痺れ紅と天華「痺れ紅と天華」
――いた、いた。私服でも変わらぬ縞羽織。
俺は、瓦屋根から一気に滑り降りて、伊黒の背後に着地した。
銀座の通りを行く紳士淑女たちが、目を丸くしてこちらを見る。ま、派手な登場ってのはこういうもんだ。
「よぅ、伊黒!派手を嫌うお前が、銀座デェトとはなぁ」
「…!宇髄、なんでここに…?」
伊黒が、びくりと振り返る。“デェト”の一語が効いたようだ。耳の端がほんのり赤らんでいる。
「聞いたぜ?甘露寺とお前の誕生日祝いデェト。女に誘われたなら、男は派手に応えてみせねぇと」
「そ、そんな特別なことは…いつも通り、だ…一緒に歩いて、おしゃべりして、甘味…でも…」
声が小さくなっていくのを、俺はわざと追い打ちをかける。一歩寄って、耳元で囁いた。
「そぉかぁ?甘露寺の方は、この日の記念に“オトナの階段”、一歩昇りたいんじゃないのか?お前の手で…」
奴の左拳が鋭く動く。咄嗟に右手を挙げて受け止めようとしたが、こいつ、やたら体術に長けてるんだ。俺の手をすり抜けた裏拳は、胸に届く直前で勢いを殺し、ぽすん、と力無く当たった。
「お前には、話した通りだ…。俺の育ちは鬼に穢されている。天女の傍にあるだけでも…浅ましい」
俺は、伊黒の小さな拳を包んだ。本当は、こうやってコイツを包んでくれる奴が必要なんだ。
「以前も言ったけどな、背負いすぎだろ。赤ん坊の頃に食った粥の出所まで、責任持たなくていいんだぞ」
「…俺自身が、気になるんだ」
致し方あるまい、と奴の手が俺の掌をすり抜けていった。
――なぁ、そんな細い背中に、全て一人で背負って、死にに行く気なのか?伊黒よ…
生きてる間くらい、共に歩む女がいてもいいだろうに。
「なぜ、ついてくる?」
しばしの沈黙を破ったのは、伊黒だった。
「別にぃ。同じ方向なだけだし。ほれ、この先の薬局。嫁たちの紅の材料買いにな」
俺は小さく欠伸して答える。
「紅を手ずから調合するのか?――まさか」
「おう。くのいち御用達、口付け一つで毒を盛る。痺れ紅だ」
伊黒は、足を止めた。
人目を避けるようにして、小声で問う。
「…愛する女に、そんな物を使わせるのか」
俺は笑った。派手にな。
「当たり前だろ。俺は嫁たちを守る。が、いくら俺が神だってな、戦場じゃいつ死んじまうかわからねぇ。――それでも、嫁たちには生き延びてほしいんだよ。牙を隠すくらいなら、紅に毒を仕込む。それが俺の愛し方よ」
伊黒は視線を伏せる。唇が小さく震えた。
「…俺は…俺なら、たとえば、甘露寺の…無垢な唇に毒を贈ることなどできない…ただ、天上の花のままに笑っていてほしい」
二人の歩調がしばし重なる。
「…だから、お前の過去も何も聞かせねぇってか。甘露寺は知りたいだろうに」
「いらない。彼女の清純な世界を穢す話など」
――なるほど、潔癖なコイツらしい。俺から見ると、その覚悟は美しい…痛ましいほどに。
「それが、お前の決意か…。よーし!俺様が二人の仲をもっと派手に近づける銀座名所を教えてやろう。まず、二階が静かな蕎麦屋は――」
伊黒が大きな目を剥いた。
「銀座名所なら調査済みだ。それに、なんだ貴様!いきなり蕎麦屋の二階とは、いやらしい!!」
蕎麦屋の二階、鰻屋の二階といやぁ、男女がしっぽり睦み合う定番だ。伊黒がプイと顔を逸らすが、赤くなった首筋は隠せねぇ。可愛い奴だ。
時計塔が近づいてきた。伊黒の歩調が緩む。おそらく、ここで待ち合わせなんだろう。
俺は、ポンと伊黒の肩を包んで送り出す。
「…よし、あとは任せたぞ。派手に決めてこいよ」
――生きてるうちに。全力で愛するもんだぞ、男ってのはな。
じゃあな、と俺は背を向け、銀座の華やかな雑踏に紛れていく。
ふと振り向くと、伊黒は真っ赤な顔を文庫本に埋めていた。
了