未定晴れてる日の昼休み、食後は中庭にある大きな栴檀の樹の下で昼寝をするのが日課だ。ベンチとはいえないが、樹の周りには広さのある平らな縁石があるため、そこに横たわる。
子どもの頃、人一倍背が低かった日番谷は、成長するにはよく寝ることが一番と祖母に教えられた。それを一般的に高身長といわれる背丈になるまで長らく実践していたら、習慣付いてしまったので時間と天候が合えば昼寝をしている。
栴檀の樹は中庭の奥まった位置にあるため、校舎の喧騒は遠い。
陽の当たりすぎない木陰で浅く眠りについていた日番谷は、そろそろ時間だろうと、のそりと起き上がり伸びをした。手首に視線を向ければやはり予鈴の鳴る1分前。腕時計の示した時刻を確認し終えると校舎に向かって歩き出す。
昇降口が近くなるほど周りは賑やかになる。頭上では予鈴が鳴り響き、外に出ていた生徒たちが一斉に集まり出したからだ。
日番谷は二階にある教室へ向かうため、急ぐでもなく上履きを履き替え、マイペースに淡々と階段を上がる。
下級生だろうか、日番谷の向かう二階よりも上階に向かうべく、スピードを上げて追い抜かしていく者もいる。反対に一階の特別教室へ向かうため、階段を駆け降りて行く者も。
踊り場に差し掛かるところですれ違った、団子頭の女子生徒から何かが落ちた。
「おい」
声を掛けたが、気づかず駆けて行ってしまったようで一階へ続く階段にはもう誰もいない。パタパタと階下の廊下を急ぐ幾人かが見えただけ。
階段にポツンと落ちているのは桃色のハンカチ。
その桃色を日番谷はそっと拾い上げた。軽く埃を払うとシワにならないようにズボンのポケットへと仕舞い込み、本鈴が鳴る前にと歩みを速める。
どうにか滑り込んだ教室の自席へ座ると、ポケットから出したハンカチを改めて眺めた。
さて、どうするかと駆け降りて行ったぼやけた女子生徒のことを日番谷は脳裏に思い描く。現時点で特徴としてわかることは三点。
一つ目は、一年生ということ。
この学校では学年で上履きや生徒手帳の色が決まっている。駆け降りる足元の上履きが一年を示す色をしていた。
二つ目は、髪の毛を頭上で一つのお団子に結っていたこと。
髪型は女子生徒ならば毎日変えている者もいるかもしれないが、本日の格好を目印として探す分には有効だろうか。
三つ目は、手元にある桃色のハンカチには果物の桃が刺繍されていること。
この桃は彼女の名前に関係があるのではないかと推測したが、単にモチーフとして好きだから、という理由も考え得るため、全く確証的ではない。
これでは一年ということしか直接的ではないな、と軽く息を吐き出し嘆息した。
本鈴が鳴っても現れなかった数学担当教諭が、遅れたことを謝りながら教室へと入ってきたので周囲のざわめきが止む。
ハンカチを机の中へと仕舞い込んだ日番谷は、始まった授業に集中することもなく、どうやってあの一年を突き止めようか、と思考を巡らせた。
拾った日の放課後は、一年は既に下校後だったので部活に入ってもいない一年の知り合いに聞きに行くこともできなかった。
帰り道であの女子生徒を見かけるかもしれない。それに誰かに見られたり触られたりするかもしれない机の中に、自分の持ち物ではない品を入れっぱなしにするのはどうだろうか。
その考えから鞄に入れてしまったが、落とし主を見かけることもなく、結局は自宅まで持ち帰ることとなったため、日が落ちても日番谷の手元に桃色のハンカチはあった。
床に落ちた上に鞄の中でシワとなったハンカチを、次の日に会えたとてそのまま返すことが躊躇われたので、洗濯機の中で綺麗に洗われている。
共に暮らしている祖母には借り物、とだけ伝えておいた。
***
ハンカチを拾った翌日の昼休み。
本日も曇りなき晴天だが、日番谷は中庭で昼寝もせず人待ちをしていた。栴檀の樹がある場所よりも校舎寄りのベンチ。楽しそうな女子生徒たちの会話やボール遊びをする男子生徒の声で賑やかだ。
背もたれに身を預けながら食べ終わった惣菜パンの包装をくるりと結び、ポケットにくしゃりと入れる。そうして持参した参考書に目線を落とす。
その内に明るい声が聞こえて、日番谷の意識を目の前へと戻した。
「お、冬獅郎! 待たせたか?」
呼び出した相手は後輩で一年の黒崎だ。上から降り注ぐ太陽の光のような髪色を持つこの後輩は、二学年も上の先輩を敬うということを知らないようで、日番谷のことを平気で呼び捨てにする。日番谷は眉間に皺を寄せながらお決まり文句となってきている言葉を口にした。
「日番谷先輩と呼べって言ってるだろ」
「先輩って感じじゃないんだよなあ」
そうぼやいた黒崎の頭を赤い髪の男がはたいた。
「お前は先輩相手に何言ってんだ」
黒崎の後ろから顔を出した阿散井が申し訳なさ気に眉尻を下げた顔をしたので、気にするなと首を振る。
「黒崎を呼び出した理由はなんですか?」
黒崎の横にいた黒髪の男が、眼鏡をカチャリと指先で上げながら聞いてきたので、返答する。
「聞きたいことがあるんだよ」
「聞きたいこと?」
鸚鵡返しで首を傾げた石田に頷き、人を探していると告げる。
「お前らの学年で、桃が名前につく女子っているか?」
「いたか?」
「隣のクラスにいるような」
黒崎が首を捻ると石田が思い出そうと顎に手を当て考え込む。
「石田なら学年全員把握してると思ってたぜ」
「いくら僕でも全員はまだ覚えられていない」
「ああ! 雛森か!」
そんなやりとりをする横で、ももと口の中で何回か繰り返していた阿散井が跳ねた声で答えを出してきた。
「桃が名前につく女子! 雛森桃だ! あースッキリした」
ひなもりもも。"もも"と名に使う漢字は百もあるが、表記が桃であるならば可能性が一層高くなる。
「漢字はわかるか?」
「漢字は雛鳥の雛に森、果物の桃っス」
雛森桃。その名がハンカチの落とし主で間違いないとは思う。しかし残りの手掛かりが昨日の髪型しかないのだ。阿散井がわかるかは未知数すぎるものの、一応聞いておくことにした。
「その雛森の昨日していた髪型って覚えてるか?」
「髪型……っスか?」
「あとは髪型くらいしか特徴がわからなくてな」
「それならいいっスけど昨日……? ルキアの横にいた雛森は……頭の上で団子にしてたような……?」
ルキアとは、阿散井の幼馴染だと聞いている小柄で勝気な女子生徒だ。たまに三人と、主に阿散井と一緒にいるから日番谷とも顔見知りではある。
「雛森ってお前の友達なのか?」
「ああ。中学が一緒なんだよ、ルキアとも仲良い」
一護の質問に阿散井が答えるのを聞いて、日番谷はあまりにも都合がいいな、と思った。
探し人がいずれかのクラスメイトであればとは思っていたが、まさか阿散井と朽木の友人とは。
「話してるのは見たことがない気がするけれど」
「クラス違うからなあ、用もないのに話しかけには行かねえよ。中学の時はよく話してたけどな」
「クラスが違う朽木さんには話しかけに行くのに?」
「それは……ッ 用があるからだろ……!」
語気を荒げ、頬を染めた阿散井に三対の生暖かい目が向かう。片想いなのか両想いなのかは日番谷の知るところではないが、大事な存在なのだろうということは見て取れたからそのような目線も向かうというもの。
「聞きたいことは以上ですか?」
話を変えようと石田が日番谷へ向かって問いかけてきた。
「ああ。助かった」
「探してるって言ってましたけど、雛森にいったい何の用が?」
阿散井から出る声が固く、こちらの意図を図りかねていくばくかの警戒をしていることがわかる。
「彼女が落とした物を拾ったから、返したいだけだ」
日番谷の答えに、他の他意はないと思ったのか阿散井の警戒心が霧散した。
「ああ〜なんだ、そういうことっスか」
脱力したような声を出した阿散井にいったいなんだと思ったのかと踏み込みたかったが、憮然とした顔を返すだけに日番谷は留めた。
「じゃあ俺が返しときましょうか?」
「いや……今は持っていない。だから呼び出してもらっても良いか?」
人探しが先だったので中庭に持って降りては来なかった。女子とはあまり関わらないようにしている日番谷の持ち物として、不釣り合いな桃色を誰かに見られ勘繰りでもされたら困るためだ。
「いいっスよ。放課後でいいんですか?」
「そうだな。今日の放課後、ここで」
「伝えときます」
「頼む」
探し人に約束を取り次いでもらえる。これでようやくハンカチを返せると、少しばかり肩の荷が下りた。
「うし、話は決まったみたいだな!」
黒崎がそう言うと、予鈴が鳴り響いた。あまりのタイミングに妙な笑いが込み上げる。笑いながら肩を並べて校舎に戻った。
******
五時間目の終わりにクラスメイトで友人のルキアから、阿散井が呼んでいると声をかけられた雛森は廊下に出た。
「おー、雛森」
「阿散井くん、どうしたの?」
阿散井とは高校に上がってから改まって二人で話したことはなかったように思う。
阿散井は幼馴染であるルキアとよく一緒にいる。会話はルキアを含めてすることの方が多い。しかしルキアは呼び出しをしただけで教室内に戻ってしまっていた。
「雛森、お前今日の放課後って時間あるか?」
「急になあに? 放課後は空いてるよ」
「実は先輩からお前を呼び出してくれって言われててさ」
阿散井から出る言葉が飲み込めず、雛森は首を傾げた。男か女かもわからないが、上級生に呼び出される覚えなど全くない。
「……どういうこと?」
「いや俺も詳しくは……あ、最近お前、何か落とさなかったか?」
聞かれて思い浮かべたのは、昨日いつの間にか失せていた、買ったばかりで使用した回数も少ないお気に入りのハンカチのこと。
「ハンカチ! どこかに落としちゃったみたいなの」
「あーそれだわ」
阿散井だけが納得しているが雛森にはまるきり要領を得ない。
「恋次ー!」
「おー! 今行く」
廊下の向こうから呼ばれた阿散井は、手を上げ答えると、雛森に早口で伝えてきた。
「先輩がお前の落とし物拾ってるんだと」
「ほんと!?」
「だから放課後、中庭に行ってくれよ」
雛森の返事も聞かずに、阿散井は呼んでいた友達のところへと行ってしまった。
先輩とは誰だろう、肝心なことを聞いていない。中庭のどこら辺かも聞いていない。
悶々としたまま教室に戻り、机に頬杖をついた。
「もう、先輩って誰のことよ」
阿散井くんは言葉が足りなすぎるよ、と雛森は非難めいたことを考えた。
先輩とは誰なのだろうという疑問で、その後の授業を集中もできずに過ごした。約束の放課後、急ぎ足で中庭に向かう。
女の人が男の人かそれすらもわからないが、阿散井の知り合いならば男の人だろう。しかし男の先輩などほとんど知らない。
部活の先輩、委員会の先輩、あとは学年問わず女生徒からの人気が高くて有名な先輩。
授業をそっちのけで思い浮かべた顔ではない可能性の方が高くはないだろうか。
どんな人が来るのだろう。もう待っているのかもしれない。早足で階段を降りて行く。
中庭はたくさんの人だった。校門は向かう人、部活に向かう人、ベンチに座って誰かを待つ人。
ヒントすらも待ち合わせない待ち人の先輩、がいるかいないかもわからず、もっと人が少なくなるのを待とうかと校舎と校門から離れた奥に足を進める。
大きな樹の周りを囲う縁石に座って雛森は鞄を肩から下ろした。
やはり阿散井に聞くべきだろうか。阿散井とは会えば気軽なやり取りはするが、頻繁に連絡を取り合うような仲ではないからメッセージを送り合ったことは少ない。
雛森はメッセージアプリにある阿散井の名をじとりと見つめる。
「雛森か?」
呼びかけられてパッと目線を上げた。そうして大きな目を溢れそうなほどに見開く。二歩分ほど空けた目の前に、学年問わず女生徒からの人気が高くて有名な先輩として思い浮かべていた人が立っていた。
「ひ、つがや先輩?」
「ああ、遅くなって悪い。阿散井から聞いてるだろ?」
阿散井の名前が出て、彼が待ち人だと確信できたが、聞いてはいないと首を大きく振る。
「聞いてねえの?」
「先輩が呼んでるとしか……先輩の名前は聞いていなかったです」
「アイツ……」
苦虫を潰したような顔をした日番谷だったが、気を取り直したのか横に座っていいかと問いかけてきた。
「どうぞ!」
雛森は慌てて立ち上がり指し示す。
「いや、座ったままでいいから」
「あ、そうですよね」
あははと取り繕った笑いを返す。恥ずかしさといたたまれなさで冷えた汗が流れ落ちる。
「ああでもこっち」
日番谷は手招きしながら樹の裏手に回る。雛森は鞄を慌てて手に取り付いていく。裏手側は行き止まりで前には植込みしかない。
「こっち側なら人の目、気にならないだろ」
並んで座ってしまえば、あちらの賑やかな場所からは大きな樹が隠してくれる。人気のある先輩と二人きりなんて今の状況は誰かに見られたいものではないから気遣いが有り難かった。
「呼び出した本題なんだが」
「あ、はい!」
日番谷は鞄から白い平らな紙袋を取り出して手渡してきた。サイズはちょうどハンカチが入るくらい。雛森は受け取り、中身を確認する。
桃色が見えて取り出すと、一目惚れした桃の刺繍がついている。昨日失くしたハンカチが出てきて破顔した。
「あたしのです!」
「返せて良かった。それ洗濯してあるから」
「アイロンまで……!」
「全部ばあちゃんがやったから」
「おばあちゃんが」
「俺、ばあちゃんと二人暮らしだから。紙袋に入れたのもばあちゃんな」
「先輩も、先輩のおばあちゃんもありがとうございます!」
大きく頭を下げると、大袈裟だなとくつくつとした笑いが降ってきた。
「拾ってくれて本当にありがとうございます!」
「目の前で落とされたから、拾うだろそりゃ」
「あたしはこれをどこで落としたんですか?」
「階段。昼休み終わりに移動で急いでたろ」
「ああ! 予鈴鳴って焦ってました!」