星の踊る夜のこと 百歳の前に開かれた比叡山での使いを済ませた道満は急ぐこともあるまいと、徒歩にてその帰路を辿っていた。京の喧騒から離れて過ごす山の空気は故郷にも似ている。陰鬱とした内裏と異なりどこまでも広がる木々は穏やかに道満を包みこんだ。せせらぎが涼やかに響く。山登りでじっとりと濡れる汗が不快だと、僧衣を脱ぎ川へと入った。霊山から流れる水は澄んでおり、蓄えた呪いとは別にこびりつく厄や穢れが落とされるのを感じる。天台宗の霊山たる精気が宿る良い処である。
そうして久しぶりにのんびりとした時間を過ごしているうちに辺りの日は暮れ始めていた。式神で急いで帰っても良いのだが、急ぎの仕事があるでもなし、たまには山で夜を過ごすのも良かろうと行き道で見つけた荒屋を一晩の仮宿とすることにした。山には恵みが多い。川では鮎を二、三匹を捕まえ、薪になる枝を拾い、枇杷や無花果をもぎ取ってから荒屋を検分する。あちこち傷んではいるが、屋根もあり戸も閉まる。特段修復する必要も無さそうだ。囲炉裏に薪をくべ、術で火を起こす。鮎を火から少し離して焼いた。
食べ終える頃にはすっかり日も落ちていた。囲炉裏の火を落とし、宵闇の静けさに浸る。月明かりの無い夜、竹で編まれた窓からは明かりも差し込まず、ギィギィと螽斯の鳴き声だけが響いていた。たまにはこの様な穏やかな時も悪くないと、目蓋を閉じて眠ろうとしたとき。
「道満、道満や」
聞き慣れた声が扉の向こうから聞こえて来て、起き上がる。
「…晴明殿、何用ですか」
「おまえが気になって追ってきたのだよ。此処を開けておくれ」
カツカツと戸を叩く音がする。戸には寝る前に 支え棒を挿していたなと暗闇の中で思い出した。
「何とも上品な素振りをなさる。いつもであれば扉を破ってでも押し入るのに、如何されましたか」
「こんな 荒屋を押し破ってしまえば、建物ごと崩れてしまうよ」
どうしたものかと道満は暫し考える。開けてしまうのも癪だが、このままでは煩くて寝られやしない。いやしかし斯様なことも面白いのではなかろうか。暫し付き合ってやるのも悪くない。
「晴明殿、今宵の星は如何ですかな」
「月が無いのでとても良く見えますよ」
「ふふ、左様で」
小窓へチラリと視線を投げる。確かに月明かりがないため、星々の輝きは一層強く夜空を彩っていた。
「おまえはこの美しい星空を見ないのかい」
「確かに朔の日の夜空となればそれは魅力的にございますなぁ」
立ち上がり、小上がりに腰を下ろす。沓を履いてそのまま話を続ける。
「京でのお勤めはよろしいのですか」
「ああ、勤めは済ませてきたよ」
「斯様な場所まで追いかけてくる大事がございましたかな」
「比叡山には鬼が出るそうだ。夜更けに荒屋でひとりなど、放っておけないだろう」
「あなや、それは恐ろしい。どの様な鬼なので?」
「酒呑童子と云うそうだ。比叡山の力ある稚児が化生となった、恐ろしい鬼だよ」
「ふ、ふ、それは。それは恐ろしい!」
震える声を堪えて道満は会話を続ける。
「いやはや、斯様に恐ろしい鬼がいる山とは儂も思いもしませんでした。ええ、ええ。酒呑童子とは何とも恐ろしい。暫しお待ちなされ」
「道満、早く此処を開けておくれ」
支え棒を外し、ぎいぃと音を立てて戸が開かれる。戸の前に立っていたのは出立した時の姿のまま、汚れ一つない真白の狩衣を着た晴明だった。
「道ま」
その右手が此方に向かって伸びると同時に、道満の右手はその顔を捉えていた。大きな手に掴まれ、ぐしゃりと骨の砕ける音。辺りの土には赤黒い滲みが飛び散った。
「ふ…くく、ッハハ!!!何とも傑作にございました!」
白い狩衣には泥と血がこびりついている。首と胴の分かれたその頭の方、髪を掴んで持ち上げればさらさらと崩れてその形は失われた。
「偽物とはいえ、この澄まし顔を潰してやったかと思うとええ、ハイ。多少は日頃の気晴らしにもなりましょう」
『おまえという奴は…もし本物の私ならどうするんですか』
空中に、蛍火の如き文字が浮かぶ。若草色に光る文字が、朔の山には酷く明るい。
「このくらいで死ぬならとっくに殺してます。それ、夜に読むのは疲れます。音声にしなされ」
「そうかい。いや、声だとさっきの者と区別がつかないんじゃないかとね」
つかない訳がないでしょう、と言いかけて道満は推し黙った。余計なことを言うとまた面倒な気がしたからだ。
「酒呑童子の名を出すとは、よほどの物知らずでしたね。」
「ええ。笑いを堪えるのにそれはもう必死で」
くふくふと堪えていたそれが道満の腹筋を擽る。
「ところで晴明殿、今宵の星は如何ですかな」
「星かい」
そう言いながら、道満も空を見上げる。満点の星空、幾千もの輝きのうち、ふたりの男の視線は同じ方角を向いていた。
「そうだね、『ぬりこ星』が一際輝いている。くたびれもうけですかね」
「儂もそう思いました。ああ、でも薀蓄なしに星の美しさを語る点や、京を離れて心配するあたりは貴方よりもよほど人間のふりが上手いのでは」
「…おまえも人が悪い」
京の守護者たる晴明は、その地を離れることはできない。そういう契約の元にあるのだ。そのため、近江の地に至る今回の使いも道満に託すこととなった。
「確かに私は京を離れられません。心配をしていないわけではないですが、おまえを信用しているからこそこのような場所に使いにやったんですよ」
踵を返し、道満は荒屋へ振り返る。これ以上の会話はしたくないとの意思表示だった。
「道満」
「疲れました。もう休みます」
「ならばこちらで休みなさい」
五芒星の光が浮かび、淡い藍色に輝いた直後に現れたのは美しい牛車だった。星々を編んだかのような繊細な細工と玉を散りばめたかの如き輝きを放つそれは現世の何処にもないと錯覚するほどである。
「私の依頼を受けてくれた謝礼の一部だと思えばいい。さあ、早く帰っておいで」
はあ、と溜息をひとつ。これ以上の問答はしたくないと無言で道満は乗り込んだ。畳よりも柔らかい、布や綿を敷き詰めたような其処は雲の中にいるような心地がする。動き出した牛車の揺れも相まって、すぐに眠気が道満を包み込んだ。
「おやすみ、道満」
答えはなく、すうすうと静かな寝息だけが晴明の耳に届いていた。