日向と若島津は本当に凄いプレイヤーだ。
だからこそ、彼らは東邦サッカー部員からすれば、燦燦と頂点に君臨する憧れと羨望の対象であり、そして──妬み嫉みの対象でもある。恐らく二人とも、そのどちらの感情も完全には理解していないと思われるのだが。
反町はたまにそんな二人を危うく思う。なぜなら彼自身は、どちらの感情も非常によく知っていたからだ。それが洒落にならない結果をもたらすかもしれないことも、痛いほどわかっていた。
こういう事情であるから、ごく自然だったのだと思う──反町が、その先輩集団の会話を偶然聞いた時に、反射的に話しかけたのは。
「ねえ、何の話してるんです?」
反町がそう声をかけた時には、男たちはぎょっとして、凄まじい形相でこちらを見つめてきた。それもそのはず。その男たちが話していたのは、およそ他人には聞かせられないであろう罵詈雑言、陰口の類。
対象は、日向と若島津だ。
「……いや、その、なんでも」
彼らは一様に口をつぐむ。それはそうだろう、反町は中学二年にしてすでに一軍入りしており、日向と若島津の後を追いかけている男だ。彼らから見たら、日向と若島津と仲の良いチームメイト、と見られていてもおかしくはない。
そんな警戒心を解こうと、反町はうっすら笑った。
「別に、続けてもらって構いませんよ。おれだってあの人たちをよく思ってるわけじゃないですから」
すると、男たちは意外そうな表情になり、各々顔を見合わせた。
「おまえも? ……でも、一軍で仲良くやってるじゃねえか」
「あはは、そりゃ表立って不仲になんかするわけないでしょ。ねえ、よく考えてくださいよ。あの男さえいなかったら、おれは名門東邦学園のエースストライカーになれたかもしれないんですよ?」
「……」
男たちが黙った。その言葉は彼らを納得させるには十分だったようだ。
「ねえ、おれも混ぜてくださいよ。どこかで吐き出さないと、気が済まないから」
「……ああ」
こうしてすんなりと、反町はこの最悪の集団と打ち解けることができた。
──目的? そんなものは決まっている。
日向と若島津に、妙なことをしないか、見張ろうと思ってのことだ。
***
彼らはいつでも、日向と若島津に対し、陰口を叩くだけの存在だった。反町は何度かそれに付き合い、愚痴を聞いて、そしてありもしない愚痴を彼らに聞かせた。
それだけで済んでいればよかったのだ。
しかし、ふとしたことから彼らは実際の行動に出始めた。
「あいつらのロッカーに、ごみ入れてやろうぜ」
最初にそう言ったのは誰だっただろう。周囲は少したしなめるようにした……と思う。反町もそれに乗っかって、「流石にそんなことをして、バレたら洒落にならない」とかなんとか、言ったと思う。
けれど、止まらなかったのだ。反町以外の誰もが抱えた妬み嫉みはもう限界を超えていた。その杜撰で劣悪な嫌がらせは実行に移された。
反町は仕方なく、人知れずそれをなかったことにしようとした。
「日向さん、今日はおれ、早めに上がります」
そう取り繕うと、日向より先にロッカーに向かった反町は、持参してきたビニール袋を広げた。そして、誰もいないのを念入りに確認し、日向のロッカーを開く。そこに詰められた醜悪なごみを、一人でビニール袋の中へと移し替える。若島津のも、同様に。
それを終えてビニール袋の口を縛り、着替える前に手を洗おうと手洗い場にたどり着いたところで、しかし、反町は日向に見つかった。
「反町? 今日は先に上がったんじゃなかったのか」
「あーっと。控室に虫が出て。潰したら手が汚れちゃったんで、洗ってるところです」
「……本当に?」
日向は時折、こんなふうにとても鋭くなることがある。
反町はたじろいだ。
「その。……大丈夫です」
我ながら変な返答だと思う。日向が眉をひそめた。
「何がだ。おまえ、最近様子が変だぞ」
「そうですか? 自分じゃ、何も変わりないですけど──」
「少し、暗くなった気がする」
反町は本当に、そうは思っていなかった。ただ、もしかしたらあの集団と話していることで、少し悪影響を受けたのかもしれないな、とは思う。
それでも辞める気はなかった。あの男たちの行動を見張り、日向と若島津に影響を及ぼさないようにする。それは自分にしかできないと思っていたから。
「大丈夫です、日向さん。おれは、いつも通りですよ」
「……わかった、その言葉、信じていいんだな?」
「ええ」
日向はそれで引き下がった。彼は帰り際に反町の頭をぽんぽんと軽く撫でて、踵を返す。
その背中を反町は見つめた。憎らしいほど好きな東邦学園エースストライカー。彼の歩く道の先は、決して汚させるものかと、そう思った。
***
嫌がらせという実際の手段に出てから、劣悪な集団の罵詈雑言も更に酷くなったように思われた。反町は相変わらずその末席にいて、曖昧に笑って悪口を聞いたり、たしなめたり、あるいは怪しまれない程度に参加したりしていた。
しかし、何かしらの悪戯、嫌がらせをしても、反町が裏で影響の出ないように根回しするせいで、日向たちに実害が何にもないこともあって……次第に彼らのそれは、エスカレートした。
「日向の野郎を校舎裏に呼び出して、ぼこぼこにしちまおうぜ。あの足さえ使い物にならなきゃあいつもおしまいさ」
最初のうちだったら出るはずもなかった、そんな言葉が飛び出したのは、何か月経った頃だろうか。
反町は唖然とした。流石にそんなことをやらせてたまるかと思った。
念のため、彼らの言動がエスカレートしてからというもの、反町は会うたびに会話を録音するようにしていた。これさえあれば証拠にはなるだろう。反町は彼らと別れた足で職員室に向かい、その経過を暴露した。
先生は顔を青くしていた。首謀者はすぐに職員室へ呼び出されたようだ。あんなことをしようとしたのは一時の気の迷いで、これで頭を冷やしてくれれば。反町はそんなことを考えながら、職員室を後にした。
けれど話はそれで終わらなかった。
「おい、反町」
「──はい?」
オフの日、呑気に買い物に出かけた反町は、学校を出て少しのところで、声をかけられた。
振り向いて、反町は気づいた。先輩方に囲まれている。
「……なんですか?」
「なんですか、じゃねえよ。おまえだろ、先生におれたちのこと、チクったの」
「そんなわけないじゃないですか、やだなあ」
「おまえ以外に誰がいるってんだ」
じりじりと詰め寄られ、反町は少し後ずさった。彼らは反町がバラしたことを確信しているようであった。どうにも、言い逃れができそうにない。
「参ったな、こりゃ……」
喧嘩は不得手だ。できないわけじゃないとはいえ、こんな多人数を相手取っては不利すぎる。しかし、だからといって背中を向けて逃げるにも難しそうだ。ぎゅっと握りこぶしを作り、反町は静かに息を吐く。
まあ、仕方ない。これも、日向たちのため。そう腹を括った──、その時だった。
「──ぎゃっ⁉」
変な声を上げ、反町の斜め後ろにいた男が打ち倒された。いきなりのことに思わず振り向くと、そこには今まさに暴漢の頭を派手に打ったモノが転がっていた。
……ボールだ。
「おい、反町に何してくれてんだ」
どすの聞いた声が路地の入口から聞こえてきて、反町含めそこにいた男たちは一様にそちらへと視線を向けた。その先には、怒気に身を包んだ日向小次郎が立っていた。
そうか、このボール──反町は気づいて、うっすら笑ってしまった──どうやら彼の弾丸シュートが、思いっきり叩きこまれ、男を昏倒させたということらしい。
男たちも状況を理解したと見え、露骨にうろたえ始めた。
「な、何って──別に、何も──」
「そ、そうだ、おれたちは、反町と話をしてただけで……そっちこそ、何しやがる⁉」
この期に及び、往生際悪く無罪を主張しようとする男たち。しかし、日向はひと睨みし、それを一蹴する。
「何わけわかんねえこと言ってんだ。早くここから消えろ。でねえとてめえら全員、シュート練習の的にする」
背筋が凍るような、猛獣の視線。
「っ、てめえ……!」
馬鹿にしやがって、と輪の中の誰かが吠えた。そして遮二無二、日向へと飛びかかろうとする。その刹那、反町の体も勝手に動いていた。まさに自分の足元にあるボールを、日向に向かって放る。
「日向さん!」
「──」
男の無謀な突貫より、反町のアシストのほうが早かった。そして日向の連携も、完璧だった。ボレーで蹴り返したそれが、見事に男の腹に突き刺さり、男は蹲るようにしてその場に崩れ落ちる。
それが合図となったかのように、怯えていた周囲の男たちは何事か叫びながら逃げ出し始めた。一人逃げればもう総崩れで、あっという間に路地裏には誰もいなくなっていた。
そして、残されたのは日向と反町だけ。
二人きりになるとどこか恥ずかしくて、反町は目を逸らした。
「あー……すみません。お恥ずかしいところを」
「何言ってんだ。おまえ、あいつらがおれたちに危害を加えないように、根回ししてくれてたんだろ」
「え、どうしてそれを」
日向は溜め息をつき、反町の頭を小突く。
「バレてねえとでも思ったのかよ」
「あう」
「あのな、反町。そういうことするのは勝手だが、覚えておけ」
「は、はい、なんでしょう」
日向と目が合う。彼は真剣に、こう告げる。
「おまえは大事な、東邦学園のストライカーだ。自分のことも、大事にしろよ」
そして踵を返し、そのまま、背中は遠くなっていく。
小突かれた額をこすりながら、反町はそれを見送る。
「──おれはいつから、そっち側の人間になったんだろうなあ」
反町は日向と対等に、東邦学園サッカー部一軍に席を持つ同志だ。それは、いまだに実感がないことなのだ。圧倒的な強さを持つ日向を妬み、羨み、──憎しみに近い感情を持っていたことだって、あったはずなのに。そう、今さっき逃げて行ったあの男たちは、反町がなるかもしれなかった何かなのだ。
けれど実際のところ、反町はああなり損なった。
あの愚鈍で蒙昧な先輩たちと付き合って、よくわかった。反町はもう彼ら側の人間ではない。飛び交う悪口や陰口の中、彼らに合わせようとしてどれだけ絞り出しても、嘘をついても、反町はもう日向への悪感情を持っていなかったのだ。
「……日向さん!」
反町は意を決して日向を追うことにした。行こうと思っていた買い物も、もうどうでもよかった。追いつくと日向は、ゆるりと振り返った。
「なんだ」
「ありがとうございます、今日は──、あと、それから、すみません」
「何に対して謝ってるつもりだ?」
「あ、ええっと、その。あいつらに構って、練習さぼった分の、謝罪です」
すると、日向は苦笑した。
「そう思ってるんなら、許してやる。今日は夜までみっちり練習するぞ」
「はい!」
二人は暗い路地を出て、太陽の下を歩いて行った。