月夜に炎の立つ 目的のものはあったのか、と尋ねると、もうすぐだ、と曖昧な言葉が返ってきた。
夏、天気は晴れ、月と星のよく見える穏やかな夜だった。パーシヴァルはジークフリートと二人、団長に無断で騎空艇を抜け出し、フェードラッヘ北方の山を登っている。
此処はかつて黒竜騎士団に属していた時代に訓練や魔物退治などを目的によく登った山で、思い出の山と言えばそういうことになる。さほど険しい山ではないが、登山は登山であり、道中には魔物も棲み着いているので油断は禁物だ。過去にはこの山を甘く見た騎士団の仲間が負傷して帰ってきたこともあり、近年には魔物に加えて獰猛な野獣の目撃情報も報告されている。昼間でも注意が必要ではあるが、真夜中ともなれば更に危険度は上がる。
「おい、まだなのか。もうすぐ山頂に着いてしまうではないか」
パーシヴァルは先をゆくジークフリートの背に声を掛けた。
ジークフリートは右手に剣を持ち、行く手に飛び出してくる魔物の類を造作もなく薙ぎ払いながら獣道をどんどん進んでゆく。現れる魔物はすべて残らず彼が退治してしまうので、パーシヴァルは一応剣を握ってはいるものの役目がなく、手持ち無沙汰に後をついてゆくだけだ。
「いや、山頂を目指しているんだ。途中にあるものも悪くはないんだが、山頂付近がもっとも質の良いものがとれる」
「なに? そんなことは聞いていないが……山頂まで行くつもりなのか?」
「ああ。もうすぐ着くぞ」
ジークフリートはどうやら何かを探しているらしい。それが何であるのかはパーシヴァルは知らない。秘密にされているという訳ではなさそうだが、何となく尋ねるタイミングのないまま此処まで来てしまった。何せ、この山を登るジークフリートは足が速くて、ただついていくだけでもそれなりの労力と集中力が必要なのだ。
言い方からして、目的のものは「採取するもの」なのだろうとは思う。山頂にしか居ない虫でも捕るつもりなのか、高地に生育する樹でも伐るつもりなのか。そして、なぜ自分がそれに付き合わされているのかも不明だ。何の説明もないままついて来いと言われて艇から連れ出されて向かった先はこの山であった。説明を求めたいところではあるが、彼が足を止めてくれないと碌に話も出来ぬ。
もうひとつ気になるのは、ジークフリートが先ほど道すがらで小柄な猪を仕留め、肢を木の枝に縛って背負っていることだ。これについても説明がないが、いったいどうするつもりなのか。
「おお、これなど良さそうだな」
前を行くジークフリートがふいに足を止め、猪を背負ったまま剣を地面に突き立ててしゃがみ込んだ。
遅れて追いつき、何をやっているのかと覗き込んでみれば、何やら雑草をむしっている。
「よし。このくらいで充分だ」
特徴的な形をした大きな葉を数枚手にして、ジークフリートは満足そうに言いながら再び立ち上がった。
「お、おい」
そして、呼び止める間もなく再び獣道を進み始める。ぐずぐずしていると置いて行かれてしまう。パーシヴァルは仕方なしにその背を追った。
「山頂に着くぞ。今宵はきっと月が綺麗だ」
彼の言う通り、そこから少々斜面を登るとひらけた場所へ出た。山頂だ。ほぼ自然のままの姿であるが、かつて黒竜騎士団がこの山で訓練をしていた頃に置いた訓練用の木人形が朽ちながらも数体残されている。その懐かしくも物寂しい光景が、この場所がパーシヴァルの記憶のなかに残っている「あの山の頂」であるということを証明していた。
夜風が吹いて、葉擦れの音が鳴る。ジークフリートの言った通り、美しい満月が空の頂点に輝いていた。良く晴れていて空気は澄み渡り、降ってきそうな星々が無数に観測できる。この山頂は天体観測をするにはたいへんに条件が良く、パーシヴァルはかつて、訓練のあとのキャンプ中にテントを抜け出して星空を眺めたりもしたものだった。
「さて、それでは始めるとするか」
ジークフリートは何の脈絡もなく言った。
記憶の感慨に浸りかけていたパーシヴァルは我に返ってジークフリートの顔を見る。
「何を始めるつもりだ」
「肉を焼くぞ。手伝ってくれ」
「は? ……肉? その、背負っているそれか?」
「ああ。御馳走にしよう」
月の明かりに照らされたジークフリートの笑顔がうつくしく艶めいた。長い後ろ髪が夜風に揺れ、鎧の表面に月の光が映っている。
話についていけないパーシヴァルを置き去りにして、ジークフリートは短い草の生えた平らな地面の上に猪を下ろし、そのまま自らも腰を下ろした。ナイフを取り出し、猪の肉を裂きながら血抜きをしている。どうやら食べるつもりらしい。下準備をするその手つきは慣れたもので、粗いように見えてその実はなかなかに細やかだ。
よくわからないが此処でキャンプをするつもりなのであろう。パーシヴァルは黙ってジークフリートの背後に回り、かつて使っていたキャンプの跡に使えるものが無いかどうかを確かめにゆく。火打ち石や薪、簡易食器類、テントや寝袋などが残ってはいるが、屋外に数年放置されていたものなのでさすがにどれも使えそうにはなかった。しかし薪は要るだろうから乾いた枝を周囲で探し、焚き火を起こせそうな分を集めてジークフリートの元へと戻った。
獣をあらかた解体し終わったらしいジークフリートは、薪を集めて戻ったパーシヴァルの姿を見上げて「気が利くな」と笑った。
その無邪気とも言える笑顔を見て、パーシヴァルはとある過去の日のことを思い出す。
昔、よくこの山で皆でキャンプをしていた頃に、眠れぬ夜に星を見ようとテントを抜け出しジークフリートと出くわした夜があった。彼はあの頃は騎士団の団長で、パーシヴァルはたしか二十歳になるかならないかの年頃だったと思う。あの日も何故か彼は夜中に一人で火を焚いて肉を焼いていた。お前も食うかと尋ねられて、いただきますと言わざるを得ない雰囲気で、少し分けてもらった。ジークフリートと並んで月星を眺めながら食べたその肉は、後にも先にも食べたことが無いような不思議な美味であったことをよく覚えている。
思えばあの頃から、ジークフリートという男はパーシヴァルにとって特別な存在であった。つよく惹かれ、目を掛けてもらえることが嬉しくて、彼の気を引きたくて鍛錬に打ち込んでいた時期だ。だからこそ、真夜中に彼と二人きりで過ごしたあの短い時間のことを今でも忘れられずに覚えているし、こうして何かあるたびに思い出しては切なくなってしまう。今でもまだパーシヴァルはジークフリートに懸想をしていて、ジークフリートはきっとそのことを知らない。いつかはこの気持ちを知らしめてやりたいと願いつつ十年近くも過ぎてしまった。
「パーシヴァル。火を熾してもらっても良いか?」
求めに応じ、パーシヴァルは立ったまま剣の先端に炎を纏わせて薪に着火した。
「便利に使ってすまんな、ありがとう」
「構わん」
橙色に鮮やかな赤色を交えた炎がふたりの手元を照らし出した。ジークフリートは適当な大きさに裂いた骨付きの肉を火に掲げ、じっくりと炙ってゆく。
「……ジークフリート。……この野営は、なんのためのものなのか訊いても良いか?」
「それを知らずについてきていたのか?」
「知るも知らぬも俺ははじめから何も聞かされていないぞ」
「なんだ、わかっているだろうと思っていたんだが」
悪気のない金色の瞳がぱちりと瞬いてパーシヴァルの方を見上げる。
「……そんなことだろうと思ってはいた」
パーシヴァルはジークフリートの隣に腰を下ろした。熱が通って色が変わってゆく獣肉を見つめて、それから、炎に照らされたジークフリートの横顔に視線を移す。
何度見ても恋しい横顔だ。あの頃から比べると少し年を取ったが、数年の月日は彼の姿形に深みと優しさと少しの陰を添えて、もとより備わる美しさを甘やかに彩った。あの頃の彼のことも好きだったが、今の彼のことはもっと好きだ。最近は騎空団の仲間と楽しそうに交流する姿もよく見かけるし、朗らかな表情を見せることも多くなった。何処かへ行くときにパーシヴァルや他の団員にひとこと告げてから出かけてくれるようにもなってきたし、彼は昔と比べるとその表情も在りようもずいぶん変わったように思う。その変化を好ましく感じつつ、変化した部分もすべて含めて、パーシヴァルはいまもジークフリートのことを特別に愛しく想っている。
「焼けてきたな。持っていてくれ」
今回もまた、この登山と野営の目的に言い及ぶことのないまま話題が移ってしまう。パーシヴァルはジークフリートから手渡された骨付き肉を受け取り、火に当ててかるく回転させながらジークフリートの次の行動を見守った。
彼は道具袋の中から紙の包みを取り出して、それを開く。中身は先ほど道中で摘んでいた葉が折りたたまれたものだった。適当に千切ってきたらしく形はいびつだが、大きなもので手のひらと同じくらいの大きさをもつ大判の葉だ。葉脈の流れが美しいその葉の端をつまみ、火に当てて軽く炙る。そうすると途端に、独特の香ばしい匂いが漂ってきた。
「この匂いは……、どこかで……」
「覚えていたのか。ふふ……美味いぞ。此処でしか味わえない特別料理だ」
「待て、この葉は何だ? 雑草かと思ったが特別なものなのか」
「この山の山頂近くでだけ生える突然変異種でな。図鑑にも物によっては載っていないこともあるような珍しいものだ。そのままでは青臭いが、炙ると、香辛料として使える」
パーシヴァルが持つ肉はそろそろ表面にこんがりと焦げ色がついて、脂が滴り、丁度良い焼け具合となっている。肉を火から離すと、ジークフリートは軽く炙った葉を手で細かく千切って肉の上にぱらぱらと散らしてくれて、包み紙に残っていた粉末――おそらくは塩かスパイスであろう――を振りかけた。
見た目は地味だが、食欲をそそる格別の香ばしさがたまらない。急に空腹感を思い出したパーシヴァルは、逸る思いを堪えてジークフリートの方を見た。彼は視線が合うと満足そうに微笑んで、食え、と促してくれる。
「……いただこう」
かぶりつくと、肉の旨味とともに、香ばしく深みのある独特の香りと微かな塩気が舌の上に広がった。咀嚼してゆくと後から少しの辛みが来る。
美味い。肉も柔らかく美味いが、香辛料が不思議な味わいで絶品だ。二口め、三口めとどんどん食べ進んでしまう。
夢中で肉を食べながら、パーシヴァルはつい先ほどまで思い返していた過去のとある夜のことを再び思い返していた。あの眠れなかった夜にジークフリートが分けてくれた肉はまさしくこの味だったのではないか? 記憶が遠いゆえに僅かな味の差異に区別をつけるのは難しいが、独特の香りと、他で食べたことのないような不思議な美味しさという点では一致する。それに、この山頂で、月を見ながらジークフリートが焼いて分けてくれた肉という意味でも。
「旨いか?」
「……旨い」
肉の塊をがっつくようにして平らげたパーシヴァルを眺めながら、ジークフリートは嬉しそうにしている。
「だろう。昔、お前がこの葉を使って焼いた肉が旨いと言って喜んでいたのを思い出してな。また食べさせてやろうと思ったんだ」
「……そのために、この山を登ったのか?」
「ああ。手間は掛かるが、この山頂でしか食べられない味だ」
彼もあの夜のことを覚えていたのか。
ふたりで月を見た夜。あの日も暑い季節で、良く晴れた満月の夜だった。パーシヴァルにとって忘れ得ぬ大切な思い出である一夜をジークフリートもまた忘れずに今でも記憶に留めていたと思うと、夢かと疑うほどに意外ではあったが、パーシヴァルはそのことをとても嬉しく感じた。
「実に、旨い。懐かしさも快いな。感謝する」
「喜んでもらえて良かった。肉はまだあるぞ、沢山食うといい。どれ、俺も貰うとしようか」
「俺だけでは食い切れん。お前も愉しめ」
「ああ。そうしよう」
もう一切れの肉を手にとって火に翳しながら、ジークフリートは上機嫌そうににこにこしている。
彼が楽しそうなのは自分にとっても満足であるし、彼がパーシヴァルに旨いものを食べさせようと思ってくれたことは素直に嬉しい。ただ、そのことについてはいいのだが、その動機がいまひとつ見えてこないのが気にはなる。彼の言葉や説明が不十分なのは今に始まったことではないとはいえ、その動機については尋ねてみてもいいのかもしれない。
そう思って、肉を焼いているジークフリートに声をかけてみる。
名を呼ぶと、「ん?」と弾んだような声が返ってきた。
「お前の気持ちはとても嬉しく思うが、しかし、なぜ急に俺に旨いものを食べさせようという気になったんだ?」
もっとも尋ねたいことを率直に問うと、ジークフリートはその質問にすぐには答えずに目を逸らし、はにかむようにして唇を引き結んで黙ってしまう。
パーシヴァルは敢えて催促はしないでジークフリートが自分から答えるのを待った。
彼はやがて観念したような視線をパーシヴァルに向けて、やや困り顔で首を傾げつつ、ゆっくりと口を開く。
「俺の手で、お前を喜ばせてみたくなった……」
「……」
「というのは、問いの答えになっているだろうか?」
胸のうちを不器用に表現した彼の言葉はパーシヴァルの恋心を甘く揺さぶり、静かな共鳴をはじめる。
月明かりと炎が照らすジークフリートの横顔は、見慣れぬみずみずしさを湛えてパーシヴァルの存在を強く意識しているようであった。