Allergic to "LOVE" 男女が路地を抜けようと明るい方へ走っている。
「早く!先に逃げろ!」
「っあなた…!」
男が繋いだ手を引いて女の背を押した。なめらかな肌を貫くはずのナイフが男の胸に刺さる。
それに心が騒めく。
「っぐ、あ……」
「あ……!」
女は男の健闘虚しくその場に腰を抜かした。必死に腕を使い後退る女の綺麗なワンピースが皺になる。土がつく。
この女は助かれない。
そう思った時だった。
「……っ!」
女が逃げる動きを止めて倒れた男に腕を向ける。既に事切れた肩を抱いて俯いた。
頭の中を苛立ちが駆け上がる。
「っ、っか、は……」
2本目のナイフを向ける前に女が血を吐いた。よく見れば首を切り裂かれていた。
殺したのは銀だった。
「…任務完了」
背後から来る長身とすれ違う様にして死体に背を向ける。男に刺さったナイフは銀が抜いた。処理は必要ないと聞いていたため死体をそのまま捨て置く。
最期を悟り2人寄り添って死のうとした女を銀は嫌いではない。ただ、彼は違う。
ガランッ!!
薄暗い路地裏に雑な金属音。
暗殺者がドラム缶を蹴った音だ。
銀は彼を構いはしない。今日のような日はこうなる事も、彼のそれは治しようのないものということも知っている。
「私の手に掛かり幸運だったな」
死体に吐き捨てて振り返れば行き場のない狼が唸る様な声が路地裏に響いた。
暗殺者は感情を表に出す男ではない。多くを語らない殺しのエキスパート。典型的な『暗殺者』だった。
彼はどうやら孤児らしい、というのが銀の見解である。
仕事上の付き合い。とは言え長く寝食を共にいれば見えるものだ。彼の所作、知識、考え方。生粋の殺し屋である銀から見てもあまりに『暗殺者』であった。それ以外に彼が持っているものは何も無い。
彼には、『愛』が無い。
「ご機嫌よう。おとうさまのお客様方」
屋敷で依頼者以外に裏の仕事を請け負う2人に声を掛けてくるのは依頼者の一人娘しかいない。清潔で可愛らしい服を着た少女だ。手には片目の取れた小汚い鼠のぬいぐるみを持っている。屈託なく笑う裏に闇を隠した、裏社会には珍しくない娘。
銀は暗殺者はこの娘が苦手な筈だと思った。
「ねえ、背の低いおにいさん。あたし達何度も顔を合わせているわね」
この娘は亜人である銀を怖がりはしなかった。しかし彼女の目的は暗殺者のみである。
如何にもちゃんと愛されてきた娘。それでも父がこの世界の住人であることを考えればこの執着と異様な物を好む、所謂『正常』でない心を持つのも納得する。
彼女は何度も暗殺者に声を掛ける。
「名前が知りたいわ。お父様に言ってあたしの使用人にするの」
暗殺者と正反対の娘。愛を受けることも、愛を与えることも厭わない。ただの娘。それは『ちゃんと』愛された証拠だ。
「屋敷にケーキがあるの。2人きりでお茶しましょ?」
暗殺者は少女の泥のような執着も毒のような眼差しも気に留めない。それどころか酷く避けるように視線をずらして視界から追いやり続ける。
暗殺者は『愛』のアレルギーだ。
彼は受けたことの無い愛を理解できない。助け合い、頼り合う。その姿を見ることさえ身体が拒絶した。与えることも、受け取ることもできない。
その理由を暗殺者は知らない。
「あたし、アナタのことが好きなの!」
その言葉に到頭彼は少女を殺してしまった。
まるでそう仕組まれていたかのように恐ろしい程の手際で胸をナイフで貫いた。
家を抜けて付いてきていた彼女は路地に崩れ落ちる。その様は銀には美しく見えた。彼に、しては。血は胸元を濡らすだけ。『アレルギー』を前にして滅多刺しにしなかったのだから。
顔が引き攣るのは少女を殺した罪悪感からではない。彼女への強い嫌悪からだ。
父へと駆け寄る姿。相手にされず悲しむ仕草。膝に乗り髪を撫でられて綻ぶ顔。
目にする度に殺意が湧いた。
「……っはあ…っ」
血塗れのナイフを持つ手が形を無くしてしまえと震える。それを無理矢理腰に仕舞う。背筋が疼いて壁を殴った。頭に血が昇って吐き気がした。
俺は。
俺は、俺は。
抱きしめられたことはない。守られたこともない。頭を撫でられたことだって。
そんなもの知らない。
自分だけに向けられた笑顔。少女が自分だけに向けた『何か』。
そんなもの、見たことがない。
知らない。
俺の記憶には、痛みしかない。
「はぁ……っはぁ…ッ!」
苦しい。
どうして。
苦しいのは、何故だ。
そんなものは知らない。
自分は知らない。
知らない。
「ぅううう……ッ!」
行き場の無い感情に唸ってペールを蹴ればゴミ袋が散乱する。視界が歪んで白む。
何故、俺は『それ』を知らないのだろう。
胸のずっと奥が痛い。
苛立って、このまま止まっていられなくて、全て壊してしまいたくなる。
「暗殺者。彼女は依頼者の娘だが」
そうだ。彼女は依頼者の娘だ。それを言葉にできる理由もなく殺した。
「西の街へ発つのは明日に」
「………いや、東の街へ」
暗殺者は早く彼女から離れようと足を早めた。
少女の手から灰色の鼠が転げ落ちる。耳の良い銀は屋敷で彼女が鼠に語りかけるのを聞いていた。
『あたしに少しも笑いかけない。あたしの話を少しも聞かない。素敵でしょ?アナタみたいな香りがするの。薄暗くて安心する香り。きっとアナタも彼が好きでしょう?』
やはり彼女はおかしかった。それでも愛されていた。愛されていても、彼女には何かが足りなかった。名前を呼ばれて振り向けるのに、何かが足りなかった。
それならば、名前のない『暗殺者』はどれほどのものを失ったというのだろう。
発作のように暴れた後は決まって寒い。
寒くて寒くて、凍えて死んでしまう気がした。
だから身体を丸めて小さくなって、その寒さから自分を守って眠る。
建物の隙間を縫った月明かりが廃墟を仄かに照らす。崩れ掛けた外壁は内側を程よく隠した。埃まみれのこの場所を訪れる者はいない。
暗殺者の眠る部屋の隅から離れた場所で、銀は中身のはみ出たソファに腰を掛けて外を眺めていた。
「今回の報酬を貰い損ねた」
「……金は、いらない」
金に困ってはいないのに銀は態と口にする。暗殺者の朦朧で不確かな声が辛うじて言葉を紡いだ。
「人は皆金を求めて働くものだ」
「俺は…誰かを殺せればいい。殺せば、明日も生きていられる……」
暗殺者は金が欲しくて殺すのではない。殺ししか知らないからそれで金をもらうのだ。銀はそれを分かっている。
殺さなくては自分は生きていけないと思っている。殺し以外の生きる手段を知らない。
よくあることだ。幼子を攫って、もしくは奪って、買って、調教する。殺ししか知らない絶対服従の生物兵器に仕立て上げる。よくあること。全ては銀の憶測に過ぎないが。
ただ彼は珍しい。それから解放され世界を見ても、こんなにも未だに根底に『何か』が染み付いてあるのは。各地を転々としたのに彼に根付いたものは変わらない。
ただの愛の無い殺人鬼だ。
「お前は人よりよっぽど『私達』に似ている」
「……言っている意味が、分からない」
自分を守るように身を丸めて眠る。
幼子のようだと銀は思う。
暗殺者の『愛』への反応は嫌悪だけではない。頭の中で重要なものだと分かっているからこそ、それを知らない焦りと不安が現れる。
銀との連携はできる。それはそこに感情がないからだ。彼はあらゆるものに対して認知不能を根拠に自分に無い筈の愛の有無を無意識に判別できている。
その根拠の根拠は恐怖だ。
知らないことへの恐怖。もし彼が『愛』の本質に気付いた時、失っていたものの大きさに絶望する。それを心の知らない場所で恐れている。
自分の中に無いのが怖くて、手に入れるのも怖くて。雁字搦めにされた彼は何処にも行けない。
「そのままでいいのか?」
「…時間の無駄……寝る。黙れ」
話している意味が分からない。それなのにこの話はしたくない。考えたくない。胸がチリチリと音を立てて端から焦げていく感覚がするから。
暗殺者は小さく動いて更に身を小さくする。瓦礫の散乱する床から目を背けて瞼を落とした。
銀は行儀悪くソファに足を引っ掛けて頬杖をつく。
「お前の名は」
「…?……俺は、暗殺者、だ」
名前が無い。誰もが貰うはずの最初で最低限の『愛』が無い。
殺し以外、何も無い。
ふと銀は思う。
この男に私が愛を与えたらどうなるのだろう。
もし、与えたとして。愛を学ぶのが先か、アレルギーで死ぬのが先か。
その答えは分からない。
銀が愛を与えない限りは。