月花前日譚 二木漏れ日の朝の地面は万華鏡のように光が揺れる。茂る枝葉をたまに頭に引っ掛けながら、レノックスは迷いない足取りで進む。目的の小さな庵に着くと、丁度中から庵の主が出てきたところだった。
「ファウスト様。お久しぶりです」
「レノックス。また歩いてきたのか。一本下駄で山道なんて正気じゃないと言ったのに」
「鍛錬に丁度いいので」
「いや飛びなよ。きみも天狗だろう」
呆れた溜息を零すファウストの顔色は白い。隈取りで分かりにくいが、目の下にも疲労が見える。
「あまり眠れていないのですか? 体調が優れないのでしたら、出直しますが」
「たまたま夜更かししただけだ。きみが来るのは前々からの予定だ。調整できなかった僕が悪い」
言いながらファウストはレノックスに藤籠を手渡した。中身はファウストが煎じた薬だと聞いている。桜雲街の薬種問屋へ卸すのだ。
「注文の品だ。先方によろしく伝えておいて」
「はい。ありがとうございます」
「きみを使ってしまってすまないな」
「俺は、ファウスト様にお会いする機会を頂けて嬉しいです」
こう言えば毎回、ファウストは困ったような顔をして黙ってしまう。困らせたいわけではないのだが、ファウストがどうしたら喜んでくれるのか、レノックスにはまだ思いつかない。
「…長居してはご迷惑ですね。俺はもう街に戻ります。また数日したら、お顔を見に来てよろしいですか」
「迷惑なんてことはないけど…。少し、頼みたいことがあるんだがいいだろうか」
「はい。なんでしょう?」
「針と糸を買ってきて欲しい。急がなくていいから」
「…それは、構いませんが」
意外な品目に一瞬反応が遅れた。よく見るとファウストの着物の袂がほつれている。視線でわかってしまったのか、ファウストは気まずそうに腕を隠した。
「…俺が直しましょうか? 長屋で色々と修理なんかもしているので、繕い物も少しは出来るかと」
「そ、そこまで世話になるつもりはない」
「俺が世話を焼きたいのです」
ファウストはレノックスにとって恩人だ。頼られれば応えたい、頼まれなくても力になりたい。なのにまた、ファウストに困った顔をさせてしまった。
「自分でやるよ。きみに甘えているとひとりではなにも出来なくなりそうだ」
苦笑まじりにそれだけ言うと、ファウストは庵へ戻っていく。山奥の木々に埋もれるような小さな庵。こんな辺鄙なところに、たったひとりで住んでいる天狗。
「ひとりでなんでも出来てしまうから、ひとりにしておきたくないのに」
それを伝えてもきっとファウストを困らせてしまうのだろう。
黙々と山道を歩きながら、レノックスはようやく気づく。また飛ぶのを忘れていた。