鍋から湧きだす蒸気が窓からゆらゆら逃げていく。夕方にはまだ早い時間だが、ネロはすでにキッチンにいた。魔法舎もなかなかの大所帯、全員が揃ってというのは滅多にないとはいえ、夕食を作るにも量があれば時間もかかる。先に下拵えしておいて、食べる直前に仕上げるのが料理のコツ──ネロの場合はもう癖のようなものだった。
本日のメインディッシュは骨付きのスペアリブ。買い出しで出会った思わぬお買い得品だ。いい買い物ができた日は気分も上向く。鍋の火を止めて下茹での済んだ中身を移しながら、うっかり鼻歌なんかうたいだしそうになったところで、目の前の窓の向こうになにかが降ってきた。
「……えぇ…」
ドサッバキッガサガサッ!と派手な音と、僅かに伝わる振動。見間違いではなくなにかが落ちた。そして一瞬見えた“なにか”は、人の形をしていて、しかも白と黒のツートンカラーの頭をしていた気がする。
湧き上がる困惑と、厄介な気配と、わずかな憂慮。ネロは窓をそおっと開けると「おーい…生きてるか?」と呼びかけてみた。
「…あークソっ!ミスラの野郎!!」
存外元気な声と同時に起き上がった“なにか”はネロの予想通りブラッドリーで、その一声とボロボロの姿だけで大体の事情は察せた。
チッ、と舌打ちするブラッドリーの手には柄が途切れた箒がある。箒の柄を伝って、血が流線を描いていた。
「ブラッド、手」
「あ?」
思わず口をついた呼び方に気を取られたように、ブラッドリーが拳を開く。その掌は鮮血で真っ赤だった。今しがた手を離れた硬い柄の箒、折れて尖った先端がブラッドリーの手にざっくりと刺さっていたのだ。やっと気がついたネロはぎょっとする。
「おまえそれ…!」
「騒ぐほどのもんじゃねぇ。魔法ですぐ治る」
「……そ、か…」
ぷらぷらと血濡れの手を振ってみせるブラッドリーに、ネロは差し出しかけた手を引っ込める。なんでもないふうに怪我をしてくるこの男を咎めることも、理解してもらえない心配を抱えながら治療してやることも、押し付けられる関係では、もうない。わかっているのにいちいち心が曇るのが、自分勝手で嫌になる。ネロは気まずくなってブラッドリーから目線を外した。
「《アドノポテンスム》…それにしても追撃が来ねえな。さては飽きて帰ったか?」
空を睨んでミスラの姿が無いことを確認したブラッドリーが腹立たしげに地面を蹴る。土埃と共に流れていた血が霧になって散った。治癒魔法は問題なく発動しているようで、しばらくすれば傷も消えるだろう。自分に出来ることはもうなさそうだとキッチンへ戻りかけたネロを、ブラッドリーが呼び止める。
「おいネロ!なんか食いもんくれ」
「は?今?」
「魔法使うにも腹減ってちゃ力出ねえんだよ。フライドチキンがいい」
「てめえは…いつでもキッチンにフライドチキンがあると思うなよ!?」
状況にそぐわないリクエストに気を抜かれつつも、わずかに心の靄が晴れた気がした。もしかしたら、見透かされて気を遣われたのかもしれないけれど。そうだとしたら、少しうれしくて、少し悔しい。
急にチキンは無理だが、すぐに食べられそうなものを探してキッチンを見回す。待ちきれないブラッドリーは窓から覗き込むように顔を出してきて、下準備中のスペアリブに目をつけた。
「なんだよ。すぐそこに肉があるじゃねえか!チキンじゃなくていいからそれ食わせろよ」
「え?あー、それか…今日の夕食に使うやつなんだけど」
「ケチなこというなよ。肉が足りなくなったら夕飯までに熊でも猪でも狩ってきてやるから!」
「そんな調理に困るもんはやめてほしい…」
ネロは諦めて素直に肉を差し出すことにした。食べられた分はブラッドリーの食事から減らせばいいか、という残酷な決定は本人には伝えない。本来ならこの後焼く時に使うつもりだった特製ソースを肉に絡めて、窓越しのブラッドリーの前に小皿で出してやった。
「あ、ちょっと待てネロ」
「なに?」
あ、とブラッドリーはネロに向かって口を開けてみせる。「食べさせろ」を意図するそれに、ネロは思いきり動揺した。
「は!?え、なんで?」
「わかんだろ。今手に穴空いてんだよ。手づかみで食ったら血の味しかしねえだろうが」
「ひ、左手は」
「腕折れてる」
「まじかよ!?そういやさっきから左腕全く動かしてねぇ…」
「うるせえ、こっちも右手と一緒に治す。だからまずそれ食わせろ」
おかしい、おかしい、ぜったいにおかしい。そう思いながらもうまい反論が浮かばず、ネロは恐る恐るブラッドリーの口元に骨付き肉を近づけた。途端にガブッ!と噛み付いてくるのに「ヒェッ」と情けない声が出る。
「うめぇ」
「危ねぇ…指まで食われるかと」
ガツガツと肉に齧り付く様子に、犬に餌付けしているみたいだとネロはぼんやり思う。首のチョーカーも首輪みたいだし、硬い髪質もこんな毛並みの犬がいたような…と考えるほどに目の前の男がどうしてか可愛く見えてきた。食べるところのなくなった骨をしゃぶりながらもっと欲しいと言わんばかりの目も犬だと思えば…。
ぢゅう。
「!!」
指を吸われてネロは反射的に指を引っ込めた。吹っ飛んだ骨片は窓枠に当たってガキンと耳障りな音を立てる。
「なっ…、に、すんだ馬鹿!」
「お前こそなに間抜けなツラしてんだ。妙なこと考えてなかったか?」
「…はは。いやまさか。そんなわけないって」
「ふーん?」
ブラッドリーにジトリと睨まれる。だがネロはそれよりも指に残る感覚が、ブラッドリーの少し荒れた唇や微かに触れた熱い舌の感触が気になって、そわそわと掌を開いたり閉じたりしてしまう。
「ネロ」
「…なに」
「もっと寄越せ」
泳ぎ回っていた視線を戻す。甘えるみたいに首を傾げたブラッドリーが、しかしその瞳に確かな蠱惑を乗せて不敵に笑った。
「食われたいなら指でもいいぜ」
言って、赤い舌で唇をなぞってみせる。わざとだ。理解しながらもそこから目が離せない。ネロは知らず詰めていた息を細く吐いて、震える指を伸ばした。
「俺にもなにかください」
「「うおわぁっっっ!!??」」
ぬっと急に現れた長身に2人は仰け反って声を上げる。ミスラはそんな反応を全く意に介さず長い腕を組んで溜め息をついた。
「俺も腹が減りました。先に休憩してるなんてずるいですよブラッドリー」
「てめえが先にやめたんだろうが。急に出てきていちゃもんつけてんじゃねえよ」
「なんだ元気じゃないですか。まだやられ足りないんですか?」
「待て待て!ここで喧嘩すんな!」
今にも再戦を始めそうな2人を宥めながら、ネロは己を恥じていた。あそこでミスラが現れなかったらブラッドリーの誘惑に屈していたであろう自分が情けなくてしかたない、穴があったら埋まりたい気分だ。ということはミスラには感謝すべきなのでは、とネロははたと気がついた。
「ミスラ、夕食の肉多めにしてやるから楽しみにしてな」
「そうなんですか。ありがとうございます」
「はあ?おい俺は」
「野菜たっぷりにしとく」
「なんでだよ!」
なんでって、それはもちろん仕返しだ。
そろそろ沈んでくる夕日の眩しさに目を眇めつつ、これ以上の文句が飛んでくる前にネロはキッチンの窓を閉めた。
終