グランサイファーの甲板で夜風を感じながら星空を見上げると、幾らか心が平坦になるような感覚がある。
ここのところ自分の感情は不安定で揺れがある、と、ジークフリートは感じている。騎空士として仕事を請け負ったり仲間とともに日常を過ごしたりするにあたって不都合は無いにしろ、上の空であるとか、ぼうっとしているだとか、そういう言葉で形容されても否定できない状態がもうここのところ暫く続いているように思う。
原因は半分ほどわかっていて、中心となるのはパーシヴァルの存在だ。率直に言うと、ジークフリートはパーシヴァルのことが気になって仕方が無い。付き合いの長い相手であるのにどうして急にこのようなことになったのかはよく解らないのだが、パーシヴァルの振る舞いや言動には特に変化は無いと思う――ということは変化したのはジークフリートのほうであろう。関係性は変わっていない。強いて言えば、共に騎空艇に乗るようになってからはそれぞれ別々に行動していた頃に比べると随分と接触は増えた。艇内ですれ違えば言葉を交わすし、食堂で出会えばそのまま食事を共にすることもある。元よりの知己ということもあって団長より同じ依頼や仕事のメンバーに選出されることもしばしばであるし、接触が増えれば当然ながら親しさも増すもので、今では昔のように手合わせをしたり、たまに二人で買い物に出たり酒を酌み交わしたりすることもある。声を聞く機会も増えた。一時期よりもずっと気軽に、他愛のないやりとりをするようになった。よく話をするから、彼の最近の趣味や食べ物の好みも知っている。いま読んでいる本のことだとか、最近知り合って話すようになった団員が誰か、ということだとか。パーシヴァルの服が翻った時に微かに舞う匂いも覚えた。彼の、扉をノックする音が昔よりも落ち着いた上品なリズムに変化していると言うことも。先日降り立った街で買ったワインが気に入って取り寄せることにしたとか、最近は季節の果物を口にする機会が増えた、とかいうことも知っている。そう言えば、ふだん、比較的低く重みのある声音で話す彼が、最近ジークフリートの前では幾らか緊張の緩んだような多少丸みのある声で話すことが増えたように思う。だから、そういう油断をわざと誘いたくて食事の席で酒を飲ませようとすると、すぐにこちらの意図に気づいて俺を酔わせようとするなと怒り出す。いや、怒るというか、文句を言い出すというか。慣れた間柄なのだから酔い姿くらい見せてくれても良いじゃないかと思うのだが、そういうものでもないらしい。案外可愛いところもある男だ。昔から――と言えば、それもそうだろうけれど。
(……ほら、まただ)
気がつくと、パーシヴァルのことばかり考えている。
どうしても止められない。延々と湧き出す泉のようだ。
目を閉じても開いていても目蓋の裏にはいつもパーシヴァルが居て、笑顔であったり、不満げであったり、凜々しかったり、ぼんやりしていたりする。顔や表情だけではなく後ろ姿であることもあれば、声と言葉、仕草を伴うこともある。ジークフリートの名を呼ぶ声とその表情を思うと、何やら胸から喉、目の奥あたりまでが幅広くむずむずして、意味も無く立ち上がりたくなるような気の逸りに襲われるのだ。
この感情が、慣れぬ。パーシヴァルのことが気になる。実際に彼を前にしてしまえば気になるなりに普通に振る舞えるのだが、とにかく彼の一挙手一投足にいちいち心を奪われてしまう。ぼうっと表情や仕草を見つめてしまって「話を聞け」と叱られることも少なくない。それから、直接彼と接している時は良くても、遠くから彼の姿を見つけたときに何故か訳もわからず妙にそわそわする。この感情はもっとも不可解だ。目が合って、遠くに居る彼に微笑されたときに、どういう訳か気づかぬふりをして目を逸らしてしまいたくなる。実際にそうしてしまったことも何度もある。パーシヴァルはそのような些細なことで怒る男ではないが、目を逸らしたら失礼にあたるだろうから会釈くらいは返したいのに――。
(……駄目だな)
気がつけば、パーシヴァルのことばかり。
堂々巡りだ。結論の出るような思案でもないのだから当たり前と言えば当たり前でもある。
ジークフリートは深々と溜め息をつきながら夜空を見上げた。満天に散りばめられたような星々が強く弱く光を主張していて、まるで闇色の幕に金銀の微粒子をばらまいたかのような夜空であった。月は見えない。だからこそ星の輝きが美しく煌めいて見えるのであろう。
誰も居ない真夜中の甲板は粛然として澄んでいるから好ましい。自分が心乱れていようとそれが自然のこととして受け止められているような悠然たる空気がある。だからこそ、ジークフリートは今宵、ひとりでこの甲板に出てきて星空を見上げている。眠れぬ夜にただ漫然と物思いに沈んでいても許されるのはこの場所くらいのものだ。
パーシヴァルのことを考えていたらどうしても眠れなくなった――最近は、しばしばこういうことがある。眠気をおぼえてベッドに入っても、脳裏をゆらめくパーシヴァルのつれづれに誘われて覚醒してしまう。少しうとうとしてもパーシヴァルの夢を見て、訳もなくどきどきしながら目が覚めてそれ以降また眠れなくなってしまう。本当に、文字通り寝ても覚めてもパーシヴァルのことばかり考えている。このようなことを誰かに言える訳もなく、解決法もわからぬままだ。いっそパーシヴァルと暫く会わないようにしてみたら今まで通りの感覚に戻れるのであろうか……と考えてはいるが、そのためには一旦艇を降りるしかない。
「……、」
びゅうっと風が吹いて、髪が靡いて顔に絡みついた。気流の変化か突発的な強風か、いずれにしろその一陣のみで風が続く様子はなさそうであった。
ジークフリートは顔に絡んだ髪を指先で除けながら、ふと背後に何者かの気配を遠く感じて振り返った。
背後を取られたと言っても騎空艇の中だ、不審者である可能性は低かろう――。
「……パーシヴァル」
甲板へ出る階段から姿を見せた男の、その顔かたちを確認する。
ジークフリートは彼の人の名を呟きながら信じられないような心持ちで目をしばたたいた。
あまりに彼のことばかり考えているから幻でも見ているのだろうかと思った。頭の中に描きすぎて妄想上の彼が目の前に顕現してしまったのではないか。しかし、こちらの理の通らぬ戸惑いをよそにパーシヴァルはジークフリートの居るところを目指してずんずんと歩いてくる。――こっちを見ている。ジークフリートは思わず目を逸らした。知らないふりをしようとした。自分と彼しかいない闇夜の静謐さのなかで、誤魔化すことなど出来るはずもないとわかっているのに。
パーシヴァルが来る。そばに。隣に。
固まったまま何も言えぬジークフリートのすぐ脇で足を止めて、手摺りに右手を載せて佇む。彼の匂いがして、ジークフリートは呼吸を止めた。最近おぼえたばかりの深みのある品の良い香り。あまり近くでたくさん吸ったら自分の抱えている罪のようなものが溢れ出してしまうかもしれない。
「どうした。眠れないのか」
声が優しい。すこし緊張したような声音だ。俺に対して優しく穏やかに接しようとしているのか。耳の奥が熱くなる。
目を合わせられないくらいならまだしも、問いかけに答えないのはさすがに不義理だ。ジークフリートは音が立たぬようにゆっくりと息を吸って吐いて、感情を整えてから口を開いた。何気なく、いつも通りに。パーシヴァル以外の相手に対するのと同じように。
「まあ、そんなところだ」
「そうか。……そうだな、そういう夜もあるものだ」
「お前はどうしてここに?」
「団長達と次の依頼の打ち合わせをしていて、先ほどようやくそれが終わって、甲板に出ていくお前の後ろ姿を見たと言っていた者が居たから様子を見に来た」
「そうだったのか。すまんな。不審だっただろうか」
「そういう話ではない。俺が、――最近お前の様子が少し変だ、と聞いて気になっていただけだ」
会話を始めてしまえば案外いつも通りに話せるものだ。そのことでジークフリートは多少安堵した。変に意識しすぎて話も出来なくなってしまったのでは、いよいよ彼と距離を置くしかない。それは、さすがに――、なんだろう、寂しい、と言うか……。
「眠れないのだろう。気になることでもあるのか」
「いや。……たいしたことではない。気にしないでくれ」
「俺は、お前に不必要な干渉をしたり、悩みを無理に聞き出したりするつもりは一切無い。しかし、もしお前に俺を頼る気があるのならば惜しまず力を貸すつもりだ」
パーシヴァルの声が静寂に染み込んでいく。
なにやら回りくどい言葉であったが、要するに悩みがあるならば話せと言いたいのだろうか。解決に協力してくれるつもりなのだとしたら気持ちはありがたいが、今回に限っては問題の中心をそのまま彼に伝えて良いものかどうか悩ましい。ジークフリートは黙っていた。考えながら、パーシヴァルの表情を見る。紅い綺麗な瞳がこちらを見ている。眉を寄せてはいるが穏やかなやさしい光が灯っているから不機嫌なわけではなさそうだ。おそらく、照れ隠しというか、感情や意図を無意識に隠そうとしているのかもしれない。
昔から何かと冷静ぶろうとするところのある男だ。本当は情熱的に心を燃やすことも多くあるくせに。
「……そうか。感謝する。恩に着よう」
優しさだけは受け取ろうと考えて礼を述べると、パーシヴァルは少々不服そうな、事がうまく運ばなかったかのような顔を見せた。暫しの沈黙が落ちて風の音に仕切り直されたのち、彼は嫌みの無い、奇妙に純朴な溜め息をついてから、声音のトーンを少し変えて口を開いた。
「部屋に戻るぞ。このような肌寒いところに居たのでは眠れるものも眠れなくなる」
「……部屋に? 俺はもう少し此処に居たいんだが」
「夜風で身体を冷やすだろうが。いくらお前が化け物のように丈夫だからと言って、身体を冷やして良い影響は無い。せめて、部屋に居ろ」
「しかし、帰ったところでな。どうせ眠れん」
「俺が……お前の部屋に居てやっても構わん。お前が眠るまで」
ぽつり、と、隠していたものをそっと放るようにパーシヴァルが言った言葉を、ジークフリートは一拍遅れて受け止める。
やや不自然な言い回しだが、つまりそれは。
「いや、しかし。俺が眠れないのは、別に、……」
「誰かが居たほうが安心できると言うこともあろう。眠れないなら話し相手になってやっても良いし、少しならば酒に付き合ってやっても良い」
「……」
もしかしたら、俺にもっと重大な悩みがあると勘違いされているのだろうか?
何かに悩んで心を痛めているから眠れないのだと。なるほど、そう思われていたのだとするとパーシヴァルが俺のことを気遣うのも理屈は通る。何か深刻な悩みがあるようだ、そのせいで眠れない――となれば、パーシヴァルくらい優しくて人の好い男であれば心配してしまうものなのだろう。好ましい男だ。申し訳なく感じてしまうくらいだ。
「俺もお前も明日は非番だ。寝坊をしても、昼まで寝ていても、別に文句は言われまい」
ちら、とこちらを向いた紅い視線と目が合い、意識が出会う。不器用さの滲むパーシヴァルの様子に、言語化しがたい何らかの、たまらない気持ち、のようなものを抱きながらジークフリートは微笑した。
「……ふふ、そうか。では、頼もうかな」
「了承した」
パーシヴァルは頷きながら、己の羽織っていた赤く裾の長い羽織を脱いでジークフリートの肩にふわりと載せて纏わせた。
ジークフリートは半袖の薄手の服を一枚着ているのみであったから、袖を通せと言われて従うと、身体が冷えた事によるこわばりはその瞬間にこころよく和らいだ。
(パーシヴァルの匂いだ)
両腕を通して前を合わせてしまうと最早逃れようのないまでにパーシヴァルの匂いがした。吸い込むと、あらがえずに胸がたかぶる。浮き足立つようなそわそわした気分が上がってきて、意味も無く声を出したり、歌をうたったり、飛び上がったりしたくなるような、決してそんなことはするはずもないのだけれど、そんな挙動不審なことを考えてしまうほどには感情が揺れた。パーシヴァルの匂いに包まれたままパーシヴァルに伴われてふたりで歩いて、今宵は一晩、少なくともジークフリートが寝付くまで、彼は自分の部屋に居ると言う。彼の気配の濃い部屋でベッドに横になっても眠れる訳がない。本人が居なくても彼のことばかりを考えて眠れないのだから、本人がそばに居たりなどしたらきっと滅茶苦茶になってしまう。
(なんだろうな……この、不思議な……)
どうしようもないのに、何処となく嬉しいような、楽しいような。そのどちらとも違いつつ、どこか似た印象のプラスの感情があることも確かだ。楽しみ、というのが近いだろうか。彼とふたりだけで静かに過ごす夜と、寝付くまで居てやると約束してくれた彼とこれから交わすやりとりが楽しみだ。わくわくする、というのも、感情を表現する言葉としてそう遠くない。しかしそれを同量もしくはそれ以上の、息の出来ないような切迫感があることも否定できない。
(感情というものは難しい。自分のものであっても)
ジークフリートが思案したまま立ち尽くしていると、パーシヴァルがふと手を伸ばしてきて、ぎゅっと手を掴まれた。行くぞ、と掛けられた声に耳がくすぐったくなる。
手と手が触れ合って熱を分け合った瞬間、ジークフリートの身体は甘い電流を流されたかのように痺れて、上手く動かなくなってしまった。