調子のよいベッド 心音で身体が揺れる。
草を踏む音が煩い。
暗号機から手を離して両手を着く。
ぴぴ、がが、かんかんかん。
余韻が頭から離れない。
地面を蹴る音が近くなる。焦るような短いものとゆったりとした音の幅。心臓が跳ねていく。
暗号機から手を離して振り返る。飛び込んできた仲間を視界に認めてすぐ、立て掛けてあった板を倒した。
呻き声を上げる姿を目の前に据えて、口の端を無理矢理上げる。
「はは、いい気味」
そのたった一言で、狩人の視線を一身に浴びる。身体を翻し挑発して踊るように駆ける。後ろで板を踏み抜く苛立たしい音がする。何も変わらない、仕事の始まり。
「おつかれ!」
「トレイシー。ナイチェ」
「ナワーブのお陰だよ!いつもありがと」
彼女はリモコンをガチャガチャと弄る動きをしてから手を振って廊下を走っていく。
最後までフィールドに残っていた彼女はナワーブのラストチェイスと引き換えに見事脱出してみせた。機械に詳しく臆病で頑丈でもない彼女はハンター達には恰好の餌食で、脱出できるのは特に珍しかった。
役目を果たした。
漠然とした使命感から解放された途端に頭痛が顔を出す。曇天でも飲み込んだかのように身体が重い。遠くで聞こえる音が煩い。
心当たりなどしこたまある。晩酌のまま寝こけていたり、雨に濡れたまま小1時間過ごしたり、朝から晩まで試合に出ずっぱりを5日程続けたり。
理由などどうでもいい。静かに過ごせば消えてしまう、一過性のもの。ただ仲間には悟られたくない。仲間思いの彼らが知れば変に騒がれて医務室に押し込まれるに決まっている。余計な心配は掛けたくなかった。
ふ、とある顔が頭痛の片隅に浮かぶ。白い面。此方を向いて腕は細い癖にデカい掌を差し出してくる、紳士な仕草。
「…………っ」
ふるふると細かく頭を振れば脳内に振動が響く。
今日の彼は休日だ。1人で優雅に過ごしているに違いない。そも状況を知ったところで見舞いに来て欲しいとも思わない。
彼は自分を余計な話をしない物静かな男だと自称するが、それは間違っている。
確かに余計なことは言わないが、それは「意味のない会話」をしないだけであり、有用と取ればよく話す。寡黙で世間話や相手に合わせる、空気を読むといったことを苦手とする身にとっては居心地が良いものだ。
もしも彼が、会話が必要だと感じたら。
『───なんて、小説だとしても余りに現実味に欠けると思いませんか?何です、芋虫が間違えて花を齧ったような顔をして……ああ、シュガーが足りないか?此処にある、ほら、寄越しましょう。カップを出して───』
あんな猟奇的な男だが根は優しい。他の奴らには知らないが、自分に対しては少しは気遣いというものを知っている態度を取れる奴だ。変に世話を焼こうなどと思われては困る。
今まで彼が見舞いなどと言って部屋を訪れた事はない。1人で過ごすためにかけた鍵を開ける術を彼は持っていなかったからだ。しかしどうだろう、ついこの間何かと便利だろうと彼に言われるがまま合鍵を交換してしまった。実際のところ返し忘れた晩酌のグラスを戻したり中庭の茶会用にクッキーを取ってきたりと便利ではあったのだが。
態々鍵をかけた部屋に彼が合鍵で押し入ってくることはなかった。きっと今日もそうだろう。そもそも彼はこの状況を知らない。
会話も返したくない、本当に何も考えていたくないのだから。
「明日には治る……元通りになる」
この苦しみに言い聞かせるように呟いて、無意識にフードを深く下げた。
本当に放っておけば治るため、特別どうというものでもない。何度も経験して適当に過ごした。何事も無かったかのように今日を穏やかに過ごせればそれでいい。
さっさと夕食を済ませようとゆっくりと食堂の扉を押し開いた。
今日は良い日だった。
癖でズレてもいない仮面を直しながら自室を後にする。
ゲームに駆り出されることもなく、心地よい陽射しの下でアフタヌーンティーをして、読みかけていた本も随分と進んだ。
「♪〜……此処に彼がいれば………ああ、いや……」
これで恋人が隣にいればミルクティーのソーサーにジンジャークッキーが座っている時のように完璧だったのだが。1日を思い返してつい独り言が零れた。仕方あるまい、ナワーブはここ最近はずっと試合に参加しているようだった。確か今日で5日目になる。
彼はそうやって、ゲームの予定を詰めるのが好きだ。
息を吐く間も無く、次へ、次へ、次へと舞台に身を置くと、思考の端々が鋭く尖っていく。瞬間を永遠に感じる。計算通りに身体が動く。どれが最適解か理解している。
『全てを手に取るように知覚して、小指の先ほどの木の実を狙撃するように眼前に集中するのに、頭の真後ろや壁の裏に空を飛ぶ鳥まで見えている』
そう聞いたのはいつだっただろうか。傭兵のくせしてその時ばかりは言葉が上手いと思った。正にそのような感覚に襲われたことがある。急くようでいて余裕のあるその状態を自分は気に入っていた。
試合漬けの日々はそろそろ終えるだろうが、充分好きに過ごした違いない。まとまった休息の日が来るだろう、その際には茶会にでも付き合ってもらおうか。
そんなことを思いながら食堂へ向かえば、廊下の先に緑の人物が見えた。
噂をすればなんとやら。
声を掛けるには遠くにいる緑のフードは少し俯いているように見えた。真正面にいる訳でもない自分には気が付いていないらしい。指でフードを深く被り直す様子は顔に落ちる影を増やしたい為に見えた。それに違和感を覚える。彼は黒い腕を伸ばして、億劫そうに食堂の扉を開けて入って行った。
思わず足を止めていた。なにも、驚愕するような事があったわけでもない。ただ、ほんの少し思考して、時間を空けてから同じく食堂の扉を開いた。
「やあリッパー。良い夜を」
「おや、占い師に使い鳥。こんばんは、良い夜を」
扉が開くこと知っていたかのように、目の前には占い師が立っていた。軽く挨拶を交わしてすれ違いながらゆっくりと室内を見渡せば、端の方で入り口に背を向けて食事を取る彼が見えた。自分は入り口から離れ且つ彼の姿が見える位置に席を取った。
食事のスピードが早い。そう思った。まるで作業のように手を動かす様は彼らしくなかった。なにか、早く部屋に戻ってしたいことでもあるような。時折手を止めて咀嚼しては、暫く動きを止めてからまた食事を続ける。些細な変化だ。案の定この場の誰も彼の様子に気が付かない。上手く取り繕っていると思う。この違和感を。
運んできたリンゴ入りのサラダとアラビアータ、クラムチャウダーに手を付けながら彼をこっそりと盗み見る。よく見れば彼はサラダとデザートを取っていなかった。
短いパスタにソースを絡めながら観察していると、彼は早々に食事を終えた。皿を片して食堂から出ていく。やはりどこか様子が怪しいのは自分の目からしたら明白だった。ふと隣を通りかかった男に声を掛ける。
「ジョーカー」
「ん、なんだ?」
「傭兵君の試合の日程をご存知ですか?」
「あ?…あー、最近多かったな…だが今日が最後じゃないか?明日は出ないはずだ」
「そうですか」
残念だったな、と言いながら去っていく。あの男は明日の試合で彼と当たりたがっていると勘違いしているらしい。日程は見ようとすれば見られるが、今はその手間と時間は掛けたくなかった。
言葉も欲も少ない彼に、彼自身の選んだ行動に対してとやかく言うつもりはない。自分も無意味な会話をする方でもない。だが。
ほんの少し思考して、席を立って皿を戻す。帰り際に手を付けなかったクラムチャウダーをジョーカーの席に乗せてやれば押し付けんな、と言いつつも美味そうに啜る音が聞こえた。
重い身体を引き摺りながら自室に戻った。
予想外に強く閉まった扉の音でさえ脳に響いて嫌になる。鍵だけは閉めて電気も付けずにのろのろとベッドへ向かう。道中で上着を脱いで黒のインナーになれば少しは気が晴れた感覚がしたがそれも一瞬だった。靴もそこらにほっぽって毛布に潜り込む。
何も考えたくない。
開けっぱなしのカーテンの出窓からは丁度月が見えた。月が出た夜は好きだ。でも今はその光さえ眩しくて堪らない。カーテンを閉じる気力など当然起きなくて毛布を被って視界を暗くした。そのうち気付かないうちに意識が落ちて、次起きた時には元に戻っている。普段通りのシナリオを待った。待っているのに、その気配はあまりに薄かった。
眠ってしまえれば楽なのに。
布団の中が自分の発する熱で温くなっていく。それが眠りに誘う筈なのに、何かが物足りなくてもぞもぞと動いてしまう。
眠れない。風で葉の擦れる音も煩い。何も考えたくない。
ぐるぐると頭の中が精巧な地球儀のように回っている。食堂では無意識に気配を殺していた。頭痛も悪化している。漏れそうな吐息をずっと飲み込んでいる。駄目だ。良くない。最悪の体調。苦しさを抱き込むように緩く背を丸めた。
カチャ、カチャ
どうして、鍵を開ける音が、ドアノブを回す音がする。
トン、トン、と床を踏む音。この間の長い音を知っている。煩わしい。会話もしたくない。合鍵など渡さなければよかった。恋人にそう思うくらいには1人でいたかった。
ベッドの前で音が止まる。それに背を向けたまま無視する。
毛布が握られる感覚がして、ゆっくりと剥がされる。
到頭我慢ならずに睨み付けるように顔を向けた。
「………なん…っ、…?」
振り返りかけたこめかみ辺りにキン、と冷たいものが乗った。
何処が頭かと下げられた毛布は口元を覆う位置まで戻される。そのまま気配が遠退く。
それを追うようにゆっくりと身体の向きを変えた。頭からずり落ちて視界の隅に映ったのは氷嚢だった。それを戻すのが面倒でそのままぼうっと扉の方を見る。
やはり知っていた背中は右へ左へと彷徨ってばかり。どうやら彼は帰る気がない。散らかした服や靴を手に取っていく。それを椅子に掛けて、隅に寄せて、少しヨレていたラグをピンと伸ばした。
何も話さないで欲しい。口を開きたくない。思考したくない。
それら全てを知っているように彼は動いていた。ぼんやりとしたスクリーンに人影が音も立てずに揺れている。
それだけなのに。きっと煩わしいと、動くものも見たくないと思うのに、どうしてかずっとそうして窓の外を何とは無しに眺めるようにしていた。
何も訊かず、責めず、話さず。
服が片され、背の高い彼が簡易的なキッチンからベッドサイドへ戻るとナイトテーブルに水の入ったコップが置かれる。こちらに伸びた手は氷嚢を掴んで頭に乗せた。
「…………」
別れの挨拶もなしに離れようとする。それに思わず手首を掴んでいた。
背を完全に向け切る前に手首を掴まれる。
予想外の手首への刺激に身体が一呼吸分止まってしまった。それから、首だけゆるりと回して彼を見た。
彼には珍しく少し目を見張って、自分でもその行動に意味を見出せない、といった顔をしている。それも一瞬で、すぐに普段通りに戻った。まるで傷を隠そうとする野生動物のようだ。
ああ、と思う。いつかの扉越しの会話を思い出す。
『ナワーブ、今日はいい天気だ。中庭でお茶でもいかがですか』
『……掃除をしている』
『それにしては声が遠い』
『………今は休んでいる』
彼自身体調を崩すことは滅多になく自分でさえ気が付けないことも多い。悉く人を頼らない人間だ。
対して自分はといえば、最近渡された部屋の合鍵に心が浮ついていたのもあるだろう。
体調不良など顔に出さない彼は部屋に籠るとドアには鍵をかけて全てを遮断してしまう。恋人である自分でさえ声を掛けたところで適当にあしらわれたり寝たフリをされたりして何もできていない。だからこうして気が付けた時くらいは、出来得ることはなんでもやってやりたいと思ってしまった。
「………」
「…………」
互いにどうしていいか分からず沈黙が流れていた。それさえ居心地が良いと感じてしまうのは床に臥す彼に失礼だろうか。
掴まれた手を彼の手首に絡める。そうっと翻して外した彼の手をやんわりと握り返す。
「………どうした」
努めて静かに声を出す。その言葉にどれほどの甘さが乗っていたことか。
要件を聞けばいい、そんな事さえ頭から抜ける程には自分も彼の行動に驚いていたようだった。
「………」
彼は黙ったままひとつ、ふたつと瞼が重そうに瞬きをして、ただ此方に視線を寄越していた。
話したくないのだろう。体調が優れない時に人の気配を好むかと彼に聞いた事はないが、人の気配が欲しいけれど会話がしたい訳ではない、人間にはそんな気分の時はある。
だがきっと、彼は人の気配など好きではないのだろうとは思う。今までの彼のあの様子を見れば分かる。
どうしたものかと思いつつ、気不味くもないこの空気を吸っては吐いている。
先に動いたのはナワーブだった。
さり、さり
引き留めていた手を離して、ベッドに肘を曲げて手のひらを突くと響くちいさな布の擦れあう音。その僅かな動作で彼の頭からずるり、と緩慢にまた氷嚢が落ちる。
すり、すり
その手を支えにして身を引きずるように背面へと引き下がる。
ぱさり
移動に伴って動いていた毛布が落ち着くと、ベッドには人1人分のスペースが現れる。
「………」
彼は何も言わない。視線だって普段と変わらない。言葉の少ない男だ。
それでもこの状況が雄弁に語っている。
いつも1人を囲うに精一杯のベッドが今日は、誘うように空いている。僅かに覗く首には薄く汗をかいている。ずっと居たベッドの中は彼の温度で満ちているのだろう。大きな窓から差し込む月明かりでシーツの波が寂しそうに影を作る。このベッドに感情があったなら、きっと今日は調子がよいのだ。
身を屈めてゆったりと手を彼へと伸ばした。あまり刺激しないようにと触れるか触れないかの距離で頬を覆えば、彼は視線を少し外して頬を擦り寄せる。
「ん……」
静かな部屋に気の抜けた呼吸を漏らした。
この互いにとって非現実的な状況を、自分だからと許された事だとは考えられなかった。偶々ベッドの機嫌がいいから2人分支えられるだけ。そうに違いないと思ってしまう程、彼が体調不良の時に関わられるのを避けているように見えていた。
頬から手を離せば外れていた彼の視線が追ってくる。咎めるようなそれにまだ気力はあると安堵した。
「此処に居る」
声を出さないようにしていた筈なのに、思わず言葉が漏れてしまった。当の本人は煩わしかっただろう音にも嫌な顔ひとつせずにじっとしている。
「ほら…もう少し、詰めて……」
取り残された氷嚢を手にして、寂しそうに懐を開けていた毛布の隙間に潜り込む。詰めろと言ったのに彼は少しも動かない。
氷嚢はまたずれるだろうと腕を伸ばして彼の頭の近くに置き、そのまま床よりは柔らかい寝具に身を預ける。
結局背がギリギリ落ちそうになりながら乗っている。普段用があるのは広い自室のベッドばかりで、初めて招かれた彼の部屋のただただ狭いシングルベッド。やっぱり調子なんて良くないじゃないかと思う。当たり前だ、ベッドに調子も機嫌もない。脳内で独り言ちて、自分に呆れて笑ってしまう。
広くはないベッドの上で、2人の距離は少し近い。見下ろす先のまつ毛が瞬きをすると、ごそりと毛布が動いた。
「……は、………」
眉を少し顰めて、此方の身体に手を伸ばす。手のひらが背に触れるとゆるゆると位置を探してからぎゅうと力が籠った。ネクタイを崩している胸元に顔が寄る。
やっと表情を崩して見せた。それが苦しげで可哀想で、それを自分に見せた事がこんなにも嬉しい。
「………………つめたい」
そう一言だけ溢して、目を瞑った。
今の彼の高い体温には、自分はきっと少し冷たい。それが心地よいのだろう。
結局、ベットの上は落ちそうになっている自分の方へと偏ったまま。すぅっと背の服を掴んでいた手が緩む。それにふ、と吐息を零して、仮面に手をかけた。放った氷嚢の奥へ適当に立て掛ける。いつもフードに隠れている彼の硬い髪へと頭を埋めると、ギュウ、と行儀の良かったベッドが鳴いた。