夢の爪痕 いつも通りのゲームが終わる。
珍しく最後まで逃げ仰たレズニックを椅子に括ると、彼女はべーっと舌を出して宙に舞った。
荘園へ戻れば月明かりが廊下を照らす。酒瓶を片手に赤ら顔で会話するデミ嬢とホセ・バーデンとすれ違い、遅れて現れた虚空と会話する占い師の横を通り過ぎる。そのまま自室へ向かい刃も外さないままベッドに腰掛けて1枚の紙を手にした。ちら、と視線を滑らせればひっそりと置かれた紙袋が目に入る。
明日は恋人、ナワーブの誕生日だ。
新作の携帯品に、大きめのアソートクッキー缶、彼が恥ずかしがるから小さくした花束と家具カタログ。準備は万端。
愛しい彼の誕生日。本当は日付が変わった瞬間にサプライズしたい。
しかし明日は朝1番でゲームがあるらしく、リッパーは泣く泣く諦めた。彼の為だ。皆から期待される彼に寝不足で力を発揮できない、など格好の悪いことがあってはならない。
なに、大したことはない。同じ荘園にいるのだからいつだって良い。彼の事だから、1番に祝ったところで大層喜ぶということもないだろう。1番だとか、ムードだとか、ロマンだとか、そんなものを気にするのはいつだってリッパーの方だった。
明日の夜に晩酌でもしようか。食堂からいいものをいただいてこよう。あの好きだと言っていたものも、気になると言っていたものも、それに部屋のものも足して。
手にしたメモ書きを見ながら色々と考えているうちに、リッパーは眠りに落ちてしまった。
トン…トン…
しっかりとした靴が木板の床を踏む音に意識が浮上する。
薄く視界を取り戻せば近付いてくる人影が揺らいだ。
ベッド下の絨毯が足音を消す。もうすぐそこにいる。
寝落ちていた身体を起こして視線を定める。『いつもの靴』に『いつもの服』がぼんやりと見える。
「…………」
何も考えられないままに左腕を上げてフードを落とす。
鋭い爪は頬に触れてつう、と赤く線を引いた。
それを逃げもしない。
露わになったはずの表情は読めなかった。こんなに近くにいるのに頭がぼうっとしてはっきりしないように感じる。
それでもこれが誰なのかは当たり前に分かる。
ナワーブだ。
なぜ?鍵は掛けていなかったか?ノックもせずに来る男だったか?そもそも、自ら部屋を訪ねる事なんてあるのか?
ぽんぽんと疑問が浮かんでは考えを深められずに消えていく。
靄のかかった思考。生暖かい身体。意味もなく心地の良い気分。理解した。これは夢だ。
「ナワーブ、会えて嬉しいです」
夢であってもいいと思った。自然と声色が上がる。
彼の事を考えすぎて到頭夢に見てしまうなんて随分とロマンチックだ。
彼が何故此処にいるのかもどうでもいい。これは夢なのだ。不可解な事など幾らでも起こる。
「……何故此処にいる?」
彼は心を見透かしたような言葉を吐いた。
ああ、やはり表情が上手く見えない。彼の好きな月光の夜、月明かりは充分に彼を照らしているというのに。
「何故って、夜は自室で眠るものでしょう」
違う、彼が聞きたいのはそうではないと思い言い直す。
「…いえ。Happy Birthday, Naib」
これ程迄に入眠前の思考が夢に影響を与えるとは。
もうきっと12時を回っている。幻とはいえ少し形式的にはなったが祝いの言葉を掛ける。幾ら言ったって言い足りない。本当はこうして1番に言いたかったのだから。
そっと腰を寄せて額にキスを落とした。霧の中にいるような感覚なのに触れた感触はきちんとあるのが面白い。
「祝うのは明日…もう今日か。今日の夜、貴方の為にとびきりの時間を用意します」
幻の彼に言ったところで意味は無いのだろう。それでも伝えたかった。
彼なら喜んでくれる。楽しみだ、と言って、期待している、そう返して、慣れない顔で微笑む。そう確信していた。
「貴方の好きなものを並べる予定です。私のおすすめも。ゆっくり話して、ボードゲームをして、好きなだけ夜更かしして、好きなだけ眠りましょう」
幸い翌日の予定は共に午後から。贅沢に使って誕生日の余韻を楽しめる。特別な日の締め括りを独り占めできるのも悪くない。
「いらない」
あまりにもはっきりと言葉が届く。
リッパーには一瞬理解できなかった。
いらない?必要ない?それは、何が、どれが、何故?
頭が整理されるより早く、ナワーブが口を開いた。
「今日の夜、いらない。………いらないから…俺を、」
そう尻窄みに言うと、数歩前に歩み出る。
「俺を、貰ってくれないか……」
そのまま直立でそう口にした。
もらって、ほしい?
脳内にばちばちと電流が走るように衝撃を受ける。
薄く掠れた声。緊張している。恥を忍んでいる。
あのナワーブが、羞恥心を露わにしている!
幻だからだろうか。それでもこんな姿を見られる事など滅多にない。こんな、普段は言わない扇情的で雰囲気のある言葉。
頭が焼き切れるかと思った。心臓の拍動が早くなる。目の前の男を手に入れて胸の中に囲って一生離してやりたくない。今すぐ腕を伸ばして攫いたい。
衝動的なそれを抑え込んだ。シチュエーション的な言葉だと分かる。だとしても。
「それは…今、」
「いま」
疼く掌を握りしめた。姿勢を少し崩して、地を這うような慎重さで声を出す。
「……貴方、明日の朝1番でゲームでしょう、知っている」
「だから」
発言を抑え込むように声が重なる。
「だから。………今年は、1番に祝ってくれないのか…?」
思ってもみない言葉だった。
あのナワーブが、仲間達より先に私に祝って欲しいと言っている。
拗ねるような声に不安と不満が混ざっている。それにほんの少しの我儘。
なんて事だ。彼が望んでいるなんて、思いもしなかった。いつも自分ばかりがこだわっているのだとばかり。
きっと夢だからだ。自分にとって嬉しい方へ話が転んでいくものだから。
「私が悪かった。勿論私が貴方の1番で特別で最高でいたい。………Happy Birthday. Happy Birthday, My dear Naib!」
幻の彼を抱き上げて祝福の言葉を叫ぶ。こんなにも心が高揚している。夢独特の雲に包まれているような気分の良さ。
肩口を越して抱きしめれば耳元に声が落ちる。
「朝まで、帰さないでくれ」
肯定の代わりにベッドへと倒れ込む。爪も外さないで頭の両脇に肘を着けて彼の視界を自分で占領し影を落とした。腕が此方に伸ばされた気がしたが、その影が暗くて見えない。あまりに暗くて目を凝らしているのに段々と視界が萎んでいく。リッパーが覚えているのはそこまでだった。
ゆっくりと意識が覚醒する。
とんでもない夢を見てしまった。
ガチャガチャと爪を外して、床に落ちたままの紙を一瞥し隣に落ちていた帽子を拾う。襟を整えてドアノブの鍵を回そうと無意識に指を掛けると空振る。よく見れば既に開いていた。締め忘れていたらしい。
昨日の彼はやはり扉から入って来ていたのだろうか。
そんな事を思いながら廊下を歩く。
食堂に着くとオフェンスとキャンベル、アダムス嬢と会話をするナワーブの後ろ姿が見えた。ゲーム終わりの朝食をとっていたようだった。オフェンスの言葉に少し頭を揺らして背を叩いている。
「何回壁した?」
「5回」
「ぎりぎりハッチに間に合いましたね!」
そんな会話が聞こえて来る。いい試合をしたようだった。見たかったなと思う。彼の泥に塗れても血に視界が染まっても目の前を見据えて生き抜こうとする姿は好きだから。
丁度朝食を食べ終え時ということもありナワーブの席の側を通り過ぎる人は多い。すれ違い様に仲間達から祝われている。その彼の側に寄って声を掛ける。
「Happy Birthday, Naib. 今日がいい日になりますように」
「ああ、ありがとう」
彼はきょとん、とフードの下で目を瞬かせてから微笑んで言葉を返す。試合で大暴れしたのだろう、髪が跳ねてフードの中でごちゃついている。
満身創痍で帰還した筈の彼に傷は残らない。それが荘園のルールだから。皆が知っていること。
話していた皆は食器を持って席を立つ。ナワーブもそれに倣って腰を上げた。
「そういえば、昨日夢で貴方に会いましたよ。とても良い夢でした。途中までしか覚えていないのが残念ですが」
「ははっ、バーカ」
言い捨ててナワーブは席から離れて振り返る。その反動でフードが落ちて髪が靡いて隠れていた肌が露わになった。べぇ、っと舌を出して指でした下品なポーズを置き土産に先に行った3人の後を追っていく。
その頬には、何かで引っ掻いたような傷跡が残っていた。