月花前日譚 三薬種問屋の店内は昼でも薄暗い。薬の中には日光に当てると変質してしまう物も多いからだ。
店番のヒースクリフは輝く美貌を憂いに沈めていた。今は無人の店内は数分前まではひどく混雑していた。それが薬を求めて来た客なら商いとしては喜べたのだが、大半はヒースクリフを一目見たいがために集まってしまった、有り体に言えば冷やかしの客たちばかりだった。街の瓦版に、幸福をもたらす微笑みなどと妙な記事が掲載された時期から、そんなお客が一気に増えてしまったのだ。はじめはヒースクリフも応対していたが、しつこいお客にまごついている内に収集がつかなくなったため、本来用心棒のはずのシノやカインが店先で客の出入りを抑えている始末。
店の跡取りとしてあまりに不甲斐ない現状に、深い溜息をついてしまう。
「こんにちは」
「えっ!? 」
急にすぐ近くから聞こえた声に驚いて顔を上げる。店の中には見慣れない妖狐がひとり立っていた。ヒースクリフは慌てて居住まいを正す。
「い、いらっしゃいませ。薬をお求めですか…?」
「今日は薬じゃなくて、きみを見にきた!」
この人もか、とまたヒースクリフは憂鬱を覚える。ずっとこんな調子では、店に迷惑をかけてしまう。いっそ顔を隠して過ごそうか…思考とともに視線を落としたヒースクリフの正面に、妖狐の客は踊るように歩み寄った。
「きみの評判を耳にしたんだ。輝く月のように美しいって。だから確かめに来た」
「確かめに…ですか。あの、他のお客様のご迷惑になるので…」
「他のお客って? 今は俺ときみしかいない!」
そういえば、いつのまに入ってきたのだろう。表から来たなら、シノやカインがこちらに一声かけそうなものだけど、とヒースクリフは内心で不思議がる。妖狐の男はにこにこと愛想は良いが、どこか得体の知れない雰囲気があった。
「たしかに綺麗だけど、俺の愛する月とはちっとも似ていないね」
「愛する、月…?」
思わず聞き返すと、男はひたとヒースクリフを見つめてきた。
「月は見られてこそより光輝くもの。でもヒースクリフは見られるのが嫌いみたい」
「そう…かもしれない。人から見られるのは、恥ずかしいし、怖いから…」
「どうして?」
「…どうして、って」
「だって俺は見られても恥ずかしくも怖くもない!きみはどうして、なにが怖い?」
男の目がゆっくりと弓形に細められると、翡翠色の瞳の中の自分も揺らぐ。輪郭がわからなくなるような感覚。眠たいわけでもないのになぜかぼんやりとしてくる。茫洋とした頭のまま、ヒースクリフは思考する。
恥ずかしいのは、見た目や肩書き─大商家の跡取り息子という身分に、中身が釣り合っていないから。怖いのは、そのことを見透かされるのが恐ろしいから。
「自分に自信がないんだね」と囁かれた。いや、実際には言われていない。この男と話していると、耳を傾けてしまうと、勝手に心の中を暴かれたような気持ちになる。
「ヒースクリフ。きみが本当に嫌いなのは他人の視線? それともきみ自身?」
「…俺は…」
「ヒース!!」
呼ばれてハッと我に返る。シノとカインが妖狐の客との間に割り込んで、ヒースクリフを庇うように立ち塞がっていた。
「シノ、カイン…」
「ヒース。無事か」
「遅くなってすまない。あいつ、店に入ってきたのが見えなかった」
「えっ? でも、店の入り口はそこしか…」
「たぶん、妖術を使われた。全然気づけなかったなんて、かなり強い妖怪だ」
用心棒の二人が武器を構えて男を見据えている。彼は見たところ丸腰のようだが、妖術を使われたら太刀打ちできるか…。
「こーん!」
「!?」
「あはは、みんな怖い顔してる!このままだと、俺はすっごく怒られちゃう!怒られるのは嫌ー。だから、逃げる!」
急に鳴いたかと思うと、妖狐は飛び跳ねて距離をとる。そのままくるりと回転し、次の瞬間煙のように消えてしまった。
「! 消えた!?」
「また妖術か…」
シノが悔しそうに舌打ちする。カインはぐるりと辺りを見回した後で、未だ唖然としたままのヒースクリフに駆け寄った。
「ヒース。危険な目に合わせてすまない。怪我はないか?」
「あ…うん。大丈夫だよ」
「本当か? あの狐になにかされてないのか?」
「う、うん」
シノも勢い込んで問いただしてくる。本当になにもされていないし、店に被害もなかった。その時、コロン、と下駄の足音がして三人はバッとそちらを向いた。
「…失礼する。薬の配達に来たんだが…取り込み中だっただろうか」
そこには、三人一斉に顔を向けられてひどく居心地の悪そうなレノックスが立ちすくんでいた。