魔王の物語•愛 それは遥か東の地にあった。そこはかつて、神が最初に作った人間が住まう楽園の地と呼ばれていた。開祖の場所。楽園。追放された土地。そこから罪が生まれたと言われる。
その場所に、冴と潔はたどり着いた。
「ここ、だよな?」
「中に入らねえと解らねえ」
楽園と呼ばれた土地は今ではすっかり変わり果てた土地となっていた。岩の砦は風化しきっており、炎の熾天使はどこぞへと消え失せて。豊かな実りの木々は総じて枯れ木と化していて。清らかな水の川は涸れてただの地の溝となり。獣一匹すらも生息していない。
そもそもここが本当にあの楽園であるのかすらも甚だ疑問である。伝承は当てにならないということを、六年前に冴は学んでいる。隣を歩く潔によってだ。あまりにも豊かな地であったから人々が根拠も無くそう嘯いていた可能性が高い。そう仮定してもおかしくない程に荒廃していた。
「本当にあるのかな?」
「目と足で探すしかねえ」
「そりゃそうだけど…なんか信じられないんだよね」
潔は半信半疑だ。冴の場合は最初から信じていない。冴は自分の目で見たものしか信じない。ただ、目的の為に、闇雲に探しているだけだ。この六年間ずっとだ。
冴は一級退魔師だ。今やその地位は最上級の『使徒』である。将来は長老入りを約束された絶対的地位だ。六年間危険度一級の魔術師を数多く捕縛した功績を讃えられて、教会より授与された。だが本人は至極淡白で、『使徒』になったというのに、喜ぶ顔一つもしない。曰く、俺が『使徒』になるのは世界一になるための通過点に過ぎねえ。この程度で喜んでる暇があったらより多くの魔族をぶっ倒す。である。同僚ですら引き気味になった独特な向上心に、それでこそ冴だなと称したのは、潔だけである。
潔とは六年の間柄である。その正体は地獄を統べる『魔王』である。地獄の頂点に座し、魔族と夜を支配し、人の世をひっそりと渡り歩く者、という意味である。姿かたちは十六歳の少年であるが、その実、六百年以上生きている人外の生物だ。退魔師の最終目標でもある、最強の魔人。その力の一部を上げるとするなら、人を魔に変え、魔を服従する。
退魔師とその天敵である魔王が、六年間も共に行動している。それは密約によるものだ。冴と潔の間に取り交わされた密約である。契約ではなく、ただの口約束だ。その口約束が六年間もずっと行使されている。退魔師と魔王という立場の違いからによる衝突が、この六年の間に数多く勃発したのだが、同時にそれほどの数の修羅場をくぐり抜け、多くの命を共に救ってきたのだ。
二人の密約。それは、六年前の事故で魔族となった退魔師の弟を、人に戻すことである。そのような外道の法は無いと散々言われ、ありとあらゆる書を読み通してもそれらしい記載は書かれていなかった。いよいよ、後も無いと思われた。
そんな時である。東方にて、密かに魔術師の軍隊を作ろうとしていた魔術師を捕縛し、尋問にかけた、その直後である。
ある一人の少年が駆けて来た。その少年が、冴と潔を指差して、声を上げたのだ。おにいさんたちだ!面識のない子供に呼び止められた冴と潔は、その言葉の意味を問うた。
その少年は言った。ゆめの中で、ふたりが、とおいところに行って、そこで木にぶらさがった二つの実を見つけたよ。その実はおにいさんたちが探してたものなんだよ。と。
冴は馬鹿馬鹿しいと歯牙にもかけなかったが、潔はその夢の詳細を、少年から事細かく聞き取った。入ったところがどのような場所だったのか、他に何が見えたのか、知っている場所だったのか、と、詳細に聞き込んでいた。
潔には思い当たりがあった。遠い昔に言い伝えられていた伝承の地があったと。天地開闢の七日間の最後に造られた人の始祖が住まい、後に追放された土地が、東の果てにあったという言い伝えがあったと。
行ってみよう。最後の頼みに縋る潔に同意して、ひたすら東に向かって歩き続けた。その六日後、冴と潔はその地にたどり着いたのだ。
夥しい枯れ木の間を縫いながら奥へと進行する。予感を胸にしながら、最奥を目指した。何故最奥なのかは、二人は無自覚であった。答えるとするなら、直感で、そこに何かあるんじゃないかと、感じていたからに過ぎない。
彼らは歩く。彼らは歩いていた。直感を信じて、歩いていたのだ。
やがて、それを見つけた。
一際大きな巨木が生えていた。それもまた枯れ果てていた。今に生き物みたく動き出しそうな不思議な雰囲気のある巨木であった。皺だらけの幹から伸びている何百もの枯れ枝。その一つ、地面に近づくように伸びていた一本の枝。その枝に、二つの赤い果実がぶら下がっていた。艶々に輝いており、充分に熟した、重みのある果実である。林檎に見えるが、よく見ると似て非なるものである。このような生気の宿っていない巨木に生えているのが不思議だと感じざるを得ない。まるで、一つの目的の為だけにそれは生まれたようにすら見える。
その一つを、冴が手に取った。実は簡単に取れた。
「潔」
それを、冴は、潔に差し出す。
「喰え」
冴は端的に命じる。潔はこれ以上なく目を見開いた。
「俺…?なんで?」
疑問の声を漏らす潔に、冴は淡白に答える。
「これが本当に俺達が探し求めていたものなのか検証する。だから先にお前が喰え」
「…それって、俺に実験体になれってこと?」
「今更何を言ってるんだ?」
当たり前のことのように冴は言ってのける。促す様に押し付けると、潔は緊張気味にそれを手に取った。
「…これが本物じゃなかったら、どうする?」
「いいからさっさとしろ。考えるのはその後だ」
有無を言わせない横暴な物言いには、潔は既に適応している。
深く息を吐いて、じっとその実を観察する。手に余るぐらいの大きさのそれからは、何も感じない。感じないのだが、胸がやけに騒いで仕方ない。これを食べてしまったら、何かが変わってしまうんじゃないかと、恐怖に似た予感が走る。
潔。冴の声に反応した。冴が見ている。蔑みではなく、潔のことを信頼しきった目で見てくれている。その目を、潔は気に入っていた。その目を見る度に綺麗だと何度も感嘆してしまうのだ。
潔は意を決して、口を大きく開けた。皮に歯を立て、食いこませて、顎の力で実を齧り、口の中に。咀嚼すればするほど甘い汁がたくさん溢れてくる。林檎とは違った味がした。どの果実にも該当しない甘味の正体について、六百年以上生きて来た潔ですら知らないものであった。その甘味を堪能してから、ごくりと嚥下した。
どくん。身体の内側が酷く痙攣した。何かがせりあがってくるような感覚がする。まるで身体の内側で洪水が起きているようだった。喉元にせりあがってくる嘔吐感に反射的に手を口で覆うが、耐えきれずに両膝を付いた。
がはっ。げほっ。がっ。身体の中に溢れる黒い体液が止めどなくせりあがる。溢れかえりすぎて口だけでは収まり切れずに咽喉の奥の脳髄にまで達していく。目から、鼻から、耳から、爪の先から、肌から、黒い体液が流れ出る。
「潔」
冴の声が耳に遠く響く。耳から出る黒い体液のせいで鼓膜がやられているせいだ。冴が近づいてくる気配がして、潔は咄嗟に冴を手で押し退けた。肩を押された冴は潔の意図を読み取って距離を置く。黒い体液に触れない距離まで後退していく。体液は広がっていき、泉を作った。質量を無視した夥しい量のそれは、園を染め上げる勢いで広がっていく。
潔は直感した。これは拙いと。反射で動いた。黒い体液が流れるまま、次元を移動した。
一人残された冴はあたり一面を見回して、潔の姿を探した。気配一つも感じられないことを悟ると、もう一つの実をもぎ取って、園を脱出した。
それからその園が出現することは二度と無かった。
潔が飛んだ場所は、六年前から拠点としている、街はずれの屋敷の地下であった。
地下牢まで到達したのは良いが、大量に失いすぎて、鉄格子に倒れるようにもたれかかった。
「潔」
「どうした、オイ」
日中地下牢の中で眠りについていた雷市らが跳ね起きて、潔の異常に慌てだす。
「雷市、我牙丸、イガグリ…」
三人に向かって手を伸ばし、それぞれの一部に触れると、三人を地獄に還した。
苦しい呼吸ばかりを繰り返し、近づいてくる”死”にも似た感覚に懐かしさを噛みしめた。
その時、もたれていた鉄格子の向こうで、凛が起きる気配がした。
「凛…ごめ…」
凛を起こしてしまった罪悪感を抱いたまま、訪れた闇に身を委ねて、瞼を閉じた。
深い眠りについた潔を、闇の向こうで凛は凝視すると、ゆっくりと、爪の生えた両腕を伸ばした。
冴がようやく屋敷に駆けつけた時には、やはり六日の時間が経過していた。
潔が身を寄せる場所といえば、この屋敷しか思い当たらなかったので、賭けであった。
真っ先に地下牢へと駆け下りる。
「潔」
全速力で駆け下りた冴は、その向こうの光景に足を止めた。
鉄格子の向こう側に広がる薄暗い闇の中。冷たい石畳の床に、潔が横たわっている。呼吸音が聞こえるということはまだ生きているという証拠。その潔は守られていた。何度も潔を八つ裂きにした爪で抱えていた凛によってだ。
にい…ちゃ…。凛は冴を認識したらしく、獣の入れ混じった声を発した。冴は壁に手をついて思い切り息を吐き切った。
鉄格子の中に入ると、凛は珍しく大人しかった。
「俺が来るまで、潔を守ってたのか?」
にいちゃ…。肯定するように声を発する凛の額を、冴は一撫でした。
「偉いぞ、凛」
凛がはにかんだ気配がした。夜目が利かない程暗いせいで、凛の表情が解らない。
冴は懐からもう一つの実を取り出した。それを凛に差し出す。凛はそれに、鼻を近づけ、そして。
喪失感と共に、潔は目を覚ました。
入り込む朝日が眩しく感じる。この六年間毎日浴びて来たというのに、その日は特に眩しかった。
身体が重いと思った。ひどく震えると思った。この感覚は、長いこと感じたことは無かったと思い、シーツの中で身体を丸める。
「冴…」
「何だ?」
ひどく心さみしくなって、名前を呼ぶと、背中側から声が返って来た。肩越しに振り返ると、精悍な顔が覗き込む。
「冴…俺、どうなってる…?身体が、変なんだ…」
全身の筋肉が震えているせいか、声まで震えていた。冴の手が前髪をかき分けて額に触れた。心地よくて、無意識に甘えたくなってしまう。額の次は首筋に無遠慮に伸びる。
「冷てえぞ、お前。寒いんだろ?」
「さむ、い…?」
そうだ。これが、寒いだった。最後に寒いと感じたのは、随分と久しい。魔族堕ちする前…まだ人間だった頃だ。
ここが、自分と冴が寝起きしていた部屋だと気が付いて、隣のベッドに視線を向ける。いつも冴が使っていたそこには、冴とよく似た横顔の男が横たわっていた。
「凛…」
凛だった。間違いなく、凛だ。凛は人間に戻っていた。寸分変わらない姿で。
「冴…」
「無理すんじゃねえ」
冴に向かって手を伸ばすと、その意図を読み、潔の首と枕の間に腕を差し込むと、体重を傾けないように配慮しながら抱き起した。冴の胸元に顔を置いて、腕を力なく肩に置いてぶら下げる。震えていた身体が、冴から伝わる波によって収まっていく。これが暖かいという感覚だと思い出す。
「やったな、冴…俺達、やったんだ…」
「そうだな」
「俺、正直、最初から諦めてた…冴は最後まで諦めてなかった…っ」
「俺は欲深い男だからな。諦めが悪いんだよ」
「知ってる…」
「お前、泣いてんのか?」
「泣いてねえし」
目頭は熱いし嗚咽が漏れているが、泣いてないと潔は否定する。目から零れるものをこっそり冴の服で拭いて隠した。
「うるせえ…」
冴の向こうから恨みがましい声が鳴った。あ。冴が先に振り返って、冴に支えられながら潔も遅れて見る。
固く閉じていた瞼が開いた。黒の前髪がさらりと落ちながら、顔が向く。やはり、冴と同じ形の目だ。
「り…んっ」
突然支えを失って、身体が前傾して、そのままベッドから転がり落ちた。床にぺしゃんこに潰れる潔など目もくれず、冴は凛の前に仁王立ちになる。
「…凛」
「んだよ…」
凛は冴を睨み上げ、冴はそんな凛を涼しく見返す。
「…身体は?」
「別に」
「記憶は?」
「…ほとんど覚えてねえけど」
「そうか」
無言。無言。
てっきり兄弟の感動の再会が繰り広げられるんじゃないかと期待していた潔の方が一喝したくなるぐらいの無言が続く。
「あの~…俺、席外した方がいい?」
二人の視線が潔を射抜いた。地面に転がり落ちた態勢のまま、潔は苦笑する。
それから直ぐ、潔は冴によってつまみ出された。それから先、兄弟がどんな会話をしたのか知らない。もし魔族のままであったら、扉越しでも会話を耳にできた筈だった。
今ではそれは、もうできない。扉に背をもたれても、何も聞こえない。
その事実が、潔の現状を思い知らされ、底知れない恐怖を与えた。それから耐えるように、両膝を抱えて丸くなる。
潔。日の差し込まない角度から聞こえた声に反応する。そこには険しい表情をした烏、七星、時光、斬鉄、柚、猿堂寺がいた。
「潔さん…っ」
七星が駆けつけようとするが、烏が潔に視線を固定したまま、腕を強く掴む。
「烏さん」
「今の潔に近づいたらあかん。俺らの瘴気は、今のあいつには有害や」
烏は何もかも見抜いていた。長い間、信じ合っていた仲間を裏切ったような罪悪感に襲われる。
「ごめん…みんな、ごめん…っ。俺だけ戻って…っ」
「ふざけんなや、凡。別にそれはどうでもええねん。俺らは、俺らの意志で魔族堕ち(こうなった)んや。それ以上しょうもないこと言うようならドタマかち割ったる」
冷淡な声が冗談ではないと表わしている。潔は髪をかき乱し、奥歯を噛みしめた。
「別にお前がおらんくても、俺らのすることは変わらんわボケが。お前と会うのは今日が最後になるやろ。この家は餞別や」
じゃあな、”元”魔王。そう言い残して、七星らと同時に闇に溶け込んで消えた。
残された潔は、ぐちゃぐちゃになった感情を堪えるも、涙が止まらずにいた。
せめて、冴と凛には聞こえないようにと、声を押し殺すことしか出来なかった。
それから二か月後、人間になってから初めて、潔は冴と共に退魔師教会本部へと赴いた。今回も危険度一級魔術師を捕縛した功績は既に本部中に流れており、賞賛の眼差しと声援が冴に集中した。
冴がルナに足止めを喰らっている隙に、潔は冴から離れた。
「ごめん、冴。ちょっとだけ離れる」
オイ。冴が不機嫌に呼び止めようとするが、ごめんと躱して、潔は半ば駆け足である人物を探した。
魔術師取締審査部受付に、その人物はいた。
「アンリさん!」
受付担当者と談笑していた帝襟アンリは、肩を上下させる潔を見るなり、目を丸くする。
「潔くん、どうしました?」
「お願いが、あって…っ」
人間になってから体力の急激な低下も目立っていると思い知らされる。息を整えながら、アンリに頭を下げた。
「お願いします!絵心さんに会わせてください…っ!」
アンリはすんなりと承諾した。まるで潔がそう頼んでくることを予測していたかのようだった。
アンリが案内したのは、本部の中でも随分と端っこの部屋だった。そこが、奇人長老、絵心甚八の職務室であった。
お邪魔します。アンリの後に入った潔は、部屋の現状に顔を顰めた。
「…いらっしゃい、潔世一」
絵心甚八はケチャップたっぷりのトマトパスタを頬張っていた…書類やら脱ぎ散らかした服やらゴミ袋が散乱した部屋のど真ん中で。ごめんね、潔くん…。アンリが申し訳ない表情でゴミを拾いだしたので、潔も手伝った。
潔が座るスペースを作り、大量のごみ袋を引っ提げて、アンリは退室していった。大変だな~…。と潔はアンリに同情した。
「はい。粗茶だけど」
「ありがとうございます…」
そしてこの絵心甚八(じんぶつ)。アンリが片付けている間も一切手を出さなかったし、ありがとうもごめんなさいも一言も無かった。アンリの苦労を垣間見た。
「…で、俺に訊きたいことって何?」
湯呑を独特の持ち方で飲みながら、絵心甚八は問い質してくる。出された茶を一口飲んで、それが玉露だと味だけで悟りながら、本題に入る。
「…絵心さん。俺、本当に人間になってしまったんでしょうか?」
ずずず。飲み下す音をさせた後、絵心は答える。
「んな訳ねーだろ、バーカ」
「…す、よね」
最早暴言である。だが、潔はこの人物が、六百年より前からこういう人物だと知っているので、受け流した。
「…て、言ったけど」
絵心は意味深長に続けた。
「半分正解で半分不正解ってところだ。今のお前は、定義するなら、『仮性人間体』だ」
「…つまり、本当の人間ではない、ってことですか?」
「そう。限りなく人間に近い魔族ってところだな。残念ながらお前の魔族の本質は完全に消えた訳ではない。この先お前の肉体は老いないが、病気にもなるし、傷を負えば以前のような再生能力も使えない」
「じゃあ…死ぬかもしれないんですか?」
いいや。絵心は眼鏡の橋を押し上げる。
「致命傷を負えば、お前の中の魔族の本質がよみがえり、魔族に逆戻りする」
潔は瞳孔を縮小させて、絵心を見返した。
「それって…」
「魔族に戻ろうと思えば戻れる……だが、そうなるとお前は代償を支払わなければならない」
「代償って…今更、俺に払えるものなんて、ありませんよ…」
自嘲気味に呟く潔に、絵心は言い放つ。
「糸師凛も同時に、魔族に逆戻る」
「凛、も…?でも、凛は人間に戻った、ですよね?また魔族に戻る可能性があるって、そういうことなんですか?」
「そうだよ」
「じゃあ、凛も俺と同じで、まだ魔族なんですか?」
食い気味に問う潔に、絵心は態度を崩さない。
「糸師凛は完全に人間だ。お前とは違って老いるし、病気や怪我で普通に死ぬ。だが、糸師凛の魂はお前が何度も与えた血を通して深く結びついた。その代償だ」
絵心の言葉を直ぐに呑み込むことは出来なかった。冷静に思考をして、逸りそうになる心臓を宥めて、湯呑の茶と一緒に呑み下した。
「…俺はどうしたらいいんですか?」
「簡単なことだよ。糸師凛が天寿を全うするまで人間として生きればいいだけ。命の危険の及ばない、安全な場所でね」
糸師冴のお陰で危険な魔術師が一掃されたため、人間の世は安定している。戦いとは無縁の地はいくらでもある。そこで穏やかに暮らしていけばいい。
そう言われても、想像ができない。
最後に、潔は、絵心に問う。
「どうして…俺と凛は…人間に戻れたんでしょうか?あの実は、何だったんですか?」
冴と潔でしか知り得ない現象について問う。潔には、この人物は全てを通じていることを知っていた。人間だった時代に、魔王と呼ばれ始めた時代に、絵心の預言を受けた経験があったからだ。
「…糸師凛が人間に戻るための条件はあった。一つは、糸師凛が一度も人間を喰わないこと。一つは、糸師凛が潔世一の血を取り込んでいる状態であること」
そして、一つは。
「お前が先にあの実を口にする。その三つの条件がそろって初めて、糸師凛が人間に戻る条件が満たされる」
何だ。それは。それではまるで、あの実は。
「あの実が二度と現れることはない。あれは、潔世一と糸師凛(お前ら)の為に用意されたものだからな」
絵心はくるりと背中を向けた。
「俺から言えることは一つ。あれは、天からお前らに与えられた褒美(ギフト)だってことだよ」
ずずず。絵心は茶を飲み下した。
全てを聞き終えた潔は空になった湯呑を置いて退室した。またしばらく絵心と会うことは無いだろうと確信があった。足取りは異様に重たかった。今聞いたことを、冴に話すなんて選択肢は、潔には無い。
通路を歩いている途中で、違和感に気付く。人が不自然なぐらいに見当たらない。
その事に気付いて、弾かれるように背後を振り向いた瞬間、胸倉を掴まれて、強い引力によって身体をぶん回された。がはっ。壁に背中を強打し、尋常じゃない力で押し付けられる。鼻に掠った薔薇の匂いと、見覚えのある青い薔薇の入れ墨に、潔は悪態をついた。
「――――何だその惨めな姿は?クソ不快」
毛先が青に染まった長い金髪、響きの良い美声、それらを裏切る口汚い言葉使い。忘れようもない。潔は、強襲をかけたその男の正体を、当に見抜いている。
「カイザー…っ」
冴と同じ『新世代十一傑』の若き天才を、憤怒を湛えて睨む。ミヒャエル・カイザーもまた、潔を忌々しく睨み返していた。
「世一…勝手に堕ちていくんじゃない…お前は俺が、狩って潰して殺すって決めてるんだよ…っ誰の許しをもって、クソったらしいものに成り下がった?」
拳を振り上げたカイザーを潔は目をそらさずに睨み返す。拳は潔の顔面の真横の壁を穿った。大きく凹んだそこからぱらぱらと粉が落ちていく。それでも潔はカイザーを睨み続けた。
「テメエこそ今更何の用だよ、クソ天使野郎っ!今まで一度だって接触してこなかったくせして、今になって文句言うためにつけ回してきたのかよ?」
潔も負けじと言い返す。目の前のそれが、天使という種族でありながらも強欲の塊であることをよく知っている。この、人間の皮を被って、人間の世界を暗躍しているこの天使は、決して慈愛の存在ではない。間接的にも潔を魔王にさせた一端であるのだ。
「オイ、カイザー。ネスはどこだ?お前に付きまとってるコバンザメだよ」
暗躍しているのはカイザーだけではない。カイザーの忠臣であるアレクシス・ネスもいる。カイザーの傍から離れず、目立たないだけで常に行動を共にしている。だが、ネスの姿が見えない。恐らく、この状況を作り出す工作に駆り立たされているのだろう。
潔の問いに答えずに、カイザーは穿った穴に爪を立てて、壁一面に皹を入れた。
「なあ、世一…お前に喰われてしまった翼は直ぐに元通りになる…だけどな。お前から味わった屈辱(きずあと)は、六百年経った今でも、疼くんだよ…っ」
堪えることすらできない憎悪を双眸に乗せて、目と鼻の先の距離でカイザーは潔を射抜く。
「忘れるな。人間に戻ったとしても、お前は俺の舞台で無様に踊り狂う、捨て駒の道化(ピエロ)だってことをな…っ」
「やれるもんならやってみろ、このクソ強欲天使野郎…っ」
罵倒には罵倒を持って反撃するが、限界が近いことを悟られないようにするための虚勢であった。カイザーから放たれる天の波動は、潔の体力を奪っていった。立っていられるのは、潔の底なしの気力によるものだった。
潔の思惑を、カイザーは見抜いている。元より、聖術の才能すらも無い潔が聖そのものである人外の耐性がある訳もなく。強すぎる聖の力は脆い人間の肉体には有害である。
カイザーは口元を大きく吊り上げて嘲笑した。
「とんだ強がりじゃねえか、世一ィ。今のお前に何ができるんだ?『色欲』も『暴食』も『怠惰』も『傲慢』も『憤怒』も『嫉妬』も『強欲』も無い、クソ超(エクストラ)雑魚なのになあ?」
やはり全部見抜いてやがる。クソ。潔は内心で悪態をつく。
「頼れるお仲間もいねえ。守ってくれる優しい手下どももいねえ。つまりは、今のお前は、好き放題やりたい放題ってことだ」
潔の頤に指を引っかけて、わざと目線を合わせてくる。近づいてくる端正な顔と濃厚な花の匂いに、潔は奥歯をぐっと噛みしめた。
カイザーが口を開きかけたと同時――――向こう側からネスが吹っ飛んで床に転がった。
「あ?」
「か、カイザー、すみません…っ」
転がり倒れていたネスを、カイザーは蟀谷を痙攣させながら睨み、潔は視線をその向こうにやった。
「あ…」
「――――何やってんだクソ青薔薇野郎」
靴音と共に、地を這うようなおどろおどろしい声音が響く。その声の迫力とは裏腹に、潔はほっと胸を撫で下ろした。
「冴」
「その手をどけろ」
氷のような視線を、冴はカイザーに向ける。冷静に見えて、その実、冴は激昂していた。その証拠に、双眸には冷たい業火が燃えていた。
「何だこのクソ天才。まだ世一の所有者気取りしていたのか?クソおあいにくだが、お前の役目は終わってる。失せろ」
「失せるのはテメエの方だクソ青薔薇。勘違い野郎はさっさと消えろ」
両者、激情を湛えて、視線と怒気をぶつけ合う。一色触発の嵐が吹き荒れた。
それを終わらせたのは、カイザーから抜け出した潔であった。
「冴、こんな奴放っておこ。こんな奴なんか、冴が構うことない」
冴の視界からカイザーを隠す立ち位置で宥める潔の変わり様に、カイザーは瞳孔を小さくした。
そして冴もまた、潔を視界に入れるなり、途端に空気を和らげた。
「…帰るぞ、世一」
「うん」
そのまま踵を返していく冴と潔の、二人の間に流れる空気を、カイザーは読み取った。
はっ。カイザーは高らかに笑った。
「『至宝』様も落ちぶれたもんだなあなあ、冴お前もただの人間の雄だってことかぁ可哀想になあ」
去り行く冴の背中に向かって嘲笑の声を上げていく。
「いいこと教えてやるよ、そいつはありとあらゆる人間を堕落に引きずり落とす、ふしだらなの存在(いきもの)なんだよそいつに誑かされた時点で、お前は終わってるんだよ糸師冴」
後方から容赦なく突きさしてくるカイザーの罵詈雑言に対して、悔しさをかみ合わせたのは、潔の方であった。
「黙れカイザーこのクソ野郎強欲天使野郎が」
耐えきれずに振り向き様に罵倒する潔を、待っていたとばかりに、カイザーは凶悪に笑う。
「だったら見ていてやるよ、世一…人間に戻ろうとも、お前は罪そのものなんだよ」
流暢な声音が、呪いのように潔を絡み取る。
「気にすんな、世一」
潔を引き戻したのは、的となっていたにも関わらずに、最後まで冷徹さを一貫していた冴であった。
「…ああ」
潔は振り返らなかった。もう一度、カイザーを目にしてしまえば、今度こそ理性が壊れていたところだった。
「…冴、ごめん」
カイザーとネスの気配が完全に感じられなくなったのを皮切りに、潔はぽつりと謝った。
「お前が謝ることは何一つねえだろ」
気遣いも何も感じられない冷たい態度ではあるが、冴が潔に優しくしようとしている心を、潔は感じ取っている。なので猶更罪悪感がしてならない。
俯いていると、冴の手が、容赦なく潔の尻を叩いた。
「あ痛っ」
「気にすんなつってんだろ。ちゃんと前見て歩け。じゃねえと危ねえだろうが」
「あの、忠告ありがたいんだけど、尻を叩く必要はあったの?」
「目の前に叩き甲斐のある尻があったから」
「俺の尻をたたき台にすんのやめてくれる?」
「あ?嬉しくねえのか?この俺が叩いてやったんだぞ。喜ぶところだろうが」
「いや、嬉しくねえし、そこで喜んだらただの変態だろ」
「違うのか?」
「冴は俺を何だと思ってるの」
意味のない言葉の応酬は、冴からの、今日は塩焼きが喰いてえ、という暗喩的な夕飯の要求で終わる。
全く。と笑って終わらせた潔であるが……胸の内は小さな虫が巣食っていた。
自分の置かれた状況をゆっくりと呑み込んで、やっと合理的に受け入れる心構えの準備をするのに数日要した頃だった。
人間の身体に慣れる特訓の為に、冴は毎日潔を外に連れ出してくれた。人間になってから、冴は潔に優しくなった。出会ったばかりの頃は触れることも許されず、何かにつけて殺意と怒気を向けられていたのが、嘘のように柔らかく、穏やかになっていた。口の悪さは変わっていないが、冴の方から潔の手を引くし、気遣うような言動や、潔の意志を尊重するような態度が目立っていった。
最初こそは、潔を人間にしてしまった罪悪感からくるものなのかと、潔はそう考えていた。
違うのだと思い知らされたのは、突然だった。
昼下がりの前に、美しいガラス細工の教会に訪れた。冴から誘ってきたのだ。誰もが見とれる美しいガラス細工の教会の噂を耳にしたから、という冴からの誘いは潔の気持ちを浮上させた。あの冴が遊びに行こうと誘ってくれたことが、何より嬉しかったのだ。
潔は無自覚だった。気付いていなかった。時折自分を見る冴の視線に籠る熱を。見ていなかったのだ。
綺麗だな。あの光、冴の目にそっくりだよな。冴の目は綺麗だよ。
教会にいたのは、冴と潔の二人だけ。教壇の前で、潔は美しい青緑の光を放つガラス窓の細工を見ながら、そのように感想した。
それが、冴の気を立てた。
冴の手が潔の頬に添えられる。二人の距離はつま先がぴたりと合わさっている。
冴?そう呼ぼうとした声は、押し付けられた唇の柔らかさによって、防がれる。
端麗な顔が重なっていた。まつ毛とまつ毛が触れ合いそうになるぐらいに近い。長いまつ毛が伏せている。唇が吸われて、息が止まる。軽い音を立てながら、冴の顔が離れていく。
潔。冴の吐息が当たる。唇は離れたのに、顔はまだ近い。何をされたという疑問はゆっくりと解消されていき、今されたことの事実がじわじわと実感する。
「冴は、俺の事、好きなの?」
聞くまでもなく、潔を映す双眸は、奥が熱く燃えている。氷のような冷たい男には似つかわしくない熱いものが、秘められていた。
「…世一…」
初めて冴が潔の名を呼んだ。もう一度口づけられ、吸われ、離れていったかと思ったら、また口づけられて、吸われて…その繰り返し。冴は確かめるように、何度も重ねた。劣情を引き出すような動きであったが、潔はただ受けるままで。返す訳でもなく、応える訳でもなく。潔が反応を返さないので、冴は何度目かで口づけを止めた。
「……冴は、俺とどうなりたいの?」
声が心なしか震えた。
「お前と一生添い遂げたい」
それは、潔の心に、波紋を生ませた。
「どうして、俺?」
「お前がいい」
「だから、何で?」
「わざわざ理由がいることか?」
冴の指が潔の頤に触れて、視線を合わせるために押し上げる。
「冴は、俺が嫌いだったんじゃないの?凛が人間に戻ったら、真っ先に殺すって言ってたじゃん…」
「お前が魔王だったからな。でも、今は違うだろ」
冴が潔を常に傍に置いたのは、潔の監視の為であった。それが必要無くなった今でも、冴は潔を傍に置いた。その意味は完全に変化している。離れがたい、という、冴の願望の顕れであった。冴が潔に向けていた感情は、性愛(エロス)だ。
波紋がどんどん広がっていく。一度起きた広がりは、止まらない。
「じゃあ、俺が人間だから、冴は俺を望む訳?」
「そうなるな」
「じゃあ冴は、俺が一生人間でいい訳?」
「その方が都合が良い」
そうだ。冴は大の魔族嫌いだ。喋るのも嫌いだし、触れるのも嫌いだし、同じ空間にいることだって嫌だった。それがこの掌返し。なんて酷い男だ。
この男は、いつだって自分に正直で、欲深い人間だ。潔が抵抗しないのを良いことに、勝手に頬に口づけをしてくる。鼻と鼻がぶつかりそうになる距離まで顔を近づけられて、潔はやっと冴の胸を押した。冴はすんなりと止まった。
「世一」
冴の顔が見れない。見てしまったら、熱い目頭から水がこぼれそうになる。
それから何も言わず、潔の手を引いて、帰路についた。
二人は変わらず、街はずれの屋敷に住み続けていた。それから何度も、冴の方から潔に触れるようになった。壊れやすいものに触れるような丁寧な手つきで、潔に触れるのである。洗濯の最中でも、料理の真っ最中だろうとも、お構いなしに。名前も、世一、と呼ぶようになった…優しさを含ませた声色で。
潔は合理的な思考を持って考える。この状況における、最良の答えについてを。
やはりこれしかない。それが、最良の選択だ。覚悟を決めろ。
「冴…あのさ、今日、先にお湯入ってもいい?」
カイザーとのいざこざがあったその日の夜に、潔は行動に移した。身体の隅々まで綺麗にして、具合を確かめて、ベッドで冴を待つ。湯から上がった冴が戻って来て、ベッドに腰掛けた。灯りが消される寸前、潔は冴を呼んだ。
「こっちに、来てくれね?」
冴が最近甘くなったことも指折り済み。冴は何も疑わずに、潔のベッドに腰かけた。
今度は潔から、冴に、口づけを送る。唇を押し当てて、軽く吸いながら、離れる。閉じていた瞼を開けたら、驚いた冴の顔が視界に飛び込んだ。
冴が止まった隙に、潔は小さく口を動かした。
「冴…寒いから、あたためてほしい」
遅れてくる羞恥心にじわじわと顔が火照る。背中から伝わる小さな揺れで、冴が一瞬息を詰めたのが解った。
冴の目の奥がぎらついたのを見た次の瞬間、潔はベッドに縫い付けられていた。
馬乗りになっていた冴は深呼吸を繰り返していた。暴走しそうになる本能を理性で抑制しようとしている。冴の顔が男に見えた。男として、潔を求めようとしている。胸の奥が強く締め付けられて痛い。ぎゅうぎゅうと胸元を抑える潔を見下ろしながら、冴はシャツを脱いだ。鍛え抜かれた筋肉の鎧が、蝋燭の明かりでぼんやりと赤く照らされている。潔も筋肉質であるが、冴の方が美しくしなやかだ。
世一。熱い吐息とともに紡がれる声に、更に胸が痛む。顔が近づいてきて、口づけをされる。確かめるように軽く触れていたのが、深くなっていく。シーツをいっぱいに握りしめて、震えに耐える。冴の唇が離れて、うなじに痕を残していく。目線が逸れた隙に、右手を枕の下に忍び込ませた―――――。
冴の手が右手首を確かに握りしめた。悟られた。逃げようともがくが、冴の方が早かった。
「お前っ」
冴の双眸が消化していた。愕然としていた。信じられないと、潔を凝視してくる。
虚無でいっぱいだった潔の胸の中に、巨大な氷が滑り落ちていく。枕下に隠していた注射器が、潔の右手から滑り落ちた。
冴の手が潔の首を掴んで、強引に引き寄せる。
「何を考えてた?」
こんなに激昂した冴の声を耳にするのは久しぶりだった。潔が人間になってから、冴は潔に対してひどく甘くて優しかった。裏切ってしまったのだと罪悪感で頭がいっぱいになるが、それ以上に、冴から離れたいという願望の方が強い。
「俺…冴とこれ以上いたくない…っ」
は?冴の声が震えた。怒りと疑惑でこんなに動揺した冴を見るのは初めてだ。我慢し続けて来た冷たい涙が一気に溢れかえる。冴は困惑し、手の力を緩めた。
「…嫌だったのか?」
「ちが…」
「泣く程嫌なら最初から言え」
毒舌も覇気が宿っていない。益々潔は追い詰められていく。冴に対する罪悪感によって。
「俺…俺じゃあ、冴に、返せない。だって、俺は、魔王だ…」
「返す返さないじゃねえんだよ。そんなもんじゃねえだろ」
「そうじゃねえんだよ」
「だったら何だって言うんだ」
冴の語気が荒くなってきている。これ以上は、共にいること自体、胸が引き裂けるぐらいに辛くなる。完全に心が崩壊する前に、潔は身体を丸め、頭を抱いて、叫ぶ。
「だって俺は、存在自体が罪なんだよ」
冴が目を見開いて固まった間に、潔は衝動のままに叫んだ。
「俺のせいで…っ俺のせいで、みんな死んだ…っ家族も、民も、仲間だって…っ俺のせいでいなくなる俺がみんなの命を弄んだ」
ぽたり、ぽたり、ぽたりと、涙が止めどなく流れ続ける。潔は冴の顔を見ていない。
「…人間だった時、俺のせいで、国が二度も滅んだ。俺は何もしてない。だけど、俺が原因だった。俺さえいなければ、みんな、死なずにすんだ…」
最初に両親、それから慕ってくれた故郷の人達。次に仲間、無実の民草。潔を巡って欲深い人間達が引き起こした非道によって、理不尽に命を奪われたのだ。確かに潔は何もしていない。いうなら、潔の存在が罪を引き寄せる。魔王になる前から理不尽な宿命を背負わされていたのだ。
魔族に殺された魂に救いは無い。消滅するのだ。天の御国に行くことも地獄に行くことも出来ない。そして、魔族に変えられた人間の魂もまた、肉体が消滅すれば、魂も消滅する。なので潔は選ばせていた。魔になるか、人のままでいたいかを。どちらに転じたところで、救いは最初から無かったも同然。潔が一番理解している。それでも、これで、一人でも生き永らえさせられることができるならと…。それは慈悲ではなく、ましてや贖罪でもない。ただの、潔のエゴだ。
「世一…」
「冴…冴、ごめん…俺、冴のこと、好きだよ…でも、冴と同じ好きが返せない…俺はいっぱい穢れてるから…」
「世一、俺を見ろ」
頭髪を搔き毟る両手に冴が手をかけるが、潔は腕を引いて抵抗する。
「俺と一緒にいたら冴が不幸になるっ。禍を呼ぶっ。俺は冴と一緒にいられない」
「世一、手を離せ」
「凛が死ぬまで死ねないっ。けど、冴に何かあったら、死んでしまいたくなるぐらいに辛いっ。嫌だっ」
「怒ってねえから。俺の顔を見ろ」
「嫌だっ。俺、おれ…っ」
逃げようとする潔の身体を丸ごと引き寄せて、力いっぱいに抱きしめた。あまりにも強すぎて、潔は抵抗を諦めた。
そのまま、冴の肌に直に触れながら、涙を流し続けた。
時間は緩やかに過ぎていく。
時には反発し合うこともあり、泣きじゃくる時もあったが、それでも冴は潔を離さなかったし、潔も冴から離れることは無かった。
そうしているうちに、六十年…人間の感覚では長い時間が過ぎていた。
歳を取らない潔とは違い、冴は老齢になっていた。小豆色の髪は色素が抜け落ちて、きめ細かい肌は深い皺が刻まれて、長い手指は枯れ枝となっており、頭一つ分の高さだった目線はほぼ同じ目線になっていた。潔だけが取り残されたように変わらない。
数多の危険度一級魔術師を打倒してきた功績が讃えられて、冴が世界一の退魔師と認められたのは、二十代後半の事であった。最高位に昇りつめ、四十代になるまでは前線で戦い続けた。前線を退いた後は指導者として後年の育成に従事し、六十代で正式に引退した。
残りの余生を過ごす家に、無論のこと、潔も連れていかれた。冴が育った故郷に。両親が残した家と土地を冴が相続し、潔と共に移ったのだ。海の近い場所であった。それから二十年が経過している。
潔が起きる頃合いには、冴は当に起きている。夜中の尿の回数が増えていることを、冴が話さなくても潔は察している。朝に目が覚めると、冴はベッドに腰をかけて、新聞を読んで潔が起きるのを待っている。
「おはよ」
「ああ」
氷のように透き通った声はすっかり皺枯れている。けど、若かった頃よりも、響きが柔らかい。
食事は潔が担当なのは変わらない。医者の指示で塩分を控えて、野菜を多く揃えている。冴は文句を言わなければ褒めることもほとんどない。目と箸の動きが正直だ。美味しい時、箸の動きが早くなる癖があることを潔は知っている。
「今日はどこまで行く?」
「いつもと同じで」
「わかった。あと買い物にも行っていい?」
「ああ」
七十半ばになるまで続けていた鍛錬も、腰を痛めてからは続けられなくなっていて、その代わりに毎日外を数時間歩くようになった。潔は冴にぴったりと引っ付いて、付き添っている。散歩をしながらとりとめのない話をしたり、寄り道をしたり、休憩がてら甘いものを食べたりするのが好きだ。
家事を終わらせてから、冴と共に家を出る。今日は快晴だから少し長く歩こうと、言葉無く長年連れ添ってきた互いの空気で通じ合う。海沿いを歩いて、街中に入り、緑公園へと入る。
「冴、ちょっと休憩にしない?俺、あれ食べたい」
「いいぞ」
「冴何かいる?」
「お前が満足すればそれでいい」
アイスクリームの露店を見つけたので、若者だらけの列に、潔は恥ずかし気もなく並ぶ。冴は潔の隣から離れない。注文するのは潔で、財布を取り出すのは冴だ。その為に冴は付いている。
アイスクリームを持ってベンチに座り込む。アイスクリームを一口舐めれば、甘味が口の中に広がって、舌鼓を打った。
「うまいよ。冴も一口要る?」
「いらねえから、お前が食え」
冴がそう返すことは織り込み済みだが、その柔らかい響きを聞きたくて、潔はいつも同じやり取りを繰り返している。
アイスクリームを食べ終わった後も休んでいると、通りすがりの老夫婦が挨拶を交わしてきた。挨拶を返す潔を見て、何も返さない冴を見て、お孫さんですか?と話しかけてくる。潔は一瞬苦笑いしかけてしまって、そうですよと返そうとした。
「違え。連れだ」
潔が返す前に、冴が遮った。老夫婦は目を点にして、そそくさと去っていった。
「冴っ」
「何も間違っていねえだろ」
「そうだけど…」
それが通用していたのは冴が四十代を迎える前だ。今ではどこからどう見ても、祖父と孫の年齢差だ。潔の方が何百倍も年上なのだが。
冴の為にも波風立たせたくなくて、差し当たりのない返しをしたかったというのに、冴は全くぶれない。少年趣味のいかれジジイなんて世間に思われてしまったらと思うと、潔の方が申し訳なくなるのだ。だというのに、冴はいつだって堂々としているし、些細なことでも潔に愛を囁く。
「俺は嫌だよ…冴が悪く言われるの…」
「…お前は変わらねえな。いつまでも可愛い」
「冴も変わらないよ…本当に」
老いたとしても、冴の愛情は、一度だってぶれたことはない。冴の愛情は、潔の想像を超える程に深かった。
どれだけ深いか…………連れ添うようになって六十年間、潔に一度も触れなかったぐらいには、深い。
「買い物終わらせて帰るか。腰に堪える」
「うん」
市場に寄ってから帰路に着いた。
昼も共にいて、夜もずっと共にいる。一緒にいすぎて退屈なんて感じたことはない。息をするように当たり前になっている。かといって喧嘩は一度もしたことは無いなんてことは無い。お互いに引っ込めないぐらいに大喧嘩をして、凛を巻き込んで数日間離れていたこともあった。頼る相手がいなかったとは言え、凛の苦々しい表情を思い出すと申し訳なくなる。今となっては良い思い出だ。
夕食を食べ終わった後に入浴となるが、その時も一緒だ。冴の手が届かなくなった箇所を、潔が代わりに洗う。冴の身体には数多の傷が残っている。数多くの凶悪な魔術師と戦ってきた、冴の誉れだ。鋼のような肉体が、無駄な肉はついてはいないが、やはり落ちている。時の流れを咀嚼する。冴は、年老いた。
ベッドは一つ。大きなベッドを、二人で一緒に使っている。お休みと潔が言って、冴は淡白に返す。それが通例だ。
潔は、意を決した。
「冴」
明かりを消す前に、冴の上に跨った。
「冴…」
皺付いた唇に、自分のものを重ねようと近づけた。重なる前に、止められる。胸を軽く押される形で。
「何してる?」
「…大丈夫だよ、冴。俺に任せて」
冴の手は、弱い。これが今の冴の力だ。大きいのは変わらないが、握力が落ちていた。
「下がれ」
「大丈夫だって」
「何歳になったと思ってる?ジジイだぞ、今の俺は」
「関係ないよ。冴はいつまでもかっこいいよ。今だったら、俺、冴に全部あげられる」
冴の手に自分のを重ねて、やんわりと除けてみせる。
「――――世一」
名前を呼ばれた。それだけで、潔は、止まった。
後悔と共に涙が溢れた。
「冴…ごめん…」
ぽたり、ぽたり、ぽたり、涙が皺だらけの手の上に落ちていく。
六十年も一緒だった。冴は何度も愛していると告げた。何度も唇を重ねた。だけど、一度も身体は重ねなかったし、冴は一切手を出さなかった。ずっと待ってくれたのだ。潔が応えるまで、求めなかった。
やっと、応えようと、決めたのに。全部が、遅かった。冴にはもう…時間が残されていない。
「ごめん…冴、ごめん…好きだよ、冴…」
「…やっとか」
長い指が涙を拭う。明瞭になった視界に映ったのは、愛おしさを滲ませた微笑みだった。
どんなに年老いても、時間が流れても、それだけは変わらない。色褪せていない。優しくて美しい。
その夜は、冴の上に重なるように眠った。
それから暫くして、冴は息を引き取った。
今わの際に凛が間に合って、潔と凛…最後まで愛した家族に囲まれた、幸せな最期であった。
葬儀は静かに行われた。潔と凛の共同喪主で執り行った。魂が抜けた冴の肉体は地へ還った。
告別式が終わった後も、実感がわかなかった。糸師冴の墓石を無心に眺めた。神父がいなくなった後も、そこから離れなかった。潔の隣には、ずっと凛が立っていた。
「…人は死んだ後、魂だけとなって、天国か地獄に向かう。冴は山ほど善行を積んだから、天国に行ってる筈だ。カイザーと同等位の天使になっているかもしれないな」
凛に言ったつもりはなく、単なる独り言だ。意味は無い。もの寂しい風が、冴がいなくなって出来てしまった隙間に吹いた。もう冴はいないんだ。ぽっかりと空いた穴が寂寥感を抱かせた。
冴はいなくなってしまったが、たくさんのものを、潔に遺していた。潔が知らない間に、死んだ後の諸々について、既に手を打っていたらしい。潔の知らないところで、潔は冴の義理の息子になっていて、遺産相続権を与えられていた。いつのまに残されていた遺書によって、今まで住んでいた二人の家は、正式に潔の名義となった。
家の中は随分と寂しくなっていた。二人でいるのと一人になるのとでは、大きな差があった。冴の遺産整理をしていても、一人だと途方もない作業となっている。手が遅いせいもある。物品一つ一つをまとめながらも、記憶が次々に想起されていって、それが原因となっているからだ。
まだ半分も終わってない頃合いで、突然、やって来た。
共同喪主を務めた凛が、前置きも無く現れたのだ。
「何してる?いつまでやってんだ?この鈍間」
口が悪いのは、歳を重ねても健在だった。
「凛…?どした?」
「別に」
凛は遠慮なく、冴がよく座っていた席に腰を下ろした。
「茶は?」
「お前ね…ちょっと待ってろ」
遠慮のない言動も、若い頃から何一つ変わっていない。潔は呆れつつも、凛の言動に慣れた様子で、客用の茶の準備を始める。
立てた茶を凛の手前に置くと、凛は一言も無く、口に含む。オイ。無愛想な声が飛んできて振り返れば、ん。と腕を突き出していた。その手にぶら下がっていたものに視線を向ける。茶菓子の包みを、土産として持ってきたらしい。これは冴の教育の賜物だ。何の連絡もなく、手ぶらでふらっとやって来る凛に、冴が言葉で躾けたのだ。来るのはいいが、土産の一つぐらいは持ってこい…だったか。そんなことを凛にぶつけて、凛が渋面していたのを今でも覚えている。それでも律儀に守っているのは、結局弟は兄には勝てないということだ。
凛の歩んだ歴史について語る。
冴が世界一になって二年後に、凛も続いて世界一の称号を手に入れた。過酷な自然環境である北方地域に自ら出向した後、数多くの魔族悪霊討伐で世界に貢献した。数多くの弟子を鍛え上げ、長らく北方地域に従事したもの、泣く子も黙る暴君振りから氷の神徒と称されながら屈強な北方十字軍を作り上げ、七十になる手前で王都に戻り、引退した。その後は冴と潔にたまに顔を見せながら、穏やかに暮らしていた。今でもたまに本部から使者がやってきて助言を請いに来るという。生涯連れ添う相手もいなかった。
閑話休題。茶請けを出した後、自分も少し冷めた茶を一口飲んで、口火を切った。
「で、今日はどうしたん?冴の遺品整理?」
「違げえ。あいつの遺したものに興味はねえ」
「じゃあ、何しに来たんだよ…」
訝しんだ後、思い出したように、今後の身の振り方について、潔は話した。もうしばらくはこの家に住まうつもりであるが、冴との思い出に片がついたら、この家を凛に譲るつもりであると、そう伝えた。
凛は静かに聞き、尋ねる。
「この家離れたら、お前、どうするんだ?」
「まあ…適当に、どこか家を探して、静かに暮らすよ」
「宛が無いくせに強がってんじゃねえ」
「そりゃ宛は無いけど、でも、冴のお陰で戸籍があるから、細々と暮らせるよ」
この家は、冴と二十年時間を過ごした思い出深い場所であるし、冴のお陰で潔のものとなったが、元はと云えば冴と凛が生まれ育った家でもある。ならば然るべき相手に譲るのが妥当だと、潔はそう考えていた。
と、告白した潔に対して、凛は感謝も悲嘆もせず、淡々とした反応を返した。茶をすすり、茶菓子を平らげると、年齢を感じさせない滑らかさで席を立った。
「来い」
「…え、何?」
「いいから付いてこい」
凛も年老いたもの、言葉が足らないのと言葉使いが粗雑なのは、ずっと変わらない。凛とも六十年の付き合いにはなるけど、未だに凛の突拍子の無さについては、潔は読めないでいる。凛が何かを伝えようとしているのだろうと察した潔は、黙って凛に付いて行った。
連れていかれたのは、王都にある凛の住まいであった。少しだけ街並みから外れた場所に建築された一軒家で、豊かな草原に囲まれ、静かで清浄な空気に包まれている。冴が引退した数年後に建てたものだ。冴が存命中も、凛の生存確認の為に、何度も訪れたことがあった。家の中も必要最低限なもの以外は取り払われた、物静かで質素な模様である。
どうしてここに自分を連れて来たのか不思議に思っていると、凛は椅子に腰かけてから答えた。
「…部屋は空き部屋を使え。シーツは毎日洗濯をしろ。俺のベッドメイキングも欠かすな」
「…へ?」
「食材は市場で買え。だけど一人で行くな。行く時は必ず俺に一言言え」
「あの…」
「掃除も欠かすな。風呂は毎日焚け」
「凛さん、それって…俺にここに住めってこと?」
「違え。俺の世話をしろっつてんだ」
「はあ…て、毎日」
「さっきからそう言ってんだろうが」
若い頃から全く変わっていない言葉足らずな命令に、いやいやと潔は首を何度も横に振った。
「そんな急に言われたって…それに毎日往復すんの大変なんだけど!」
「だから部屋を使えって言ってんだろうが、馬鹿潔」
直ぐに罵倒が飛ぶのも相も変わらずである。そんなんでいいの?と確かめると、舌打ちが返ってきた、ということは肯定の意である。
凛が突拍子が無いのは昔と変わらない。その突拍子の無さによって、奇妙な共同生活が幕を開けた。
と言っても、潔自身も驚く程、凛との共同生活は穏やかそのものである。
長年連れ添ってきた連れの弟とは言え、凛とも長い付き合いであるので、行動や趣向には理解がある方であった。それに、口の悪さも長い付き合いとなるとご愛嬌となるもので、潔にとって凛は連れの弟ではなく、家族も同然の相手である。それに、冴ほどではないにしろ、気が合うところも多々あった。数週間もすれば、空気のように、自然になってくる。平日は凛の家で過ごし、週末は冴の家で過ごすという生活を難なく続けられていた。
凛相手に気遣いは不要だ。むしろ明らか様な気遣いをしたら不機嫌になる。凛も遠慮しない性格なので、潔も遠慮はしなかった。それなのに、これまた不思議な話であるが、喧嘩に発展するようなことはなかった。ちょっとしたことでも怒り散らかしていた凛も大人になった。
朝起きて朝食を作っていると、凛が部屋から出てきて、出来上がるのを待っている。並べると、黙々と食事を平らげて、自分で台所に皿を片付ける。食後は少し外に出かけて、日当たりのいいベランダで新聞を読んで時間を潰している。昼前となると、市場にでかける潔に引っ付いて出るのだ。財布は凛がいつも出すし、荷物も凛が持っている。俺が持つよと潔が声かけると、そこまで耄碌してねえと返って来る。
老熟した凛は、清廉さに磨きがかかっていた。皺が深くなっていても、面影は変わっておらず、精悍さに思慮深さが加わっている。背丈も昔より縮んではいるが潔よりも高いし、八十超えても重たいものを運べ、杖が無くても何時間も外を歩け回るぐらいに丈夫だ。冴も年老いても美貌に翳りはなかったけれども、凛も負けていない。
「ねえ、凛。広間に寄りたいんだけど、良い?」
「好きにしろ」
寄り道をしても凛は文句を言わない。潔の希望に寄り添っている。無言の間が続いたとしても、一切苦に感じさせないぐらいに、凛に馴染んだ自覚があった。
とはいえ、一言も無く勝手に連れ出したことへの意趣返しはしたいし、可愛さ余ってのいたずら心や、世界一の退魔師となったこの男を弄りたいという悪だくみが、たまに表に出てしまう。
広間の公園のベンチで凛と休んでいると、孫を連れた老人が通りすがりに話しかけて来た。そちらもお孫さんですか?良い顔をされてらっしゃいますな。と。なので潔は凛への報復も込めてにっこりと笑みを返した。
「いえ。孫じゃありません。こっちのお兄さんの連れだったんです、俺」
老人は面を食らった顔をした。すかさず凛が睨んでくる。
「オイ」
「何だよ、本当の事じゃん?」
「それでも言い方っつうのがあんだろうが。誤解受けたらどうしてくれんだ?」
「別にいいじゃん。好きに思わせておけばさ」
凛のしかめっ面がこれまた面白くて、潔は悪戯が成功した気分で笑いを溢した。今となって、冴の気持ちが解った。
「冷えて来たし、帰ろ」
ふん。凛は応答の代わりに鼻を鳴らした。
穏やかに、静かに、時間は過ぎていった。
絶対に死なないであろうと思われた凛でも、人である以上、死は必ず訪れてくる。
その時が近づいてきた、というだけのことだ。
あまりにも突拍子が無かった。
朝になっても起きてこない凛の様子を覗いた時に、潔はそれを悟った。
医者を呼んでから、ベッドに寄り添った。
「ありがとな、凛。ずっと、俺の傍にいてくれて」
大きくて、皮膚が厚い、長年血の滲む努力を積み重ねた手を、潔は握りしめる。
「俺を独りぼっちにしないでくれてありがとう。俺さ、知ってたよ。冴にそう言われたんだってこと」
生前、冴が凛と話していたのを、潔は偶然耳にしてしまった。
俺に何かあったら、潔を頼むぞ。そう冴が凛に頼んでいた声を、板一枚挟んで拾ったのだ。
悲しかったし、寂しかったけれど、でも実際に凛と一緒に過ごしていると、驚く程に時間は流れたし、寂しさも感じなかった。
「凛…気付いてると思うけど、俺が人間のままでいたのは、お前がまた魔族に戻らないようにするためだったんだよ。お前が死んだ後は、俺は地獄に還る」
息が徐々に細くなっていく。医者は間に合わないだろう。間に合ったとしても、結果は覆らないだろう。
だから、最期に、言いたいことを、全部伝えたい。
「お前と冴はたくさん善行重ねたから、天国に行って、天使になるだろうな。そんな予感がする。だから、これでさよならだよ」
ありがとう。俺の大切な人。
その蟀谷を、そっと撫でた。潔の手つきに心地よく微睡み、瞼を閉じる。息が止まった。
凛から生気が感じなくなると、潔は出ていった。街とは正反対の方向へと足を進めていく。人の気配の感じさせないところまで行き、完全に孤独となった。
涙が怒涛に押し寄せた。我慢しようとしていても溢れてくる。ぼたぼたと止めどなく流れていく。涙は潔の顔を濡らした。涙を止めようとして両目を手で押さえたまま膝から崩れ落ちた。咽喉から呻き声が漏れる。悲しみが、寂しさが、虚無感が、喪失感が、襲い掛かってくる。声にならない悲鳴が腹から咽喉へ、咽喉から口へとせり上がった。
慟哭を上げだした潔の回りだけ、空気が変容する。自然の空気ではなく、潔を取り巻くそれは、魔族の瘴気。瘴気が潔の中から漏れだし、崩れた足元から泡立つ音が鳴った。黒い血が沼のように潔を中心に広がり出した。泣き崩れる潔を、沼が引きずり落としていく。完全に頭まで呑み込むと、黒い血は消えた。
潔は地獄にいた。涙で枯れ果てた心に懐古の念が沸く。たった六十年離れていただけでも、地獄をこんなに懐かしく思い馳せることになるとは思いもよらなかった。
潔は地獄に還った。本来あるべき場所だ。ここが、潔にいるべき場所なのは事実である。
潔は――――魔王に戻っていた。人間に戻っていた頃よりも、身体がしっくり馴染んでいた。本来あるべき姿に、ようやく戻ったのだ。もう二度と、人間に戻ることは無いだろう。
「ありがとう、冴。凛」
だが、左手の薬指の指輪はそのまま。潔はそっと口づけを落とした。
愛は、不変。
「――――潔」
背中に懐かしい声が呼びかけてきた。振り向かずとも、相手が誰かは解る。
「蜂楽…」
と、乙夜を含めた数名が、還って来た潔を真っ先に出迎えに現れた。
立ち上がり、振り返ろうとした寸前。
「――――やっと戻ってきたか。ヘタクソ」
突如響いたこの声を、潔は忘れていない。
弾かれたように振り返った先に、威厳と膨大な瘴気をただ漏れに近づいてくる長身の影、それに付き従うように続く慣れ親しんだ顔ぶれ。
「馬狼」
「随分と長いお気楽道中だったな。脳みそまで鈍ったようなら、骨も残さずにテメエを喰う」
赤い雷を帯びながら殺気を向ける馬狼と対峙する。
「――――いいや。潔を潰すのは俺達だ」
今度は反対の方角から気配がした。
凪、玲王、千切…と、数名の顔ぶれだ。
「よう、百万年ぶり」
「凪については礼を言うけど、これとそれとは別ってことでいいな?」
「今度こそお前に勝つよ。潔」
凪からも重たい瘴気が荒れ狂っている。巨大な瘴気の間に、潔は挟まれた。
「それもええけど、僕らがいること、忘れては困るんやけど」
続いてはせ参じたのは、氷織、雪宮、黒名、國神、清羅。と、雷市とイガグリと我牙丸。
「ふうん。面白いね。久々にやる?全面戦争」
「上等だ。まとめてぶっ潰す」
「やってみれるもんならやってみろクソがァア」
「ニャハっ。いいねいいね!この感じ、これが俺達って感じがする!」
多数の瘴気が同時に衝突し、地獄を震撼させる。
その渦中にいた潔は――――口元を吊り上げた。
「おもしれえ。全員まとめて喰ってやる…っ」
彼は、凄まじい眼光を帯びて、宣言した。
―――――――――一触即発の最中。
潔は直感で予感を感じ取った。無意識に上空に目を向けた。灼けるような赤い空の向こうに小さな光が見えた。気のせいにしては眩しい光を放っている。睨んでいると、光が徐々に大きくなっていく。
違う。光じゃない。それは光ではなく、光の速さで落ちていく巨大な塊だと、潔は悟った。
光は潔の目の前に落下した。衝撃と発光で灼けそうになる視界を腕で庇い耐える。
何だ?それの正体を、光が落ち着いた頃になって、目を開けて確かめた。
潔は衝撃を受けた。
「ぬりい」
天から地獄に堕ちたそれは、ゆっくりと立ち上がる。
「天国(あっち)よりかはマシな空気だが、どいつも、こいつも、ぬりいんだよ」
蜂楽の陣営、馬狼の陣営、凪の陣営、魔王の陣営を視線で一巡すると、絶句する潔を見下す。
「潔。お前は今日から俺の宿敵だ…忘れるな。絶対に殺すって意味だ」
その声を、その言葉使いを、潔は絶対に忘れていない。
その長身も、その面影も、それから潔に対してむき出しのその殺気も。それは。
「凛…っ」
驚愕する潔の前で、凛は背中の翼を翻した。天使の翼…ではない。純白である筈のそれは黒く染まっていた。天使の象徴である天環も無く、額から一本の角が生えている。耳も耳殻が尖っており、爪も鋭利で黒く塗りつぶされ、薄い唇の隙間に獣の牙が見えた。
「お前、何で…っ」
凛から膨大な瘴気が放出される。そう、瘴気。魔族特有の瘴気だ。それもただの瘴気ではない。潔に匹敵する…いやそれ以上の質量のものが、凛から放たれている。
「俺が天国に行けるだって?あんなぬりいところでぬくぬく過ごしていたらぬるすぎて死ぬだけだ。俺の目的は変わらない。糸師冴を潰して、潔世一(お前)を殺す」
「…じゃあ、お前…堕天したのか?そのために?」
翼があるということは天使だったという証拠。それが六枚も生えているということは、昇天されて直ぐ生前の功績を讃えられて力ある天使として天に認められたということだろう。
なのに。この男は。凛は、全部それを蹴ったのか。栄光も誉れも全部。ただその野望の為だけに。
ひゅう。ありゃりゃ。この人超ぶっ飛んでる。蜂楽が口笛を吹いたが表情は唖然としている。それはここにいる全員の心象であった。天使自らが魔族堕ち…そんなこと、この六百年どころか地獄史上一度だって起き得ない、衝撃の事実。
糸師凛の堕天は、地獄を震撼させた。
割愛すると、糸師凛は速やかに、魔王の保護下となった。
魔王によって制圧されるまで甚大な被害を及ぼした訳であるが、推して知るべし。
魔王城に凛を一時的に連れ帰ることに成功した潔であるが、これまた驚くぐらいに凛は大人しくなった。しかも潔の傍から離れない。
久しぶりに朽ちかけた玉座に戻った潔は深く嘆息しながら、玉座に背中を預けて座り込む凛を見やった。
「…で。お前はそれでいい訳?」
「何が?」
凛は抑揚のない声音で言い返した。まんま、出会ったばかりの頃の凛に戻っている。顔と容姿だけでなく、態度もだ。可愛くない頃の凛だと、潔は苦々しく噛みしめた。
「俺と冴があんなに頑張って人間に戻してやったのに、お前は魔族でいいのかって聞いてんの!俺達がどんだけ苦労したのか解ってんのか?」
「それはそれで落とし前はつけただろ。だから、これは俺の意志だ」
「はあ?」
潔は怪訝に凛に視線を送ると、凛は横目で返した。
「同じ天の御使い同士で潰し合うより。確実にあいつを倒すには、こっちの方が良い」
「…そうかよ。てか、まだそんな考えなのかよ。凛も世界一になったじゃん。満足できねえのかよ?」
「世界一にはなったが、あいつを超えたとは思ってねえ。これは俺の物語だ。誰にも邪魔させねえ。潔、お前にだってな」
まさか。まさかの事態である。凛がここまで執着深かったとは。死んで昇天しても猶、冴への対抗心は全く薄れていなかった。だからといって、堕天するとは…思い切りが良すぎて当事者である潔は気絶しそうだった。それぐらい衝撃が大きかった。
「本当にぶれねえよな、お前…」
「全くその通りだな。このクソ愚弟」
え?潔は今の声を聞き逃さなかった。
声のした方向に玉座に座ったまま振り返る。光が差した。地獄ではありえない神々しい光だ。光は潔の頭上から降り注いでいる。
光源を見た瞬間、潔はまた驚愕で固まった。
「冴…」
「何の用だよ、クソ兄貴」
「テメエがややこしいことをしやがったから来たんだろうが」
冴。冴だった。出会った頃と変わらない姿の、冴。ただ違うのは、白い服を身に着けていたのと、頭上に天環、その背中に六枚の翼を生やしていたことだ。
冴と認識した瞬間、身体が勝手に反応した。勢いよく立ち上がり、神々しい光の前に立ちすくんだ。
冴…。潔はまた冴の名を呼ぶ。冴は目で潔に答えた。
「何で冴もここに…?」
「魔王の監視」
冴は淡々と、当たり前のように答えた。潔の方が困惑するぐらいに。
「はえ…?」
「また凛のようなことが起きないように、俺が徹底的に監視してやる。無論、お前もだこの馬鹿が」
冴は容赦なく凛の脳天を足蹴にした。凛はブチキレて冴に飛び掛かるが、ひらりと躱されたことによって、火に油を注がれた。
「冴、それって…」
「ずっと傍にいてやるって言っただろ?」
凛を抑え込みながら、冴はさらりと、これまた当たり前の事実のように言い放った。
じわりと胸と目頭が熱くなって、堪えきれずに、衝動のまま、潔は冴に飛び掛かった。
「冴」
が、冴はひらりと躱した。潔は顔面から地面にふっ潰した。
「なんで…?」
痛む顔面を抑えながら、信じられないで問うと。
「魔王が俺に触れるんじゃねえ」
懐かしい台詞を、冴は言い放った。
ただし。人間に擬態したらいくらでも許してやる。傲岸不遜に付け加える冴に、潔は愛おしさが込みあがった。
「冴、好きだよ」
「俺は愛してる」
「オイ。俺の前でいちゃつくんじゃねえ」
傍にいた凛が巻き添えを喰らって呻いた。
愛は、永久だ。これから長い時を、魔王に戻った潔と、天の御使いとなった冴は、共にすることになる。
時折、人の界隈の中、人に擬態した冴と潔が旅をするようになった。誰もが気付いていない。天の御使いと魔王の連れ合いであることを。
愛は永久である。