職権濫用もいいところだぞ「297番さん、診察室へどうぞ」
番号を呼ばれて立ち上がり、一歩進んだところで鞄を持っていないことに気がついて中待合のソファを振り返る。大きな体の背を曲げてふらふらと診察室のドアへと向かった。部屋の中はクリーム色の壁紙、木製の机と椅子、それから白衣を着ていない医者らしき男がひとり。
「どうぞ、お掛けください」
「はい……」
「確認のため、お名前を教えてください」
「蘆屋…道満です」
小さくぽつりぽつりと話す様子に加え、長い髪が表情を隠してまるで幽鬼のようである。それもそのはず、蘆屋道満は病んでいた。職場でぶっ倒れ救急搬送され、目が覚めたら点滴に繋がれていたので職場に戻りたいと医師に訴えたところ「心療内科に今すぐ行きなさい」と紹介状を握らされた上ドクターストップを告げられたのが早朝、そして今は昼前である。
「医師の安倍晴明といいます。…問診票を見ると睡眠時間が少ないですね」
「はあ…仕事が溜まっていまして」
「どれくらい溜まっているのかな」
「ええと…明日までに研修資料と報告書を作成して、明後日の会議までにデータを揃えて資料が必要で、明後日の来客の用意と、それと別に先日辞めた社員のデータ入力がこれくらいあって…」
ジェスチャーで示された書類の高さは山と言える量である。どう考えても一日、二日で終わるものではない。
「ずいぶん忙しいんですね。食事は摂れていますか?」
「あまり食欲もなく、時々ゼリー飲料を合間に」
「休みの日は何をしていますか?」
「休み……休み、ですか…」
そういえば家に帰ったのはいつが最後だったろうか。確か着るものが無くなって替えをとりに行ったときで。
「洗濯と、溜まった郵便のチェックと…それくらいでしょうか…?」
「そうですか」
何かをさらさらと書きつける手元に目が行く。紺色に金のペン先のついた万年筆は上品で高級さを感じた。そういえばシャツもしっかりとアイロン掛けされている。柔らかいブルーのシャツにネイビーのベスト、それにパープルのネクタイでコーディネートされており、体格に合わせてきちんと仕立てられている。営業部だというのにこんなことに初見で気が付かなかったのかと頭に浮かび、自己嫌悪で更に俯いた。
「蘆屋さん、過労ですね。しばらく休みしましょう」
「しかし…儂、私が抜けてしまうと会社に迷惑がかかってしまいます」
「いいですか。あなたは鬱病になっています。このままだと心身が弱りきって、あなたの命にも関わることです」
などと言われても、会社員にとって収入を失えばそれこそ生きていけない。ここは適当に言うことを聞いておくフリをしつつ、会社には点滴を打ったら平気だとでも…
「蘆屋さん、職場に足を踏み入れたら強制入院させますよ」
「な」
「ああ。昨今はリモートワークもありますか。よし、今すぐ会社を辞めましょう」
「いえ、仕事が無くなれば生活に困りますゆえ…」
何の冗談だと、医者と目を合わす。色白の整った顔立ちの男は微塵も冗談ではない目をしていた。
「過労死したいんですか?」
「む、無職で孤独死するなら職場で過労死のほうがマシです!」
「ほほう。"会社で死んだ方がマシ"と。これはいけません、希死観念は重篤な症状です」
「ちが、」
「違いますか?仕事を辞めるのより過労死がマシと言いませんでした?」
言った。が、何か違うというか、そうではなく、あれ、何が違うのだろう?言いたいことはそうではなくて、うまく言葉に、説明にならない。
「ほら。あなたには休息が必要です」
「ですが…生活が…」
「ではこんなのはどうです?入院ではなく、仕事を辞めて同居人を作る。そしてしっかり休息をとって体調を整える」
「しかし仕事をしないと」
「休息がきちんととれるようになったらまずは家庭の仕事をするんです。掃除や料理はリハビリになります」
「いえ、生活費を稼がねばなりません」
「大丈夫ですよ」
ぎゅうと握られた両手。体温は低いが、それでも冷え切った道満の手よりは温かい。
「私が生活費を全額出します。だから一緒に住みましょう。なんなら結婚しますか、一生面倒みますから」
「は、はァ……?」
「私のところに永久就職して、家で働く道満…とても素敵だと思いますよ」
「ちょ、ちょっと待ってください、なぜそのような話に?」
「一目見て気に入りました。その髪も筋肉も艶やかになるまでしっかりケアしましょう。美しい顔に隈なんて勿体無い。なァに、私はプロです。付きっきりのメンタルケアと愛情ですぐにおまえを幸せにさせてやりましょう」
鬱で判断力の鈍った頭は限界だった。理解不能な言動の数々を「これはジョークに違いない」と解釈して、適当な相槌を打って、トントン拍子に話が進んで。そして夕方には高級マンションの一室でクイーンサイズのベッドに寝かされ、運ばれた食事を甲斐甲斐しく世話をやかれながら食べさせられているなどとは、想像するべくもないのであった。