、また涙が溢れて頬を流れたが、ダイはかまわず歩き続けた。
誰も、誰も、新しい戦いにまきこんじゃいけない。
大好きな人たちをもし失ったら、おれはきっとおれじゃなくなってしまう。
悲しみと怒りにまかせて力を使って、もっと大勢の人を悲しませてしまうかもしれない。
あのおばあさんのように。
この野原に眠る、たくさんの人たちのように。
おれはひとりで行かなきゃいけないんだ。ひとりで…
ダイは、がむしゃらに歩き続けた足を止めた。
「もう、行かなくちゃ」
うなだれたままダイは呟いた。
口にしてしまえば、それが出来るような気がした。
たくさんの仲間たちの顔が浮かぶ。
そして、最後まで一緒にいた、大切な…
涙がぽたぽたと、揺れる花々の間を落ちて、大地へと吸い込まれた。
「どこへ行くって…?」
あまりに思いすぎたので、その声を聞いたのだと思った。
確かめるのがこわくて、ひどくゆっくりとあげた視線の先に、青年が立っていた。
膝のあたりまで、赤い花に埋もれている。
古びた草色のマントと、額の横に結ばれた明るい黄色のバンダナが、風に高くはためいた。
息を弾ませて、ただ自分だけを見ている。
ダイは茫然とその姿を見つめた。
記憶より背が高くなっていて、雰囲気が大人びていた。好き勝手に跳ねていた髪は少し落ち着いたようだ。
それでも、ひたすらに、胸が痛くなるほど懐かしい、その姿。
アルキードの人たちを見守ってくれていたのは、お前だったんだ。
ダイは麻痺したような思考のなかで、そう思った。
はしばみ色の眸が、光りを宿して、ひたりと見つめてくる。
ここを去らなければ、と思うのにどうしても動くことができない。
「…丘から、お前の姿が見えた。思わず、移動呪文使っちまったよ。こんな近距離なのにさ」
以前と変わらない、その口調。
「情けねえツラすんな。図体ばっかりデカくなりやがって…!」
そう言って口の端をひきあげて笑おうとしたのは、その眸から伝ったしずくのせいで、上手くいっていなかった。
「…ポップ…!」
唇が勝手に、呼びたくてしかたがなかった名前を呼んだ。次の瞬間、ダイはポップに抱きしめられていた。
その腕の、身体の温かさ。顔を押しつけられた肩が、みるみる熱く湿っていく。何度も名前を呼ばれて、胸が熱くなる。
「…お前、どこに行くっていうんだよ」
掠れた声で、ポップが言った。
「おれ、どうしたらいいのか…分からなかったんだ」
「バカ野郎、そんなもん、一緒に考えりゃいいだろ…!」
ダイは、目を見開き、それから、泣き笑いのような顔になる。そっと腕をあげて、ポップの身体を抱きしめ、その肩に顔をうめた。
「…そうだね」
どんな恐れも、ためらいもとどめることができず、その花は豊かに開く。