喜劇の幕間 ファフニールの呪詛がジークフリートの身体を犯しつくすまでの数時間、身を潜める必要があった。
敵は死にものぐるいでジークフリートを取り返しにくるだろう。何しろ、救国の英雄である。国を守る要とも言えるその力を、そっくりそのまま利用して国を滅ぼすというのは、意趣返しとしても出来すぎているように思えた。
飛竜を操り、空からブルグント地方を見渡せば、すぐに廃村が複数見つかった。
グンターは適当な民家を探し、戸口に手をかける。自ら安住の地を求めて出て行ったのか、追い立てられたのかまでは分からないが、その家の住人は、比較的落ち着いて出て行ったのだろう。手入れされていない埃っぽさはあるものの、一見して価値のあるものはなく、荒らされた様子もない。見つけた寝台に気を失っているジークフリートを投げ出して、窓を開くと、季節はすっかり巡っていた。
日は遠く薄雲の向こうにあり、山間を抜けた風が涼やかにグンターの肌を撫でる。枯葉は落ちて土を肥やし、木々は水を溜め込んで冬に備えていた。
そういえば、この時期になると、ジークフリートが落ちていることがあった。
グンターが王立騎士団団長として日々を費やしていたころの話だ。執務室は日当たりが良すぎる南向きの部屋だったが、季節の花々が咲き誇る美しい中庭を一望することができた。グンターは、仕事の息抜きに庭を見るのが好きだった。
そしてある日、前触れなく、ジークフリートが落ちていた。
「何してんだ、お前」
執務机と窓の間に横たわるかたちで落ちていたので、ちょうどグンターが仕事を始めようと、机に着いた瞬間に見慣れたその背中が見えた。グンターは、人並みの情は持ち合わせていたが、そのときばかりは、心配するよりも先に動揺した。具合が悪いのか? と問うよりも先に、奇行の説明が必要だった。
ジークフリートは横になったまま、「ここがいちばん気持ちがいい」と答えた。城のなかの様々な場所で試したが、日当たりがよく、風が適度に吹き込んできて、植物の良い香りがするのはここしかないと。
「野良猫じゃないんだから、床に直接寝転がるなよ」
グンターはジークフリートの側に屈んで、手を引っ張って起こしてやろうとした。そのとき、小窓から風が吹き込んで、花が薄らと香った。甘すぎず、ほのかに香る、上品な匂いだ。グンターはその花を見てみたくなって、庭に目を向けた。しかし、それらしい花は見当たらない。
「どうした?」
半身を起こしたジークフリートが不思議そうに首を傾げると、彼の髪が頬の辺りで揺れた。また花が香る。不思議に思ってジークフリートの髪に触れると、薄桃色の花びらがはらはらと落ちた。
「お前、花壇に頭を突っ込んだりしてないだろうな」
ジークフリートは何も言わず、ただ、グンターを見つめている。意志の強い眉、澄んだ濃い茶色の瞳、長いまつげ、通った鼻筋、情の厚い唇。どれをとっても際立って美しいパーツが、お互いを引き立て合うように絶妙に配置されている。グンターでなければ、なぜ彼の顔をこんなに魅力的に感じるのか、不思議に思って見つめるうちに、虜にされてしまうだろう。ただ真顔でいるだけで、ジークフリートは相手を黙らせてしまう。つまり、これは、ジークフリートが都合の悪いときにする顔だった。
「花壇に入って寝転がったんだな?」
ジークフリートが目を逸らしたので、グンターは彼の頭を軽く叩いた。
バカバカしい思い出だ。あのころ、ジークフリートはまだ精神的に未熟で、グンターはよく彼の面倒を見てやっていた。それが王の望みであったし、素直で飲み込みの早いジークフリートに物事を教えるのは楽しかった。
いまやジークフリートは救国の英雄だ。その栄光の影にあるものなど、彼は気にも留めないだろう。自由で、奔放で、純粋で。ただあるがままに振る舞うだけで、周囲の心を惹きつけずにはいられない。彼は、この国の滅びゆくさまを見たとき、どんな顔をするのだろう。そればかりは、どれだけ想像しても、グンターには分からなかった。
そろそろ、頃合いだろう。グンターはいつでも束縛の魔法を使えるように準備して、寝台に横たわるジークフリートに近づいた。
わずかに胸元が上下する以外には、身じろぎ一つしない。顔色を確認するため、覗き込むと、長く伸びた髪が頬にかかって、顔を隠してしまっている。起こさないよう、そっと髪を払ってやると、目元が薄らと濡れていた。ファフニールの呪詛は刻一刻と彼の体を内側から破壊しようとしているはずだ。苦痛に耐えきれず涙を流したのだろうか。ファフニールに喰われ腹を破られた時でさえ、自分の運命を静かに受け入れていたジークフリートが。
(バケモノにも、痛みを感じる心は残ってるのか)
嘲笑してやりたい気分になりながら、親指で目元を拭ってやると、ジークフリートの唇がわずかに開いて、何事かをつぶやいた。
「グンター」と、名を呼んだように見えた。
このまま、無防備な喉を締め上げれば、ジークフリートでも死ぬだろうか。思いついて、首元に手を回す。ジークフリートの命がこの手のうちにあるのだと思うと、不思議と心が落ち着いた。
殺したところで意味はないと知っている。あの日、王がジークフリートを見出さなれば。王がグンターを世話役に任命しなければ。何千回と繰り返した、意味のない仮定だ。ただ、ジークフリートさえいなければ、グンターは世界のいびつさに気が付かず一生を終えられたかもしれなかった。
複雑に絡み合った運命の糸を、解いてやり直すことなどできない。
「だから、お前も最後まで付き合えよ。親友だろ?」
時間の猶予はあまりないが、ジークフリートが目覚めるまでの間、待つ程度の余裕はある。急ごうと焦ろうと道程は変わらない。護国の英雄として知れ渡ったジークフリートの黒い鎧姿を、悠々と、見せつけるように進めば良いのだ。そうして行き着いた先で、多くの人が今日、この国が繁栄の影に捨ててきたものを知ることになる。あの日のグンターと同じように。
(2023/9/28)