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    shibari_

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    サバイバル・ロッタリー 前編──……ぃ、ぉーい。
    暗闇の中、遠くで声が聞こえる。
    ぼんやりとした意識の中、その声が自分を呼んでいることだけは分かった。
    ──おーい!
    それにしてもうるさいな。
    それが心からの感想だった。ものすごく眠い。誰だ、自分の安眠を妨害するのは。そう思っても声は止まない。
    段々呼ばれるのも飽き飽きして、むくりと意識を起こす。
    ぼんやりとした景色の中、目の前に大男がいた。
    首が痛くなるほど見上げてぽつりとこぼす。
    「あんた、なんで」
    謎のピエロのメイクにどうかしてる派手なシャツ。相変わらず大きい図体。
    「よ、元気してたか」
    そんな彼は気さくに手を挙げてにこやかに立っている。
    「いやあ、人の夢の中に出るのも大変でよー。ここ最近ずっと呼び掛けてるのに夢も見ないくらい熟睡してるから苦労したんだぞ」
    そんなこと言われても。だいたい何故。
    「……夢なのか?」
    「夢だぞー」
    たしかに実感はない。目の前の人物が現実にいるはずも無い。明晰夢というやつなのか、自分がそういう夢を見たいと思ったのか。後者なら疑問が残るばかりである。
    「まさか成仏してなかったとは」
    「失礼な!いつだって俺はローを見守ってるんだぞ」
    「それで夢に?」
    大男はうんうん、と嬉しそうに頷いた。享年二十六歳、すっかり自分より年下になってしまった男がやる仕草では無いが妙に似合うのが彼の良いところだ。
    「実はこんなとこに来たのは助けて欲しいことがあって」
    「……俺に?」
    夢にまで出てきて何を言うのかと思えばまさか助けて欲しいとは。
    意外というか、まさかこの人物から自分も頼られるようになったのかという時の流れに少しだけ感慨深く思う。
    大男は「実はさ〜」と少しだけ困った顔をして目線を下に下げた。
    「俺はまだ成仏できないけど、この子達を成仏させてやりたくて」
    この子達。
    「……」
    自分達の足元を見て息を呑んだ。
    それに手足は無かった。
    頭も無かった。
    辛うじて分かる凹凸が胴体を示している。
    まるで必要な部分だけ一つに纏めたような。
    まるで意味だけを凝縮したような。
    生命の冒涜のような。
    数多の命になろうとしたものが。
    「これは」
    「彼らは」
    ドンキホーテ・ロシナンテは言葉を重ねる。
    「名前が分からないんだ」
    恐る恐る上を向く。
    彼は優しげに、まるで子供をあやす様に『彼ら』を見ていた。かつてその視線が誰に向けられていたかよく分かっている。
    その慈愛を、この命かも分からないものに分け与えていた。
    「でも泣いてるからさ、放っておけなくて」
    泣けるような器官は見当たらない。
    声すら出せないだろうに、彼は何を感じ取っているのだろうか。
    「拾ってきたのか」
    「んー、拾ってきたというか。集まっちまったというか」
    頭をがしがしと掻いて困ったような顔をする。
    「まさか名前を探せと?一体どうやって、どこの誰かも分からないのに。それとも一人一人に名前をつければいいのか?」
    「いや、名前をつけた人はちゃんといる」
    「誰だ」
    「それが分かんないんだよなあ」
    がくりと肩を落とす。
    まるで要領を得ない。分からないのに名前があるというのか。
    「でも名前が無いとどこにもいけないからさ」
    「あんたは探せないのか?」
    「俺、もう身体無いし」
    「……」
    大きな手が頭に乗る。もうそんな歳でもない。
    「多分、近々厄介なことに巻き込まれるからさ。そしたら解決すると思う」
    「は?」
    頭を撫でられながら言われた予言のような言葉に思わず凄む。
    その表情は呆れるくらい能天気そうに、そして困ったように笑っている。
    「ローってそういうとこあるだろ?」
    バンバン、と肩を叩かれた。
    痛い。とても痛い。
    将校になる前に先輩から大層どつかれたことを今になって思い出した。
    「だから、よろしくな!」



    「……なんで俺だ」
    スモーカーは寝起きざまに頭を抱えた。
    頭はこれ以上にないくらい冴えている。寝起きは良い方だが、今回は夢見が悪すぎた。
    スモーカーは同じベッドの隣にいる存在へと視線を向ける。
    すよすよと布団に埋もれながら寝ているのは、大海賊、死の外科医、四皇と代名詞を上げればキリがない己の恋人トラファルガー・ローだ。
    目の下の隈に反して夢すら見ていないぐらいぐっすり寝ている穏やかな顔に手を添える。
    しばらく唸るように考えて、どうしたものかとため息をつく。
    「まさか、そんなドジあるか?」
    夢に出る相手を間違えるなんて、そんな馬鹿な。




    「夢に?あの人が?」
    白米の入った茶碗片手にローは首を傾げた。
    時分は朝食時、なんと海軍本部の大食堂で堂々と朝食を食べてている四皇を奇異の目で見るものはもはや少ない。
    トラファルガー・ローの目の前にスモーカー中将が座っていれば尚更。はいはいそういうことですね、よろしくどうぞと食堂のおばちゃんですら流し見だ。
    真向かいでトーストに齧り付いたスモーカーは苦い顔をして答える。
    「ああ……なんか、変な夢だった」
    「なんだそれは。夢に見るほどあの人を話題にした事あったか?」
    「いや、俺も夢に見るほど親しかったわけじゃないしな」
    しかも何故だかピエロメイク。恋人の恩人の名誉のために変な格好をしていたことは黙っておいてあげようと胸中に収める。もしくはスモーカーの妄想で勝手にピエロのコスプレをさせたことがバレたら四肢を八等分にされるかもしれない。世間ではそれを八つ裂きと呼ぶ。
    「なんか、助けて欲しいとかなんとか、探して欲しいとかなんとか」
    「なんとかって何だよ」
    「さっぱりだった」
    「それじゃあ助けを求めたのに浮かばれねえな」
    「所詮夢の話だ、もうそんな覚えちゃいねえよ」
    嘘だ。嫌味なくらい鮮明に覚えている。だが夢の内容をバカ正直に言っても仕方がない。夢は夢だ。
    「大体俺に助けを求めるのもおかしな話だろ。おかげで半分悪夢見たようで頭が冴えねえ」
    「おい、コラさんの夢が悪夢なわけないだろ」
    むっと下から睨まれる。しかし睨まれたところで焼き魚片手では怖さもなにもない。
    ローはでもまあ、と頷く。
    「出てきた人物はともかく、夢は頭の整理だからな。何か最近失せ物や身に迫る危険でもあったんじゃねえか」
    「この仕事やってりゃ日常茶飯事だ。どっかの四皇様は急に本部に押しかけてくるし」
    「はは、そりゃ悪いことしたな。どっかの中将様は面倒見が良いから」
    そんな取り留めもない会話を二人がしていると、頭上に一つの影が落ちた。
    「あら、スモーカー君にトラファルガー。朝からご馳走様」
    二人が顔を上げると、トレーを片手に立っている美女がいた。
    「黒檻屋か」
    「朝食を食べる前にお腹がいっぱいになるような組み合わせね」
    「なんで俺達出会い頭に文句言われてんだ……?」
    二人が首をかしげている間にもヒナはさっさとスモーカーの隣へと腰を下ろしてしまった。いまさらその程度で文句を言うこともないが、美女が来たことで多少周りから視線を向けられることが煩わしかった。
    「ドクタートラファルガーが本部にいるということは、もしかして隣でやってる総会に参加なのかしら」
    「ああ、まあ」
    「おかげで急に俺の社宅に泊まるだなんだ言い出して」
    「いつものことじゃないのスモーカー君。そろそろ学会カレンダーでも作りなさいよ。そもそもまだ本部の社宅引き払ってなかったの?あなたほとんどG5でしょうに」
    「俺が泊まれるように残してるんだろ」
    「あらやだ、御馳走様。私のパンケーキ食べる?」
    「……」
    スモーカーは両側から来る攻撃に無言でコーヒーを飲んだ。ついでにプレートにはふわふわのパンケーキが追加された。
    ローがこうも堂々と海軍本部に出入りできている理由は、海軍施設を使った大規模な医学会総会が行われるからだった。
    医療技術では他の追随を許さないこの天才医師は大海賊という肩書であっても引っ張りだこで、専門分野でも会員でもない学会からも招待状がひっきりなしに届く有様だった。
    そんな現状のせいか海軍本部としても対処せざるを得なく、単独での参加、戦闘行為を禁じ特定の場所しか出入りできないという条件の元、そうした学会参加の時のみ海軍本部へ足を踏み入れることを許可していた。過去の功績による信用に基づくとはいえ異例の事態であった。
    スモーカーはお目付け役としてしっかり手綱を握っておくようにと言い含められている。つまり二人の関係は黙認されているわけだが、職場に恋愛事情を握られているのはどうなんだろうかと思う今日このごろだ。
    なお過去に学会からトラファルガー・ローの宿泊施設手配の要請を受けた海軍本部総務課は素直にホテルを手配しようとしたが、本人から返ってきた返答がとある海軍中将の部屋に泊まるという旨であったため阿鼻叫喚することとなった。現在は領収書清算がなくて楽ですね、と開き直られている。
    「今日はどういう予定だったか」
    話題を変えるため、スモーカーはパンケーキを腹に収めながら目の前のローへと問いかけた。
    「今日はランチョン一つとイブニングを一つ、あとはポスターを見て回る。夕飯は一緒に食う」
    「お医者様も大変ね」
    「そうでもねえ。学ぶことをやめたらそこで医学の進歩は止まるからな」
    「素敵ね、四皇じゃなかったら海軍に勧誘してたわ」
    「海軍所属は死んでも御免だな」
    「おいロー、迂闊な事言うな」
    「いやねスモーカー君。誰も気にしてないわよ」
    「お前が言うな」
    そろそろコーヒーのお変わりが欲しくなってきたが今二人を残して席を立つことは憚られた。主に精神衛生上の問題だが。
    「今回は熱心だな。目当てのもんでもあんのか」
    大抵はつまらなそうに参加して、良い収穫があれば少しだけ上機嫌に帰ってくるし、医者や学者から質問攻めにあって辟易して帰ってくることもしばしばだ。
    「ん?ああ、今回は再生医療で話題の演者が来ているらしいからな」
    「再生医療」
    「元はベガパンクの研究所で遺伝子工学を研究していたこともある人物らしいんだが、つい最近再生医療の分野で新しく幹細胞を作ってな」
    「なるほど」
    適当な相槌が気づいたのか、ローが訝し気な顔でスモーカーを見てくる。
    「……どのくらい理解している?」
    「さっぱりだ」
    「そうだろうな」
    期待はしていない、と言外に言われてしまい悲しい。戦力外通告を受けたスモーカーは頼れる同期に視線を向けた。
    「それ、聞いたことあるわね。なんとか細胞ってやつ」
    「ALiC(エイリック)細胞。簡単に言うと身体の失われた機能を補うことができると期待されている細胞だ。新しい臓器の培養も可能だ。海軍なんかも戦闘で再起不能の怪我を負ったりするだろう。そういった重傷者への治療の期待を込めて海軍や世界政府からも後押しされている研究だ」
    まあ自然系のあんたにはあんま関係ないか、とローは言葉を締めた。
    「そんなにその再生医療とやらに興味があったんだな」
    「……まあ、うん。そうだな」
    「?」
    歯切れの悪い回答に首を傾げる。
    「まあ新しい技術は見ておいて損は無いだろ?」
    「そうだな、心臓百個集める必要ないだろうしな」
    「はっ、海軍だって誰のでもない心臓百個もいらねえだろ」
    今四皇の大海賊が心臓百個を持ってきたら大問題である。
    「ねえちょっとこれ以上朝食食べにくくなるような話は止めない?」
    二人は同時にカトラリーを置いて、ごちそうさまと手を合わせた。



    「スモーカー、ALiC細胞の研究所に行けることになった。ついてこい」
    「なんで、そうなる……」
    スモーカーは頭を抱えた。
    実は今日は少しいい店を予約していたのだ。しかしアミューズに合わせたスパークリングが注がれたところでそんな話題が出たものだから、小さなスプーンに伸ばしかけた手は止まった。
    「開発者のドクター・キャロルと講演後に話す機会に恵まれてな。あれこれ質問してたら研究所に来てみないかと言われた」
    「大海賊を気軽に呼ぶ方も方だし、何でもかんでも行くと答える方も問題だ」
    暗に放浪癖と掛けて釘を刺す。
    「だって大目付が行っていいって」
    「なんだと」
    出てきた名前に目を丸くした。
    思わずヤケでスパークリングを飲み干す。
    「なんで大目付もそんな許可を出してるんだ。というか許可を出す立場にないだろう」
    「口添えってやつだ」
    それはほぼ許可したも同然だ。
    目の前の大海賊を孫のように可愛がる元海軍大将は事ある毎に彼に甘い。麦わらのルフィが海賊王になって変わった世の中で、何故か受け入れられている珍事だ。麦わらといい、死の外科医といい、揃いも揃って祖父が海軍将校なのはどうなのだろうか。それともその大海賊と恋人のスモーカーは同じ穴の狢だろうか。
    「だが俺が大手を振って世界政府も支援してる研究所に行くのはさすがに面目が立たないし、難しい問題だろ?」
    「難しいんじゃなくて本来は無理なんだよ」
    この四皇、自身が賞金首である自覚がない。
    「そこで第三者の立ち会いとして将校以上の付き添いが必須だと言われた」
    「……それは俺か」
    「ついでに艦隊すぐ出せるヤツで俺が何かやらかしたらすぐ回収できる奴がいいんだと」
    「俺だな……」
    「まさかポーラータングで向かう訳にも行かないからな。条件として俺以外の仲間は海域に近づくことも禁じられている。明日あたり正式な指令が出るんじゃないか」
    スモーカーは思わず手で顔を覆った。
    そもそもスモーカーがいることを見越して許可を出したのではあるまいな。大将位を退いてなお抜け目のないご老体が恨めしい。
    「向こうも俺に興味があったみたいだしな」
    「あ?」
    「ドクター・キャロル。俺の移植手術の症例報告を見たことがあったらしい。最も俺のは近親者の臓器移植で、再生医療とは何も関係ないが」
    「お前が他の医者共に異様にモテるのはもう驚かないが、研究者も対象だったのか?」
    「自分の天才ぶりが怖くなるな」
    「言ってろ」
    興味があるのはオペオペの実の能力者だからか、それともトラファルガー・ロー自身の方なのか。後者であればまた変な輩に目をつけられていなければいいが、とスモーカーはげんなりしながら料理を食べ進める。
    「だから研究を見て意見や感想があればぜひ欲しいと言われた。俺もこの分野には興味がある。あっちがどうぞと言っているなら行かないわけが無い」
    「その興味とやらはなんなんだ?」
    「……まあ、単に俺の知的好奇心もあるし、この分野が成功すれば得するのはお前たち海軍だろうからな」
    朝と同じく含みのある言い方だった。どうも単純な動機ではなさそうだが、それをスモーカーに言うつもりも無いらしい。
    元々何でもかんでも共有するような仲では無い。海兵と海賊として不利益になるような情報漏洩などはない。
    最終判断で海軍がスモーカーの同行を指示したということは、少なからずトラファルガー・ローが行くことによって得られるものがあるからだ。ただ単純に目の前の男の我儘を聞くだけなら最初から許可は出ない。
    それならばスモーカーも一軍人としてその職務を全うするだけだった。
    「それが上からの命令ならそうする。だが俺も部下をただ遊ばせておく訳にも無駄な危険に晒すわけにもいかない」
    「そうだろうな」
    「その研究所とやらへの同行の後、所内の同行は俺単独として、残りの部隊は近海での演習とする。これが俺からの譲歩だ」
    「演習への予算が出るようにセンゴクに伝えておく」
    「……なんでこんな、裏取引みたいなことをこんな場所でしてるんだろうな」
    一応デートのつもりだったのに、雰囲気は台無しである。
    一人ワインもアミューズもきっちり楽しんでいる様子の恋人は、こともなげにスモーカーへ投げた。
    「招待はちょうど一週間後。場所は新世界海中(・・)にある実験要塞施設、ミレニアムガーデンだ」



    それが一週間前の出来事。
    そして今日がその一週間後、実験要塞施設ミレニアムガーデンへの訪問日であった。
    まさに絶海という場所にそれはあった。
    海上に見えているのは船着場程度の広さしかない平らなコンクリートと金属の地面。真ん中には人が入れる位の穴と下に続く梯子。
    そして梯子の先がさらに地下へ潜るためのエレベーターになっている、というのが事前に聞き及んでいる施設構造だ。
    G5の船で近くまで移動してきた二人は、ローの能力でその入口へと降り立つ。
    「なんか、思ったより大分殺風景な場所にあるな」
    遮るものが何も無い海上の上で、暴風雨に晒されながらローはポツリと呟いた。
    ああ、とスモーカーも返事をする。
    海中にある実験施設。化かされているのでなければ、スモーカーたちの足の下には数百メートルにも及ぶ施設が続いているのだ。その片鱗はまだ一ミリも確認できない。
    「施設の外側は海楼石で出来ているらしいから近づくなよ。俺達には天敵だ」
    キョロキョロと当たりを見回すローの背中にスモーカーは投げかけた。
    「ああ、だからこんななにも無い場所に無防備に施設が作れるのか」
    政府や海軍も関与している施設ならば敵に襲われる可能性も少なからずある。だが近くに海軍基地も無ければ、巡回しているような海軍の戦艦も無い。
    その理由のいくつかは事前に得た情報でも推察できた。
    この場所は限りなく凪の帯に近い。近海に島は無いためログに導かれてたまたま通りかかることも無い。
    加えて外側を海楼石で作っているともなればステルス効果で海の生物達からも海の一部と見なされる。
    海楼石出できた建物に入るなんてぞっとするな、とローは笑った。
    「まるでインペルダウンみたいだ」
    「事実、そうなんだろう」
    凪の帯にある海底監獄の原理を真似て作られた、もしかしたら海底監獄よりも発展した人工の要塞施設。
    「お前の能力があれば海楼石だったとしても施設からは抜けられるだろ」
    「こんな周りに何も無いとこでシャンブルズしたところで海に落ちるのがオチだ。まああんたのとこの戦艦に飛べばいい話だけど」
    「この辺りは凪の帯の海王類どももやってくる。中途半端な移動は命取りだな」
    「はは、なんかこれから起きるみたいな話だな?」
    「馬鹿言え」
    そんなことあってはならない。
    不祥事を起こせば立場が危ういのは立ち入りを許可した海軍の方だ。
    現にローは身一つ、トレードマークの大太刀は所持していない。
    何かを起こす可能性すら排除された場所で見学以外の事が起きてはひとたまりもなかった。
    冗談もそこそこに、入口と目される硬い鉄版のバルブを回しこじ開ける。
    中に入るとすっかり近未来的な内装が出迎えた。
    そしてさらに下に潜るためのエレベーターが二人の目の前にあった。他に行ける場所は無い。エレベーターを呼ぶためにボタンを押す。
    「厳重だな」
    「侵入者対策に加えて何重にも防壁を作って海水の侵入を防いでいるんだろ」
    行先が一つしかないエレベーターは二人を乗せて動き出す。徐々に加速する感覚と、下に落ちていく浮遊感にローは眉を顰めた。
    「施設の最下層は深海千メートルにも及ぶらしい。光が届かないまっくらな海の底だ」
    スモーカーはローの言葉を黙って聞いていた。
    「周りは深海、建物は海楼石。能力者にとってこんなに気持ち悪い場所はないな。さっきからずっと息苦しい」
    ローははは、と笑った。スモーカーも同感だ、と頷く。
    周りから押しつぶされるような、押さえつけられるような、上手く呼吸ができないような、そんな感覚だった。
    能力者は海に嫌われる。
    外の景色を見ることは出来ないが、能力者が生きてこの深さの海に行けることなどそうはない。
    体感にして一分にも満たない頃合で到着を知らせるベルが鳴る。
    着いた場所は来客用のロビーのような場所で、無人の広間が出迎えた。
    知らなければ海中にあるとは思えない施設だ。
    白い壁には金属板で「Millennium GARDEN」と印字されている。
    「おい、」
    ここからどうするんだ、とスモーカーが言葉を続けようとしたところで、よく通る高い声が廊下から響く。
    「ドクター・トラファルガー!」
    ぺたぺたと、サンダルの足音のようなものがこちらへ向かってきた。
    「ドクター・キャロル」
    振り返ったローはこちらへ来る人物へ返事をする。
    肩揃えの栗色の髪、眼鏡をかけた理知的な顔つきにすらりと細い体躯。その身体はすっぽりと白衣に覆われていた。女性の年齢は外見からは判別付きにくいが、なんとなくスモーカーと同じくらいの歳だろかと推察する。
    まさに研究者然とした姿に、そんなことよりもスモーカーには驚いたことがあった。
    「……女だったのか」
    「おい」
    その小声での呟きに、ローは肘でスモーカーを突く。
    軽く咳払いをしたローは目の前の女性へと向き直る。
    「連れが失礼したな」
    「ふふ、いいえ。こんな無骨な場所でよく分からない研究をしているなんて、か弱い女性のイメージが無いですよね」
    「いや、まあ……」
    そうはっきり言われてしまうとスモーカーも口ごもるしかない。
    ドクター・キャロルが言ったことも事実だが、ローに興味を持って近づいてきたなんて聞かされていたため知らず知らずのうちに男だと思い込んでいたのだ。老若男女問わず人を惹きつける質であるとしても、なんとなく無意識に自分が持っている下心と同じものを他の男も抱いているのではと警戒してしまう。
    しかし、この女性が話題になっているという細胞を作った女史とは。
    「ようこそ、ドクター・トラファルガー。急なお誘いだったにも関わらずお越しいただきありがとうございます」
    「こちらこそ貴重な場所への招待、感謝する。こちらは海軍本部所属のスモーカー中将。俺もおいそれと色々な場所に出入りできない立場だからな、護衛と監視ということで一つご了承願いたい」
    「ええもちろん。予め海軍本部からはご連絡頂いております。どうぞ、ゆっくりして行ってくださいね」
    実験施設でゆっくりとはこれいかに、スモーカーは曖昧に頷いて一歩引く。
    ドクター・キャロルは余程ローが待ち遠しかったのかどうぞどうぞと足早に廊下を案内していく。ローはローで物珍しい場所や景色に興奮を隠しきれないのか、道中気になったものをあれやこれやと質問していた。
    最初とは別のエレベーターに案内され、ぱちりと目を瞬かせる。
    「まだ下がるのか」
    「ええ、この階層まではお客様用なんです。これより下の中層が臨床実験エリア、その更に下にある下層は開発研究エリアになっているんです。他にも一般職員の内勤エリアだったり、色々」
    今度は幾つもボタンのあるエレベーターに乗り込み、ドクター・キャロルは迷わずボタンを押した。
    「ドクターにはぜひ色々ご紹介したい場所があるのですが、まずはお茶でもいかがですか。いきなりでは落ち着かないでしょう?その間に特に見て回りたい場所を仰っていただければ関連資料をお出ししますよ」
    「そういうことならお言葉に甘えさせてもらう」
    「ふふ、きっと職員エリアに行ったら引っ張りだこですよ。皆ドクター・トラファルガーが来るということで今日は浮足立っているんです」
    そうなのか、と頷くローの後ろでスモーカーはげんなりした。人からの好意に疎いわけではないが、邪な感情が混じらない限りは無頓着な男だ。そもそも研究者からの質問攻めには慣れているのだろう。これはさぞ防波堤のしがいがあるだろうなと首を回す。
    初めに来た時と同じく、チン、と機械音が鳴りエレベーターが止まった。
    扉が開いた瞬間、目の前をまるで突風が駆け抜けたように何かが通り過ぎていった。
    かろうじて分かったのはそれが小柄な子供だったというくらいか。
    「こら、アリス!施設内は走らないって言ったでしょう!」
    エレベーターから顔を出したドクター・キャロルが腰に手を当てて子供が通り過ぎていった方へ叱咤を飛ばす。
    「はーい!ごめんなさーい!」
    向こうの壁からひょこりと顔を出したのはドクター・キャロルと似た栗毛を背まで伸ばした十歳くらいの少女だった。ぱちりと丸い瞳は海のように青い。そこは似ていなかった。
    少女は謝罪の言葉を口にしながら再度向こうへと走っていってしまう。
    ドクター・キャロルは「もう!」と肩を怒らせた後、慌てて二人へと振り返った。
    「すみません、騒がしくて」
    「いや。あの子供は……」
    「娘なんです」
    ドクター・キャロルは困ったように笑った。
    「こんな場所でずっと研究をしているものですから、娘にもここで一緒に暮らしてもらっていて。同じ年頃の子なんていないものですから、今じゃこのガーデンはあの子の遊び場なんです」
    廊下の向こう側では少女が何かをやらかしたのか、他の職員の呆れた声が聞こえてくる。
    「まったくあの子ったら。今日はお客様が来るから大人しくしているようにって言ったのに」
    「あの年ごろの子供は言ったって聞かないだろ」
    「まあ、分かりますか!そうなんです、好奇心の塊ったらありゃしない」
    「子供なんて持ったことはないが、あの年の頃の自分のことはよく覚えている」
    そう言ってふっと笑ったローを、スモーカーは意外そうに見下ろした。子供のころの話なんてするようなタイプでもないだろうに。同じ研究者、医者同士馬が合うのだろうか。
    「さあ、ドクター。こちらです」
    少女が去って行った方に背を向けて、三人は施設の奥へと歩を進めた。


    「ガーデンの理念は患者様のために、未来のためにALiC細胞を届けることです」
    ドクター・キャロルは朗々と歌い上げるかのように話し出す。
    お茶を、と通された部屋のスクリーンには既にプレゼンテーション用の資料が投影されていた。
    手にはご丁寧にパンフレットが用意されている。
    部屋の後ろで座っているだけのスモーカーにも用意されたパンフレットをぺらりと捲る。海軍の広報誌とよく似ているな、としげしげと眺めた。内容は半分も分からない。
    スモーカーの目線の先には熱心にスクリーンを見る小さな後頭部がある。
    「ALiC細胞はかつて軍事利用、そしてクローン技術のためにベガパンク研究所で開発されました」
    かちり、と画面が変わる。細胞なのか、はたまた何かの遺伝子の図なのか。スモーカーにはそれがなんだか分からない。
    「コンセプトは誰にでもなれる細胞。文字通り、この多機能幹細胞は移植者の細胞と同化して不足部分を補う性質があります」
    これはスモーカーが事前にローから聞き及んでいた内容だった。だから政府も海軍も支援しているのだったか。
    「かつてセラフィムのような数々のクローン兵士には、オリジナルには無い遺伝子も組み込まれていました。そして子供として作られていたとしてもクローンはオリジナルの年齢が高ければ高いほどテロメアが短い。遺伝子配合の安定性、そしていつか来てしまう細胞分裂の終わりの課題をクリアすることが私達研究員に課せられた課題のひとつでした」
    そろそろ訳が分からなくなってきたな、と意識を彼方に飛ばしていると、ずしりと膝に重みが増えた。
    ギョッとしてパンフレットを顔の上にずらすと、青い瞳と目が合った。先程見た色だ。
    スモーカーの膝に両腕を乗せた少女はにこにこと笑いながら「しー」と人差し指を口元に当てた。どうやら遊び相手を探しにこんな所まで来てしまったらしい。特に敵意のない気配だったためスモーカーも気付くのに遅れた。
    自身で言うのも悲しい話だが、スモーカーの外見は子供から見ても取っ付き難い部類だという自覚はあった。しかしそんなことはお構い無しと少女はスモーカーの膝をよじ登り始める。
    これにはさすがのスモーカーも驚いた。慌ててパンフレットを小脇に抱え、少女を脇の下から抱えあげる。そして組み直した膝の上にすとんと座らせた。
    少女は声には出さずに、にこりとスモーカーに笑いかける。
    ドクター・キャロルとローはそんな後ろの状況に気づいた様子はなく、熱心に研究の話をしている。
    「この施設では研究開発とは他に既に患者様への移植を行う臨床医療を行っております」
    「論文を読んだ。既に神経の再生や、一部の臓器機能の回復に成功しているんだったな」
    「ええ、これまで数々の患者様がこのALiC細胞で健康的な日常を取り戻しています。元は軍事利用されていた技術で、医療の転用には周りからも非難されることがありましたが、皮肉なことに人体への影響範囲は既に確認されていますので」
    「セラフィムか」
    そのセラフィムに前時代苦しめられたのは目の前の四皇も同じであった。いくらかマシになった世の中でも、残されたセラフィム達の処遇は社会問題になっている。
    「質問なんだが、このALiC細胞は限りなく誰の細胞にも適応できるんだろう?本人の体細胞から採取する訳じゃないなら、これはなんの細胞なんだ」
    「従来の再生医療は自身の体細胞から採取した幹細胞で行われます。それにより細胞を患者へ移植しても拒絶反応が起こりにくいというのが利点でした。ですが何らかの理由で本人から細胞を採取出来なかったり、セラフィムのように種族を掛け合わせて作られた人体用であったり、そんな患者様たちのために万能細胞が必要でした」
    かちり、とスクリーンの映像が変わる。
    「そこで、誰でもないけど誰でもある、そんなヒトの遺伝子を一から設計しました」
    スモーカーにも、そしてもしかしたらローにも分からない細胞の神秘。
    「人間にだって、魚人族にだって、ミンク族にだってなれる細胞です。設計して、受精卵を作りその細胞を採取しました。それがALiC細胞の始まりです」
    正義と高い志と、ALiC細胞に対する誇りがドクター・キャロルの目に強い光を与えていた。
    「といっても、これ以上は企業秘密ですよ。設計方法は私とベガパンク先生の頭の中にしかありませんから」
    膝の上に座っていた少女がきょとりとスモーカーを見上げる。スモーカーが首を傾げると、再びふふんと機嫌よく前を向いた。
    そんなスモーカー達などもはや意識の外にある死の外科医は細長い指をパンフレットに添わせながら口を開く。
    「その受精卵はどうしたんだ?」
    「え?」
    「人工的に作った受精卵なんだろう?成長すればヒトになるのか?」
    ローの質問に女史は微笑んだ。
    「いいえ、人にはなりません。正確には、多分成長してもまともな形になるように出来なかったと思います」
    少しだけ残念そうに、肩を落とした。
    「移植してその方向性を与えない限りは、誰にもなれない細胞なのです。だから開発当時の受精卵はそのまま廃棄されました」
    「……そうか」
    「ふふ、気になりますか?」
    「単純な興味でな」
    ローは言葉を続ける。
    「あんたの娘の名前と細胞の名前が似ているなと」
    一瞬沈黙が落ちる。スモーカーでも、ローが何を言いたいのか分かった。当然目の前のドクター・キャロルもそうだろう。
    「……あはは、ドクター・トラファルガーも冗談なんて仰るんですね。その時の受精卵がそのまま成長していたらもう20歳くらいになってしまいますよ。第一、先程も言いましたが形にはなりませんし」
    耐えきれないとばかりに口元を隠してドクター・キャロルは笑った。
    「アリスはALiCにあやかって名前をつけました。皆を助ける立派な子になって欲しくて」
    「……そうか」
    ローは納得したように頷いた。
    スモーカーはそんな二人を見てどうしたものかと悩む。それ以上の話はスモーカーが中身をちっとも理解出来なかったとしても、子供の教育に悪いことは分かる。
    「おい、あんたら子供の前だぞ」
    その声に振り返った二人は後ろのスモーカーを見てギョッとした。
    「うお、あんた何やってんだ」
    「きゃー!こら、アリス!お客様になんてことを」
    大きな体躯の海兵が小柄な少女を膝に座らせている図はなんとも言葉にし辛い絵面だ。スモーカーが将校服を着ていなければ犯罪的である。
    「お椅子ごっこ!」
    「椅子ごっこだったのか、これ」
    海軍本部中将を捕まえて椅子にするとは将来有望だ。
    「そこのおじちゃんのお膝は面白いか?」
    ローは明らかに面白がって少女に聞く。
    「うん!おっきいから面白い!」
    「はは、まあこんなにいかついやつは研究所に居ないだろうからな。後で肩車もしてもらえ」
    「やったー!」
    「おい、ロー……」
    好き勝手に言う大海賊にスモーカーは頭を抱える。
    「すみません、スモーカー中将。こら!いい加減早く降りなさい!」
    ドクター・キャロルは申し訳なさそうに頭を下げた後に、般若の形相で娘に怒った。
    「くく、気にするなよドクター。中将殿は子供をあやすのは大得意だ。なあ?」
    「……ああ」
    パンクハザードの子供達を預かった縁で、あれから何度か子供たちの保護施設を訪れているスモーカーは子供の遊びに付き合わされることも多かった。もっともパンクハザードの子供たちはスモーカーなんかより体躯も大きかったので、こんなに小柄な子供を相手にするのは初めてだが。
    「アリス、お母さん達はこれから研究所をまわるから貴方は今日のお勉強でもしていなさい。おやつも冷蔵庫にあるから」
    「やだー!つまんない!」
    絶対にここからどいてたまるか、と強い意志を固めた少女はスモーカーの上着にぎゅっと抱きつく。
    ローはその光景にますます笑った。
    「アリス!これ以上はお母さん怒るよ!」
    「もう怒ってるじゃん!」
    キーッ!と少女が威嚇をすれば母親も益々鬼になる。二人の争いに巻き込まれたスモーカーはいたたまれなくなった。
    「あー、ドクター・キャロル。問題なければ見学中も俺が抱き抱えて相手をするが」
    「え、いえ、そんなご迷惑はかけられません!」
    「おじちゃんありがとう!」
    「アリス!」
    いつの間にか隣まで来ていたローは少女を抱き抱えるスモーカーを面白そうに見下ろしていた。他人事だと思って、とスモーカーは恨めしそうに視線を合わせる。
    「はは、安心しろよドクター。中将殿は抱っこも得意だ」
    「……」
    たしかにそれは否定できなかった。
    たまに百九十センチを超える大男を抱き抱えることもあるので。


    結局抱っこではなく肩車を所望されたスモーカーは少女の足をしっかりと支えて施設を練り歩く羽目になった。この施設の天井が高くて助かった。
    頭の上でなにやらわさわさと動いている気配がするが、何をされているかはスモーカーには分からない。頼むから毟ってはくれるなよ、と祈った。
    前方では施設の紹介や研究内容を話しているドクター二人がいる。専門職同士、盛り上がることがあるのだろう。
    「ここからは臨床実験エリアです。主に実際に患者様に細胞を移植して、回復までをサポートし、データを収集しています」
    ドクターがガラス張りの向こう側に手を差し出しながら説明する。
    ガラスを隔てた向こう側はリハビリ室のような場所になっており、医療スタッフや技師に囲まれた患者達の姿がある。
    「奥で手のリハビリをされている患者様は半年前に指を切断する大怪我をしました。幸いなことにすぐに指は手術でくっつきましたが長いこと神経や感覚が戻らず。そこでこの研究所を頼っていらっしゃり、一か月前にALiC細胞を移植されました」
    ご覧ください、と示された先には器用に箸を使いながら豆を皿に移す患者の姿がある。とてもではないが一度指が切断されているようには見えなかった。
    「次にあちらの御年輩の女性は骨粗鬆症の方でした。あの方はALiC細胞を移植し骨芽細胞を増やして大幅に骨密度が上昇しました。最初は骨折もされていたのに、今じゃすっかりスタッフを置いて散歩に行ってしまうくらいなんですよ」
    それから、それから。
    ドクター・キャロルは嬉しそうに成果を話していく。先ほどの細胞の話とは違い治療の話になったからか、ローも興味津々で聞いていた。
    確かにこれは、
    「つまらないだろうな」
    「なにがー?」
    少女が真上から顔をのぞき込むようにして乗り出す。危ないので足をぎゅっと握って腰を降ろさせた。
    「俺らに分からない話をされて、つまらないだろ?」
    子供には尚更。
    このぐらいの年の頃といえば絵本を読んだり、絵を描いたり、外を走り回ったり。
    だから研究室を走り回っているのかもしれないが、同じ目線の遊び相手がいないのだ。
    「皆わたしと遊んでくれないからつまんなーい」
    「ここじゃあそうだろうな」
    「でもお仕事の話をしているお母さんは楽しそうだから好きだよ」
    ふむ、とスモーカーは前を見た。
    「まあ、それは同感だ」
    スモーカーも、医者の顔をしているローが好きだった。海賊の顔をしているローは生意気だ。
    「あのお兄さんはおじさんのお友達?」
    「あー、……まあ、お友達なのかもしれないな。ちょっと複雑なんだが」
    十歳やそこらに正直に恋人ですと教えるのはなんだか憚られた。外を出れば公の関係なのは分かっているが、これがたとえ男女の恋愛だったとしても、海兵と海賊の恋愛じゃなかったにしても、この年の子供に言うのは気まずいだろう。
    そしてそのお兄さんと呼ばれる男ももうそろそろおじさんと呼ばれてもおかしくはない年齢なのに、子供の感想は正直だなとしみじみ思う。
    「ねえねえ、おじさんのお名前なんて言うの?」
    「ああ?……スモーカーだ」
    「すもーかーさん」
    すもーかーさん、と繰り返し確認するように唱える。頭上で呪文を唱えられているスモーカーはなんだか気恥ずかしかった。
    別に真実おじさんなのだから呼び方なんてそのままでも良かったというのに、あまり連呼されると気付いて欲しくない人物にまで気付かれる。
    「モクモクちゃんの方が呼びやすいんじゃないか?」
    その気付いて欲しくない人物がいつのまにか後ろを振り返っており、ニヤニヤしながらスモーカーの頭上を見上げていた。
    「モクモクちゃん!」
    「……おい」
    「なんだよ、他のガキにだってそう呼ばれてるだろ。モクモクちゃん」
    それはそうだが、わざわざ進んで教えることでもない。しかしその可愛い響きが気に入ったのか少女は嬉しそうに「モクモクちゃん!」と声に出していた。 スモーカーなんて硬い名前よりも余程呼びやすいのだろう。
    顔を見なくても分かる。子供特有のきらきらとした目でスモーカーを見下ろしているに違いない。
    「じゃあお兄さんは帽子がモコモコだから、モコモコちゃん?」
    「!?」
    「ふっ……」
    スモーカーは思わず顔を背けて笑った。
    視界の端ではスモーカーと少女へ驚愕の視線を交互に彷徨わせている大海賊がいる。因果応報とはまさにこのことだ。
    「良かったな、モコモコちゃん」
    「う、うるさい!笑うな!」
    「モクモクちゃんにモコモコちゃん、二人ともお名前似てて仲良しだね!」
    「ああ、仲良しなんだ」
    「スモーカー!」
    最近やられっぱなしだったスモーカーはここぞとばかりに弄ることにした。こんなに面白いことは滅多に起こらない。
    顔を真っ赤にしたローは少女の手前怒るに怒れずにいる。
    そういえば、とスモーカーは辺りを見回す。
    「ドクター・キャロルはどうした」
    気付けば先頭を歩いていたはずの女史の姿は無い。
    「今他の職員に呼ばれて外してる。すぐ戻ってくるとは言っていた」
    「そうか」
    「ねーねー、モクモクちゃんたちは上から来たのー?」
    どうやら静かにここで待っていることは叶わないらしい。
    スモーカーは肩車していた少女を腕にまで持ってきて抱えなおした。少女の視線は丁度ローと同じくらいに並ぶ。
    「上っていうか、外からだな。まあ入ってきたのは上だから間違っちゃいないが」
    「ってことはお外の青を見てきたって事!?」
    少女はわあ、と口元を抑えて興奮気味に話す。
    「外の青?」
    「わたし知ってるよ、海と空は本当は青いんでしょ?」
    不思議なことを言う少女に二人は首を傾げた。
    「そりゃそうだろ。見たことないのか?」
    「だって展望台で見るお外はいつも真っ暗なんだもん。本当は青って色だってご本に絵が書いてあったよ」
    少女の言葉に「ああ」とローは納得した。
    「そりゃこんな海底には太陽の光はたいして届かないもんな」
    「そういうことか」
    ここは海中にある要塞実験施設。一番深いところでは水深五百メートルを超えるこの施設では、いわゆる真っ青な海は見られないだろう。
    「上にある海と空は見たことがないのか?」
    「わかんない。昔お母さんと一緒にお外を見たって言ってたけど、わたし覚えてない」
    少女はいいなあ、と言葉を漏らした。
    「ふうん、じゃあなんで空と海が青いのか知っているか?」
    それは子供には難しいのではないだろうか。
    スモーカーが内心そう思っていると、腕の中の少女は元気よく答える。
    「お空が青いのは青い光の方が広がりやすいからで、海が青いのは青い光以外吸収されちゃうからだよ」
    「なんだ、知ってんのか。ちびっ子博士は博識だな」
    ローはけろっとしているが、スモーカーは内心「おお……」と感心していた。なんだか子供に負けた気分である。
    「前にお母さんに聞いたら教えてくれた!」
    「分からない事を聞くのは良いことだ。俺もよく父様に教えてもらっていた」
    ローと少女では通じ合う部分があるらしい。幼少期から頭の出来が違うと考えることも違うのだろうか。
    父様、なんて恋人の育ちの良さを再度認識しながら、スモーカーはふとガラスに反射した自分達を見た。
    「外が見れなくてもすぐ見れる青ならあるぞ」
    ほら、とスモーカーはガラスに映る少女の瞳を指さした。
    「俺達がいつも見ている海の色と同じだ」
    少女は自分の顔をぱちりと見た後、嬉しそうに足を揺らした。
    「そうなの!アリスの目は海と同じなの!」
    頬は赤く高揚している。よほど自分の目の色と、空と海が好きらしい。
    「……初恋キラーって怖いな」
    「なんか言ったか?」
    「いや何も」
    ローは口元に手を当てて何やらブツブツ呟いていた。スモーカーは若干それに引き気味に、少女を抱えなおしながら一歩引いた。
    「あ」
    「ん?」
    ふいに少女が視線を彼方へと向けた。青い瞳はここではないどこかを見ている。
    既視感を覚える光景だった。まるで猫が何も無いところを突然見つめるような。
    どうしたんだ、とスモーカーが声を掛けようとしたところで。

    ──途轍もない轟音と、身体を揺さぶる衝撃がその場を襲った。

    一瞬息を飲む。次いで聞こえてきたのは職員や患者の悲鳴だった。
    「スモーカー!」
    「ああっ」
    少女を下へと降ろしたスモーカーは近くの扉を手当たり次第に開ける。
    「おい、頭を守る体勢を取るんだ!机の近くにいるやつは下に潜れ!」
    「ドアを開けられる奴は開けろ!歪んで開かない奴は声を出せ!」
    電気がチカチカと点滅する。
    断続して止まない振動に人々の顔は真っ青だった。
    『レベル5発令。警告、警告。第三外壁が損傷しました。館内にいる職員はただちに退避してください。繰り返します。レベル5発令』
    館内スピーカーから流れるけたたましいサイレンがより一層職員達の不安を煽ったようだった。
    慌てふためく職員の一人を捕まえ、スモーカーは問い質した。
    「おい、今何が起きているか分かるか!」
    「れ、レベル5はこの施設に何らかの要因で危害が加えられた時に発令される緊急コードです!た、多分ガーデンが外部から攻撃を受けています!」
    外部からの攻撃、という言葉にスモーカーとローは互いの顔を見合わせる。
    「その場合なんか対策あるのか!」
    「施設自体が自動防衛機構を備えています!その、攻撃をしてきた相手を自動追尾で反撃するはずです!」
    「はずってなんだ!」
    「こ、こんなこと今まで無かったからですっ」
    「スモーカー、一般人相手に凄みすぎだ」
    スモーカーに問い詰められた職員はこの緊迫した事態と相まってもはや半泣き状態だった。スモーカーは知らず知らずのうちに自分も焦っていたことを反省する。
    冷静に、一般人相手になるべく威圧感を持たずに意識して口を開く。
    「攻撃していない戦艦や、海軍の戦艦は近づけるのか?」
    「は、はい!大丈夫だと思います!元々自動防衛機構は識別コードがない海賊や海王類対策なので!」
    それを聞いてスモーカーは懐から電伝虫を取り出した。
    「スモーカー」
    「今すぐ戦艦を呼び戻す。おい、この施設は避難用のシェルターや外に逃げる設備はあるのか?」
    「シェルターと一体型の脱出ポットがあります!職員と患者様が全員乗れるくらいの広さです」
    「よし、分かった。あんたら職員は患者をひとまとめにしていつでも移動できるように準備を整えてくれ。海軍の戦艦がこれから付近を索敵しながら救出に向かってくる」
    「わ、分かりました!」
    青ざめた職員は何度も頷いて足早に去っていく。
    「ロー、気付いているか」
    「ああ、揺れは止まったな。最初に聞こえた爆発音もない。追撃は無いみたいだ」
    「……海賊か?」
    「さて、それはまだ見てみないと分かんねえな。この施設の自動防衛機構とやらがどこまで仕事をするのか」
    「お前の能力で施設の外の様子は分かるか?」
    「……海底五百メートルの深海だ。間に海楼石もある。相性が悪い」
    ローは大きく舌打ちをした。残念なことにこの施設に入るにあたってあの大太刀は持ち込めなかった。本日は丸腰だ。何かあっても心もとない。
    鳴り止まない警報は不安を募らせるには十分だった。一般人ならパニックになってもおかしくない。子供なら尚更。
    「おい、あの子供はどうした」
    「っ!」
    二人は慌てて後ろを振り返る。
    最後に少女を下に降ろした場所にはもう誰もいなかった。
    「くそ、やらかした」
    人が右往左往する中、二人はぐるりと視線を巡らせた。
    視界の端で長い髪が揺れるのが見えた。
    「っおい、……おい、アリス!」
    ローはその背中目がけて大声で呼び止める。
    その声に一瞬少女は立ち止まり、その青い瞳を二人へと向けた。
    「お母さんを助けに行かなきゃ!」
    少女の甲高い声がフロアを横断する。
    二人が再度足を踏み出す前に、少女は施設の奥へと消えてしまった。
    「っ……、こんな時に」
    「目を離した俺達二人の責任だな」
    「子供ってのはどうしてこう……」
    スモーカーは眉間の皺を指で揉みほぐす。ローは隣で小さくため息を吐いた。
    「……G5の戦艦がここに来るまでどのくらいかかる?」
    「そう離れたところで演習はしちゃいないが、索敵も込みで全速力で駆けてきて十五分てところだ」
    スモーカーの言葉にローはしばし考える素振りを見せる。
    「スモーカー、上に行って避難の誘導を手伝え。多分職員も患者もパニック状態でまともに避難なんかできねえ。ここのフロアだけの問題じゃないはずだ」
    「……お前はどうするつもりだ」
    ローは少女が消えた方を見ていた。
    「俺はアリスと、ドクター・キャロルを探す」
    だから先に行ってろ、とスモーカーの背中を押してローは歩き出す。
    スモーカーはローを一瞥した後、「ああ、くそ」と頭を掻いて逆方向に歩き出した。
    少女が消えた方向には非常階段があった。
    上か、下か。
    ローは迷わず下へと向かう。上に向かっているのであればスモーカーが見つけるはずだ。
    駆け上がってくる職員を避けながら階下のフロアを探した。
    ミレニアムガーデンは中央が吹き抜け構造になっており円柱のような構造をしている。吹き抜け内部にはエレベーターが、そしてそれらはガラス越しに見ることが出来る。吹き抜けの向こう側の廊下も、そして上の階も下の階もパニック状態の人々が見て取れた。
    一つ一つ探しているのでは埒が明かない。職員は皆似たような格好ばかりで、視覚情報だけでは到底見つけられると思えなかった。
    ローは廊下の真ん中に立つと、そっと深呼吸をする。
    職員達の走る音、響く悲鳴、誰かを呼ぶ声。
    見聞色の覇気を広げてみても砂の中から砂金を見つけるようなものだ。ましてや大して会ったことがない人物の気配などなおさら。
    本当はあまり人の多いところで見聞色は使いたくなかった。ローでは聞こえすぎてしまう。押し寄せる声はびりびりと肌を刺す感覚へと変わっていく。
    だがひとこと、声が聞こえればいい。母親ならそうしているはずだ。
    ──リス!アリス!
    はっ、と目を開けた。
    「こっちか」
    さらに下のフロアへと駆け下りる。
    声の感覚はどんどん近づいていた。
    階段から廊下に出た瞬間、ローの胸に女性が飛び込んできた。
    「ドクター!」
    「っ、ドクター・トラファルガー!」
    思いっきりぶつかりよろけた女史をローは慌てて支える。鼻を抑えたドクター・キャロルは慌てて顔を上げた。
    「ドクター・トラファルガー!どうしてここにっ。今この基地は外から攻撃を受けて!」
    「知ってる。上の職員に聞いた。既にスモーカー中将の指揮で職員は避難を開始している。俺達が乗ってきたG5の戦艦がじきに迎えに来るはずだ」
    「では皆無事なんですね!」
    「ああ」
    振り乱した髪の毛を整えながら、ドクター・キャロルは安堵の表情を浮かべる。
    「攻撃してきてるやつに心当たりは?」
    そう問われたドクター・キャロルは悲しそうに首を横に振る。
    「皆目見当も……。もしこの研究所を狙うようなものがいるとすれば、それはもう数え切れないほどいますから」
    「絞れないほどいるのは厄介なことだ。外部から攻撃を受けたって事だが、この施設は持つのか?」
    「この施設は要塞施設です。並の攻撃では崩せないように出来ています。レベル5の警報は外壁の損傷、中まで攻撃が到達しているわけではありません」
    「自動防衛機構だったか?」
    「そうです。外的要因を自動追尾して排除します。なのでこれ以上の攻撃はないと思うのですが……」
    現に施設の揺れは止まっている。
    そこで、ローはもう一つの目的を確認した。
    「悪いが、目を離した隙に娘さんはあんたを探しにどこかへ行った。会えなかったか?」
    「そうです、アリス!アリスをさっき向こう側のフロアで見かけたんです!あの子私に気付かなくて!」
    先程の必死に名を呼んでいた理由を女史は話す。
    「入れ違いか」
    向こう側、と指を指された先にはもう誰もいない。
    こうしている間にもローとドクター・キャロルを残して皆逃げていく。
    「アリスを見つけないと!」
    「待て、ドクター・キャロル。闇雲に探しても危険だ」
    走り出す女史の腕を掴み引き戻す。
    「あっちも走り回っててあんたも同じように出ていったんじゃ会えるもんも会えねえ。少し落ち着け」
    悲壮感に染まる母親の顔をじっと見つめる。その強い眼差しにドクター・キャロルは息を飲んだ。
    「ここはどこら辺だ」
    「……このエリアはちょうど開発研究エリアの最初の階です」
    「あいつがあんたを探しに向かうとしたら、どこを思いつく?よくいるだろうと思い浮かべる場所は?」
    ドクター・キャロルは他の職員に呼ばれてここまで来ていた。しかし少女はその行き先を知らない。
    無意識に足を向けるとすれば、母親がいつもいる場所だ。
    早る動悸を押えて、ドクター・キャロルはぽつりと呟く。
    「私の、研究室でしょうか」
    「それはどこだ」
    「このさらにずっと下の」
    下、と言われローは吹き抜けの階下を見下ろした。まだ百数十メートルは下に建物は続いている。
    ゾッとする深さだった。
    「後ろを追いかけるんじゃ埒が明かねえ、一気に下まで降りて先回りする。まだたどり着いてないならそっから上に上がればいい」
    「わ、分かりました!でも一気にだなんて、どうやって」
    「ああ」
    ローはくるりと手を翻した。

    「ROOM」


    「今どのくらいシェルターに入った」
    「施設職員、患者様合わせて八割方は避難してきています!」
    避難シェルターの前にはスモーカーと、先程スモーカーが捕まえて問いただした職員がほかの職員たちを誘導していた。
    「このペースなら多分全員避難が完了するまでには時間がかからないかと」
    スモーカーはシェルターの方へと視線を向ける。
    脱出ポッドと一体型、というのは言葉の通り。簡単な潜水はできるくらいのシェルターになっている。万が一の時はこの脱出ポッドをG5の戦艦が保護することになるだろう。
    全員の退避と、周辺の安全確認。それさえ取れればひとまずは安心だった。
    (ロー……)
    母子を追って階下へ降りていった恋人は未だ姿を見せない。見つけていればすぐにでもこちらに飛んでくるはずだ。それをしないのはまだ二人を見つけていないということ。
    この場を離れるに離れられないスモーカーはぐ、と拳を握る。
    このまま攻撃がなければ良し、そうでなくてもG5の戦艦が周囲の安全を確保出来れば何事もない。
    だというのに、スモーカーは胸のざわめきが止まらなかった。
    『モクモクちゃん!』
    子供が不幸な目に合うのはいつだって大人の力不足だった。
    パンクハザードの子供達も、世界中の紛争に巻き込まれる子供達も、そして今日出会ったばかりのあどけない少女も。
    出来ることなら母子で安全な場所に移動させてやりたい。
    はやく保護して、せいぜい戦艦の上で青い空と綺麗な海とやらを見ればいいのだ。
    それがスモーカーの偽ることの出来ない正義だ。
    「あれ、なんでだ」
    「どうした」
    乗員を確認していた職員の声にスモーカーは意識を引き戻した。
    「患者さん達は全員一緒に動いてきたんですけど、何人かいなくて」
    「なに?」
    「この騒ぎだし、もしかしたらどこかではぐれてしまったかもしれないです」
    どうしよう、と職員は真っ青な顔でつぶやく。
    職員なら自力でシェルターにたどり着けるだろうが、患者ではそうもいかない。救うべき患者を取り残してきてしまった事実と、再び警報のなる館内を捜索しに行かねばならない不安に頭がいっぱいなのだろう。
    ちょうどいい口実だと思った。
    「……あんたは先にシェルターに乗っていろ。はぐれた患者は俺が探しに行く」
    職員の流れに沿えば患者も自力で来ることが出来るかもしれない。しかしスモーカーがここを離れるきっかけにはなった。見たところ避難の手助けでこれ以上の手出は必要なさそうだった。
    「万が一海軍の戦艦が来ても俺達が戻ってこなかった場合や全員揃っていなくても、先に保護してもらってくれ」
    「わ、わかりました」
    スモーカーは来た道を戻る足も煩わしく、煙になり各階を見て回っていく。
    避難してくるのは職員ばかりで、患者らしき姿は見当たらない。患者がいるとすればこの臨床実験エリアだと言うのに。
    スモーカーは嘆息してガラス越しの吹き抜けを見る。
    警報がなり続け、建物はオレンジ色のランプが着いていた。もしかしたらどこかに隠れているのか、それとも戻って来れないような場所に迷い込んでいるのか。
    下を覗き込んでため息をついた。一体地下何階まである施設なのだろうか。手っ取り早く吹き抜け内部に入って煙になりながら各階を見て回った方が早いかもしれない。
    ふと、階下で動く物体に視線が移った。栗色の長い髪が揺れて動く。
    大人では無い。小さい塊が懸命に走り、廊下を駆けている。
    スモーカーは愕然として、それから慌てて階下へと向かった。
    「おい、止まれ!」
    今度はその背中に確かに言葉な届いた。
    「あー!モクモクちゃん!」
    少女は走っていた足を止め振り返る。
    廊下の端と端、数十メートル離れた先で青色の目を輝かせた少女が嬉しそうに名前を呼んでいた。
    「お前、こんなとこにいたのか!ローや母親に会えなかったのか!?」
    駆け寄ってきた少女を抱き上げる。あちこち走ったからか、少女の髪の毛は絡んで大変なことになっていた。
    顔にかかる髪の毛を除けてやると、息を整えた少女が口を開いた。
    「お母さん見つけられなくなっちゃった!今からお母さんの研究室行くんだけど、モクモクちゃんも一緒に行く?」
    「……色々言いたいことがあるんだが、こんな状況でも元気そうでなによりだ」
    どこか怪我をしている様子もない。母親が見つからない割には走り回って体力を消費したからか少し満足そうな顔だった。
    案外素直に少女が見つかったことに安堵している。ローがここにいないということは、恐らく母親の方を追っているのだろうと当たりをつけた。
    「お前のお母さんはローが探しに行った」
    「ロー?」
    「……モコモコちゃんだ」
    「モコモコちゃん!」
    完全にそっちの名前で覚えてしまったらしい。モコモコちゃんだなんて呼んだと知られたら後で怒られそうだが、そもそもロー自身が撒いた種である。
    モクモクとモコモコ、途中でごちゃ混ぜにならないのだろうか。
    「じゃあモクモクちゃんはわたしを探しに来たの?」
    「ああ、まあそれもあるが。まだ逃げ遅れた人がいないか探しに来たんだ」
    ぐるりと周囲を見る。辺りはすっかり人気がなく、この階の避難は完了しているようだった。
    「おい、患者を見なかったか?白衣を着てない人たちのことだ」
    「患者さん?患者さんが迷子なの?」
    「ああ、まだ何人か逃げ遅れているんだ」
    少女はうーん、と顔に手を当てて考えている。
    「でもここより下に患者さんいないと思うよ。患者さんが入れるの、ここよりも上だから!」
    「そうなのか」
    「ここはお仕事の人しか入っちゃ行けない場所だってお母さんが言ってた」
    そう言われて、スモーカーはここがドクター・キャロルの言っていた開発研究フロアだということに気付いた。
    確かに少女の言う通り患者が逃げていくなら下層には行かないだろう。
    「お仕事の人しか入っちゃダメなら、言いつけ破ったお前はこんなとこまで来ていいのか?」
    「わたしはいいの!お母さん見つけなきゃ行けないから!」
    せっかく会話を逸らしていたというのに、目的を思い出した少女はじたばたと騒ぎ始める。自然系のスモーカーにとっては少女がいくら暴れようと痛くも痒くもないが、それで落として怪我をするのは少女の方だ。
    「モクモクちゃん、下ろして!わたしはお母さん探しに行くの!」
    「そりゃ無理な相談だ。患者とお前、どっちも迷子になったんじゃこっちが困る」
    「私迷子じゃないよ!お母さんの研究室の場所までちゃんと一人で行けるもん」
    「って言われてもな」
    はいそうですかとここで少女を解放する訳にはいかない。この後どんな事態が起こるか分からないのだ。
    「分かった。じゃあお前は俺と一緒にこれから患者さんを探しながら上に向かおう」
    「お母さんは!」
    「お母さんならモコモコちゃんと一緒にすぐにこっちに来る。そんときにお前がまだ下にいたら会えなくなってしまうぞ」
    じっ、とスモーカーが目を合わせてそう言えば「ぐぬぬぬ」と少女は口をへの字に曲げた。
    少女もスモーカーが言っていることが正しいと分かっているのだ。しかし自分の力で母親を見つけたいという気持ちもある。この年頃の少女なら、そんな全能感を持っていても不思議では無い。
    最後のひと押しに、スモーカーは言葉を続けた。
    「もし迷子の患者を助けたって知ったら、お母さんもお前を褒めてくれんじゃないか」
    「お母さんが、褒めてくれる」
    「俺も、お前はいい子にしてたってお母さんに言ってやる」
    「ほんと……?」
    少女の青い瞳が恐る恐るスモーカーを覗き込んだ。
    子供にわざわざ嘘をつくこともない。ちゃんと一緒に上まで来るのなら、ドクター・キャロルにそのくらいは言ってやるつもりだった。
    「ああ」
    「……分かった、モクモクちゃんと一緒に行く」
    少女は暴れるのを止めて、こくんと頷く。
    少女をそっと下に下ろしても、どこかへ行くこともなくピタリとスモーカーにくっついていた。
    「モクモクちゃん、おてて」
    「あ?」
    「一緒に行かないとお母さんに褒めてもらえないから、おてて繋ご」
    ん、と少女は真上に手を差し出す。
    差し出された手を見て、スモーカーの脳裏に一陣の雷が落ちた。
    抱き上げるのも肩車をするのもなんとも思わなかったが、まさかこんな小さい子供と手を繋ぐことがあるとは思わなかったのだ。
    恐る恐る差し出された手を取る。スモーカーと少女の身長では歩くのにやっとの体勢だが無碍にすることも出来ない。
    「モクモクちゃん、手大っきいね〜」
    「大人だからな」
    「私も大人になったら手が大きくなる?」
    「それは……お前の成長次第だ」
    スモーカーという男がよほど少女の興味を引くようだ。膝に乗ってきたことといい、こんなに一生懸命手を見つめる目といい。
    「こんなに手が大きかったらお母さんのお仕事のお手伝いもできるかなあ」
    繋いだ手を嬉しそうに握り、少女はぽつりとこぼした。
    「なんだ、将来は研究者になりたいのか?」
    「んーん、わたしお花屋さんがいい!」
    「そりゃ頼もしい」
    この年頃の子供らしい夢だった。
    「でもね。お母さん、いつも頑張ってるからわたしも助けてあげたいの。わたしまだ子供だからお手伝い全然できないけど」
    でも、と少女は言葉を詰まらせる。
    普段は無邪気に笑う少女も、こんな大人だらけの世界で背伸びをしている。
    可愛らしい夢の傍らで現実を見ている。
    それがどうしようもなくスモーカーが保護したあのパンクハザードの子供達と重なって、スモーカーはしなくても良いお節介を焼いてしまった。
    「手が大きくなくても、身体が大きくなくても、大人じゃなくても助けることは出来る」
    ぱちりと、少女は目を丸くしてスモーカーを見上げた。
    「お前がそうやってそばにいることだ」
    その青い瞳がきらきらとスモーカーを見詰める。
    「そばにいること?」
    「そうだ。お前が花屋でも、研究者でも、子供でも。そばに居るだけで親ってのは喜ぶものだ」
    「わたしがそばにいるだけで」
    少女はその言葉を繰り返し呟く。
    「……だから、早く他の迷子を探して上に行くぞ」
    「うん!」
    少女はスモーカーの手を握ったままぴょん、と跳ねる。
    その手をしっかりと握り直したスモーカーは、今度こそ患者を探すために前へと一歩を踏み出した。
    そのはずだった。

    突如感じた殺気と、次いで刺すような衝撃に、己の見聞色が警告する。
    飛び散るガラスに紛れて、スモーカーは少女の手を引き壁際に身を寄せた。
    「っ!」
    それは銃撃だった。
    幾つもの鉛玉がガラス越しに二人を襲う。
    「きゃっ!」
    手で顔覆う少女を死角に押し込んで、スモーカーは射線の大元へと視線を向けた。
    吹き抜けの向こう側、スモーカー達よりも上のフロア。
    粉々に割れたガラスの隙間から鉄錆のような匂いと潮の匂いが立ち込める。
    銃を持った相手がこの施設に侵入しているという事実と、その相手がスモーカー達よりも頭上を陣取っているという最悪な二重構造を突きつけられる。
    相手を確認するためにそっと死角から顔を出す。その瞬間を狙っていたかのように銃弾は壁にめり込んだ。
    内心で舌打ちをする。
    幸いなことにスモーカーは自然系であり銃弾をものともせずに相手を確認できた。
    数は最低でも三人、多くて五人。全員が銃火器を武装している。
    ここより上の階にはまだ逃げ遅れた患者もいるはずで、さらにスモーカーはか弱い少女を抱えていた。
    いつの間にか敵が乗り込んできていることに気付けなかった己の失態を恥じる。海兵としてこの場にいてどうしてこんな事態になろうか。
    まださらに上にはシェルターに避難した多くの民間人達がいるのだ。
    少女を強く抱き寄せて、眉を顰める。
    そんなスモーカーの葛藤の裏で、少女ははっと息を呑んだ。
    「お母さん!」
    少女の視線の先を慌てて追う。
    割れた窓の向こう側、斜め下の階下からこちらを見あげる母親とローが目に入った。



    突如聞こえてきた銃声に、ローとドクター・キャロルは咄嗟に視線をガラスの向こう側へと向ける。
    母親を呼ぶ子供の声が響き渡った。
    「アリス!」
    女史がガラスに駆け寄って娘の名前を呼ぶ。
    「ばっ、」
    ローが言い終わる前に両者の間に銃弾が走った。
    ロー達がいた場所のガラスが粉々に砕け散る。
    敵はロー、スモーカー達両方を狙うことが出来る位置に複数構えているようだった。
    「馬鹿か、銃撃が聞こえたのに声を出すやつがあるか!」
    「っでも、アリスが!」
    小声で母親に叱咤を飛ばす。
    ローが見つけられ無かった少女がスモーカーに保護されていたという事実に安堵すると共に、全く笑えない状況であることにも苛立つ。
    いくら海軍本部中将が娘のそばに着いているとはいえ、命を奪う銃弾がいとも簡単に飛び交う戦場に母親の精神が耐えられるはずも無い。
    「分かっている。あいつらを纏めてこっちに寄せる。あんたは身を低くして隠れてろ!」
    ぶっきらぼうながら安心させるように言い聞かせたローは向こう側の二人へと視線を定める。
    入れ替えるのは廊下にあるガラスの破片。着地が少々不安だが、スモーカーなら何とかやるだろう。
    「ROOM、"シャ──"」
    ローが半透明の膜を広げた瞬間、今度は二人に向かって鉛の雨が降り注いだ。
    「きゃっ!」
    「くそっ」
    ローは半透明の膜を消してドクター・キャロルを掴み柱の影に身体を押し込むようにして逃げた。
    今ので強制的に能力を解かされた。
    苛立ちで再度能力を展開しようと手を掲げる。今度狙うのは敵自身だ。
    そう思って臨戦態勢に入り、
    かんからん、と何か金属のものが跳ねる音がして、ローはさっきまで自分たちがいた場所を振り返った。
    それは廊下に缶のようなものが投げ込まれた音だった。缶はごろごろとこちらへと転がってくる。
    「っ息を止めろ!」
    その瞬間、プシュウと勢いよく煙が飛び出した。



    「おいロー!くそっ」
    ガスのようなものを投げ込まれた光景を見て、スモーカーも警戒を強める。おそらくは催涙ガスだ。スモーカーにはまだしも、少女に母親、そしてローにとっては効果的だ。
    視界の端で消えた彼らが銃弾に倒れたとは思いたくないが、そのあと投げ込まれた催涙弾のせいで合流する希望も絶たれてしまった。
    とにかくこの場から逃げおおせなくてはならない。
    この場には銃を持った人間が何人も彷徨いている。もしも少女が凶弾に倒れるようなことがあればスモーカーに救う手だては無い。
    「走れッ」
    後退した廊下の先へと少女と共に走り抜ける。
    その曲がり角、スモーカーの鼻先を掠めるようにして振り抜かれたナイフに思わず仰け反った。
    煙になって少女を抱えながら後退したスモーカーは今しがた攻撃を仕掛けてきた相手の姿を確認した。
    「お前……!」
    ──ナイフを持った相手は患者服を着ていた。
    その人物は、

    『半年前に指を切断する大怪我をしました』

    先程ドクター・キャロルによって紹介されていた患者であり、

    『一ヶ月前にALiC細胞を移植されました。見てください、もうあんなに回復して』

    「っ!」
    今はスモーカー達に武器を向ける敵であった。
    男の振り上げた足が放った衝撃波をスモーカーは武装色の覇気によって防ぐ。
    その技に見覚えがあった。
    見覚え所ではない。将校なら身につけている者も多い。
    だが彼らは正義を背負っている姿では無かった。
    こんな一般人のような成りで、わざわざ一ヶ月も潜伏して、いとも簡単に施設へと入り込めるとすれば思い当たる候補は一つしかない。
    「ふざけるなよ、CPだと!?」
    スモーカーは吐き捨てるように言った。
    繰り出される嵐脚を避けながらじりじりと後ろへ下がる。しかしここは場所に限りのある研究所内だ。
    世界政府が何故スモーカー達を攻撃するのか。なぜこんな場所で銃撃戦なんてものを始めたのか。何故わざわざ民間人に扮してまでこんな場所にいるのか。
    スモーカーは海兵、そしてローは四皇だ。四皇には交戦許可がない限り攻撃することは出来ない。
    「おい、どういうつもりだ。俺は海軍本部、スモーカーだ。ここは民間人の施設だぞ、何を考えている」
    攻撃の手を一時的に止めた男は、無表情にスモーカーに告げる。
    「お前には関係ないことだ、スモーカー中将。大人しくその少女を渡せ」
    「!」
    少女は悲鳴交じりに驚きの声をあげる。
    スモーカーはCPの視界から少女を隠すように間に立った。
    「まさか潜入するためにわざわざ指を切り落としてくっつけたのか。つくづく理解できないな」
    「……」
    スモーカーの皮肉めいた言葉にはぴくりとも表情を変えない。
    「外部からの攻撃もお前らの仕業か」
    「……お前に答える必要は無い」
    CPからはにべもない返答が帰ってくる。どうやら例え海兵だったとしてもまともに会話をする気がないようだった。
    CPがこの少女を狙っているというのもおかしな話だった。
    有名な研究者の娘だからだろうか、それとも彼女自身に理由があるのだろうか。この状況では判断できない。
    しかし相手にそう言われたからと、はいそうですかと少女は渡すほどスモーカーも能天気では無い。
    先程は銃弾を、そして今はナイフを向けている相手にそんなことをしてやる義理も義務も正義もなかった。
    この少女に何かあるというのなら、その時はスモーカーの手で連れていく。
    「スモーカー中将、これは世界政府の任務だ。そこをどいてもらおうか。我々に素直に従うなら事を荒立てたりはしない」
    「既に十分荒立ててると思うんだが?」
    そう言いながら、スモーカーは十手と拳を構えた。
    「狂犬の名は偽り無いようだな、中将。どうなっても知らないぞ」
    「それはこっちの台詞だ。子供にそんなおもちゃを持ち出しやがって」
    「噂通り、愚かな男だ」
    言うがいなや、相手から再び嵐脚が放たれる。
    研究室の壁やガラスが飛び散り、スモーカーの視界を塞いだ。
    「っ!」
    間に繰り出されるのは武装色を纏った攻撃だ。自然系であるというアドバンテージはこれで消えた。相手は己の能力をよく調べてきている。この施設にスモーカーが来ると分かったその時から、準備は念入りに済まされていたのだ。そしてスモーカーがそうであるなら、きっと死の外科医のこともまた。

    「モクモクちゃん、こっち!」

    はっと意識を後ろに向ける。
    いつの間にか通路の奥まで逃げていた少女がスモーカーを呼んでいた。
    目の前の男の魔の手がスモーカーをすり抜けて少女へと伸びる。
    その男の背後に向けて、スモーカーは十手を振り下ろした。
    地面へと叩き付けられた男の潰れたような呻き声が聞こえる。
    スモーカーはその隙に煙となって少女の待つ通路へと体を滑り込ませた。
    少女の待つ廊下にはなにやら仕切りのような物がある。
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