(ジークフリート……?)
雨に煙る城門の際に、鎧姿の男が一人、立っている。
濡れ鼠となった栗色の髪と重たげな外套、濡れて光る黒い鎧のその男は、間違いなくジークフリートその人であろう。
雨除けもせず長雨の景色に溶け込むように薄ぼんやりと佇む姿を遠目に見て、パーシヴァルは首を傾げた。
何をしているのだろうか。
此処から見る限りでは「何かをしている」という様子には見えない。剣を持っているわけでもなく、何処とも言えぬ何処かをぼうっと見つめ、やがて所在なげにふらりと歩き出す。足取りはしっかりしているが一歩一歩に重さが感じられない。たとえば今、あの姿は幻影か幽霊のようなものがジークフリートに化けたものなのだと言われたらきっと納得してしまうだろう。あやふやで、そこに実在しているのかどうかすらも怪しい。蜃気楼――というものをパーシヴァルは目にしたことが無いが、何かに喩えるならばそれが最も近しいように思う。
ジークフリートは雨の中を歩き出した。その足が向かう方角はフェードラッヘ王城の庭園のほうだ。雨に打たれながら茫々と歩くその様子は見ようによっては奇異でもあったが、気になるのでパーシヴァルは後を追うことにした。ちょうど城下へ出ようと思っていたところで雨への備えはある。雨除けの外套を身体の前で留め合わせ、厚手のフードを被って額まで引き下ろして、ジークフリートの追跡を開始する。
降りしきる雨が視界と音を遮るため気づかれぬようにあとをつけることは難しくなかった。他者の気配に敏感なジークフリートであっても、この程度の距離を取っていればパーシヴァルの存在に感づくことは不可能だろう。このままあとを追って、彼が何処へ向かっているのか、何をしようとしているのかを見届けたい。
とはいえ、今更――数年前の事件と再会を経て彼と新たな関係性を築き始めている今、彼に不穏な嫌疑をかけるつもりなど毛頭ない。何らかの意図や、やりたいことがあるのならば邪魔をする必要も無かろう。
端的に言ってしまえば、パーシヴァルはジークフリートのことが心配なのだ。
彼の姿が雨の景色に滲んで消えてしまいそうだ、などと言ったら感傷的に過ぎるかもしれない。しかしそうとしか表現しようのない不安は紛れもなくパーシヴァルの中に存在している。彼が何処かへ行って帰ってこなくなってしまうのならば出来れば阻止したい。行きたいところが有るのならば行けばいい、だが、行き先と、目的と、帰りがいつになるのか、帰らぬとしたらその理由はどうしてか、そのくらいは知りたい。自分と彼との今の間柄であれば――俺にはそれを訊く資格があるはずだ。
誰も居ない中庭を抜けて、水滴を散らす噴水のそばを過ぎて、濡れた土の匂いの立ちこめる裏庭に差し掛かったあたりでジークフリートは足を止めた。
彼は城の裏側、城壁の角になっているあたりに近寄って、そこで壁の方を向いたまま立ち止まった。足もとの水溜まりに視線を投げているように見えるが、蛙でも居るのであろうか? 心此処に在らずと言った風でうつむき気味に呆然として、そこから動く様子はない。雨に打たれながらただぼんやりと足もとを見ている。
うつむいているせいで顔の脇には髪が垂れ、パーシヴァルの位置からその表情を覗くことは難しい。
煙となって雨の合間に見えなくなってしまいそうな不確実な存在感とおぼろげな姿に、パーシヴァルは言いようのない焦燥と不安を抱えたままジークフリートに近づいていった。
相当に近づいても気づかない。おかしい、よく似た別人なのだろうか? しかし彼が身につけている鎧は見慣れたかたちのもので、パーシヴァルが見間違えるはずはない。
背後から近寄り、ジークフリートがうつむいて見ている水溜まりを軽く覗いてみる。そこは城壁と柱とが入り組んで角になっている箇所で、石を敷いた地面の城壁間際の部分が崩れて窪み、雨水が流れ込んで深めの水溜まりになっているようだ。すぐそばの城壁には小さなステンドグラスが埋め込まれていて、赤と黄色と紫色の光が水溜まりの水面に落ちて色を浮かべたように揺らいでいる。
透明感のある光の色が、雨粒を迎え入れるたび水面に紋を描いて混ざり合う。決して大きくはない水溜まりに浮かぶ幻想的な光景は可憐で、どこか儚げな忙しなさを湛えていた。その様子が、ジークフリートの気を惹いているのだろうか?
「ジークフリート」
声を掛けてみる。
腹に力を入れても雨音に吸われて音の響きは芳しくなかったが、ジークフリートの耳はその呼びかけを拾ったようで彼はゆっくりと振り向いた。
ゆっくりと。
ぜんまい仕掛けの人形のように軋みながら振り返る様子にパーシヴァルはぞくりとして空嚥下をした。
しかし、合わせた視線のその黄金色は見慣れたジークフリートの瞳の色だ。表情は、少し驚いたようにも見えるが落ち着いていて、焦点も確かに合っている。安堵した。そこに居るのは幻影でも幽霊でもなく、よく似た別人でもない、いつも通りのジークフリートそのひとであった。
「パーシヴァルか」
「……こんなところで何をしている」
「いや……何を、ということもないんだが」
彼はまぶたを微かに伏し、目線を水溜まりの光へと斜めに流す。淡い金色が煌めいて揺れる様子はパーシヴァルの心をいたずらに騒がせた。
「長雨が降ると、誘われるような気がして此処に来ずには居られなくてな」
「誘われる……?」
「ああ。呼ばれる、と言うのか……」
ジークフリートの目線の先で、水面の光が妖しく躍る。
赤と、黄と、紫と、それぞれの中間色を交えながら幻惑の世界を描き出す。
この光を投影しているステンドグラスは、パーシヴァルの記憶が正しければ城の奥の部屋――かつてヨゼフ王が健在であった頃には魔法研究室として使われていた一室の壁に嵌め込まれているものだ。今は書庫になっているはずだが、なんらかの魔力が籠められていても不思議ではない。混ざり合う色と光を透かし、ただの水溜まりが底無しの奥行きを持っているかのように見えるのも、もしかしたら特殊な魔力による現象なのかもしれぬ。
まるでこの水面をくぐれば、そこに幻想郷が実在しているかのような……。
「ヨゼフ様が、雨が降るとここに水溜まりが出来て、光が溜まって綺麗だと教えてくださったんだ」
ひとり静かに惑うパーシヴァルの混乱は、ジークフリートの寂しそうな声によって散らされた。
ヨゼフ様、とかつての王の名を呼ぶその響きは、いまは亡き慕わしい王への隠しようもない追慕に満ちていた。パーシヴァル自身もヨゼフ王へは変わらぬ憧れの念を連れているが、いま、目の前で見せられたジークフリートのそれは、パーシヴァルのものとは根源を異にする切なさと郷愁に彩られているように感じられた。
無理もなかろう。
そして、雨の日のこの場所がジークフリートにとってヨゼフを追憶する特別な場所であるというのならば、パーシヴァルは何も言うことなど出来ない。
「遠い昔にな。もう、どういう話の流れだったのかも覚えていないが」
揺れて舞い、光の色彩で幻を見せる雨水の溜まりに、視線を預けたままでジークフリートは言う。
「そのせいなのかわからんが、今でも……いや、今だからこそ、か。この水溜まりの中に、俺の居るべき場所のようなものが見える気がする」
その言葉の意味はパーシヴァルには掴みかねた。
わかるような、わからぬような。
濡れた横顔に物憂げな陰が浮かんでいる。躍る光を追う金色の瞳は何処か人間離れしているようにも見えて、それでいて溜め息が出るほどに美しい色とかたちでつくられていた。雨水をしとどに含んだ栗色の髪の一房から絶え間のない雫がこぼれて、ぽたりぽたりと、涙のように限りなくいくつも溢れて落ちてゆく。濡れた頬は普段よりも白っぽく見える。そうして暫くして、パーシヴァルがその横顔に視線を奪われていると気づいているのかいないのか、ジークフリートは水面を見たままでふと気を緩めるように微笑した。
自分へ向けられた笑顔でもないのに、パーシヴァルは湧き出る慕わしさに絶句しながらジークフリートの微笑に囚われた。
「ふふ、変な話だろう。すまない、あまり気にしないでくれ」
そう言って彼は身体を城壁のほうへと向けた。
光の源であるステンドグラスを見上げ、パーシヴァルからは表情の見えぬ角度で静止し、そのまま黙ってしまう。
濡れた身体、雨水したたる髪と肌、水滴に艶めく鎧、雨音に消え入りそうな気配。目を離したらふと水溜まりに身を投げてしまいそうな気さえして、パーシヴァルは不安でたまらなくなる。たかが水溜まりで溺れることは無いと解ってはいても、ジークフリートがこの水面の底にある幻想の国へふらりと旅立ってしまいそうで――そこにヨゼフが居るのだとしたら、パーシヴァルにはもうどうしようもない。かなうはずもない。ヨゼフと己を比較する意味も無い。ジークフリートの持つ気高き騎士の魂は、今も昔も、ヨゼフ王だけのものであるから……。
「おい」
思考と感情と身体の回路が繋がらず、パーシヴァルは自らの意図しないうちにジークフリートの腕を掴んでいた。
「ん」
ジークフリートは抵抗しなかった。
パーシヴァルが引き寄せるままにゆらりと倒れ込んできて、抱き留めるようなかたちで腕に収まる。彼の濡れた鎧が、パーシヴァルの外套を胸元で留めている金具と当たって音を立てた。
「あ……すまない。……なんだ、身体に力が……」
「こんなに身を冷やすからだ」
足を踏ん張るように自らの力で立とうとするジークフリートの右手を握り直す。手は、左手には籠手を着けているのに、右手だけが中途半端に素手だった。その指先は生命の灯火が今にも逃げてゆきそうなほどに冷え切っている。パーシヴァルはジークフリートの右手の指を手のひらに包むようにして握り込んだ。
「冷えている」
右手を、両手で覆って閉じ込めるようにしたままさすってやる。
「雨に濡れたからだろうか」
「これだけ濡れれば冷えるに決まっている」
「……そういえば、少し寒いような気もするな。さっきまでは暑かったんだが」
「城の中に戻るぞ。髪と身体を拭いて乾いた服に着替えろ」
「俺ひとりでも戻れる。お前の手を掛けさせるのは……」
「いいから、来い。余計なことは考えるな」
右手を握ったまま引いて歩き出す。ジークフリートはおとなしくパーシヴァルの隣に並び、そのあとは何も言わずに黙ってついてきた。来た道を戻り、雨模様の中庭を通り抜けて城門の方へ向かう。
目指す先はパーシヴァルが滞在中の私室として借りている客間だ。ジークフリートの使っている部屋は別室で少し離れた場所にあるが、送り届けてそのまま別れるだけでは不安も残る。部屋に帰って濡れ鼠のままぼんやりされても困るし、また何処かへ行かれてしまっては意味がない。出来るものなら何処にも行かぬよう今宵じゅう捕まえておきたいくらいだ。今だけは、見ていたい。束縛して拘束したい。彼にいつものぬくもりが戻るまでは、せめて。
「居場所が必要ならば俺が用意してやる。ふらふらするな」
雨音に負けぬように声を張ると、握りしめた冷たい指に僅かな力が入った。
手の甲に指先をすりつけられる甘い感触を享受しながら、パーシヴァルは長雨の中、微かに重なる互いの体温を混ぜ合わせるように噛み締めるのだった。