ナマモノ同人の約束 いつもと変わらぬ魔法舎の午後。おやつどきをとっくに回って夕闇が訪れる時間帯、キッチンに走りこむように入ってくる二つの足音があった。
「ネロ、ただいま!」
「ネロさん、戻りました!」
「おかえり、お二人さん。何かいい収穫はあったか?」
リケとミチルの頭を撫でながら、夕食を作っていたネロは王都に遊びに行っていた二人を出迎えた。
「はい! グランヴェル城を見たり、ご飯を食べたり、蚤の市を回ったりしました」
「なに食べた? うまかった? どんな味だった? 俺の飯と比べてどう?」
食事をしてきたと知ると、つい思わず矢継ぎ早に聞いてしまう。同業他社とは顧客の奪い合いであり、リサーチが欠かせない。魔法舎に居住する少ない顧客がよそに流れると悲しい。
「ネロのご飯の方が美味しいですよ」
「だよなあ、良かった」
思わずにっこり笑ってしまった。
「そうだ、蚤の市で本を買ったんです」
「本?」
「聖ファウスト様の本みたいなのですが……」
リケが鞄から取り出した本。その独特の雰囲気には見覚えがあった。ここでこんなものに出会ってしまうとは。驚きと緊張で冷や汗が滲む。
「ああ、こういう本もあるよな」
「この本を読んで文字の勉強をしようかと思って。どんなお話が書いてあるのか楽しみです!」
幸か不幸か子ども達はこれがどういう本か知らないらしかった。となれば、俺がなんとかして子どもたちからこの本を遠ざけねばならない。
「ああ、ちょっと言いにくいんだけど、これは大人向けの本だよ。お前さん達が読んでも面白くないと思う。代金は払うから、大人の俺にくれよ」
子どもたちは揃ってキョトンとした顔をした。
「そうなんですか? 店主さんはほのぼのした万人受けする内容だって言ってました」
ミチルが納得いかない様子で抗議の声を上げる。
「まあ、そうかもしれないんだけど、本のジャンルとしてさ。あんまり子供に読ませたいものではないというか」
決定的なことには触れずに、なんとしてでも奪取しなければ。頭をフル回転させて方便を考える。そんな真剣な俺の様子を察したのか、リケがミチルを諌めた。
「……この本はネロに預けよう?」
「どうして?」
「ネロは普段こんなふうに何かを禁止したりしないから。だからきっと僕のことを思って言ってくれているはず」
リケの意外と意思の強い物言いに、しまいにミチルは折れた。
「わかった」
「……悪いな。またなんか美味いもん作ってやるからさ。何か埋め合わせするから、それで許して」
「しょうがないですね」
天使のように微笑むリケの隣で、親友をとられたとばかりにミチルが少しむくれるのが可愛い。
「もう行こう」
「うん」
「ネロ、また後で!」
「おう、じゃあな」
二人はひらひらと手を振りながら軽やかな足取りでキッチンを後にした。
俺はほっと息を吐きながら手の中の書物というには薄すぎる本を見た。二つに折った厚紙の表紙と紙の束が糸で綴じてあり、いかにも手作りといった風情がある。その表紙にはタイトルの下に小さい文字でこう書かれていた。
“アレク×ファウスト”
その文字列を見るだけで目眩がする。先生、歴史書にも載ってる人物だもんな。そりゃこういうもんも発生するか……。
子どもたちやほとんどの大人は知らないだろうが、これがどういうものか俺は知っている。いわゆる個人出版の同人誌で、アレクが左だからファウストがアレクに物理的に突っ込まれるやつだ。発行された時期がわからないので歴史ジャンルなのかナマモノなのかなんとも言えないが、それは些細なことである。おそらくこの本の中ではアレクとファウストが仲良く睦みあっているのだろうし、万が一本人に見られたらと思うと、動悸、冷や汗、焦燥感が止まらない。なんと説明したらいいかわからないし、何よりファウストに申し訳なさすぎる。可及的速やかに、コンロの火にくべてなきものにするべきだ。
どうして俺がそういうものを知っているかというと、盗賊団にいたころにそれ絡みの依頼を受けたことがあるからである。
アジトの近隣に城を構える、時たま交流のある魔女から要請があったのだ。『口の硬い魔法使いを一人二人お願い。買い物に行きたいの』と。
「依頼の内容は詳しく聞けば聞くほど何を言ってるのかさっぱりわからねえんだけどよ」そうブラッドリーに言われて魔女の屋敷に出向いたのが懐かしい。あんな妙ちくりんな依頼は後にも先にもあれだけだった。
数日後、魔女が一人で暮らしているという豪奢な屋敷の広間に出向き、俺は依頼の説明を受けた。
「西の国に買い物に行きたいからついてきて欲しいの。人手が必要で」
「はあ。一体何を買いに?」
「本よ。薄い本」
「薄い本」
「ご存知?」
「いや全く」
「じゃあ知らないままでいて頂戴。それで、こういう本があることも、こういう本を売っている者がいることも口外しないで欲しいの。個人が細々と楽しんでいることだから。バレると大事な人たちに大きな迷惑がかかるの。約束はしないけど、お願いよ」
「心がけるよ」
つまりいかがわしい内容の本なのだろうが、やけに魔女の表情は真摯だった。俺としては、人身売買やクスリの類じゃあるまいし、本ごときで? というのが正直な感想だった。
「段取りとしては、私が大手の列に並んでる間にあなたは他のサークルにお使いに行って欲しいわ。片っ端から『新刊一冊ずつください』って言ってまわればいいから簡単よ。お礼は弾むわ。でも一冊でも買い逃したら石にするからね」
「ええ……」
先程とは打って変わって鼻息荒く捲し立てる魔女の勢いに、俺は引き気味だった。
「空間転移魔法を使うけど、明日早朝に出発するから今日は屋敷で早く休んで。始発組には負けないんだから」
「どうしてそんなに早く?」
「売り切れるからよ」
「本が?」
「本が。当たり前でしょ。これはもう、いわば戦争よ」
魔女は眉を釣り上げ、かたちのいい唇を引き絞った。それは空間転移魔法を使えるほどのあなたが魔法を使ってどうにかできないのだろうか、そう思ったがあまりに真剣だったので口を慎む。
「あと会場は女の子ばっかりだから女性に変身すること。なかなかの人混みだから、男に触れたら嫌じゃない? あ、皆結構なお金持ってる割に警戒が緩いけど、スリは絶対禁止。万が一あんたのせいでイベントが開催されなくなったら盗賊団全員石にするから」
先に恐ろしい釘を刺されてしまった。人混みで警戒が緩くなるとはどういうことなのか。俺も、この時は彼女が何を言ってるのかさっぱりわからなかった。本ごときにどこからその気迫が湧いてくるのか。謎の情熱。謎の勢い。そう思っていたのだ。
早朝、魔女は鼻歌混じりで空間転移魔法で会場付近に移動し、寒い中二人して入場待ちの長蛇の列に並んだ。どこを見ても人だらけ、どこから湧いて出たのかと思うほどの人ごみで驚いたものだ。そして、入場するなり猛スピードで“絶対自分で並んでお手紙を渡したい神“とやらのサークルに足を向ける彼女を見送った後、俺は島の端から端まで、端まで行けば折り返し、指示されたエリア内のなんだかよくわからない薄い本を片っ端から買って買って買いまくった。最初は分厚かった財布が面白いくらいの勢いで減っていくのは見ていて爽快でもある。北の国は娯楽がねえからな。書物の中の物語に溺れる気持ちはよくわかる。
ひとしきり買い物を終えた俺は、今もものすごい列に並ぶ彼女をスタンドで買ったホットドッグを齧りつつ待つことにした。会場の中では、鎧やアンティークドレスに身を包んだ仮装と思しき者があちこちを闊歩している。店というには簡素すぎる店舗の内外で、誰しもが熱に浮かされたように瞳を輝かせ、熱心に言葉を交わしたり買い物をしたりしていた。この者たちが何に情熱を燃やしているかはわからないが、こういう場は嫌いではない。彼らをこんなに夢中にさせるものはなんなのだろうか。少し興味がわき、お使いを頼まれた本に手を伸ばしてみた。字は今この場で読みきれないだろうから、絵が印刷されたものがいいだろう。適当に掴んだ本のページをぱらぱら捲り…………汁まみれで絡み合う男達の絵を見た瞬間に俺は全てを理解した。
その後、何度か魔女から同じ依頼があり、懲りずに受けた。報酬は良かったし、魔女もなんやかんかと言いつつよくしてくれたからだ。ここだけの話、印刷物の絡み合う男達に驚いた後、散歩がてら歩き回った会場で男性向けエロ同人というユートピアの存在も知った。ほんと、百合っていいもんだよな。見ているだけで幸せになる。
結局、魔女とはご近所付き合いみたいな交流をするほど仲良くなったように思うのだが、ある時期を境にぱったりと依頼は無くなってしまったっけ。残念と言えば残念だが、まああまり俺には縁のない世界ではあった。
◆
「あれ、こんなもの、どこで見つけたの?」
コンロの火を調節していると、いつの間に現れたのか、薄い本をじっと見つめたフィガロが声をかけてきた。
「いや、リケが蚤の市の書店で見つけたんだって持って帰ってきた。これで歴史を学びたいっていうんだが……ちょっとなあ?」
フィガロが同人誌というもの知らなかったとしても、ニュアンスでわかるだろう。念押しに、表紙の“アレク×ファウスト”の表記を指でなぞってみる。
「どちらかというと恋愛物語だから歴史書ではないよね。でも、内容はピクニックに行くだけだよ。大したもんじゃない」
笑い混じりにフィガロが言った。フィガロはこの本がどういう性質のものなのか理解した上で、内容まで知っている……だと?
「あんた、なぜそれを……」
「書いたのが俺だからだよ」
「ええ……」
まさかの作者登場だった。
「あ、ドン引きって顔しないでよ。レノにも同じ反応されたけど」
そりゃそうである。正気か?
「いや、別に俺だってそういう趣味があるわけじゃない。というか、今だってない」
「はあ」
「信じてない顔だね。傷つくなあ」
流石に気まずそうにフィガロは経緯を説明し始めた。
「大昔、南の国が少し落ち着いた頃、アマチュアのペンクラブみたいなものが発生してさ。興味本位で覗いてみたんだよね。そうしたら歳の割に驚くほどに上手な女の子がいてね。話していたらそういう趣味があって、大好きでたくさん書いてるんだってこっそり教えてくれてさ」
なるほど。そう聞くと、微笑ましい話ではある。
「好きなものに対する熱意ってきらめいてていいよね」
フィガロは過去を懐かしむように目を細めて言った。
「それで、俺が長く生きてるって言ったら、歴史が好きだからもし良かったら何か書いてみて欲しいってお願いされてさ。歴史となれば、こっちには膨大なネタストックがあるわけで」
しかもリアル準拠のやつが。
「書いてみたら、書けた。書けたし、人気も出た。本を出したら面白いくらいに売れたよね。あっという間に壁サーだよ。税申告の時に本の売り上げや経費を計上しなきゃいけないなんて笑っちゃうよね」
そこまで言って、フィガロは自嘲とも苦笑ともとれない笑いを浮かべた。
「でも、そりゃそうさ。本人達が魅力的な人物だったし、俺はそんな彼らの本当のエピソードを山ほど知ってるわけだから。人を惹きつけるようなキャラ解釈やリアリティのある描写ができて当然だろ? また神様って言われるようになるとは思わなかったけどね」
とはいえ、事実を作品、ひいてはエンターテイメントとしてうまく昇華させる才能に恵まれていたのだろう。そうでなければそれほどまでに支持を集めることはできない。
「創作は創作であって事実とは全くの別物だってわかってるけど、俺だっていまだにどこか信じられないんだ。二人があんまり仲睦まじかったからさ」
どうして。親友だったはずの二人はなぜ。それは結構よく聞く話だった。中央の歴史書には事実と異なる内容が載っているというし、深く大きい謎であることは間違いない。ぽつぽつと言葉を紡ぐフィガロも切ない顔をしていた。
「俺がああすれば良かったのかな、とか、もっとこうしていれば、とか、思うよ。過ぎ去ったことはどうしようもないってわかってるのに、後悔ばかり。だから、脚色した独りよがりな理想を紙の上の世界で描いてしまったんだろうね」
いや、だからってアレク×ファウストにはならんやろ。ネロの白けた雰囲気を察したのか、フィガロは言い訳がましくつぶやく。
「誓ってエロは書いてない、本当だよ……」
綺麗な妄想など存在しない。この世にあるのは公式とそれ以外の肥溜めのみだ。そこをはき違えてもらっては困る。
「まあ大体わかったよ。そろそろこのブツをどうにかしたいんだけど」
「そうだよね」
「「ナマモノ同人は本人バレ厳禁」」
ナマモノ同人の鉄の掟を二人は詠唱した。本人に知られれば本人を不快にさせるだけでなく、下手すると人権侵害で訴訟になる可能性すらある。先生とは絶対法廷で戦いたくない。負ける気しかしない。
「作者のあんたには申し訳ないけど火にくべても?」
「ぜひお願いするよ」
ネロが薄い本をコンロの火にそっと投入する。紙束の端から炎が舌を伸ばし、ちろちろと燃え広がっていき、最後には全てが赤く燃え上がり灰となった。
「これで一安心か」
「あれでファウストを傷つけることにならなくて本当に良かったよ。ありがとう、ネロ」
「そういう世界があるって知ったら卒倒しそうだもんな、先生」
「だよね。ファウストは頭が硬いから」
「それ俺のセリフなんですけど」
ちなみに、あの時の北の魔女の推しカプは通称『世界征服コンビ』。それこそ本人バレ厳禁だから目の前のご本人には口が裂けても言えないが、俺はあんたがアレコレされて大変なことになっている作品を見たことあるんだよな……。
◆
一方その頃、ミチルとリケは、今日購入したもう一冊の薄い本を、夕食前に二人で眺めていた。ネロのあまりの剣幕に出しそびれたのだ。
「こちらの冒険小説みたいなのも気になるね」
「読み終わったら貸してくれませんか?」
「ううん、一緒に読もう? わからないところがあったら教えるから」
「……うん!」
表紙には雄大な雪山の景色のイラストといかめしいタイトルがあり、裏表紙には小さくこう書かれていた。“死の盗賊団アンオフィシャルファンブック ブラッドリー×ネロ”と。
もちろん発行者は読み手から書き手に華麗な転身を遂げた依頼人の北の魔女である。依頼を打ち切ったのはそのせいだ。ナマモノ同人は、本人バレ厳禁なので。
おしまい