魔王の物語•信 退魔師糸師冴と魔王潔世一の旅が始まってから、四年が経過した頃であった。その頃になると、冴と潔の、当初のような物騒な空気は随分と穏やかとなっていて、相変わらず監視という付きっ切りの毎日ではあるもの、幾分かの融通は利くようにはなっていた。昔は指先一寸でも潔が冴に触れてしまったら問答無用で殺されかけていたのだが、今では肩がぶつかっても罵倒は飛んでこないし、むしろ潔が迷子になりかけたら冴が引き戻してくれるようになった。口が汚いのは冴の元々の性格なので改めることは無いのだが、そこも含めて、潔は冴のことを信頼している。冴も表には出さないが潔を認めつつある。退魔師と魔王の歪な関係であるが、健全なのは間違いない。
もしこのことがばれようものなら…一人だけ気付いているであろう人間はいるが何を考えているのかわからないため除外している…糸師冴という人間を知っている者に露見すれば、動転していたに違いない。ある者は天変地異の前触れではないかと神に祈り出すかもしれない。それほどの衝撃事実である。
糸師冴は大の魔族嫌いだ。嫌悪する忌み嫌うの程度ではない。その異様な誇り高さと比肩する程度の魔族嫌いだ。糸師冴と共に魔族退治に赴いた新人はこぞって恐ろしいけど大変凄かったと大絶賛の嵐である。筆舌に尽くしがたい罵詈雑言を浴びせて、一切の慈悲を見せることはなく殲滅である。その糸師冴が、四六時中魔族、それも魔族を統率する存在『魔王』と行動を共にしているというのは、ありえない事実なのである。
勿論、冴の魔族嫌いは継続している。今だって魔族は心底嫌いだし、旅を始めた頃は、それはそれは酷い態度を取っていた自覚はある。それが四年の間に、徐々に緩和されつつあった。
「冴―。夜ごはんできたよ」
書簡で通読していた冴は、開いていた聖書を閉じて、食堂に向かう。四年前は潔が料理するのもずっと監視していたし、少しでも離れようとすると問答無用で攻撃していたのだが、今では目を離す隙が多くなっていた。
食卓に並べられていたのは、冴が注文した魚の煮つけだ。あとは炊き立ての白米とみそ汁と副菜が三皿。
この魚は本日の朝市で、魚屋の店主におすすめされた旬のものだ。良いもの入ったんだが一匹どう?という親しい声に対して、ありがとうございます、わ、これは良い魚ですね!おすすめは何ですか?と潔が投げ返して。俺だったら煮つけだね。例え嫁が焼くといっても絶対に譲らない。と自慢気に吹聴していたので。じゃあそれにしますね。お願いします。と親し気に話しながら購入したものだった。魚屋の店主は潔をすっかり気に入って、おまけだよといくらの醬油漬けも付けてくれた。恰幅も気前も良い店主はいつも潔に何かしらおまけをつけてくれる。これが冴一人だったら何もくれなかっただろう。そのいくらの醤油漬けは本日の夕飯の一品となっている。白米の上にのっけて食べると絶品だ。
「味噌汁…」
「解った?冴のご両親からもらったの使ったんだよ。良いご両親だよな」
うまい。味噌汁だけでなく、煮つけだってうまいし、米もうまい。四年前だったら考えつかなかった食卓だ。冴は美味いと感じても、口には出さないし、顔にも出ない。そういう性分である。親ですら心配するぐらいであるのだが、冴のその心情を読み取ったのか、潔はすごく嬉しい!と顔に出ている。本人は無自覚だ。
「あとさ、今日天気良かったじゃん?布団も干したから、シーツもふわふわしてるよ」
冴が本部に出す書類作成やら何やらで忙しそうにしている間にされていた細かい気遣い。細かいところに目が届くし、気付いたら生活の細々が片付かれていることに、冴は年単位で気付いた。
冴は少しずつ自覚している。この目の前の魔王に、自身が絆されつつあることを。
十三歳から一人で生活していた頃は、掃除もできないし洗濯もできないし食事だって自炊すらも出来なかったので、金の力で解決してきた。掃除と洗濯は家政婦を雇ったが、問題は食生活。ただでさえ退魔師という職業は長期遠征だったり夜警だったりと急務が入って食べずに捨てることが多々あったため、携帯食で済ませて来た。あんな味の薄い棒でよく五年間も飢えを凌いだなと、自分を褒めるぐらいだ。ただそれに比例して余計に気が荒立ってはいたと思う。それが、栄養をしっかり考えられた食生活に改善されたことによって、精神的にもだが肉体的数値も上がったのは間違いなく、改めて食事の大切さが身に染みたのである。
今では食事だけでなく、掃除も洗濯も潔がしている。買い物も潔だ。冴は仕事するか、鍛錬するか…暇なときは潔の作業に手を出して一緒にしている。潔が外に出るときは必ず付きそうようにしていた。
そんな感じで、潔によって生活が成り立っているのだ。昔では考えられない。こんなに穏やかに時間は流れるものなのか。それも全部潔によるものだから…ほだされ始めるのも無理はない。冴だって一人の人間で、男なのである。
それに付け加えるとしたら、潔の内面も要因の一つだ。
改めて記載しよう。潔世一は魔王である。魔王とは、地獄を統率する者。教会の不祥事によって現世に召喚された最上級魔族である。伝承や悪魔学では魔王は七体と伝えられているが、魔王はこの潔世一、一体のみである。何故七体説が伝えられているのかは、それは潔世一が有する七つの能力を曲解したためにありもしない伝承が生まれたからである。生まれたというよりも、ある者らが作ったが正しいが。
潔世一は魔王であるが、元人間である。世界で初めて、人間から魔族に転化した者である。潔世一が魔王と呼ばれるようになった歴史については、『魔王の物語』と呼ばれる口語りを一読して頂きたい。
元人間で現在魔王である潔世一は、人間をこよなく愛している。人間時代から寛容で温厚な人柄の持ち主で、加えて世話焼きであった。市場を歩いていても、通い詰めている店の店主に顔を覚えられていろいろおまけしてもらうのもそう。道に迷ったご高齢のご婦人を案内するのもそう。大事な財布を落として困り果てた初対面の人間相手に一緒に探す等の面倒を見るのもそう。容姿容貌は平々凡々であるが、色んな人間に好かれるのはそれが起因だろうなと、冴は分析する。
つくづく思う。目の前で呑気に食い物を頬張るこの人畜無害が、本当に魔王でいいのだろうかと。魔王だったらもっと残虐非道の限りを尽くしてもいいぐらいだ。というか何かの拍子で暴れたら冴だって討伐の大義名分が得られたというのに、こんな調子なので拍子抜けもいいところだ。
「でさ、冴。ちょっと相談があるんだけど、食事の後でいい?」
潔の言葉に対して、冴は、ああと答えた。これが当初であったなら、くだらないことだったらお前を殺すぞと殺気を振りまいて脅していたところだった。
食器を片付けてから、潔が切り出した。何やら少し深刻な表情で。
「実はさ、相談っていうのが…………言いにくいことなんだけど」
目を泳がせた後、恐々とした様子で、冴の目を見て切り出した。
「ここに、あと一人、加えたいんだけど…」
「何を?」
「住ませる人数を…」
潔の表情から、面倒なことに巻き込まれているのだろうかと、冴は推測する。
「人数じゃなくて、魔族の数の間違いじゃねえのか?」
「仰る通りです…」
潔は肩を落とし、言いにくそうに、説明し出した。
「俺の眷属なんだけど…」
眷属というからに、魔族であるのは確定だ。冴の大嫌いな魔族。既にこの小屋敷には魔族三体が影ながら潜んでいる。三体とも、潔が地獄から連れて来た眷属だ。普段は姿を見せないが、地下にいる凛の見張りと、冴と潔が不在時の屋敷の守りの役である。
「で?」
「その…凪なんだけど、覚えてる?ほら、『怠惰』の眷属だよ」
言われても直ぐに思い出せなかった。思い出せないということは、冴にとってはただのヘボモブである。
「知らね」
「知らねじゃないでしょーが。冴は見た筈だろ?ほら、四年前のあれで」
言われて記憶を手繰ると、辛うじて思い出したのは、やたらとデカい二体の魔人だった気がする。
「黒いのと白いのとどっちだ?」
「お。偉い。そこまで思い出せたんだな。正解は白い方だよ」
「いたな、そんなもん。で?」
頬杖を突きながら問い質すと、潔はやけに緊張気味に答える。
「あの時、凪はかなり深手だったんだよ。慌てて修復したのはいいけど、身体が最小化しちゃって。時間が経てば元の大きさに戻る筈だったんだよ。それが…」
潔は一瞬目を泳がせた。その仕草をするということは、相手の機嫌を損ねる不安を感じている証拠だ。
「…仲間が見ているんだけど、四年経っても、凪の奴全然回復しないみたいで。面倒見てる方が疲弊してるみたい」
「そうか」
「それで、さっき、そいつから連絡があったんだけど」
「へえ」
「その…玲王っていうんだけど…玲王も限界らしくって、それで、あの…」
煮え切らない態度にいい加減にキレてもおかしくなかった。四年前の冴であったなら。今ではただ、魔王が困ってるのを見るのは愉快だな、としか思っていない。
「…凪を一時的に預かってもいい?」
「…というと?」
「その、凪がある程度大きくなるまで、ここで俺が世話したくって…」
「お前がする理由は?」
冴は決して反対しているつもりではない。今更一体増えようが何しようが、視界に入れなければいないのと同じ、という感覚であるのだが。こうしてわざと切り込むような言い方をするのは、潔を困らせたいという冴の悪戯心である。冴にとっては軽口のつもりではあった。あったのだが、生来からの無愛想と能面さと口の悪さによって、本人はそう思わなくても、言われた方としては尋問されているような恐怖を感じてしまう。現に潔の顔色は若干青い。
「玲王に頼むってお願いされて…あいつ何でもこなす器用大富豪なんだけど、その玲王が困ってるの可哀想に思えて…それで冴さんが良ければ少しだけ代わってあげたいと思っておりまして…」
言葉選びが下手になりだしているのが、冴には愉快で堪らない。こうしてたまに魔王を弄る楽しみを冴は見出してしまった。
「俺の監視下でな。それが条件だ」
間を計らって言おうとしていた言葉を口にすると、潔はほっと胸を撫で下ろした。冴とは違って潔は表情が豊かだ。ころころ変わる表情の変化を眺めるのは何度も見たくなる面白さがある。
「ありがと。じゃあ早速呼んでもいい?」
「好きにしろ」
「解った。じゃあ一瞬だけ行ってくる」
本当に一瞬のことだった。瞬き一つの間で、潔の腕の中には、小さなものが収まっていた。
「ただいま」
そう言ってくるということは、本当に一瞬だけ行って帰って来た、ということだ。冴は潔の腕の中に納まる物体に視線を移した。
「それが『怠惰』か?」
「うん。随分小さくなったけど、凪だ」
白い布に包まれたそれは、一見すると人間の赤子に見える。ただ、それの蟀谷から伸びていた小さな羊の角のような突起物が、それが異形であることを表わしている。それからは瘴気を感じるが、こんなものだっただろうか?冴が四年前に感じたのは、もっと大きかった筈。
「あの時は本当に死ぬかの瀬戸際だったからな。修復するにも俺も大変だったよ。出すのが一番大変だったけどな」
なあ、凪。腕の中で無防備に眠る小さなそれを、潔は小さく揺らしてあやしていた。
もし、ここに聖骸布があって、それを潔に被せるとしよう。そしたら聖女画になっていたに違いない。潔からあふれ出ているのは母性に違いなかった。
「そいつ、お前の『怠惰』の化身なんだっけか?」
「そうだけど、そうじゃない。俺が魔王になる為に喰った、玲王と契約していた魔人だったんだよ」
魔王の物語にも出てくる『怠惰』が凪である。
腕の中にいた赤子がぐずり出して、潔は一切慌てないで、ゆさゆさと小さく揺りかごのように揺らす。手慣れた手つきだと、冴は思った。
「お前、ガキの面倒も見れるのか?」
「まあ、うまくはないけどね。子供は大切だからさ」
「お前らの餌だからか?」
「違うって。だって、次世代を作るのは、次世代の子供達だろ?子供は時代の宝だよ」
この魔王は時折達観したような物言いをする。やたらと古臭いというか、険しい山と谷を何度も乗り越えたような、人生の長のような、教え導く師のような、説得力のある言い方をするのである。
「これからやかましくなるけど、冴の邪魔にはならないようにするから」
「ん」
冴は淡白に返した。冴もすっかり丸くなった、と潔は思っているようだが、冴の思惑は別にあった。
現代まで言い伝えられている魔王についての伝承は、魔王の配下が歪曲した虚実である。四年前の魔王討伐作戦で目の前の赤子の完全体が『怠惰の魔王』と判定されたが、実際には『怠惰の魔王』では無かった。正確に言えば、魔王が持つ『怠惰』の力の元となった上級魔人である。
冴が今回、潔の提案を呑んだのは、『怠惰』の特質を直ぐ近くで見定めることにあった。魔族嫌いを我慢して、今後この『怠惰』が何かしらの影響を及ぼした時に対処できるように、その生態を観察する為である。
という訳で了承した冴であるが、次第に、胸の内がやけに落ち着かなくなってきた。
「よしよ~し。凪。良い子だな~。そういえばお尻の蒙古斑は元気か~?あ、あった。お前も散々蹴ってきて大変だったんだぞ~」
あうあう、あうあう。
「ん?眠たいのか~?寝てていいぞ。たくさん寝る子は育つからな」
うう…。
何だこれは?冴は見ていて胸やけを起こしてきた。潔が甘いというか、優しすぎるというか、まるで母親である。こいつ女だったか?たった十分の間に俺は判断を間違えてしまったか?と思う始末であった。
冴は知らなかったのだ。育児というものが、どれだけ大変なことであるのかを。その無知故の過ちであった。
赤子はよく寝る子であった。抱いてやるとすやすやと直ぐに眠りに入る。だがそれは条件下の元である。
ベッドで寝かせると潔が出ていってから十数分経過したが、潔は戻ってこない。さらに数十分経過しても戻ってこないので、不審になって潔を探した。潔はいつも使っている寝室の椅子に腰かけて赤子を抱いている。
「何してんだ?」
「あ、ごめん。凪が手放せなくて」
探しに来た冴に謝りながら、潔は自分のベッドに赤子を寝かせようとした。シーツの上に置いた瞬間、赤子がぐずり出して。
んぎゃあ、ぎゃあああ、あああああ、あああああ!火を噴いたように泣き出した。あまりにも突飛過ぎて冴は面を食らった。
「ごめんごめん、ほら、もうちょっとだからな」
潔は困り気味で赤子を抱き直した。赤子は途端に鎮火したように泣き止んだが、寝入ったかと思ってもう一度ベッドに置こうとすると、また泣き出した。抱っこして、寝て、泣いて、抱っこして、寝て、泣いて…。その繰り返しだ。
「オイ、何でそいつ寝ないんだ?」
「いや、寝てるんだよ。寝てるんだけど、抱っこじゃないと寝なくて」
潔もずっと抱っこしていると腕が疲れる筈だ。だが、少しでも離れると、敏感に察知して泣き出すのである。その、赤子特有の甲高い泣き声…耳に劈くような高音は、身体に悪い。
「さっさとそいつ何とかしろ。お前魔王だろ」
「冴は魔王を何だと思ってるんだよ?」
結局何度試みても赤子は落ち着かなかった。気付いたら朝だ。食事は潔が一任しているので早く取り掛からなければならないのだが、赤子が腕から離れてくれないのが難点だ。致し方ないので、シーツを抱っこ紐の代わりとして、背中におぶさって調理に取り掛かった。冴はそれを見ていたが、赤子の存在が重たそうだと感じた。
「ごめん、今日時間無いから、手抜きで良い?」
「喰えたら何でもいい」
潔が作る料理は家庭料理が多い。とりわけ最近は冴の故郷に合わせた味付けに凝っている。これが遠征直後だと、遠征先の伝統料理が食卓に並ぶ。
と、今回は冴だけの分しか並んでいない。
「テメエは喰わねえのか?」
「凪で手いっぱいだからさ」
冴が食事している間、潔は向かい側に座って、赤子をあやしていた。今までは二人きりだったのに、赤子一人増えると、こうも違うのか…と冴は心中で呟きながら味噌汁を口に含む。いつもより味が薄いような気がした。
「ほら、凪、チだぞ。たんと飲めよ」
真正面で背中を向けていた潔から一瞬“チチ”という単語が聞こえた気がした。冴は味噌汁を噴いた。
「へ、何汚な」
冴は目をひん剥いて、こっちに向き直った潔の手元を見た。服は脱いでいない。”チチ”は無い…いやそれも当たり前か。赤子は潔の指先を口に含んで吸っている。
「何してんだ…?」
「何って、食事…」
「何を飲ませてるんだって意味だこのヘボ」
「俺の”血”だけど」
ほら、と指を引っこ抜いて見せた。唾液だらけの指先にぱっくりと割れ目があって、そこから黒い血が流れている。冴は安堵の息をいっぱいに吐いた。
「騒がせるなよクソが…っ」
「ご、ごめん…」
冴が想像した”チチ”であった場合、これからどういう目で潔(こいつ)を見なければならないのか考え直さなければならない事態になっていた。
赤子は一日ずっと潔から離れないで、潔の腕の中に収まっていた。冴が瞑想して鍛錬して仕事して食事して入浴した後も、ずっと赤子は潔の腕の中だった。これから寝るという時も、潔はベッドに腰をかけたまま赤子を抱いていた。
翌朝起きた時、隣のベッドは空っぽだった。厨房かと思いきや、部屋の片隅に潔はいた。昨日と全く変わってない態勢で。赤子の声で冴が起きてしまったら申し訳ないと思い、一晩ずっと抱っこしていたらしい。
ちょっとぐらい良いんじゃねえのか?と思っていても、そのちょっと、が通じない生き物なのだと冴が知ったのは、それからまた翌日であった。
結局潔は赤子から手が離せないので、いつもやっている家事が思うように出来なかった。抱っこ紐をしていればいいと思っていても、太陽の光に当たってしまったら消失してしまう脆弱な生き物であるので、洗濯は冴が渋々やることになった。毎日の楽しみであった朝市にも出かけられず、散歩にも出れない、一日赤子と家に引きこもり。二日目にして冴は引き受けるべきではなかったか?と後悔し始めた。
「ほんとにごめんな…。でも、もう少し大きくなったら手が離れると思うから、それまで我慢してくれる?」
「…それまで何日かかるんだ?」
「ん~…まあ、段々大きくなってきてるけど……この大きさだと三か月くらいだから、あと一年くらい、かな?」
一年。一年も我慢しなければならないのか。
「あ、今のは人間換算した場合だから。ほら、昨日と比べて三か月分くらい成長してると思うから」
いや知らん。見せられてもわからん。赤子の大きさなど、経験の無い冴には解らない。
「でもほら見てよ。可愛くない?赤ちゃんってなんでこんなにも可愛いんだろうな?」
ずっと休みもなく世話をしているというのに、潔は疲れた様子を見せない。目を柔らかく細めて、微笑しながら、腕の中の赤子を見つめている。その顔から目が離せなかった。
「冴、仕事の方はどう?」
「今回は長期の遠征だから、しばらくは内地だ。だが、こいつがいる間は休暇を取る」
「まあ、そうだよな。ごめん」
一々謝るぐらいなら、こんな面倒なことを引き受けるんじゃねえよ。という言葉が喉元から出かけたが。凪。と柔らかく呼んであやす潔の顔を見ていると、言葉が溶けたように消えた。マジで変な面をしやがって。冴から見たら、潔の今の顔は、特別に間抜け面だ。その間抜け面から目が離せない。
赤子がやってきて六日目。依然、変わらず。変化といえば。
「冴!冴!見てくれ!凪がはいはいしたんだ!」
報告資料に目を通していた冴は、潔の喜びように、何事だと思って中断して見てみれば、なんて事はない小さなものだった。
絨毯の上に赤子を置いて、少し離れたところから潔が声かけすると、潔を求めて赤子が四つん這い移動しただけのこと。それもたったの十歩ぐらいの距離だ。それを潔は大喜びしていた。
「すごいぞ凪!今日は凪が初めてはいはいした記念日にしような!」
赤子を両手で高く掲げてくるくると喜び踊る潔が、冴には意味が解らなかった。一瞬だったが、赤子が冴を見た。冴は眉間を寄せた。むっと眉間が引き締まるような感覚が何なのか解らない。ただ、面白くない、ということは感じ取った。
「くだらねえことで俺を呼ぶんじゃねえ」
「何だよ、その淡白なの。冴はすごいと思わねえの?」
「思わねえ」
「冴にだって凛がいたじゃん。凛の成長が嬉しいって思ったことねえの?」
「ねえよ」
そもそも凛とは二歳違い。物心がつく前から一緒にいたという感覚でしかない。
「冴って子供好きじゃねえの?」
小さな手に顔をぺたぺたと好きにされていた潔からの問いに、冴は間髪入れずに答える。
「好きじゃねえ」
「そうなん?例えば?」
「声がうるせえ。面倒くさい。直ぐに泣くし壊す」
「それって凛のこと言ってる?」
「何でもかんでも凛につなげるんじゃねえ」
でもさ。と、赤子を縦に抱いてあやしながら、潔は口にする。
「俺、冴は良い父親になると思うんだよね。こんなに強くてかっこいい父親って、子供からしたら自慢になるじゃん」
冴は一瞬耳を疑った。
「お前、俺の事そう思ってたのか?」
「うん。てかさ、冴って恋人いないん?」
「…いねえ」
「何で?勿体な。冴かっこいいんだから女の子にモテるんじゃないの?」
「…モテてはいただろうが、邪魔でうるせえ」
「そんな言い方ないでしょうが!今お前、全世界の男を敵に回したぞ!」
俺はモテたことねえのに。と不貞腐れる潔に、そんなことねえだろこの人たらしと、冴は鋭く打ち返した。
この魔王の特質には『色欲』も含まれている。こんなモブが『色欲』なんてなんの冗談だと冴は鼻で笑っていたが、この四年の中でよくよく理解してきた。
潔のそれは、恐らく本人の意図したことがないものだろう。仕草、表情、声…ふとした時に、潔に目が引いてしまう。ただ一緒にいるだけだが、一度惹かれてしまうと目が離せなくなりかけるのだ。それを感じているのは冴だけではない。これは先輩退魔師のレオナルド・ルナがぼやいていたことだが、時折潔からは麝香に似た色香が薫る時があるという。現に街中や退魔師教会本部でも潔に色香にやられているものが存在している。長老の一人や、名前の知らない一級退魔師、どこにでもいるような事務員、パン屋の店員、やたらと話しかける八百屋のおっさん等々。冴が常に傍に置いているので事件は起きていないが、もしこれが野放しにされていたなら、絶対に修羅場が起きていたと確信できる。それほど潔の色香は凄まじい。特に才能があって個性が強い男程顕著である。
前回の遠征ではこういう事態が起きた。南方で発見された魔術師の捕縛に赴いた一件である。有力者に囲まれていると情報を手に入れたので、その真偽を確かめるべく、豪族の長の元へ潜入した。でっぷりと脂まみれの肥満体型で、毎晩のように美しい踊り子を取り寄せて酒宴を開くような欲望に忠実な初老の男であった。潜入した時もその真っ最中で、浴びるように酒を呑みながら、侍らせた美しい女達に奉公させていた。その光景を潔と見た冴は手前で停まった。そして潔に短く、行け、と命令した。
え?俺?一人で?と潔が嫌がったので、当たり前だこのタコ。お前『色欲』だろうが。あのデブに取り入って探ってこい。と背中を蹴り上げたのだ。潔は蹴られた背中を擦りながら、渋々と豪族長に接近した。話しかけたが、豪族長は潔をあしらった。潔は一瞬救援の視線を冴に送ったが、冴は眼光で行けと合図を出した。潔はがくりと肩を落として、豪族長に話かける。最初こそは煙たがっていた豪族長も、潔をじろじろ見るなり、舌舐めずりして、目の色を変えた。潔を傍に座らせて、酒を注がせて、にやけ顔を晒した時点で冴は胸糞悪くなった。自分から行けと言った手前あまり大きな声では言えないが、この時程気分が悪くなったことはない。そして、毛むくじゃらで油まみれの芋虫みたいな太い指が潔の肩に乗った瞬間、それは爆発した。冴が乗り込んで、銃をちらつかせて、豪族長を脅迫する形で情報を得た。その情報を元に、魔術師の捕縛に成功した訳だ。
『魔王の物語』でも、この魔王の色香が原因で国が二回も滅ぼされたという。こんなヘボでモブ面のどこにそんな魅力が?と疑問を抱いていた過去の自分に現状を見せつけたいぐらいだ。
「人たらしってなんだよ!」
「その言葉のまんまだヘボ」
「直ぐそう暴言を吐く!赤ちゃんの前で汚い言葉使いは止めろって。凪が真似したらどうするんだよ?」
「お前は母親か」
舌戦は、もういいよこんな暴言男、悪影響が出る前に行こうなあ。と凪を抱えて潔が退散したことで終了した。どうせすぐにけろってすんだろ、と冴も作業の続きに戻る。どこからかまた赤子の泣き声が響く。集中力を乱されて、肺に溜まった息を全て吐いた。赤ん坊一人増えただけなのに、この騒がしさは一体何だろうか。
不満の一つでも言ってやろうと意気込むのだが…潔の顔を見た途端にそれも霧散してしまうのが不思議な話で。あまりにも潔が優しい顔をするものだから、まあいいか、と解消されてしまうのが奇異な話である。冴は子供は好きじゃない。けど、子供と接する時の潔の顔は…見ていても飽きないと、思うのである。
作業途中で、ふと思い起こす事項があって、それを夕食の時に潔に話した。
「今日は凛のところじゃねえのか?」
「そうそう。よく覚えてたな」
地下室に封じている凛が、血肉を欲して暴走するのが今晩である。最後に凛の暴走を宥めたのが一か月前。周期の日数が伸びつつあるので、冴もうっかりすると忘れかける。
「俺も行くからな」
「はいはい」
「その間、そいつ、どうするんだ?」
潔に抱かれながら、指先をちゅうちゅうと吸う赤子を指差す。
「指を差すの止めなさい。イガグリにお願いするよ」
「…大丈夫なのか?」
「多分。でも、凪もイガグリや雷市に慣れた頃だし。ちょっとの間だけだし。大丈夫だろ」
と言ってのける潔であるが、冴は油断ならないものを赤子から薄っすらと感じ取っていた。今も一瞬、赤子は冴を見たのだ。敵意は無いが、観察しているような、牽制をしているような視線を投げてくる。赤子の振りをしているだけなのではないかと、冴は感じる時がある。だが潔は何一つ疑っていない。
夜半も近くなった頃、ぬっと現れた坊主頭に赤子を預けた。赤子は潔に手を伸ばして暴れ出したが、ふわふわな白い髪質を優しく撫で上げて宥める。
「ごめんな凪。直ぐに戻るからな。今日も一緒に寝よう」
優しい声音で囁いて赤子と離れるが、赤子は姿が見えなくなった後もずっと、うう、やらあうう~、やらと叫び続けていた。
地下室の扉を開くと、生臭い湿気の匂いが鼻についた。頻繁に洗浄しているのだが、血の匂いがこびりついてしまったらしく、落とせないでいる。
地下牢の前には、気の短いのとでくの坊が見張っている。前者は雷市、後者は我牙丸というのだが、冴は覚える気は皆無である。地下牢の檻を開けて、潔が一人で入っていく。冴は地下牢の外で、丸椅子に座って陣を取る。
「久しぶり、凛」
闇夜に向かって潔が声をかけると、獣の低い唸り声が唸る。床を揺らす様にゆっくりと踏み歩いてくるのは、魔族に変貌した、冴の弟、凛である。今晩も血に飢えており、眼光を迸らせて、鋭く並んだ牙の間から唾液まみれの舌を垂らしている。
それから時間を置かずに、一方的な饗宴が開始された。
最初はただ暴れるだけ。目の前にのこのこと現れた獲物を引きちぎり、八つ裂きにし、ぐちゃぐちゃに壊す。原型もとどめずに壊し尽くす。それが何時間も続く。あまりにも暴れすぎて地下牢全体が地震のように激しく揺れる。今まで壊されずに済んだのは、雷市と我牙丸とイガグリによる功績が高い。地下牢から漏れだす凛の瘴気もろとも結界で閉じ込めているのだ。そんな醜悪な光景を、冴は冷静に傍観している。助ける気は無い。どんなに壊れたって、潔が死なないことを学んだからだ。暴行が終わると食事に入る。それが一番に醜悪だ。いつも最悪な気分になる。ぐちゃぐちゃに壊した後、再生途中の身体を貪り始める。骨も肉も内臓も脳髄も全部喰い出すのだ。潔の身体は瞬時再生するので、永遠に尽きることのない、無限の食い物と凛は認識している節があった。少なくとも冴にはそう見えていた。
今日はどうやら趣向を変えたいらしい。真っ先に引きちぎった四肢をぶん回して遊び始めた。楽しそうだな。と一言ぼやく。本気でそう思っているつもりではない。思考を変えなければやってられないのだ。
「こら、待て、凪」
「あ?」
上から声と気配が近づく。目線は自然と下に向く。赤子が四つん這い歩行で階段を駆け下りていた。
「オイ、イガグリこいつちゃんと見とけオラァ」
「だってこいつが勝手に…っ」
坊主頭が慌てて降りてきて、赤子を拾おうとした。赤子は食い入るように地下牢を見ている。その様子に、冴は違和感を抱く。
「な、なぎ…っ」
心臓ごと胸部を踏みつけられた潔が、仰向けの状態から頭だけを仰け反って、赤子を見返している。赤子の瞳孔が開いた。
瞬間、瘴気が爆発した。重力を思わせる重量のある黒の瘴気が閉鎖空間の中を荒れ狂い出す。余波だけでも薙ぎ払われる勢いだ。現に坊主頭が吹っ飛ばされた。
ガン。鉄がへし折られる音が木霊する。瞬き一つの速さ。視線を地下牢に向ける。
「なぎ…?」
「――――お前、潔に何してんの?」
怠けきった間延びする声がする。その声を耳にしたのは、冴は初めてだ。初回は声が一瞬だけだったので記憶に残っていない。だが、その容貌は記憶に残っている。
長身の体躯、白い頭髪に、蟀谷から伸びる雄羊に似た角、身体は人間の雄に限りなく近いが、肘から先が白質の毛皮に巻かれているかのように分厚く、分厚い手は岩石をいとも簡単に破壊できる圧力がある。白い布を繋ぎ合わせたような衣を纏っているが、それは瘴気で生成したものである。
限りなく人間に近い個体。それは魔人と呼ばれる魔族種だ。中でも、特別に強い力を有している。それこそ人々が彼を『怠惰の魔王』だと勘違いするぐらいには。
その魔人――――凪は、潔を甚振っていた凛の喉元を掴み、制圧していた。
「潔は、俺が倒すって決めてるんだ。なんでお前が好き勝手してんだよ。潔を好き勝手してもいいのは、怠惰(俺)だけだ」
喉元を圧迫された凛が巨腕を振るった。爪が凪の身体に深く食い込む。だが、凪は痛みを感じてないように不動だった。凛の喉元を掴んでいた手から黒い球体を直撃させた。肉が抉られる。辛うじて皮一枚だけが残っていたお陰で、絶命せずには済んだ。
「凪」
足元で潔が叫ぶ。続いて、凛が咆哮を上げた。敵と認定した怒りの咆哮だ。凪は冷徹な表情で睨み返す。一対一に対峙する二体の化け物が、同時に地を蹴った。手を掴み合い、拮抗する。二つの瘴気が衝突して奔流を生んだ。息もつかぬ凄絶さの中に、冴は潜り込む。
状況は最悪である。凛と凪が戦い合っている。凛が襲い掛かり、凪は爪を回避しながら、黒い球体を凛に放つ。触れた箇所から肉を丸ごとえぐり取られていく。人間であったら即死は間違いない。身体の至る箇所が抉られた凛の身体が倒れかける。両手に黒い球体を生成した直後、光の鎖が凪に巻き付いた。
「テメエ…まんまと騙しくらましてたな?」
冷静な態度で、冴は怜悧に凪を射抜く。光の鎖は冴から伸びていた。
「人聞きの悪いこと言わないでくれる?」
「黙れ。口利いてんじゃねえ。魔族ごときが」
「ちょっと酷くない?俺、あんたに尋ねられたから答えただけなんだけど?」
「聞こえなかったのかクソ魔族。話しかけるんじゃねえ。骨まで砕いて犬の餌になりてえのなら話は別だがな」
「うわ。口汚な。潔、よくあんたと一緒にいられるよね?羨ましいや」
「…あ?」
凪がさらっと言った言葉を、冴は聞き逃さなかった。
空間自体を裂くような咆哮が上がった。上げたのは凛だ。瘴気が比例して膨れ上がる。眼光の輝きが更に増して、光で拘束されていた凪を捉える。が、その間に、血塗れの潔が割り込んだ。
「落ち着け、凛」
凛がまた咆哮を上げた。凪のいる方向に向かって突進を繰り出す。潔が身体を張って止めにかかった。続いて飛び込んだ雷市が潔と一緒に凛を押し返す。
「我牙丸」
「あいさ」
潔と凪の間に分厚い壁が生え出でた。我牙丸の魔族としての能力だ。壁の向こうから伝導する揺れで地下が激しく揺れる。
「動くんじゃねえ。一歩でも動いてみろ。テメエの頭を首ごと吹っ飛ばす」
「へえ。やれるもんならやってみなよ。今の俺、虫の居所が悪いんだよね」
長身の体躯から瘴気が迸る。瘴気は巨大な髑髏に形作って、冴を威嚇する。魔王級に近いとされる最上級の瘴気。四年前よりも巨大に感じた。四年前は大量の封印術によって封じられていたから、差があってもおかしくない。これが本領なのだ。
冴もまた応戦する為、光の文言を纏う。
が、遮っていた壁が破壊された。
「凛、止まれ」
壁の向こうで倒れていた潔が叫ぶが、穴から飛び出した凛は凪に飛びかかる。黒い球体を生成した凪の右手が凛の懐に直撃した。穴が空いて黒い血が溢れる。だが、凪は目を見開いた。潰して抉った筈の穴から再生を始めていた。それも急速な速さでだ。
「魔族堕ちしても強いのかよ。まじやべ」
顔色を変えた凪の身体を爪で固定して、巨大な牙を剥いて肉を食いちぎりにかかる。
その寸前、冴が放った光の弾丸が凛の眉間に入った。苦悶の絶叫を上げて後退った凛を、我牙丸とイガグリが飛び掛かって、背後から雷市が羽交い絞めにする。凛は暴れ出した。咆哮を上げて、力任せに身体を捩じる。凪がその隙に攻撃の態勢に入り、それを読み取った冴が狙いを定める。
「―――――いい加減に黙れ」
低い声音が空間全土に轟いた。
凛の瘴気を、凪の瘴気を、丸ごと呑み込むような深い闇の瘴気が、場を支配する。ゆらりと立ち上がった潔を中心に流れている。光を帯びた双眸が凛と凪を射抜く。
「下がれ。俺に逆らうことは、許さない」
絶対零度の声が肉体ごと魂を絡み取りにかかる。怖気を感じる程、その姿は怖ろしく。確かに『魔王』であった。
「潔…」
凪が潔に手を伸ばしかけた寸前、冴が鎖を引っ張り、凪を地下牢の外へ投げ飛ばした。
凛が再び暴れ出したことで拘束していた三体も剥がされてしまい、慌てて地下牢から脱出した。最後に出たイガグリが地下牢の鍵を締める。中にいるのは、潔と凛のみ。
「に、逃げるぞこれは逃げた方がいいあんたも」
「俺に指図してんじゃねえ、殺すぞヘボ雑魚坊主頭」
「んなこと言ってる場合じゃねえんだよこの口悪退魔師」
雷市に押されて、冴は不承不承に地上に上がることにした。
地上は静寂だった。地下で魔族二体が破壊の限りを尽くす戦いをしているというのに、何もない静けさだった。朝までずっと静寂だった。
陽が昇ると同時に、冴が先に地下に降りた。何があったのかは大体察しはついた。半壊した鉄格子の向こうで身を丸めて眠る凛と、壁に背を預けて深い眠りについた潔を見れば。
怠惰(凪)は物置の中に封じた。尋問に入ったのは、潔が目を覚ましてからだった。
珍しく潔は目くじらを立てており、あれほど可愛がっていた凪を睨んでいた。
「…で、凪。全部話しなさい」
凪に正座を強いて、自分も腕を組んで目線を合わせて、凪に詰問する。凪はしおらしく、ごめんなさい、と謝罪した。
「俺、本当はいつでも元に戻れたのに。潔に構ってもらいたい一心で、わざと戻ってない振りをしてました」
「それで玲王を困らせたのか?」
「はい。玲王には悪いことをしたと反省してます」
「玲王の奴、お前の世話が大変すぎてやつれてたんだぞ。赤ちゃんのお世話がどれだけ大変なのか、知ってるだろ?」
「はい。こうすれば玲王が潔を頼るんじゃないかと思ってのことでした」
「困ってたのは玲王だけじゃなかったんだぞ。千切も柊もみんな困り果ててたんだ。解るか?」
「はい。反省してます。ごめんなさいをちゃんと言ってきます」
「ほかにもごめんなさいを言う相手がいるだろ?」
「潔…と、そこの人、ごめんなさい」
先程までの迫力はどこいったと疑いたくなる程のしおらしさで、壁の花を決め込む冴に、凪はぺこりと頭を下げた。
冴は複雑な心境だった。この、悪戯をした悪ガキと窘める親のようなやり取りもそうだが、今回の騒動の真相に苦虫を噛み潰した。
結局のところ、この六日間のことは、全部赤子になりすませたこいつのせいで。その目的が潔。何だそれはと叫びたくなるのを必死に抑える。この六日間の我慢は一体何だったのか。怠惰(こいつ)を三回ぐらい殺さなければ気が済まない。と、冴の心境とは裏腹に、潔はあくまで穏やかさを一貫させている。
「よしよし、よく言えたな。偉いぞ」
「甘やかしてんじゃねえヘボ魔王」
寛大に不問にしようとしている潔に、冴は即座に突っ込んだ。
「冴も許してやってよ。凪だって悪気があった訳じゃないんだし。凛のことだって俺を庇おうとしただけなんだし」
「そういう意味じゃねえんだよこのヘボ。ヘボが煮詰まってただのゲボ」
「そこまで言っちゃう?」
「ごめんなさい」
「ほら、凪も反省してるって。ほら言うだろ?七回許してと言われたら七回許しなさい。七十七回許してと言われたら七十七回許しなさいって」
「だからそういうことじゃねえっつってんだろ」
ここで潔に本気の拳骨をお見舞いしても神に許されると本気で思った。
「でもな、凪。そんなに俺に会いたかったんだったら、言ってくれれば良かったんだよ」
またくるりと凪と向かい合って、潔は言い諭す。因みにいうが、凪は潔よりも長身である。座っていても頭二つか三つの差はある。自分よりも大きな体躯の眷属を宥めており、凪はそれを甘んじて受け入れている。奇天烈すぎる光景だ。凪は唇を尖らせる。
「だって…潔、あいつのせいで、こっちには戻れないんでしょ?」
「そうだけど、でも一時的なことだし。丸く収まったら凪たちのところに顔見せに行くって」
でも、と、凪はいじけた口調で言い募る。
「…そんなんじゃ、足りない」
「へ?」
「俺、一生赤ん坊のままでも良かった」
「何言ってんだよお前」
はは、と潔は笑っているが、冴はぞぞぞっと寒気がした。
「俺、生まれて初めて赤ん坊になったんだけど」
「そりゃな」
魔族は自然発生による生態なので、人間のように幼少体から成長の過程を踏むことはない。その事実を冴は初めて知った。
「赤ん坊って最高だなって思って。だって、何もしなくてもいいし、好きなだけ寝れるし、食べ物だって世話してくれる人がいるし。今よりもそっちの方が最高じゃん」
「俺が全部世話したからな」
「潔だって優しくしてくれるし甘やかしてくれるし。何より誰よりも俺を優先してくれたし」
「そりゃ、赤ん坊ってのはそういうものだし?」
「そこの人よりも俺のこと見てくれた」
「その分大変だったけどな」
冴は早々に両者の差に気が付いた。何だこの温度差は?
「俺…ずっと赤ん坊のままでいたい。潔に育てられたい。玲王もきっと許してくれる」
だから。凪は潔の手を恭しく取った。
「一生俺を養ってよ潔。お願い。俺、潔の為ならいい子になるから」
やたらと甘い声で、凪は告白した。
何だこの茶番。冴は目元を抑えて、現場から目を逸らした。
「いやいや。そりゃ駄目だろ。俺が玲王に嫉妬される」
「そんなことない。玲王は喜ぶ。だって俺と潔だよ?絶対に喜ぶよ、玲王は」
「どこから来るんだよその自信」
はははは。と、潔は笑い飛ばしている。冴から言わせてもらえば、お前こそ何で笑えるんだよどういう神経してるんだ、である。
凪。潔は片方の手を引っこ抜いて、凪の両手の上に重ねた。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど。無理だ。だってお前の世話大変だったし、これが一生続くとなると考えただけでも恐ろしくなる。育児ってのは子供の成長が見れるから楽しいんだよ。一生地獄見るのは、正直嫌だ」
「潔…たまに酷いこと言うよね?」
「うん」
話し合いは、冴からのいい加減に終われの一言によって幕切れとなった。
凪は瞬き一つで地獄に還った。始めと同じく、潔が一瞬だけ地獄に行って送るという形だ。
「本当にごめんな、冴~」
「全くだ。このお騒がせクソ野郎」
今回の一件でよくよく理解したことが、冴にはある。
この魔王が誑かすのは、人間だけではない、ということである。
「ほんとお前といると碌な目に遭わねえ、トラブルメーカーしてんじゃねよ」
「俺だってわざとじゃないし~」
「この無自覚変態誑かし野郎」
「誑かしって何だよ!人聞きが悪いな!凪のあれは、親離れできない子供みたいなもんなんだって」
「お前マジで質悪い。もし俺の弟も誑かしてみろ?絶対に殺すからな」
「そんなんしないしやってもないって!」
だが、これでやっと、二人の生活に戻れるってことだ。得体の知れない赤子がいる生活よりも、何の邪魔がない方がいやすいものだ。
しかし、思い直してみると…悪い感じはしなかった、と思う。
赤子の世話をする姿も、何だかんだで様になっていた…もし、本当にこいつが子供を育てていたら…妙な想像が膨らんでは霞のように消えていく。
人たらしだのと責めてはいたが、そう言う己自身も随分と毒されている自覚はあった。最初は潔に対して疑惑しか抱いていなかった。人畜無害を装っているが、いつか絶対に化けの皮を剥いで、人間に害を及ぼすのだと。こいつにだけは絶対に心を開かないと、そう決めていた筈なのに。それが今ではどうか。
「冴?」
青の双眸が冴を見る。引き込まれそうになる青の色の前で、踏みとどまる。
「どうしたん?」
「何でもねえ」
いつの間にかそれは、信に転じていた。