「昨日、神様が死んじゃったの」
悠理がそれを拓海に伝えたのは、白木蓮が強く香る春のことだった。
「フリードリヒ・ニーチェか。最近の小学校は哲学の授業とかも有るの?」
「哲学? 道徳ならあるよ」
「ああ、そんなの有ったね。俺あれ嫌いだったよ」
「拓海くん」
少し怒ったような悠理の声に、拓海は本から顔を上げる。
拓海にとって悠理は奇妙な子供だった。ほぼ毎週自分達の家に預けられる、物理的な距離だけが近い、遠い親戚の幼い女の子。
同じ学区の小学生はいつだって喧しく走り回っているのに、悠理は違う。宿題と本、落書帳をもって家に預けられ、拓海の横におとなしく座っている。拓海が特段悠理に優しくしたことは無いし、何ならほぼ放置でたまに思い出したように会話をする程度。そんな悠理が、今日はやけに真剣な目で拓海を見ている。
「……。具体的にどんな感じ?」
「しめすへんに干支のさる」
「それは知ってるんだよ。どんな姿形のものが、どんな状態に陥ったのか、何故ユリはそれが死んでしまったと思ったのか、ということを説明してくれないとこの会話はここで終わるぞ」
眼鏡を押し上げ、また本に顔を埋めようとした拓海の様子に慌てて悠理が言葉を紡ぐ。
「ちゃんと言うから! えっとね、ご飯食べる部屋の隅に、観葉植物が有るんだけど、その横に座ってることに気づいたの。小学生になってからだったと思う。お父さんやお母さんに、それが何かを聞いてもなんかよくわかんない顔されちゃって、たぶん私にしか見えてないんだって思って、黙ってた。大きさは私の腰ぐらい。動物の羊みたいな感じ。肌は黒くて、毛は白くてふわふわ。頭にぐるぐるした角が生えてた」
「友達にそれについて聞いたことは?」
「無いよ。友達を家に呼んだこともない」
「ん? 友達と家で遊ばないの」
「お父さんたちがいない時は、友達でも人を家に入れちゃいけないってルールがあるから」
「ふうん。なんでそれを神様だと思ったの?」
「自分で言ってた。偉い神様なんだって」
「しゃべったんだ、そいつ」
「うん。二本足で歩いてたよ」
それってイマジナリーフレンドじゃねぇの。という思いを飲み込み、悠理に話の続きを促す。
「それでね、一昨日急に私の名前を叫んで、『今から死ぬけど、すぐ迎えに来るから待っていて』って言った後に、はじけ飛んじゃったの」
「はじけ飛んだの?」
「うん。血みたいなのが、びちゃってなって」
「そう。……『迎えに来る』って、なんか約束でもした?」
「うーん。してない、と、思う。」
「思う?」
「うん。ちょっと前に友達とした話の細かいことって、よっぽど重要じゃないと忘れちゃうでしょ? それと一緒。どんな話をしたかはぼんやりわかるけど、詳しくわかんない」
「あー。じゃあ会話以外で、その自称神様となんか変わったこと有った?」
「うーん……。あ、あったよ」
悠理が日に焼けた右腕を拓海の前に出した。小指の付け根に、水色のファンシーな絆創膏が貼ってある。
「ここ、神様に角で引っ掻かれたの」
「自称神様って物理に干渉してくるタイプだったのかよ……。血ぃ出たりした?」
「ちょっと」
「痛かった?」
「注射よりはマシ」
「そう……。傷口見てもいい?」
「えぇ? キモ。まぁ、いいよ」
「俺だって見たくて見るわけじゃ無いんだわ」
悠理の手を掴み、ゆっくりと水色の絆創膏を剥がす。小指の付け根と第二関節の間に確かに真っ直ぐ、傷が有った。深い傷ではない様だが、傷口はまだ赤く、治りきるまでには少し時間が掛かりそうだ。
話を聞き、傷口まで見たものの、拓海は悠理の言う神様のことを信じきれないでいる。仮にも神を名乗るものが、子供の前で血をまき散らして死んだりするものなのだろうか。いや、神様見たことないからわかんないんだけど。グロくないか。トラウマになるだろ。夢と現実が混在しているんじゃないか。小指にある傷だって、何かの拍子に引っ掛けてしまっただけかもしれない。拓海はため息を一つ落としてから悠理の手を離した。
「神様、本当に迎えに来ると思う?」
今までになく細く落とされる声。自分の小指についた傷をいろいろな角度から見つつ悠理が言う。
「迎えに来ちゃったら、私どこに行くんだろう」
知らない。分からない。でこの話を終わらせることができたらどれだけ気が楽だろうと思った。拓海はただの大学生で、何か特別な力があるということもなければ、宗教学も民俗学も心理学も専攻していない。アルバイトもしていないため、悠理のために捻出できるお金も多くは無い。
けれど、隣に座る悩める少女を放っておけるほど、人間ができていないわけでもなかった。自身の過去を浚い、かつて一度だけ体験した、不可解な事象に対する処置を思い起こす。拓海がまだ七歳だった頃の記憶。
「正直なところ、迎えに来るかも、何処に行くのかも俺にはわからない。が、もしかしたら何とかなるかもしれない方法を思い出したから、それを試してみようと思う」
「何とかならないかもしれないの?」
「そう。けど、それが俺にできる精いっぱいだよ」
拓海は苦笑いしつつ、ソファ横のチェストから絆創膏と油性ペン、ソーイングセットを取り出す。絆創膏のガーゼの部分に大きく「封」の文字を書き、ガーゼには針で突いて出した拓海の血を数滴しみこませた。
「もしかして、それ、私の指に貼るの?」
「そう」
「信じられないほどダサい。イマドキの恋愛のおまじないのほうが百倍位マシ。あと、拓海くんのとは言え、人の血が付いてるものが自分の肌につくと思うとかなり気持ち悪い」
「俺もそう思う。ダサいのは絆創膏を二枚重ねたら誤魔化せるだろ」
「血はどうしても必要なの?」
「多分ね。昔、爺さんが同じことしてたから」
「……そのお爺さんがしたことで、助かった人は?」
「目の前に居るだろ。ほら、手ぇ出しな」
数秒逡巡した後、しぶしぶといった様子で手を差し出す。拓海は差し出された手をしっかりとつかみ、血が付いた絆創膏を貼り、さらにその上から何も書いていない絆創膏を貼りつけた。悠理と拓海が感じるダサさを何としても隠すために。
「あとは様子見だな。風呂で濡れて剥がれないように気をつけろよ」
「どうしても、貼っておかなきゃダメ?」
「駄目。俺を人でなしにしてくれるなよ」
話はこれで終わりだと言わんばかりに悠理の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜた
あと、油性ペンとソーイングセットをチェストに戻して、拓海は本の続きを読み始める。
その日から二日後の夜、拓海が救急搬送されたという連絡が悠理のもとに届いた。