シャンパンなんてガチャガチャ、ガチャ
ドアノブを弄る音が響く。リッパーは開かずにがたがたと揺れる扉を見た。
皆を震わせている凶悪なハンターの元へノックもせずにくる奴など1人しかいない。約束もしている。
クリスマスの夜は甘い時間を過ごすと前々から決めていた。彼も頷いて、滅多に崩さない顔を綻ばせて楽しみだ、と柔らかい声で言っていた。
それにしたって、扉くらい開けられないのか。
疑問に思いつつもソファに背を付けて腰を痛める体勢をしていると、ようやくその扉が開く。
「……………」
「ナワーブ?」
ゆっくりと開いた扉からぬっと脚が割り込む。とん、とん、と2歩進んで現れたのは俯いてフードに顔を隠されたナワーブだった。
「ナワーブ?どうかしましたか…?」
肩を震わせていれば泣いているともとれるその姿勢に声を掛けると、ふら、と頭が上がってフードが落ちる。
「………………ヒック」
顔を赤らめてしゃっくりをしていた。
リッパーは彼が仲間達と楽しんでから此処に来ると言っていたのを思い出した。
酔いが顔に出るなどこの男に関しては滅多にない。それはきちんと自制しているからでも、体質だからでもある。
ナワーブは普段は閉める鍵も掛けずに後手に扉を適当に放って閉めると、ソファに腰を預けて珍しそうに視線を投げるリッパーの元へ辿り着く。
目の前に来るまでは、リッパーには彼がただ酒に酔っただけの男に見えていた。
ナワーブは隣に座った。それから、頭をリッパーの身体へとすり寄せる。
「…………は」
ナワーブが甘えている。甘えているのか?
滅多にない行動に思考が動転する。恐る恐る横を見る。彼は上機嫌そうに口元をふやけさせて、潤んだ瞳でリッパーを見上げた。はぁ、と吐かれた熱い吐息。
「貴方…嘘だろう」
クリスマスの夜に出るのは決まって彼の血であるワインとシャンパンだった。ナワーブからはシャンパンの爽やかな香りがした。度数の高くない筈のそれで酔ったらしい。
「うまかった」
「………ハッ。なに、何が美味しかったですか?」
最早息をするのも忘れる程に驚いていたらしいリッパーは慌てたように言葉を返した。話を聞いていなかっただなんて、そんなつまらない男にはなりたくない。
「ソーセージ。焼きたてで、パリッとしてて、じゅわっと肉汁が溢れて」
ナワーブは伏せ目がちにして、輪切りにしたバゲットか何かにそれを乗せる仕草をした。ふふん、と味を思い出して満足気に鼻を鳴らす。
「本当に肉好きだ。腹に詰め込む姿を見るといつも此方が胸焼けする」
「ああ、勿論」
ふわりと顔を上げて、ナワーブは見つめる目を緩く細める。
「お前の方が欲しいけど」
んん?
リッパーは頭を捻る。都合の良い言葉が聞こえた気がする。きっと聞き間違いだ。まだ酒も飲んでないのに頭がイカれてしまったかと思って、ああそうだったと席を立つ。
ナワーブから移された身体の熱を冷ますようにキッチンに向かい、この日の為に用意したワインを開けてつまみを載せた皿をサイドテーブルに置いた。
「そんなに肉しか目に入らないことないでしょう?他には?聞かせて」
とくとく、とグラスに注いで渡せば、ナワーブはそちらに視線も寄越さずに目を合わせたまま微笑んだ。
「お前が望むならいくらでも」
その微笑に眩暈がしそうになる。普段は寡黙で、パーティーがあったって壁に寄りかかって皆を見ているような男なのに、今日は随分と言葉が甘い。
「デザートのゼリーが上品だった。細長いウエハースと折れそうな程華奢なチョコレートが乗っていて、お前が喜びそうなやつ」
ナワーブは指先でワイングラスを弄んでから、リッパーの顔を透かすように掲げた。白色が葡萄色に染まっている。
「真っ赤なクランベリーゼリー。ジャックみたいに美味そうだった」
ぺろ、と舌舐めずりすると紅が覗く。ワインをどうでもいいように視線の先からズラして、額をリッパーの肩に押し付けた。ワイングラスは慎ましい中身が溢れそうなほど傾けられている。猫が甘えるようにすり、と頭を動かしてから、ナワーブの口が動く。
「隣にお前がいたら良かったのに」
その言葉におや、と彼の声をお供にワインを傾けていた手を止める。今度は聞き間違いではない。こんな特別な夜だからと少し大胆になったのかもしれない。ナワーブはくっつけていた額を、肩を撫でるように頬に変えて上目遣いをする。
はっきりと自分を求める言葉に腹の奥に潜めていた獣が喉を鳴らしていた。
「リッパー……」
「貴方、可愛らしいところもあるんですね」
寄せられた顔を手のひらで包んで、薄く開かれた唇を親指で触れる。リッパーが腰に腕を回すとひく、と反応して頬を二の腕あたりに擦り付けた。頬に当てた手を下ろして首筋をなぞればンッと甘い声を漏らして睫毛を震わせている。
「ああ、ナワーブ…いとしいひと」
リッパーは完全にその気になっていた。思う存分話し込んでトランプ遊びでもして贅沢に時間を使ってから2人の夜にしようと思っていたのに全てどうでも良くなってしまった。彼のワインを取り上げて身体の線に手を這わせながら上着を脱がせる。続いてズボンに手を掛けて覆い被さろうとする直前、ナワーブの手がそれを止めた。
「リッパー……」
「かわいいひと。焦らしているのか?」
「リッパー………」
「なに、なんです。そのちいさな口で言って」
リッパーはもう耐えきれなくて切実に訴えるのに、声色はどこまでも甘くなった。ナワーブは何度も繰り返す単語を口の中で転がしては、きゅうと口を噤んでから、形を変えてまた繰り返す。
「ジャック」
「はい。なんですか」
「ジャック…………」
「私の駒鳥、あまり私を待たせないで」
「……………すき」
すき。
好き。
好き、なんて。
好き、なんて!
好き、なんて!!
リッパーは脳天に落雷のような衝撃を感じた。
今まで彼が何度口にしたことか。幾ら言葉を掛けてもそうか、だとか、嬉しい、だとか、俺も、だとかそんな言葉しか返さないのに!
ああ、ああ、ああ。
これがきっと良い子に過ごした私へのプレゼントなのだ。
リッパーは本気でそう思った。
きっとナワーブは照れて顔を隠すだろう。リッパーはそう思って歓喜とサプライズに浮かれた頭で彼を見る。
と、別にそんなことはなかった。ナワーブはリッパーのシャツの襟を掴んで頬にキスまでしてうっとりと目を細めている。自分のしている事に気付いていないようだ。
「ジャック、お前はいつ見ても美しい」
「………貴方、本格的に酔っていますね」
ナワーブの口から「美しい」という単語を初めて聞いた。頼み込んでも言わないような言葉を言ってのけ、羞恥する姿もない。
リッパーはこれが泥酔状態からの行為だと知り、状況を自分の頭に言い聞かせるように落ち着いた声を出した。
「お前の仕草は優雅で気品がある」
対して、ナワーブはリッパーの言葉で酔っていると騙せていることに内心喜んでいた。
実際には泥酔などしていない。少しは酔いが入ってはいるが、身体からシャンパンの香りがする程飲んだところでは到底判断力を失ったりしない。これは普段羞恥心から言えていない言葉を酒の力を借りて吐いてしまおうという魂胆だった。
ナワーブは意気込んだ。自分の言葉が少ないことも素っ気ない態度をとっているのも分かっていた。それが自分の性格なのだ。リッパーはよくナワーブからの言葉を引き出そうとする。いつまでもあしらっては愛想を尽かされる、なんてほんの少しだけ柄にもない事を考えたりしていた。それに、普段と違う雰囲気の夜も悪くない、とも。
「……美しいなんて、やはり相当酔っているのか」
リッパーは覆い被さっていた姿勢をやめてソファに戻りはぁ、と片手で頭を抱える姿をした。その様子さえ戦場に出ていたナワーブの目には何処ぞの貴族のように感じられる。
「お前ほど赤い薔薇が似合う男はいない」
ナワーブは最高の気分だった。彼が自分の事を酔っていると思っているから、何をしたって酒のせいにして何でもできる気になった。少しの酔いも手助けをして、ポンポンと口から言いにくいが思っていたことが出てくる。
リッパーは額を抑えたままちらりとナワーブに視線を寄越している。
「だが少し…花如きがお前の視線を独占し過ぎだ」
ナワーブはどうやら嫉妬をしているらしい。なんて可愛らしい事を言うのだろうと踊り出したいくらいの気持ちだったが、リッパーは騙されているとも知らずに彼が本気で酔っているのだと思ってしまっていた。
「お前の低くて掠れた声で耳元に囁かれると背筋が疼いてたまらない」
ナワーブはリッパーの頬を両手で挟むと、耳元でリップ音を立てる。なんて積極的な。ここまで酔うなんて相当のペースで飲んでいる。正常じゃない。
ほぅ、と熱っぽく息を吐くナワーブに当てられて寄せられた顔に手を伸ばしてしまう。口元へと角度を変えたがるそれを自制して引き離した。
前後不覚な人間に手を出すような不誠実な人になりたくはない。リッパーには今のナワーブに手を出す気はなかった。
「?」
「ああ、もう……!」
リッパーの煮え切らない態度に赤い頬で首を傾げる様子など見ては天を仰ぐしかなかった。据え膳食わぬはなんとやら、とは言え、とは言え、とは言え。相手は酔っているのであって、これは彼の理性あっての行動ではないのであって。
「やめておきなさい、もう充分酔っているでしょう」
「ん……」
そうこう頭の中で堂々巡りをしていると、ぬっとナワーブの手が伸びる。それがグラスに届く前にリッパーは手首を捕まえた。するとナワーブは触れた手を驚いたように見つめてから指を絡ませてながらふわりと表情を緩ませる。そしてそのままぐっと後ろに引き込んだ。
「ッ…!危ないな……」
2人は勢いよくソファに倒れ込んで、リッパーはナワーブの頭の横に手を付いた。ナワーブは本当に気分がよかった。惜しげもなく振る舞えるのが楽しくて楽しくて仕方ない。自分を酒に飲まれたと思ってワインを止めるリッパーも初めて見るもので新鮮だった。
ただ、リッパーが乗り気ではないのが気になっていた。困ったように顔を顰めるのが気に入らない。これからが本番なのにと流し目をして、膝で挟んでいた細腰に足を回す。
「この、酔っ払いめ!」
「ン、はは」
リッパーは吹っ切れたようにそう言うと身を屈めて唇にキスをした。幼子への祝福のようなそれにナワーブは思わず笑ってしまった。それでも確かに宿った獣のような欲望にその次を期待する。
「…?」
予想外に腹が温もりに包まれて視線を落とすと、リッパーがソファの傍らから引っ張ってきた毛布が乗っていた。
「は……?」
「ベッドになど連れ込めばいよいよ自制できないからな…」
「なに、なんだ、」
毛布?なぜ?困惑で埋まった頭でぶつぶつと独り言を漏らすリッパーを見ているとあれよあれよと髪留めを解かれて毛布を整えられる。そこでナワーブはようやく彼が自分を眠らせようとしていることに気付いた。
「まさか。まだ、寝ない」
「理性を失う程飲んだだろう。無理しないでください」
リッパーは無理をするなと言いながら、ほぼ自分の為でもあった。寡黙で無愛想な男がこんな無防備な上にあり得ない程に甘く触れてくるなど、手を出してしまうのも時間の問題だった。ケダモノに成り下がる前に早く寝かせてこの生殺し状態から抜け出したい。
リッパーはナワーブが意識して出していたミルクがたっぷり入ったチャイのような声から、思わず静かで抑揚の少ない素の声に戻っているのも気付かずに続ける。
「朝に紅茶を入れよう、ローズシュガーを好きなだけ入れて、ジンジャークッキーに蜂蜜をかけて、私のお気に入りのティーポットで贅沢をしましょう、ああそうだ、それが良い、それで良い、まだ明日がある、だから、頼むから、眠って」
リッパーは自身に言い聞かせるように言葉を吐いて、とんとんとんとんと眠れそうにないリズムで胸を叩いてくる。ナワーブはその手を邪魔そうに払った。
「お前が気に入った薔薇もティーカップもティーポットも全部嫌いだ。……俺がいるのに」
リッパーが欲望と戦って紳士でいようとしているのを知らないナワーブは自分の言葉が酒のせいで真に受け止められていないのだと思って益々行動が大胆になる。寝かせられる訳にはいかない、押し通るしかない。瞼を半分伏せたまま上目遣いをして、腕を伸ばして手首だけを首に回す。
「俺がいるのに。俺に構って。もっと声が聞きたい」
「……本当にたまらない」
お前が構うと全てに嫉妬するのだと普段の態度から想像もできない事を言う。どうしてこの男はこんな時に限って酔っているのか。リッパーは自分でこの行為が酔いによるものだと決めつけておきながら、酔っていなければこの甘い言葉に誘われるまま触れ合えたのにと矛盾に気付かずに嘆いた。ナワーブの頭の横に肘まで着けて、自分の欲望を鎮めるように額にかかった髪を払ってやる。この男がくすぐったそうに隙だらけに目を瞑るのがいい。生え際をなぞっていると焦ったくなったナワーブが片手を一層首に絡ませてから毛布を掴んで退ける。インナーの裾を掴んで見せ付けるようにたくし上げた。
「あつい……脱ぐ」
「この男………っ、冷えて体を壊すからやめなさい」
「ならお前があっためろ…」
「ンンッ」
リッパーにはもう心臓が持たない。ベロベロになっていなければ今すぐにでも抱きしめて彼の誘いに乗ってどうにかしているのに。
「好きだ。愛してる」
どれだけ囀って誘っても紳士な彼は乗ってこない。全てが酔っ払いの戯言として片付けられている。ナワーブは酒のせいにすればと自分から飲んだ癖に今は過去の自分が恨めしい。
「明日の朝には覚えてろ…!」
リッパーは吐き捨てる。彼は彼で滅多にない甘えた態度に歓喜したのも束の間、アルコールが彼の理性を奪ったこの状況が憎らしい。理性が焼き切れる寸前なのにまだ炙られている気分だった。
一歩も譲らずに対峙しながら、2人は同じ事を思っている。
ああ、ああ、シャンパンなんて飲んでいなければ良かったのに!