【五夏】とじる 家で食べる弁当はいつだってどうしようもなく孤独の味がする。
寮の部屋で食べるのも同じなのだな、と傑は小さく口を開けて米を運び入れた。
久しぶりに風邪をひいた。朝起きて、倦怠感によもやと思い体温計で熱を測ったら、平熱とは言い難い数値が示された。
子どもの時分は熱を出しやすかったが、まさか高校生にもなってまだ熱を出すとは思ってもおらず、完全に油断をしていた。
傑は季節の変わり目によく風邪をひく子どもだった。別に、特段傑の身体が弱い訳ではない。誰しもが心身の不調を訴える時期は否応なく呪霊の発生も増えるせいだ。
小さな頃は怯えていた。怯えるのに疲れて、体調を崩した。力の使い方が分かって、自分は弱い人たちを守るためにこの力を使わなければならないのだと思い始めてからは、目の前に呪霊がうろついていれば、例えそれが蠅頭だろうと野放しにできずに相手をした。
放置すれば誰かに害を及ぼすかもしれない。
そう思うと、祓ったり、あるいはその肉体に刻まれた術式に則り取り込まずにはいられなかった。
祓う。取り込む。その繰り返しに疲弊し、しまいには傑自身が体調を崩すのだ。
でもそれは子どもの頃の話だ。もういい加減、自分のキャパシティだって理解している。人並みでない鍛錬を重ねてできた傑の身体は同年代と比べてもがっしりと分厚く、体力だって自慢じゃないがかなりある。もう体調を崩すまで無茶をするような真似もしていないつもりだった。
「ハ? 熱?」
「ああ……風邪をひいたみたいでね。うつすと悪いから、今日はもう部屋に来ないでくれ」
朝、悟が手製の弁当を片手に部屋を訪れると、傑は端的にそれだけ告げた。悟は不服そうに唇を窄めた。
「……じゃあ、弁当は置いてく。食えたら食って。なんかあったら、連絡しろよ」
「うん……悪いね」
「いーって」
悟が背を向けて部屋を出ていく時、胸の奥がチクリとした。少しだけ、行かないでほしいと思ってしまった。
風邪をひいて人恋しいのだろうか。傑は自分に苦笑いをして、机の上に置かれた弁当の包みを見た。
弁当作りは最近悟がハマっていることだった。きっかけは些細なことで、確か遠出の任務で用意される仕出し弁当が不味いだとかなんとかで「自分で作った方がマシ」と毒づいた悟を「じゃあやってみたら?」と傑が煽って、それで、元から手先が器用だった悟は自炊の楽しさに目覚めてマイブームになったのだ。
「一人分じゃコスパが悪い」などと金など掃いて捨てるほどあるはずのボンボンは傑に弁当箱を突きつけながら言い、「素直に私に食べてほしいと言えよ」とは照れた目元を見てしまうとさすがに軽口も叩けず、ここ最近、傑は悟の作る弁当のご相伴に預かっていた。
悟の手料理はなかなか美味しくて、感想を伝えると悟はむずむずと得意げに笑った。そんな悟の顔を見るのが、傑は嫌いではなかった。
悟が出て行ってからもう一眠りした。目が覚めると、とうに太陽は中天も過ぎて西側にいた。少しでも栄養を取って、早く回復しなければ。それに、せっかく悟が作ってくれたものを無駄にするのはなんだか気が引ける。
真面目な傑の義務的な感情も相まって、力を入れて上体を起こし、悟が置いていった弁当に手をつけた。
無愛想なほどシンプルな青いギンガムチェックの包み。白くて四角いプラスチックの弁当箱を開くと、茶色い。きんぴら、生姜焼き、彩りのミニトマト。今日は悟らしからぬ質実なおかずが並んでいた。
「いただきます」
呟いて、卵焼きを齧る。甘い。
ふ、と小さな笑いが漏れた。
傑の家はだし巻きだった。たぶん五条家だって、卵焼きは甘くなかっただろう。——つまりはコレは、悟の味なのだ。
キャラ弁でも作りそうな悟が、黙々と茶色いおかずをこさえては弁当箱に詰めていく姿を想像する。甘い卵焼き。溶いた卵に、砂糖をたっぷり入れて、焦がさないように巻いて。想像すればするほど可笑しい。どんな顔でこれを作っているのだろう。堪え切れなくなって、傑はくつくつと口元を押さえて笑った。
部屋でひとりで食べる弁当は、どうしようもなく悟の不在を突きつけてきた。ひとつひとつに悟を感じるからこそ、悟が居ないことが浮き彫りになる。
そもそも弁当なんて、元々外で食べるものなのだ。外で開けば、作ってくれた誰かを思い出して温かな気持ちになれるくせに、自室に篭って食べる弁当はどうしてこんなにも孤独の味がするのだろう。
体調不良に引っ張られて、精神まで弱っているらしい。無性に悟に会いたくなった。
誰かに会いたくなるなんて、ましてや、毎日顔を突き合わせているはずの悟に会いたいだなんて。
そんな気持ちになる自分に驚いて、残すのは申し訳なくて無理やり空にした弁当箱と同じように、慌てて気持ちに蓋をした。
***
「美味しかったよ」
そう言って初めて傑から綺麗に洗われた弁当箱を受け取った時、悟はギクリとした。嬉しかった。嬉しくて、今にも口元が緩んでしまいそうな自分に動揺したのだ。
「当然だろ」
だから悟は悪ぶった。けれど、本当は背中がむずむずして、油断すると破顔してしまいそうだった。傑に褒められて、胸に甘く疼くものがあった。
本当は数回作って終わりにしてしまおうと思っていた。弁当作りだなんて、悟にとってやってしまえばなんてことはない割にはコストパフォーマンスどころかタイムパフォーマンスも悪い。
自分のためだけに作ることには早々に飽きた。そこから、一人分も二人分も手間は変わらないのだし「そうだ、傑の分も作ろう」と余計なことを思い立ったのが悪かった。
傑のための弁当箱を用意し、「アイツは何が好きだっけ?」だとか「苦手な食いもんは無かったよな」だとか考えながら献立を決め、果ては「まぁ俺が作ったんだから美味いに決まってるけど」だなどと一瞬尻込みし、ええいままよ! と手ずから選んだ青いギンガムチェックの風呂敷に包んだ。
本当はもっと偉ぶって渡すつもりだった。
予告なく、自信満々に「悟様手製の弁当だぞ有り難く食えよ」とかなんとかふざけて渡そうとしていた。それなのに、いざ傑の顔を見たら、自分がこの弁当を傑のことばかり考えて作った事実に気付いてしまった。途端に、顔が火照るほどの恥ずかしさを覚えた。
ついでで作ったのだ。自分一人分だろうと傑の分も作って二人分になろうと同じだから、と。それがどうだ。思い返せば弁当箱選びからおかず作り、盛り付けに至るまで自分はずっと傑のことを考えながら作っていた。傑に「美味い」と言わせたい一心で、肝心のきっかけすらも忘れて。
それがものすごく楽しかった。傑の顔を思い浮かべながら手を動かすのは少しも苦痛ではなかった。それどころか——。
「一人分じゃコスパが悪い」
突きつけた弁当箱の重さについ語尾が弱った。驚いた顔の傑と目があって、またカッと顔に朱が差した。受け取ってもらえない弁当箱から目を逸らし、もう一度グイッと押し付ける。
また突然だな、と言いながらゆっくりと傑が青い包みを受け取り「ありがとう」と礼を言うのが聞こえた。
「別に、一人分も二人分も変わらないし」
「ちょうど急ぎの任務が入ってね。助かったよ」
終わったら有り難くいただくとするよ、と言った傑に「助かったのはこちらだ」と悟は思った。いつもみたいに横で傑が食べるのを、きっと自分は見ていられない。何となくバツが悪い。
呪いを込めた訳でもないのに。
昼食の時、悟は自分の弁当箱の蓋を開けて小さく「ぐっ」と唸った。傑と同じおかずを、同じように盛り付けた弁当だ。朝自分で用意したから、見覚えがありすぎる。
もう傑は食べただろうか。それとも任務が長引いて、まだ手をつけていないかもしれない。
何故こうも傑のことばかり考えているのだろう。何故、傑のことを考えていると溶け出しそうなほどの幸福を覚えるのだろう。
弁当箱を開けただけなのに、とんでもないパンドラの箱を開けてしまった気がして、何を食べてもなんだか味が分からなかった。
***
夢を見た。
幼い頃の夢だ。父親にも母親にも見えない不気味なものが、自分にだけは見えた。ひどく恐ろしかったのを覚えている。
自分がソレに怯えることに、両親は怯えていたように思う。両親は善良で、自分を異常者扱いしないよう心掛けていたが、やはりおかしなものが見えている自分を異質に感じているようだった。
だから、怖くて堪らないソレらに対して、両親が怯えずに済むよう振る舞うことにした。ソレに怯えて見せることを、己に禁じた。
それでも、怖いものは怖いのだ。幼い自分には、ソレが何だか分からなかったから。
誰にも気付かれないように怯えて、不器用な怯え方に疲弊してよく熱を出していた。
おかげで小学校低学年の頃は、季節の変わり目に用意された学校行事の類に何度か参加できなかった。学校には頻繁にソレが発生していて、特に学校行事の前は、ソレは至る所に噴出した。
遠足の当日に熱を出したことがある。
自分の息子が当然参加するはずの行事に早起きして弁当を作ってくれた母は、心配まじりに「食べられたら食べてね」と言い残して後ろ髪を引かれながらパートに出かけて行った。
母の作ってくれたものを無駄にしてはいけないと思った。
胸に悲痛な義務感があった。パカリと当時好きだったキャラクターの印刷されたプラスチックの蓋を開けると、ひと口大のハンバーグやブロッコリー、タコさんウインナー、ゴマで目が付けられ海苔がにっこり笑ったうずらの卵がミニトマトと一緒にピックに刺されており、早朝から母が張り切った様子が窺えるようだった。
弁当からは、ひどく孤独の味がした。
何を食べても寂しくて、寂しくて、誰もいないリビングは幼い自分にとってただただ広くて、世界に自分しかいなくなってしまったかのような孤独を覚えた。
家で食べる弁当はどうしようもなく孤独の味がする。
寂しい。寂しい。遠くでソレの蠢く気配がする。怖い。どうして父も母もソレが見えないのだろう。寂しい。
じわりと視界が水面に揺れ、下唇がぷるぷると震え出して上手く咀嚼ができなくなった。それでも、懸命に箸を運び続けた。
早く両親に帰ってきてほしい気もしたし、ソレが見えないのなら、この孤独が分からないのなら、帰ってきてほしくないと思った。
寂しい。寂しくて堪らない。誰か、この寂しさを、誰か——。
薄暗闇の中、ふと目覚めるとベッドの側に誰かいる気配がした。傑の胸の内にはまだ、じくりと痛む夢の名残りがある。
「傑?」
気配が身じろいだ。窓から差すぼんやりした月明かり以外にこの部屋を照らすものはない。だというのに、透明な夜の中でそれだけが仄明るく光っているように見えた。
「……悟?」
うん、と低く落ち着いた声が返ってくる。何故だろう。答えを聞く前から、目覚めた瞬間から隣にいるのは悟だと、傑には分かっていた。
「目ぇ覚めた?」
悟の作った弁当を食べた後もう一度横になったが、そのまま寝てしまったらしい。悟はいつからいたのだろう。朝、忠告したはずなのに。
「……もう今日は来ないでくれと言っただろ」
「具合は?」
聞いちゃいない。布擦れの音がして、乱れた前髪のかかった傑の額に、悟の手のひらがピタリと触れた。その温かな温度に、傑は小さく息を呑んだ。
「もう熱はなさそうだな」
見えなくても、悟が満足げな顔をしているのが分かる。ぐらりとした。ぐずぐずと夢の名残りに胸が疼く。寂しい。誰か。そんな気持ち、とうに捨てたはずだ。
弁当箱と一緒に蓋をしたはずなのに。
誰かじゃなくて、悟に会いたいと思った心が、うっかり露呈しそうだ。
悟の温度があまりに染みるので、動揺に気付かれないよう傑は額に乗せられた悟の手を払い除けながら上体を起こした。そういえば、と食べるだけ食べて弁当箱をそのままにしてしまっていたことを思い出す。
「ごめん。弁当箱洗えてないから、明日洗って返すよ」
「いいって。俺やるし」
「良くない」
良いんだよ、俺がしたいんだから。
そう言った悟の声に思いがけず優しさが滲んでいて戸惑った。やっぱり精神が弱っているのだろうか。いつもならなんてことないやりとりなのに、悟の出す柔らかな響きに上手く返す言葉が見つからない。代わりに、そうか、と傑は口籠った。
ひと時、わずかな沈黙が流れて気まずい。ふたりだけ水の底に沈んでしまったように静かだった。段々と部屋を満たす暗闇にも目が慣れてきたが、しかし、そうでなくったって、傑には悟がじいっと自分を見つめているのが分かっていた。だから傑は、そんな悟にいま何かを言ってしまったら、悟に会いたいだなどと思っていた自分が暴かれてしまう気がした。それで口をつぐんでいた。
「弁当、」
先に口を開いたのは悟だった。
「美味かった?」
虚を突かれて、一瞬反応が遅れる。
「美味しかったよ」
とても。それは傑の、掛け値なしの本心からの言葉だった。悟の作った弁当は、いつだってきちんと美味しい味がする。
「特に……卵焼きが」
「甘かっただろ?」
「ああ、アレには驚いた。卵焼きまで甘党なんだな、と思ったよ」
傑がくすりと笑いながら返すと、悟は悪戯っぽく笑った。
「さとすぐスペシャルだからな」
さとすぐスペシャル? と傑が繰り返すと、悟も「そう、さとすぐスペシャル」と鸚鵡のように返した。
「何回か作ってみたんだけどさ、俺はもっと甘いヤツのが好きなんだよな。でも、傑はアレ以上甘くなるともう口に合わなくなるだろ」
「もっと甘いのって……」
どれだけの砂糖を入れるのだろう。傑が眉根を寄せて苦笑いするのを悟は得意げに見た。
「俺と傑の間の味だから、さとすぐスペシャル」
じわり、傑の胸に何か温かなものが広がった。
スペシャルはどこから来たのだ。そう突っ込むのも忘れて、自信たっぷり幸せそうな顔で馬鹿らしい名前を披露する悟に、傑は息を詰まらせ、面を食らっていた。次第に、悟のことも、自分自身のこともなんだか可笑しく思えてきて、堪らず笑いがこみ上げる。くくっ、と声が漏れた。
突然笑い出し肩を揺らす傑に、悟は一瞬キョトンとしたが、しばらく経っても傑の笑いが収まらないのでさすがにムッとした。悟にとっては至って真剣に命名したつもりなのに、何をそんなに笑うことがあるのかと非難する。傑は答えずになおも笑い続けた。笑いすぎて苦しくなったが、止められなかった。
どんな顔をしてあんな甘い卵焼きを作っているのだろうと思っていた。
「悟、」
「なんだよ」
「私にはまだ甘すぎるよ」
目尻に滲んだ涙を拭いながら傑が言った。
傑に大笑いされて、友人は柔らかな頬を膨らませそっぽを向いて拗ねてしまった。その横顔を、傑はとても好ましいと思った。だって、傑にとって、あの甘い卵焼きは悟の味だった。でも、悟にとっては傑の味だと言うのだ。そんなの、可笑しくて堪らない。大真面目に自分のことを考えて作ってくれた彼の空回りっぷりが、愛しいとさえ思った。
いつの間にか、傑の胸をじくじくと痛ませていたものが無くなったことに、傑は気付かない。
「……じゃあ今度は傑が作れよ」
「何でそうなるんだよ」
「さとすぐスペシャル完成させるために決まってんだろ!」
完成させて何になると言うのだ。悟はたまによく分からないことに情熱を燃やす。
「悟、アレはアレで私は好きだったよ。そういうデザートみたいで」
面倒ごとの気配を察知した傑がやんわりと回避しようとする。しかしこうなった悟はどうして、基本的に折れることがない。
「いーやダメだね、傑は全然分かってない! そもそも卵焼きはおかずだろ? だからコメ。米と一緒に食って美味くなきゃ意味がない」
だから今度は傑が俺の好きな甘さになるように作るんだよ! 悟が駄々を捏ねて叫んだ。
何故私が作るんだ? それじゃあいつまで経っても『さとすぐスペシャル』とやらは完成しないのではないだろうか? そもそも卵焼きは、甘さの加減云々をする料理ではないのでは? そうは思ったものの、悟が聞き入れる気がしない。
でも——そういうのも悪くない。
「仕方ないなぁ……」
傑がため息混じりに笑い、ふと顔を上げるとふたりの視線がかちりと合った。悟は、口調とは裏腹に嬉しそうな顔をしていた。端正な顔をゆるく弛緩させ、溶け出しそうな幸福を青い瞳に滲ませて。
どんな顔をしてあんな甘い卵焼きを作っているのだろうと思っていた。
薄々胸にあった答えが目の前に広がっていて、自然と頬が緩む。
「よし、絶対だからな!」
「ああ」
満足げに微笑む悟を前に、ああやっぱり甘すぎるな、と傑は胸の中で小さくごちた。