ショートスリーパーのくせして、後見人は寝覚めが死ぬほど悪い男である。
「五条さん、五条さん起きてください」
「んぁ〜……うるさぁい……」
その恵まれた体躯を収めるために特注した大きなベッドの上で、布団の中に籠城しているその男、五条悟を布団の山ごとばしばしと叩く。ここ最近仕事がやたらと忙しいらしく、昨夜の帰りも深夜一時を過ぎていたし、そこからさらに持ち帰った仕事をこなしていた。
「五条さんってば」
「マジでうるせぇ……あと五ふ、ん……」
布団の山をばりっと捲ると、現れた新雪のように美しい髪が、朝日に照らされて銀色にひかる。どこぞのモデルかと見紛うほどの美貌を皺くちゃにしてむずがる五条に、大きくため息をついた。
こっちだって、出来るなら寝かせてやりたいところだ。彼の仕事は〝表向き〟は某大学の准教授であるが、どちらかというと午前中の方が融通が利くらしく、昼過ぎまで家にいることも多い。好きなだけ眠れば良いと思うのに、家を出る前に声をかけなければ、怒られるのは何故かこちらの方だった。
「俺、学校行きますからね。朝飯作ったんで、起きたらチンして食べてください」
「んう」
長いまつ毛の並んだ瞼は、まだぴっちりと閉じている。聞こえてんのか、これ。まあ、俺はちゃんと起こしたからな。返事も聞いたぞ。返事っつーか、唸り声みたいだったけども。
よし、と、勝手に結論づけて立ち上がる。いってきます、と声をかける寸前、「めぐみ」と、今の今まで瞳を閉じていたその人が、はっきりと名前を呼んだ。
「暗くなる前に帰ってきな。くれぐれも、〝裏番地〟には行かないこと」
振り返れば、先ほどまでぴっちり瞼を下ろしていたはずなのに、特別製だという空色の瞳に真っ直ぐ射抜かれた。ゾッとするほど美しい瞳だ。それに反するように、自分の眉間にシワが寄るのがわかった。
「……わかってますよ。っつーか俺もう高校生なんですけど」
「年齢なんて関係ないね。実際今、恵の左肩に新鮮なのがくっついてる」
布団から伸びてきた指が、ピンと空を弾いた。パシュッ、という小さな破裂音が聞こえて、ほんの少しだけ肩をすくめる。
「気づいてなかったでしょ」
「……ファッションですよ」
「あは、無理あるっつーの。まあ、何かあったら必ず連絡すること。いいね?」
念を押すようにそう言うと、五条はくありと欠伸をこぼして、再び布団の山の中に引き篭もった。
そういえば、今朝は起き抜けからずっと肩が重かった気がする。昨夜は数学の課題を片付けるのに少し手こずったから、寝不足によるものだと思い込んでいたが、どうやらそうではなかったらしい。
随分と楽になった体に、またひとつ大きなため息を吐き出す。
「ありがとうございます。いってきます」
小さく述べた礼には、ぐう、という寝息が返ってきた。
幼い頃から、いわゆる〝人ならざる者〟とやらに好かれる体質だった。幽霊だとか、妖怪だとか、そういう類のものを、五条はまとめて〝呪霊〟と呼んでいる。
表向きは某大学で考古学を教えている准教授である五条は、平安の時代から続く〝祓い師〟の家系の現当主である。文字通り呪霊を祓う力を持つ彼と共に暮らすことで、この体質による被害を日常的に祓ってもらっていた。
呪霊は、人間の負の感情が積もって生まれる。そのまま放置していると、生きている人間にさえ影響を及ぼしてしまうから、五条のような祓い師が祓う。知っているのはそれくらいだった。
厄介なことに、呪霊に好かれる体質のくせして、自分自身ではその呪霊を認識できない。なんとなく嫌な感じがする場所や、どことなく暗く見える場所がある程度で、そういったところには近づかないようにと口酸っぱく言われていた。
そんな体質しといてなんで見えないのか不思議でならない、と、出会った当初の五条に散々言われたが、見えないものは見えないし、特段見たいとも思っていない。
もちろん、五条に迷惑をかけている自覚はある。だが五条と離れればそれはそれで彼に多大なる迷惑をかけることになるというのを、幼少期に一度学んで以降、おとなしく彼の言うことを聞いたほうが賢明だと知った。だからこそ、彼が近づくなと言ったところには絶対に近づかないと決めている。
そんな五条のおかげもあって、これまでこの体質で悩んだことも特になかった。高校一年生の男子に十七時半の門限を課するのは如何なものかと思うが、部活をしているわけでも親しい友人がいるわけでもないので、これまた別に困らないのである。
「──あっ、伏黒くん!」
家を出てすぐに、後ろから声をかけられた。振り返ると、同じ学校の制服を着た女子生徒がいる。確か、同じクラスの。同じクラス、の、えっと……誰だ。
「偶然だね! 伏黒くんお家こっちなんだ。良かったら一緒に行かない?」
自然と隣に並び立った彼女は、返事も聞かずに歩を進める。結局彼女の名前は思い出せないまま、まあいいかと諦めて隣を歩いた。そういや、週に二、三度ほどクラスの女子、あるいは同学年の女子、はたまた先輩だと名乗る女子と、偶然家の前で鉢合わせることがある。みんな家がこっち方面なのかな。
「伏黒くん、学校終わったらすぐ帰っちゃうからさ」
もっとお話ししてみたくて、と彼女は頬を赤らめた。もしかして風邪だろうか。
「あ、そうだ。もし良かったら今日の放課後──、」
「おい」
「えっ?」
何かを言いかけていた彼女が、パッと顔を上げる。これまた唐突に後ろから声をかけられて、彼女と共に立ち止まった。振り返る。その先で──途端に、周りの音が消えた気がした。
「この辺りに寂れた細い路地があるだろう。場所を教えろ」
そこにいたのは、一人の男だった。見かけない顔だ。年齢は大学生くらいか。ピンクアッシュの珍しい髪色は視線を引いたが、それよりも顔に施されたペイントだか刺青だかに、隣の彼女がギョッと一歩引いたのがわかった。明らかにカタギの人間ではない。そんな男が路地を探しているのだ、さすがに少し不審に思って、眉を顰めた。
「この距離で俺の声が聞こえぬか」
返答をたじろいでいると、チッ、と男が舌打ちをした。いや舌打ちしてぇのはこっちですけど? と苛立つ。もとより、どちらかといえば気は短い方だ。隣の彼女が不安げにしているので、とりあえず背に隠すように移動して、男を見据えた。
「それが人に物尋ねる態度かよ」
ここから少し行った先に、今は誰も住まなくなった集落に続く路地がありますよ、と、素直に口からは溢れてくれなかった。一応用意はしてあったが、男の舌打ちと共に霧散したのだ。悪いのは男の態度であって、自分ではない。後ろのクラスメートが小さく息を飲む音が聞こえたが、相反して目の前の男は薄く笑った。
「……貴様、清々しいほどに呪われているな」
「は?」
「おい、女。路地の場所は」
ケヒッ、とひとつ笑い声をこぼしたその男は、もう興味は失せたとばかりに視線を移した。唐突に話を振られた彼女は、たどたどしく路地の場所を教える。彼女が吐き出したのは、先ほど男の舌打ちと共に霧散した言葉と同じものだった。
彼女の言葉にふむと頷いた男は、礼もなくくるりと踵を返す。そのまま、その寂れた細い路地を目指して歩き始めた。程なくして、背中が見えなくなる。世界に音が戻ってくる。伏黒くん、と声をかけられて、ようやく自分が男が消えた道をじっと睨んでいたことに気がついた。
「怖い人だったね……」
わずかに震えた声に、自分があそこで男に突っかからなければ、彼女が怯えることはなかったと、短絡的な行動を恥じた。悪かったと小さく詫びれば、彼女は驚いたように首を振って、それから「カッコよかったよ」とはにかむ。顔が真っ赤だ。風邪悪化してんじゃねぇか?
「それにしても、なんで路地なんか探してたんだろう。裏番地って今は廃墟だよね?」
彼女のやわらかい声に、ハッと気がついた。そうだ。あの路地を超えた先にあるのは、今は廃墟と化した〝裏番地〟だ。
五条に、夜はもちろん昼でも絶対に近づくなと散々言い聞かされている場所である。その理由について詳しく聞いたことはなかったが、あれは後見人として保護者の立場から出た言葉というよりは、〝祓い師〟としての五条が危ない場所だと言っていた。近づかない理由は、それだけで十分である。
現在、老朽化を名目に立入禁止区域になってはいるが、あの男がその看板に素直に従うようには、どう気前良く見積もっても思えない。
「ねえ、伏黒くん。怖いから、ちょっとだけ手を握っ──」
「悪い、先行っててくれ」
「えっ?」
ぱっと振り返ると、彼女の手がひょいと空を切った。何がしたかったのか分からずに首を傾げると、彼女はきょとんとこちらを見つめている。
「あの男、止めてくる。あの先には行かない方がいいだろ。立入禁止区域だけど、なんか無視して突っ込んでいきそうだったし」
「えっ、でも、」
「あとこれ」
「え、」
中途半端な位置で固まっていた彼女の手のひらに、ポケットから取り出したのど飴を乗せた。
「風邪、お大事に」
じゃ、と、彼女に軽く会釈して、踵を返す。もうとうに見えなくなった背中を追いかけて、走り出した。その後ろで「ちょっ、もうっ、そういうところだよぉ」という彼女の悲鳴が聞こえたような気がしたけれど、意味がよく分からなかったので多分聞き間違いだと思う。
◆◇◆◇◆
「うわ、暗……」
初めて足を踏み入れたそこは、まだ朝だというのにどんよりと薄暗く、そしてどことなく空気が重いように感じた。後ろを振り返れば明るい街並みが広がっているぶん、この路地を境界にして、世界が変わってしまうかのような。
五条には連絡を入れてある。何かあったら必ず連絡するように、と言うだけあって、コール音が三回続くよりも早くに『どうしたの』といつもより低い五条の声が聞こえた。まあ、順当に行けば学校に着いた頃だ。この時間に電話をかけることはまずないため、緊急事態だというのは明らかだった。
説明をしようと口を開くよりも先に、『恵、お前今どこに、』と少しだけ焦ったような声が聞こえて、それから『事情は後で聞く、お説教もするからね』と怒鳴られ、通話は途切れた。どうやら、何を言うまでもなく、どこにいるか、そして今から何をしようとしているか、全てバレてしまったらしい。
説明不要なら話は早い。おそらくこれから五条がトップスピードでこちらに向かってくるだろうから、後はもうどうにでもなるはずだ。
周囲に、あの男の姿はなかった。路地の前に立てかけられている〝この先立入禁止区域〟という色褪せたという看板は、彼の視界にも入らなかったのだろう。
おそるおそる、路地に足を踏み入れる。
──ごう、と、風の抜ける音がした。生ぬるい風だった。じっとりとした、水気を孕んだ嫌な風だ。耳鳴りがする。一歩踏み出すごとに足が重くなる。慣れ親しんだ感覚だった。五条に言わせれば、〝憑かれている〟時に起こる不調。だけど、不思議と呼吸は苦しくなかった。
路地を抜ける。ひらけた世界は、時を止めて穏やかに朽ちていた。かつて人が住んでいた形跡を、あちらこちらに残したまま。
怖いという感覚はあまりなかった。どちらかというと、寂しい、に近い。ひび割れた道路を進む。男を呼ぼうとして息を吸って──そして止めた。
いや、アイツの名前とか知らねぇわ。ぷしゅう、と間抜けな息が漏れる。名前は知らない。おーい、と呼ぶのもなんだか馬鹿らしい。少しだけ迷って、結局黙々と探すことにする。
割れたガラス窓。放り出された自転車。片方だけ落ちている運動靴。壊れたテレビ。この土地を自然災害が襲ったのは、今から数十年前だそうだ。生まれるよりもずっと前で、知識としてしかそれを知らない。再開発の話が出ては立ち消え、いつの間にか人が寄り付かなくなり、今や心霊スポットにさえならない廃墟と化している。
あの男は、こんなところに一体なんの用があるんだ。まさか死体でも隠してんじゃねぇだろうな、と嫌な想像が頭をよぎったが、思い返すと男はやけに身軽だった。荷物のひとつさえ持っていなかったように思う。
こんなところに、身ひとつで。そうなると今度は、洒落にならない想像が脳内を巡った。人の寄り付かない廃墟と、何も持っていない男──何も持っていないのではなく、全てを捨てるためにここに来たのだとしたら。
呪霊は人の負の感情から生まれる。呪霊は周囲を穢す。穢れは人の負の感情を呼び寄せる。呼び寄せた人間の感情を食らって、呪霊は成長する。五条に聞いた最悪のスパイラルを思い出した。あの男がこの土地に惹かれたのは、もしかして。
「あー……やっぱ学校行きゃよかった……」
先に立たなかった後悔が口から溢れる。自殺志願者の止め方なんて知らねぇよ。男に何があったのか知らないし、何を思ってその結論に至ったのかも知らない。そもそも自分は道を尋ねられただけの赤の他人であり、これまでもこれからも関わり合う必要性は何ひとつないのに。
ここまで来てしまった以上、この場で死なれてはさすがに据わりが悪い。死ぬならここじゃない場所で、俺の知らない時に死んでくれ。偽善にもならないようなエゴイズムで、滅入りかけた気持ちを持ち直して、顔を上げる。
「……あ、」
ふと、百メートルほど先に、広場のような場所を見つけた。元は公園だったのか、傾いた滑り台と、支柱が折れて地面に頽れたブランコがあった。少し曲がった金属バット。ぺちゃんこになったサッカーボール。誰もいない砂場。その、真ん中に。
「扉……?」
どこにも繋がらない、一枚の扉がぽつんと立っていた。
ただの扉だ。壁もないのに、扉だけがただそこに聳えている。なんの変哲もない、朽ちかけた木製の扉が、妙に目を引いた。なんでこんなところに扉が。おずおずと近づいてみる。アニメの世界で、青いたぬきがポケットの中から取り出すどこにでも行ける夢の扉に形がよく似ていた。いや、あれはたぬきじゃなくて猫型のロボットだったか。
どちらかというとリアリストではあるが、あの扉が実際にあったら便利だよな、とは思う。交通費浮くし、時間短縮にもなるし。そんなことを考えながら、そっとドアノブに手を伸ばした。
「そこで何をしている」
「っ、」
触れる寸前、後ろから声をかけられてビクッと肩が跳ねた。慌てて振り返ると、先ほどの男がこちらに向かってきているのが見える。その手には、まぁ何にとは言わないが、〝お誂え向き〟なロープを持っていた。
あっちの滑り台か。それともそっちのブランコか。もしやこの扉のドアノブで括ろうってんじゃねぇだろうな。
男は真っ直ぐ扉に向かって歩いてくる。疑念は確信に変わり、扉の前を塞ぐように仁王立ちした。
「なんのつもりだ?」
投げられた声は、存外穏やかなものだった。邪魔されたことに対する怒りや焦燥も感じない。ただ純粋に、この状況が理解不能だといった表情で、男は首を傾げている。
「別に。お前がなんでそんなことすんのか、興味もねぇけど……さすがに見送った後にっつーのは気分悪いだろ」
「あぁ……貴様、〝閉じ師〟か」
「トジシ? なんだそれ」
聞いたことのない単語に眉を顰めると、男はぱちくりと瞬いた。返答に驚いたらしい。それから、「へぇ」と口角を上げる。
「閉じ師でもないのに、俺のおろした帳に足を踏み入れて無事なのか」
「とばり……?」
「簡易的な結界だ」
「…………。」
え、あ、もしかして電波系か? そういう感じなのか。そのなりで? 人を見かけで判断するのは浅はかだとは思うが、どう優しく見積もってもヤクザなのに。現実世界で初めて聞いた結界などとというワードに思わずたじろぐと、男はゲラゲラ笑い始めた。いやもう怖ぇよ。なに? マジでなに?
「帳も知らぬか。面白い、お前は何者だ?」
「何者って、」
「ちょうど〝扉を開けた〟ところだ。お前の本気を見せてみろ」
「は、」
何言ってんだコイツ。それが言葉になる前に、背後からぬるりと漏れ出た嫌な気配に背筋が震えた。
なんだ。今まで感じたことのない嫌悪感だった。どろりと腐敗した空気に、呼吸が浅くなる。これまで、なんとなく嫌だなと感じたことは幾度となくあったが、これほどまでに全身が竦んだのは初めてだった。
「なん、だ……これ……」
振り返った先、男の言った通り、先ほどまで閉じていたはずの扉が半分ほど開いていた。ただそこに佇んでいただけの扉に先なんてないはずなのに、開いた扉の向こうには、呑まれそうなほどの深い闇が広がっている。なんで。どうして。そのわずかな闇から、じわりじわりと良くない何かがこちらに出てこようとしているのがわかった。
なんだあれは。この扉はどういう理屈に基づいて存在しているんだ。考えてもわからないことが、ぐるぐると脳内を巡る。背後の男は傍観を決め込むつもりらしく、こちらの動揺を悟って「ケヒッ」と小さく笑いやがった。
そして──ものすごく今更な話ではあるが、おそらくあの男は自殺志願者なんかじゃない。いやもうマジで学校行きゃよかった
「っ、」
心の中で盛大な舌打ちをしていると、ついに扉の向こうにいた何かがずるりとこちらに足を踏み入れた。足。足か、あれ。黒い塊のようなものが、どろどろと蠢いている。姿形はよく見えない。ただそれが、すごく嫌なもの、ということだけはわかる。もしかして、これが五条の言う〝呪霊〟なのだろうか。
もしこれが、呪霊だとしたら。
呪霊は周囲を穢す。穢れは人の負の感情を呼び寄せる。呼び寄せた人間の感情を食らって、呪霊は成長する。最悪のスパイラルだ。今まさに、その呪霊が生み出されようとしている。
祓い師の五条の仕事を見たことはない。自身を祓ってもらったことは幾度となくあるし、なんなら今朝も、左肩に乗っていたらしい新鮮なやつを祓ってもらったばかりだ。だが五条がどうやったのか、それは見えなかったし、わからなかった。
わからないことは出来ない。出来ないが、呪霊が扉から出てきてはまずいことはわかる。わかることから片付けるとすれば──呪霊を扉の外に出さなければいい話である。
ドンッ、と、扉に全体重をぶつけた。押し返してくる力は感じるが、もう一歩踏み込めば、ズズズと音を立てて扉が閉まろうと動く。
「くっ、重てぇなクソがッ……」
数センチほど閉まったところで、ぴくりとも動かなくなった。足場が砂のせいで、油断すればひっくり返される。膠着状態になろうかという時、ふとすぐ近くに人の気配を感じた。
「ふむ」
「てめっ、何して、」
いつの間にかこちらに来ていた男が、扉の中を覗き込んでいる。男がひょいと顔を近づけた瞬間、扉を挟んだ向こう側にいる呪霊がおどろおどろしい鳴き声をあげた。
「一級にも満たん雑魚が出たか」
「あ」
「つまらんな。興味が失せた、祓っていいぞ」
「んなもん、出来たらやってる」
ため息混じりに吐き捨てた男に、怒りそのままそう叫ぶ。出来ないからこそ、今こうやって体張って扉閉めようとしてんだろうが。
「お前……閉じ師でもなければ祓い師でもないのか」
「は、」
祓い師。今確かに、この男の口からその単語が出た。なるほど、この男は五条と同様の力を持っているか、またはその界隈に精通しているということか。
どうりで性格が悪いわけだ、と、扉を押さえ込みながら深く納得する。
「扉を閉じる力も呪霊を祓う力も持たぬお前に何ができる?」
にんまりと口角を開けた男が、楽しそうに問いかける。実際、扉を押し返してくる力はどんどん強くなり、じりじりと体ごと後退していることには気づいていた。
「この場にとどまれば、いずれ飲まれるのはお前の方だ。逃げるなら今が最後のチャンスだぞ」
「でもっ、俺が逃げたら扉が開くだろうが……!」
「開くからなんだ? その呪霊のせいで誰が傷つこうと、お前に関係があるか?」
「関係ねぇしどうでもいいっつの」
「なに?」
ぐぐぐ、と、もう一度全体重を扉にかける。わずかだが、扉を押し返せた。苛立ちが原動力になるタイプでよかった。なんかもう喋るだけでムカつくんだよ、この男。
この扉がなんなのかは知らないし、何が出てきてるのかもよくわからない。呪霊とは何か、この男の正体は何か。何もかもわからない中で、ただひとつ、自信を持って言えることがあるとすれば。
「お前から逃げるっつーのが癪に障る」
ぎろりと男を睨みつけると、男は虚を突かれたような顔をして固まっていた。
プライドが高い方、というわけではないけれど。なんとなく、この男から目を逸らせば、今後一生、ふとした時にあの「ケヒッ」と笑う顔がチラつく気がする。それは絶対に嫌だった。
さて、どうするか。自分の体力を考えると、この膠着状態ももってあと十分少々というところだ。それまでに五条がこちらに来てくれればどうとでもなるが、現時点であの電話からすでに二十分近くは経っているにも関わらず、姿が見えないということは、助けは見込めないと考えた方がいい。
この男が五条と同業だとして、ならば先ほど言っていた帳とやらは、本当に他者の侵入を拒む結界なのだろう。自分が何故通り抜けられたのかは知らないが、五条が来れないならば自分でどうにかするしかない。
考えて、考えて。考えたところで分かるはずもなく、結局短絡的にグッと握った拳を、黒い塊のど真ん中にぶち込んだ。もはや癇癪に近い。
そもそも呪霊って物理攻撃通るんだろうか、とぶち込んでから思ったが、黒い塊に触れられたような、確かな手応えがあった。あ、これ殴れるんだ。なるほど。ダメージを与えられたのかは定かではなかったが、呪霊の動きが少し鈍くなった。足止めは可能。なるほどなるほど。
──ならばもう、殴り続けるまでである。
高校に入学すると同時に、五条の都合でこちらに引っ越してきた。中学時代を過ごした地元では、ほんの少しヤンチャをしていた過去がある。といっても、道を歩けば不良や半グレどもが端に避けて震えながら頭を下げる程度だけれども。
幸い、向こうに攻撃意思はないのか、反撃する様子は見られなかった。殴れば殴るだけ足を止め、蹴れば蹴るだけゆっくりと後退していく。まだ扉から半身も出ていなかった呪霊は、そのうち扉の向こうの闇に溶けた。
ばん! と、勢いよく扉を閉める。閉めてしまえば、ただの一枚扉だ。鍵も何もついていない。もちろん、閉じた扉の向こう側は、こちらから続いた風景がある。だが、もう一度開いてしまえばまたあの闇に繋がるかもしれない。
何か鍵になるもの。そういやあの男、ロープを持っていたんじゃないか。そう思って振り返ると、男は再び爆笑していた。いやマジでお前なんなの。
「魅せてくれたな……」
「何をだよ」
「どこの血筋だ? 呪霊相手に術式も呪力も使わず、素手で応対するとは恐れ入った」
くくく、とまだ肩を震わせている男に、いやお前絶対恐れ入るタイプの人間じゃねぇだろ、と眉間にシワが寄る。言葉とは裏腹に、完全に馬鹿にされている気がした。ロープをぶん取ってやろうと思ったが、コイツに頼るのはあまりにも癪だ。だったらかくなる上は。
「おい、お前まさか──」
ちょうど良く転がっていたバットを、足で手繰り寄せる。曲がってしまっているとはいえ本来の使い方ではない使い方をするのは少々心苦しいが、背に腹はかえられないので許してほしい。
グリップを両手で握り込む。朽ちているとはいえ相手は扉、だがしかし木製だ。対するこちらは金属バット、なおかつ絶賛苛立ち真っ只中の俺である。渾身の力を振り絞って、思いっきり振り下ろした。
ガキィィン と耳を劈くような音が響く。バットを伝った衝撃に、腕が震えた。扉には大きなヒビが入っている。そのヒビから、何かが漏れたりすることもなさそうだ。だったら後は、先ほどと同じである。相手が人じゃない分、呻き声もないのでやりやすい。日頃の鬱憤も込めて扉をタコ殴りにしていると、ものの数分で扉は木片と化した。
「ふう……」
コロンとバットを転がす。制服のネクタイを少し緩めて、額に浮いた汗を拭った。さすがに疲れた、と、その場に座り込みかけた時、グイッと腕を引かれた。
「いって、」
「お前、名はなんという?」
「あ?」
そうだ、まだコイツが居たんだった。腕を掴む力が異常に強くて、振り解けそうにない。ただでさえクタクタだというのに、今からこの男と一戦交えるだけの体力は残っていない。
男は、何故か機嫌が良いようだった。道を尋ねてきた時は少々黙り込んだだけで舌打ちをしていたのに、今は名前を答えあぐねているにもかかわらず、心なしかワクワクとした顔つきでこちらを見つめている。
「……伏黒」
ならばもう素直に告げてしまった方が楽か、と、しぶしぶ答える。
「伏黒……聞いたことがないな」
「俺もお前みたいな奴知らねぇよ」
「〝宿儺〟という名に心当たりは?」
「すくな……? あー、岐阜かどっかの……」
歴史の授業で聞いたことがあるようなないような、と、ぼんやりとした記憶を手繰り寄せていると、目の前の男は分かりやすく不貞腐れた。すくな。それが男の名か。お前もしかして有名人なのか? まあ、見た目も態度もインパクトもデケェけど。
「まぁ、いい。それが俺の名だ、忘れるなよ」
「はあ」
「あと手を出せ」
「手?」
「先ほど怪我をしただろう。素手で呪霊なんぞ殴るから」
言われて見れば、両手に細かい傷がついて、血が滲んでいた。拳は擦り傷でボロボロだったし、バットを振り回した手のひらも豆ができている。
「別にこれくらい、」
大丈夫だ、と言おうとした時、そっと、驚くほど優しく宿儺が両手を撫でた。ほんのりと、お日様のような温かい光が溢れる。
「ぞんざいに扱うな。美しい手だ」
「な、」
するりとなぞって、ぎゅっと両手を握り込まれた。手を繋がれたことも自らの手を美しいと称されたことも驚きだが、それ以上にもっと驚いたのが、先ほどまで血が滲む怪我があったのに、綺麗さっぱり消えていたことだった。
ばっと宿儺の手を振り解いて、両手を確認する。傷ひとつない。ボロボロの拳も、潰れた手のひらの豆も、もちろん痛みも。もうどこにもなかった。
「な、なん、え?」
何が起こったかわからずに狼狽えていると、宿儺にするりと腰を抱かれ、ついでとばかりにこめかみに口付けられた。
「動揺する様も愛らしいな」
「いや訳のわからんことを同時にするな!」
手の傷が消えたことにまだ驚いてる途中だろうが、と、触れられたこめかみをゴシゴシ擦りながら逃げようともがく。だが、抱きつかれて明らかになった体格差と膂力差に、なすすべなく項垂れた。
「なに……マジで何……」
何もかもがわからないまま、宿儺の腕の中でぐったりとしていると、遠くの方でパァン! と何かが弾ける音がする。その瞬間、どんよりと曇っていた空が晴れて、空気が軽くなった気がした。
「あぁ……俺としたことが。気を抜いてしまったなァ」
「あ?」
「恵っ」
ふっ、と、ほんの一瞬の瞬きの隙に、空から五条が降ってきた。もうそれぐらいじゃ驚かない自分がいる。ほぼ音もなく地面に降り立った五条は、それからビタッと全ての動きを止めてしまった。
「な、な、なん、」
彼との付き合いも、もう九年になる。それでも、この男がここまで動揺しているのは初めて見た。いつも付けているサングラスは置いてきたのか、空を閉じ込めたような美しい瞳がこれ以上なく見開かれて、まるで全身の毛を逆撫でて威嚇する猫みたいにこちらを──いや、宿儺を睨んでいる。
それから、すう、はあ、と大きく深呼吸して自らを落ち着けるように呼吸を正すと、今度はしっかりとこちらを見据えて言葉を吐き出した。
「どどどどどういう状況……?」
いや慌てすぎだろ。深呼吸の甲斐もなく、五条はものすごく混乱しているらしい。あわあわと唇を震わせて、そのくせその手にはスマホを構えている。パシャシャシャシャ、と連写されて眉を顰めたが、まさかの宿儺が、五条に向かってピースした。なんでだ。いやなんでだ
「で? 本当にどういう状況なわけ?」
数十枚連写してようやく気が済んだのか、五条は今度こそ落ち着いてそう尋ねた。よくもまあ空から登場して連写かましたくせにそんな真面目な顔が出来るもんだな、と、一周回って感心する。
さて、どういう状況なのか。改めて思い返してみると。
「──俺にもよくわかんないです」
不遜な態度で道を聞かれた。
苛立ったから煽ったら、呪われていると言われた。
目的地が裏番地なことや、何も持たない男の様子に自死を疑い、せめて俺の知らないところで死ねと文句を言うため追いかけた。
よくわからない扉があった。
よくわからない扉が開いた。
よくわからないものがそこから出てきた。
宿儺に煽られて苛立ったから扉を塞ぎ、ぶっ壊した。
怪我を治してくれた宿儺に、突然懐かれた。
五条が降ってきて、連写された。
ぴろんと音が鳴った。隣にいた宿儺が、ゴソゴソとスマホを取り出した。いや今撮った連写をエアドロで送るな 満足そうに保存もするな なんなんだアンタら
──今起こったことといえば、以上である。八割ほど苛立ちが原因だ。なお、現在進行形でキレそうな血管の数は二、三本じゃ済まない。
「ふぅん、そう」
スマホの画面を見つめながら、静かに五条が呟いた。ふざけてるんだか真面目なんだか、その落差に困惑する。
瞬間、ごうっと風が吹いて、いつの間にか対面にいたはずの五条の背中を目の前に見つめていた。その向こうで、宿儺が舌打ちをする。ついに瞬間移動させられてしまったらしいが、やはりもう驚かなかった。五条ならそれくらい出来そうだしな、で片付けられる。
「そもそもお前の管轄は仙台だろ。なんでここにいる?」
ちらりとこちらを一瞥した五条は、ほっとしたように息をついた。やはり多大な心配をかけてしまったらしい。五条に連絡を入れた後、路地に足を踏み入れずに彼の到着を待てばよかった、と、ため息を吐き出すと、それを汲んでくれたらしく、ぽすぽすと緩く頭を撫でられた。
「あそこの呪霊はほぼ狩り尽くした。やはり田舎はつまらんな」
「お前が都会は人間が多くて嫌だっつーからわざわざ斡旋してやったのに」
ぐりぃっ、と、頭を撫でる五条の手のひらに力が籠る。いてぇな、オイ。べしっと手を振り払うと、「あ、つい力んじゃった。ごめーん」と浅い謝罪があった。
「つーか、やっぱアンタら知り合いだったんですね」
宿儺は祓い師を知っていた。五条と同業というのはほぼ間違いない。管轄だの斡旋だのの言葉から、宿儺は五条の部下、ということだろうか。
「知り合いっていうか……話せばすんごい長くなるんだけど聞きたい?」
チラッとこちらを見下ろした五条が、にんまりと笑顔を浮かべた。聞かせたい、という圧がすごいんだが。というかこの人は、聞いてほしい話は前置きなしで喋り出すのが常だ。それなのに、こうやってわざわざこちらに確認を取る場合、聞いても良い事なんて何一つないのだと経験上知っている。
正直、宿儺のことが気にならないわけじゃない。しかし彼に言われた〝呪われている〟という言葉が自身の体質を指すのならばよくよく知っているし、あの扉がなんだったのか、呪霊とはどういうものなのか、五条や宿儺の力はどういう理屈で働いているのか、聞いたところで理解できる気もしない。
ならば、関わらない方が己のためである。五条は喋りたいようだが、ここでイエスと唱えてしまえば「恵が聞きたいって言ったんだからね」という言葉を免罪符に今後面倒ごとに巻き込まれる予感がした。
「あんまり興味ないです」
ならば先手必勝、全てをまるっとスルーしようじゃないか。何も聞かない、何も知らない、自分は関係ないを貫き通す。結局最後に勝つのは無関心であることだ。
「だよねぇ! 賢い恵ならそう言うと思った!」
「では俺はこれから学校に、」
「でもこっちはそうじゃないみたいなの」
そそくさとその場を立ち去ろうとしたが、それを
遮るように五条が笑う。ぴっと五条が指差したのは、案外大人しくしている宿儺である。いつの間にやらどこかに電話をかけているらしい。
「──あぁ、拠点を仙台からこちらに移す。明日一度そちらに戻るから準備を進めておけ。住まい? 心配するな、伏黒恵の部屋がある」
「待て待て待て!」
なんだなんだ、何がなんだって? 慌てて駆け寄ってスマホを奪おうとすると、するりとかわされた挙句再び抱きしめられる。「積極的だな」と感心したように笑われて、いや違う、だってお前がまた訳のわからんことを言うから!
「五条さん!」
「正直めちゃくちゃ面白いことになったなと思ってる」
「っ、あとで絶対殴る……!」
あはは、と気楽に笑う後見人と、機嫌良く転居の準備を進める謎の男を前に、もう何度目になるかも分からない後悔が襲う。
「マジで学校行けばよかった……!」
後にも先にも、これほどまでに登校を熱望したのは初めてだった。