ALWAYSこの島初となる港に、夕闇が降りてくる。水平線にかすかな残照がみえるが手前の海は漆黒で空恐ろしい。
リヴァイは地下から出てきたばかりの頃にシガンシナの壁上から見た壁外の大地を彷彿とした。未知の世界を前にしている。
港はまだ建造中だが、完成の日も近い。既にできあがっている区画もある。今日の仕事を終えた作業員がお互いに労いの声を掛け合いながら宿舎に引き上げていっている。
港建造の立役者であり、現場の監督官でもあるオニャンコポンがリヴァイを見つけ、声をかけてきた。完成した桟橋に鹵獲した艦船を移す計画などを聞く。彼はついさっきまでハンジと一緒だったようだ。
「ハンジの相手を任せちまってすまねぇな。話が長かったりして、困ってねぇか?」
「そんなことないです。楽しいです!」
彼は心底そう思っているようだ。
「マーレ大陸へ渡る話で盛り上がりました。港の完成もまだなのに、気が早いかもしれませんが、やはり将来の展望は必要ですよね」
いずれこの港から船出する日も来るのだろうが、リヴァイにはまだ想像するのが難しかった。
「やはり実際に見てもらいたい! 馬なしに自走する車、人力で滑車を回す必要のない昇降機、ガス灯とも光る石とも違う電気による灯り、活動写真、いやその前に写真もまだですよね」
新奇なものを警戒するリヴァイとしては慎重になってしまうが、ハンジが強く興味をそそられているのは分かっている。
「知りたければ、見に行く。それでこそ調査兵団だそうですね」
「ハンジがそう言っていたか」
「前の団長さんの受け売りだそうですが」
「まあ、そうだな」
何年もハンジの心を捉えて離さない言葉だ。
「エルヴィンさんて、どういう人だったんです?」
不意の質問に、リヴァイはオニャンコポンをうかがい見る。
「ハンジさんの口から、たびたびお名前が出てくるので」
気になった、というわけだ。
「ハンジさんからすればどういう人だったかは、なんとなく分かりましたが、リヴァイさん視点だとどうなのかと」
リヴァイが黙り込んだので、オニャンコポンが申し訳なさそうに取り繕う。
「すみません、不躾な質問を」
「そんなことはねぇよ。ハンジのようにはすらすらしゃべれねぇだけだ」
リヴァイはしばし考えてから口を開く。
「まず思い浮かぶのは、背中だな。マントの紋章とかな」
馬に乗って駆ける背だ。翻るマント。自由の翼。
「壁外調査で、あいつは常に先頭にいたからな。団長になって以降ということだが。マーレの軍じゃ指揮官は後ろの方にいるのが普通という話だから時代遅れだったのかもしれねぇが」
「巨人という、当時のあなた方からしたら正体の知れない敵を相手にしていたんですから、マーレのやっていた戦争とは違って当然ですよ。武器も規模も違います」
「前の団長も先頭を走っていたから、多分伝統的にそうだったんだろう。どうしたって怖気付くヤツはいる。初陣のヤツとか若いヤツは特にな。そういうヤツらも団長が先頭を行っているからこそ、後に続くことができたんだ」
「つまり、導く人ということですかね。リヴァイさんにとって、エルヴィンさんは。常にその後をついていくという」
リヴァイは首を捻る。
「違いますか」
「違う気がするな。改めて聞かれると、分からないもんだな」
「また、思いついたり、思い出すことあったら聞かせてください。もちろん無理のない範囲で」
「ああ。そうするよ」
辺りはいよいよ暗くなってきた。
オニャンコポンが空を見遣り、やあ!と感嘆の声を上げる。
「見事な星空ですねぇ」
「そうだな」
リヴァイも空を見上げた。よく晴れて、星がよく見える。
「あっ」
「何だ。びっくりしたみてぇに」
「いえ。ここは北半球だったなあと」
「ああ。そうらしいな」
分かったふうに答えたが、比較的最近になって得た知識だ。以前はここが島であるとも知らなかったくらいだ。世界地図も見たことがなく、自分たちの住んでいる場所がどこに位置しているかも知りようがなかった。
「俺は南半球の出身です。故郷へはもうずっと帰っていません。マーレで長いこと過ごしました。といっても、大半は戦地にいましたがね。あとは、基地とか。戦地では空を見るような心の余裕がなく、基地周辺は大気汚染で星はあまり見えませんでした。だから今、改めて、北半球の星空だなあと」
「ほう」
「たとえばあの星」
オニャンコポンの指が示す先にある星の並びは特徴的で、星に詳しくないリヴァイでも見知っていた。
「あの十字に見える四つ星か」
「あれは俺の故郷からでは、見えませんでした」
「じゃあ逆に、故郷で見えてた星で見えないのもあったりするわけだな」
「そうです」
また故郷で星を見られるといいな。そう思いはしたが、安易に口に出せる話題ではなかった。
「俺も星を見るのは久しぶりな気がするよ」
「心に余裕がないと、つい下を見てしまって、なかなか空を見上げたりできませんよね」
そういえばエルヴィンと星を見たことがあった。リヴァイは思い出す。シガンシナにいる頃で、エルヴィンは分隊長だった。入団当初の険悪さこそなかったものの、親しいとも言い難い間柄だった。
「星に興味があるようだな?」
リヴァイが時折夜空を見上げているのを、エルヴィンは目敏く捉えたのだった。
「興味というほどの興味はねぇな。ただ、地下からじゃそんなには見えなかったからな」
地下街育ちのリヴァイからしてみれば、星空は地上の象徴だ。地上に出てきたばかりの頃、なじみと共にながめた思い出もある。エルヴィンがそういったリヴァイの心中を察したものか定かではないが、深くは立ち入らず、提案を持ちかけてきた。星の見方を教えてやろうというのだ。
「星で方角が分かる。兵団の用事でウォール・マリア内の町や村に出向くこともあるだろう。星の見える夜に限るが、道が分からなくなった時などに役立つ」
「だが星ってのは動くもんじゃねぇのか。そのくらいは地下育ちの俺でも知っているぞ」
だからこそコツを教えるのだとエルヴィンはリヴァイを月のない夜に野営に誘い出した。よく晴れて、瞬く音が聞こえそうなくらいに星々が煌めいている夜だった。
「星と星を繋ぐ線を思い描くことで図形が見えてこないか?」
リヴァイは目線を空へ一巡りさせると、ある箇所を示した。
「あそこの四つ星くらいだな。繋ぐと十字になる。縦棒のほうが長くて、横棒はそれより短い」
「まさにその星が頼りになると話すつもりだった。やはり目につくか」
「地下街でも岩の隙間から空が見える場所があってな。そっからあの四つ星が見えることがあった。だがいつも見えるわけじゃなかった。それで俺は星ってのはいつも同じところにあるわけじゃねぇ、動いているんだと知ったんだ」
「観察力があるな」
「意外なことにな」
「意外とは思わない。見込み通りだ」
「てめぇは意外に褒めるのが上手いようだ」
「意外か?」
エルヴィンは納得いかなそうに首を捻りながらも、荷物の方へ足を向けた。
「火を起こして、湯を沸かそう」
てっきりずっと空を見るものだとばかり思い込んでいたリヴァイは面食らったが、指示通りに薪を組み始めた。
携帯食と茶で食事を摂った後、エルヴィンとリヴァイは再び立ち上がって空を見上げた。
「どうだ?」
「空が広すぎて星が動いたかどうか解りにくいが、とりあえずあの十字は傾いた気がする」
地下にいた時は、岩盤の裂け目から覗き見ていたからこそ、星が動いていることに気づけたことに思い至る。
エルヴィンはリヴァイの答えにひとまず満足した様子で、それまで見ていた方へ背を向け、反対側を指し示す。
「雑談になるが、季節が変われば空から姿を消す星もある。あの三連星など代表的で、夏しか見えない」
「なかなか目立つ星じゃねぇか。おまけにその先の方には、いっとう明るい星があるな。青みがかっている」
「ああ。見る限り、あの星が一番明るい」
「あの星も夏しか見えねぇか」
「そうだ」
「やつらは冬はどこへ行っちまうんだ?」
「地平の向こうへ沈んでしまう。秋が深まるにつれ低くなり、やがて見えなくなる」
「詳しいな。そういうのは訓練兵団あたりで習うのか? それとも学校か?」
「習ったわけではない。子どもの頃からの趣味みたいなものだ」
「ガキの時分に星を見ていたわけか」
地下と地上で同じ星を見ていたこともあっただろうか、などと想像する。
「意外か?」
「お前にもガキの頃があったというのが意外だ」
お前も冗談を言うんだなとエルヴィンは笑った。今日の彼はもの柔らかであり、もっと硬い印象を抱いていたリヴァイからすれば意外な一面のように思われた。
「少し眠ろう。夜中に起きて、また見るとしよう」
テントに戻り、寝袋に入る。エルヴィンは寝付きがよかった。その寝息を聞くうちに、リヴァイも眠りに誘われた。
「リヴァイ、起きていたか」
テントから出てきたエルヴィンの第一声は明らかに眠たげで、普段の隙など見せない分隊長とは違っていた。
「さっき目が覚めた」
「どうだ?」
彼はリヴァイの隣へ来て、件の四つ星を見上げる。
「ほとんど横倒しになっている」
「ああ。そうだな」
まだ眠たそうな声だ。
「静かに出てきたつもりだったが、起こしちまったみたいで悪かったな」
「先に起きてお前を起こすつもりだったのに不甲斐ない」
「疲れでも出たか? 案外人間らしいんだな」
「案外人間らしい? お前の目には私がどう映っているんだろう?」
「金属製の武器とかに近い」
「金属でできていたら、眠らずとも疲れ知らずか。それは惹かれるが、残念ながら」
あくびを噛み殺しながらも話そうとしているが、あまり頭が回っていない様子だ。
「寝直したらどうだ?」
「そうするよ。リヴァイ、お前も休め」
いましばらくリヴァイが夜空を眺めてからテントに戻れば彼はもう寝息を立てていた。
翌朝、エルヴィンは古びたスケッチブックを開いて見せた。件の星の配置を模したと思しき十字の図形が一定の間隔で並び円を為している。
「これは、あ四つ星の動きを書き取ったものだな?」
「そうだ。子どもの頃の観測記録だ。十字の長い方の棒の長さを五倍した辺りを中心に円を描いている」
「絵の上手いガキだったんだな」
リヴァイは本筋とは違う方面に感心しつつ、円の中心を指さす。
「それはさておき、つまりこの一点を中心に空は巡っているということか」
「そう見える。動いているのは我々の立っている地面の方だが、この際それは意識しなくていい。重要なのは、この中心点が真北に位置するということだ」
「なるほど。それで方角がわかるということか」
「合点がいったか」
「ああ。ひとつ質問がある。この絵でもそうだし、夜に見た感じでも、この中心に星とかはねぇようだった。俺の目が悪くて見えねぇわけじゃねぇよな?」
「視力には自信があるほうだが、私にも見えない。だから、一見して分かるような目印はないということになる。しかしざっくりと方角の目安にはなるんではないかな」
「そうだな。覚えておくよ」
リヴァイは空を見上げる。もう明るくなって、星は見えない。
「結局、どの星も動く。動かねぇ星というのはねぇんだな」
「子どもの頃からかなり観察してきたが、見える範囲にはない」
見える範囲には。リヴァイはそれ以上尋ねはしなかったが、見える範囲の外にある星に思いを馳せた。
地下街の外れへ行けば、頭上を覆う岩盤に穴が開いており、空が垣間見えた。ただ来る度、見える星が違うことにリヴァイは気づいてもいた。前に見たのと同じ星が見つからないからだ。
地上へ出てぇのか?
ケニーが後をつけて来ていた。その質問にリヴァイは否定の答えを返す。
ただ見に来ただけだ。
そうか。見に来ただけか。何が見える?
星が見える。前に来た時とは違う星だがな。
見たい星でもあったのか?
そうでもねぇ。ただ星ってのは一つところへじっとしてはいねぇんだなと思ったんだ。
そうだな。まあ、聞いた話じゃ、動かねぇ星もあるらしいが。
地上へ行けば見えるのか。
いや、だから聞いた話だ。俺も見つけられてねぇから、嘘か本当かは分からん。ガキの頃に、年寄りから聞いた。動かねぇと言っても、ちぃっとは動くらしいんだが、まあだいたい一つところにじっとしてるらしい。だから、夜に旅をする時なんかには、目印になるんだと。方位磁針がなくても、方角が分かるからな。
ケニーは石ころを手に取り、ランタンで照らした地面に図を描いた。
甕から水を掬うときのひしゃくがあるだろ。あれみたいな並びの七つ星があるんだそうだ。この七つ星自体は動くんだが、ひしゃくの掬う部分の先のほうを表す二つの星。その幅5つ分先に、その動かねぇ星ってのがあるらしい。
本当なのか。
分からん。この目で確かめられてはねぇからな。
話をしたその年寄りってのはケニーのじいさんとかか。
いや、俺のじいさんじゃねぇ。じいさんの友達が訪ねてきたときに話していた。まあ年齢でいえば俺のじいさんくらいの歳だ。遠方の出身らしかった。
ケニーは話の最後に釘を刺した。
チビ。この話は誰にも言うなよ。
ケニーは地面に描いた図を消してしまった。
知っているだけで命を付け狙われる。世の中、そういうこともありうる。つまり、お前が喋った相手の身の上が危うくなるかもしれんということだ。
スラトア要塞は岩山の上にあり、周囲を砂漠に囲まれている。要塞を守っていたマーレ軍の兵士、レベリオから逃げてきたエルディア人、パラディ島から海を渡り空を超えて来た調査兵団の面々。昨日までなら助け合うことも考えられなかった人々が、共に夜を越す。
夜空から金銀が降って来そうな星空だ。ほんの半日前の苛烈な戦いが嘘のように穏やかである。リヴァイがこれまでに見たどんな空より広い。地平線より手前には一つの灯りもなく、星空を眺めていれば静寂の海をたゆたっているような心地になる。
哨戒の兵が南へ双眼鏡を向けている。この要塞はマーレ大陸の南端に近いところにある。これより北の線路は地鳴らしにより壊滅したが、南側は無事であった。無線で連絡が取れ、南方の海岸から救助の列車が向かってきている。
近くを動く人影が見知った人物であると気づき、リヴァイは声をかけた。
「オニャンコポン」
「リヴァイさん、起きてたんですか。痛みで眠れないとか?」
「痛み止めを貰ったからそうでもない。うとうとしては目が覚めるという感じかな。お前こそ全身怪我だらけだろう」
「不時着の時にあちこちぶつけましたがリヴァイさんと比べたら軽傷ですよ」
そう言いつつ痛がりながらリヴァイの隣に腰を下ろす。
「星が見事ですねえ」
「ここらへんは、お前の故郷に近いのか?」
「そう近くもないですが、でもパラディ島からと比べたら、近いといえるでしょうね。中間あたりかな」
リヴァイは空を目で示す。
「見える星が、島とは違うようだ」
リヴァイの言葉を受け、オニャンコポンは改めて空を見つめる。
「本当だ!」
オニャンコポンが興奮した様子で、身を乗り出す。
「そうか。赤道を超えたんだ。ここは南半球なんだ」
懐かしそうに、空のあちこちへ目を巡らしている。
彼が少し落ち着くのを待ち、リヴァイは空の一点を指差した。
「あの星だ」
オニャンコポンはリヴァイの指が示す方を見る。
「何です?」
何の話か分からない様子だ。リヴァイは往々にして言葉足らずだ。
「いつだったか、あいつがどういうヤツだったかと、訊いただろ」
「ああ! 覚えてます。星のきれいな夜でしたね。見えている星は違いましたが」
「あの動かねぇ星だ。微妙には動くようだが、ほとんどじっとしている」
ひしゃくの形をした七つ星を手がかりにした見つけ方を言い添えれば、オニャンコポンも同じ星を見ることができたようだ。
「ポーラースター」
「そんな名前なのか」
「天の南極にあたると言われており、リヴァイさんの言った通りほとんど動きません」
「あの星のようなヤツだ。俺にとったらな」
オニャンコポンが、なるほど、そうですか、と幾度か頷く。
「昔、砂漠を旅した人や、船で海を渡った人は、あの星を頼りにしていたそうです」
「ああ。そういうヤツだ。今でもな」
だからここまで来られたのだろう。
リヴァイはさらに言葉を継いだ。
「これからもな」
この先も、迷うことはないだろう。