ぎゆさねワンライより 『声/わざと』 週末じゃないのに飲み会だって言って、兄ちゃんは昨夜帰ってこなかった。
泊まった先はいつも通りの、冨岡先生の家。
学校で見てる限り兄ちゃんと冨岡先生はすっごく仲がいいってわけでもないのに(むしろ兄ちゃんは冨岡先生をしょっちゅう怒鳴りつけてるから、仲悪いって思ってる生徒も多い)、飲み会の日はほとんど必ずと言っていいほど冨岡先生の家に泊まる。
気楽だから、っていうのがその理由らしいけど、本当の訳は他にもあるんじゃないかって俺は思ってる。
それは平日の夜にかかってくる冨岡先生からの電話にこっそり出る兄ちゃんの様子がやけに嬉しそうだったり、休みの日に示し合わせて出かけたりしてることを俺が知ってるからで、もちろん他の誰にも話したことはない。母ちゃんにもない。兄ちゃんは必要な時期が来たらその理由をちゃんと話してくれる人だから、俺はただその日をじっと待つだけだ。
普段より少し遅い時間に家を出て、学校へ急ぐ。今朝は兄ちゃんがいなかったから、就也がぐずってちょっと大変だった。俺も就也の兄ちゃんだけど、あやすのはあんまり上手くない、んだと思う。兄ちゃんには全然敵わない。
早足で竹刀を持った冨岡先生が門番みたいに立ってる校門を通り抜け、教室へ向かう。時計をチラ見したら、結構ギリギリの時間。やばいなぁ。俺は周りに誰もいないのをいいことに、廊下を走り出す。
「こらァ、廊下走んじゃねェぞ」
と、すぐに聞きなれた声が飛んできて、足を止めた。振り返るとそこにいたのは、やっぱり兄ちゃんだった。
「兄ちゃん」
「学校では先生って呼べ、玄弥ァ」
担任クラスのホームルームに向かう途中なんだろう、出勤簿とチョークの箱を片手に佇む姿には、妙な迫力がある。
「う……おはようございます、不死川先生」
兄ちゃんはこういうことに厳しいのだ。俺は兄ちゃんよりでかくなってしまった体を縮めて、口調を改めて言い直す。
「はよォ。どうした、寝坊か?」
「いや、寝起きに就也がぐずっちゃって」
そう言うと兄ちゃんの顔がちょっと曇った。心配させたかな。俺のこと頼りないって思っちゃったかな。
「あ、でも大丈夫だよ。ちゃんと機嫌直したから」
慌てて付け加えると、兄ちゃんはほっとしたように表情を和らげた。
「そっかァ、悪いことしたなァ」
あれ。頭を掻きながらつぶやく兄ちゃんの声が少しかすれてる。どうしたんだろう。
「兄ちゃん、声どうしたの」
「声?」
「ちょっとかすれてない?風邪でも引いた?」
気になって聞いてみると、兄ちゃんは俺から顔を背けて視線を泳がせた。……なんかまずいことでも聞いたのかな、俺。
「あ、いや、何でもねェよ」
「もしかして、昨夜飲みすぎた?」
「気にすんなって」
「不死川」
唐突に会話に割って入ってきたのは、冨岡先生だった。廊下の角を曲がっててちてちと、俺たちのそばに近づいてくる。登校してきたとき、まだ校門に立ってたはずだよな。体育の先生って素早い。
「冨岡先生、おはようございます」
「おはよう」
挨拶をすると、淡々とした返事が返ってきた。冨岡先生は誰に対しても、いつもこんな感じだ。
「なんでこのタイミングで来やがる……」
兄ちゃんがこめかみを押さえて眉間に皺を寄せる。明らかに迷惑そうなふうなのに、冨岡先生はどこ吹く風だ。
「探していたんだ。授業が始まる前に、これを渡しておきたくてな」
言いながら冨岡先生が兄ちゃんに差し出したのは、封を切ってないのど飴だった。兄ちゃんの好きな、はちみつ味のやつ。
「昨夜は無理をさせた」
その言葉が気になって、俺はつい二人の会話に口を挟んでしまった。
「兄ちゃん、やっぱり飲みすぎたの」
「違う」
「心配はいらないぞ。午後には治っているはずだ」
なぜか兄ちゃんじゃなくて冨岡先生が答える。しかもその顔には、初めて見る笑顔が乗っかっていた。え、めちゃくちゃ嬉しそう……冨岡先生って、こんな顔で笑うのか。
「テメェは口出すな冨岡ァ」
兄ちゃんがかすれ声で怒鳴って、ムフフと笑う冨岡先生の腕を引っ張った。その顔は赤い。声も焦っているみたいに聞こえる。
「心配させてすまない、玄弥。次は気をつける」
「テメェにそういう気遣いがあってたまるかァ!」
何だかよくわからないうちに、冨岡先生は来たときと同じように唐突に去っていった。残されたのは受け取ったのど飴を握り締める兄ちゃんと、事態が呑み込めないまま立ち尽くす俺。
「あの、兄ちゃん」
「……不死川センセェ」
「不死川先生」
「いいから早く教室行けェ」
「はいっ!」
ドスのきいた声で言われて、俺は駆け足にならないギリギリの速さで教室に向って歩き出した。背中に兄ちゃんの鋭い視線を感じる。よくわかんないけど、この件は家に帰っても触れない方がいいってこと、だよな。
冨岡先生の家でお腹でも出して寝たのかな、と思いながら、俺は階段を一段飛ばしで昇っていく。兄ちゃんと冨岡先生、やっぱり傍から見るより仲いいよなって改めて考える俺を急かすように、あたりに予鈴が鳴り響いた。