夢見草散る 頬にあたる空気はひんやりと冷たいが、真冬とは違う、どこか湿った土の匂いが混じっている。
春の匂い。
ポップは重なりあう梢の先に広がる薄曇りの空を見上げた。
枝の先にはいつのまにか一輪のつぼみがふくらんで、うすべに色の花びらがほころびはじめていた。
のばした指先でそっと触れる。そこに花びらがあるとは思えないくらいの儚い感触だった。
それでも空を覆う雲が去り陽が射せば、花は次々に開き、咲きこぼれるだろう。
「よし。おれも買い出し急がないとな!」
今年は特に、準備が大変だ。
ポップは、村へと通じる坂道を歩きだした。
花は咲く。
のどかな陽気に、山の稜線が優しい色に覆われて霞む。
ポップは二階の丸窓を開けはなって目を凝らした。
ほら、やっぱり今日だ。
坂道をゆっくりと登ってくる人影を認めて、ポップは階下に駆け下りた。
「よう。来たな!」
「今年もよく咲いているな」
春の風のなか、ひとひらの花びらを髪にのせて、ヒュンケルがほほえむ。
中央の政治から離れたポップは、故郷に似た山の村で木を育て、畑を耕し、請われれば治癒魔法を施して、人々のなかで暮らしていた。それは思ったより忙しく、思ったより退屈しない生活だった。
ヒュンケルはといえば、ひとつところに留まらず、いまも旅を続けている。
冒険の旅だ。
「それにしても毎年律儀によく来るよな」
「花見酒につられてな」
この村に暮らしはじめて二回目の冬にヒュンケルが訪ねてきたとき、なにげなく言った言葉がはじまりだったと思う。ここ、春がすごくいいんだぜ。花どきになったらまた来いよ。わかった、とヒュンケルは頷いた。
大魔王を倒すための旅、そして失われた勇者を探す旅。
生死を共にした旅の仲間ではあったが、家族でも恋人でもないポップのもとにヒュンケルは毎年訪れるようになった。
春がくれば花が必ず咲くように。
「なんか夢のなかにいるみたいなんだよなあ」
庭に出した椅子に座り、ヒュンケルと並んで花を眺めながらポップが言った。
「そうだな」
ポップが枝につるしたランプに照らされて、薄紅の花々が暗闇にほのかに浮かぶ。
「おれ、この村をでようと思う」
ヒュンケルは酒の杯を口元に運ぶ手を止めた。
「この村のまわりの森は薬草が豊富だから、おれのあとに薬師をやりたいっていうひとも見つけてあるんだ」
「……そうか」
少しの沈黙のあと、ヒュンケルがぽつりと言った。
「もうここで花を見ることもないと思うと、残念だな」
「それってさ」
ポップは思い切って言った。
「これからも花見をしたいって意味でいいか?おれと。」
「ポップ……」
「ここはすごくいい村で、みんなおれを必要としてくれて、そりゃあ毎日いろいろあるけど、こんな風に暮らせるの幸せだなって思える夢みたいな暮らしで……でもこうやって何年も何年もここにいても、花どきが一番待ち遠しいんだよな。おまえがこうして来てくれるのが」
「……オレも花どきを待ちわびていた。おまえに会える数日がある。だから生きようと思えた」
「それなら、おれたち」
山からの風が吹き渡って、薄紅いろの花びらを空へと運んだ。
強い風に枝が揺れ、無数の花びらが舞う。そして、ヒュンケルのとなりには旅の荷物を背負ったポップが立っていた。
数日の滞在ののち、ふたりが出立する日の朝がきた。
美しい坂道には花びらが散り敷いて、甘い薄紅いろがどこまでも続いていた。