たん、たんと軽く何かを叩く音が聞こえて、パーシヴァルは窓を見上げる。水飛沫が散っていた。いつの間にか雨が降り出していたらしい。窓を開けて辺りを見渡し、脇に生えた樫の木が音の出どころだと検討をつける。葉に溜まった雫が溢れて、葉や幹を叩き音を立てているのだった。
明るい。空の高いところに、欠けた月が嵩を被っている。雨の一粒一粒が、光を受けて影を作り、空の中できらめいていた。
季節の上では春と呼んでも差し支えないだろうに、ひどく冷える夜だ。眠る前に少し読書をするつもりが、いつの間にやら日が変わろうとしていた。葡萄酒でも飲んで暖まるか、それとももう休むか。逡巡していると、控えめに扉がノックされた。
こんな夜更けにおとなう者を、パーシヴァルは一人しか知らない。
「開いている」
そう応えて、たっぷり二呼吸は待っただろうか。尋ねておきながら、中に入ってこないのも、いつものことである。ため息をついて、扉を開けてやると、想像した通りの人物が立っていた。
「ジークフリート。お前、何をしているんだ」
「もう眠っているかと思ってな」
俺とて遠慮はする、と冗談めかして囁いた。廊下から冷えた空気が室内に入り込み、パーシヴァルは眉根を寄せる。
「早く部屋に入れ」
急かすと、ジークフリートは軽く首を振り、
「ここでいい」
と、何かを差し出した。うす暗い廊下では、それが何か判別が出来ない。だが、微かに清涼な香りがした。花開く前の、どこか瑞々しい青さを感じさせる植物の匂いだ。
「桜の枝が落ちていてな。蕾が重かったのか、風に吹かれたのかはわからんが。土を落として、水切りをしたらなかなか、見られる姿になった。
良かったら、貰ってくれないか」
暗闇の中で、桜の蕾が、ほんのりと白く浮き上がって見える。受け取ろうとして手を伸ばすと、ジークフリートの指先に触れた。手甲の感触ではない。確かめるように、パーシヴァルは指を辿り、ジークフリートの手首を掴む。
「鎧もつけずに何をしていた」
「散歩をしていただけだ」
「こんなに身体が冷えるまでか」
「雨に降られたからな。なに、大したことはない」
本気でそう思っているのだろう。なぜパーシヴァルの語気が強いのか、戸惑っている様子すらある。口で説得するのを早々に諦めて、
「早く部屋に入れ。二度言わせるな」
短く命じた。
「鎧はともかく、外套すら身につけていないのはどういうつもりだ」
言いながら、炉の中に火を灯す。燃料が無くとも燃え続ける炎だ。
「少し、気候を見誤った」
恥ずかしそうに微笑まれると、パーシヴァルはもう、何も言えない。
ジークフリートの鳶色の髪が濡れて、頬に張り付いていた。乱れた姿に妙な色気がある。部屋の照明を落としていたのもいけない。揺れる炎が映し出したジークフリートの横顔は、どこか異質な高貴さがあり、見惚れるほどに美しかった。
「挿し木にしてやりたいんだが、花瓶はあるか」
ジークフリートは手の内に視線を落とす。綻び始めた蕾と、まだ固い芽がいくつかついた、小振りな枝だ。その些細な仕草すら、絵に描いたように整っている。
「パーシヴァル?」
急に視線を向けられて、パーシヴァルの心臓が大きく脈打った。ジークフリートは不思議そうにパーシヴァルを見ている。心のうちを悟られるわけにもいかず、パーシヴァルはゆっくりとまぶたを閉じて、息を吐いた。
「少し、待て。このままでは風邪をひく」
まず、クロゼットから清潔なタオルを取り出して身体を拭き、ジークフリートを着替えさせる。簡素な寝巻きだが、濡れたままよりはマシだろう。
それから、暖炉の前に椅子を置いて座らせ、髪を拭いた。芯までは濡れていない。多少雨に降られただけ、と言うのは、本当のことらしい。
最後に、花瓶の代わりになるものを探す。
ロックグラスの、形が気に入っているものを一つ選んで、水差しから水を移した。枝の長さがあつらえたようにぴったりだ。
「郊外の、今は廃墟になっている場所に桜の大木があってな」
ジークフリートは嬉しそうにグラスの中の桜を見つめる。パーシヴァルはそんな彼の濡れた髪をタオルで乾かしてやりながら、心地の良い声を聞いていた。
「見渡すかぎりに花びらが舞っていた。月の下、花の香りのする雪が降っているようで、とても幻想的で美しかった。お前にも見せたかったなあ」
「俺に?」
「最近、部屋にこもりきりだったろう。気分転換にでもなればと思ってな」
ジークフリートはそこで、パーシヴァルの部屋の窓を見た。雨脚は弱まることなく、いまだ窓を叩き続けている。
「この雨で、桜も散ったと思う。とっておきの場所だったんだが」
パーシヴァルはグラスの中の桜を見る。廃墟で一人、桜を見るジークフリートの姿を思い浮かべる。夜空には欠けた月が浮かんでいたのだろう。それは儚く、美しく、寂しい景色だったろう。
「ジークフリート、今宵は泊まっていけ」
パーシヴァルは立ち上がり、ワインセラーから柘榴酒を取り出す。
「折れた桜の花見酒には高級すぎる酒だ」
ジークフリートが困ったように言うのに、
「価値あるものを知っているだけだ」
と返し、笑った。