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    bll二次創作seis。
    退魔師se×魔王isgの長編。

    #seis
    stop

    魔王の物語•義 潔世一、と、魔王は名乗った。
     冴は迅速に行動を開始した。緊急事態の避難勧告の為、無人だったのが好都合であった。
     凛を体内に収め、眷属を地獄に還すや否や気を失った魔王を、誰にも見つからないように立ち回りながら本部の倉庫に運ぶと、一人ぐらい入れる樽の中に魔王を押し込んで、硬く蓋をし、背負って家まで運んだ。流石に部下もしくは他人に運ばせるのは露見する危険があったとはいえ、百五十キロ以上はある樽を一人で運ぶのは重労働であったし、朝市で込み合う参道のど真ん中では非常に目立っていて視線がかなり痛かった。起きたらぜってえに殺す。と冴は殺意と不満を募らせた。
     ようやっとのことで家までたどり着いた冴は樽を転がした。ごつんと壁に当たってしまったが知らん。これで起きようが痛がろうが気絶する方が悪い。そもそもこれが全ての元凶なのだから一度殺しても文句を言われる筋合いはない。起きたら速攻で殺す。絶対に殺す。
     とはいえ、肉体的にも精神的にも消耗していた身体は休憩を求めていた。椅子を引っ張って、どかりと座り込む。背もたれに天上を見上げるように凭れて、肺の息を全て吐き切った。身体は疲れている。食欲はわかない。茶を煎れる気力すらも残っていない。眠い。だが、冴の目の前には魔王がいる。いつ目を覚ますかわからない上、未知数の存在である為、易々と寝てもいられもしないのだ。転がった樽を起こし、日光が入りやすい位置にわざと置いて、蓋を開ける。少年の姿をした魔王は樽の中ですやすやと深く寝入っていた。無防備で、あどけなく、無警戒に、眠っている。魔族特有の瘴気は注意深く探っても解らない程に微量。耳が尖っているわけでもなく、牙が生えているわけでもなく、翼や尾が生えているわけでもなく、人間の身体そのもの。大通りを歩いて人間の群れの中に紛れることなんて容易だろう。あまりにも人間過ぎていて、反対に恐怖を感じてしまう。
    「マジでこれが魔王かよ…雑魚のモブじゃねえか…」
     冴だって魔王の存在は伝承でしか聞いたことがなく、実際に見たのは初めてである。悪魔辞典ではおぞましい異形の姿で描かれていたというのに、全部張りぼてだったとは思いもよらない真実だった。それが冴の頭を余計に痛ませた。
     身体がぶっ倒れる前にまた椅子に戻り、軽く目を閉じた。やがて冴の意識は沈み、浅い夢を視始めた。



     冴の両親はどこにでもいる平凡な一般人だった。鳶が鷹を生む、というように、そんな平凡な両親の間に生まれた冴は、生まれながらに天才だった。
     奇跡の恵みである破魔の波動を持って生まれただけでなく、ずば抜けた身体能力、優れた思考判断力、広範囲を見通す視野をも有し、齢八歳で天才児の冠名を欲しいままにした。弟の凛にも自分と同じ才能を見出して、弟と二人、世界一を夢見た。夢見たというのは生ぬるかったかもしれない。幼くして冴は、自分は世界一になる素質を持っているのだと自覚していて、それ以外は価値は無いものだと切り捨て、その道を進むことが妥当なのだと定めていたのだ。
     十三歳になって一級退魔師として本部に招聘されたことも、冴にとっては世界一への順当な道筋であったとしか思わなかった。
     才能の原石が集められた宝庫の、その現実を目の当たりにした時には、絶望の淵一歩手前であった。
     一般人よりも資産家や名家を優先する上層部、トイレや大食堂だけでなくどこでも執り行われる横領、取り入れることでのし上がる金に憑りつかれた凡人。それだけなら良かったが、冴の能力を凌駕する天才が知られていなかっただけで多く転がっていたこと。自分が目指した世界一の遠さ。それらが冴に重くのしかかった。
     クソ過ぎる。腐りすぎて反吐が出る。冴は教会が掲げる正義に早々に見切りをつけて、一人で戦う決意をした。共に夢視た弟を待つと決めていたけれど、こんな過酷な現実では、凛の才能が潰れるしかない。凛には才能がある。こんな糞溜めに潰されていい原石ではない。
     なので、冴は凛を切り離した。
     だが、凛の執拗さは冴の想像を超えていた。その果てに、凛は魔族に堕ちた。冴は凛を喪った。冴が怖れていたこと以上の事態になってしまったのだ。



     気配を感知した身体が考えるよりも先に反応した。瞬時に覚醒し、脳が高速回転する。がたん、と樽が動いた。う、んんん。間抜けた寝言。冴は椅子から立ち上がり、臨戦態勢に入る。よいしょ、と、樽の中で寝ていたのが、起き上がった。
    「あれ?ここ、どこ…?」
     きょろきょろと動いていた目が冴に向いた。あ。冴を見た途端に、魔王は固まった。冴は頭を鈍器で殴られたような衝撃に陥る。今は昼で、太陽は昇っている。魔族は太陽を嫌う。光を象徴する太陽は魔族にとって毒であるからだ。太陽光に晒された魔族は肉体が消滅し、魂は地獄に還る。それだけは事実である。なのに、魔王は鍵をかけた窓から入る太陽光を浴びている。平然としており、無害な面をぶら下げて、冴に振り返っていた。
    「…本当に太陽が平気なのかよ」
     こんな魔族をどう倒せというのか。こいつだけは、恐らくであるが、どんな手段を用いても死なないだろうと確信が持てる。
    「ああ…冴だから言うけど、これは俺の『嫉妬』の力だ」
    「は?『嫉妬』…?」
     理解が出来ないのは、疲労だけではないのは確かだ。
    「えーと、じゃあ、とりあえず、今後のことより先に、俺の事から説明するね」
     魔王はひっくり返した樽の底に腰を掛け、冴は椅子に座り直した。魔王は自分自身の能力についてと、七体の魔王の概要についてを、語り出した。始まったのは昼前であったが、終わったのは夕暮れ時であった。
     冴は頭を抱えた。
    「…………つまり、魔王七体説はでっち上げで。実際のところ、魔王はお前一体なのが真実ってか?」
     『怠惰の魔王』と『傲慢の魔王』と呼んでいたものは、真の魔王の眷属であると同時に、競争相手であるという。確かに彼らは自身のことを魔王であるとは一言も言ってなかった。冴は今すぐぶん殴りたい衝動に駆られた。
    「よくも騙しやがって。このヘボが…っ」
    「え、ごめん…」
     おどろおどろしい覇気をただ漏れにする冴に、素直に謝る声が上がった。冴は魔王を眺めた。冴の鋭い視線に戸惑う魔王…どっからどう見てもどこにでもいる一般人にしか見えない…仕草も人間そのもの…伝承が全部偽物だったと解っていても、本当に目の前のが魔王であるのか甚だ疑問に感じる。それほどに無害さが目立っていた。せめて巨大で邪悪な生き物の姿であったなら救いはあった。拍子抜けすぎて気が抜けそうになる。疲れがたまっているせいだ。
    「でさ。冴、今後のことを話し合いたいんだけど…その前に、俺の仲間がもうすぐ来るから、来てからでもいい?」
    「あ?仲間?」
     窓の向こうに写る太陽は沈みかかっていた。魔王は小さな頭を縦に振った。
    「現世で活動している俺の仲間だよ。魔王(俺)が召喚されないように工面してる仲間がいる」
     魔王七体説なんてものを提唱したのはそいつらではないのかと冴は疑った。
     戸が外から数回軽く叩かれた。冴は眉間に皺を寄せた。魔王とは違い、はっきりと瘴気を感じる。それも二体。
    「邪魔するで」
     勝手に入って来た二体に、冴は問答無用で袖に隠していた光の文言を足元に向かって撃った。
    「うお。物騒やなあ。邪魔するって言うたやん」
     飄々とした方言なまりの男とあどけない顔立ちの男の二体。瘴気を抑えている状態だと直ぐに察知する。
    「堂々と俺んちに入ってきたってことは、ぶっ殺されてもいいってことだな?そこに並べ。一瞬で滅してやる」
     眼光と殺気を飛ばすと、長身の方が、ほう、といなす。
    「流石、『新世代十一傑』の糸師冴様や。大の魔物嫌いって言うのはホンマのようやな?」
     仕草も口調も人間にしか見えない。擬態しているのではなく、人間そのものだ。それが余計に冴の勘を逆なでする。何もかもが気に喰わない。
    「待ってくれ!烏、冴!俺達は争う為に集まったんじゃない!」
     魔王が慌てたように呼び止めたことで、一触即発の空気が制止する。
    「よう、凡。お前…」
     烏と呼ばれた男はにこやかに魔王に手を振ったかと思うと、つかつかと詰め寄って、腕に小さい頭を抱え込んだ。
    「…また厄介ごとに首突っ込みおってええ加減にしいやこの凡が」
    「ご、ごめ…!」
     あだだだだだだだだだだだ。ぐりぐりぐりと魔王の蟀谷を、男は拳で痛めつける。冴は眉間に皺を寄せた。
    「あ、あの、潔さんがお世話になります、糸師、冴?さん…」
     大人しくしていたあどけない顔立ちの男が謙虚に挨拶してきた。冴は距離を取る。
    「あ?勝手に口利いてんじゃねえ。滅されてえのか?」
    「い、いえ!そんなつもりは!ごめんなさいっす!」
     身体を直角に折り曲げて低い姿勢を示すそれの毒気の無さが、余計に冴の眉間に皺を寄せた。
    「七星こっちに来いや。近づくとホンマに殺されるで?」
    「は、はい」
     素直に従うところも、烏の一歩後ろについて回るのも、魔王と同じ無害さが際立ってる。どうにも調子が狂う。全員殺してえ。いい加減に頭痛がする。
     魔王の蟀谷をぐりぐりと詰る手を止めて、魔王をさりげなく背中に回した烏が、冴と対峙する。
    「説明は省くで」
    「省くも何も俺の手が動かない内にさっさと出てけ」
    「おう怖い怖い」
     せやけどなあ。口元を吊り上げたままだが、笑っていない目に眼光を宿らせて、冴を睨む。
    「こっちの大将を預けるっちゅう話なら別や。下がれや、非凡」
     鋭利な刃物のような視線に対して、冴も鋭い眼光で返す。
    「あ?勘違いしてんじゃねえ。俺はこいつを預かるつもりはねえ。監視だ。こいつが責任を取るまで俺が監視するんだよ。以上だ」
    「…話の通じん奴やっちゃなあ」
     気を紛らわせるため、烏は潔の頭頂部に乱雑に手を置いた。
    「うちの大将がお前んとこに迷惑をかけたのは間違いあらへんけどな」
    「烏……」
    「なんや?ほんまのことやろ?お人よしにも程があるって何度言うても聞かへんし」
     魔王は口を尖らせて烏に視線を送るが、それ以上何も言わない。少なからずその自覚があったからだ。
     さて。烏は未だに殺気を振りまく冴に言い放つ。
    「長話になるんで、茶でも貰おうか?」
    「ぶっ殺すぞ?」
    「冗談の通じんやっちゃなあ。茶はどうでもええねん。本題話すのは外や」
     烏は外を指差した。窓から外を確認すると、馬車が一台停車している。
    「入り込んだ話は移動しながらでも話ましょっか?」
     喰えない野郎だ。冴は烏をそう評価した。
    「とりまお前はこれに着替え。んな薄ら寒い恰好で出歩くんやない」
     破れた布切れ一枚だけの恰好の魔王に、烏は用意していた紙袋を投げて寄こす。冴は警戒して、ひったくって中身を確認した。なんてことはない、ただのシャツとズボンと下着。五分後。着替えた魔王の姿は、なんてことはない、どこからどう見てもその辺を歩いている民間人だ。
     箱の中に魔物が三体…内一体は魔王という状況は、冴の勘を大いに逆撫でするのに充分過ぎた。苛立ちが全身から漏れ出ているせいで、狭い箱の中が殺伐としていた。
    「そんな殺気立たなくてええやん。この状況はアンタの方が有利やろ?」
     真正面に座った烏が呆れた口調で言い放つ。大いに癪であるが烏の言う通り、冴の聖術ならば、瞬き一つで三体の首を同時に刎ねるのは造作ではない。
     烏の隣に座った七星は硬い面持ちで冴の一挙手一投足に集中しており、冴の隣に座った魔王ははらはらとした様子で烏と冴の会話を清聴する態度であった。
     さて。冴の殺気が爆発する寸前の空気の中で、烏が本題を語り出す。
    「ほんなら話ましょっか?アンタの目的は糸師凛(弟)を魔族から人間に戻す方法を探す。潔(うちの魔王)はその間、アンタの手助けをするっちゅうことやったな」
     じとり、と一瞬だけ、責め立てるような視線が烏から魔王に送られた。魔王は罰悪く手を合わせて小さく頭を下げた。
    「現状を言うと、そんな方法は、どこに行っても無い」
    「あ?」
    「俺は六百年以上、魔術と関わってきたが、そんな方法はまずありえへんし、聞いたこともない。そもそもこいつの能力自体がありえへんのや」
     人を魔族に変える力を持った魔族は潔世一(魔王)だけ。その潔世一(魔王)が知らない使えないという時点で実現不可能だ。
    「それでもお前らは探すっちゅうんやろ?そんな途方もない上にあり得んことに付き合いとうないけど、俺らの魔王が手を貸すっちゅうことやから、しょうがないから現世組(俺ら)も手を貸したる」
     ここで余計なことを言おうものなら、冴は即座に烏の首を落としていたところだった。烏は冴の殺気を的確に読み解いていた上で、宣言したのだ。魔王が安堵の表情を浮かべていたが、冴は見向きもしなかった。
    「…で。まずは必要な環境を手配したる」
     馬車が静かに停車した。烏が先に降り、七星、魔王と続き、冴は最後に降りた。
     人里離れた丘の、林の中に隠れた小さな屋敷が、冴の目の前にあった。人工的な灯りがほとんどない代わりに月と星の光が照らしている。そのお陰で、夜であっても、こじんまりとした古風な建築であることを確認できた。
    「オイ。どこだここは?」
    「俺が管理してる土地の一つや」
     は?冴は低い声を発した。
    「色々動くにはこういう場所が必要となってくるんや。俺みたいに人間社会に溶け込んでる奴は結構おるで」
     冴は馬車の騎手を睨む。堂々と話していられるということは、この騎手もそちら側であるということか。人間に擬態できる魔族はこれまでも倒してきた。だが、烏と七星(こいつら)は段違いだ。魔族であるという前提が無かったら、冴ですら見逃していた。
    「で。ここで何しようっていうんだ、クソ魔族」
    「とりあえず中に入ってからや」
     烏が鍵を開けて先に入る。最後尾の冴が入ると、屋敷の中が明るくなった。定期的に手入れが入っているのか小綺麗だ。
    「ここは好きに使こうてもええ」
    「うん、ありがと」
    「まだ礼を言うには早いで、凡」
     こっちや。先導する烏に、冴は油断ならない面持ちで最後尾を付いて行く。烏の本命は屋敷の中でも特殊な場所…地下であった。太陽が当たることがない、冷気が漂う、地下の牢屋。どうしてこんな屋敷の中にこんなものがあるのかと疑いたくなるほど似つかわしくない。おそらくあの建築模様は本命であるこの地下牢を隠すためのものだろうと、冴は推理する。
    「この地下牢に結界を張った。どんなに強い瘴気でも隠せるやろ」
    「ここで何をするつもりだ?」
     低く唸るように詰める冴に、烏はすんなりと答える。
    「ここにお前の弟を封じる」
    「あ?」
     冴は威嚇するように烏を睨んだ。
    「アンタの弟…は今、凡の腹ん中におる」
     傍らに立つ魔王を親指で差しながら、烏は冴の威嚇をもろともしていない様子で平然と答える。
    「想像以上の速さで、魔王(コイツ)の腹の中で急激に成長してるらしくてな。このままだと民家のど真ん中で大騒動が起きる危険があるんや」
     冴は眉間を剣呑に寄せて魔王を睨むと、足音を鳴らして接近し、胸倉を掴み上げた。魔王は簡単につるし上げられる。見目通りの軽さであった。
    「どういうことだテメエ?凛が何だって?返答次第ではここ一体焼野原にするぞ?」
     いや、あの…、魔王は狼狽えて言葉を探している様子であった。ちょ、ちょ、ちょ、ストップ!七星が冴の腕を掴んだ瞬間、袖の下に隠していた銀環に刻まれた御言葉が光の弾丸となり、七星の鳩尾を穿つ。七星…っ。魔王が吊り上げられたまま呻く。倒れかけた七星に目もくれず、烏は冷たい視線を投げるばかりで、庇おうともしない。
    「待ってくれ…わかった、話す…!」
     反撃も抵抗もせず、魔王は圧迫されたまま、殺気立った冴に答えた。
    「凛には、素質があったんだ…上級魔族になる素質が…俺の血を喰らって、今も急激に成長してる…俺の腹の中に居続けるのは、却って凛を増力させる…このままだと、いずれ凛は手に負えなくなる。そうなる前に、凛を解放する」
     この地下牢は、凛を封じるための檻である。でなければ、巨大化した力によって、凛が滅びてしまう危険性がある。魔王はさらに続ける。
    「教会は凛の存在に気付く…そうなったら、俺は凛を連れて、地獄に還らなければならなくなる…一生、凛と、会えなくなる…それは凛も望んでない」
     冴の目が見開いた。冷静さを失わない目に朱色が迸った。激情を力に変えて、魔王の鳩尾を蹴りいれた。軽い身体が地面に容赦なく打ち付けられる。七星が声なき悲鳴を上げ、烏は冷徹を貫こうと拳を強く握りしめて耐える。
     一発蹴りいれた直後、冴の感情がすうっと波引く。
    「…………好きにしろ」
     淡泊すぎる返答に、烏はいい顔をしなかった。流石、冷徹なる若き天才。冷静沈着すぎて気味が悪いわ。表情には出さないように、心中でぼやく。七星に助け起こされた魔王は、ふらつきながらも、冴を真っすぐ見つめる。
    「今すぐ信じろとは言わないけど、凛のことは俺達に任せてほしい。絶対に守ってみせる」
     つくづくこれが本当に魔王なのかと、冴は却って不快感を強めた。冴を見つめるその青の双眸は、一点の曇りもない輝きを秘めている。凛と通じるものを感じてしまうのがより一層に不快だ。
     烏が数回手を鳴らした。
    「とりあえず見学会は終わりや。場所は覚えたな?潔と弟は今日からここで暮らす。てなことでもうアンタは用済みや。外で待たせてる馬車で帰れ」
    「……は?」
     今日一番の重い声が腹から出た。
    「何言ってんだテメエ?」
    「いや、何でキレてんねん自分?」
    「ふざけてんのかこのクソ烏野郎?殺すぞ?」
    「いやいや、何でそうなんねん!」
     瞳孔を見開いて眼光を飛ばす冴と狼狽える烏の間に、魔王が入る。
    「現世(ここ)にいる間、俺と凛はここに滞在する。もし何かあった時は、俺の名前を呼んでくれるだけでいいから。そしたら直ぐに冴のところに飛ぶから」
     不可能な話のようであるが、魔王は五感が常人を遥かに超えているため、何キロメートル先の声を拾うことが出来るのである。
     だが――――冴はいい加減にキレそうだった。
    「勝手に決めんじゃねえ」
     否、冴の苛立ちは頂点に達していた。ただでさえ短い気はとっくに切れている。
    「え…?」
    「全ての決定権は俺にある。テメエらにはねえ」
     オイオイ…烏は顔をしかめ、七星は当惑して、魔王と冴を交互に見回す。
    「いや、でも、だからって冴の家に匿う訳にはいかねえし…」
     困惑気味で説明しようとする魔王の言葉を、冴は一刀両断した。
    「俺もここに住む」
    「え……?」
    「言ったろうが。テメエは俺が監視する。一分一秒片時だって、俺がいる間は、テメエに自由は無いと思え」
    「オイ凡、簡単にうんって言うんじゃあ…」
    「解った」
     止めようとする烏の言葉を遮って、魔王ははっきりと答えた。
    「オイ!この凡!」
    「冴と一緒にいた方がいい気がする。これから一緒に凛を人間に戻す方法を探すんだから」
    「潔さん…」
    「烏も七星もごめん。でも、俺のことは大丈夫だから」
     そういうこっちゃないねん。烏は額に手を当てて恨みがましく呻いた。
    「とりあえず、よろしく頼むよ、冴」
     冴は不快感で吐きそうになるのを堪えて、魔王の言葉を素通りすることに留めた。



     その後、改めて魔王との間に条件を提示する。
    「俺からテメエに言い渡す条件がある。一つでも破ったら殺す」
    「二言目は殺すしか言えんのか自分?」
     魔王一人では不安だということで傍らに付きそう烏が引き気味に漏らすが、冴は当たり前のように素通りする。
    「一つ、常に俺の目の届く範囲内にいろ。一つ、俺に一定以上近寄るんじゃねえ。一つ、俺に直接接触するんじゃねえ」
     人間を襲った場合即座に対処する。俺の許可なく離れるな。俺の許可なく力を解放するな。俺の命令には絶対服従だ。俺以外の人間と必要以上の接触は許さねえ。…………諸々。
     言い終えた時には、魔族三体はげんなりとしていた。
    「文句があるんだったら今すぐここで殺す」
    「いや、ねえけど…」
     魔王がちらりと烏に一瞥をくれる。烏がわざとらしく鼻を鳴らすのを見て、また冴に視線を戻した。
    「解ったよ。でも、それだったら対等とは言えない」
    「あ?対等?クソかテメエ。テメエと俺が対等だって誰が決めた?このヘボ魔王」
     殺気を込めた罵詈雑言を容赦なく言い放つ冴を、魔王は怯むことなく受け止める。
    「契約がされてない以上、俺達は対等の関係だ。俺は凛を匿い、冴の手伝いをする。その代わりに冴は俺達を見逃す。冴が条件を出すのなら、こっちにも権利があってもいいだろ?」
     こいつ、見た目は俺よりも下のくせして、弁が回りやがる。知能がそれなりにあるし、交渉にやけに慣れてやがる。対話ができるってだけでも異常だっつうのに、何なんだこいつは?疑問がより深くなる。いや、そんなこと今は重要ではない。
    「なら、テメエの条件ってのは?」
     冴が吹っかけると、魔王はすんなりと答える。
    「俺の仲間を三人程、ここにいさせてほしい。凛の監視とここの防御を兼ね備えたいんだ」
     この後、魔王は地獄より眷属を三体呼び寄せる。防衛に長けた能力を持った上級魔族二体と、稀少な聖術使いの下級魔族一体である。名はそれぞれ雷市、我牙丸、イガグリである。
     それから。魔王は二つ目の条件を提案する。
    「魔族を相手に戦う場合、直ぐには倒さず、一度交渉をさせてほしい」
     あ?冴は眉尻を吊り上げた。
    「…つまりは猶予を与えろってことか?」
    「そう。退魔師(冴)側の案件だったら俺は手を出さない。だけど、魔王(俺)達側の過失だった場合は、処遇は俺に一任させてほしい」
    「ふざけてんのかテメエ。いい加減に殺されてえのか?」
     今すぐにでも目の前のこの得体の知れないものを血祭にして、永遠に再生できない身体にしてやってもいい。しかし、魔王は冴の抜き身の殺意に対して、気丈であった。
    「魔王(俺)達には魔王(俺)達側の領分がある。そうやって俺達は世界の均衡(バランス)を保ってきたんだ。だけどもし、明らかに有害な魔族であったのなら、冴の好きにして構わない」
    「そういう問題じゃねえよ。解ってねえのなら耳の穴かっぽじってよく聞け」
     魔王と距離を詰め、目と鼻の先で眼光を飛ばしながら、言い放つ。
    「俺は魔族(お前ら)が死ぬほど嫌いだ。同じ空気を吸うのも嫌いだ。俺の目に映った魔族(やつら)から殺してやるぐらいに嫌いだ」
     今もこうして魔王と対峙していることだって。魔王を近くに侍らすことだって。冴には地獄でしかない。だが、この魔王がいなければ、凛が元に戻るは絶望的だ。だからこれは一時的な冴の忍耐。
    「もし凛が元に戻ったら、速攻で魔王(お前)を殺してやるからな」
    「いいよ。冴の好きにすればいい」
     魔王の双眸は真っすぐ過ぎた。冴には眩しいぐらいに。
     こうして、魔王との交渉は終了した。烏と七星は去っていく。
    「…ああ、一つ忘れてもうた。教会に保管されてる魔導書の類はな、全部偽物や。俺が改竄したやつばっかやで。片っ端から調べてたら百年はかかるからな」
     烏はそう言って、飄々と去っていった。
     冴は部屋に戻る前に、もう一度地下室に降りていった。頑丈に閉じられた牢の中には、魔王から取り出された凛が眠っている。灯りが無いため全貌が見えないが、獣のような巨体を上下に膨らませて、ぐっすりと眠っている。凛から瘴気は感じられない。鉄格子が遮断しているためである。
    「冴…」
    「話しかけてくんじゃねえ」
     冴の直ぐ後ろでたじろぐ気配が鬱陶しい。凛が元に戻るまで、この得体の知れないものと生活を一緒にしなければならないと思うと心底嫌気が差す。冴は魔王と向き合った。
    「言っておくぞ。凛が元に戻ったら、速攻でテメエを殺すからな。忘れるな」
    「うん。冴の好きにしていい」
     魔王は冴を真っすぐ見つめて言い切る。真っすぐすぎる双眸の光が殊更鬱陶しい。首を絞めたいと震える腕を理性で留める。
    「凛は俺がこのまま一晩見ておくから、冴は部屋に戻ってもいいよ」
    「あ?」
     え…。冴の反応に魔王はたじろいだ。
    「だって、冴、疲れてるだろ?まともに休んでないし…あ、腹減ってる?」
     違え。ぎらりと睨むと、魔王は後ずさった。
    「まだ解ってねえのかテメエ?」
    「え、と…ごめん…?」
    「一分一秒テメエを監視するってことは、俺の行く先々、テメエも来るってことだ」
     冴の言葉に横殴りされたみたいに放心し、え、と目を見開いて固まったのが、殊更冴の気に触れる。魔王のくせして、どうしてそんな無害な人間みたいな反応をしてくるか。これが人間を騙すための演技だとしたら、全部無かったことにして細切れにして殺す。凛は一人でどうにかする。
    「そ、それって…家の中でも、俺は冴と一緒に行動しないといけないの?」
    「殺すぞ?」
    「いや、でも、それって却って非効率っていうか…冴は疲れない?」
     疲れてるわ。今も疲れている。昨日からまともに寝れていない。だが、全ての元凶が目の前にいては、おちおち休んでもいられないのだ。
    「まじで殺すぞこのクソ魔王…っ!」
    「ごめん、ごめんってわかった!」
     冴の眼光に怖気ついて逃げたいって顔をする魔王の顔に向かって、特大の舌打ちを鳴らした。
     幸運なことに、ベッドが二つ並んでいる部屋があったので、そこを冴の部屋とすることにした。冴と魔王、ではなく。“冴”の部屋である。魔王は半眼になって何か言いたそうにしていたが、一切見なかった。
    「冴、寝ないの?」
     夜更けも大分過ぎている。ベッドに腰をかけ、対面する同じ態勢の魔王を、ひたすら睨む。
    「テメエが寝たら俺も寝る」
     魔族でも睡眠が必要だってことは、昨日と今日で実証済みだ。魔王は目を一瞬下に泳がせたが、分かった、と物わかりよく、ベッドに横になった。やがて耳に聞こえる、規則正しい寝息に、冴はベッドに入る。
     寝ると言っても油断はできない。緩み切れない理性のままだったせいか、睡眠が浅いまま朝を迎えた。
     夜明けと共に起きた魔王の気配で、冴も起き上がる。
    「冴、大丈夫?寝れた?」
     人畜無害でお人よしみたいな演技しやがって。まじでこいつ殺す。冴は殺意を煮えぎたしたが氷の理性で堪える。
     聖服を身にまとい、顔を洗った後、完全栄養食を口に含む。朝の定例行動(ルーチン)終了。
    「それだけ?」
    「あ?」
    「ごはんそれで足りる?」
     余計なこと喋るんじゃねえ。冴の理性がぐらつく。これが演技なのか擬態なのか分からない分気分を悪くさせる。
     魔王を連れて一旦冴の部屋に帰る。しまい込んだまま埃を被らせていた、昔の聖服を取り出して、魔王に投げた。
    「これ着てろ」
     何で?と訊かれたが、眼光で黙らせた。冴の監視の元、魔王を着替えさせる。均衡のとれた肉体はやはり人間そのものだ。人型に近い魔族でもどこかしら突起物が生えているものであるが、目の前の肉体にはそれがない。人間だって言ってしまえば、コロッと騙される。
     騙されるな。常に警戒しろ。魔族というのは総じてクソだ。こいつは何百何千の命を喰った。そうでないと魔王なんて名乗れる筈がない。
     ちょっと肩がぶかい…。冴が十三歳の頃に着ていた聖服を纏った魔王は、冴の目には不気味に映った。本来敵対すべき魔王が退魔師の服を着ている。自分がやれと言ったことであるが、事実だけでも吐き気がする。それが妙に合っているのでさらに吐きそうだし、言われないと解らないぐらいに完璧に擬態できているのがさらにさらに悍ましい。やっぱりこいつは絶対に殺した方がいいと冴は改めた。
     行くぞと端的に命じて、魔王を連れて向かうのは、不穏な混乱の真っただ中である中央教会の本部である。
     テメエは何も喋るな。必要なことは俺が全部言う。破ったら殺すからな。と脅迫紛いに言い含めて、本部に足を突っ込んだ。魔王を連れて。
     魔王が教会にいるという事実が、寝不足と栄養不足の身体に毒を生んだ。気持ち悪い事実だ。これが銭ゲバ狸共の耳に入ったらこぞって卒倒していただろうな。しかし、これがお前らが狙っていた魔王だぞ、どうだ?何か言えクソデブジジイ共と見せつけたいのも事実。
     普段だったら一級退魔師がたむろする内部も手薄だ。先日の失敗の尻拭いに奔走しているところだろう。
    「やあ、冴!元気かい?」
     天才一級退魔師糸師冴を相手に物おじせずに軽快に話しかける声に、冴は舌打ちを鳴らしかけた。
     声の主は、冴の先輩である、レオナルド・ルナだった。
    「おや?珍しいね。あの糸師冴が可愛い子を連れているなんてね」
     ルナの目が魔王に向いたので、冴は横目でじとりと魔王を睨んで牽制を入れる。
    「え、と…」
    「だけど君、見たことが無いね?」
     冴から魔王に興味が向く。ルナは異様に勘が良い。怪しまれる前に先制する。
    「そいつは一般人だ」
    「ああ、それで見覚えが無いと思ったわけだ…いや、どっかで見たことがあったかな?」
    「街中で見かけたんだろ。使えるから連れてるだけだ」
    「へえ。他人嫌いの君が誰かを傍につけること自体、驚愕だね…」
     ルナの目が冴に向く。興味関心の色の中に含まれる疑惑の視線だ。
    「そういえば、君の弟、まだ見つかってないみたいだね。心当たりあるかい?」
    「ねえよ。無駄なこと訊いてくんじゃねえ」
    「家族なのに冷酷だね。それとも、手がかりを既に見つけてる?」
     冴は牽制を込めてルナを見返す。これ以上踏み込むなという警告である。
    「オーケー。これ以上は訊かないことにするよ。だけど、一般の子を連れて歩くなら、それなりの手続きを踏む必要があるよ。手伝ってあげようか?」
    「余計なお世話だ」
     魔王に視線で命じて、ルナから離れた。危惧はあった。あれ以上、ルナと話していると、見抜かれる危険が高かった。あいつは…いや、ルナ以上に危険な輩が、ここにはたくさんいる。糸師冴を凌駕する才能の持ち主がうようよいるのだ。
     人目を避けながら冴は魔王を連れて進んでいく。人の気配に注意しながら、図書保管室へと潜り込む。人の気配は感じない。司書すらもいない。冴にとって好都合であった。
    「探すぞ」
    「え、何を?」
     ここまで来ても、魔王は察しが悪く、冴に問う。冴は舌打ちを鳴らしたい衝動に駆られた。
    「魔導に関連するもの全部だ。この中に手がかりがあるかもしれねえだろうが、ヘボが」
    「え…でも、ここにあるのは、全部烏の手が加わってるって…」
    「んな話信用できるか。俺は魔族(お前ら)を信用しねえ。自分の目で確かめる」
     元よりそのつもりであった。冴は魔族を信じない。奴らは人の皮を被った獣だと、信じて疑っていない。例外などない。
    「でも、こんな量を二人だけってのは、時間がかかるって」
    「いいからさっさと動け。殺すぞ」
     先に手近な場所から一冊ずつ引き抜いて、頁に目を走らせた。魔王は何か言いたそうにしていたが、口を噤んで、冴の目に付きやすい場所から探し出す。
     この場所には、ありとあらゆる魔導書が保管されている。退魔師が相手にするのは、魔族だけではない。魔族を召喚し、使役する魔導士も対象だ。魔導に対抗する為には、魔導についての知識は不可欠。これまで捕縛してきた多くの魔導士たちの知識が集められている。つまりは魔導書の宝庫。ここなら、凛を助ける手がかりがあるかもしれない。冴は己の勘だけを信じている。
     早速調査は難航した。無理も無い。何千もの書簡をたった二人で調べるには時間が圧倒的に足りない。毎日朝から晩まで缶詰になって本を開いては閉じて、開いては閉じて、棚に戻して引っこ抜いて、また開いて閉じる…これを繰り返していても、記述されているのはどれもこれも似たものばかり。いかに最小限の代償で魔族を召喚するかが主であった。
     始めて早二か月と幾日は過ぎていた。
    「なあ、冴。もう止めよう。別の手立てを考えよう」
     何百もある棚の四分の一も調べ終えていない。このまま終われるかと、冴は意地になっていた。
    「烏が言ってた通りなんだよ。頼むから、俺の話を聞いてほしい」
     魔王が手を止めて何か言っている。全て無視して、片っ端から本を引き抜いて、卓の上に置いた。
    「冴…あれから碌に休んでないだろ?少し休もう」
     無害な人間の振りをしている。こいつはこうして、人間に取り入るんだ。信用できない。そもそもこいつが原因で、凛は。
    「冴」
    「いい加減にしろヘボ。俺の命令に逆らうんじゃねえっつってんだろ」
    「でも、碌に寝れてないだろ?休もう。俺と違って、人間の身体は脆いんだから」
     魔王の言葉は的を得ていた。あれから、寝れていないどころか、食事も摂っていない、休めていない毎日が続いている。常に神経を尖らせているのだ。そんな状態が続くと、流石の冴も疲労が溜まる。身体は限界を訴えていた。だが、魔王を常に傍に置いている限り、隙を見せられない。ほんの些細な隙も、こいつは見抜いて利用してくる。魔王に一切の隙は見せられない。結果、身体の疲労は積もりに積もっていく。
    「冴!」
    「黙れっつってんだろ」
     苛立ちが爆発して、理性が飛んだ。怒りを魔王にぶつけると、唖然として冴を見返す。一瞬でも感情的になったこと、それを寄りにもよって魔王に晒したことが、冴の矜持に傷をつける。
     冴は立ち上がり、卓の上に積んだ本の山を置き去りに、奥へと進んだ。冴の後を、魔王が律儀に付いてくる。最奥へと突き進めば、太い鎖で封鎖された特別書庫が見える。長老級しか立ち入ることのできない禁庫である。冴は神弟子の地位にあるが、そこに入ることは許されていない。破れば懲戒処分を受ける。重々承知している上で、鎖に手をかける。
     が、寸前で、肩を掴まれて、制止された。
    「冴、聞けって!」
    「あ?」
     触られた不快感と呼び止められた憤怒を持って魔王に振り返る。
    「冴、焦るのも解る…でも、ここには無いんだよ。最初から無いんだ」
    「黙れ」
    「烏の言ってたことは本当なんだよ、冴」
    「黙れクソが。勝手に決めつけるんじゃねえ」
    「冴!」
     言い募ろうとする魔王を、鋭い眼光で諫めて、言い放つ。
    「そもそもここをどこだと思ってるんだ?ここはお前らの天敵の本拠地だ。魔族ごときが立ち入ること自体不可能なんだよ。俺らを舐めてんじゃねえ、マジで殺すぞ」
    「…違うぞ、冴」
     冴の圧倒的な眼光に、魔王は物怖じしていない様子で立ち向かってくる。
    「あ?」
    「お前らが想像しているより、魔王(俺達)は深く人間社会に根付いている。それに、魔族が立ち入ることができないって言うけど、現に俺がここにいる時点でその事実は矛盾してる」
     ばさり。魔王の肩に、見慣れない鸚哥が止まる。
     ボンノイウトオリヤ。ヒボンニイチャン。鸚哥が喋った。その、人の勘を逆撫でするような訛った口調に覚えがある。鸚哥を通して、烏と名乗っていた魔族が話しかけてきているのだ。
     セヤカライウタヤロ。サガシテモムダヤッテ。ホンマヒトノハナシキカンヤッチャナア。
     鸚哥が喋っている。いや、そこではない。注目しなければそこではないのだ。
     ここは中央教会本部だぞ。なのに何故、どこから、どんな手を使って、干渉している?目を見開く冴に、烏は鸚哥の向こうでにたりと笑う。
     ネズミノアナダッテコッチハハアクシトンノヤ。コノバショモハジメテトチャウデ?ワカッタカ?
     魔王の肩に乗った鸚哥が喋り続ける。抑え込んでいた激情がぐつぐつと煮え返る。
     振り払うように背を向け、鎖に手をかける。
    「冴」
    「“冴”?」
     ルナの声が割り込んだ。不思議そうな表情をぶら下げて、覗きに来ていた。魔王とほぼ同時に振り返る。ルナは状況を素早く読み取って、冴の肩をやんわりと掴んだ。
    「図書室で痴話喧嘩はよろしくないな。そこは立ち入り禁止区域だよ?何も見なかったことにしてあげるから、今日はお帰り」
     冴がしようとしていることを読んでおいて、軽く諫める程度で終わらせる。微笑は温厚であるが、双眸の奥には読めない腹黒さがある。肩を掴む手は明らかな牽制が示されていた。
     怒り猛りかけた激情を、冴は瞬時に治める。本部付きになってからは感情操作が長けるようになっていた。感情を見せることは、ここでは致命傷になる。一寸の隙だって見せることはできない。
     ルナの手を振り払い、出口へと向かう。魔王が追従する。
    「ところで、話し声が他にも聞こえた気がするんだけど、他に誰かいたのかい?」
     冴の背に向かって投げられた言葉に対して、冴は魔王に視線を投げて詰める。すると、肩に乗っていた鸚哥が、キョウハオヒガラドスナ。ホンマエエテンキデスワ。と意味の無い言葉を喋り出した。ルナはそれ以上追及しなかった。魔王を連れて、本部を後にした。
     夜を迎えて、冴はベッドに入り、瞼を閉じる。完全に意識を落とさないように、隣で寝入る魔王の少しの気配に神経を向ける。だが、数日の疲労が祟ってか、完全な眠りに入ってしまった。
     その時を、魔王は待っていた。
    「よし」
     規則正しい寝息を耳で確認して、こっそりとベッドから抜け出した。
     魔族は眠らない。眠りを必要としていない。消耗した場合は血肉を取り込むことで回復する。だが例外も存在している。怠惰が例外だ。ただそれの場合は性情である故、眠るという行動を起こす。それは魔王も該当する。魔王は不老不死であるが、それは魔王が持つ七つの力によるものなので、死にはしないが疲労は感じる。その疲労を回復する手段が眠りである。
     召喚された直後に深い眠りについていたのは、怠惰の生還に力の大半を持っていかれたのと、出鱈目な召喚陣で肉体を真っ二つにされた傷の回復の為に力を費やしたからであった。
     魔王が寝た振りを続けていたのは、頑なに寝ようとしない冴の身体を慮ってのことであるが、冴は気付いていないだろう。
     音を立てずに寝室を出た魔王は、地下牢へと向かう。地下牢からは瘴気が漂っていた。封印が施されているお陰で地上には出てないが、それでも猶、抑えきれていないところを見ると、異常さが一目瞭然だ。地下牢の前で監視する三体の眷属の間を縫って、躊躇いもなく鍵を開けて、中に入る。
    「凛」
     獣のような唸り声が薄暗い闇の向こうから木霊する。名前に反応したそれは、青い双眸を不気味に輝かせて、魔王を睨む。魔王は静かに見つめ返した。
     その十数分後に冴は目を開いた。はっと弾かれるように起き上がり、空になっている隣のベッドを睨んだ。クソが。恨めしい声を上げて、俊敏に動いた。
     ただでさえ魔王の気配は読みづらい。冴は直感で魔王を探した。地下室に通じるドアを開けて、駆け足で降りていく。下に進めば進む程、肌に悪寒が突き刺す。それは、魔族の瘴気と呼ばれる異質の空気だ。虫の知らせがする。凛。降りていく程瘴気は濃くなっていく。
     がん。足元が揺れた。甲高い音が何度も響く度に床が揺れる。続いて獣のような吠え声。鼻に掠る血の匂い。凛。凛に何かあったのかと、冴は逸る心臓を抑えて駆け下りる。
     地下牢にたどり着いた直後、冴は後悔した。全てに後悔した。
     魔王の眷属が冴の存在に驚いている向こうでは、筆舌に尽くしがたい狂宴が開かれていた。
     冴を優に超える巨体による、一方的な嬲り殺しだ。並んだ鋭い牙は血肉を食いちぎり、獣のように肥大化した手指の先に伸びた爪は内臓を引き裂き、巨木のように太くて長い腕は肢体を何度も叩き潰し、黒一色の巨大な大足は骨を踏みつぶしていた。色濃い瘴気を漏らす口から出た長い舌は床に広がる膨大な量の黒い血を飲んでいた。
    「ざ、ざ、え…っ」
     頭蓋骨を潰されて、頭が半分になったとしても、魔王は生きている。喋れたのは辛うじて腹と咽喉があったからだが、血を吐き出しすぎたせいで発音が危うい。獣は半分になった頭部を鷲掴んで、壁にたたきつけた。黒い血を頭から浴びて、光悦に、笑っている、そのように冴の目には見えた。
     冴は理解した。凛は、弟は、この世には、もういない。あそこにあるのはただの魔族だと。
    「見るんじゃねえさっさと上に戻りやがれ――――」
     雷市が冴の肩を掴んでその場を離れさせようとしたその時、光の弾丸が雷市の鳩尾に穴を開けた。魔王と同じ黒い血を大きく開いた口から吐いてよろめいた。
    「雷市!」
    「な、なん、何だよ、南無三!」
     他二体も冴は光の文言で払った。光の文言が鎖となり、二体を壁に磔にする。
    「待ってろ、凛…お前を殺して、俺もそっちに行く…」
     地下牢の鍵を開けて中に入ると、濃縮度の瘴気が冴を襲う。魔の双眸が冴を向いて、燦々と輝く。新しい獲物を見つけて歓喜しているのだ。冴の脳裏に面影が過る。目の前のそれは、記憶のものとは何もかもが違う。同一ではない。凛は死んだ。何百もの魔族を祓ってきた聖術を、凛だったものに狙いを定める。冴。誰かが呼ぶ声を無視して、光の文言を放つ。光はそれの身体を穿った。それは激痛の咆哮を上げてのたうち回った。無数の光を漂わせて、一歩ずつ距離を詰める。
     と、凛の前に、黒い血塗れになった身体が差し込んだ。
    「待て、冴見誤るな」
     両手を広げて、魔王が阻止しに入った。抑え込んだ感情が一瞬で瓦礫した。
    「退け」
    「殺した魔族は二度と蘇らない地獄に還ることも出来ない魂は消失する殺してしまったら、凛は二度と、冴の元に戻ってこない」
     魔王の言葉が脳を揺らす。だったらどうすればいいのか。弟は、凛は、もういないのに。
     誰が殺した?魔王か?銭ゲバジジイどもか?
     違う。冴(俺)だ―――――――。
     一瞬の隙が生まれていたことにすら自覚が持てず、背中を取られる。
    「いってえんだよクソがああああああ」
     冴を羽交い絞めにした雷市から電流が発生し、冴に流れた。意識が暗転し、糸が切れた人形のように身体が倒れた。それから先のことは、冴は知らない。



     鈍い頭痛によって意識が浮上した。戻ってくる感覚に、匂いが付く。優しい味噌の匂いだ。重い瞼を開くと朝日が入る。気絶させられていたらしい。硬い身体に力を入れながら状況を把握する。ベッドではなく、シーツを被ったソファーの上で寝かされていた。律儀にも布団と枕も付いていた。匂いのする方向に視線を向けると、異様な光景がそこにあった。暖炉の火を使って調理する魔王がいた。どこからどう見ても普通の人間にしか見えない分に異常な光景だった。
     魔王は冴の覚醒に目ざとく気付いて、鍋をかき混ぜる手を止めずに顔だけ振り向く。
    「起きた?おはよ。やっぱり疲れてたんだな?昨日はぐっすり眠ってたよ」
     温和な面影に、穏やかな声音、気遣いの言葉。優しい匂いが合わさっているせいか、魔王というよりも、天の御使いの気さえも感じる。
     鈍い額を抑えながら上半身を起こして、身体の異常を確かめる。電流を喰らったお陰か、筋肉がほぐれている。電撃療法っていうのだろうか。
    「雷市がごめんな。多分、影響はないとは思うけど、気持ち悪くなったらいつでも言って」
     穏やかに言いながら、魔王は傍らの器に、鍋の中身を注ぎ始めた。続いてやかんが火を噴く音。懐かしさすらも感じる蒸気音は心地よい。
     魔王は盆を二つ、両手に器用に持って、冴に歩み寄る。
    「はい、こっちは冴の分」
     差し出された盆の上には、白い握り飯がちょこんと並んだ平皿と香ばしい味噌汁、付け合わせが載っていた。
    「いらね」
    「良くない。食べろって」
     顔をそむけるも、目の前に突き出されてしまい、食欲に抗えなかった。盆を受け取り、湯気の立ったそれをまじまじと確認する。どこからどう見ても普通の朝食だ。魔王はよっこいしょっとかけ声を出しながら、床に座り込んだ。
    「毒は入ってないよ。俺が食べて証明しようか?」
    「…毒ごときで死ぬような身体じゃねえだろ?」
    「まあ、そりゃそうだけど、でも喰ったら毒が抜けるまで苦しいよ?昔試したことがあるんだよ。トリカブトでさ」
    「馬鹿じゃねえかお前」
    「かもな」
     あはは。魔王は意味なく笑った。屈託もなく、子供の冗談のように笑う。魔王の傍らにも同じ品が並んだ盆があって、行儀よく胡坐をかきながら、一つを取って一口食った。うま。ぺろりと声を上げる魔王の一連の動作を、冴は信じられないと凝視した。
    「テメエも食うのか…?」
    「うん」
     魔王はもぐもぐと咀嚼しながら答えた。
    「…つーか、食えるのか?」
    「へ?」
    「人間の食うもの…」
     食塊を嚥下してから魔王は答えた。
    「食えるよ」
    「お前らの生体どうなってるんだ…人間や魔物しか食わねえんじゃねえのか?」
    「普通はそう。俺は趣味みたいなもん。食う必要は無いんだけど…忘れないようにするためにさ」
     魔王は味噌汁をずずっと一口飲んだ。
    「俺はね、冴…人間が好きなんだよ。人間も、人間が住むこの世界も好きなんだ。言ってること意味分かんねえって思われるかもしれないけど、好きだから守りたいんだ」
     諸悪の根源、退魔師の最終目標、地獄を統治する最悪の生き物が、何か言っている。到底信じられない、裏切りの言葉である。だがしかし、何故か冴は腑に落ちた。
    「たまに地獄を抜け出して、人間の世界を見て廻るんだ。その時に覚えた味や文化を忘れないように、こうやって作ってる。守らなきゃいけない価値が、ここにはいっぱいあるんだ…だからさ」
     魔王は笑みを深くして、唖然とする冴と、向き合う。
    「ちょっとだけでもいいからさ…俺の事、信じてくれない?俺は冴のこと信じる」
     もしこれが全て演技だとしたら、目の前の生き物は絶対に滅ぼさないといけない。
     向けられる子供のような笑みを見て、握り飯を見る。つやつやのそれを一つ取り、慎重に口にした。中身は焼き鮭だ。口に入れた途端に、身体がぽかぽかと熱を産出した。湧き出る泉のように食欲が止まらず、三口で食べ終わる。あと一個も気付いたら無くなっていた。足りねえと思っていると、斜め下から握り飯が載った平皿を差し出されて、遠慮なく取った。締めの味噌汁は、これまた美味い。冴の故郷の味に似ていた。そういえば、この五年間の食事はほとんど携帯食ばっかりで、まともな飯を食べることもほとんど無かった気がする。
    「美味かった?」
    「…次、梅昆布入れろ」
    「うん。わかった」
    「…他、何が作れる?」
    「魚でも肉でも、知ってるものなら何でも作るよ」
     良かったら、今日から食事を俺に任せてくれない?という魔王の進言を、冴は一刀両断できなかった。
     最後にと、魔王はやかんにかけた湯で何やら作り始めた。戻って来た魔王の手元を見るなり、冴は目を丸くした。
    「はい。勝手にごめん。これ、烏に頼んで用意してもらったんだ。冴の家に行った時、並んであったのを見たからさ。好きなんかなって」
     受け取った湯呑の中身は、塩昆布茶だった。こいつ、心理戦にも長けているんだな。いや違うな。こいつはきっとこういう生き物だ。クソ。心から人間様大好きって面してんじゃねえ。理不尽な罵倒を心中で並べながら、湯呑の茶を一口含む。
     頭はまだ鈍いし身体も重いが、ゼロの自分に立ち返った。
     飲み終わった湯呑を盆の上に置いて、立ち上がる。
    「行くぞ」
    「うん…でもちょっと待って。片付けてからでもいい?」
     丁度いい。俺も一つ用事があった。魔王が食器を洗っている間に、冴は地下室へ赴いて、昨夜狼藉を働いた魔族に制裁を入れた。すっきりさせた後、魔王の作業が終わった頃合いで屋敷を出た。



     人通りの激しい往生で、人込みに紛れながら冴の隣を歩いていた魔王が、目的地を問う。
    「…で、今日はどこに行く?」
    「本部だ。方法を変える」
     視線を感じつつ、冴は歩きながら答える。魔王と口を利く気になったのは、決して塩昆布茶で魔王に懐柔された訳ではない。ただの気まぐれだ。
    「て、いうと、考えがあるってこと?」
    「だから向かってるんだろうがヘボ」
     容赦のない罵倒に魔王は慣れたらしく、蟀谷を収縮させるもなく、素直に受け取った。
     本部は変わらず後処理に追われており、閑散としている。半数以上の一級退魔師が脱会したが、死者が出ていないことがせめてもの幸である。元凶たる長老らも逃走経路を必死で探しているという。そんな噂を、冴は途中で鉢合わせた同じ『新世代十一傑』から聞かされて、彼らの目が魔王に向く前に離れた。
     本部内、魔術師取締審査部受付にたどり着く。そこは魔術師の調査部門だ。
     窓口にいた女性担当に、冴は無遠慮に言い放った。
    「危険度一級魔術師目録(リスト)を見せろ」
     いきなりの申請に、女性受付担当者は困惑する。目録(リスト)は毎年更新されており、申請すれば閲覧可能ではあるが、制限がある。特に危険度一級の目録(リスト)は上位でしか閲覧できない。現在の冴の等級(ランク)は神弟子。閲覧可能な等級(ランク)は使徒である。
     冴の圧力に圧倒されながらしどろもどろに説明するも、冴は睨みを利かせた。
    「知ってる。さっさと見せろ」
     傲岸不遜な態度に、それでもと募りかけるが、冴はさらに目を剣呑に光らせた。
    「この俺が見せろっつってんだよ。さっさと仕事しろ、無能職員」
     さしもの女性担当者も涙目である。
    「冴…相手は女性だろ。女性でも容赦ないのかよ」
    「あ?誰が口開いていいっつった?呼吸以外に口動かすんじゃねえ、ヘボ」
    「口悪すぎだろ…」
     傍にいた魔王ですらも引いてしまう。
     本格的に女性担当者が泣き出す直前に、両者の間に、小柄な体躯が滑り込む。
    「失礼します。如何されましたか、糸師冴さん?」
     本部長老秘書の、帝襟アンリが、冴と対峙するように向かい合った。
    「邪魔すんな。そこを退け」
    「それは聞きかねます。状況を把握する義務が私にはあります」
    「状況?そのヘボ職員が職務怠慢だっつう話だろ。解ったか?」
    「そんな説明では納得しかねます」
     冴よりも小柄であるが、帝襟アンリは冴の覇気に呑まれることなく、気丈に対峙している。強気な瞳には一切の恐怖は無い。
    「…危険度一級魔術師目録(リスト)が見てえ。出せ」
    「お言葉ですが、神弟子である貴方には閲覧許可は出ません」
    「出せっつってんだろ」
    「お断り致します」
    「これ以上俺に無駄な時間を使わせる気か?命令すらも聞かねえメス犬は不要なんだよ、ここには」
    「貴方の横暴さには苦情が出ております。この機会ですから、貴方の態度と素行について正式に手続きの上、訴えましょうか?」
     よからぬ空気が流れている。まさに一色触発の空気だ。殺伐とした空気に窓口は慌てだし、間近にいた魔王は自分が間に入り込むかと決めかねていた。
    「――――良いよ、アンリちゃん。許可出しちゃって」
     間延びしたような、空気にそぐわない声が、水面下の戦いを一瞬にして鎮火した。
    「絵心さん…っ」
    「俺が許可出すから。許可書頂戴」
     黒縁の目立った眼鏡をかけた、長身で痩身の男が帝襟アンリを宥めて、窓口に顔出した。
    「はい。これで良い?あと、これから糸師冴には無条件で見せてあげて」
     女性担当者は非常に困惑した様子で、絵心がサインした許可書を受領した。言葉をかけることも許さない速度で去っていく絵心を、帝襟アンリが追従していったことで、場は収まった。
    「…で、いつまでぼけって座ってやがる。動け」
     冴の容赦のない命令口調に、女性担当者は慌てて目録を取りに行った。
     突然の絵心甚八の登場を、冴は深く考えなかった。あれは長老の中でも奇人変人…恐らく世界一の奇人に分類されることを、知っていたからである。
     ふと、絵心甚八が去っていった方向を眺める魔王に気付いた。
    「お前もぼけっとしてんじゃねえ」
     思い切り魔王の腰を蹴り上げた。痛っ!間抜けた叫び声が上がった。
     目録の閲覧は、特別閲覧室と呼ばれる、閉塞個室内に限定されている。と説明を受け、女性担当者によって案内された個室に、魔王を連れて入る。窓も無い。扉は一つのみ。中央に机が一つだけ。その上に、禁書の札が張られた羊皮紙が一巻き置かれていた。
     個室が完全に閉じられた直後、冴は躊躇いもなく、羊皮紙を広げた。
    「…そろそろ教えてくんない?どうするつもり?」
     羊皮紙から目を離さないまま、隣から覗き込むようにかけてきた問いに答える。
    「蛇の道は蛇。こいつらから聞き出す。誰か一人ぐらいは思い当たる奴がいんだろ」
    「ああ。そういう…」
     連なった名前の一つに指を数度叩いて、目録を無造作に机に置いた。
    「齢六百年…普通は生きちゃいねえだろうが、長生きのジジイなら何か知ってるだろ。行くぞ」
    「え、あ、冴…本気?」
    「当たり前だヘボ」
    「でもさ…一級ってことは、すごく危ない相手ってことだろ?俺がいるから大丈夫かもしれないけど、もし冴の身に何かあったら…」
     言い紡ぐ魔王を、冴は額を指で弾いて黙らせた。
    「このクソヘボ魔王…俺を誰だと思ってるんだ?魔王(お前)を倒す男だぞ。たかが魔術師に負けると思ってんのか?」
     至極当然と言い放つ冴に、魔王は赤くなった額を擦りながら、申し訳ない様子で言い募る。
    「それは良いんだけど…………その二子一揮て奴、ここにはいねえよ?」
    「は?」
    「だってそいつ俺の眷属だし、地獄にいるから…」
     それを先に言え。冴は鬱憤晴らしに渾身の拳骨を喰らわせた。



     冴が選んだのは、極北に住む古来魔術を使う魔術師であった。魔族召喚を得意とし、数多くの魔族を呼び出し、幾十もの集落を潰してきたという、極悪魔術師。その被害総数は百件に達している。年齢も百年以上だと推定。容姿については詳細不明。極北の、冬の絶えない土地に目撃情報が出ている。
     到着して直ぐ、冴は機嫌が降下した。馬車から降りると、目の前に広がるのは白銀の世界。雪が容赦なく吹雪いている。因みに今の季節はまだ秋だ。冬ではない。襟巻と冬用外套でくるまれながら眉間に深く皺を寄せる。
    「だから言ったろ?絶対寒いって」
     言葉を投げてくるのは傍らの魔王である。冴の機嫌が降下した元凶だ。出立寸前にちょっとした小競り合いが勃発したのが発端である。
     行くぞ、と何の準備もしないで出発しようとした冴を魔王が呼び止めて、あそこは万年雪が降ってる土地だから厚着していった方がいいって助言した。は?馬鹿か。今何月だと思ってんだヘボ。と冴が反論し。いやいや本当だって!俺、あっちに知り合いがいるから行ったことあるけど、本当に寒いんだって。マジで凍死する。と返す魔王に、冴は意地になって口汚く反論し、それでも魔王は引かなくて、延々と水掛け論が続いて行き、二人分の外套を魔王が持って出ることで一旦は終着し…………結果は御覧の通りで、魔王の助言を否定した冴の敗けである。
    「クソが」
    「そんな怒らなくても…ほら、向こうにバルがあるから行こうぜ。ざくろはちみつが美味いんだよ」
    「要らねえよ、んなガキみたいな飲み物」
    「お?言ったな?あとで吠え面かくなよ」
     極北は山岳地帯である。氷と雪の世界。山々は全て真っ白に凍っている。ほとんど作物は育たず、極寒に適応した生き物だけが住みついている。勿論、獣だけでなく、魔族も含まれている。雪山の魔族がこの地を支配していると伝説があるぐらいには、出現率は高い。毎月退魔師が定期的に見回りに赴いている。山岳手前の集落には、七十二人の民間人が在住しており、猟師か退魔師の家系が主である。
     集落に一つしかないバルに入る。薄暗くて古い内装で、古ぼけたテーブルとカウンターは明らかに堅気とは思えない人相の男衆で半分は埋まっている。一人異質なのが混ざっているが…この極寒地では不釣り合いな高帽子の出で立ちが一人いる…それぐらいだ。
     カウンターの席を座って、店主にそれぞれ注文する。
    「ざくろはちみつ、まだありますか?」
    「…ブランデー入りホットティー」
    「へえ。冴、いける口?」
    「テメエと違ってな。子供舌」
     冴と魔王の背後から長身の影が差し込むと同時に、妙な気配が冴の感覚に引っ掛かる。
    「お前。潔世一か?」
     高帽子の男が席を離れて突然話しかけて来た。冴は瞬時に悟る。
    「…久しぶり蟻生」
    「ああ。お前も健在のようで何よりだ」
     男は長い黒髪を靡かせる。前振りもなく、冴は立ち上がって対峙した。魔王の名前を知っているということは、この男は確実に、魔王の眷属。
    「待って冴。蟻生は味方だ」
     魔王の腕が冴の腕を掴む。横目で睨むと、大きな目が冴を見上げている。
    「ふぅん…そいつが例の人間か?お前が人間とつるむのは珍しい」
     蟻生と呼ばれた男は冴よりも長身だ。黒い毛皮を首に巻き付けて、毛皮付き黒外套を優雅に纏っている姿は、品格のあるただの人間のように見えるだろう。
     だが、冴は感知していた。その男から微弱に漏れる瘴気の滓を。
    「俺を見下ろしてんじゃねえよ。潰すぞ」
    「生まれながらの体躯に嫉妬するのは“オシャ”ではないぞ、天才」
     酒場の空気が殺伐と化した。冴から一方的に流れる殺気が主な原因だ。長身の男からは敵意や戦意は感じない。その空気を宥めようと、魔王が冴の裾を軽く引っ張る。
    「冴。約束…」
     魔族が関わっていた場合、一度話し合ってから対処。その瞳は暗にそう忠告している。それを読み取った冴は間を置いて忌々しく舌打ちを鳴らした。
     蟻生は魔王の隣の席に優雅についた。
    「このタイミングでお前と再会できたのは幸運だった。潔」
    「そうだな。もうあっちの方はいいの?」
    「人魚(マーメイド)達の問題は片付いた。戻る前に、時光の様子を見に行こうとしていた」
    「そっか。実は、俺も時光に用があったんだよ」
    「その人間を連れてか?」
     立ったまま剣呑な視線を投げて寄こす冴を暗に示唆する蟻生に、魔王は答える。
    「極北の魔術師に逢いに来たんだ。この辺りに潜伏してるって聞いたから、何か知ってるんじゃないかって」
     がしゃん。硝子が割れる音が木霊する。魔王と蟻生の直ぐ傍から。湯を沸かしていた店主が硝子杯を落としたのだ。顔が青ざめており、目に見えて震えている。
     あんたら、アレを捕まえに来たのかい?若干震える口調で店主は尋ねる。
    「まあ、はい…」
     魔王が冴の代わりに答えた。店主はぶるりと震えて、声を潜めた。命が惜しかったら逃げな。若い命をむざむざ捨てるんじゃない。怯えていたのは店主だけではない。店内の空気も凍り付いている。
    「オイ、そこのお前」
     一瞬の静寂を、冴が鋭く切り裂く。
    「勝手に逃げるんじゃねえ」
     冴の眼光は、外――――気配を殺して密かに外に出ようとした一体の気配に向けられる。分厚い防寒具に身を包んだ、猟師然とした男――――冴に見抜かれたそれは、駆け出した。
     冴の手元から光の帯が走り、帯状に連なる一つ一つの光の文言が、弾丸のように男を貫いた。吹っ飛ばされた身体が外へ飛び出して、雪が降り積もった地面に跳ね落ちた。
     驚きの喧噪が起こった店内をずかずかと横断して、冴は後を追う。扉を蹴破り、雪の上に転がったそれを睨む。
    「隠したつもりでいたのか?俺の目から逃げられると思ってんなら間違いだ、雑魚」
     光の帯を纏いながらそれと対峙する。無造作に伸びた体毛だらけの男は、雪の真上で身体を震わせた。
     皮が裂ける音がして、それの肉体がぶわりと膨れ上がった。人間の皮を破り捨てて、正体を顕わにする。
    「雪巨人(ビッグフット)か」
     その姿は巨人。体毛は雪の如く純白の獣の長毛。手足は巨木のように太く、伸びる四本の爪は刃のように鋭い。雪原地帯に住まう上級魔族。今は昼であるが、この地帯は年中分厚い雪空に覆われていて、太陽の光が差し込みにくい。魔族が住みやすい土地柄であるのだ。
     雪巨人が咆哮を上げる。声と気配に驚いて野次馬のように民家から飛び出した者から、悲鳴を上げて逃げ惑う。冴だけが冷静沈着だ。冴を追って飛び出した魔王が驚いた表情で、その光景を見ていた。
    「これは…」
     冴の攻撃が始まった。光の弾丸の嵐が容赦なく雪巨人を貫く。体毛の強度も神の子の御言葉の武器を前では脆く、貫かれた箇所から消滅していく。巨木の両腕を振り上げて、雪の飛沫を上げて盾を作り、目くらましの隙に逃走を計る。
     が、雪の壁を、光の鎖が伸びて突き破った。ぐるぐると首が圧迫されて、引きずり出される。鎖の先は冴の右手の中にあった。
    「待った」
     冴と雪巨人の間を、魔王がまた分け入った。冴は片方の眉尻を吊り上げた。
    「あ?」
    「ちょっと待ってくれ頼むこいつはただの魔族じゃない」
     魔王は、冴に向いて両手を広げて、雪巨人に背中を向けている。普通は逆の筈。何をしているんだこいつは?冴は意味が分からなかった。
    「邪魔してんじゃねえ。潰すぞ?」
    「だから約束だって一旦俺が入る退治するかどうかはその後だ」
     冴は益々意味が分からなかった。魔王の意味不明な行動は、冴の短い気に障った。
    「…そうだよな…テメエからしたらそいつは同族…つまりはテメエも敵ってことで、良いんだな?」
     鋭い眼光で魔王を射抜く。が、魔王は退かない気概を見せた。
    「人間(お前ら)には人間(お前ら)の秩序(ルール)があるように、魔族(俺ら)にだって秩序(ルール)はある魔族だからって見境なく退治するのは、俺がいる限り、させない」
     冴の中で、理性の糸が灼き切れる音がした。
     もういい。魔王(こいつ)は殺す。決意して、魔王を殺す戦術を組む。
     が、次の瞬間、魔王に庇われていた魔族が背後から魔王を急襲した。大きく開いた口から覗く牙を、魔王の身体に深く突き立てた。黒い血が噴きあがる。刃のような鋭い爪が身体を引き裂いて、また血が噴きあがった。突如として起こった共食いの光景に、冴は瞳孔を縮小させる。舌打ちを鳴らして、魔王ごと雪巨人を葬り去るため、光の文言を放とうとした。
    「お前、勝手に俺を喰うんじゃねえ。雑魚魔族が」
     ぐるんと、闇のような深い瞳が雪巨人を射抜いて硬直させた。雪の上に広がる黒い血が、生き物のように蠢き始め、蛇の蜷局のように渦を巻いた。雪巨人は即座に離れようと藻掻く。牙を抜く前に、魔王が雪巨人の顔面に掌を向けた。掌から黒い球体が出現し、顔面に直撃。岩石のように粉砕した。頭部を失ってもまだ生存している。急所はそこではないからだ。死んだと見せかけてだまし討ちを狙うも、次に魔王から放たれたのは赤い雷。雷の鉾は巨体に風穴を空けた。血すらも出ること叶わず、それは背中から倒れた。
     今のは、『怠惰』の魔族と『傲慢』の魔族の力だ。冴は記憶していたので知っている。魔王(あれ)が本元だ。魔王(あれ)からあの強大な魔族が生まれたのか。あんなに貧相で雑魚な身体していやがるのに――――。その真実は、冴に衝撃を与える。
     倒れた魔族は時期に消滅が始まる。と、その前に、渦を巻いていた黒い血の集合が、それを呑み込んだ。沼底に引きずり落とすように。人間を優に超える巨体が沈んでいく。
     黒い血が蛇のように魔王の身体に戻っていく。倒れていた筈の巨体は跡形も無く消えていた。魔王の身体も瞬時に再生していた。
    「…お待たせ」
     冴に振り返る顔は、不気味なものではなく、どこにでもいるような平凡そのものだった。改めて冴は怖気を感じた。魔王に対する怒りは消えてしまった。
    「冴、ごめん。だけど、一緒に協力するからには、約束は…」
     素直に謝罪を連ねようとする間抜け面の距離を縮めた冴は、額に手刀を入れて憂さ晴らしした。
    「…次に俺の癪に障るようなことをしたら、絶対に殺す」
    「うん…約束はできないけど、善処はする」
     魔王は額を痛そうに擦りながら、自信なく呻いた。
    「で、聞いてほしいんだけど、良い?」
    「碌でもねえ話じゃねえならな」
     いつの間にか蟻生という魔族は消えていた。先程の騒ぎに乗じて、どこかに身を潜ませたのだろう。
    「さっきの雪の魔族…俺の血の気配を感じたから、俺の眷属かと思ったんだよ」
    「意味分かんねえぞタコ」
    「え、と…じゃあ、前提から話すと。魔族と言っても一枚岩じゃなくて。魔王の眷属とそれ以外に分類されるんだよ。後者は野良って呼んでる」
     魔王の眷属であるなら直ぐに解る。眷属には総じて魔王の血が流れているからである。魔王は血を通して全ての眷属の位置を把握している。喰ったばっかりの雪巨人からも感じたので、自分の眷属だと思ったのだ。
    「だけど違った。あいつ、地獄で俺の眷属を喰ってた」
     魔王の血の効力は絶大。人間よりも美味で、栄養価が高く、力を与える。魔王の血肉は地獄では争いの種となりがちだ。同族意識の低い野良の魔族が魔王の眷属に成り下がるのは稀のことで、弱い低級の魔族は魔王に太刀打ちができないことを本能で悟っているので、眷属を狙う。魔王の血は取り込んだけれど、眷属を喰ったからといって、魔王の眷属になる訳ではない。
    「こいつは野良で、魔王(俺)を狙っていて…でも一体だけではどうにもならなかった。そんな時に、召喚術でここに呼ばれた。こいつは力を得ることを代償に、契約を結んだようだ」
     魔王の説明に、冴は眉間に皺を寄せた。
    「その言い方だと、記憶を読んだみたいな言い方だな?」
    「喰った魔族の記憶を読み取ることが出来る…それが『暴食』の力だ」
     それだけでなく、魔族の能力も取り込み、我が物とする。質が悪い、と冴は内心で罵った。
    「オイ待て。テメエ、今、召喚術っつったよな?」
     冴の言わんとしていることを、魔王は読み取り、肯定する。
    「あいつを召喚したのは、極北の魔術師だ。あいつは山向こうで、俺達を今でも見ている」
     豪雪が吹き荒れる山々を見据えて、魔王は言い放った。



     盆地の間を進む度、吹雪の勢いが増していき、容赦なく身体を打ってくる。防寒具を纏っているとは言え、極寒の猛吹雪は冴の体温を着実に奪っていった。吐く息ですら凍り付くような寒さであるのは確実だ。目を開いて進むだけでも精いっぱいだ。冴が耐えられているのは、強靭な肉体と精神の賜物だ。
    「冴、大丈夫か?」
     魔王が自分の首を巻いていた毛皮を冴の首に重ねた。
    「余計なことすんじゃねえ」
    「だって、冴、顔色悪いし」
    「何でテメエは平気そうなんだよ?」
    「そりゃだって、俺魔王だし?寒さとか暑さとか感じない」
     何だそりゃ。ふざけるな。マジで殺す。冴は理不尽に罵倒しながら進んだ。
     冴。魔王が一点を指差した。巨大な雪が吹き荒れるせいで視界が狭まるが、それでも見えた。白い丘の上から見下ろす、一つの影を。
     白い外套で全身を包んだ怪しい影。それは山羊の頭部の骨と柊の幹から作った杖を手に持って、冴を観察していた。
     あいつだ。極北の魔術師。危険度一級の狂人――――……。それは深く外套を被って顔を隠していた。魔術師特有の気配を、離れていても感じ取ることができる。それほどに、強い力を持っているという証拠だ。
     それが杖を掲げた。杖に着けられた山羊の頭蓋骨が怪しく光る。ぼこり、ぼこり、とそれの周りの雪が不自然に盛り上がった。それは何か?――――――魔術師が召喚した雪巨人の群れだ。
     場所が悪い。視界が悪い。雪が、全てを邪魔をする。
    「冴、危ない」
     いきなり肩を引かれたと思ったら、後ろから手が伸びる。掌から『怠惰』の球体が生まれ、放たれた。直撃した個体からひしゃげて潰れた。続いて、二撃、三劇と、続く。
     冴はまたキレた。
    「触んじゃねえって何度言ったら解る?」
    「ちょ、ふげっ」
     冴は容赦なく背負い投げをした。
    「ちょっと…この状況で、ひどすぎじゃない…?」
    「うるせえ、黙れ。テメエの助けなんて必要じゃねえ」
     光の弾丸を放つ。一体、二体、三体と着実に減らしていく。が、視界の悪さが仇となった。命中率の精度は高いが、間を置いてしまう。そして雪の魔族は足が速く、豪雪を味方につけていた。距離はあっという間に縮まった。
     舌打ちを鳴らして、聖符による結界を張る。群れが結界に直接打撃による攻撃を開始する。結界の内側から攻撃して数を減らしていくも、包囲する魔族が後を絶たない。魔術師によって次々に量産されているからだ。
     それに加えて、極寒の空気はゆっくりと冴の身体を蝕んでいった。連日の疲労はまだ抜けていない。技のキレが落ちていることに早々に気付いて、自嘲するように舌打ちを鳴らす。
     次の瞬間、冴は黒い球体の中にいた。発生元は直ぐ背後、魔王からだ。黒い半球体は膨らみ、広範囲に広がっていく。その内側に取り込まれた物質は時を停める。吹き荒れる吹雪がぴたりと停止した。止んだ、ではなく、停止したのだ。宙に白い六花が停止しているという意味だ。だけど完全に停止したという訳ではなく、触れてしまったら体温で溶けてしまうぐらいの変化は起きる。
     ともあれ、視界は開けた。結界を取り囲む雪巨人の群れを、光の弾丸で一掃した。
    「これもお前の力か、クソ魔王?」
    「ああ。こいつらは俺が止める。冴は行ってくれ」
     吹雪は止めたとしても敵の猛攻は止まらない。次々に生産されていくそれらに数で押されてしまえば、冴であろうとも戦況が傾くのは間違いない。解っているが、術者との距離が遠すぎる。雪巨人を滅しながら接近するのは骨が折れるだろう。思考の真っただ中で、魔王が冴の腕を突然掴んだ。思わず振り返る。汚れのない双眸が冴を映す。その瞳孔の中心に光の環が見えた。
     気付いたら冴は移動していた。瞬き一つでしかない速さであった。目線の先には魔術師が立っている。瞬間移動、いや、移動したのではない。まるで次元を切り取ったような速さだった。まさか、こいつの?こんな芸当まで出来るのか、こいつは?
     冷や汗にも似たものが背中に滑り落ちる感覚に陥りながら、魔術師を見据える魔王から目が離せなかった。
     魔術師が杖を掲げた。生産された雪巨人が方向転換して突撃してくる。構える前に、冴の視界が黒で染まる。黒い、生きた血、単細胞生物のように歪に蠢いたそれは、魔王の力の顕現。冴と魔王を取り囲む円陣を描くように発生している。
     行け。魔王の声が低く響くと、黒い血が大きく波打った。荒波のように高く潮を吹いて、雪巨人らを呑み込んでいく。魔術師が立っている場所だけを残して、残る白い大地を黒に染め上げていった。
    「俺はこいつらを喰い尽くしてから行く」
    「その頃には全部終わってる」
     開いた道を冴は駆ける。極寒の魔術師との一対一。神の御子の言葉を光に変えて、螺旋を描くように纏った。対して魔術師は杖を高く振り上げた。先制を取られる前に、冴から仕掛けた。無数の光の弾丸が魔術師を襲う。掲げた杖の先端に取り付けられた山羊の頭蓋骨が怪しく光ったかと思うと、結界が構築され、光を弾く。
     舌打ちを鳴らすも攻撃の手を止めない。魔術師も防御から攻撃に転換し、歪な形をした蝙蝠の群れを召喚して、光の雨と相殺する。魔術師が杖を掲げた。山羊の頭蓋骨が怪しく光る。魔術師が立っている足場の両脇の雪がぼこりと膨れ上がって、雪の虎が二頭飛び出した。魔族の魂を雪に付加して創生した使い魔だと、冴は見抜く。虎は咽喉を鳴らしながら冴を包囲する。牙を剥いて、背中側の一体が先に飛び掛かり、一拍後に正面から別の一体が特攻を仕掛ける。光の文言でそれぞれの急所…心臓に当たる箇所を射抜く。が、虎は直ぐに再生した。
     冴は冷静に分析する。魔術師の力量は、これまで冴が戦ってきたどの魔術師よりも格上だった。魔族召喚術であるなら、どの魔術師をも上回る最強の位だろう。
     弱点はどこか見定める。どんなに強い魔術師であろうとも、化け物じみていようとも、必ず弱点は存在する。冴はそれに長けていた。いかに相手を誘導して、壊すか。それが冴の戦いの美学である。外套で隠したそれからは、生き物の気配が不自然な程にも感じられない。ならば、引き出すのみだ。
     虎が牙を持って引き裂こうと仕掛けるのを躱していく。飛び退ったところで、正面から二体同時に飛び掛かられる。巻き上げられた雪飛沫によって冴の姿が魔術師から一瞬掻き消えた。
    「これ以上は面倒だ。戦いのレベルを上げる」
     光の波状が、虎を分断する。それは、冴の本当の戦い方である。神々しい光の帯が絹のように揺らめいて、冴を守るように覆っている。
     波状の正体は、夥しい量の光の集合体だ。冴の武器は、両腕の銀環だ。その銀環には神の御子が残した御言葉が収まっている。御言葉は対魔族には絶大な効果を及ぼす神の武器。御言葉を光に変えて、物理攻撃を可能とする。
     冴の戦いの美学は、『美しく壊す』。相手の潜在能力を引き出した上で、物理的攻撃で打ち砕いて壊すことにある。故に、冴は最初から本気を見せない。序盤で本気に潰しかかることは、冴の美学に反するからである。危険度一級の凶悪な魔術師相手であってもだ。
     その光の波状は、強者と判断した相手にしか見せない、冴の本気。一文字でも絶大なそれの集合体の力は、言うまでもない。
     光の波状が魔術師に鞭打つ。結界を張って魔術師は防戦する。波状は一度で終わらず、刹那の間で連撃を繰り返す。反撃すらも許されない怒涛の連撃。
    「同時に二つ以上の魔術は使えねえんだろ?このまま圧し潰す」
     冴は攻撃の手を止めない。魔術師が倒れるまで何時間でも打ち込むつもりだ。聖術の試行には相当な集中力が要するのであるが、冴は、冴であるなら、涼しくこなす。それが冴が、糸師冴が、天才と呼ばれる所以である。
     冷徹な表情とは裏腹に、冴は顔には見せないだけで、相当消耗していた。慣れない極寒の風に加えて、凛への焦燥、連日の体力と精神力の消耗が、確実に積もり重なっていた。そして今の時点で、この相手に想像の何倍も手古摺っていた。本気となっても、魔術師に傷一つすらもつけられていないというのが、その証拠だ。
     一気に片を付ける。相手をねじ伏せて、聞くこと聞いて、殺す。魔術師を殺すことは殺人罪に問われないので、殺人行為は認可されている。これまでも何人もの魔術師を手にかけて来た。殺す時はいつも、懐にしまい込んでいた拳銃で殺すことにしている。血で光が汚れるのが厭わしいから。確実に壊して、確実に殺す。それが冴の信条だ。
     どくん。内臓が不自然に収縮した。心臓が何故か痛くて苦しい。内臓から咽喉にせりあがってきたものを、冴の意志とは関係なく身体が勝手に吐いた。真白い地面が赤に染まる。赤い、血。はあ、はあ、はあ。内側が大雑把にかき混ぜられるような感覚に身体が悲鳴を上げた。足に力が抜けて、地面に両膝がついた。またせりあがってきたものが口から出た。今度は手で口元を抑えたが、夥しい量に受け止めきれなかった。手袋を汚した赤の色に愕然とする。
     毒。いつの間に。いつだ?酒場のブランデーか?いや、口にしないまま出た。なら、どこで?いや違う。これは毒じゃない。
     それは毒ではない。ただしくは、呪い。魔術師が行使する絶対殺人術。魔術師の技量が高ければ高い程必中率は高い。解くには三っつ。一つは魔術師を殺すこと。一つは呪いを術者に返す呪詛返しの法の行使。一つは聖術による癒し。
     一人でも冴なら聖術で呪いを解除することは可能だ。だが、それを許してくれるような相手ではない。攻撃の手が緩まった隙に、魔術師は杖の切っ先を冴に向けた。山羊の頭蓋骨に怪しい光が集中する。集まった光は光線となって、冴に向かって一閃する。光の波状で防ぐもの、内臓が灼けてまた吐血した。血が不足して酷く眩暈がする。
    「冴」
     魔王の声が冴を呼ぶ。うるせえ。黙れ。テメエの声は聞きたくねえんだよ。魔王への罵倒を支えに身体を起こそうとするも、膝が震えていて、立つのでやっとの状態。二度目の光線が放たれて防ぐも、甚大な苦痛が身体を蝕んだ。
     三度目の光線が放たれようとしている。息をすることも苦しい身体を引きずって、魔術師を睨む。
     ここで死ぬわけにはいかねえんだよ。凛はまだ人間に戻ってない。魔王を殺せてない。世界一にすらなってない。どれも成し遂げていない。どれか一つでも達していたらなんて、そんな未練死んでもごめんだ。全部遂げてから死んでやる俺の邪魔をするなクソ魔術師野郎
     視界が怪しい光で満たされる。光線が冴を貫くのは一瞬だ。
     その寸前、光が遮られる。冴の眼前に飛び出た体躯によってだ。頭一つ低い体躯が冴を庇うように間に入った。それは光線に向かって手を翳した。すると、聖の波動じみたものが、それから流れて、光線を防いだ。くるりと、それは冴に振り向いた。
    「俺が守る。その間に、解除できるか?」
     言われるまでもねえ。踏ん張っていた力を緩めて、地面の上に蹲る態勢になり、自身に聖術を流し込む。呪いの力と聖術が反発を起こしてさらなる激痛が生まれるが、奥歯を噛みしめて悲鳴を上げることだけは耐えた。
     魔王はその間、魔術師と対峙する。魔術師は魔王を見るなり手を止めた。魔王を観察している様子である。目の前のそれが異質の魔族であることを看破したのであろうが、その正体に至っていない。
     クソ。また魔王に邪魔された。クソ。このヘボ。ヘボ魔王のくせして。俺を守るんじゃねえ。俺は総じてお前らが嫌いなんだよ。反吐が出る。その頂点のお前にこんな状況にされるなんざ、反吐しか出ない。
     解っている。解っているんだよ。冴(俺)はまだ、弱い―――――。
     世界には冴(俺)よりも才能があって強い奴がごろごろいて。才能がねえくせして胡麻を摩るのがうまい奴だけが上に行って。冴(俺)の才能(レベル)の奴は金儲けしか考えてねえ奴らに期待という形で搾り取られるだけ。真の天才(オンリーワン)は、生き残れない。
     クソみたいな掃きだめの中でも辞めるなんて選択肢は頭に無かった。諦めが悪いせいだ。俺は、世界一になる。なりたいんじゃねえ。ならなければならねえんだ。それが、糸師冴(俺)が生まれた理由だ―――――……っ
     身体の中に溜まっていた毒素の塊を血と一緒に吐き出すと、身体が幾分か軽くなった。
    「オイ、魔王」
    「冴!」
     魔王の目が冴に向く。その視線の通い合わせだけで、思考が流れる。冴の思考もまた、魔王に流れる。通じ合い、二つの別々の脳が連動を起こす。言葉にせずとも、合図を出さずとも、視線一つだけで、互いに何を言わんとしているかが、解り合えた。
     決定機は一度だけ。冴は懐から拳銃を取り出す。魔王を盾に身を隠す。
     魔王から魔術師へ赤い雷が迸る。赤い雷は防御の壁に伝導して蝕む。二撃目が走り、三劇目、四劇目と続ける。五撃、六撃目で一筋の皹が生まれ、亀裂が走る。結界は崩れた。
     今。それこそが、冴の狙い目。魔王が横にずれて、弾道を開けた。冴の視界に魔術師が映ると同時に引き金を引く。銀の聖弾が放たれて、崩れた結界の隙間から魔術師を撃ち抜いた。魔術師が倒れるのを目にしたが、気が抜けない。
    「冴、肩を…」
     魔王が身体を支えようと触れてくる。弱くなった手で払うと、魔王は思い出したように距離を置いた。
    「ごめん、でも、すぐに医者のところに…」
    「必要ねえ…」
    「でも、顔色悪いぞ?血が尋常じゃねえし」
    「黙れっつってんだろ。それより…」
     魔王を黙らせて視線を固定する。魔術師の身体は糸が切れたように倒れている。だが、虫が騒いで仕方ない。何かをずっと、見逃しているような感覚だ。最初からずっと、何かを、見落としていた――――。
     よく見た。見て、気付いた。杖が、地面に突き刺さったままになっている。魔術師は倒れていても、杖は倒れていない。命の危機の予感が駆け走る。
     杖の先端にある山羊の頭蓋骨が光った。やはり、冴の勘は間違っていなかった。
     地が激しく揺れた。地割れするような激しい揺れに襲われる。雪の上に身体が倒れた。魔王が慌てて冴の身体を引き上げようと腕を掴む。積もった雪ごと地形が変形していき、雪崩れの中に巻き込まれかけた。杖が刺さっている地面だけが異様に高く伸びあがる。文字通り伸びあがっている。
     極北の魔術師の最後の悪あがきか。使役する何百もの魔族の魂を一つに集約し、雪の大地に付加したのだ。そうして完成されたのは、雪の大巨人だ。冴と魔王はその足元にいた。二人が豆粒に見える程、それは巨大であった。
     巨人を前にして、魔王が焦燥している。冴は雪に半分埋もれた状態で、それを認識していた。意識が少しずつ落ちていく。巨人が足を振り上げて、踏みつぶそうとしていた。その影は闇のように暗くて深い。踏みつぶされてしまえば、跡形も無く消えるだろう。遠のいていく意識の中で、凛の顔が思い浮かんだ。凛…。
     暗転していく中で、また地鳴りが響いた。対の方向にある巨大な雪山が動き出した揺れだ。それは山ではない。雪によって隠されていた、巨大な生き物だ。隠れ蓑を掃い、それは自ら顕現する。大岩の身体は、雪の巨人と比肩する程の巨大さだ。口に当たる岩と岩の隙間から地鳴りのような音が響いている。咆哮であった。
     大岩の巨人が雪の巨人に飛び掛かった。雪の巨人が倒れたが、直ぐに立ち上がって、対峙する。ぶつかり合いが開始された。腕を振るう度、踏み鳴らす度に、極北の大地が激しく揺れる。魔王は弾かれるように視界を向けた。地震によって起きた雪崩が襲い掛かろうとしている。
    「冴」
     魔王の手が冴をしっかりと掴んだ直後に、雪崩に呑み込まれた。
     冴の意識は完全に落ちた。よって、そこから先のことは、記憶に無い。よって、冴は知らない。雪崩の中でも的確に伸びてくる海水の鞭なんてものに、意識が向いていなかった。それによって救出されても、大岩の巨人が勝ったことすらも、冴は完全に意識を失っていたので知らずに終わったのだ。



     ただ低迷する意識の中で、少しだけ夢現の間を彷徨っていた時間がある。ぱちぱちと弾ける火花の音と、凍えた身体を包む柔らかな肉の間にいるような暖かさと、鼻につくたくさんの獣臭と、それらの要因がうすぼんやりと冴の意識を浮上させる。重たい瞼を開けると、焚火が見えた。暗い闇の底を照らす赤い火がぱちぱちと燃えている。その焚火の前に誰かが腰を下ろしている。魔王だ。魔王は冴のわずかな覚醒に気付いたらしく、安堵したように顔を向ける。
    「助かって良かった。まあこれだけしておけば大丈夫だとは思ったけど、流石に心配した」
     焚火に、冴が着ていた服が当てられている。今自分が身の着一つも無いことを察するが、それなのにどうしてこんなに暖かいのかが分からなかった。何か、獣か何かに抱かれているような、少しちくちくする柔らかみだ。
    「俺さ、実は、冴に言いたかったことがあるんだ」
     魔王は一人勝手に喋り始めた。気安く口を利いてんじゃねえという暴言を吐く余裕は無い。
    「あの日、俺、凛の記憶を見たんだ…凛はな、ずっと、冴に認められたかったんだよ。冴を目標に、血のにじむような努力を重ねて来たんだ。凛は冴を嫌いになったことは一度も無いよ」
     嘘だ。冴は凛を切り捨てたのだ。凛は絶対に潰すと宣言したのだ。あの愚弟は。
    「それにさ…冴だって、今でも凛を大事にしてるんだろ?凛に冷たかったのは、凛を守るためだったんじゃない?」
     黙れ。テメエの尺度で俺を計るんじゃねえ。魔王ごときが。魔族ごときが。俺を語るな、見るな、入ってくるな。
    「だって退魔師なんて危険な仕事、家族にさせたくねえって俺だって同じこと思う。俺に弟がいたら、いくら夢の為でもはらはらするし、何かあったらどうしようって心配になる。それにさ、ああいうところって、上層部は嘘と堕落と欲望だらけだ。弟が根幹の闇に染まるの、俺だって嫌だ。まだ純真なままでいてくれた方がいい」
     黙れ。テメエが弟(凛)を語るな。凛(あいつ)のことは俺がよく知ってる。凛(あいつ)が生まれた頃からずっと一緒にいたんだ。世界中探しても、俺が一番に理解している。お前が兄弟(俺達)の間に分け入っていい隙間なんかねえんだよ。クソ、ヘボ、雑魚、馬鹿野郎、クソッタレ。死んでしまえこのヘボ魔王。
    「俺は解ったよ。冴は――――良い兄ちゃんだってさ」
     反吐が出る。理解したつもりでいんじゃねえ。クソが…。
     何でテメエなんかに理解されなければならないんだ。魔王のくせに。魔王の、くせ、に…。
     冴の意識はまた落ちた。回復するまで、覚醒することはないだろう。
     別に覚えてなくてもいいと、魔王は…潔は思った。言いたいことが言えた爽快感で満たされる。
    「…大丈夫みたいだね」
    「ああ。時光、ありがとう」
     潔の隣に腰をかけていたもう一人が気弱に微笑んだ。潔と呼んだそれは人間の姿をしているが、立派な魔族…先程の大岩の巨人である。それは時光という。現世で活動している魔族の一人であり、潔の眷属であると同時に古い友人である。
    「いやいや、俺なんか何もしてないし。それよりごめんね、あの変な人の退治、任せちゃって。俺の家の周り荒らされて困ってたところだったんだ。あ、押し付けるつもりはなかったんだよ!何されるかわからなくて、怖くて何もできなくって!」
     過負荷思考に入ってどんよりと落ち込む時光の背中を、潔はぽんと叩く。
    「時光の判断は正しかった。あの魔術師がやばかったんだよ。時光に何かあったらそれこそやばかった」
     百年ぐらいこの地に身を隠していた件の魔術師は、潔の言う通り、一筋縄ではいかない相手であったのは間違いない。あれだけ多くの魔族を使役できたということは、膨大な力を内蔵していたということ。結界術と呪殺術を同時に試行できた理由も納得できる。それほどの術者であったなら、時光だって洗脳されていた可能性も無きにしも非ずだ。いくらその体内に潔の血が流れており、遠隔でも作用できたとしても、完全ではない。この六百年の間でも、潔の眷属が現世に召喚されて、魔術師に使役された例は多々ある。それを未然に防ぐのが、烏や七星達の仕事だ。
     そもそもあの魔術師、自らの肉体を捨てていたのである。あの肉体は偽物で、恐らくいろんな肉体に乗り移って三百年以上も現世で活動していた。魂はあの杖に取り付けられた山羊の頭蓋骨に付加されていた…つまり本体は杖の方である。その杖は今、捜索中である。
    「冴の顔色も良くなってる。温かいんだな、ここ」
    「うん。地熱が近いからね。温泉の源泉も近いんだよ。掘り当てたら教えるね」
    「へえ、温泉!いいな!最近全然行けてなかったし」
     潔らはどこにいるのかというと、時光が特別と教えた場所。雪山の地下深くまで掘られた穴の中である。不思議と酸素もあり、空気の穴もあるが寒さは無く、地面が程よく暖かい場所だ。時光も潔も体温調整など不必要な種族であるが、この深さと静けさが丁度良い塒となるので、時光のお気に入りの場所である。
     低体温症を起こした冴を救うべく、潔と時光はこの場所に冴を運び、濡れた服を脱がして、代わりにヒグマの毛皮を巻いて寝かせた。それだけでは寒いので、冴の懐には冬眠中の兎も潜ませている。ここまでしておけば大丈夫だろうが、油断はならない。魔族と違って人間は脆い生き物であるからだ。
    「それにしても、この人間、すごく強かったね…」
    「うん。俺が知る中でも最強に近い天才だ。あと数年経験を積めば、世界一に近づく」
     穏やかな顔で語る潔の顔を、時光は不思議そうに見つめる。
    「潔くんがそこまで面倒見る子がいるってのも珍しいよね。あ、ごめん!俺なんかが解ったような口を利いちゃって!先輩面してるつもりはないんだよ!」
    「いや。当たってるよ。俺、冴のことが可愛いと思ってる。冴だけじゃなくて凛も…この二人、なんか目が離せないんだよな」
     へ、へえ~…。時光は目をまん丸にして潔の顔を凝視する。
     そこへまた、長身の体躯が闇の向こう側からぬっと出てきて、合流する。
    「潔。待たせたな」
    「おかえり。あ、それそれ」
    「おかえり、蟻生くん」
     長い髪をなびかせた蟻生の手元には、例の杖が握られていた。
    「で、こいつはどうするんだ?」
    「二子に調べてもらおうと思ってる」
    「なら、“俺”。も一緒に飛ばせ。馬狼(キング)の容態が気になっていたところだ」
    「あいつならもうすっかり元気だよ。馬狼によろしく伝えて」
     蟻生の視線が潔に集中する。
    「潔…お前、本当にあの人間を元に戻せると思っているのか?」
     蟻生の言葉が確信を突く。潔は少しだけ顔を翳らせる。
    「…不可能だって思ってる」
     それこそ潔自身がよく知っている。潔なりに魔導書を広げて知識をつけたこともある。だが、この六百六十六年…そんな方法はどの書にも記されていない。
     冴との協力関係は恐らく冴が死んだら解消される。魔王(潔)と違って人間(冴)の寿命は有限で短い。生を終える瞬間を迎えるまでが、この関係の期間だ。六百年以上探しても見つからなかった外道の法を見つけられるとは思っていない。
     それでも、潔には、冴を信じたいと思う理由がある。
    「俺は…冴のような人間には弱いんだよ。大切なものを守るために最後まであきらめない人間が、好きなんだよね」
     それに、もしその方法があったのなら、見つけられたら、わざわざ魔族にしなくても、潔が力を行使しなくても、地獄に堕ちた魂を救えるかもしれない。魔王(潔)によって魔族堕ちした魂を天国に行かせることもできるかもしれない。冴ならそれを見つけてくれるかもしれない。その可能性を、あの日、潔は見出したのだ。冴の目を通して。だから魔王(潔)は退魔師(冴)と一緒に探し続けるのである。
    「そうか…」
    「潔くんらしいね…あ、またごめん!理解者面してるつもりはなくて!気分悪くさせたらごめん!」
     そんなことないって。また過負荷に陥る時光を、潔は宥める。それから少しだけ、蟻生と時光と歓談して、蟻生が地獄へ帰り、時光が元居た巣に戻っていた後、冴が起きた。冴は自分の身にくるまっていた毛皮と、懐に忍び込ませていた小さな獣に、声には出さなかったが驚いていた。初めて見る冴の人間らしい反応に、潔は笑う。
     穴から出ると、外はすっかり朝になっている。雪も止まっていて、朝日が雪山を溶かし始めていた。
    「戻ろっか。凛も待ってるし」
     潔が先に穴から抜けようとしたところで、潔。と隣から呼び止められた。魔王でも雑魚でもヘボでもなく、潔、と。
    「え…?何…?」
     初めて名前を呼ばれたのと、突然かけられたのもあって、不意を突かれていると。冴は潔を見ずに、ぼそっと呟く。
    「…その、ざくろはちみつってのは、美味いのか?」
     潔は瞬いた後、嬉しいあまりに、声を跳ねあがらせた。
    「ぜっったい美味いよ。帰る前に寄ってみる?」
    「店がまだやってたらな」
    「店がなくても、ざくろとはちみつがあったら、俺作れる!」
     例え、宛ての無い旅になったとしても、義の道は続く。



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