END1後、RとA
高校最後の煙草を吸いに、卒業した足で屋上へ来ていた。晴れてよかったねーと聞こえてくる歓声を無視して、階段を上る。ドアを押し開けたRを出迎えるのは、式典に相応しい晴天。あちこちに残った水溜まりだけが昨日の雨を覚えている。
水が跳ねるのも気にせず、床のタイルを踏みしめる。これならきっと誰も来ない。
「ああ、やっと見つけた」
建物の影から姿を表す小さな人影。同じ声、軽い足取り。Rと違い、水溜りを踏む足音は聞こえて来ない。そんな所まで昨日のことのようだ。
「卒業おめでとう。留年しなくて何よりだ」
彼は落ち着いた声で祝い、微笑を浮かべる。中学生のような幼い風貌の男子生徒、真面目そうな雰囲気は相変わらず。小言を言う癖もまるで変わっていないのが見て取れた。Rの背が伸びた分だけ、彼の背丈は更に小さく、二年前よりずっと透けて。
控えめに微笑む人間を知っている。ずっとここから動けず、グラウンドの人々を見守るしかなかった寂しがりやの幽霊。
そんな人は一人しかいない。
「先輩……」
懐かしさの余り、壁に穴を空けそうになる拳をぐっと握りしめて堪えた。
「ああやっぱり。君は忘れないでいてくれた」
「…………」
「忘れなかったから、ここに会いに来たんだろう?」
「俺は……」
そうだ。この二年一度も忘れることはなかった。再会したくなくて最後まで俯いたまま、校舎を去ろうとした臆病者。このまま立ち去れるならそれでよかった、先輩と過ごした日々も、この卒業文書に封じ込めてしまえば、表紙を開かない限り出て来れない。環境が変わり、年月と共に完全に忘れ去る。
だけど、昇降口からグラウンドへ出たRは見てしまった。地面に残った水溜りの青空を、その端に映った屋上を見たからにはもう止まらなかった。
A先輩はまだそこにいる。見て見ぬ振りはもう出来ない。
会わないままでは終われない。決着を着けることを選んだのだから。
祭があるんだ、そこへ一緒に行かないか? 気安く約束を口にする。
「祭り……?」
こんな時期にか?
「すまない、秋口の話だ。9月に文化祭をする高校があって、とても楽しいらしいんだ」
「文化祭ならウチにも……」
先輩は参加出来なかったんだ、一度も。
「噂に聞いたんだが、高校の文化祭は中学よりずっとすごいんだろう? だから行ってみたくて」
目を輝かせて思いを馳せる彼を放ってはおけなかった。どこかにある高校なら探し出して、引きずって行けばどうにかならないか? あるいは成仏させることも――
「ああ、そうだな」
生返事をした途端、ぐにゃりと像が歪む。ドロリ。保っていた形が完全に溶けた音がした。
俺の姿を見ても――
思い出した、先輩はとっくの昔に限界だったことを。それは返事をするだけで取り憑く悪霊だ。打ち解けた後輩を黄泉へと導くために、一芝居打ったに過ぎない。
「――よかった、これで一緒に居られる」
白い人影から目が離せない。完全にしくじった。その場に立ち竦む。
「どうした? 一緒に行くんだろう、祭りのむこうへ」
「アンタ、本当に先輩か?」
「ああ。そうか、見えないか……」
呟きは弱々しい。こんな調子で人を憑き殺せるのか不思議なくらいに。
「……むこうって何処だよ? 文化祭じゃねーのか」
「その祭りは文化祭から繋がってるらしい。たくさんの夜店があって、そこを訪れた者はみんな笑って過ごすんだ。そんな楽しい所なら悪くないだろう?」
つまる所それが黄泉の入口らしい。行かないのか、と寂しそうに俯かれ、反射的に怒鳴り返していた。
「誰も行かないなんて言ってねーだろ。つまんねー所だったらぶっ飛ばすからな」
ほとんどハッタリに近かった。心中するつもりは毛頭なかったが、それでも喜ぶ先輩を見てはっきりと断りきれない俺の負けは決まっていたのかもしれない――
ちっ、と舌打ちが出てようやく気づいた。やけに口寂しいことに。
畜生、結局煙草吸えてねーじゃねえか!
2021.5.30