2/14 (ヒュダ) その日、街をぶらついていたダイはある店の前で足を止めた。ちらりと目の端に映ったピンク色の文字。顔を横にしてみれば、それは菓子店の壁に貼られたチラシだった。
(えっと……『手作りチョコを気になるあの人にあげよう わたしたちと作ってみませんか』か……)
ピンクや赤、茶色のハートマークが描かれたそのチラシは、ダイにでも読める簡単な文字が書かれていた。
(そういえば明日は『バレンタイン』っていうイベントがあるんだったっけ)
親しい人やお世話になっている人、想いを寄せる人や恋人にチョコレートを贈る愛の日なのだと、誰が話しているのを聞いた気がする。
(ヒュンケルは……きっと興味ないんだろうなあ……)
九つも歳の離れたダイの兄弟子であり、そして恋人でもある人物を思い浮かべる。
レオナの好意により現在はパプニカに滞在しているものの、贖罪の意識が働くのか彼はこういった浮足立つようなイベントには見向きもしない。というよりも、それが元からの性格なのだろう。恋愛とは縁遠いものと自分を考えているのかもしれない。もしかしたら、ダイ以上に。
それ故かは分からないが、ダイと恋仲であるにも関わらず、ヒュンケルのダイに対する態度は恋人へのそれというよりかは、どちらかと言うと家族や兄弟に対するようなものに近いとダイは感じていた。
恋人らしいやり取りといえば、それぞれに個室が設けられた際にこっそりと彼の部屋を訪ね同じベッドで(文字通りに)休むか、せいぜいただ触れ合うだけの口付けを交わす程度だった。彼との触れ合いは心地の良いものではある。自分を大事に想っているのも分かっている。それでもダイは心の奥底でいつも、もどかしい想いを抱えているのだった。
(手作りか……。ヒュンケル、びっくりするかな……)
もしかしたら彼との仲が進展するきっかけになるかも、と淡い期待を抱く。
ダイは、とりあえず話だけでも聞いてみようか、とその菓子店を訪ねた。
それから二時間後──。
少年のダイが尋ねてきたことに店員は大いに歓喜した。少し話を聞くだけのつもりだったのに、店員に厨房に連れて行かれ、エプロンと三角巾をさせられたダイ。店員に言われるまま、ダイは板チョコレートを細かく砕き、湯煎にかけ、型に入れ。そして気づけばハート型のチョコレートが完成していた。ダイが白いペン型のチョコレートで無難に「ありがとう」という文字を書いた物だ。
「また来てね」とにこやかに笑う店員に見送られ、ダイは菓子店を後にした。手の中には、参加料のゴールドと引き換えに手に入れた、先程作ったチョコレート。それから「よかったらお家でも作ってみてね」と渡してくれたハート型の型と板チョコレートと、ペン型容器に入った中途半端に中身が残された白いチョコレート、そしてラッピング用の袋がある。
(なんか流れに任せてたら出来ちゃった。けど……うーん?)
良く言えば飾り気のないシンプルな、悪く言えばありきたりなハート型のチョコレート。決して駄目な訳ではないが、何となく物足りない。
(せっかくだし、もう一つ違うのを作ってみようかな。そういえば、店員さんがナッツとかフルーツを入れても美味しいって言ってたっけ)
ナッツやフルーツを入れるだけならば、初心者のダイにでも出来そうだ。しかも、それらを簡単に手に入れられる場所には心当たりがある。
(デルムリン島で採れた物なら、おれっぽくていいかも!)
我ながらいい考えだ、とダイはうんうんと一人で頷く。
空を見上げれば、太陽はまだまだ沈みそうにない。ダイは故郷の島を思い描くと、ルーラを唱えた。
デルムリン島に到着すると、自宅へ向かいブラスに声をかける。
「じいちゃん、ただいま!」
「おお、ダイか! おかえり。どうしたんじゃ、一体」
「うん、ちょっとね。ねえ、明日さ、台所借りてもいいかな」
突然のダイの来訪に驚いたブラスは、ダイの言葉に更に目を見開く。
「なんじゃ、突然帰ってきたかと思ったら台所じゃと!?」
「うん。ダメかな?」
「別にかまわんが……料理でも作るのか?」
「へへっ。まあね」
照れ臭そうに鼻の下を擦ると、ダイはブラスへの挨拶もそこそこに家を出た。
「じゃあおれ、ちょっとその辺見てくるから!」
そう言ってダイはさっさと何処かへと去っていく。
「なんじゃあ、いきなり……」
後には呆気にとられたブラスのみが残された。
(うーん……何がいいかな……)
適当にもぎ取った果実を味見しながら、ダイは島を散策する。
(フルーツも甘くて美味しいけど、ヒュンケルにあげるんならあんまり甘くないナッツの方がいいかな……)
あれとこれと……とあちこちに自生している木の実を収穫しながら歩き回る。一通り収穫し、これぐらいかと辺りを見回したダイは、二匹のアルミラージが仲睦まじくある木の実を分け合って食べている光景を目にした。
(あ、あれって確か……)
しばしその光景を眺めていたダイは、きゅっと口を結ぶと彼らの方に近寄っていった。
翌日の午後。デルムリン島からルーラで帰還したダイは、早速ヒュンケルの姿を探していた。
手に抱えているのは、朝からデルムリン島の自宅の台所で作ったチョコレート。様々なナッツを砕きふんだんに混ぜ込んで固めた、ハート型の物だ。少々の気恥ずかしさはあったが、文字はシンプルに「すき」と二文字だけ入れた。袋の口は、できるだけ綺麗な蝶々結びになるように頑張って留めたつもりだ。
この時間ならば鍛練中だろうと予想をつけ、その辺りに向かえば何やらキャッキャと楽しそうな女性達の声が聴こえてくる。
建物の影から踏み出したダイは、探し人を見つけた。数人の女中らに囲まれ、困惑する彼を。
声をかけようかと一瞬思ったダイだったが、その声が外に出ることはなかった。彼女達が手にしている物が目に入ったからだ。
(あ……)
途端にくるりと背を向け立ち去ろうとしたが、その姿にヒュンケルが気づいた。
「……ダイ!」
「……っ!」
声をかけられたダイは、びくりと肩を震わせると、振り返らずに一目散に走り去る。
遠くから焦ったようなヒュンケルの声が聞こえた気もしたが、今はとにかく顔を合わせたくなかった。
がむしゃらにそのままパプニカの街を駆け、人気のない路地裏に辿り着く。大きな木箱が積まれたその隙間にずるずると蹲った。
目を閉じれば先程の光景が蘇る。楽しそうにはしゃぐ女性達。それぞれが色鮮やかに装飾した包みを手に、彼に話しかけていた。会話の中には「クッキー」や「ケーキ」といった単語も混ざっていたから、中身は彼女達が腕を奮い彼の為に作った菓子だろう。
ちらりと手の中の物に目をやる。
(どうして……こんな物作っちゃったんだろう……)
少し斜めに曲がった蝶々結び。溶かして固めただけの、大して手の込んでいない塊。歪な文字。彼女達の華やかな贈り物に比べ、何と幼稚か。
後悔ばかりが押し寄せ、ダイは途方に暮れる。とてもではないが、彼にこれを渡す気になれなかった。
(これ、どうしよう……メラで燃やしちゃおうかな)
食べ物を粗末にするのも気が引ける。けれどある理由から、自分でこれを食べる事も、他の誰かに渡すこともダイには躊躇われた。
(うん……それしかない、かな)
そう考え呪文を唱えようとしたのだが。
「にゃあ」
はっとして横の木箱の上を見上げれば、一匹の野良猫がダイを見下ろしていた。
狙いを定めるようにじっと手の中の物を見つめる猫。ダイは立ち上がりながら、それを猫から遠ざけるように持ち替える。
「ダ、ダメだよ? おまえにこれはあげられないよ」
「にゃーん?」
「ダ、ダメだったら! 食べちゃダメなんだってば!」
ダイの言葉などお構いなしに近寄る猫に、ダイは更に言葉をかける。
「これはもう燃やしちゃうんだからっ!」
「……何を燃やすんだ?」
今一番聞きたくないと思っていた人物の声が聞こえ、ダイは固まった。
片手に持っていた、赤いリボンが結ばれたその袋をひょいと取り上げられる。
「ヒュ、ヒュンケル! なんで……」
「姿を見失ったと思えば、こんな場所に隠れていたとはな」
あちこち探し回ったのかもしれない。彼にしては珍しく軽く息を弾ませている。
「おまえの様子がおかしかったのでな。後を追いかけて来た」
「そ、そうなんだ……。でもおれは大丈夫だからさ……それ、返してよ」
強引に奪い返したい所だが、ヒュンケルが手を高く上げている為、ダイは届かないのだ。
「……これは、何だ?」
しかし彼は返すつもりはないらしい。冷静に、ダイを問い詰める。
「な、何って……その、おれが貰ったんだよ」
「ほう……? 人からの貰い物を燃やしてしまうのか?」
「……! し、知らない人に貰ったからだよっ!」
「なるほど。おまえはもう不要だと言うことだな」
「そうだよっ! だから早く……」
「では、オレが貰ってしまっても問題ないな?」
「!! あっ……ちょっと……!」
してやられたと焦るダイ。ヒュンケルに近づき掴まりながら手を伸ばすが、ヒュンケルは両手を高く持ち上げたまま、包みを開封しようとする。
「綺麗に結べているな」
「……曲がってるじゃないか」
取り返すのを諦めたダイは、ヒュンケルの衣服を摘んだまま、俯く。
しゅるりとリボンが解かれ、甘い香りと共にハート型のチョコレートが取り出される。
「すき……上手に書けている」
「……下手くそだよ、そんな字」
ぎゅっと握られるダイの手。
ヒュンケルがチョコレートを囓る。二口、三口。
「ナッツ入りか。美味いな」
「……溶かして固めただけじゃないか、そんなの」
ダイは気づかない。他人からの贈り物を貶すはずのないダイが、そのような言葉を吐く事こそが、それを作ったのが彼である事を証明しているのだと。
半分ほどに欠けたチョコレートを再び袋に戻したヒュンケルが、優しくダイの肩に手を置く。
「ダイ。頼むから顔を上げてくれ」
ややあって、ダイはのろのろと顔を上げる。ヒュンケルの予想通り、眉尻が下がり、今にも涙が零れ落ちそうな程に瞳が潤んでいた。
「ありがとう。おまえが作ってくれたんだろう、オレの為に」
ヒュンケルの言葉に、ダイは下唇を噛むと再び下を向いてしまった。
「……要らないだろ、そんなの」
「何故そう思うんだ?」
「だって……あんなきれいな、すごい物沢山貰ってたのに……」
やはりか、とヒュンケルは思い当たる。
「オレは、受け取っていない」
「ウソ! なんで……っ!」
信じられない、と目を見開きダイが顔を上げた。
「例え義理だとしても、オレには受け取る資格は無いと思ったからだ。オレはそんなに好意を寄せられる人間じゃない」
「そんな事ない……っ! ヒュンケルは……」
思わず声を荒げたダイの言葉を遮り、ヒュンケルは続ける。
「それに彼女達には悪いが……オレにはそんな物よりおまえの方が遥かに大事だ」
「……っ!」
「オレは、おまえが作ってくれたこれがあればそれで構わない」
ヒュンケルは微笑んでそう言い、ダイを両腕で包み込む。
(ヒュンケル……)
「ありがとう。オレもおまえが好きだ」
「……うん」
温もりに包まれ、ダイはおずおずとヒュンケルの背に手を回し、胸元に頬を寄せた。普通の恋人同士の距離よりも自分達のそれが少し遠い物だとしても、先程の彼女達に比べればきっとずっと近い。こんな風に抱き寄せられるのは、自分だけだと……そう、ダイは思うことにした。
ヒュンケルの大きな掌が優しく頭を撫でる。
「ダイ」
耳を擽る低い声は、いつもよりも格段に甘い。作る時に味見をしたチョコレートのようだと思いながらヒュンケルを見上げれば、ダイの額に口付けが落とされた。ヒュンケルの唇はそのまま、少し赤らんだ目元、まろい頬と伝い落ち、ダイのふっくらした唇に触れる。
いつもと同じように瞳を閉じ、唇を触れ合わせていたダイだったが、下唇をやんわりと食まれ、驚きに、目を開けた。
「あ……」
ヒュンケルのダークグレーの瞳とダイのハニーブラウンの瞳の視線が交わされる。僅かに細まったヒュンケルの瞳に心を奪われたその隙に、少しだけ開いたダイの唇の隙間から彼の熱い舌先が侵入した。
「……っ!? んぅ……んんっ……!」
突然の事に、ダイは反射的に腕をつっぱね逃れようともがく。だがヒュンケルの逞しい腕はしっかりと小さな身体を抱き込んでおり、逃さぬとばかりに後頭部にも手が添えられている。その為ダイは、身動きの取れないままそれを受け入れるしかなかった。歯列をなぞられ、奥に逃げ込んだ小さな舌が捕らえられると、甘く吸われてしまう。
「……ふぁ……っ……ん……」
これまでの触れ合うだけのものとは違う、捕食されているような錯覚すら覚える口付け。ダイは息をする事すら忘れ、ただただヒュンケルの動きに翻弄される。互いの唾液が混じり合い、飲み込みきれなかったものがダイの顎を伝った。
「……ん、はっ……は……ぁ……」
やがてくちゅりとした水音と共に、ダイはヒュンケルから解放された。二人の間をつつと銀糸が伝いぷつりと途絶える。味わったことのない感覚と苦しさから、ダイの瞳は潤み、頬は発熱でもしたように紅潮していた。力が抜けくたりと弛緩した身体は、背中に回されたヒュンケルの腕により支えられている。
「な……んで……」
息も絶え絶えにダイがそう問うも、ヒュンケルは答えない。再びヒュンケルの顔が近づき、ダイが無意識のうちに瞳を閉じたその時だった。
「にゃぁーお」
なんとも間の抜けた声に、二人ははっと目を見開く。声のした方に目をやれば、行儀よく前脚を揃えた野良猫が二人を見上げていた。
「……っ! そ、その……すまん……」
我に返ったのか、ヒュンケルは居心地悪そうに謝る。心なしか頬は赤く、視線を斜め下辺りに落としていた。
「あ……う、ううん……」
対するダイも、まだ赤みの取れない顔のままで、下を向く。
(びっくりした……! そういえば、ここ路地裏なのにあんな……)
木箱の陰になり往来からは見えないものの、いつ人が来るかも分からない場所で、ヒュンケルがあのような口付けをしてきた事に、ダイはまだ驚きと戸惑いを抑えられずにいた。
「ダイ」
「っ!? あっ! えっ!? なに!?」
慌てるダイの様子とは対照的に、ヒュンケルは既に落ち着きを取り戻したらしい。
「そろそろ帰ろう」
「あ……う、うん」
ヒュンケルに促され、ダイも頷いた。ダイの意図していないやり方ではあったものの、元々の用事は済んだのだ。ここに留まる意味は無い。未だこちらを見上げたままの猫をひと撫ですると、ダイは先に歩き出したヒュンケルの後を追う。
歩幅の狭いダイに合わせるように、何時もよりもゆったりと歩くヒュンケル。未だ口に残る、チョコレートの味と初めての感触。少し早い鼓動。顔に集まる熱。
(ちょっとだけ……距離、縮まったかな?)
ダイは、チョコレートに一粒だけ入れた木の実を思い出す。
島に住むモンスターの番たちが、仲睦まじく食べる木の実。自分達の仲も、ほんの少しでもいいから縮まればいい、そう思って入れてみた物。子供の自分は食べてはいけないと何故かは知らないが言われていたけれど。大人の彼ならば問題ないだろうと入れてみたのだ。
(やっぱりあの実、仲良しになる実なんだ……!)
少しだけ進展した仲に、こっそりとダイは微笑んだ。
そんな彼が、その実の本来の効果──生物の本能を刺激し、その実を食べた番には、たちまちに赤子を授けるという──をブラスから聞き、慌てふためくのはもう少し後のこと。