キスの格言 夜の帳が下りる頃。
大穴が開いた五番目の月から逃げるようにカーテンを閉じてから、ダブルベッドがギシリと音を立てた。プラントが熾した橙色の常夜灯がベッドサイドを照らす。
ウルフウッドがジャケットを脱いでダブルベッドに腰かけると、ヴァッシュは彼の左手を持ち上げた。自身の右手からはみ出しそうな大きな手の甲に、触れるだけのキスを落とす。
“手の上なら尊敬”
「キスしたい」
負けた方が勝った方の言うことを聞く。2人の間で繰り返すちょっとした賭けに勝ったヴァッシュは、キスをしたいとウルフウッドに強請って来た。
それも、ただ唇にキスをしたいのではなく、思う存分好きなだけウルフウッドにキスがしたかった。
ちょっと身体を屈めて、ウルフウッドの前髪を掻き分けて額にキスをする。不精髭を剃ったばかりのツルツルの頬をそっと包み込み、ヴァッシュの唇は頬に移動して小さなリップ音を立てた。
“額なら親愛”
“頬の上なら満足感”
「じゃれとるガキか」
「孤児院の子供たちにも、キスされてた?」
「おやすみのキスとか。誰が先にキスするーとかで、喧嘩したこともあったわ」
「でも、子供はこんなキスしないだろ」
ウルフウッドを取り合う子供たちの姿を想像する……とても、微笑ましい光景だ。
だが、これから始まるのは子供のじゃれ合いではない。伏せられた瞼にキスをすれば、2人の視線が絡み合い、唇同士が触れ合った。
“瞼の上なら憧憬”
“唇なら愛情”
最初は、それこそ子供がじゃれて来るような、触れるだけのキス。「好き」を伝えるだけの拙く見せたキスが、羽根で撫でるように降りてくる。
それを一回、二回と離れては触れて、また離れて……三回目に、舌も唾液も吐息さえも溶け合ってしまうほど、深く深く、口付ける。
可愛らしいリップ音はもう聞こえない。
2人の頭の中に響くのは、徐々に艶を増していく吐息と厭らしい水音だ。咥内の隅々までを舌で撫でて、お互いの唾液を交換し合って、何度も角度を変えて貪った。
ウルフウッドの下唇に吸い付いてから名残惜しそうに解放すると、仄かに紅く色付いた唇と、ふやけ始めた眼差しがそこにある。
痺れて、蕩けて……ウルフウッドが発情し始めた。が、微かに残った理性がヴァッシュを退けようと手を伸ばしてきたので、その手を掴んで掌へとキスをする。
シャツの袖ボタンを器用に外して捲り上げると、腕にキスを一つ。超重量兵器を抱える彼の腕を掴めば、鍛え上げられた筋肉が指を弾いた。簡単に折れそうにない逞しい腕に抱かれたのは、断罪の十字架以外にいたのだろうか……ヴァッシュはウルフウッドの右腕をぐっと引き寄せると、彼の首に――というより、形の良い喉仏に齧り付くかのように、キスをした。
“掌なら懇願”
“腕と首なら欲望”
「待て……こそばゆい。もうええやろ」
「まだだよ。全然足りない」
逃げ出そうとするウルフウッドをベッドに押し倒した。既にシャツのボタンは全て外されている。
これから起きることは何も怖くないよ、と子供を安心させるように頭を撫でながらブルネットの髪にキスをした。
散りやすい花へキスをするように、頭から耳へ、耳から鼻へと軽く触れる。生後間もない赤子に触れるかのような優しさだ。酷くくすぐったくて、酷くじれったい。居心地が悪そうに顔を背ける彼にいくつもキスを落として、唇で愛でた。
“髪なら思慕”
“耳なら誘惑”
“鼻梁なら愛玩”
再び、さっきよりも優しく、喉仏にキスをした。飛び出るそれを飴玉のようにペロリと舐めれば、ウルフウッドの身体が小さく跳ねる。
唇は次に首筋へ、噛み切れば死を与える事もできる人体の急所へと。彼が本気で嫌がっているならば、無防備な急所をヴァッシュに曝け出したりはしないだろう。それに機嫌を良くしたヴァッシュは、ウルフウッドの首筋に吸い付いた。
ピリリとした痛みと共に赤い花がいくつも咲く。何度もキスをして、噛み付いて、己の所有の証を付ける。
“喉なら欲求”
“首筋なら執着”
「脱いで。キスするだけだから」
「……」
沈黙は肯定の意味。
ウルフウッドのシャツを脱がせてうつ伏せにすれば、鍛えられた広い背中が現れる。うっとりするほど美しい肩甲骨。理想的な付き方をしている筋肉は、機能美と造形美を両立させた最上級の物だ。
戦う者の筋肉は美しい。美しい筋肉へちゅっ、と音を立ててキスをして、ここにもまた、所有の証を付けるべく唇で吸い付いた。
一つ、ヴァッシュにしか見ることができない背中に花を咲かせた。
また一つ、もう一つ、ヴァッシュしか知らない花が咲く。
“背中なら確認”
「できた」
「どんだけ痕付ける気じゃ」
「僕が満足するまで」
ウルフウッドの肌がしっとりと汗ばんできた。微かに潤んだ双眸は、嫌がってなどいない……むしろ、この先を望んでいるのが明らかだ。
ヴァッシュはウルフウッドの身体を反転させ、胸元に顔を埋めた。甘える大型犬のような仕草で満足するまでキスの雨を降らせながら、微かな忖度の証明として、シャツのボタンを外しても見えない場所にじゅっと音を立てて、唾液と共に吸い付いた。
そのまま、ヴァッシュの頭は――トレードマークのトンガリが下りた頭がウルフウッドの下半身へと移動して腹に……割れた腹筋の真ん中にある割れ目に、臍の真上にキスをする。
ウルフウッドの身体が微かに跳ねて、肌が粟立ち始める。腰にぐっと指を沈めれば、もう駄目だった。
「あっ……!」
「腰、弱いよね」
「ちょ、待っ……やめっ……!」
ビクンと大きく動いた腰にキスをすれば、指以上にウルフウッドは甘い反応を示した。
“胸なら所有”
“腹なら回帰”
“腰なら束縛”
ヴァッシュは性急にウルフウッドのスラックスのベルトを外し、腰から太腿にかけてを手でなぞりながら下半身も脱がし始めた。
脛毛の剃り残しがある。なのに、萎えるどころか、彼の一部ならば愛おしくも感じる。
足癖も悪い彼の脚はバランスよく鍛えられている。多すぎず、かと言って脂肪の塊でもない均等な筋肉は触り心地が良い。勿論、唇で触れても気持ちが良い。
腿に、脛に、スラックスを取り去って、下着に隠された微かな反応に気づいていないフリをしながら、脇目を振らずにヴァッシュのキスは続く。
草臥れた靴下を脱がせて床に放り捨てると、お世辞にも柔らかいとは言えない、骨ばった深爪気味な大きな左足を恭しく手に取った。
「き、汚いから……」
「汚くないよ、おまえは」
嫌がるウルフウッドの声を無視して、ヴァッシュは足の甲にキスをした。そのまま、舌を這わせる。
“腿なら支配”
“脛なら服従”
“足の甲なら隷属”
足の血管をなぞりながら丁寧に舐めると、ウルフウッドの身体がゾクゾクと震えるのが分かった。快楽を感じている。ただ、キスをして、ちょっと舐めただけなのに。
ヴァッシュの舌が熱を持って指先に移動すると、親指を口に含んだ。指の腹も爪も舐め回せば、ウルフウッド遂に声が抑えられなくなった。
「ん、あぁ……っ」
「ウルフウッド……どうされたい?」
ちゅっと、爪先に口付ける。
ヴァッシュの問いかけに、ウルフウッドは言葉を発さなかった。
ヴァッシュの生身の手に触れて、指と指を絡めて、彼がしたように人差し指をぱくりと口に含んで舌を這わせる。
引き金を引く指先に舌を絡め、火傷しそうなほど熱い吐息を吐き出せば、自らベッドに背中を預けて身体を明け渡した。
“爪先なら崇拝”
“指先なら賞賛”
「トンガリ……キス、して」
「どこに?」
「全部」
手を握れば、同じ力で握り返す。快楽を与えたら、また同じだけの快楽をお互いに与えて受け入れて。
キスをすれば、返してくれる。
さてその他は、みな狂気の沙汰――