愛していると言えたらいいのに 自身の姿に化けた虚無に告げられた言葉はカスティエルの真意を鋭く貫くものだった。
「戻っても何も得られない。辛いだけだ」
最も愛するもの、最も欲しているものを知っている、と虚無は笑った。カスティエルの全てを知っていると装う態度は気に入らなかったが、言い得ていた。カスティエルが唯一愛しているもの。ディーン・ウィンチェスターに抱く感情が「愛」だと気付いたのはいつからだったのか分からない。いや、地獄でその魂を掴んだその時からだったことは定めのようなものだ。そして、決して手に入れることはできないもの。カスティエルはそれで良いと思っていた。「愛している」と伝えなくてもディーンの傍にいることは至福な時だと。
それがいつの頃か傍にいるたびに、その美しい瞳が自身に向けられるたびに、胸が締め付けられるほどの苦しさを味わうようになった。ディーンが向ける情は決してカスティエルと同じものではない。家族で兄弟。それは、ディーンにとって最上級の愛情の形だということは知っている。充分に知っているからこそ、カスティエルは自身の情を伏せることにした。
「傍にいるほど辛いのに、なぜ戻る?」
虚無は心底理解できないという表情でカスティエルを見つめる。その顔には憐れむ色も含まれる。踏みつけられる虚無の足を払いのけたカスティエルは立ち上がる。
「戻れと、声が聞こえる。それに、やり残したこともある」
虚無は笑った。
「やり残したこと? 『君を見守っているよ』か?」
カスティエルは眉を歪める。嘲る虚無の表情は崩れていたが、カスティエルの真摯な瞳に一瞬、恐怖が揺らいだように一歩下がる。
「何とでも言えば良い。私は再び眠りにつく気はない。このまま騒ぎ立てれば他の天使や悪魔たちも目を覚ますかもな」
本当にそんなことができるかどうかも分からないが、事を荒げることを虚無は嫌がるのを知っている。カスティエルは去勢を張れば、虚無は狼狽えた。
「やめろ!!」
虚無は苦渋に顔を歪めてからカスティエルを地上へ吐き出した。死から蘇るのはこれが初めてではないが、先ほどまでいた世界は奇妙な空間だった。暗く壮大で果てしない。一度、眠りにつけば目覚めることは不可能だと思われた。
地上に落とされたカスティエルは、顔を上げる。そこは草原が広がり近くには小川と風車が見えた。穏やかな風が髪を撫でる。目を細めて見るこの世界はやはり美しいと感じられずにいられない。トレンチコートのポケットに手を入れると小銭が少しあるだけで、それでも自身が生きていると伝えるのに充分だと感じられた。地上に降りて最初に目にした穏やかな景色のおかげかもしれない。
電話ボックスでディーンの携帯端末の番号を入れた後、カスティエルは息をつく。応答があるディーンの警戒する声色の後に沈黙が続くも「ディーン」と名を囁いた後は電話口で息を飲むディーンの声が聞こえた。
シボレーインパラのエンジン音が聞こえるとカスティエルは胸を撫で下ろす。顔を上げると、インパラから降りたディーンはまだ呆然とこちらを見つめていた。カスティエルがディーンの名前を呟いてから一歩近付く。彼の瞳は様々な感情が渦巻いていたので、カスティエルが本物かどうかも怪しんでいたのだろう。すぐに信じてもらえないことは覚悟していたのに、突然駆け寄ったディーンの強い抱擁にカスティエルの方が戸惑った。
「ディーン?」
「キャス……!」
熱い吐息が首筋を撫で、全身が粟立つ。ディーンの唇が首に押し付けられた感覚を味わい、さらに体を硬直させる。ディーンが顔を上げた。その表情に感情を読み取るより先に押し付けられたディーンの体が離れた。
カスティエルはまだ呆然とする。ディーンとの抱擁は幾度もあったが、これは今までとは何かが違っていた。その変化に気付くも、追及する隙を与えないディーンに少し落胆する。同じようにサムが駆け寄りカスティエルを抱き寄せた。これは、いつもと同じだと感じた。
「お帰り、キャス」
サムは親しみを込めてカスティエルの肩を叩いてすぐに離れる。
ディーンとの抱擁だけが今までと違うと感じた。視線を向けると、彼は目を細めて微笑んでいたがすぐにはにかんだ表情を浮かべて視線を逸らす。その反応にも違和感を覚えたが、カスティエルは促されたままインパラへと乗り込む。
期待しては萎んでいく感情を何度も持て余している。ディーンの情緒の激しさを知っているカスティエルは、そこから真意を探ることをとうにやめてしまったが、先ほどのディーンの表情と抱擁は見過ごすべきではないと、自身が訴える。
後部座席からディーンを見つめた。バックミラーから二人の視線がかち合う。カスティエルは、ゆっくりと喉を上下に揺らす。
今すぐ君に愛していると言えたらいいのに。