Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    hotori_

    Pixiv https://www.pixiv.net/users/1843851

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 5

    hotori_

    ☆quiet follow

    再再録しました!
    https://pictmalfem.net/items/detail/86315

    あっちこっち飛ばせてすみません……。
    おそらく上記のほうが動作軽くて読みやすいかと。

    【ぶぜさに】十五か月の冬【期間限定Web再録】序、一、二、三、四、結、   序、
     ある年の冬、日本の西に広がる大陸の一地域を突然の豪雪が襲った。降り積もる雪により交通網は遮断され、その土地は完全な孤立を迎えることとなる。
     だが空には道がない。国境もない。異常気象は、その土地だけに留まりはしなかった。平年ならば降雪など起こらないはずの土地でさえも霙が観測されたのは、間もなくのことだった。
     アジア、ヨーロッパそして南北アメリカ大陸へ。厚い雲は麺棒で伸ばされるように地球を覆い、ついには赤道直下までもが太陽を失った。
     いつまでも止むことの無い淡い雪。どこまで行っても、太陽を見せることの無い薄墨色の空。地球規模での異常な寒冷化は、人々の暮らしを大きく変えていった。
     さすがに五月になればこの雪も溶けるだろう。盆を迎えれば、いくらなんでも夏を迎えるだろう。人々は願った。
     けれど花は開かず、日の光もなく、実りの季節も迎えないままに、次の冬が巡り来る。夏さえもやって来なかった異常な寒冷化。その先で迎える冬は、一体どれほどの厳しさが襲うのか。人々は恐れ、希望を失いかけていた。
     だが、それは杞憂となる。
     はみ出した冬とその先で迎えた冬の境界は緩やかに溶け合った。世界には、一年遅れでようやく春が訪れた。
     後に人々は、長く厳しかった冬をこう呼んだ。
     『十五か月の冬』――と。



       一、
     私が「師匠」と呼び慕う審神者の率いる本丸が、時間遡行軍による襲撃を受けた。
     その報せを受けたのは、長かった雨の季節もようやく過ぎて日の光が強く地上を照らし始めた頃。うだるような暑さの下、濃い影が地に伸びていた。
     幸い師匠は無事、破壊された刀剣もゼロということだったけれど、その被害は甚大だった。本丸の防衛と男士達の手入れに力を使いすぎた師匠は、秋の足音が聞こえ始めても未だ臥せったままだという。
     事件後、政府には直ちに緊急対策室が置かれ、各本丸には防衛強化のための方針が通達された。
     遡行軍による本丸襲撃は、これまでに例が無かったわけじゃない。いくら結界で覆っても、本丸の位置を隠しても、奴らはどこからか抜け穴を見つけ出す。
     けれど師匠ほど能力の高い審神者の本丸が被害を受けたのは、これが初めてのことだった。
     防衛力も高く戦略にも長けた師匠の守る本丸の位置が、歴史修正主義者に特定された。それが一体どれほどの意味を持つのかを、対策室まで設置するという政府の対応が物語っていた。

    「――で、そろそろ、もう少しだけ結界を強化しようと思うのね。やっぱり、耐久性に不安があって」
     私は執務室のローテーブルに見取り図を広げ、向かいのソファに座る近侍、豊前江へと今後の計画を伝えていた。
     本丸内で認識の齟齬が生まれないよう、運営方針や計画については全体にも伝えている。また事前に相談も兼ねて近侍へ詳細を知らせておくことも、私の習慣だった。
     それまで神妙な面持ちで話を聞いていた豊前が不意に顔を上げる。豊前にしては珍しく眉間に皴が寄せられていた。
    「もうずっと働き詰めだろ。そろそろ休めよ」
    「平気へいき。もともと体力はあるほうだし」
     確かに豊前の言う通り、例の事件を機にやるべきことが増えて私は休む暇もなかった。
     本音を言うと、疲れを感じることは増えている。けれど主である私がそれを表に出すことは許されないだろう。
     だから私は笑って答えるんだ。まだ平気、って。
     それでも豊前の表情は変わらないままだ。うまく笑えていなかっただろうか。
     私は、誤魔化すように言葉を探す。
    「それに、せんせいほどの審神者の所でさえあんな被害を受けたんだよ。うちが狙われたら、ひとたまりもない」
     既に人口数十万人を超えているとされる審神者の中でも特に突出した能力を持ち目立った功績を上げている師匠。あの人の所でさえ、本丸の機能を休止せざるを得ないほどの痛手を負った。まだまだ未熟な私の本丸が狙われたらと思うと、守りを固める手を休めることは出来なかった。
     けれど豊前は、私の言葉に眉間の皴を深くするばかりだ。
    「倒れたら意味ねーだろ。そもそも力は残ってんのか? 結界なんて強化してハイ終わりじゃねーだろ」
    「う……。でも、いっぺんガッと増強しちゃえば、維持に必要な力は今よりほんのちょっと増えるだけだし……」
    「前に結界いじった時もそれ言ってたろ。『ほんのちょっと増える』これで何度目だ?」
     豊前が、やれやれと言うように溜息をついた。
     結界は、張るだけではなく、厚さ、硬さ共に強化すればそのぶん、維持にも多くの力が必要になる。力を一時的に注ぎ込んで強化できたとしても、その後の維持がままならないようならそれはもう無いのと変わらない。
     本丸の結界が強化されるか、それとも全くの無になるか。それは、審神者の能力に左右される諸刃の剣だった。
    「……ったく、しょーがねえなあ」
     目の前の豊前がおもむろに立ち上がる。かと思えば、私からひとり分ほどの距離を開け、私の座るソファへと腰を下ろした。
    そして豊前は、自身の腿を軽く叩く。
    「ほら。膝、貸すよ」
    「え、なんで」
     脈絡を一切感じられない発言に、何よりもまず疑問が口をついて出る。
    「俺の膝、よく分かんねーけど寝心地いいらしいからさ。主もよく寝れるんじゃねーか?」
    「いや、そうじゃなくて」
     よく寝れるもなにも、今はまだ仕事中なのに。ううん、仕事中じゃなかったとしても膝は借りないけど。
     豊前が篭手切や桑名に膝を貸している、もとい借りられている場面に出くわしたことはある。けれどそれは互いに男士、さらに言えば江のもの同士だから出来ること。主の私が借りたら、パワハラやセクハラになりかねない。
    「いいから、ほら」
    「わっ」
     怪訝な顔をする私をよそに、豊前が私の腕を引く。そのせいで、私は抵抗する間もなく豊前の脚を枕にしてソファへと横たわっていた。
     布越しに頬へ触れる、がっしりとした筋肉の感触。咄嗟に首を回してその感触から逃れるけれど、その先には前髪で影の落ちた満足げに笑う紅の瞳が待っていた。
     不覚にも、心臓が大きく跳ねる。
    「何、急に。危ないでしょ」
     ――いや、問題はそこじゃない。
     思わず、突っ込みを入れてしまう。「誰かれ構わず膝を貸すもんじゃありません」とか、「いきなり人に触れてはいけません」とか、もっと言うべきことがあるだろうに。咄嗟に出てきた言葉は、我ながら間が抜けていた。
    「こーでもしねーと倒れるまで働き続けるだろ。せっかくひと段落着いたんだ。今日くらいは休んだっていーって」
    「まってよ。私の休むタイミングは、私が決める。ていうか私、倒れたことないし」
    「倒れてからじゃ遅えの」
     豊前に溜息をつかれるけれど、今はまだ、休んでる場合じゃない。結界強化の他にも、刀剣男士達の育成計画を練ったり政府への提出資料を作ったり、それに自分自身も鍛えなきゃ。やらなきゃならないことはいくらでもあった。
     起き上がろうとソファに掌をつく。けれど私の肩は豊前に優しく押し戻されてしまった。
    「はいはい、いーからいーから」
    「よくない……」
     それでも抵抗を続けようとする私をあやすように、豊前の大きな手のひらが私の目元を覆う。昼下がりの柔い光は、黒革のグローブによって完全に遮断された。
     こうなったら、私は観念して目を瞑るしかない。
     睫毛の先がグローブを掠めた感触を瞼が受け取る。アイメイク崩れるじゃん。小言は溜息に変えそっと吐き出した。

     光が届かなくなると、私の心はざわめき出す。
     耳の奥で木霊する、誰かの責める声。脳裏にちらつく雪景色。焦燥感が、胸を侵してゆく。
     息苦しくて、ブラウスの裾を小さく握った。

     私は時々、全てを投げ出し、どこかへ逃げたくて堪らなくなってしまうことがある。
     歴史を守り抜くことなんて、本当に出来るんだろうか。自分の采配は正しいんだろうか。刀剣男士が戦場で折れやしないだろうか。
     そして、本丸は襲われないだろうか――。
     審神者として就任する少し前、師匠はこう言っていた。
    「あなたは恐らく、遡行軍に狙われやすい。本丸の守りを緩めてはいけませんよ」
     それは、私自身も薄々気付いていたことだった。だって私は、『それ』がきっかけで審神者になったんだから。
     不安を振り切るため、私は刀剣男士の育成に力を注いだ。攻撃こそ最大の防御。遡行軍の数を減らすことが、本丸を、そして自分を守ることに直結する。
     同時に、本丸の守りを固めることにも力を抜かなかった。自慢ではないけれど、結界の強度なら自分と同じレベルの審神者に負ける気はしない。自信は、心の安定に有効だ。
     けれど両の脚で踏ん張っているつもりでも、不意にその足元が酷く心許ないものに感じられてしまう時がある。
     昼間どんなに強気でいても、辺りが闇に包まれたあと、どうしようもなく不安になる。
     だから私は、休むことが下手だ。眠ることだって苦手だ。『あの時に手を止めていなければ』と思う日がいつか来るかもしれないことを、恐れていた。
     自分でも、とっくに気付いていた。本当は、誰かに安心させてほしいんだろう。
     けれど私は、そんな弱い自分を誰にも見せたくなかった。たとえ、師匠相手でも。それが刀剣男士相手なら尚更だ。
     だって私は、この本丸の審神者だ。刀剣男士達を統べる主だ。揺らぐ長を見て、誰が付いていきたいと思う。
     それにもし仮に望む言葉を貰えたとして、そのことで私が慢心してしまわないとも限らない。私は臆病で、そして傲慢だ。分かってる。分かってるのよ。
     無意識に、眉間へ力が籠る。
     そんな時だった。
     ――え?
     私の腕へ、静かに触れるものがあった。
     それはそのまま、とん、とん、と優しく二の腕をたたく。
     あたたかなこれはきっと、空いていた側の豊前の掌だ。穏やかなリズムに釣られ、私はゆっくりと息を吸う。そして、ゆっくりと吐き出していく。
     繰り返すうち、胸を締め付けていた焦燥感が軽くなる。呼吸が、さっきより少しだけ簡単なことに感じられた。
     緩んだ呼吸と共に、私は願ってしまう。
     ねえ、豊前。お願い。
     お願いだから。大丈夫だ、って言って――。
    「でーじょーぶだよ」
    「え……?」
     私は今、自分の臆病な願いを口に出してしまっていたんだろうか。だとしたら、なんて恥ずかしいことを。
     気恥ずかしさと心苦しさに、再び身を固くする。
    「ん? あー、ずっと頑張ってっけど、そんな不安がることねーのにな、って思ったからさ」
     どうやら、私の願いに答えたわけではないらしい。私は、胸を撫で下ろす。
    「不安だなんて言ったことあったっけ」
    「言ったことはねーなあ。だいたい、弱音吐けっつったとしても吐かねーだろ」
    「どーだろうねえ」
    「ほれみろ」
     反射で強がってしまう私に、豊前はいつもと変わらない。
     そして片手で私の目を覆ったまま言葉を続けた。
    「うちの本丸は、主は、でーじょーぶだよ。なーんも心配いらねえ」
     豊前の声は、何の気負いもなく、けれど舌先三寸に軽薄でもなく、ただただ優しかった。
    「断言するんだ?」
    「とーぜんだろ」
    「……そっかあ」
     迷いなく言い切る豊前に、私は苦笑するしかない。こんなにも強く信じてくれている理由は、どこにあるんだろう。
     豊前がこの本丸にやって来てから、それなりの月日が流れている。けれど私は未だ、この刀が何を思っているのか、よく分からない。
     本丸での豊前は常に、人好きのする笑みを絶やさない。誰かを拒絶することもなく、周りからの提案も快く受け入れているらしい。懐が深いと言えばそうに違いないけれど、誰かに対して自分の要望を通そうとすることはあるのだろうかと心配になることもあった。
     そして豊前は、嘘をつくことも誤魔化すこともしない。それは、主である私に対してもそうだった。
     そんな豊前が、私を信じると断言してくれている。きっとこれも、本心なんだろう。
     けれど私は、真っ直ぐに信じてくれているその心が、少しだけ怖い。底の見えない心に浮かぶ好意を無条件に信じられるだけの純粋さを、私はとうに失っていた。
     私は、貴方に言えないことがある。隠し事のある私は、信用に足る主なんかじゃないのに。そう思うといたたまれなくて、ほんの少しだけ泣きたくなった。

       * * *

     高く広がった空に、薄い雲が伸びている。私は手合わせの様子を見るために道場へと向かっていた。
     次の任務を誰に任せるか。それを判断するために、各々の調子を知ることは欠かせない。
     道場からは、威勢の良い掛け声が渡り廊下のこちら側まで響いている。予想していたより多くの声が聞こえるから、きっと誰かが飛び入りで参加しているんだろう。
     今日の手合わせに指名したのは南海太郎朝尊と肥前忠広。さて、道場破りは誰だろう。
     廊下を渡り切ると、声だけじゃなく、白熱した空気まで伝わってくる。邪魔をしないよう、私はこっそりと道場を覗き込んだ。
     目に飛び込んだのは、深いモスグリーンの上着と、幟旗を思わせる長いひれ。
     手合わせを指名した二振りと相対していたのは、豊前江、それに篭手切江だった。
     型どおりに上段から振り下ろされた朝尊の木刀を豊前がひらりと躱す。逆に打ち込んだ一撃を朝尊が受け、鍔迫り合いに持ち込んだ。均衡の取れたせめぎ合い。どちらかがほんの少しでも押し負けたらそれが最後、そのまま勝負がついてしまうだろう。
     額に汗を浮かべた豊前の口角が挑発的に釣り上げられ、食い縛られた白い歯が眩しく光った。
     一方の篭手切と肥前はというと、付かず離れず、切り込んではまた跳び退り、一進一退の攻防を繰り広げていた。
     居合の要領で瞬く間に木刀を構えた肥前が篭手切に突きを入れる。それを躱す篭手切の身のこなしは軽やかなダンスを思わせた。彼はその反動を軽快なステップに乗せ、再び間合いを詰めてゆく。
     袈裟に振り上げられた刀を避け、肥前が後方に跳び退いた。左手だけで体重を支え、ばねのように跳び上がって後方へ一回転。首に巻かれた包帯の尻尾が空中に円を描く。
     けれど、その見事な体術は篭手切に十分すぎる時間を与えてしまっていた。肥前が体勢を立て直した時、篭手切は既に目の前から姿を消していた。
    「りいだあ!」
    「っ、し!」
     篭手切の呼び声に、豊前は渾身の力で木刀を跳ね返す。
    「ぐ……」
     よろめいた朝尊へと、篭手切がすかさず切り込んだ。
     打刀同士、脇差同士の手合わせだと思っていたこれは、どうやら連携攻撃の稽古だったらしい。
     こちらから指示を出さなくとも、強くなるための方法を考え、実践してくれる。ありがたいことだなと思う。彼らは刀だから、強くなりたいと願う心が彼らの根底にあるのかもしれない。
     連携といえば肥前はどうしているんだろう。この十数秒、刀を交えているのは肥前を除く三振りだけだ。肥前のいた辺りへと視線を戻す。
     けれど、私の目で捉えることができたのは暗い色をした残像だけだった。
     瞬きをして行方を追う。その影は木刀を脇に構えたまま一足飛びに掛け出した肥前だった。彼は一瞬で抜刀の動きを見せ、その勢いのまま豊前が朝尊へと振り下ろす木刀を跳ね上げる。
     しまったとばかりに見開かれる、豊前の瞳。
     鈍い音が響くと同時に、木刀が高く宙を舞っていた。
    「りいだあ!」
     篭手切が叫ぶ。
     肥前に木刀を向けようとする篭手切。不敵に微笑む朝尊。一瞬一瞬が、コマ送りのように切り取られる。私の喉から「あ」と音が零れた頃には、肥前の構えた木刀の切っ先が豊前の喉元へと据えられていた。
     道場に、ぴり、と緊張が走る。そして。
     ガラン!
     突然の物音に、私は小さく飛び上がった。
     音のした方向を恐る恐る振り返る。
     そこには、一振の木刀が転がっていた。
     誰も居ない場所でぽつねんと横たわる木刀。それを見て、私はようやく理解した。豊前の手を離れたそれが今まで宙を飛んでいたのだ、と。
     いくら天井が高いとはいえ、一体どれほどの高さまで飛ばされていたんだろう。それとも、体感していた時間が実際よりもよほど長かったのか。
    「そこまで!」
     判定を務めていた堀川国広が、南海・肥前組に向け右手を挙げた。
     張り詰めていた緊張が一気に緩む。
     肥前の溜息と共に切っ先が喉元から逸らされると、豊前が悔しそうに声を上げた。
    「クッ……ソ、もっかいだ! もっかい」
    「ええ! れっすんあるのみ!」
    「あぁ? まだやんのかよ」
    「まあまあ、いいじゃないか肥前くん。彼らの、踊りの経験を活かした身のこなしは実に興味深い」
    「先生までそんなこと言い出すのかよ!」
    「光栄だな」
    「ほら、ちゃっちゃと構えろよ」
    「おいおい、次は俺らの番だろ。なあ? 国広」
    「そうだね、兼さん。僕たちも負けてられないよ!」
     端で見ていた和泉守まで名乗りを上げ、いよいよ収拾が付かなくなった。やいのやいのと言い合う彼らに、ついさっきまでの緊張感は無い。いっそ微笑ましいくらいだ。
    「和泉守か、受けて立つぜ!」
    「ぜってー負けねえからな」
    「おや。どうやら僕たちは身を引かねばならないようだ」
    「ほら、先生。水」
     次の勝負は、和泉守・堀川と豊前・篭手切に決まったらしい。肥前に渡された水を一口飲むと、朝尊が審判の位置についた。

     つくづく、豊前江は不思議な刀だと思う。
     懐の深い兄貴分であることは間違いない。けれど同時に、豊前は存外負けず嫌いだった。
     本丸にやって来た当初から、豊前は疾さに関して執拗なほどに拘りがあった。
     疾さだけじゃない。あれはいつのことだったか。正月におみくじを引いた時の豊前の顔は忘れられない。大吉を引こうとムキになる姿が珍しくて、ついからかってしまった。口を尖らせる豊前に、私は少しだけ反省した。
     けれど、何年経っても気になっていることがある。
     戦で結果を収めた時、嬉しいという言葉とは裏腹に豊前の口ぶりはどこか他人事のよう。「一番になるのは嬉しーよ」――じゃあ、それ以外のことについては?
     豊前は疾さを極めて、その先に何を求めているのだろう。
     私の考えすぎかもしれない。だって目の前に居る豊前は、手合わせでこんなに悔しがっている負けず嫌いの豊前江だ。
     そんなに「はやさ」に拘るのなら、出陣で投石兵を率いてくれればいいのにと、私は常々言っていた。そうすれば、敵との距離を詰める前に奴らを仕留めることだってできる。
     けれど豊前は、どうもそれはお気に召さないらしい。私の考える「速さ」と豊前の考える「疾さ」。どうやら基準が違うようだった。
     豊前のお気に入りの刀装は軽騎兵。愛馬は言うまでもなく、どの馬よりも速く駆けられる小雲雀だ。
     道場では、豊前が和泉守から一本を取ったところだ。
     次の出陣は、豊前を部隊長に指名しようか。今度こそ、投石兵を連れて行ってもらいたい。



       二、
     これまで遡行軍の出没しなかった地点に、奴らの存在が観測された。そこは、大きな戦や事件の起きた年ではない。これじゃ遡行軍の標的を予測することも難しい。私はまず、調査のための遠征任務に刀剣男士を送り込んだ。
     けれど、私の見通しが甘かった。
     刀剣男士たちの存在が、遡行軍に気付かれた。その上、敵はこちらの想定した強さを遥かに超えていた。
     奇襲により乱暴に開始された戦闘だ。結果は惨敗。
     一部隊六名のうち、重傷二名、中傷三名、軽傷一名――。万が一のために装備させていた刀装は彼らの身を守るには不十分で、帰還後には欠片しか残されていなかった。
     モニタの向こうでは、重たい雪が降り続いている。それとは違うと分かっているのに、記憶の奥の景色が重なった。

       * * *

     手入れ部屋で男士達に処置を施すと、私は書庫へと駆け込んでいた。
     敗北のまま終わらせるわけにはいかない。負傷した彼らの持ち帰った情報を活かすため、策を練る必要があった。
     史料にせよ戦術指南書にせよ、資料は全てデータとして取り込んであるから執務室のデスクで閲覧できる。けれど私は、モニタから離れたかった。身動きも取れないほどに痛めつけられた男士達を映していた媒体を、見つめ続けることは出来なかった。
     焦りで、こめかみが脈を打つ。
     自分の弱さが嫌いだ。審神者としての弱さも。そして、人としての弱さも。
     強くならなきゃ。そのためには、戦略を学んで、男士を鍛えて、自分自身の心身も――。
    「あるじ」
     突然背後から呼びかけられ肩が跳ねる。振り返ると、書庫の扉に手を掛け豊前が佇んでいた。
    「びっ……、くりした」
     その顔に、普段の快活さはない。笑みの消えた切れ長の瞳に、非難を向けられている心地になる。
     眼差しを受け止めきれず、目を逸らした。
    「ごめん、急ぎじゃないなら後にしてくれる?」
     書架に向き直るけれど、豊前が立ち去る気配はない。
     入口のドアが閉まるカチャリと冷たい金属音を合図に、室外の気配が遠くなった。
    「豊前? 聞こえなかった?」
     自分でも分かるほど、声に苛立ちが表れていた。冷静に、冷静に。心の内で念じながら振り返る。
     視線を上げると、薄暗い書庫に溶け込む豊前の瞳だけが鈍く光っていた。その強さに、息が詰まる。
     影の中に佇んだまま、豊前が静かに口を開いた。
    「そんな焦んねーでも、あんたはでーじょーぶだよ」
    「ははっ……。『でーじょーぶ』か」
    「ああ」
     ――何を根拠に。
     惨敗を喫した今の私にとって、豊前の口癖は気休めにもならなかった。それどころか、神経をざらざらと逆撫でる。
     口元が醜く歪んだことを自覚した。
    「ねえ、豊前」
    「ん?」
    「少しだけ、昔話を聞いてくれる?」
    「昔話?」
     この部屋に来て初めて、豊前の表情に動きが見て取れた。
    「そう」
    「いーけど……」
     怪訝な顔をする豊前を横目に、私は書架の端へと体重を預ける。そして、深く息を吸い込んだ。

       * * *

     忘れもしない。あれは、私が二十歳になった冬のこと。西に広がる大陸のとある地域を、酷い寒波が襲った。
     気の毒に――。他人事のように思っていた頃、あれは、まだ私にとって対岸の火事だった。
     大陸での局所的な寒波はすぐに治まった。
     だけど、雪雲は麺棒で薄く延ばされるようにして、あっという間に世界へと広がっていった。
     日本でも、二月になると大陸に比較的近い北九州、それに東京でも、雪が積もるようになっていた。とは言っても、二月に雪が降ったところで珍しくはあるけれど例年のこと。これが世界を覆ってゆく雪雲と関係していると警鐘を鳴らしていたのは、ごく数人の気象学者だけだった。
     人々が違和感を抱き始めたのは、三月も半ばを過ぎてから。三日間、四日間と、毎日のように淡い雪が降り続けた。湿り気を多く含み結晶の崩れた雪が、溶けては積もってを繰り返す。空は、いつまでも鼠色のままだった。
     四月を迎えた頃には、その雪は国内全体を覆っていた。足場の悪さが原因で、全国的に交通事故が多発した。
     五月の連休を迎えても、例年なら梅雨の明ける時期になってもまだ、雪が雨へと変わることは無かった。
     いつまでも上がり切らない気温では、暖房が生活に欠かせない。結果、原油価格をはじめ燃料の価格は高騰。政府は燃料の節約のために、物流以外での交通の縮小を求めた。飛行機、新幹線、電車、バス……、公共交通機関は間引き運行が進み、それに伴って首都圏を中心に通勤通学を制限する動きが広がった。遠隔でも業務、授業が可能な程に通信環境が整備された時代であったことは、不幸中の幸いと呼べるんだろうか。
     いつまでも晴れることのない薄曇りの空。上がらない気温。移動もままならない、制限された生活。それらは確実に人々の心を蝕んでいった。
     学校にも行けない友達にも会えない。間引きの影響で交通費の値上がりした中、実家へ帰ることは尚更できない。空を見上げても重い雲、いつまで経っても寒いだけの日々が、私は嫌で嫌でたまらなかった。
     八月を迎えた頃だ。屋根の雪を下ろしていた父親が転落して、脚の骨を折った。
     骨折で済んで良かった――、大怪我を負った父に対してこんなことを思いたくも無いけれど、雪下ろしに伴う転落はそれほどの大事故だ。
     私はその時、ようやく気が付いた。嫌でたまらないと言いながら、目の前の冬をどこか遠い世界の出来事のようにしか思っていなかったのだと。
     現実として認識した時、心に生まれたのは憤りだった。どうして、こんなことになっているんだろう。何が原因で、こんな気候になった。いくら人間じゃ地球には敵わないと言ったって、打つ手はあったんじゃないか、と。
     心が弱っている時、綻びは止まることを知らず気付けば穴になっている。世界に憤った私は、自身の選択にも後悔した。上京なんてせず地元の学校に進むなり就職するなり、もっと他の選択をしていれば良かった――。後悔は、高校時代にまで遡っていた。
     この時世で親に心配をかけていることも、金銭面で負担となっていることも、酷く親不孝だと自分を恥じた。

     いくら目の前の現実が変わるよう祈っても、過去をやり直したいと願っても、目の前の空が晴れることはない。
     そんなある日、私の日常は一変した。
     人生が変わる瞬間に、前触れなんてものはないらしい。奴らが現れたのは、湿った雪で足元をぐずぐずにしながら近所のスーパーへ行った帰りのことだった。

    「まさか」
    「そう、そのまさか」

     ――時間遡行軍。
     その時ただの一般人だった私は、もちろん時間遡行軍の存在なんて知るはずもない。突如目の前に現れた奴らを見ても、落ち武者の化け物か何かとしか思えなかった。
     けれど私は、何故だか奴らを恐ろしいとは思わなかった。それどころか、あの仄暗い輝きに目を奪われていた。
     身動きが出来ずにいる私へ向けて、一体が囁いた。
     この先も、夏は来ない。秋も来ない。それは、この先で史実として記される。それを、覆したいとは思わないか。自分たちは、そのために力を貸すことが出来る――。

    「夏も秋も来ない将来なんて、耐えられない。私はあの時、未来を……、歴史を、変えたいと願ってしまった」
    「マジか……」
     微かに漏れ出た声に横目で伺えば、豊前は目を見開いて立ち尽くしている。
     信じられなくても無理はない。歴史を守るために自分を使役している人間が、敵と同じ願いを持っていたのだから。
    「豊前も、私の試験や検査の結果、見たことあるよね?」
    「ああ。見ても詳しいことはよく分からなかったけどな」
     審神者には、年に一度、適性検査が行われる。内容は、霊力の検査をはじめとした健康診断と、精神鑑定、それから簡単な意識調査だ。その検査で身体的にも精神的にも、審神者としての適性と継続の可否が測られる。
    「私ね、ある意味、審神者としての適性がものすごく高いの。自分で言うのもどうかと思うんだけど」
    「『ある意味』ってのは?」
    「物語を受け取る力……、とでも言うのかな。共感性とか、感受性とか。あとは……、想像力とか? そういうのが、測定可能な範囲のほぼ上限まであるのよ、私」
    「そりゃ、鍛刀も上手いわけだよな」
     豊前の言葉がひどく滑稽に思えて、視線が床に落ちる。
    「あとほら、ご存じの通り霊力も並よりちょっと多めだし」
    「そうじゃなきゃ、あんな分厚くて硬い結界張れねーよな」
    「そりゃ、どーも」
     一息つくと、私は再び顔を上げた。
    「裏を返せば、歴史修正主義者の素質もあるってこと」
     声は、情けないことに震えていた。
     共感性も感受性も高く、霊力も高い。それはつまり、物に込められた想いを受け取りやすく、形にするのも容易いということ。
     歴史を変えまいとする確固たる意志があれば、それは紛れもなく審神者としての素質だ。
     問題は、その意志が揺らいだ時。
    「歴史の改変を望む『物』にこの力が向けば、私は時間遡行軍を生んでしまう」
     言葉にしたことで、朧気だった不安が輪郭を作り出す。
    「なまじ力が強かったばっかりに、私はあの日、時間遡行軍を呼び寄せた。……ううん、もしかしたらあれは、私が生んだ遡行軍だったのかもしれない」
     豊前の瞳は凪いでいて、表情を読み取ることが出来ない。私の懺悔に、何を思っているのだろう。
     黙ったままの豊前に、私は一方的に言葉を続けた。
    「その時、奴らを検知して刀剣男士たちを送り込んだのがせんせいだった。国広の山姥切と、長谷部と、不動と……」
    いつか師匠が言っていた。まさか過去じゃなく、自分の生きる時代に刀剣男士を出陣させる日が来るとは思ってなかった、と。

     何年経とうと、鮮やかに思い出せる。
     目映い桜吹雪を纏い現れた、この世のものとは思えないほど美しい青年や少年たち。彼らの放った光を、降り積もった雪が乱反射する。
     混じり合う、白と薄紅の欠片。
     月も太陽も隠れた世界が、目が眩むほどの光に包まれた。
    「――みんな、おそろしく強かった」
     彼らが刀を振るうたび、『落ち武者』たちは黒い破片となり消えてゆく。その光景は燃えた半紙が風に乗り空へと飛んでいく様によく似ていて、私は幼い頃に祖父の暮らす田舎で見た、小正月の行事を思い出していた。竹で出来たやぐらに火を灯して松飾りを焼き、一年間の、無病息災と五穀豊穣を願う。
     その時、子供たちは書道の練習をした半紙を火にくべ、字の上達を願うという。
     じゃあ、あの『半紙』には、一体どんな願いが込められていたのだろう。

    「そんなことがあって、私は政府が管轄する施設に入れられた。保護って名目でね」
     その施設で私は、あの『落ち武者』たちが『時間遡行軍』と呼ばれていることを知る。そして同時に、自分には物の心を目覚めさせ使役する、『審神者』としての適性があるのだと知らされた。
     けれど審神者の任務は、歴史を守ることだ。
     あの晩、遡行軍が言っていた。これからも雪が降り続けることは、後の世に史実として記されている。もし審神者になったなら、私はそんな歴史までも守らなくちゃいけなくなる。そんなの、理不尽だと思った。
     世界中の人々を苦しめている雪は、降り続けばこの先、さらなる悲しみを生むだろう。遡行軍は、それを止めるための力を貸すと言っていた。あちらに付けば、私はこの雪を晴らし、世界を救うことが出来るんじゃないか。そんな思いが、どうしても拭えなかった。
    「しばらく経って、せんせいが施設にやって来たの。自分が面倒を見よう、……って」
     遡行軍討伐の延長とはいえ間接的にでも自分が関わった一般人に、審神者の素質があるらしい。けれどその娘は、歴史修正主義者になりかねない心理状態にあるらしい。
     それを聞いた師匠は、私を自身の元に置き面倒を見ることを申し出てくれたという。
    「はじめのうちは反抗もしてたんだけど……。せんせいは私が疑問や反感をぶつけても、歴史改変が原因で起こり得るこの世界への影響を、懇切丁寧に教えてくれた。おかげで私の中にあった、おかしな正義感も落ち着いて。この人みたいになりたい、って思うことが出来た」

     そして、私は審神者になった。
     けれどその先で、新たな不安が沸く。
     師匠は言った。『あなたは恐らく、遡行軍に狙われやすい。本丸の守りを緩めてはいけませんよ』と。
    「私は、歴史修正主義者として目を付けられた。私をそそのかすために、奴らがまた現れるかもしれない。そしたら、貴方たちは邪魔者として折られてしまう」
    「考えすぎだ」
    「そんなことない!」
     豊前の反論が無責任に思えて無性に腹が立った。
    「過去を変えたいと一度でも願ったことがある私は、いつまた歴史修正主義の思想を持ってしまうか分からない。私が、時間遡行軍を生んでしまうかもしれない」
     私は、豊前の瞳を睨むつもりで見つめ返した。
    「その時は、豊前。……躊躇わないでね」
     躊躇わないで、私を討って。
     書庫にはシン……、と静寂が満ち、私の耳にはこめかみを打つ脈の音だけがうるさいくらいに響いている。
     豊前が、ふたつ、みっつと瞬きをして、濃い睫毛が空気を動かした。
    「そんなことには、ならねえよ」
     その声は、いやに落ち着いている。
    「審神者になってから、過去を変えたいと思ったことは?」
    「ない……。けど、これまで無かったからって、これからもそうとは限らないじゃない」
     《無》を証明することは難しい。
     極端な話、物だって出来事だって、それそのものが目の前に存在していれば、もう、それは《在る》と言うことが出来てしまう。
     けれど、《無い》ことをどうやって証明すればいい。今この時に誰の目の前にも存在していないだけで、この世のどこかには存在しているかもしれないのに。
     あるいは誰かの目には映っていても、《それ》だと認識されていないことだってあるだろう。
     形ある《物》ですらそうなのだから、最初から目に見えない《感情》なら尚のことだ。
     今この瞬間に無い感情、審神者になってからの数年間だけ抱かずに済んでいた衝動、それをこの先いつまでも持たずに居られるなんて、私はどうやって証明したらいい。
     けれど豊前は、私のそんな心なんて知らずに今日もまたこう言うんでしょう。
    「でーじょーぶだよ」
     ほら、やっぱり――。
     張り詰めていた心が、ぷつりと千切れた。
    「またそれ! でーじょーぶでーじょーぶって、何を根拠に言ってるのよ! 私が……、私が主だからって、従順にならないでよ! 優しい言葉なんて、かけないでよ!!」
     緊張していた肺から力が抜け、同時に悲鳴のような叫びが止まらない。
    「おい」
    「私は、審神者になる資格なんて無かったの!」
     自分の言葉に、心臓が凍った。
     そうだ、歴史を守る資格なんて、初めから持っていなかったんだ。自身の突きつけたナイフで、胸が張り裂けた。
    「今日の敗北だってそう。遠征だからって油断して、私が采配を間違えた。だからみんなにあんな怪我させて。もしかしたら私は心のどこかで、歴史を守ることにまだ疑問を持っているのかもしれない。……だから、負けた」
    「あるじ」
    「私ね、ずっと怖かったの」
     戦場が怖い。自分の手足のように刀剣男士を戦わせることが怖い。誰かの歴史を守る代わりに他の未来を奪う責任が怖い。自分の中にある、味方を裏切る可能性が――怖い。
     今日だって、負けたんじゃなく、無意識のうちに『負けさせて』いたのかもしれない。その可能性が否定できない。
    「逃げ出したい。全部投げ出したい。守る力も変える力も手放して、何の責任も背負わず生きていたい。知ってた? 豊前。私はね、そんなこと思いながら審神者をしてきたの。笑っちゃうでしょ。軽蔑するでしょ。貴方たちを命懸けで戦わせておきながら、私はそんなこと思ってた。主として失格でしょ? みんなみんな、私の所になんて来ないほうが幸せだったんだよ」
    「いいから、落ち着け!」
     気付けば私は、豊前の腕の中に居た。
     厚い胸板に圧迫されて、上手く呼吸が出来ない。
    「やめて! 離して!」
    「離さん!!」
     耳元で響く怒号に、身体がすくんだ。
    「俺が、あんたが主やけんちゅう理由じ心配ちょんのやち思うちょんなら、あんたは大馬鹿モンや」
    「じゃあ……、だったら、なんでよ。他にどんな理由があるっていうのよ」
    「マジで分からんのか」
    「分かんないわよ! ばか!!」
    「馬鹿はどっちか!」
    「はあ~!? 何よそれ!」
     売り言葉に買い言葉。言い合いは勢いを増すばかりだ。こんなことを言いたいわけじゃないのに。感情を抑えることもままならない自分が悔しくて涙が滲む。そんなことで泣いてしまう自分も腹立たしい。
     ぐいぐいと豊前を押し返していると、観念したのか、ようやく腕の囲いが解けた。
     そうかと思えば、今度は手首を掴まれる。
    「ちっと付き合え」
    「は!? 何、待ってよ」
     痛いくらいの力で腕を引かれるままに書庫を出て、転がり落ちるように階段を降りる。すれ違う皆がぎょっとした顔で振り返るのも構わず、ずんずんと廊下を抜けてゆく。
     そして庭に出て数分。連れて来られたのは、農場の脇に建てたガレージだった。中には軽トラックやトラクター、それにミニバンや豊前のバイクが収められている。
    「ほら、めっと。あと、俺の予備でわりいけど」
     そう言いながら、ヘルメットとバイク用のグローブ、それからライダースジャケットを手渡される。
    「え、これって」
    「付き合えっつったろ。そんな遠くまでは行かねーから、行くぞ」
    「なにそれ……」
    「いーから」
     ぎゃんぎゃん言い争った相手に身を任せてバイクで外出なんて、正気の沙汰じゃない。そう思いながらも、私は言われたままに渋々とジャケットを羽織っていた。袖が長くて、捲り上げないと手のひらまですっぽりと隠れてしまう。
     同じく豊前の予備だというグローブは指の関節ひとつぶん大きくて、ちょっとした拍子に脱げてしまいそうだ。
    「そーだ。足元……は、問題ねーな」
     既にバイクに跨っている豊前は何かに気が付いたように私の足元を見て、ひとり勝手に納得している。
     なるほど、スカートじゃバイクに跨れない。幸い今日は細身のパンツに踵の低いショートブーツ。安全面でも問題は無いのだろう。
    「ほら、乗れよ」
     促されるままに、私はバイクへと跨った。
     二人乗りどころかバイクに乗ること自体が初めての私に、豊前は座る位置や体重の掛け方を教えてくれた。
    「しっかり掴まっとけよー」
     私は無言で、豊前の身体に腕を回す。
     細身だと思っていた豊前の身体は、思いのほか筋肉質で厚かった。広い背中に、悔しいけれど緊張してしまう。
     豊前がアクセルを握り、エンジンがいななく。
    「じゃ、行くぞー!」
     ヘルメット越しでくぐもった豊前の合図とともに、私たちはバイクで駆け出した。
     地面からふわっと身体が浮く感覚に、私は思わず豊前へ回した腕へ力を入れていた。

       * * *

     本丸の敷地を徐行し、バイクは北門へと辿り着いた。
     私の管理している本丸は、安全面と利便性とを天秤にかけた結果、東西南北にそれぞれ門を構えている。四つの門のうち、面した先が裏山である北門は、他の門に比べ利用頻度は低かった。そのぶん監視する目も少なく、敵からも狙われやすいのではないかと私は考えている。
    「北野ー」
    「はあい、お呼びでしょうか」
     豊前に呼びかけられ、門の上から管狐が顔を出した。
     守りの穴になりやすいと分かっていながら門を無人にしておくわけにはいかない。かと言って、日々戦場へ出陣している刀剣男士に守衛をさせるわけにもいかないだろう。
     だから東西南北それぞれの門、それから敷地の中央に位置する出陣ゲート、それに審神者の執務室を守る任務は、うちでは管狐の役割だった。
     本丸を開いたばかりの頃は、彼らのことを「北の管狐」「東の管狐」と呼んでいた。けれどそれはいつの頃からか省略されて、「北野」や「東」といった愛称となっている。
    「少し主と出てくっからさ。開けてくんねえ?」
    「承知しましたあ。今しばらくお待ちください」
    「さんきゅーな」
     物々しい光と共に、大仰に門が開かれる。
     北野は、その少しばかりふっくらとしたシルエットから受ける印象通りの、のんびりとした口調で私たちに言った。
    「あんまり、お戻りが遅くなられませんようー」
    「おー。わーってんよー」
     ひらひらと手を振ると、豊前は再びアクセルを握った。

     バイクの上から見る景色は、むかし自転車を漕ぎながら見たそれよりもずっと速く通り過ぎてゆく。自動車と変わらない速度で生身のまま走っているようなものだ。けれど、この状況に対する不安は不思議と起こらなかった。
     日の傾き始めた秋の風が冷たい。けれど豊前の身体が温かくて、寒さを感じることもない。
     遠くの山は、いつの間にか紅葉に染まりかけていた。私は、いつから景色を見ていなかったんだろう。
     バランスを崩さないよう気を付けながら恐る恐る振り返ると、あぜ道にタイヤの跡が真っ直ぐ伸びていた。

     豊前に運ばれて着いた先は、裏山の中腹だった。
     視界いっぱいに、ドーム状の透明な結界に守られて本丸が広がっている。私は思わず感嘆の声を上げていた。
    「わあ……」
    「こっからだと本丸がよく見えんだ」
     グローブを脱いだ指先でヘルメットを外しながら満足気に豊前が言う。
    「遠出はできねーけどちょっと風に乗りたい時とか、よくここまで走ってくるんだ」
    「たまに姿が見えないと思ったら……」
    「良いとこだろ? 俺の一番気に入ってる場所だよ」
     豊前の視線を追い、本丸を見渡す。
     この本丸は、こんなにも豊かになっていたのか。
    「うん、いい場所だね」
     素直に、そう思った。あんなにもささくれていた気持ちは、いつの間にか凪いでいる。
     隣に立つ豊前が、何か言い辛そうに口元へ手をやった。
    「さっき、何を根拠に……、っつったよな」
    「そうね」
     私が癇癪を起こしたのも、それが原因だ。大丈夫だって言われても、それだけじゃ何も安心できない。けどそれが、今どう関係するというんだろう。
    「根拠とか難しーことはよく分かんねーけどさ。これ見たら、分かるよ」
    「え……?」
     言葉の意味が分からず豊前を見上げれば、彼は穏やかな瞳で本丸を見つめていた。
    「こんだけの敷地と、あんだけの数の男士を抱えて。ここまで本丸を育てんのに、どんだけの時間と労力が要った?」
    「えっと……、あれ、何年経ったっけ……?」
     審神者就任からの年月が咄嗟に思い出せず、思わず指折り数えてしまう。右手の指し示す数字に、私は驚くことしか出来なかった。
     そして、かかった労力は数字ではとても表せない。私は彼らに、一体どれほどの任務を課してきたんだろう。そして私自身、どうやってこの環境を整えてきたんだろう。
     隣で、豊前の声がする。
    「裏切るかもしんねえ奴や、なる資格のねえ奴が、こんなもん育てらんねえだろ」
     飾り気のないその言葉に、はっとする。また適当なこと言って。そう言い返したかったけれど、目の前の景色が口に出させてくれなかった。
    「ほんとに、そうかなあ……」
    「そーだよ」
    「……そっかあ」
    「おう」
     盆地に広がる、本丸の敷地。執務室や広間の入った洋風建築の本館、男士達の暮らす数寄屋作りの離れ、それに、畑や厩、鍛錬のための広場に道場。
     裏切るなんて勿体ないと思える景色が、ここにあった。
    「それから」
     不意に、豊前の声音が変わった。
    「俺が、あんたのこと心配してる理由」
     見上げれば、豊前が一歩距離を詰めていた。
     その瞳は、どこか切実で。私は思わず、身を守るようにして両の手のひらを身体の前に挙げていた。
    「待って」
    「待たねえ」
     ここから先は聞いてはいけないと直感が叫ぶ。根拠なんていらない。この直感は間違いない。
     聞いてしまったら、もう元の主従には戻れない。だから。
    「だめ」
    「だめじゃねえ」
     また一歩豊前が距離を詰め、私はその腕に絡めとられてしまった。間髪入れずに、耳元をくすぐる呼気がある。
    「好きだよ」
     囁かれた言葉に、私はその場に崩れ落ちそうになった。
     膝の抜けた私を豊前は軽々と支えてくれる。心臓が痛い。顔が熱い。口を動かしても、言葉が出ない。
    「なん、で……」
     やっと出てきたのは、そんな間の抜けた言葉だ。
    「なんでって、そりゃねーよ」
     豊前は、私を抱き締めたままけらけらと笑っていた。
    「共感性が高いってさっき自分で言ってただろ」
     それなのに分からないのかと豊前は面白そうにしているけれど、私はちっとも面白くない。納得が出来ずに腕を突っぱねると、私はようやく豊前の腕から解放された。
     一方の豊前はというと、いたずらを考えるような顔で首を捻っている。
    「そーだなー」
     そして、指を一本立ててみせた。
    「俺のことを見つけてくれたから、だな」
    「なにそれ」
     何故だか、嫌な予感がした。
     処理速度の落ちていた頭がいくらかの冷静さを取り戻す。
     けれど豊前は私の様子にも気が付かないようで、満面の笑みを浮かべている。
    「どこにあんのかも分からん、逸話もあんま残ってねえ。そんな俺を、あんたは見つけて、『俺』として本丸に迎え入れてくれた」
     ――なにそれ。
     もう一度思った。
     豊前の言葉に、高揚した気持ちがたちまち萎んでゆく。
     そんなの、刷り込みと変わらないじゃない。生まれたての雛が初めて見たものを親鳥だと思い込む。それと一緒だ。
    「……豊前は、勘違いしてるだけだよ」
     私の声は、思いのほか落ち着いていた。
    「勘違い?」
    「だって、それなら……。他のどこの豊前江も、審神者のことを好きになってる」
    「ん? それは、そーかもなあ」
     ほら、やっぱり。
     頬に上っていた血が、一気に引く気配がした。
     期待させるだけ期待させておいて、この刀はまたこれだ。自分から人のことを好きだのなんだのと言っておいて、こっちが否定すれば、それをそのまま受け入れる。
     だったら、最初から期待なんてさせないでほしい。
     俯いていると、豊前の履いた黒いブーツの爪先が視界の隅に映る。影が落ちるのを感じて見上げれば、覗き込むようにして豊前がこちらを伺っていた。
    「それじゃ、駄目なのか?」
    「え?」
    「よその俺がそこの審神者に惚れてるとして、それと俺らに、どう関係あるんだ? 自分とこの審神者に惚れ込むのは、わりーことじゃねーだろ」
    「それ、は……」
     そうかもしれない、でも、刷り込みで好きになられても。
     こんな『雛鳥』の言葉を真に受けて、良いんだろうか。
    「よそがどーとかは知んねーけどさ、少なくともあんたの俺は、あんたのことが好きだよ。勘違いなんかじゃねえ」
     豊前が、また一歩距離を詰める。
    「なあ。あんたは、俺の気持ちに応えてくれるか?」
     真っ直ぐに向けられた視線に耐えられず、目を伏せた。
     私は審神者だ。豊前は、刀剣男士だ。人と、人ならざるもの。主と、それに従うもの。そこに、恋愛は成立するんだろうか。
     豊前が私に寄せてくれている好意は、親鳥に向けた親愛だとか、主に向けた忠誠だとか、そういった類の感情じゃないだろうか。
     私には、判断が出来なかった。
     気付けばぽつりと、弱気な声が零れ落ちていた。
    「……ごめん。私じゃ、貴方の気持ちには、応えられない」
     豊前の身体が、ぴく、と揺れる。私は、後に続ける言葉が見つからなかった。ふたりの間を風が通り抜け、辺りの木々を揺らす。落ち葉が、カサカサと音を立てていた。
     長い逡巡があった。
     やがて降ってきた声は、痛々しいほどの空元気だった。
    「そっか。ごめんな。困らせたかったわけじゃねーんだ」
     はは、と、自嘲気味に乾いた笑いが響く。
    「自惚れてたな、俺」
    「違うの! 豊前のせいじゃないの」
     私は、勢いよく顔を上げた。
    「私が……、私に、意気地がないから……」
     豊前の言葉を信じていいか分からないなんて、とてもじゃないけど伝えることは出来なかった。
     見上げた豊前の顔は、くしゃりと歪んでいた。
     こんな顔をさせているのが自分だという事実に胸が痛む。
    「気持ちは、すごく嬉しい」
     私は、必死で言葉を探す。今さら何を言ったところで、慰めとしか取られないだろうに。
    「けど、私は審神者で、豊前は刀剣男士で。主と、それに従ってくれるひとで。人間と、神さま……で……」
     結局口から出てきたのは、使い古された言い訳だ。私は、こんなことしか言えないのか。私を勇気づけようとしてくれた豊前が、私のことを好きだと言ってくれているのに。
    「いーよ、気にしなくても」
    「豊前……」
    「ありがとうな」
     くしゃりと笑うと、何事も無かったように豊前は告げた。
    「帰るか」
     夕陽は今にも、山の向こうへ姿を隠してしまうところだ。そろそろ本丸に帰らないと、すぐ真っ暗になってしまう。
     ――帰る?
     私の頭から、更にもう一段階血の気が引いた。
     ここに来る時、私は豊前の運転するバイクの後ろに乗せてもらった。けれど今の状況で、同じように帰ることが出来るだろうか。答えは、いいえだ。いくら何でも、それは気まずい。豊前だって嫌だろう。
    「……わ、私は歩いて帰るから、豊前、先行って?」
    「ああ? 歩いたらどんだけかかると思ってんだ。そんなあぶねーことさせらんねーよ」
    「でも……」
     振った直後に、振った相手が運転しているバイクに乗る。どこに連れて行かれるか分からない不安が全く無いと言ったら嘘になる。その相手がたとえ、自分が率いている刀剣男士だとしてもだ。
     悲劇自慢のように自分の過去を語って、慰めてもらったにも拘らず一方的に癇癪を起こし、好きだと言われればすげなく振る。その上、帰る時になって不安を抱くなんて。ここ半日での身勝手さを振り返り、自己嫌悪が加速する。
    「心配いらねーよ。変なことはしねえから」
    「ちがっ……!」
     反射で声を上げたけれど、心の内を見透かされているようで私は返す言葉もない。
     豊前は、困ったように笑っていた。
    「信用してくれ……、つっても難しいか」
    「信じてるよ」
    「そっか」
    「……当たり前じゃん」
     間髪入れない答えは、白々しかったろうか。豊前の声が穏やかで、胸が痛む。痛める資格なんて、私には無いのに。
     結局私は行きと同じく、バイクに跨って目の前の広い背中にしがみつく。
     帰りの道はひどく寒かった。豊前の背中は、変わらず温かいはずなのに。
     視界が涙で滲んでいるのは、そう、山の陰に消える太陽をうっかり直視してしまったせいに違いない。



       三、
     裏山での一件の翌日、豊前に合わせる顔のない私は近侍に五虎退を任命した。あからさますぎるけれど、下手に気まずい思いをして任務に支障が出るより多少はましだろう。
     そうは言っても任務に私情を持ち込んでしまうなんて、ひどく情けないことだ。
     長らく近侍だった豊前の解任、それにあの日、私が豊前に腕を引かれ出て行ったところを複数名に見られていたということもあり、私と豊前の間に何かあったのだろうという憶測は流れているらしい。その空気は感じつつも、誰からも言及されなかったことがありがたかった。
     五虎退も、私から任命を聞かされた時には「僕でいいんでしょうか」と困ったような顔を一瞬していたけれど、すぐに笑顔で「わかりました」と答えてくれた。審神者就任時から共に居る懐刀は、期待以上に頼もしかった。
     そして、あれから早くも一週間が過ぎた。今日もこの本丸は、つつがなく機能している。

     午後一番に出陣した部隊が帰還し皆の手入れが済んだ頃、本丸の南端に位置する門、正門を守る管狐から執務室へと通信が入った。
    『審神者さま』
    「どうしたの、みなみ」
    『政府の職員と名乗る者が、審神者さまとの面会を求めております』
    「面会?」
    『ええ』
    「政府の者が事前の連絡も無しにやって来るなんて、一体どういうことでしょう」
     机の上にいた管狐、こんのすけが宙に映し出されたモニタを覗き込む。
    「そうよね。電話なりメールなりしてくれればいいのに」
     違和感を覚えながら私もモニタを見れば、正門から送られてきた映像にはスーツ姿の小柄な男が映っていた。歳は、私と同じくらいだろうか。黒髪を後ろへ撫で付けたその男は、見たことのない顔だった。
    「みなみ、職員コードを読み取らせてもらって」
    『かしこまりました』
     本来ならば事前に発行した訪問者コードを照合して本人確認を行うけれど、急用ならば仕方ない。本音を言えば、たとえ訪問の一時間前だったとしても連絡が欲しかったところだけれど。今さら言っても意味のないことだ。
     代わりに政府職員の持つ個人のコードからから本人の確認をすれば、セキュリティ的にはひとまず及第点だろう。
    『職員番号E76S882905G、文化庁時間軸保全課所属、一宮和宏。確認完了しました』
    「分かった。そのままお待ちいただいて」
    『かしこまりました』
    「五虎退。申し訳ないんだけど、さっきの戦績資料、先にまとめておいてもらえる?」
    「はい、あるじさま」
    「ありがとう。端末の使い方とか、分からないことがあったらこんのすけに聞いてね」
     何のための訪問かは分からないけれど、近侍同伴である必要はないだろう。
     モニタには、正門前に立つ男の顔がアップで映し出されている。やっぱり、初めて見る顔だ。
     私は彼を迎えるべく執務室を後にした。

       * * *

     正門の手前で、みなみに声を掛けた。返事と共に、観音開きの扉がゆっくりと開かれる。
     政府職員を名乗る男と対面する。質のいいスリーピースのスーツを着たその男は、切れ長の目に笑みを湛えていた。男の背丈は、加州清光と同じくらいか。
     私は、男へと声を掛けた。
    「お待たせして申し訳ありません」
     事前に連絡があれば、お待たせることも無かったんですけどね。心の中で、ささやかに付け足す。
     男は、穏やかに眉尻を下げた。
    「いえいえ、こちらこそ。お忙しいところへお邪魔し、心苦しく思っております」
     正直、胡散臭い。
     そういえば聞いたことがある。政府の中で、怪しい薬だのおかしな任務だのが研究されている、無作為に選ばれた本丸がその治験をさせられる……、と。いや、まさかそんなこと。タチの悪い都市伝説でしょう、とは思うけれど、この男の顔を見ているとあながちただの噂とも思えない気がしてくる。
    「こんなところで立ち話というわけにもいかないでしょう。どうぞこちらへ」
     一体何をしに来たんだ。警戒心が漏れないように笑顔を張り付け、私は本館へと男を先導した。

       * * *

    「それで本日は、どういった御用件でいらっしゃったのでしょうか」
     応接室で茶を出し一息つくと、私は男へと切り出した。
     事前の連絡も無しに突然やって来たんだ。これでくだらない治験や任務の話だったら、即刻お帰り願いたい。
     男の背後に面した窓からは、傾き始めた日に照らされる紅葉した桜の木が覗いていた。
    「ああ、これは失礼いたしました。そうですね……下手な前置きは省きましょうか。端的に申し上げます」
     男が、恍惚と口角を上げた。
    「あの冬を、防ぎたいとは思いませんか?」
    「えっ……?」
     ぞわり。全身が総毛立つ。『あの冬』――、その響きに、何も感じないはずがない。
     男は、刻み込むように一言一言ゆっくりと告げる。
    「よく覚えておいででしょう。――あの、十五か月の冬を」
     ざっと音がしそうなほど、頭から急激に血の気が引いた。視界が、ぐにゃりと歪む心地がする。
     脳裏に広がる、灰色の空。人気のない町。溶けては積もりを繰り返す雪。押し寄せる、記憶の底に埋めた感情。
     男が、おもむろに立ち上がった。
    「あれは間違った歴史の上に描かれた世界だったのです。間違いは、正さなければならない……、そうでしょう? 誤りを正すための戦士たちを、過去へと送り込むのです。貴女には、その将たる器がある。」
     にぃ。男の口角が、裂けたかと思うほど吊り上がる。
    「貴女を、お迎えに上がりました」
     胸に手を当て、男が頭を垂れる。邪悪な気が迸り、私は思わず腕で顔を庇った。まさか、これほど強い力を隠していたなんて。
     強い力を持つものは、その分、それを隠すことも巧みだ。かつて教わったことを今さら思い出し臍を噛む。思い出すのが、せめて門を開ける前だったなら――。
     私は、必死で口を開いた。
    「あの冬は、終わった……!」
     そう、あの冬は、十五か月で春を迎えた。あの頃の私には終わりの見えなかった冬だけど、それが永遠ではないと今の私は知っている。
    「終わらせようと言っているわけではありません。はじめから、無かったことにしようと言っているのですよ。あんな歴史、あってはならなかったのですから」
    「いい加減なことを」
     この世界は、間違った歴史なんかじゃない。これ以上、惑わせないでくれ――。
    「あるじさま! 伏せてください!」
     遠くからの呼び声に、私は咄嗟に椅子を降り身を伏せた。
     勢いよく硝子が割られる涼やかな音が、部屋中に響く。
     私が事態を理解するより早く、何かがぶつかる鈍い音、そしてゴボリと水の溢れる音が続いた。
     しゃらしゃらと硝子の破片が降り注ぐ様子を、頭を庇う自分の腕の向こうで感じる。
     しばらくしてその音が止んだことを確認すると、私は恐る恐る顔を上げた。
     目に飛び込んだのは、逆光を背に立つあの男。その胸からは銀色に光る切っ先が覗いていた。先端から粘り気のある滴が落ちる。
     男を背後から貫いたのは、白い髪、白い肌を持つ、男の胸元ほどしか背丈のない少年。
     執務室に残してきたはずの、五虎退だった。
    「交渉決裂か……。まあ、いい。この本丸の位置は……、既に、こちらの手の内……」
     ごぼごぼと血を吐きながら男が呻く。
    「私に、何かあれば……、直ちに、ここへ攻め込む手筈となっている……」
    「いつまでも苦しいのは、嫌、ですよね」
     優しく告げると、五虎退が獲物を引き抜いた。
     栓を失った身体が赤黒いものを噴き出し、ぐらりと傾ぐ。
    「歴史の修正を、望む……、者よ……」
     ニタリと笑うと男の姿は掻き消えた。その様は、まるで燃え上がる半紙――、時間遡行軍の最期だった。
     床にへたり込んだままの私を、五虎退が支えて立ち上がらせてくれる。
    「五虎退、どうして」
    「下から急に嫌な気配を感じたので、虎くんに乗せてもらって飛び降りてきました。そしたら、あの男が……、ああっ! 窓、割ってしまってごめんなさい!」
    「良いのよ、謝らなくて。守ってくれてありがとう」
     思いもよらないことで慌て出した五虎退に、私はつい笑ってしまう。付喪神なのだから物を大切にするのも当然か、と、今さらながら思い出す。頭を撫でると、五虎退は照れくさそうに「えへへ」とはにかんだ。
     窓の外を見ると、五虎退の虎くんが毛を逆立て正門方向へと唸り声を上げている。
     正門の扉を封じる結界にびりびりとした圧が加わっていることは、私もさっきから感じていた。
    『私に、何かあれば……、直ちに、ここへ攻め込む手筈となっている……』男の、今際の言葉を思い出す。
     携帯端末が、正門からの通信を受け取った。
    『南方より敵多数接近!』
     本当に男の言った通りになった。まさかそれが、こんなに早いとは。携帯端末のロック画面から、政府の担当部署へ救援信号を送信する。
     そして私は、その端末を通し刀剣男士たちへと命令した。
    「総員、戦闘準備!!」
     敷地のあちこちから私の声が木霊する。間髪入れずに、本丸中で刀剣男士の気配が膨らんだ。
     窓の向こうでは桜吹雪の柱が複数、天に向かって伸びている。あの下に立つ誰かが、戦装束を身に纏ったんだろう。
    「あるじさま、今のうちに上へ」
    「ええ、そうね」
     ここに居るより、設備の整っている執務室のほうが指示も出しやすい。敵が攻めてくる前に、一刻でも早く辿り着き少しでも守りを固めておいたほうがいい。
     私たちは、荒れ果てた応接室から駆け出した。

     * * *

     執務室を目指し階段を駆け上がる。甲高い足音が耳に響いた。呼吸が苦しいのは、きっと走っているせいだ。大丈夫、狼狽えてなんかない。大丈夫。だいじょうぶ――。
    「あるじさまは、歴史修正主義者なんかじゃありません」
    「っ……」
     隣を走る五虎退を振り返る。琥珀色の瞳は澄んでいた。
    「あるじさまは、歴史を守るためにご自分を律している。立派な審神者です。あんな奴の言葉に惑わされる必要なんて、全然ないんです」
    「……、ありがとうね。五虎退」
     誰かさんの紅い瞳が重なった。

       * * *

    「審神者さま! 心配しておりました!」
     執務室の扉を開けるなり、跳び上がらんばかりの勢いでこんのすけが飛び出してきた。私は、その頭をわしわしと撫でてやる。
    「心配かけてごめんね。ありがと」
    『敵の到達まで、あとおよそ一分!』
     みなみからの報告に、私は立ち上がると窓の外から見えないよう目眩ましの結界を張る。けれど部屋の扉を固めることはしなかった。負傷した刀剣男士がいつでも駆け込んで来れるようにだ。手入れ部屋ほどの設備は整っていなくとも、人間相手の応急処置程度の手当ならここでも出来る。
     デスクにつき、可能な限りのモニタを宙に展開する。
     出陣帰りの第一部隊は半数が手入れ部屋、第二から第四部隊も遠征任務中だ。遠征部隊が戻るまでは、残り二から三時間。呼び戻すことも可能だけれど、下手に呼び戻して被害を増やすよりは遠征任務を続けてもらったほうが良いかもしれない。
     さて、幸い主力は残っているけれど、ここからどう守っていくべきか――。
    『残り三十秒!』
     悩んでいる暇はなかった。
    「籠城戦なのだからこちらが有利。各自、敵を倒すのではなく身を守るための構えを取りなさい!」
     そもそもこれは、私が狙われた結果の襲撃だ。それに、私が招き入れたせいであの男は結界の内側へ潜り込めた。
     私の迂闊で、皆を巻き込んだ。せめて、尻拭いは自分でしなきゃならない。
     私は、結界に意識を集中した。その瞬間。
    「っぐ……!!」
    「うわ!」
     地震のような衝撃に、本丸全体が揺らぐ。
     モニタを見れば、敵の苦無や短刀が無数に、正門へ体当たりを行っていた。まだ辿り着いていないけれど、打刀や太刀、遠くには槍や大太刀の姿も見える。奴らの攻撃を受けてしまえば、私の張った結界はひとたまりもないだろう。
     結界に加わる圧が、疲労となり私の身体に伸し掛かる。頭が重い。私は堪らず、デスクに肘をつく。呼吸も苦しくなってきた。悔しいけれど、結界の限界もそろそろか。
    「五虎退、今のうちに、手当の準備を」
    「はい、あるじさま」
     またひとつ、地鳴りが襲う。
    『っ、まだまだァ……!!』
     乱れた通信の向こうで、みなみが唸り声を上げた。
     私は指を組み、目を閉じる。
     お願い、どうか割れないで――。

     ピシ、と。
     頭の中で、堅い物のひび割れる音がした。
     かつてないほどの揺れと共に、轟音が辺りに響く。
    『正門、突破されました……!』
     無念の声が、スピーカー越しに響いた。
    「敵の狙いは私よ! 負傷者は戦闘を続行せず、安全圏に退避して身を隠すように!」
     本丸には、万が一の事態に備え隠し扉や地下シェルター等いくつかの避難場所を用意している。
     誰ひとり、折れるなんてことあっちゃいけない。お願いだから、無理はしないで。
     正門と本館の間に広がる庭で、こちらの短刀と脇差たちが敵に応戦していた。骨喰の両手をジャンプ台にし、乱が宙を舞う。腰に付いたリボンをはためかせながらくるくると回転し、敵打刀の脳天に一撃を食らわせた。
     破られた正門以外も油断できない。残る三箇所の門を見れば、そこでは既に、薙刀と槍がそれぞれ一名ずつ組になり守りを固めてくれていた。皆、修行を終えた身だ。彼らなら万が一の急襲にも対応できるだろう。
     正門からは、わらわらと遡行軍が押し寄せている。まだ誰も負傷していないとはいえ、油断はならない状況だった。
     そんな中、廊下にばたばたと足音が響いた。
    「主!」
    「豊前!? 何でここに」
     駆け込んできたのは、正直、顔を合わせたくない相手、豊前江だった。こんな時だっていうのに気まずさを感じる余裕のある自分には呆れてしまう。
     豊前に、負傷している様子はない。伝令なら無くとも、通信で事足りる。何か、ままならないような不測の事態でも起きたのだろうか。
     けれど豊前の言葉は、予想だにしないものだった。
    「逃げっぞ」
    「はあ!?」
    「奴ら、ここに気付いちまった。外で桑名と松井が防いでくれてっけど、それもいつまでもつか」
     眉間に皴を寄せ険しい表情の豊前から、焦りが伺える。
     けれど豊前の言葉に「はいそうですか」と従うわけにはいかなかった。
    「でも、ここを離れたら皆に正確な指示が出せない」
     携帯端末からも指示は出せるけれど、同時に確認できる映像は一面だけ。今のように複数の箇所を同時に確認して判断することは出来なくなってしまう。
    「指示なんて出されなくても、自分らで考えて戦える」
    「私があいつを招き入れたからこうなったのよ!? それなのに私だけ逃げるわけにはいかないじゃない!」
    「もしあんたに何かあったら、この本丸は終わるんだよ。全滅だ。考えたくもねーけどな」
     言いながら、豊前が私の腕を引く。されるがままに立ち上がった私の目を真っ直ぐ見据え、きっぱりと告げた。
    「あんたが責任感じてるってんなら、あんたは責任もってこの戦いで生き残れ。だからって、降伏もすんな。それが、あんたの務めだよ」
    「そんな……」
     私は、なんと答えたら良いのか分からなかった。けれど迷っている間にも、私を置き去りに計画は進んでゆく。
    「あるじさまのこと、よろしくお願いします」
    「ああ。任せろ、五虎退」
     再び廊下に足音が響く。息を切らして飛び込んで来たのは、今度は桑名だった。
    「豊前! 今ならこっちの窓から逃げられる」
    「おう、ありがとな」
    「待って、私まだ逃げるなんて一言も」
    「いーから、掴まってろ」
    「ひゃ!?」
     足の裏が床から離れたかと思うと、私はそのまま横抱きにされていた。
    「え、ちょっと、待ってよ!」
    「こんのすけ、ついてこい」
    「もちろんですとも!」
     私の抗議も無視して豊前が声を掛けると、こんのすけは両の前足で器用に豊前の肩へ掴まった。
    「五虎退、ここは任せたぞ!」
    「はい!」
    「ねえってば!」
     執務室を飛び出し、江の男たちは狭い廊下を駆け抜ける。向かう先を見れば突き当たりにある観音開きの窓が左右に大きく開いていた。西日が何にも遮られずに、ぎらぎらと床を照らしている。
    「桑名、もしもの時は援護頼む!」
    「もちろんだよ」
     私を抱える豊前の腕に力が籠められた。脚を緩める気配はない。豊前の狙いを理解した私の背を、冷や汗が流れた。
    「えっ、まって」
    「舌噛むなよっ!!」
     豊前は叫ぶと、一層強く床を蹴る。そしてそのまま、空へと飛び出した。刀剣男士たちの生活する離れとそこへと繋がる渡り廊下が眼下に見える。
     ふわりと脳が揺れたのは一瞬だった。風を受けながら、私たちは心臓を置き去りに落下する。
     豊前の肩から垂れる赤い幟旗が、空を打ち音を立てる。
     私は、豊前にしがみつくことしか出来なかった。
     叫んだら敵に気付かれる。残っていたのは、そう考える理性だけだ。必死で歯を食い縛る。
    「……っつ」
     着地した豊前が、小さく声を漏らす。
     窓からの脱出劇は、着地してみれば一瞬の出来事だった。とはいえ、どくどくと脈打つ心臓は早々には鎮まってくれやしない。
     渡り廊下の陰に着地した豊前は、土足のまま離れへと足を踏み入れた。
     狙われているのはその名の通り「本丸」である本館だけだったようで、こちらは静けさに満ちている。本館前で続く戦闘の音だけが、遠くから耳に届いていた。
    「豊前」
    「ん、なんだ?」
     ひそひそと豊前に声を掛ける。答えた豊前の顔が近くて、私の喉からは「ひっ」と音が漏れた。
    「そろそろ、降ろしてほしいんだけど……」
     執務室を飛び出して以来、私はずっと抱えられたままだ。
     こんのすけだってもう床へ降り、自分の足で歩いている。私も自分で歩きたい。というか、いつまでも豊前に抱えられたままでいることが恥ずかしい。
    「だめだ。足音すんだろ」
    「ええ、そんなの豊前だって……」
     言いかけて、私は口をつぐむ。言われてみれば、豊前の足音が聞こえない。しかも土足のままだというのに。
     すると私の疑問に気付いたように、こんのすけが小声で解説してくれた。
    「武人たるもの足音のひとつやふたつ消すことなど容易いのですよ。刀剣男士も、また然り」
    「そういうもん……?」
     さっき部屋に飛び込んできた時はあんなにドタバタ走っていたのに。意識して歩くだけでこんなにも変わるものかと、内心で舌を巻いた。

       * * *

     豊前の向かった先は、彼の私室だった。
     この部屋は、数寄屋造りの中庭に面している。中庭の向こうは、他の男士の私室だ。もし遡行軍がこちらの建物に目を付けたとしても、外側にある部屋よりはいくらか見つけづらいだろう。
     遠くで、戦闘の音が響いている。
     敵を阻んでくれていた桑名や松井、それに執務室に残してきた五虎退は無事だろうか。
     携帯端末で畳の上にモニタを展開し、本館入口の様子を映し出す。表示された映像に、私は思わず声を漏らした。
    「松井!?」
     松井が、地面に膝をついている。どこか怪我をしているのかもしれない。
     呼びかけようと、マイクのミュートを解除する。けれど、すかさず豊前に口を塞がれた。
    「ばっ……か、ここで大声出して遡行軍に気付かれたらどーすんだ」
    「そんなこと言ったって」
     再びマイクをミュートにし、ひそひそと応答する。
    「見ろよ。周りに敵は居ねえ。ほら、桑名も居る」
     モニタに視線を戻せば、桑名が松井に駆け寄っていた。
    「さっきも言ったろ。指示出されなくても、自分らで考えて戦える」
     その言い方は、ずるいと思った。まるで、指示を出したら私が男士たちのことを信用していないみたいじゃないか。
     苛立ちが顔に表れているだろう私を無視して、豊前が部屋を見渡した。
    「結界張れっか」
    「張れるけど、それならあっちに居ても良かったじゃない」
     わざわざ私だけ逃げて来なくとも、執務室に籠城することだって出来た。とはいえ、男士たちがいつでも逃げ込めるよう、あの場に結界を張るつもりは無かったのだけれど。
     そんな私に、豊前はきっぱりと首を振った。
    「こっちの部屋のほうが狭え」
    「え?」
    「同じ量の力使うんなら、あっちよりこっちのが強い結界張れんだろ?」
    「……よく分かってんじゃん」
    「伊達に長いこと近侍やってねーよ」
     解任したことを思い出し、耳が痛い。
    「だいたい、攻め込まれんの分かっててそのまま居させとくわけにはいかねーだろ」
     独り言のように、豊前が呟いた。

       * * *

     日は、既に随分と傾いていた。障子が赤く染まっている。
     戦闘の音が、徐々にこちらへ近づいている。私たちの逃げ込んだ先に、奴らも気付いたのかもしれない。
     そんなことを考えた時だ。
     ぴり。空気の変わる気配がした。
    「来るぞ」
    「うん」
     豊前が、刀の柄に手を掛けた。
     じりじりと敵の気配が近づいてくる。
     私は緊張に息を詰めた。
     敵は、どこからやって来る。
     隣の部屋か、それとも、上からか。
     空気が揺れる。
     障子の向こうに、突如として巨大な影が現れた。
    「大太刀……!」
     あの怪力で押されて、結界が耐えられる自信はない。
     障子に映る影が、巨大な刃を振り上げる。
     構える間もなく凶器は振り下ろされ、部屋を守る結界が激しく揺すられた。
    「うぅ……っ!」
    「審神者さま!」
     畳に手をついて衝撃をやり過ごす私の元に、こんのすけが駆け寄ってくる。
     隣に立つ豊前が低く構え、鯉口を切る気配がした。見上げれば、刀が鞘からすらりと抜かれてゆく。
     障子の向こうを見据えながら、豊前が口を開いた。
    「俺が合図したら、結界解いてくれ」
    「は!? 正気!?」
     敵が目の前に居ると分かりながら結界を解く。そんなの、とんだ自殺行為だ。
     けれど豊前の声は自信に満ちていた。
    「いーから、俺を信じて」
    「……分かった」
     このままじゃ、結界が破られるのも時間の問題だ。だったら、ここで力を使い切るより豊前の策に賭けてみるのもありだと思った。何をする気かは、知らないけれど。
     障子の向こうで大太刀が獲物を振りかぶる。
    「今だ!」
     掛け声に合わせ、結界を解く。それと同時に、豊前が空いた左手で障子を開け放った。
     目の前に立ち塞がる黒い影を目に留めるより早く、銀色に光る豊前の一撃が大太刀の腹に赤い一文字を描く。
     体勢を崩した大太刀は、けれど引くことは無かった。
     闇雲に振り回された切っ先が豊前の左腕を掠めたのか、血潮が舞う。
    「豊前!」
     喉から、引き攣った叫びが上がる。
     縁側から飛び出した豊前が、地を蹴った。
    「おせーんだよ!!」
     刃が、大太刀の喉元に深々と突き立てられる。
    「見えたか? ああ、疾すぎち見えんかったか」
     豊前が遡行軍を低く煽る声が、風に乗ってこちらへ届く。
     敵の胸を蹴り刀を引き抜くと、豊前は軽やかに中庭へ降り立った。刃に付いた敵の血を振り落とす。刀はくるりと円を描くと、静かに鞘へと納められた。
     遡行軍は、腕の先からはらはらと零れ落ちていく。そして、この世に一片も残すことなく空へと消えていった。
     差し迫った危機はひとまず消え、油断はならないと分かりつつも私の肩から力が抜ける。
     けれど、安堵する心は長くは続かなかった。
    「じゃ、そこで大人しくしてろな」
    「え?」
     夕陽を背に振り返った豊前が、鮮やかに笑っていた。
     焼けるような夕陽。屋根の向こうに見える山も、山を覆う木の葉の色で燃えるように赤い。
     不吉な予感がした。
     豊前が足早にこちらへ帰ってくる。
     私は足を縺れさせながら立ち上がり、縁側に上がる豊前へと駆け寄った。堪らなくなって、袖口を掴む。
    「まって! 置いてかないでよ」
     このまま手を離してしまったらどこか遠い所へ行ってしまいそうで、気付けばそう叫んでいた。
    「でーじょーぶだよ、俺はどこにも行かねえ。ぜってー帰ってくっから」
     豊前が、場に不釣り合いなほど穏やかに笑う。
    「貴方の『でーじょーぶ』は信用出来ないって、前にも言ったじゃない」
    「そーだったな。わりぃ」
     トン、と、ごく軽い力で肩を押されるのを感じた。
     ぐらり。視界が傾いてゆく。
     ――待ってよ。
     閉じられてゆく障子の狭間で、豊前が微笑んでいた。
     炎を思わせる夕陽の色が、薄い紙の向こうに透ける。
     伸ばした手は虚しく空を掻き、私の視界はいつの間にか天井を映していた。
    「ぷぎゃ」
     頭の下で、こんのすけが呻く。頭をぶつけないよう、庇ってくれたのだろう。
     そんな私を無視するように、豊前の気配が部屋の周囲を覆ってゆく。結界が張られようとしていた。
    「わりぃ」
     障子の向こうで、もう一度謝罪の声がした。
     それは、一体何に対しての謝罪なの? 転ばせたこと? 閉じ込めたこと? それとも、ここに置いていくこと?
     抗議の言葉はいくらでも浮かぶのに、それは何ひとつ声にはならなかった。
     私は、のろのろと起き上がる。
    「俺、こーゆーのあんま得意じゃねーからさ。また奴らが来た時にこれで守れるとは思えねーんだ」
     凛と張り詰めた空気が、部屋を満たす。
    「だからちゃんと、内側からも張るんだぞ」
     豊前の影が、踵を返した。
    「まって!」
    「あ、そーだ」
     私の声に応えるように、豊前が立ち止まる。
     けれど続く言葉は、私の求めていたものとはまるきり違っていた。
    「待ってる間、退屈だろ? そしたら、机の引き出し開けてみてくれ」
    「え……?」
     言葉の意味が理解できずに、頭の中で繰り返す。退屈? 引き出し? 豊前は、何を言っているんだろう。
    「じゃ、行ってくるよ」
     再び、豊前が歩き出す。
    「豊前! 待ってよ豊前!!」
     障子を開けようとしても、内側から叩いても、解除しようとしても結界はびくともしなかった。
     攻撃に対する耐久力は、私の作る結界のほうが間違いなく強い。これは断言できる。かと言って、豊前の張った結界だって人間の力でどうにかできるほど弱いものでは無かった。付喪神の張る結界だ。当然と言えば当然だった。
     構造も、私が作るものとはまるで違う。解除方法が、分からなかった。
     すぐそばで、激しい戦闘の気配がする。けれど敵は皆、この部屋へ辿り着く前に倒されているようだった。
     携帯端末で映し出す映像を、離れ付近に切り替える。
     戦闘には、本丸の総力が注がれていた。遠征に出ていた各部隊も、帰還するなり加わってくれたようだ。
     戦う術を持たない私は、モニタ越しに祈ることしか出来ない。それは、この部屋に閉じ込められていようがいまいが変わらない。
     そんな自分が不甲斐なかった。拳を握る手に、力が籠る。
    「審神者さま」
     こんのすけが、小さな前足を私の脚に添えた。スカートの生地越しでも、肉球の温もりが伝わってくる。こんのすけの眉は、器用に八の字を描いていた。
    「ありがと」
     私は、その白い後頭部に手を添えた。
     ――あたたかい。
     そのあたたかさで、肩に入った力が緩む。緩んだ拍子に、鼻の奥がツンとした。

     こんのすけの柔らかい毛並みを撫でるうちに、記憶の中で何か瞬くものがあった。
    「そうだ、引き出し」
     さっき豊前が、机の引き出しがどうとか言っていた。待っている間、退屈だろう、とも。
     退屈なんて、するはずがない。不安で不安で堪らない。
     だからこれは、退屈を凌ぐためじゃなく不安を和らげるためにするんだ。私は、文机の引き出しへ手を掛けた。
     引き出しの中には物がほとんど入っていなかった。その一番上に、一通の封筒が置かれている。
     ところどころ墨の滲む、力強い筆致で書かれた宛名は。
     ――『主へ』。
     私は、震える手で便箋を取り出した。
















    拝啓
     晩秋の候。朝晩冷え込みますが、俺の膝枕がなくても主は眠れているでしょうか。
     俺は最近、何故だかよく眠れません。

     とまあ、堅苦しいのはこのくらいにしようか。
     急に俺からの手紙受け取って、主もおどろいてると思う。
     俺も、自分が手紙を書く日が来るとか考えてもなかったよ。松井が言ってくれたんだ。口で言い負かされるなら、ちゃんと考えてから手紙で伝えたらいーんじゃねーかって。
     あの日、俺すっげーかっこ悪いけど、主に振られただろ? そん時は、しかたねーか、さにわの立場ってのも色々大変だもんな、って、一旦は納得しようとしたんだ。
     けどな、あれからすっげーモヤモヤして、落ち着かねーんだ。
     近侍から外れて、あんたに会える時間はほとんどなくなって、いや、別に、あんたに会うために近侍してたわけじゃねえはずなんだけど。
     改めて気付かされたんだ。もっと、一緒にいたい。いさせてほしい。って。
     こんなこと言ったらあんたはまた、ばかなこと言ってないで真面目に仕事して、とか言うのかもしれねーな。
     主、俺の言ったことに納得いかねーみてーだったからさ、俺もちゃんと考えたんだ。あんたの、どこが好きなのか。
     いっつも頑張ってるとこが好きだ。頑張りすぎてぶっ倒れるんじゃねーかって心配になる。だから目が離せねえ。気付いたら目で追っかけてた。近侍の仕事してる時も、ちょいちょい見てたんだけどなあ。主、ぜんっぜん気付かねーの。ちょっと悔しかったよ。
     いっつも俺らのこと優先にすんのは、そーだな、あんま好きじゃない。もっと自分のこと考えてほしい。ちゃんと休んでくれ。あと、限界来るまでためこまねーで、弱音はちゃんと出してくれよ。悪い、説教くさくなっちまったな。

     最初にも書いてっけど、あれから寝付きが悪くてさ。よし寝るかー、って布団入っても、なーんか、モヤモヤっつーか、ざわざわっつーか。なんかの拍子に松井にそれ言ったら、理由は分かりきってるだろって。そーだ、悪い。主に振られたって、そん時に話しちまった。急に近侍外されたから何かあったんだろうってのは、松井も気付いてたらしいよ。振られたってのは、さすがに予想してなかったらしーけど。
     あるじ、やっぱ俺、あんたのことが好きだよ。あんたは勘違いだなんて言ったけど、俺はそうは思わねえ。これ読んでも、あんたはまだ、勘違いだと思うのか?
     あんたの気持ちだって、ちゃんと聞かせてもらってねえ。こないだ言ってたのは、さにわだからだの、主従だからだのそんな理由ばっかりだ。俺の気持ちを嬉しいって言ってくれたよな。あんたは、俺のことどう思ってる? それを聞かせてほしい。そりゃ、ムリにとは言えねーけどな。でも、この手紙を読んでくれたなら。たのむよ。

     それでは、主のご健勝と我らが本丸の更なる発展を願って。
     俺も、精進するよ。
                                    敬具
    十一月吉日

                                   豊前江
    審神者
















    「ばっ、かじゃないの……」
     手紙を両手に握り締め、私は畳へと突っ伏した。い草に当たり、便箋がカサリと音を立てる。
     こんな、柄にもないことをして。
     こんなタイミングで、こんなもの読ませて。
     ぎゅうと、胸が締まる。
     共に危機に面したふたりは恋に落ちやすいという定説が頭をよぎる。豊前からの気持ちは、刷り込みかもしれない。それと同じように、私の気持ちも錯覚かもしれない。
     でも、それでもいい。
     今の私は、ひとりの人として、豊前のことが好きだった。
     認めるしかない。この気持ちに正直になりたいと思った。理由なんて、根拠なんて、もうどうだっていい。
     一刻も早く豊前に謝りたい。そして、私の気持ちをちゃんと伝えるんだ。
     そう思った時だ。
     視界の端で、何かが光った。
     振り返れば、モニタから緑の光が溢れている。
    「えっ、うそ。やだ」
     その光には見覚えがあった。これは、刀剣男士が命を燃やす焔の色だ。
     心臓が警鐘を鳴らし、呼吸が浅くなる。一体、誰。捨て身の攻撃をしているのは。
     光源を探し、モニタを拡大する。酸素が頭を一気に駆け巡り、私をけしかける。
     画面の隅を、赤い影が掠めていった。
     反射で、その影の向かう先を追う。
    「豊前!!」
     陽の落ちた庭で、負傷し胸元のはだけた豊前が、ひとり遡行軍の間を駆け抜けていた。
     薙刀、槍、そして大太刀。豊前が去った傍から、奴らはあっけなく霧散する。
     最後の欠片が視界から消えると共に、本丸に満ちた敵の気配も消え去った。
     豊前が、地に片膝をつく。鞘で身体を支えるのが精一杯に見える。
     けれど部屋を囲う結界は、未だ堅牢なままだ。部屋を飛び出したい気持ちを抑えるために、私はこんのすけを抱き締めた。

       * * *

     こんのすけを抱えうずくまっている間に、一体どれほどの時間が経ったのだろう。辺りはすっかり宵の闇に包まれている。
     足を引きずり、こちらへ近づく気配があった。足音に呼応し、豊前の張った結界がするすると解かれてゆく。
     パキンという乾いた音と共に結界が全て消えると同時に、私は縁側へと飛び出した。
    「豊前!」
     気配のする方を振り返る。
     ぼろぼろになった豊前が壁に手をつき、一歩一歩こちらへと向かっていた。
     目が合い、豊前が破顔する。そして、腹を押さえていた片手を挙げた。まるで何事も起きていないみたいに。
    「よ、あるじ」
     私は、目を見開いたままそれ以上動くことが出来なかった。腰が抜け、その場にへたり込む。
    「おいおいおい」
     慌てた様子で、豊前がぴょこぴょこと駆け寄ってきた。
    「ふつー、駆け寄るのはそっちじゃねーか?」
    「普通って何よ……」
     こんな時ですら、私は憎まれ口を叩いてしまう。
     息を吸い込むと、血と砂埃の香りが鼻を掠めた。
     モニタ越しじゃない。本物の豊前が、目の前に居る。
     気付けばぽろぽろと涙が零れていた。温かい滴が私の頬を濡らしてゆく。
     それを親指で拭いながら、豊前が微笑んだ。
    「言ったろ。俺は、どこにも行かねえ。ぜってー、帰って来るって」
    「うん」
    「これでもう、俺の『でーじょーぶ』が信用できねーなんてこと言わねーよな?」
    「うん、信じる」
    「おっし。あんがとな」
     豊前が、私の頭を撫でる。
     まったくもう、私はこんのすけじゃないんだから。
    「あのね、豊前……」
     手紙、読んだよ。そう言おうと口を開いた。
     不意に、置かれた掌が重くなる。
     その重さに、疑問を抱く間もなかった。
     気付いた時にはもう、豊前が目の前に崩れ落ちていた。
    「え……?」
     端正に整った顔からは、真っ白に血の気が引いている。
    「豊前!? ねえ、豊前ってば!」
    「動かしてはなりません!」
     異変に気付いたこんのすけが部屋から飛び出した。豊前は、私の呼びかけにも目を開かない。
    「誰か、無事な男士を呼びましょう。手入れ部屋へ!」
    「う、うん……」

     仲間の手によって手入れ部屋に担ぎ込まれた豊前が目を覚ましたのは、それから丸一日が経った晩のことだった。



       四、
     件の襲撃から、丸二日が経過した。
     この本丸に所属する刀剣男士九十名のうち、重傷八名、中傷二十五名、軽傷は三十二名。残る全員も、かすり傷や打撲を負っていた。
     破られたのが正門だけで助かった。敷地全体を覆うドームが破られていたら、と思うと想像だけで血の気が引く。
     襲撃後すぐ送っていた救援信号によって派遣された応援部隊も、日が暮れる前に到着していたという。本丸が落とされなかったのは、そのおかげもあったんだろう。
     敵に気付かず迂闊に招き入れたことについて処分を覚悟していたけれど、政府に対する報告書の提出と一週間の研修だけでお咎めなしとなった。
     上の判断は、随分と甘いように思う。
     私と敵が裏で共謀していたと捉えられても、おかしくないはずなのに。
     襲撃の後処理に訪れた本物の政府職員の話によると、そもそもの発端は個人コードを盗まれた職員にあるという。
     その話を聞いて、なぜ敵が政府職員を名乗って現れたのかにも合点がいった。諜報員が政府に紛れ込んでいたわけではなく、あの男は初めから個人コードの所有者本人では無かったというわけだ。
     盗難の被害に遭った職員に対する処分を考えると身震いはするけれど、同情の余地はない。たとえ既に敵から目を付けられていたとはいえ、そして迂闊に招き入れたのはこちらとはいえ、それが原因で酷い目に遭わされたのだから。

     昼食後、私は広間に刀剣男士たち全員を集め、ことの経緯を報告した。
     私自身の、過去についても。
     いつ敵に寝返るかも分からない審神者、そんな私が判断を誤り、皆を危険に晒すこととなった。
     この戦いから降りてもいい。私の元から離れて、他の本丸に移籍してもいい。政府に再雇用先だってある。
     私の自慢の刀剣男士たちだ。練度はみんな、十分にある。どこに行っても重宝されるだろう。
     話し終えると、広間を静寂が満たした。無理もない。突然こんな話を聞かされたら誰だって困惑するだろう。豊前だって、私の話を聞いた時には絶句していた。
     最初に声を上げたのは、この本丸の始まりの刀である、陸奥守吉行だった。
    「わしは、これからもおんしに付いていくぜよ」
    「陸奥守……」
    「おんしゃぁんことは、最初っからずーっと見ゆうきのう。おんしゃ、裏切るなんちことせんよ。分かっちゅう」
    「僕も、あるじさまのお側に居ます」
     五虎退だった。
     ふたりに続き、俺も、僕もと声が上がる。
    「まって、ストップ、ストーップ!」
     私は両手を挙げ叫ぶ。再び、広間が静かになった。
    「ありがとうね。でもここで聞いちゃうと、同調しろって圧力かけちゃうから。みんなの持ってる端末に、このあと希望調査を送ります。一週間後までに各自回答して」
     もちろん周りに同調して意見を変えるような男士がいるとは思えない。とはいえ、降りるにせよ移籍するにせよ、それまでの期間はここで過ごすことになる。余計な軋轢を生みたくは無かった。皆、周りに流されず、相反する相手と対立することなく、自身の進退を選んでほしい。それが、私のせめてもの願いだった。

       * * *

     全員に送信した希望調査に対し真っ先に回答してくれたのは、ほかでもない、豊前江だった。
     豊前とは襲撃の日から二日間、結局一度も話せていない。豊前は彼自身のこの先について、どうしていきたいと考えているんだろう。
     ここに残ってくれる気がする。そう思ってしまうのは、私の自惚れだろうか。
     違う答えが寄越されているかもしれないと思うと、回答を開くのが怖かった。
     驚いたことに、希望調査の送信から間もなく回答を送ってきたのは、豊前だけでは無かった。豊前からの回答に続き、メールボックスが次々と回答通知を受信する。けれど私はこの日、誰からの回答も開くことが出来なかった。

       * * *

     現実から目を逸らしていても、毎日変わらずに日は昇る。
     空は高く晴れ渡り、晩秋の乾いた風が頬に冷たい。
     日課の任務を終えた私は、ガレージへと向かっていた。
     ガレージの入口は、大きく開けられたままだ。覗き込むと、そこには予想通り、バイクの足元にしゃがむTシャツ姿の人影があった。
     辺りには、嗅ぎ慣れない油の匂いが漂っている。
     ここまで来たのは良いけれど、一体どんな顔をして話しかけたら良いのだろう。迷いが、足を踏み留める。
     ふと下を向くと、ブーツの爪先がつやつやと光っていた。なんだか、縁起が良い。
     靴に背中を押された気がして、私は一歩を踏み出した。
    「豊前」
     声を掛けると、豊前は驚いた様子で顔を上げた。
    「あるじ? どした、急に」
     立ち上がり軍手を外しながら豊前がこちらへ歩いてくる。
     私は豊前に気付かれないよう静かに、けれど深く息を吸い込んだ。そして、ゆっくり吐き出してゆく。
     仕上げに気合を入れて「に」と口角を上げてから、私はもう一度、口を開いた。
    「また後ろ乗せてよ。裏山連れてって」
    「お、いいぜ。ちっと待ってろ。もーすぐ整備終わっから」
     豊前の表情がパッと輝いたことに、胸を撫で下ろす。
     よかった、嫌がられなかった。
    「もーすぐって、どのくらい?」
    「あー、三十分くれーかな。呼びに行くから、部屋で待ってろよ」
    「ううん、ここで見てる。邪魔しないからさ」
    「そっか? 別にいーけど、見てておもしれーかは分かんねーよ?」
    「面白いんじゃないかな。興味あるし」
     答えながら、私は近くの木箱へと腰掛けた。
    「ふーん……?」
     バイクに興味を示した私に豊前は意外そうな顔をしていたけれど、しばらくすると再びバイクへと向き直った。その顔を、窓から差し込むひかりが照らす。
     工具を手にバイクに向き合う表情は、真剣そのものだ。戦場での猛々しさとも、手合わせの勝敗でムキになった顔とも違う。見据えられた目は、静かに澄んでいた。
     その横顔を、美しいと思った。
     豊前の顔立ちは、「美しい」と形容されるよりも「男前」だとか「ハンサム」だとか「イケメン」だとか、そういった部類に含まれると思っていたのに。自分でも予想していなかった感想が沸いたことに、私は自分で驚いた。
     見ていて面白いかは分からない、と豊前の言った整備の過程は、興味深かった。調整する箇所、オイルの注し方。どれも初めて知ることばかりだ。
     よく考えてみれば、豊前はこれをどこで覚えてきたんだろうか。刀剣男士向けの講習があるのか、それとも、人間に混じって講習を受けてきたのか。
     刀剣男士向けの自動車教習所があると知ったのも、豊前がこの本丸に顕現してからだった。
     私は、練度が一定の基準を超えた刀剣男士の要望を可能な範囲で叶えることを約束している。教習所の資料を手に豊前が執務室に現れたのは、一体何年前のことだったか。
     それ以降、豊前の後に続き一期が兄弟たちとの移動用にと普通車そして中型免許を取得、光忠も「運転が出来たらかっこいいよね!」と言って普通車の免許を取得した。
     桑名に至っては普通免許の取得後に給金を貯め、今では大型特殊免許まで取得済みだ。
    「っし、終わったぞー」
    「はーい」
     立ち上がった豊前がこちらを振り返りながら声を掛けてくる。私はのんびりと木箱を降りた。
     ところが豊前は、しまったという顔をして急にそわそわと慌て出す。
    「わり、もう十分だけ待って」
     言うなり、豊前はガレージから駆け出して行った。
    「……そっか、ジャージ」
     作業中の豊前は、畑仕事をする時のようにTシャツとジャージ姿だった。バイクに乗るためには、何かと不都合があるのかもしれない。
     着替えに行っただろう豊前を待つために、私はもう一度同じ木箱へと腰を下ろした。

       * * *

     ガレージから豊前の部屋までそれなりに離れているというのに、豊前は本当に十分きっかりで戻ってきた。私の脚で歩いたとしたら、片道五分はかかってしまう。往復しただけで、ちょうど十分だ。
    「じゃ、行くか」
    「うん」
     ヘルメットを被り、大きな手袋をはめる。
     私たちは、あの日と同じようにバイクに跨り駆け出した。

       * * *

     あれからほんの十日で、山の景色は随分と様変わりしていた。落ち葉も増え、きっと来週には紅葉も見頃を終えているだろう。辺りを見渡していると、高く鳴きながら鳶が天を横切って行った。
     視線を麓に向ければ、本丸を覆うドーム状の結界を更に一回り大きな膜が覆っているのが目に入る。それは、襲撃の翌日に政府から派遣された部署によって施された結界だった。現状、敵の第二波がいつ襲ってくるか分からない。有事に備え、当面の間は警備が張られることになった。
    「俺達、よくやったと思わねーか?」
    「うん」
     本丸の庭に生えていた木が数本減っている。それから、地面にぽっかり空いた穴がひとつ。ここから見える損傷は、それぐらいだろうか。
     生きた木が折られたことには心が痛む。けれど本丸全体の被害は、思っていたより大きくないのかもしれない。
    「ところで」
     豊前の声音が、悪戯っぽく浮足立った。
    「わざわざ『でえと』に誘ってくれたってことは」
    「デートじゃないよ」
    「え、ちげえの」
     遮るように否定する私に、豊前がきょとんとした視線を向けてくる。
    「ちが、うーん……?」
     違うと言えば違うだろうけど、そうだと言えばそうなのかもしれない。デートの定義が分からなくなり首を捻る私に、豊前はあっけらかんと笑った。
    「ま、何だっていーや。こーやって出掛けられたし」
     豊前は両手を上げ、ぐっと伸びをする。そして、こちらを振り返った。
    「あの手紙、読んでくれたんだろ?」
    「……うん」
    「じゃあ、さ。あれ読んで、どー思った?」
    「そ、その前に」
    「前に?」
     私には、聞いておかなければならないことがあった。
    「豊前は、これからどうしたいと思ってる? 回答送ってくれてたけど、見る勇気が出なくて……。豊前の口から、聞かせてもらってもいい?」
     昨日のうちに豊前から回答のあった進退の希望。それを、私は未だ見ることが出来ていなかった。踏ん切りがつけられず自分で回答を開けない私は、答えを聞くタイミングを豊前に委ねることにした。
     けれど、今になって思う。自分で見るより、相手に委ねたほうがよっぽど勇気が必要だ。
     手は、小さく震えていた。
    「そんなん、決まってんだろ」
     半分呆れたように豊前が微笑む。
     優しい瞳が、私の目を捉えて離さない。
     豊前は、ゆっくりと口を開いた。
    「俺はこれからもこの本丸で、主のこと守るよ」
     ふっ、と、全身から力が抜けていた。
     安堵した私は、呼吸の仕方まで忘れてしまった。息苦しさに、慌てて空気を吸う。吐き出された息に乗ったのは、相変わらずの憎まれ口だった。
    「私じゃなくて、歴史を、ね」
    「そー言うなよ」
     豊前の手のひらが、頭を撫でた。その手のひらは、もう突然重くなりはしない。
     零れかけた涙を堪えるために、私は豊前に問いかけた。
    「ね、豊前」
    「ん? なに?」
    「どうして私が、豊前のこと近侍にしてたと思う?」
    「まさか、そんな前から俺のこと好いちょった……」
    「はいはい」
     豊前はこんなにお調子者だったろうか。笑いながら軽くあしらい、私は答え合わせをする。
    「はやさ第一のとこ、気が合うと思ったからよ」
    「あー、なるほど?」
     褒めているというのに、豊前はどこか不服そうだ。その顔が子供っぽくて、私は更に笑ってしまう。
    「主、飛び道具も好きだもんな」
    「そりゃそうよ。相手の戦力、距離詰める前に削れるだけ削っておかなきゃ」
     先手を取れた時の達成感を思い出してにやりと笑うと、「おー、こわいこわい」と豊前がうそぶいた。
     豊前を近侍にした理由は、他にもある。
    「あとはねー……、目の届くところに居てもらわないと、知らない間にどっか行っちゃいそうな気もしたんだよね」
    「なんだ、そりゃ」
    「豊前が来て割とすぐのことだったかな……。ごめんね、細かいことは忘れちゃったんだけど、貴方が遠くを見てるとこ、見ちゃったんだよね」
     窓から空を見上げていた横顔を、私は今でも鮮明に思い出せる。その時に聞いた、「どっか遠くに行きてーな」という声も。彼の願いも、その声も儚くて、目の前に立っている豊前と上手く結び付けられない。あの時は聞き間違いかとも思ったし、今でも、私の作り出した想像の中の記憶なんじゃないかと思うことがある。
    「それで、俺に惚れたと」
    「こら、調子に乗らない」
     肘で小突くと、豊前は大袈裟に痛がる仕草をしてみせた。
     あーあ、ずるいなあ。そんな顔も出来るんだ。
    「豊前」
    「なんだ?」
     私は大きく息を吸う。そして、勢いをつけ白状した。
    「私さ、どうやら豊前のこと好きみたいだ」
     つっかえるかもしれないと思った言葉は、自分でも驚くほどすんなりと口から飛び出した。
     私とは逆に、目の前の豊前は目を見開いて、口もぽかんと開けたままだ。
    「っ、まじで……?」
    「それ、驚くところなんだ?」
    「や、なんかびっくりして……」
     さっきまで散々、私が豊前を好きという前提の冗談を言っておいて。それなのに私が気持ちを告げたら、こんなにも驚いているなんて。可笑しくて、笑っちゃう。
     笑いすぎて、涙が出た。
    「ごめんね、気持ちに応えられないなんて言って。私は臆病で……。自分の本心に気付かないふりをしていたみたい」
     豊前の、大きな手を取った。私を宥めて、掬い上げてくれた手のひらだ。
    「立場が違うだとか、主従関係だとか、そんなこと、もういいや」
     紅の瞳を、真っ直ぐに見上げる。
     心の底から、気持ちが溢れ出した。
    「好きだよ、豊前……、きゃ!?」
    「すっげー嬉しい……!」
     私を抱き締めた豊前が噛みしめるように声を絞り出した。
     こわごわと、私も豊前の背中へ腕を回す。ぎゅっと力を籠めてみると、それが豊前からも返ってくる。痛いくらいの力だけれど、不思議とそれが嬉しかった。
     豊前の身体が離れ、私の頬は大きな両手で包まれる。
     見上げた深紅の宝石は、揺らいでいた。
    「俺からも、もっかい言わせて。好きだよ――」
     呼ばれたのは、『主』じゃない。『あんた』でもない。
     その声が初めて響かせる、私の名前だった。



       結、
     刀剣男士たちに送った進退の希望調査。その回答一覧を前に、私の手は震えていた。豊前と陸奥守、それに五虎退以外、誰も付いて来てくれないかもしれない。要望を聞くことを決めたのは自分なのに、いざ見限られることを想像すると、寂しさや情けなさに襲われる。
     希望調査の選択肢は、次の四種類だった。
       一、この本丸に留まる
       二、他の本丸へ移籍する
       三、政府へ転籍する
       四、刀解
     せめて四は選ばないでいて欲しい。そう願うのは、私のエゴだろうか。
     大きく深呼吸をして、私は画面をタップした。
     ゆっくりとスクロールしながら、ひとりひとりの希望を確認してゆく。
    『乱藤四郎:一、この本丸に留まる/五虎退:一、この本丸に留まる/薬研藤四郎:一、この本丸に留まる』
     粟田口派の統一された回答に、五虎退が兄弟たちを説得してくれたんだろうかと想像がよぎる。けれど、それは彼らに失礼だろう。私は頭を振って、自分の邪推を否定した。
    『陸奥守吉行:一、この本丸に留まる』
     疑っていたわけでは無いけど、陸奥守の回答に安堵する。
     予想外だったのは、特命調査を機に迎えた男士たちだ。
    『山姥切長義:一、この本丸に留まる』
     元々は政府に所属していたのだから、古巣に帰ることを希望するかと思っていた。見くびっていたみたいで、少しだけ申し訳ない。
     スクロールバーは、もうすぐウインドウの最下部に到達する。ここまでは皆、留まることを選択してくれていた。
     けれど、本丸に迎えてから日の浅い面々はどうだろう。指が、スクロールを拒絶する。それでもゆっくりと、名前と回答を目で辿った。あと四名。あと三名。あと二名――。
    「うそ……」
     見落としや見間違いを疑って、もう一度画面の頭に戻りスクロールを再開する。けれど、それを二度繰り返しても結果は変わらない。
     我が本丸所属刀剣男士、総勢九十名。
     全員が、ここに残ることを望んでいた。

       * * *

     後になって知ったのだけれど、まだ新顔の男士たちはこの本丸に留まるべきか迷っていたらしい。私は、それを聞いて安心した。豊前は隣で「安心することじゃねーだろ、それ」と、呆れていたけれど。
     だって、安心するでしょう。彼らも自分の意思を持ち、自分で考えていると、分かったんだから。
     とは言っても結局、彼らも昔馴染みの刀剣たちから私やこの本丸の話を聞いて、説得されたらしいけれど。
     いくら昔馴染みの言うことだからって、絆され易すぎやしませんか。そんなに簡単に私のことを信じてしまって、良いんですか。私は自分の迂闊で、貴方たちを危険に晒したんですよ。二度目が、あるかもしれないんですよ。
     付喪神は、人の想いを元に生まれてくる。だからだろうか。薄々感じていたけれど、彼らは人間に対して甘すぎる。
     私は、せめてその信頼を裏切らずに居続けたい。だって彼らが、私を審神者たらしめてくれているのだから。



    《終》
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    👏👏👏👏👏😭🐯💮
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works