殺し屋達の茶番劇ドンドンドンッ
拳銃が唸るのに顔色も変えずターゲットへと距離を詰める。袋小路の壁を背にした男は肩で息をしながら必死に銃口を向けて引き金を引いたが、それはカチッカチッと頼りなく音を出すに過ぎない玩具に成り下がっていた。
速度を落としたアサシンは鼻で笑った。きっといくら弾が入っていたって当てられやしない。
男はもう成す術が無い。震える膝でなんとか立ち情けなく口を戦慄かせながら迫る悪魔の姿を見るしかなかった。
だから、気付いてしまった。フードの奥で首元に鎮座するそれに。
ふ、と男が気が抜けたように笑う。
「"kneel"!!」
ひく、とアサシンの肩が跳ねた。
それはそれは勝ち誇ったような顔であった。それもそうだ。あの首にあるのはcollar、特定の相手を持つsubの証の首輪。subはdomのcommandに従ってしまうもの。それが相手を威圧するglareを意図的に込めて発したものなら尚更。言葉ひとつでsubを支配できる。それがdomだから。
だから、アサシンはこの男に跪くはずなのだ。
「お、おい…止まれ!」
アサシンは止まらない。
強靭な自我は余所者のcommandなど弾き返す。首元のcollarも一役買っていた。路地には鮮やかすぎる赤を翻してククリを取り出す。
よりも早く、男が静かに地に尻を付けていた。とん、と優雅な靴音が響く。
「……俺の獲物」
「今私が殺る理由ができたので」
男は声帯を掻き切られている。現れた銀はそれに一瞥もやらずに左腕を振って血を払った。下ろしている右腕の滑らかなフリルの隙間からcollarと同じ色のブレスレットが覗いている。
「単独行動はNoと言ったでしょう」
怒気を含んだ声にククリを仕舞いながら背を向けた。
ふる、と指先が震える。此処は寒い。留まりたくなくて足早に屋根へ駆け上がりその場を離れた。
殺し屋2人組。元よりそうだったわけではない。
アサシンは組織の人間だった。ある時組織はアサシンに課した任務により自滅する。裏切り、復讐、怨恨。引いてはいけない引き金を組織は引いていた。それをアサシンは理解していなかった。急に飼い主を失い野に放たれた事を。
野良になれど有名になれば仕事は求めずとも舞い込んでくる。
『かの有名な"アサシン"に依頼をしたくば路地裏の張り紙に手紙を紛れさせろ』
そう言われるまでに勝手に名が売れていた事さえ知らない。
姿のない主。依頼の手紙。ペールに湧く報酬。
そうして生きてきた。
銀とアサシンの出会いはこの世界ではごく普通なものだ。移送と暗殺。誘拐と口封じ。組織にいた頃から依頼と依頼が鉢合わせて争い合う。
一進一退の末、一方が勝ちもう一方が負ける。発作のように刃を向けるアサシンと冷静さの中に残忍な性格を滲ませた銀のテンタクルの攻防は互角だった。
自らの命より大切なものはない。満身創痍の撤退を繰り返して無意味な傷を互いに負い続けた時。
『組めばいい』
どちらが言い出したのかなんてどうでもいいことを2人は覚えてはいなかった。重要なのは結果だ。
命の危険は減り、面倒な欲求は満たし合う。
ただ都合のいい相手。
この関係に付ける名前などない。
ただの相利共生。
それだけ。
「う…………」
街を転々とする2人のセーフハウスは質素だ。眠る為の場所に過ぎない。
アサシンは寝室のベッドで蹲っていた。
気持ちが悪い。吐き気がする。寒くて堪らない。
部屋で唯一の毛布の上で遠くを見つめて親指でcollarをなぞる。
アサシンには殺りたくて仕方ない戦闘狂のようなきらいがある。だから目立つ赤の入った服を着て闘牛を焚き付けるかの如く獲物の視線を集めている。しかしcollarはsubと知られないよう静かなマットグレーを選んでいた。銀に影を落とした時と同じ。
フードの暗がりに隠れた曇天よりずっと重い色。斜め後ろに回したバックルは光も反射せずcollarの存在を押し殺す。それを力の抜けた手でぎゅうと握った。
アサシンに他人のcommandは効かない。効かないけれど。
「はっ、……は、ぁ……」
普段なら完全に押し退けられる他人のglareが身体に残っていた。心臓あたりがきゅうと掴まれたようで苦しい。さみしくて涙が零れそうになる。身体の表面だけが寒くて、それが内側に侵食していく感覚がする。sub dropの一歩手前の症状が出ていると分かっていた。頭が変に熱いのに悪寒に震えている。
銀がこの小さな寝室に居ないと分かっているのに辺りを見回してしまう。当然姿は無く、のろのろと身を起こしてリビングへ向かった。壁に手を突いて、首のcollarを掴んで、ナメクジのような速度で歩いていく。
「銀…」
銀は此方に背を向けたダブルソファで本を読んでいた。
「ぎ、ん……」
「何です」
本に夢中らしい銀は見向きもせずに返す。それが嫌で目の前まで歩いていった。
「銀…プレイ、しよう」
「Hmmmm…」
銀は本から目を離さない。それどころか上の空で話を聞いているのかも分からない。それが今の不安定なアサシンには自分が拒絶されているように映った。
くるしくてかなしい。
滅多に起こらない感情が湧き出す。
「ぎん…、なぁ、」
「ああ、プレイ?貴方単独行動したでしょう。するならお仕置きなのでは?」
アサシンの言葉が簡単に受け流されてしまう。組んだ長い脚に阻まれて彼の視線を奪う本を取ろうと伸ばした腕が届かない。
「っ………」
くら、と頭が揺れる。体を支えようと銀の膝へと距離を縮める手の軌道をずらした。
こんなに熱心に読んでるのに、邪魔してはいけない。
そんなことを思うくらい、アサシンの精神は深くまでやられていた。
銀に触れないように。そうして倒れ込む先のソファの肘掛けに頭を打つ寸前、咄嗟に伸びた銀色に身体を包まれる。銀はほんの一瞬驚いたように固まった後、アサシンを立たせた。
「……"tell", 何処が悪い」
「…ぁ……あたま、揺れて…さむ、くて、気持ち、わる、い」
commandされた。うれしいのにくるしい。他のdomに影響されておこった?じょうずに伝えられた?
まだ、俺のことをひつようとしてくれる?
そんな阿呆らしいことを思う。足が震えて、目の前が歪む。立っていられない。それでも、もらえたcommandに必死に従った。反応が欲しくて視線を上げた途端。
「good」
「ぅ、あ」
短く響く、正解の合図。
思わず力が抜けて座り込む。自らkneelの姿勢になるなど、そんな堪え性の無い女のような真似は嫌悪してきたのに。
読書の邪魔をした。domの手を煩わせた。そんな思考さえ何処かへ飛ぶ。欲しくて堪らなかった言葉に自分勝手な欲が溢れていく。
「ぎん…ぎん、ぎん、」
壊れたラジオのように名前を繰り返して縋ってしまう。あの男の付けたたかが擦り傷に銀の声が簡単に染みて、喉から手が出るほどに次が欲しい。
「俺、聞かなかった、効かなかった、から、ほめて」
褒めて。認めて。良くやったと甘やかして。
「がんばった、から」
情けない声が出る。本能が必死に媚びている。
「ぎ、ん」
「………"come"」
呼ばれてkneelのままずるずると足元へ寄る。歩いて近寄る普段のcomeができない。したくない。足元で服従の証を見せていたい。ずっとみっともない。
地に着いている長い脚に腕を巻く。額をつけて抱え込んで息を吸い込めば、ソープの涼やかな香りがした。
そーぷ。
パッと腕を緩めて隙間を作る。自分は風呂に入っていない。銀に血が移る。触れていたい欲を抑えて腕を解きぎこちなく身を離した。
「…何」
「血、が、」
「ない。殺ったのは私でしょう」
ちら、と自分を見れば確かに服のどこにも赤い汚れはなかった。あるのは赤い、服の装飾だけ。
訳が分からなくなって銀の顔を見上げる。その仕草はdomの庇護欲を煽った。迷子の子犬のようにかわいそうで後がなくて、どうにかしたいと思わせる。
一息置いて、銀色の腕が伸びた。脇に手を入れられて攫われ、腿の上へと下ろされる。真正面にソファの背にもたれた銀の顔がある。それに命じられてもいないlookをした。
ほら、従ってる。銀の下僕になってる。
だから、ほめて。やさしくして。
触れたくて仕方ない手が戦慄く。
血染めの手で触れてはいけない、でも俺は殺してなくて、でも他のdomに命令されて、でも跳ね除けて、でもこんなに苦しくて、でも、でも。
わからない。あたまのなかがすり潰した牛肉みたいにぐちゃぐちゃだ。思考にカタチがない。
「は…………っ、は………」
たすけて。こわい。くるしい。さむい。
中途半端に浮いた掌を握り締めて耐え忍ぶようにする。眉を下げて仮面を見つめてしまう。
ふと、銀の腕が音もなく上がる。顔に落ちた髪を耳に掛けるように指が頬をなぞった。
ぱさり
そのまま手触りの悪いフードを落として、頸からcolorを触れられる。
「good boy」
「ぁ……っ」
どろり、と。
まるで固めた血が滴るように胸の奥が溶けた。
「っう、は……はぁ……!」
宙に浮かせていた手を当然のように首に回して広い胸に身体を預けた。肩口に顔を埋めて縋り付いて、またみっともない格好をする。
銀の香りがする。ソープの奥の、冷徹で無慈悲で非情な香り。冷たくて鋭く尖った香り。微かなはずのそれに身体中を包まれる錯覚がした。
背中に銀の腕が触れる。掌が背を覆い、触手が腰を支える。腹と腹をくっつけて隙間なく張り付けば、前も後ろも銀でいっぱいになる。
ここには銀がいる。この檻の中は安全で自由だ。恐ろしいものから守ってくれる。自分の存在を認めてくれる。
指先からじわりじわり、寒さが遠のく。
「多少堪えているか。……珍しい」
銀は状況を飲み込むように、少し冷たい腕の中に視線をやる。
銀は出会う前からアサシンを知っていた。凄腕が組織に飼われているという小さな噂。
檻からいつでも抜け出せる力を持ちながら、そこから出るという発想さえないまま格下の飼い主に手綱を握らせている。組織の外も知ること無く使い潰される類の代物。
初めて対峙した時にsubと知った。
subが殺し屋など。さては『それ』を武器にしているのか。
そんな考えはすぐに消し飛ぶ。目の前の銀より随分と小さな身体が躊躇いなく脚を踏み出した途端、ああ、これは違うのだと。『生身』で生きてきたのだと分かった。
collarも無いのにglareを出しても怯まない。だからこうして生きている。
「…さむい……」
そんなアサシンがこれ程に弱々しい姿を見せるのは稀だった。パートナー関係だからと甘える仕草もせず、その気性はdomと見違える程に利己的で。銀が自分を見ないからと彼の読む本を取り上げようとする男だ。気に入らなければ手も足も出し、ノリの悪い彼に舌を出して挑発したこともある。
subの欲求は確かにあるのに、己の行動を妨げることが無い。銀以外のcommandを跳ね返して自由に振る舞える程に自意識の強いsub。認めた相手にしか従わない。
それがこんなにも、程度の低いglareに弱っている。
元々疲労が重なっていたのだろう。アサシンは目に見えない傷には無関心な事が多い。自分が万全ではないと気付いていなかった。
しなやかな身体が呼吸音に上下する。アサシンは大人しく身を預けて、体重を寄越している。
「もっと……」
自分の事しか考えていない声。吐息が質の良い生地と吐いた口元の間にこもる。
はっきり、自分の意思で強請る。
「ん……っもっと、ほめて…なでて……ん、う」
もっと欲しい。もっと認めていると、必要としていると示してほしい。
そう言えば、銀は珍しく頭を撫でた。そんな事は滅多に無い。うれしくてうれしくて、胸に額を擦り付けて求めた。
「う…たりない……ん、ん」
勝手に力が抜けて舌足らずの声になる。
身体を小さく揺らして自分を抱く腕の存在を感じた。何度腕に当たっても簡単に緩まない。その事実だけで身体の熱が高まった。
体温が戻っていく。震えが消える。careが効いている証拠。
存分に甘やかしてくれる時間に違いない。
品良く着こなしたスーツを皺にする。それを許容されているのが嬉しい。
「は、…ぎん…………」
はぁはぁと熱に浮かされたように息をして、胸に手を這わせた。スーツのボタンもベストのボタンも外して、シャツとの隙間に手を滑り込ませる。服1枚さえ惜しい。近くにいたい。
銀の掌が後頭部を通り頸を覆う。指が斜め後ろのcollarのバックルに触れてカチンと高い音を響かせた。銀の身体は柔い時でさえ銀食器が触れ合うような音がする。
偶然の接触と思っていた指は後頭部できちんとcollarに触れた。金具が揺られてかちゃかちゃと微かな音を立てる。
collarの、音。
銀が自分の主人である証拠が鳴っている。ぶわ、と耳元が騒めく。背中まで産毛が逆立った。
もっと触れて。俺のことを意識して。
飼い猫がするように喉元にcollarを押し付けて首を寄せた。
瞬間。
世界が遠退く。
「ッ……!」
首の後ろを弄んでいた指がcollarを掴みぐん、と身を引き剥がされた。
「ッぐ、………ッ、なんで、」
「"shush"」
叱りつけるような口調にきゅうと口を結んだ。collarと首の僅かな隙間に容赦無く指を入れ掴まれている。革が喉に食い込む。
commandの理由が分からず肩に掛かったままの腕に力が込もった。
「"stay"」
「っ……」
言いたいのを我慢して従った自分はいいこの筈だ。それなのに報酬がないのが、今ばかりは耐えられない。合っているのか不安になる。いいこなのか、不安になる。
いちいち正解の合図が欲しい。多重のcommandができない。褒めてくれないと落ち着かない。
どうして。こんなに苦しいのに、たすけてくれないの。ひどいことをされたパートナーをたすけてくれないの。
沢山careして。大切なんだと、認めていると、上手くやれていると、どうか示して。
声も動きも封じられて、唯一視線で訴える。
おれは、いいこだったでしょ?
「bad boy」
容赦のない言葉にひく、と肩が揺れた。ぎゅうと心臓が縮んで痛む。
なんで、なんで、なんで。
「被害者のつもりか?」
その言葉の意味がわからない。
「もう正気に戻っただろう」
綿飴でいっぱいのシャボン玉が弾けるように甘さが霧散する。
「単独行動はNo. 破ったのはおまえだ」
ああ。
ああ、そうか、ぜんぶ、自分が悪いのだ。
単独行動をしてglareを浴びた。思い出して身体が重くなる。遠避けていた事実が突き刺さって夢から覚めてしまう。
「約束を破れば仕置きだ」
「…っ、けほ、」
銀は首輪を粗雑に引いてアサシンを退かせた。そのまま手を離されて崩れるようにkneelする。喉仏に残る圧迫された感覚が自分を責める。お前は叱られたのだと。
もっと褒めて欲しい。それでも悪いことをしたのは自分だ。分かっている。当然の結果。
普段ならそう簡単には従ってやらない。躾けなければ理解できぬ物分かりの悪いsubではないから。でも、今は、反抗する気にはならなかった。
銀の上からの視線に涎が垂れそうだった。
一転して望んでさえいる。自分の行動で銀に喜んで欲しかった。奉仕したかった。銀に逆らえずにいる自分を見て欲しい。身体を差し出して欲しいものを得る。まるで娼婦のように卑しい行い。
許しを乞うsub独特の感情。そんなのは分かってる。嗜虐的な銀は生温いもので満足しない。それだって分かってる。本能に抗えない惨めな生き物に成り下がる。はしたなくてくだらない。今はそんなものどうでもよかった。ただ、目の前の男の悦の思考の中に自分が居たい。それだけが先行する。それくらい気軽で身勝手な気持ちでいた。
「わかった」
トントンと叩く膝にまた乗ればうつ伏せに転がされる。ソファーの座面に額が着く。視界は影を落として暗くなった。
記憶の底の闇がほんの少し、音を立てる。
苦手な姿勢。
そうして途端に怖くなる。
「───っ、」
嫌だと言えばいいのに。
別の方法がいいと言えばいいのに、それが言えない。無意味なプライドではない。subとしての矜持で従いたかった。駄々を捏ねる生意気なsubになりたくない。
「これ、何回…」
「私の気が済むまで」
つまり、ゴールが見えない。
すぅっと背筋が寒くなる。終わりが分からないのはこわい。このお仕置きはアサシンの想像より重いものだ。
当然かもしれない。約束を破ってglareを浴びて、挙句dropしかけたのだから。
銀は怒っているのだ。
「safe word は」
「……『HELP』」
パンッ
正解とでも言うかのように尻を打たれる。唐突な刺激にアサシンは大袈裟にも見えるほど肩を揺らした。はぁ、とひとつ詰まった息を零せばまた打たれる。いつ来るかも分からない。不規則なそれに銀の膝に乗った身体が揺さぶられていた。
「…ッ、は……!」
何度も何度も、布の上から肌を打つ乾いた音がする。
あと、あと、何回だ?何回打てば銀は気が済む?
「ま、だ……っあと、何回、?」
「もう終わりを考えているのか?反省していないようだ」
「っぁ、いッッ」
銀はまだ許してない。
自分は悪い子のまま。いらない子のまま。
いいこになりたくて許しを乞う。
「ごめ、なさい、ごめ、なさ…!」
「何を謝っているか分かっているのか?」
パンッと叩かれて追い討ちを掛けられる。
「あ、あ、ッッ、やくそく、やぶって、っ」
頭が空になる。余計な思考が飛んで白くなった。
必死に言葉を探せば浮かんだそばから口から漏れていく。
「もうしない、しない……!ッひとりで、いかない、い、ひぁッ」
「貴方の衝動的な欲求でこうなったのだと自覚しろ」
「ッあ、は、うぅ…!」
軽率な約束を結ぶ言葉しか紡げない。
「あ…あと、どのくらい…ッ」
聞いてはいけないことを聞く。
「さあ」
そう返すと銀は黙ってしまった。
「ぎん…、?っい、ぎん、ぎ、ん…ッ」
少しずつ、奉仕したい欲が消えて自分の内側に思考が篭る。
目の前の暗闇に、自分とソファの間のちいさな暗闇に、全てが飲み込まれそうで唇が震えた。
がりがり、ソファに立てていた爪が座面を引っ掻く。ただでさえ草臥れたそれは中から綿を出して手入れしていない爪先に絡んだ。
先程dropしかけたのに仕置きをされたせいでまだ少し引き摺っている。心がマイナスに行きがちになる。
顔が見えない、声が聞こえない、気が済むまでっていつ、いつ、いつなんだ。
「ぁ…も、しない、っから、ッゆるし、て、」
何も言わずに叩き続けるのがこわい。
ざわざわ、心の底が騒めいている。
膝に乗っているのにあまりに遠い。
自由な筈の手首に麻縄の感触がする。
冷たい床。目隠し。轡。痛み。
誰だ、この男は、誰だ。
もしかして、本当は銀などいなくて、昔の、組織の、あの、
「………ぎん…ぎん」
それはない。沼に落ちかけた思考が戻る。
昔の話。まだ思い出すか。馬鹿な奴。
そうして自分を鼻で笑う程の意識があった。
それでも。
「もう、いやだ…」
アサシンはまだ耐えられる。もっと苦しい事をしたって上手に従えた。仕事でもプレイでも身体に跡が残るようなことを散々してきた。案の定自分に関心のないアサシンの身には治り損ねた跡が幾つもある。もっと悲惨な心に慣れている。
まだ耐えられる。でも、アサシンはもう嫌だった。
「まもる…やくそく、まもるから、かお、」
お仕置きの最中なのに。
まだ余裕があるのに。
どうしても、強請ってしまう。
「かお……顔、見たい…ぎん、銀…」
降り始めた雨のように名前が零れる。
ただ、ただ、顔が見たいだけ。さみしいだけ。たったそれだけの自己中心的で反省のない我儘。甘えきった命乞いをする。
限界でsafe wordを使った訳でもないのに仕置きを止める理由になどならない。
許される筈がない。
「いいでしょう」
その声は静かに響いた。
ひっくり返されて仮面と向き合う。顔が見えた途端、心の底から安堵する。
アサシンには何が彼の気を済ませたのか分からなかった。ソファを傷付けた指先でそうっと仮面を外せば口元が薄く光を反射する。
簡単に素顔が現れる。この世で一体どれだけの人がこの男の素顔を見ただろう。独占感と「許されている」心地にどろどろと口角が緩んだ。
「good. 何が欲しい」
たった一言で身体が羽毛に包まれたように温くなる。
「いっしょに、いて……風呂に入ろう…一緒に風呂に入って、朝まで、隣で眠ってくれ」
お前を離したくない。
手にした仮面を放れば薄い絨毯にコトンと音を立てて粗雑に転がる。それに目もくれず銀の頬に手の甲で触れた。するりと撫でて、目線が合う。少し冷たい体温同士が混ざり合う。
従ってやるのはお前だけ。
首元のネクタイをぎゅうと引いて起こした身体で襟を噛む。そのまま身を戻せば首筋が覗く。くいくいと引っ張って風呂を強請ってみせた。
望みのままにそのまま抱かれてバスルームに入る。身を引っ付けたままでは洗えているのかも分からない。面白みもない寝巻きに腕を通して、まだ夕暮れにさえならない太陽の照らす寝具へ横たわる。
皺くちゃにされた毛布を身体までずり上げたのは銀だった。
全く馬鹿らしい。
普段は感情なんて無いように振る舞う癖に。殺すことにしか拠り所が無い癖に。此処がたったひとつの安息の地とでも言うかのように、ひとりで眠る時はずっと折り畳む腕を伸ばして、膝を伸ばして、身体を開いて銀に触れようとするこの男がどうしてもおかしくて、おもしろくて、どうしてか好きにさせてしまう。
この拙い拘束に縛られてやる銀と、それで捕まえたと安堵してみせるアサシンの、この茶番が、2人の果て無い関係だった。