鮮やかの恋人 顔に何かが触れた気がして薄く瞼を開ける。
「…?」
薄暗い空間がぼんやりと見える。身動くと隣にあった筈の温もりが少ない。ほぼ無意識に熱を求めて掌で探ると肩まで何かを掛けられる。視線をそろそろと上げればキチンと軍服に身を包んだ男が此方を見ていた。
「…大佐」
「あれだけ身を寄せて丸まっているのでは、俺のいない夜は寒いだろう」
そう言って今度は口を覆うまで掛けられる。毛布だ。ふわふわで毛足の長い上質な物。知らない香りに彼が買ってきたのだろうと予想する。昨日随分と大荷物に見えたのは仕事のものだけではなかったからに違いない。推理が昨夜寝落ちたせいで記憶にないこの毛布を包むように寄せられると布団の上からでも彼から移った温もりを感じた。
しかし恋人に毛布など贈るだろうか。
「行ってくる」
「あ、ああ……」
額に触れるだけの口付けを目を瞑って受け入れてから、ほんの少しの疑問を胸に広い背中を見送る。
この頃はまだ何も思わなかった。
「これ。あとそれも」
「……大佐」
「愛用の飴も切れていただろう」
「大佐」
「嵐の夜に傘が折れたと言っていたな」
「大佐!」
テーブルには品々が山積みになる。
朝早くに事務所兼自宅を訪ねるから何かと思えば仕事前に贈り物か。事務所は職場への通り道というわけでもないのに。上着を着た推理は大佐を見据える。
「何度言えば分かる。君は自分の為に金を使うべきだ」
食器も茶葉も万年筆も。推理の周りには彼の贈ったもので満ちていた。推理はもういつ買い物をしたか覚えていない。それだけ貢がれたということだ。推理に対して金を使い過ぎていることを少し前から指摘しているのに彼は一向に変わらない。
「以前君はそうすると了承しただろう」
「ああ、そうだが、」
「自分のことは自分でできる。あまり私のことを見くびらないでくれ」
推理は大佐の主張しようとする声を遮って言葉を放つ。普段なら絶対にしない行為だ。大佐はその様子に眉を顰めて心配そうに手を伸ばそうとしたが、彼に背を向けてしまった推理の目には入らなかった。
何故だか無性に大佐の行為に腹が立って仕方がない。不愉快でこれ以上彼の言葉を聞きたくない。
「推理、」
「すまないがすぐに客が来る。……君も早く仕事に行くといい」
「先生」
バタン
開けた扉を音を立てて閉める。
「先生」
「帰りたまえ」
そう一言扉の中から言えば暫くして石畳にこつこつと響く音が遠ざかる。それに胸の奥がきゅうとなる。
彼の手に人気スイーツ店の紙袋が握られているのを見た。この前は違う店のスイーツだった。その前も。どれも過去にチラシを見て美味そうだとひと言溢したものだ。
推理は悩んでいた。彼の金銭の扱い方についての口論であまりにも酷い態度を取ったのを自覚している。
相手の意見も聞かずに否定して追い出した。
それは苛ついていたからだと今なら分かる。街の名探偵とはいえ推理も人間だ。行き詰まることもある。その焦りと大佐の行為に、まるで自分は何もできない無力な人間なのだと突き付けられているようで。彼を必要以上に責めてしまった。理性を欠いた行動だった。
それでも大佐の金の扱いに不満があるのは事実だ。
手にしていたあれが単なる訪問の菓子折りの役割だとしても、今許しては何も変わらないに違いない。なにせ彼は前にもあいわかったとはっきり言ったのだから。
彼の鞄は皮が弱って剥がれかけているというのに買い替えもしない。髪が伸びても結べば変わらないと床屋に行かない。くたびれた紙紐を使って櫛も買わない。
そんな彼が推理に対して惜しみなく金を使う様に罪悪感が胸を取り巻く。まるで自分が彼に貢がせている悪女のように見えた。
推理にはちゃんと収入がある。節度ある生活を送りながら少し金を貯めて記念日のプレゼントを買うだけの余裕はある。それなのに大佐はまるで推理は自分がいないと生きていけないのだと言わんばかりに物を贈った。
推理は基本的に他人に干渉しない。真実を暴き意見を語れど、相手の行為や思想を変えようと思わない。恋人に対しても然り。
その推理が彼に物申したのだ。
推理の性質を知っている大佐は推理がどれほど改善を強く望んでいるか知っているに違いないのに。
鍵をした扉に背を向ける。脳裏に紙袋を手に去る姿が浮かぶ。振り向こうとする首を斜め先にある姿見の前で止める。それは靴箱を写していて自分の顔は見えない。
距離を置くことで頭を冷やせばいい。
ああ、でも。
彼はどんな気持ちで、ひとりスイーツ店に入ったのだろう。
日が傾き始めた時間。事務所の十字格子の影が部屋に伸びている。推理はティーカップを磨き終えると棚へ戻した。ポットの奥には使わなかったカップが覗いている。
最近大佐は事務所を訪ねない。追い返されると知っているからだろうか。声の記憶が少し遠い。
追い返したのは自分なのに。彼の座る椅子はずっと空席で、普段愛想の悪い顔が時折見せる光に薄く目を細めるような笑顔も見ていない。
忠告を聞かないから。態度を改めないから。彼が行為を改善するまで推理には会う気は無かった。大佐が一度了承した事を反故にした理由だけが分からない。それ故か頭の隅では彼との対話が必要だと自分自身に助言している。そんな必要はない、と頭ごなしに否定し続けてきた心に初めて疑問を持つ。
「……ああ、そうか」
自分は意地を張っていたのだ。
あんな対応をした理由があまりに幼稚で格好のつく謝罪の言葉が見つからないからと彼が物を贈るのを止めない理由を問おうともせず、彼が謝ることで済まそうとしている。
食器、茶葉、万年筆。彼の贈ったものはどれもすぐに推理のお気に入りになった。
口寂しい時にあの飴を口に放るのは。肌寒い夜にあの毛布を掛けるのは。
いま、こんなにも『感情』で動こうとしているのは。
推理は椅子に掛けていた上着を着る。
ふと姿見に写った姿を見れば抜け殻のようだった。この世に色が無いような顔。音が無いような顔。
その全てが、何処にあるのか知っている。
上手く言葉にできなくてもいい。
帽子を手に取るとパイプを咥えたまま扉を開けた。
噴水のある広場を横切っていく。学生達が階段に座って談笑している。まだ街灯は点かない、ほんのりと橙に染まった街。店の連なる通りには仕事帰りの人々がまばらに行き交っている。
「先生」
そんな声が聞こえた気がして視線を上げる。
少し先の人の隙間に彼が見えた。
幻聴じゃない。
向こうから歩いてくる。彼の自宅はこちら側ではないのに。反射的に背を向けた。帽子を押さえて足を踏み出そうとした。
「推理」
「───っ!」
その足は次を踏めなかった。
鍔にやった手を内側から攫われる。それに釣られて視線が上がった。
「っなにを、」
「すまなかった、許してくれるか」
手袋越しの手の甲に柔らかい感触が落ちた。不意打ちに勝手に頬に熱が溜まる。
指の隙間から見える瞳とかち合う。
「貴方に、嫌われたくない」
この男が『貴方』などと気を付けて言うのは誠意を見せようとする時だ。
暫く視線が合っていた。それから推理は右手でパイプを外して少し視線を下げた後、再度目を合わせた。
「……私こそ…意固地になっていた。苛立っていて酷い態度を取った。…謝罪する」
そう言えば、大佐は目をほんの少し細めて推理だけが『笑っている』と分かる顔をした。
ああ、なんて簡単なことだったんだ。醜く言い訳をする必要もない。
彼の笑顔に言い得ぬ感覚に心が包まれる。時が止まったようだった視線が和らいで人々の気配が耳に届いた。
そうだ。ここは外だ。行き交う人々が立ち止まる2人を見ているような気がして大佐の顔を意味を持って伺ったが彼にはその訳が分からないらしい。推理は大きな手のひらの中でガラス細工でも扱うかのように取られた手をパッと翻して乱れてもいない襟を正す仕草をした。
「…君、何処でこんなことを覚えた」
「部下から態度で示すべきだと助言を受けた」
「…部下」
思わず単語が口から溢れた。そうしてからこの仏頂面の男が恋人関係の悩みを部下に打ち明けるのを想像して少し顔が緩む。その部下はさぞ困惑しただろう。態度、というならあの菓子折りで正解だったはずだが…きっと部下は『仕事と恋人どちらが大切か』系の喧嘩をしたのだと勘違いをしている。
「しかし君が私に対して金を使い過ぎている点については改善してもらうつもりだ。君は一度了承した筈だろう」
「俺は最初からそのつもりだ」
「?」
「お前は、俺のものだ。俺のものに金を掛けて何が悪い」
大佐は恥ずかしげもなくそう言った。
今日は珍しく饒舌だ。そんな言葉を吐けるのも部下の助言のお陰だろうか。
「君からそう言葉を引き出すとは妬けるな」
「相手がお前でなければこうはならなかっただろう。推理、お前が言わせたんだ」
拗ねたような口調になったのを自覚した時には既に大佐は口を開いていた。
大佐が前屈みで距離を詰める。それに威圧されるように下がればとん、と背中に街灯が当たって逃げられない。
「お前は俺のものだと」
久々の距離に心臓が跳ねた。
慌てて平静を保ちながら軽く胸を押し返せば簡単に離れた。
「つまり、君は改める気はないと」
「お前がどうしてもと言うなら止めよう」
「……分かった。もう何も言わない」
これ以上口を出すのはやめた。彼にとって推理は『初めて』なのだと聞いたことがある。彼のストレートな愛情表現や他の目を気にしない振る舞いも、愛することを知ったばかりの青年のようで振り回されながらも愛おしいのだ。彼の我儘に付き合ってやろう。
大佐は推理の顔に手をやって出てきていた前髪を耳に掛けた。くすぐったいがされるがままでいると、大佐が口を開く。
「次は、笑顔で受けてほしい」
「ッ……!約束する。必ずそうしよう。…だが節度は保つように」
「ああ」
大佐の言葉に推理は短く息を吸った。最後に贈り物を笑顔で受け取ったのはいつだった?彼の行動に疑問を抱いてからはそれが顔に出ていたのだろう。彼からのプレゼントの内容が重くなったのは、自分の喜ぶ顔を見たいがため、というのもあったに違いなかった。だからより必要性のある身近な日用品まで贈ってきたのだ。
推理は如何に不満があったとはいえ自分の態度に反省した。それと同時にこんな男の笑顔を強請られているのが恥ずかしくもあった。
推理はこほん、と態とらしい咳払いをして来た道を戻り始める。大佐も数歩遅れて付いてきた。
「…明日は休みだろう、今日は泊まったらどうだ」
推理はそう言いながら帽子の鍔に手を掛ける。顔は見えない。早足で進んでいく推理に大佐は困惑しながら後を追いかける。
「推理、何か用事があったのでは?」
「い、いや…」
「推理?」
後ろから掛かる声に推理が振り返った。その頬は帽子の下で薄く桃色になっている。
「ッ私も、君に会いにいくつもりだったんだ…!」
絞り出したように言う声を大佐が真正面から受け取る。
上手く言葉にできなくても、思ったままの感情を込めて。
「君のいない夜は、あの毛布をもってしても寒い。だか、ら、…」
声は尻窄みになって言葉にする羞恥心から少しづつ顔が地面を見る。その視線の先に、大きな靴先が映った。
「そうか」
そう言葉少なに返す声が優しい。
大佐が隣へ来て帰りを促した。薄暗くなった街はショーウィンドウの光と街灯でチラチラと光っている。そのなんてことない風景があまりにも美しいから、推理は腰に回った腕に気付かないふりをした。