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    sgm

    @sgm_md
    相模。思いついたネタ書き散らかし。
    ネタバレに配慮はしてません。
    シブ:https://www.pixiv.net/users/3264629
    マシュマロ:https://marshmallow-qa.com/sgm_md

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    sgm

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    なれそめ曦澄。後半部分です。
    大分書き始めてから時間が経ちましたが終わりました。感想いただけると嬉しいです!
    R18のその後の二人を追加してP4P予定です。
    読みにくければPixivへどうぞ。

    #曦澄
    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation

    追憶相相 後編

    藍曦臣の目は覚めたが法器の影響を受けていることで、俄に雲深不知処は慌ただしくなった。藍啓仁、藍忘機が寒室に到着したのと入れ替わるようにして江澄と魏無羨は寒室から静室に移動した。魏無羨の手には藍思追が金麟台から持ち帰って来た温氏の目録がある。
     目録を紐解けば江澄の記憶の通り、あの簪についての記述があった。
     温若寒から遡ること三代前の温宗主の時代に、拷問、自白目的で作られた法器で人間の生命力を栄養分として花を咲かす物だった。栄養分にされた人間は活屍となり死んだことに気がつかずに身体に残った陽の気を吸われ続け、最終的にはカラカラに干乾びる。養分となった人間が干乾びるか、首を切られたり、折られたりなどすると咲いた花は枯れていく。
     花は養分となった人間もしくは、刺した人間が強く念じていた類の記憶によって色が変わる。薄紅色は本人が望む時の幸せな記憶、白は裏切られた記憶、紫は過去全ての記憶と言った具合だ。咲いた花を使えばそれぞれの色に合わせた記憶で対象者を捕らえることができた。例えば幸福な記憶に浸らせた後、拘束され拷問されている現実に戻す。それを何度か繰り返すことで人の心を折り壊していくと言った使い方を想定していたのだろう。
     目録に記載された通りであれば、紫色の花を咲かせた琳麗は自分で自分を簪で刺したことになる。桓春生に裏切られた己の人生全てを悔いたのか。そして紫の花に囚われた郷人や旅人は終わることなく繰り返される己の記憶に狂って死んだ。
     桓春生は刺した梅麗が幸福だった記憶を思い浮かべながら刺したのだろう。それで薄紅色の花が咲いた。梅麗は矢張り幸福だった記憶を思い浮かべながら自分自身を刺し自ら花の養分となり薄紅色の花を咲かせた。
     桓春生は活屍として自宅の牀榻に拘束されていたが、姉妹が凶屍となったのは花魄のせいだろうと江澄と魏無羨は結論付けた。花魄そのものは凶悪な邪祟ではないが、首を括った人間の無念から生まれる邪祟だ。怨も恨も溜め込み陰の気が強い。活屍に対して花魄の持つ陰の気が注がれたことで凶屍に転じたのだろう。梅麗が花魄と通じることになった理由は不明だが、花魄は見た目は可憐だ。年若い娘が興味を持ってもおかしくはなく、また梅麗の姉に対する偏執的な念が花魄を呼び寄せたのかもしれない。
     姉妹の家では古びた温氏の校服が見つかったと、後始末を任せた江氏の門弟からの伝令符による報告があった。予想していた通り姉妹の両親のどちらか、もしくは両方が温氏に連なる人間で射日の征戦の混乱に乗じ、金目の物としてこの簪を盗んだのだろう。
     凶屍になっていたとは言え、薄紅色の花を咲かせ幸福な記憶に浸っている梅麗に刺された藍曦臣もまた一枚ではあるが薄紅色の花弁を咲かせた。目録の通りであるならば幸福な期間の記憶に藍曦臣は囚われていると考えられた。
     実際夜狩中に薄紅色の花によって見せられた記憶は、江澄にとっては至極幸せな頃の記憶だ。一度目の記憶は父と母と姉がいて。魏無羨と比較されることなく、父と母も魏無羨と自分のことで言い争うこともなかった。期間こそ短かったが大事な三匹の仔犬たちを自分の妹のように可愛がっていた頃。二度目の記憶は父と母の仲は険悪になっていたけれどもそれでも二人は健在で、もしも温氏の襲撃さえなければ今も生きており江氏の中枢になっていただろう師弟たちと、双傑の約束を忘れていない魏無羨がいて姉がいた。平和な毎日が当たり前のように続くと信じて疑わなかった頃だ。
     江澄の師兄だった頃の魏無羨の姿を鮮明に思い出したのは久しぶりだった。目の前の男とは姿形が違う。思い出したくもないことを思い出しかけて、江澄は胸中で舌打ちをする。確かに現実と幸せだった頃の記憶との落差が激しければ激しいほど花を使われた者の心は折れやすくなるだろうなと身を以て実感する。
    「江澄? どうかしたのか?」
    「いや、何でもない」
     黙ってしまった江澄の顔を魏無羨が覗きこんでくる。江澄は不自然にならないように莫玄羽の顔をしている魏無羨から目を反らした。今は藍曦臣のことを優先して考えるべきだ。
    「澤蕪君の状態だが特殊な状態だろう。話に聞いた郷人も、養分となった姉妹も、恒春生も、夜狩中に花に囚われかけた門弟たちも皆一様に意識はこちらになかった。だが、澤蕪君の意識は少なくともこちらにある」
    「本来なら目は覚めてるが夢魔に囚われているような状態ってことか。起きてはいるが、声をかけても意識は中にある。だが、澤蕪君は確かに意識はあるが……」
    「聶明玦と金光瑶が生きている頃に記憶が戻り、そこで止まっている状態だろうな。雲深不知処に籠もっている限りは現実との乖離は最小限に抑えられるだろうが、それでもどこかで綻ぶだろう」
    「それがどうやったら治せるか、だな。花弁は出たんだっけ?」
    「あぁ、一枚だがな」
     真っ白い藍氏の校服に滲む血の色と、その血を薄めたような薄紅色の小さな花弁が一枚。
    「一枚でも簪にかけられた術が発動はしてるんだろうな。早くに江澄が対処したからか、澤蕪君の修為が高いからなのか中途半端に術がかかった状態ってことか」
     時間が経てば抜ける術なのか。それとも何か煎じたほうが良いのだろうかと腕を組んで唸っていた魏無羨が唸るのをやめ江澄を見つめてきた。もの言いたげなその様子に、なんだと左の眉を小さく動かし魏無羨の言葉を促した。
    「……なぁその三尊が全員生きていた時お前はどうだったんだ?」
    「聞いてどうする」
    「いや、少し気になって」
     死んでいたお前には関係のないことだろう。そう突き放してやっても良かったが、江澄は目を伏せ小さく溜め息をこぼした。
     藍曦臣が一番幸福だった頃。それは江澄が雲夢の立て直しと金凌の養育に奔走していた頃だ。正直その頃の記憶は曖昧だった。
     親切面で支援を申し出て江澄に恩を売りつけ虎視眈々と江氏の所領や門弟を狙う狐狸のような他家の宗主を退け、若輩者だと、魏無羨がいなければただの凡人だなどと謗りを受けながらも歯を食いしばり清談会へと臨んだ。
     数もまだ少なく未熟な門弟を鍛え上げ、たとえ蓮花塢から距離があろうと江澄自ら夜狩に向かい江氏は健在であると民へと示す。
     まだ幼く父と母を求めて泣く金凌をあやし、求められれば金子軒と姉の代わりに金凌を抱き上げた。金氏では金凌を抱き上げる者が誰もいなかったからだ。金光瑶は金光善に禁止され、金光善は生まれたばかりこそ金凌を可愛がっていたようだが、金子軒が死んでから興味も失せたのか、妓女と遊ぶことばかりだった。江澄とて父から抱き上げられたことなど両手で足りるほどしか記憶になかったが幼心に抱き上げられることは幸せであり喜びだった。母の優しさを与えることはできない。父として毎日共にいて指導することはできない。せめて、叔父として抱き上げることぐらいはしてやりたかった。金凌のためと言いつつ江澄自身がそれで救われていた部分もあっただろう。
     江氏も立て直し、門弟の数も質も改善され、金凌の手がかからなくなり、江澄が少し周りを見えるようになった頃には、三尊は二尊になっていた。
    「別に。江氏の立て直しと金凌の養育に奔走されてたからな。忙しすぎてほとんど記憶にない」
    「三尊とは関わり合いはなかったのか? その、澤蕪君とかさ」
     魏無羨の言葉に江澄は鼻を鳴らして口元を歪めた。
     ──四大世家のうち三家の宗主と宗主嫡子とが義兄弟の契りを結んだ。
     ──三尊が四尊でないのは江澄が射日の征戦で大した成果をあげていないからだ。
     ──壊滅状態になった江氏など、契りを結ぶほどの価値もないだろう。
     ──江氏には魏無羨がいる。下手にかかわりあいになっては三尊の徳も地に落ちる。
     口さがない者たちのそんな言葉を江澄は思い出す。
     義兄弟となることを聶明玦と金光瑶に求めたのは藍曦臣で、元々金光瑶は聶氏におり、金氏への推薦状を書いたのは聶明快だ。金光瑶と藍曦臣は藍曦臣が雲深不知処から逃げ落ち温氏からの逃亡生活を送っていた時の恩があり、聶明快と藍曦臣はそもそも交流があった。そこに江氏を排除しようなどという意図もなければ、取り込もうなどという意図もない。それを知っている江澄は、四尊になろうと取り入っているなどとくだらない噂を立てられぬように敢えて三尊に自分から無意味に近づくことはしなかった。そのような心の余裕も時間の余裕もなかったとも言えるが。
    「特にないな。金光瑶とは金凌関連で会話をすることぐらいだし、聶明快とも澤蕪君とも宗主同士の必要な会話しかしていない。つまり、今の澤蕪君にしてみれば俺が寒室にいたことは不思議で仕方がなかっただろうな」
     数刻前の寒室でのでき事を思い出して江澄は皮肉気に唇の端をあげた。寒室にいたことも不思議であっただろうし、清談会でもないのに雲深不知処にいることも藍曦臣にとっては違和感しかないだろう。
    「目が覚めたようだから俺は藍先生に挨拶をして蓮花塢に戻る。俺がここにいた所で何の役にも立たん。こういった術はお前の得意分野だろう。藍忘機のためにも何とかしてやってくれ。俺も門弟があの姉妹の家から持ち帰った物の中に何か手がかりになるような物がないか探す」
    「分かった。任せろ。……なぁ江澄。大丈夫か?」
    「何がだ」
    「その、最近澤蕪君と仲良かっただろう?」
     顔色をうかがうような言葉に同情が見え隠れし、江澄は鼻を鳴らした。
    「仲がいい。まぁ、そうだな。だが所詮は義兄弟の契りには勝てない程度の関係だ。俺との交流がなかったことになったとしても澤蕪君には何の問題もないだろう」
     藍曦臣が江澄に興味を持ち始めたのは胸倉を掴んで怒鳴ったあの日だ。アレがなければそもそも藍曦臣は自分に興味を持つこともなかっただろう。ましてや今の藍曦臣の中では何も失っていないのだ。聶明玦が生きており、金光瑶の悪事は露呈しておらず、片腕を落とし血を流している金光瑶を朔月で突き刺してもいないのだ。彼の中では義兄も義弟も健在なのだから、江澄との関係など気に留めることもないはずだ。
     だが魏無羨は「そうじゃない」と小さく首を振った。
    「違う。澤蕪君じゃない。お前が大丈夫なのか聞いているんだ」
    「別に……」
     自分の周りから人がいなくなるのには慣れている。そう言おうとしたが、それでは目の前の魏無羨に当てつけているようで気が引けた。怨も恩も捨てたのだ。事実だとしても敢えて言う必要はないだろう。
     だからと言って、大した関係ではないと言うのも己に嘘を吐くことになる。藍曦臣にしてみれば大したこともなかったのかもしれないが、江澄にとっては友にと請われて過ごした日々も、一年の猶予を与えてからの日々も、温氏に襲撃される前のような気持ちで過ごしていた。その心地よさに改めて気がつかされる。
     続く言葉を何も思い浮かべることができないまま、江澄は魏無羨から目をそらした。



     蓮花塢へと戻り、先に戻っていた門弟からその後の始末について詳細の報告を受けた。彼らが持ち帰って来た姉妹の家の物は家具からなにから全てを検分したが温氏の目録以上の情報を得ることはできなかった。唯一あったのは姉妹の両親が書いたのだろう簪の使い方についての簡単な書き置きが一枚あっただけだ。そこに書かれた内容も目録以上のことは記載されていなかった。
     定期報告の形で最初の三日は伝令符で藍曦臣の様子が送られてきた。冷泉に浸かるなど試してはいるが一向に回復する見込みがないということだった。幸いにも清談会が開催されるのは半年以上先だ。他家の宗主が易々と訪ねてくることもなく、蘭陵や清河へと行こうとするのさえ止めれば、現実と藍曦臣が見ている世界との乖離は発生せずにすんでいるようだった。
     三日連続でやって来た伝令符に対して、江澄も姉妹の家からは何も情報を得ることができなかったことを返した。そして三日目に来た伝令符への返信に変化がないようであれば伝令はいらぬと返した。さほど霊力を使う符ではないが、藍氏と江氏が頻繁に私的な伝令をやり取りしているなどと噂が立つのは両家にとっても、そして藍曦臣にとっても良いこととは思えなかった。
     江澄の意図をあちらも汲んだのだろう。四日目からは伝令が来ることはなかった。
     十日経っても新たな伝令はやってこない。良くもなっていない代わりに、悪くもなっていないのだろう。藍曦臣が好んでいた雲夢の菓子と茶でも送ろうかなどと考えては、突然自分からそんなものが送られたのでは混乱することだろうと諦める。藍曦臣以外の誰に宛てて送っても違和感が伴うはずだ。藍曦臣のために江澄がしてやれることは何一つなかった。それがもどかしい。
     月に三往復はしていた藍曦臣との文のやり取りも当然なくなった。江澄は手にしていた筆を置き、机上にある蓮の意匠が彫られた文箱をそっと撫でた。この中には藍曦臣とやり取りした文が入っている。元々は金凌が送って来た文しか入っていなかったが、ここ一年半は金凌からの文よりも藍曦臣からの文が多くなっている。この文箱を開けて藍曦臣からの文を納めたのはもう二十日も前だった。
     藍曦臣からの文を取り出そうかと指先がゆらゆらと揺れる。結局文箱を開けることなく、指は手のひらの中に隠した。この動作を日に何度か繰り返している。溜め息を吐いてから室内を見渡した。
     他家の宗主や陳情を聞くときは大庁を用いるが、文や書など書き物をするときはもっぱら江澄の私室で行っていた。執務室もあるがそちらは主管や右筆に使わせていた。彼らと会話をして書くべきものがある場合は江澄も執務室で仕事をしていたが、そうでもない場合は私室だった。
     蓮花塢を復興したばかりの頃、執務室で仕事をしていたが忙しすぎて食事も執務室で取り、移動の時間すら惜しいと執務室で寝ていたところ、家僕と主管にそれでは身体を壊すせめて眠るときは牀榻で眠ってくれと懇願されてから移動のいらぬ私室で仕事をする癖がついてしまったのだ。
     文箱の中にある手紙だけではない。私室を見渡せばいたるところに藍曦臣の痕跡がある。先ほどまで手にしていた筆も、藍曦臣が良い筆が入ったからと言って江澄に贈って来たものだ。牀榻の傍にある棚に置いてある香炉は藍曦臣からの贈り物第一号だった。元々そこに置いてあった塗りの鮮やかな香炉は雲深不知処の寒室にある。贈られた香炉と交換したからだ。小さな犬の置物は、仙子に似ているような気がしてと言って贈られた。茶杯と茶壷の揃いも矢張り藍曦臣から贈られたものだった。
     「江澄に似合うのではないかと思って」「あなたが使っている姿を見たくて」そう言って渡してきた。貰ういわれがないと言っても、無駄遣いをするなと言っても聞いてはくれなかった。いつしか藍曦臣からの贈り物は江澄の中で当然のように受け取るべき物となっていった。ただ施しを受けるだけというのは江澄の矜持が許さず、江澄も藍曦臣に贈る物を探した。贈る相手のことを思って何かを自分で選んで用意することは金凌以外では久しぶりだった。
     手紙を読んでいる時も返事を書いている時も。藍曦臣から贈られた物への返しを選んでいる時も。本人が目の前にはいないというのに、宗主としての仕事をしていない時は気がつけば藍曦臣のことを考えている。もしも江澄に己のことを考えさせることが藍曦臣の狙いなのだとしたら、その企みは成功しているだろう。
     茶杯に手を伸ばし一口含む。すっかりと温くなったこの茶も藍曦臣が贈って来たものだった。
     どこかで藍曦臣はもとに戻るだろうという思いはあった。術と言うものには期限がある。法器に術を籠めた者の修為が高ければ高いほど効力は高く、その者が死んだ後も効力が長く続く。もしくは、作った本人でなくともその法器を理解している別の者が霊力を注ぎ込むことで術を強くすることも、効力を伸ばすこともできる。術が強い法器は、ただ持ち運ぶだけでも未熟な修士であれば法器の影響を受けるものだった。
     あの簪は四十年ほど前に作られた。姉妹の両親がどれほどの修士だったかは知らないが、彼らが盗み出すことができた程度には術の効力は弱くなっていたはずだ。その状態の法器であれば藍曦臣ほどの修士が術に取り込まれ抜け出せなくなるとは思えなかった。ただ、夢魔や記憶に関する呪いや邪祟の類は酷く厄介で、修為の高い人間は術にかかりづらいが、かかってしまうとその本人が見せられているものや、囚われている状態に居続けたいと願ってしまうと長引く可能性がある。
     藍曦臣はどうなのだろうか。大事な義兄と義弟が生きており、義弟の罪は表面化していない。自慢の義弟だ。藍曦臣自身も義弟を刺し殺すこともなく、閉関しても結局答えを出すことができなかった問いなどそもそも発生していない状態だ。それは清廉な藍曦臣の心にとっては心地よい状態だろう。だとすると長引くかもしれない。
     一月か半年か一年か。それともそれ以上になるのか。期間が長引けば長引くほど藍曦臣の見えているものと現実との乖離が広がり、藍曦臣の精神にも良い影響にならない。藍曦臣にとって幸福の記憶が閉関後であったならば、現実との乖離も少なく術が抜けるまで時間がかかったとしても藍曦臣に大きな影響はなかっただろう。
     もしも一年の猶予など取らずに藍曦臣の申し出を自分が受けていたら、藍曦臣が囚われる記憶は変わっただろうか。そんな仮定を蓮花塢に戻ってから藍曦臣に贈られたものを見るたび使うたびに江澄は考えていた。考えてはすぐに否定をし、そんなことがあるはずはない、自惚れるなと自制を繰り返していた。藍曦臣が金光瑶と過ごした十数年が自分との一年半程度に勝るはずがないのだ。
     口元に歪んだ笑みを浮かべる。結局自分は何もできない。できることなど江氏の宗主であることだけだ。江澄は仕事を再開させるべく、藍曦臣から贈られ既に愛用となった筆を手に取った。



     藍曦臣が目を覚まして十四日目。藍曦臣が藍思追を供に蓮花塢へとやって来た。藍思追が供に来ているのは雲夢に向かう前か後に、蘭陵か清河へと行かぬよう誘導する為だろう。
     二日前に来た伝令符には、元には戻っていないが本人が望んだ私的な訪問である、と書かれていたため、大庁ではなく九曲蓮花廊の奥にある四阿へと通した。
     家僕が三人分の茶を運んでくる。江澄が座ると藍曦臣が座り、最後に藍思追が座した。
    「して、本日はどのようなご用件ですか? 澤蕪君」
    「あぁ、江宗主。そういえば紹介したことがあったでしょうか。こちらは藍思追という最近当家に来た内弟子の一人です」
     知っているとは口にせず藍思追に視線をやると、藍思追は小さく頷きその場に立って拱手をした。
    「お初にお目にかかります。藍思追と申します」
     乖離を少なくするためにそういう設定にしたのかと理解し、江澄もその設定に従い藍思追と挨拶を交わした。
    「で?」
    「本日はこれをお渡しに来ました」
     乾坤袖の中から藍曦臣が乾坤袋を取り出し、そこからさらに一つの香炉を取り出して卓の上にコトリと置いた。見覚えがありすぎるほどにあるその香炉に江澄は目を細めた。
    「この香炉は?」
    「はい。寒室で見つけた物です。どこで手に入れた物なのかはどうしてか記憶にないのだけれど……。江宗主が好みそうな柄だと思って。もしよければ、と」
     それはそうだろうと江澄は声を出して笑いそうになるのを堪えた。元々は江澄の部屋にあった香炉だ。全面に蓮の花と葉が色鮮やかに描かれ、蓋の部分には玉に足をかけた小さな犬が持ち手として作られている。藍曦臣が贈ってきた香炉を受け取る代わりにと押し切られて交換させられたものだった。欲しいのだと無理やり交換させられた物が、まさか必要がないと本人の手から戻されるとは思いもせず、喉の奥から笑いがこみ上げて来た。
    「ッく」
    「江宗主?」
    「いや、失礼。何でもない。あぁ。確かにこの香炉は澤蕪君の趣味とは異なるでしょう。寒室にあっても浮いてしまう。一言でいえば、雲深不知処では華美すぎる代物だ。澤蕪君がお使いになるような品ではないな」
    「あなたの趣味ではないかな?」
    「いいえ、好みですよ」
    「それは良かった。是非、使ってもらえないだろうか。何故だか酷く江宗主に受け取ってもらいたくてね」
     悪気もなく純粋に好意からなのだろう。そういえば良く聶懐桑が藍曦臣に強請って姑蘇でしか手に入らない扇子や筆を貰っていたことを思い出す。金光瑶にも藍曦臣が自ら描いた春夏秋冬の絵を送っていた。施すことが好きな人なのだ。
     江澄は目を伏せて奥歯を強く噛み締めた。
    「ありがとうございます。……少しばかり席を立たせていただいても? いただくばかりでは流石に申し訳がない。丁度偶然にも私も香炉を一つ持っていまして。お返しに是非その香炉を受け取っていただきたい。ある者の伝手に手に入れた香炉なのだが、物が良すぎて持て余してしまっている物があるのです」
     藍曦臣の答えを聞かずに江澄は立ち上がった。
    「いえ、江宗主。気にしないでいただきたい」
    「いやいや。澤蕪君に是非使っていただきたい。もう一、二か月遅ければ蓮の花も咲き始めて澤蕪君の目を喜ばすことができたとは思いますが。暫くこちらで荷花池でも見てお待ちください。すぐに戻ってきますので」
     藍曦臣が口を開く前に拱手をし江澄は私室へと向かった。
     私室に入り後ろ手に扉をしめそのまま背中を預けた。堪えていた笑いが喉から出てくる。ひとしきり笑った後、江澄は牀榻の傍の棚に置いてあった香炉に視線を移した。
     欲しい欲しいと望まれたのに矢張りいらぬと返された香炉はまるで自分自身のように思えた。ならば、藍曦臣から贈られた物も藍曦臣に返すべきだろう。
     部屋の中をぐるりと一周見渡して、また笑いがこみ上げて来た。この部屋は藍曦臣から贈られた物ばかりだとおかしくなる。
     扉から離れて空の乾坤袋を手にすると、揃いの茶壷と茶器を贈られた時の木箱に詰める。蓮を活けても良いと思ってと冬に贈られた花器。仙子に似ていると贈られた犬の置物。流石に筆は使ってしまったからそれは残しておくべきだろう。卓上の翡翠でできた文鎮も乾坤袋に放り込む。そして最後に香炉を手に取った。雲と白木蓮が彫られた香炉は雲深不知処が相応しい。それは乾坤袋にはしまわずに手にしたまま部屋を出た。
     四阿に着くと座るや否や、乾坤袋と香炉を藍曦臣の前に差し出した。
    「お待たせしました。これがその香炉です。いかがですか? 良いものでしょう?」
     香炉を受け取った藍曦臣が小首を傾げて不思議そうな顔をする。
    「え、えぇ確かに。とても……素晴らしい物、ですね」
    「是非、こちらの香炉の礼にお持ちください。同じ者から手に入れた物が他にもいくつかありまして、私には過ぎたものだ。ご迷惑でなければこちらもお持ちください」
    「いえ、流石にこれはいただけない」
     乾坤袋を押し返される。江澄は押し返された乾坤袋を更に押し返すようにしながら笑みを浮かべた。藍曦臣が断ることができなそうな言い訳を瞬時に頭の中で組み立てる。
    「使われずに私の部屋に飾られたままよりも、澤蕪君に使ってもらった方が物も喜ぶだろう。是非、産み出された価値をその物たちに与えてやってください」
     逡巡した後に藍曦臣が頷き、乾坤袋が江澄の指先から離れていった。
    「……分かりました。では、今度また何かお礼を」
     物にも優しい人だと胸中で自嘲するように呟き、また何か残る物を贈られないようにと消えていく物を先に指定する。
    「そうですね。天子笑や姑蘇の名物の枇杷などをいただければそれで」
    「分かりました。枇杷の時期が来たら必ずお送りします」
     向けられた笑みに江澄は笑みで返した。



     藍曦臣の来訪から十四日後で夜狩りから一月後。江澄は雲深不知処に来ていた。三日前に魏無羨から今日雲深不知処に来るようにと伝令符にて連絡があったためだ。そこには藍曦臣の術が解けたとも、何が目的かも書かれてはいなかった。
     雲深不知処に供もつけずに起きて早々訪れ、山門の入り口から案内され通されたのは寒室だった。てっきり藍忘機と魏無羨のいる静室だとは思ったが、どうやらそれは違ったらしい。案内をした藍景儀に魏無羨の所在を訪ねれば数日前から清河に藍忘機とともに出かけ、今日帰ってくるとのことだった。江澄が来ることは伝達されており、寒室に通すようにと藍忘機から指示があったとのことだった。藍忘機の指示とはつまり、魏無羨の指示なのだろう。
     魏無羨がやってくるまで寒室で藍曦臣と二人きりだと思うと少しばかり気が重い。できることならば客房で待たせてもらいたかった。そう藍景儀に伝える前に寒室に辿り着いてしまう。江澄は胸中で舌を打ちながら寒室の中に足を踏み入れた。
     寒室に足を踏み入れるのは、目が覚めた藍曦臣から追い出された日以来だ。藍曦臣に卓に案内されながら視線だけで室内を確認すると、前回は江澄の香炉が置いてあった場所には、藍曦臣に返した白木蓮の香炉が置いてあった。あの香炉は矢張りこの部屋にあるのが似合う。花器も飾ってあった。どこかに文鎮と揃いの茶器もあることだろう。
     藍曦臣の前に座り出された茶を口にしながら、一体何を話せば良いのだろうかと江澄は目を伏せる。ずっと他愛もないことを藍曦臣と話していたはずだが、その他愛のないことが浮かばない。
    「今日は一体なんの要件で?」
    「私も良く分からなくて。叔父上にただ江宗主とともに寒室で待つように、としか聞いていないんだ」
    「……そうですか」
     会話が続かない。あまりあの香炉については触れたくないが、この室内で話題にできるようなものなどあの香炉ぐらいしかなかった。視線を香炉に移す。
    「あぁ、矢張り思った通りだ。あの香炉は私の部屋にあるよりもここにある方がよいですね」
    「え? あの香炉は江宗主からいただいたものだったのかな? 知らぬ間に部屋にあったのだけれど」
    「何を言っているんだ。あなたはつい先日蓮花塢に来ただろう?」
     ふざけているのかと藍曦臣を睨みつけるが、藍曦臣は困惑した表情を浮かべるばかりだった。嘘が禁止されている藍氏の宗主だ。何の意味のない嘘など吐くはずがない。眉間に皺を寄せていると寒室の戸を叩く音が聞こえた。目の前の藍曦臣が立ち上がり来客の相手を始める。漏れ聞こえてくる声は藍思追だった。戻って来た藍曦臣は後ろに藍思追を従えていた。
    「江宗主。彼と会うのは初めてですよね。こちらは藍思追という最近当家に来た内弟子の一人です。おそらく夜狩などで会うこともあるでしょう。思追。ご挨拶を」
     藍思追を初めて江澄に引き合わせるような口ぶりだった。江澄は戸惑うように藍思追を見ると、藍思追が小さく頷く。
    「お初にお目にかかります。藍思追と申します」
     既視感のあるやり取りだった。江澄は立ち上がり藍思追に拱手を返す。顔をあげた時に目があった藍思追がもの言いたげで、江澄は小さく息を吸い込んだ。
    「澤蕪君。申し訳ない。少し席を外させていただいても良いだろうか? 藍啓仁先生にお伝えせねばならぬことがあった。すぐに戻ってきます。藍思追と言ったな? 蘭室まで案内を頼めるだろうか?」
    「思追。江宗主を叔父上のところまでご案内を」
    「はい。承知いたしました。江宗主、どうぞこちらへ。ご案内いたします」
    「それでは、しばし失礼する」
     藍思追の後に続いて寒室を出て蘭室へと向かう。十分に寒室から離れた場所で江澄は立ち止まった。江澄が止まった気配に先を歩いていた藍思追も止まり、離れた分戻って来た。
    「どういうことだ。十四日前に澤蕪君と一緒に蓮花塢に来ただろう?」
    「はい。それが……魏先輩の見立てだと記憶が跳んでいるのではないか、と。跳ぶとその前のことは覚えていないようです」
    「跳ぶ?」
    「一月前に目覚められたばかりの時は啓仁先生曰く斂芳尊、いえ金光瑶の婚礼の頃の記憶だったそうです」
     金光瑶の婚礼となれば十二、三年前のこと。確かにその頃はまだ聶明玦も存命だった。
    「それで? 跳ぶとは?」
    「蓮花塢から戻られた翌日に記憶が初期化されたようでした。その直前の十四日間のことは覚えていらっしゃいませんでした。別の時期の記憶に移動されたようで。その状態を魏先輩が跳ぶ、と表現されました。それから何日かしてまた跳んでを繰り返されています。日が経つごとに跳ぶ間隔は短くなっていらっしゃるようでした」
    「なんだ、それは……」
     そんな状態だと伝令符は来なかった。衝動的に怒鳴りそうになるのを拳を握って耐える。変化がなければ不要だと伝えたのは江澄だ。跳ぶ状態は変化と取れなくもないが、江澄への伝令は不要だと判断をしたのだろう。それについて江澄は口を出せる立場ではない。落ち着かせるように息を吐いた。
    「それで、魏無羨の奴は? どこに?」
    「間隔が短くなっていることから魏先輩もこのまま様子見は危険だと判断されてずっと調べていたんですが、数日前に何かに気がつかれたとかで清河の方へ含光君とともに出かけていかれました。澤蕪君の記憶ですが今朝また跳んだばかりです。ですので、啓仁先生から寒室に待つように伝えていただきました」
    「……そうか。それで今の澤蕪君の状態は分かっているのか?」
    「啓仁先生が言うには、十一、二年前だろうということです」
     「十一、二年前」と江澄は呟いた。魏無羨が死に、江澄は雲夢江氏の立て直しに奔走されていた頃だ。確かその頃は藍忘機は謹慎していたというから、今不在なのは丁度良いのかも知れない。
    「分かった。魏無羨が戻ってきたらすぐに寒室に来るように伝えてくれ。俺も呼ばれただけで奴の目的がなにかは知らん。俺は寒室に戻る。案内はいい」
    「はい。承知いたしました」
     綺麗な拱手をする藍思追に頷きを返すと江澄は踵を返し今歩いて来た道をことさらゆっくりと戻る。花が付き始めた白木蓮の木を眺めながら寒室に辿り着き戸を叩くとすぐに迎え入れられた。
     十一、二年前の具体的にいつの頃なのか。江澄も蓮花塢の復興に力を注いでいたが、同じように温氏の焼き討ちにあった姑蘇藍氏も復興に力を入れていたはずだ。その話題から具体的な時期を絞り込めるだろうか。
     新しく淹れられた茶に口を付けていると、「そういえば」と藍曦臣が口を開いた。
    「江宗主に相談があるのですけれど」
    「なんでしょうか」
    「もうすぐ阿松の一か月礼ですが……何を贈ったものかと悩んでいて。雅正集を贈るわけにはいかないでしょう?」
     藍曦臣が口にした名前が誰のものか江澄はすぐには分からなかった。胸中でその名を三度繰り返し、ようやくそれが既にこの世にはいない金光瑶の息子であることに気がつく。それと同時に藍曦臣が囚われている記憶がいつのことかも正確に把握することができた。
     金松の一か月礼には江澄も招待されて行った覚えがある。祝いの品と最低限の挨拶を行い、あとは金凌の様子を見ていた。
     金松の七日礼も一か月礼も金凌の時と比べれば質素なものであった。金凌に続き二人目の孫であるというのに、金光善は大した興味も持たなかったし、金を出すことも渋ったのだろう。その宴に金夫人も一度も顔を出すこともなかった。それでも表面上は金光瑶を自慢の息子であるとばかりに受け入れた手前、実施をしないという選択肢はなかったのだろう。金凌の時とは劣るものの他家に比べれば豪勢なものではあった。
     一か月礼という言葉は江澄にとっては良い思い出はない言葉だ。金子軒が死んだのが金凌の一か月礼であり、その後のことは思い出したくもなかった。小さく眉を顰め、思考から金凌の時の一か月礼の記憶を追い出す。江澄の様子に気がついてはいないのか、藍曦臣は穏やかな笑みを浮かべていた。まるで、自分のことのように嬉しそうだ。
    「随分と嬉しそうですね」
    「うん。江宗主もご存じだとは思うけれど、彼の母は事情がある方だし、金宗主も父親としての愛情を彼に注いでいるとはあまり思えない」
     藍曦臣が言葉を止め茶を一口啜った。金光瑶の母親について娼妓と言わないのは藍曦臣の金光瑶に対する気遣いだろう。
    「……これは私の勝手な想像だけれど。妻となった秦愫殿に対して、彼の母が金宗主に与えられることのなかった夫婦の愛情と言うものを母の代わりに秦愫殿に注いでいるような気がしてね。とても、仲の良い夫婦だろう? そして阿松には阿瑶が幼い頃に受け取ることができなかった父親からの愛情を彼ならたくさん与えてあげられると思うんです。きっととても幸せな親子になる」
     それが嬉しいのだと、藍曦臣ははにかむ様に笑った。江澄は目を細めて藍曦臣の顔を眺め、そして目を伏せた。
     秦愫が金光瑶の異母妹で、金松は金光瑶の手によって直接ではないものの殺されたことを知っている江澄からしてみれば、藍曦臣のこの思いは金光瑶にとっては重い枷であっただろうと想像がつき、同情の念すら覚える。さぞ金光瑶はあの笑顔の下で煩わしかったことだろう。
     仮に藍曦臣が思っているように、自分の母親が受けることができなかった分の愛情を秦愫に注ごうと、自分が受けることができなかった父親からの愛情を金松に注ごうと思っていたとしたら、その思いが強ければ強いほど、夫として妻を愛せば愛すほど、父として子を愛せば愛すほど、金光瑶の罪は深く重くなる。
     金光善のように他の女に手を出すわけでもなく、驕ることもなく暴力を振るうわけでもない。慈しみ愛しむ金光瑶は理想の夫だっただろう。だが、婚姻を結んでも夫婦の営みが行われないことに、理由を知らない秦愫はどのように思っていたのだろうか。後付けでしかないが、今思えば時折見かけた秦愫にはどこか翳りがあったようにも見えた。その二人に対して藍曦臣の無邪気さは一体どのように映っていたのか。
     それに、江澄に金松の祝いについて聞いてくるのも随分と無邪気なことだ。
     江澄は金松が生まれた当時、祝いの気持ちはあれども金凌の身の安全を考えると藍曦臣ほど手放しには祝えなかった。順当に行けば金光善直系の孫である金凌が後々は蘭陵金氏の宗主になるだろう。少なくとも金光善が生きているうちは、金光瑶やその子どもが宗主になることなどは許されない。だが、もしも金光善が金凌が幼いうちに死んだらどうなるか。金凌が成人するまでは金光瑶が宗主となるだろう。その時、金凌は金光瑶にとっては邪魔な存在となる。自分の子に蘭陵金氏の宗主の座を譲りたいと親ならば思うだろう。金光瑶が表面通りの善人であったのならば時がくれば宗主の座を金凌へと戻すこともあるだろうが、生憎江澄は他人の善性を信じてはいなかったし、胸中のどこかでずっと警戒していた。
     金光善と金夫人が生きていれば金凌はまだ安全に思えた。もしも金凌に何かがあった場合は金光瑶が責任を取らされるだろう。仮にそれが事故や別の人間の手によるものだったとしても金光瑶の罪にされる。金光善であればやりかねない。金光瑶もそのことは分かっているだろうから、易々と金凌には手を出さないだろうと思っていた。
     だが、金光善が死んだら金光瑶はいくらでも金凌を害することができる。それを江澄は金松が生まれた時に危惧し、金光瑶と表面上は対立しないまでも金凌の後ろ盾になるような金氏の長老に近づき、信頼のおける人間を金凌の警護に付け、歩き出し話し始めた頃から金凌は江氏の血も引くからと蓮花塢へと連れて帰ることを多くした。
     金松が生まれた時の祝いに、金光善には聞こえない場所で、なんなら金凌は江氏の養子にするとも金光瑶に対して言いもした。その時の金光瑶の答えは「ご安心ください江宗主。私が阿凌を傷つけるようなことなどいたしません」だった。確かに金光瑶は少し甘いが金凌にとっては良い叔父だった。だが到底全てを信じることはできずにいて、金光善が死んだ後、始末に忙しいだろうことを理由に半年以上金凌を蓮花塢で育てた。金光瑶が宗主となり、仙督となり落ち着いた頃に金凌を金麟台へと戻した。それでも警戒して月に三度は金凌の元へと江澄は通っていた。それからしばらくして金松は表向きは瞭望台に反対する世家の宗主によって殺されることとなった。泣き崩れ憔悴する秦愫の姿に姉の姿を重ね幼い命を惜しみつつも、心のどこかで江澄は安堵していたのも事実だった。
     目の前の藍曦臣は江澄が生まれた金松にそんな感情を抱いていたなど思いもしないのだろう。少し考えれば蘭陵金氏の歪な人間関係とそれに含まれる危険性など想像がつくだろうに。実際金松の一か月礼に現れた江澄に、訳知り顔で「面倒なことになりましたな」などと耳打ちをしてきた者もいた。それが普通の反応だ。
     藍曦臣とて大世家の宗主だ。いくら姑蘇藍氏といえども宗主の座を廻る血なまぐさいやり取りが現実として存在することは知識として知っているはずだが、金光瑶がそんなことをするはずがないと信じているのか。無邪気さ故にそのような危険性が金凌にあるなど思いも浮かばないのか。それとも、そんな可能性など思い浮かべるほどの興味関心を江澄に対して抱いていなかったのか。
    「江宗主?」
     黙ってしまった江澄を不思議そうな顔で藍曦臣が見てくる。
     江澄は唇の端を小さく持ち上げた。
     温潤良玉。その人格は気高く清らかであり、貴賤にこだわらず全ての者に対して平等である。
    それが、藍曦臣の世間一般の評価であり、正しい評価だ。全ての者に対して平等と言えども、藍氏、叔父の藍啓仁、弟の藍忘機、義兄弟の聶明玦に金光瑶。聶明玦の弟である聶懐桑。優先順位は当然ある。その優先順位から外れた人間全てに対して平等であるとは聞こえがいいが、言い換えてしまえば等しく興味がないとも言える。興味がなければ江氏の、江澄の心情など気にも留めまい。
     十三年前藍曦臣が魏無羨について何も言わなかったのは江澄に対して特段興味がなかったからだったと今更ながら気がついてしまった。
     射日の征戦の後、誰もが皆、魏無羨を追い詰めた江澄のことを褒め称えた。そして同時に魏無羨を蔑める言葉を口にした。
     流石は江宗主。亡くなられた父君も母君も姉君も喜ぶでしょう。
     ──そんなはずがあるか。父はきっと江氏の家規を守れず無難な選択で江氏だけを守ることを選択した自分にため息を吐く。母は魏無羨の手綱を握れなかったことを怒り、姉はただ悲しむだろう。
     あの悪鬼が死んでせいせいした。これで安心して眠れると言うもの。
     ──そもそも貴様のような矮小な人間を魏無羨が相手にするものか。
     怒鳴り返したい衝動を、奥歯を噛み締めることで江澄はずっとやり過ごしていた。江澄や江氏を持ち上げた裏では年嵩の宗主たちがこぞって自分を侮っていることなど分かり切っていた。相手にするだけ無駄なのだ。否定して言い返せば好き勝手なことを言われることも十分すぎるほどに理解していた。
     そんな中、藍曦臣だけは何も言わなかった。藍曦臣だけが魏無羨のことを口にしなかった。藍曦臣に魏無羨の話を振っても何も言わずに微笑まれれば、他家の宗主は口を噤む。澤蕪君の前でするには相応しくない会話なのだと勝手に思い込み勝手に黙ってくれる。それにどれだけ江澄は救われたか。
     口さがない者たちの醜悪さ、煩わしさを知っていたからこそ、江澄は観音廟の後、金光瑶について一切話題にしなかった。
     「観音廟には江宗主もいらしたのでしょう?」と聞いてきた者は睨んで黙らせた。自分の独りよがりだとは分かっていたが、それが十三年前に受けた恩を返せると思ったからだった。
     随分と滑稽な話だと笑いたくもなるが、もとより観音廟以前にさほど特別な興味を持たれていないことは自覚していたのでどこかで納得もした。それと同時に、矢張り藍曦臣が己に好意を持ったのも一時の気の迷いなのだと確信する。このまま藍曦臣の術が解けなければ藍曦臣は江澄に興味を持たないままで終わるだろう。術が解ければ幸福の時は今ではなく、過去であったと藍曦臣は理解し高々一夜で持ち始めた江澄に対する興味や好意はその程度の物だったと気がつくことだろう。江澄は約束の答えを出せたが、もうその答えは藍曦臣には不要なものとなる。
     江澄は藍曦臣の視線から逃げるように俯いた。手の中にある茶杯のふちを親指で撫でる。姑蘇の茶杯はふちが薄く唇を当てても違和感がない。その代わり熱い茶だと熱を通しやすく唇が火傷しそうになるのだ。姑蘇の茶は低めの温度でじっくりと淹れるものだからこの薄さがむしろ丁度良い。そんな他愛のないことを知ったのも、この寒室で茶を飲むようになってからだった。唇に宛てた時の感触が気に入ったことを口にした次の時には、藍曦臣に茶器の一揃いと姑蘇の茶を贈られた。
     一撫でするごとに藍曦臣と蓮花塢の四阿で、江澄の私室で、この寒室で茶を共にしたことを思い出す。それももう終わりかもしれないと思うと酷く惜しい。もう澤蕪君ではなくただの藍曦臣の時間を独り占めすることができなくなるのだと思うと胸がキリキリと痛んだ。父母や姉を失った時の悲しみとも、金丹を壊された時の絶望とも違う。蘇った魏無羨が藍忘機と抱き合っていたのを見た時の衝撃に少しだけ近かった。
     何故自分は失くしてばかりなのか。
     短く空気を吐き出す音が自分の口から聞こえた。息がしづらくなる。居心地が良かった寒室が、染み付いた白檀の香が酷く癪に障る。魏無羨はまだなのか。人を呼び出しておいてと八つ当たりをしたくなる。魏無羨が藍曦臣のために動いていることを理解しており、理解しているからこそ八つ当たりしたくなる自分自身に更に苛立ちが増す。
    「江宗主。お加減でも悪いのですか?」
    「……いや、大丈夫です」
    「そう、ですか? ならば良いのだけれど」
    「ええと、金松の一か月礼の贈り物ですか。阿凌の時には澤蕪君は何を? 同じようなものを贈れば良いのではないでしょうか」
     無理やり唇の端を持ち上げた。藍曦臣の唇が小さく「金凌の一か月礼」と動き眉間に皺が寄った。痛まし気に目を伏せる。ようやく金凌の一か月礼に何が起こったのかを思い出したのだろう。
    「きっと阿松は金公子の良い友に、良い義弟になるよ」
     気遣うような藍曦臣の言葉があまりにも滑稽で無理やり上げた江澄の口角が震える。小さく息を吸ってゆっくりと吐き出した。知らず内に握りしめていた茶杯にひびが入っていないかを視線で確認しそっと卓の上へと戻す。魏無羨が今日この場に自分を招いた理由が分からないが今すぐに帰るべきだと考えた。このまま藍曦臣と会話をしていると、頭では駄目だと理解をしていても無理やり藍曦臣の記憶を呼び戻すようなことを口走りそうだと思った。今も「そんな未来は来ない」と言いかけた。
     不自然にならないように江澄は立ち上がって一歩後ろに下がった。
    「江宗主?」
    「申し訳ないが、失礼しようと思う。何か要件があったとのことだが、あいにく私もそれなりに忙しい身ですので」
     藍曦臣も立ち上がる気配を感じながら江澄は両手を顔の前で組み、深々と頭を下げようとした。視界に藍曦臣の手が入り込んだ。下げ切る前に組んだ手を止められる。
    「何を?」
    「あ、いえ、つい」
     自分の行動に驚いているのか、江澄の顔と己の手に藍曦臣は視線を忙しなく移動させている。江澄は小さく鼻で笑った。金光瑶が拱手をしようとしたときに止める藍曦臣の姿を江澄は何度も見たことがある。
    「別のどなたかとお間違えでは? 澤蕪君。私はあなたの義弟ではありませんよ」
    「いや、分かってはいるんですが……」
     いまだ戸惑う藍曦臣を無視して江澄は自分の手を藍曦臣から外すと改めて頭を下げる。
    「それでは失礼する。もうこちらにお邪魔することはないでしょう」
    「江宗主、待ってください」
     手首が捕まれ動きを封じられる。太息を吐き視線をやると、自分の行動が信じられないように目を白黒とさせている藍曦臣がいた。ただ掴んだ手首を離すつもりはないようで、振り解けない程度の強さで握られている。
    「澤蕪君。なにか?」
    「あ、つい」
    「つい? ついで人の手首を捕まれるのですか?」
     指摘をしても離す様子がない。江澄は胸中で舌打ちをした。藍曦臣の行動が良く分からない。
    「何か、気に障ることを言いましたか?」
     ぴくん、と江澄の眉が跳ね上がる。奥歯を噛み締めゆっくりと息を吐いた。
    「いいえ。なにも」
    「では、何故突然帰ると?」
     縋る姿が一年前の藍曦臣の姿に重なる。あの時も必死に自分を留めようとしていたな、とぼんやりと思い出す。あの時は自分が折れる形となった。けれど今は折れるつもりはない。術が解けようが解けなかろうが、藍曦臣が自分を求めるてくることはないはずなのだ。少しぐらい本音をいっても許されるだろう。
     息を吸い込み、藍曦臣を睨みつける。
    「よくも金凌の叔父である私に金松のことを言えたものだ」
     藍曦臣が息を飲む音が聞こえた。咎めるような目で江澄を見てくる。
    「阿瑶が金公子に仇なすと? 彼がそんなことをするはずありません」
     江澄を咎め、金光瑶を信じ切っている瞳に苛立ちが増す。
     金光瑶は確かに藍曦臣だけは傷つけるようなことはしなかった。藍曦臣の前でだけは完璧なよい義弟でいたのだろう。十三年間藍曦臣は金光瑶の見たい部分だけ見て、見えていたはずのものを見えないふりをした。それは藍曦臣の歪みの一つだ。金光瑶の真実を知った後の藍曦臣は己の歪みと向き合い、答えを出せずにもがき、宗主として以前以上に邁進していたというのに、術にかかっているとはいえ、今はどうだ。
     江澄は下唇を噛み締め藍曦臣を睨みつける。
    「本当に、今があなたにとって一番幸せなのか?」
     何をあの程度の法器ごときにいつまでも囚われているのか。そんなにも三尊でいた頃が幸せだったのか。藍曦臣が江澄を庇って今の状態に陥ったことも分かっている。だからこそ、余計に腹立たしくて仕方がない。何故自分などを庇ったのか。何故あの時花になど囚われたのか。藍曦臣が腹立たしい。それよりも何よりも自分自身が腹立たしい。
     無理やり藍曦臣の記憶を呼び戻すことがどのような影響を与えるか分からないことも、魏無羨が何かを掴み戻ってくれば好転する可能性があることも江澄は理解していた。けれどもうどうでも良くなった。どうせ見限られるのだ。もしも何かあっても、魏無羨が、藍忘機が、藍啓仁が何とかするだろう。江氏と違い、姑蘇藍氏には宗主の代わりができる人間も、膨大な知識の元となる蔵書閣もあるのだ。
     八つ当たりだと分かっている。八つ当たりついでに藍曦臣にいうべきではない言葉を江澄は言おうとしていた。
    「金松は三歳になる前に死ぬ。間接的に金光瑶に殺される」
     淡々と口から出た声音は江澄の胸中を渦巻く怒りに反して酷く冷たく落ち着いていた。
    「江宗主? 何を……」
    「秦愫殿は十二年後に死ぬ。金光瑶が実の兄だと知り、死ぬ。あなたの願った金光瑶、秦愫殿、金松が幸せに過ごすのはほんの数年だけだ。それも結局は見せかけだ」
    「あなたは自分が何を言っているのか分かっているのですか?」
     江澄の言葉が信じられぬと、藍曦臣が眉を大きく顰めた。捕まれた手首がぎりぎりと締め付けられ痛む。それを無視して江澄は更に続けた。
    「赤鋒尊も死ぬ。あなたが金光瑶に教えた洗華の中に乱魄抄と呼ばれる曲を混ぜては赤鋒尊に聞かせ、憤死させ、その死体はバラバラに切断される」
    「江晩吟!」
    「金光善も金光瑶の手によって殺される。腹上死だ。その腹上死に付き合わされた妓女もまた一人を残して金光瑶の手によって殺される。その他の金氏や金光瑶に楯突いたいくつかの世家が一族もろとも老人も女も幼い子ども皆も殺された」
    「黙りなさい! これ以上阿瑶を侮辱するような言葉は……」
    「金光瑶も死ぬ。藍忘機に片腕を切り落とされ、あなたの朔月がその身を貫き、最後には狂屍となった赤鋒尊に首を絞められて死ぬ」
    「なにを……。何を言っているんです!」
     真っ青な顔をしてきつく江澄を睨みつけてくる。戸惑いと怒りがない交ぜになった感情は藍曦臣の澄んだ琥珀色の瞳を濃くしていた。藍曦臣に怒りの表情で見られる人間などこの世に何人もいないだろう。怒りに満ちた顔も美しいのだな、と見とれそうになる自分が江澄はおかしくなる。
    「信じようが、信じまいが全て事実だ。あなたが俺なんかを庇ったりするから、術にかかるんだ。放っておけば良かったんだ……」
     口を閉じ、江澄は目を伏せる。遥か昔、父である江楓眠に言われた言葉が頭をよぎった。
    「たとえ腹が立っても安易に口に出してはならないことがある」
     十代の頃に諫められた亡き父の言葉を、いまだに自分は守れていない。
     眉を顰めたまま、怒りを隠しもしないで藍曦臣が江澄から目を反らした。捕まれていた手が解放される。
    「私が、江宗主。あなたを庇う? 何故そんなことをするんですか。するわけがない」
     固い声は藍曦臣の心を如実に表しているようで、江澄は目を伏せたまま口角を上げた。じくじくと血を流している時のように胸が痛いが妙な満足感があった。
     そうだ。それでいい。
     あと一つ最後に言わねばならないことがあると江澄は息を吐いた。約束などなんの役にも立たないことを身を以て知っているからこそ、自分からした約束は守りたい。
    「今日が丁度約束の一年後だ。あなたは私にもう問うことはないだろう。だが約束は約束だ。答えをくれてやる」
     腕を伸ばし、無防備な藍曦臣の胸倉を掴む。驚きでされるがままの藍曦臣の身体を引き寄せた。藍曦臣を睨みつけ、顔を近づけると声に出さずに唇だけ「好きだ」と動かし、ついでに薄く開いた藍曦臣の唇に己の唇を重ねた。藍曦臣の身体が大きく揺れ、間近にある藍曦臣の瞳が嫌悪に歪む。舌でも入れてやろうかと思うと同時に、身体を突き飛ばされ一歩下がった所で頬に激しい痛みが襲う。霊力が乗った平手は江澄の脳を軽く揺らしながら身体を弾き飛ばす。柱にぶつかり鈍い音とともに背中に痛みが走った。しゃがみそうになるのを踏ん張り、江澄は藍曦臣を見る。江澄を打った己の手を驚くように見つめながら、口元を抑えていた。
     口の中に血の味が広がる。口内に溜まった血を吐き出したいが、まだ寒室の中だ。吐き出すわけにはいかず飲み込んでその味に眉を顰める。動揺している藍曦臣に「それ見たことか」と大声で笑いたくなるのを堪え江澄は何事もなかったかのように無言で拱手をした。藍曦臣の横を通って寒室を出るが、今度は引き留められることはなかった。



     口元を押さえる手は小さく震えていた。脇に降ろした手のひらはまだピリピリと痛みを訴えており、その痛みが江澄の頬を張った時の感触を思い出させる。手を握っては開きを繰り返し痛みを散らした。己の手に痛みがまだ残っているのだから、打たれた江澄の頬はどうなっているだろうか。とっさのことでさほどの手加減もできなかったため江澄は柱に強かに背をぶつけていた。口の中も切れていたかもしれない。だが江澄であったからあの程度で済んだのだろう。もっと修為の低い者であったならば今でも立ち上がれずに床に倒れているはずだ。感情に任せて人を打つなど藍氏の家規に反する。
    「私は一体何を……」
     呟く拍子に微かに動いた唇が押さえていた手に触れる。びくりと身体をすくませ思わず口元から手を離した。思い出してしまった江澄の唇の感触を忘れるように頭を二度ほど振ってみたが、薄くかさついた唇も、唇に触れた吐息も、まっすぐに藍曦臣の瞳を捕らえ逸らすことすら許さぬと睨みつけてきた瞳も、頭にこびりついた剥がれ落ちることはなかった。脳裏にこびりついた江澄の瞳がまだこちらを見ているような感覚から逃げようと瞼を下す。訪れた黒に安堵の吐息をこぼしたが、すぐに瞼の裏に口づけをする前に音もなく動いた江澄の唇がまざまざと浮かびあがり、慌てて瞼をあげた。
     酷く喉が渇き、おぼつかない足取りで先ほどまで対面で座りあっていた卓へと戻る。己の茶杯にはまだ茶が残っているのを確認すると、茶杯を手でつかみ一息に中身を煽った。
     脳裏に瞼に焼き付いて離れようともしない江澄の姿をなんとか追い出すために彼から投げつけられた言葉を思い出す。どの言葉も到底信じられるものではなかった。
     藍曦臣は金光瑶が秦愫と婚姻を結ぶために金光瑶と秦愫が苦労したのを知っている。表立って協力してはいないが、彼らが夫婦となれるように藍曦臣もわずかばかりの手を貸した。互いに愛しあい助け合い結ばれることを双方が望んでいる金光瑶と秦愫のことが微笑ましく、彼らの思いが叶うように願った。金光瑶と秦愫、そして生まれたばかりの金松が、自分たち兄弟が一度として経験することができなかった、子が仲睦まじい両親とともにあることを願った。それなのに、金光瑶と秦愫が兄妹であるなどあるはずがない。それでは金松は近親相姦の罪の末に産まれて来たことになる。共にあることを望み奔走した金光瑶が金松と秦愫に手をかけるなどそんなこと、あるはずがない。あってはならないことだ。
     藍曦臣は頭を振り続ける。
     金光瑶が聶明玦を害そうとなど考えているはずはない。確かに聶明玦は金光瑶に対して厳しいところはある。射日の征では金光瑶が温氏に潜伏していたことで、仕方なく誤解が発生するような状況もあった。だが、だからと言って義兄弟の契りを交わしているのだ。金光瑶がその様なことをするはずがない。
     何より己が金光瑶を殺すなどあり得ない。あり得るはずがない。第一、金光瑶は生きているのだ。
     江澄の言葉を全て一つずつ否定していき、ようやく心が落ち着いて来た気がする。だが、落ち着くと同時に疑問が浮かび上がる。
     何故、あのようなことを江澄は口にしたのか。
     雲夢江氏の江晩吟。性格はきつく、皮肉気であり、口を開けば他者を攻撃するかのような毒を持った舌ではあるが、他人を貶める嘘と媚びへつらうようなことは言わない人物であったはずだ。江氏復興に際してどこからの施しも受けぬ弱みは見せぬと言わんばかりに、他家からの支援を断り、付け入る隙を与えぬためにか、宗主同士の噂話に参加しているのを見たこともなかった。その江澄が何故、嘘であればすぐに分かるようなことを言ったのか。藍曦臣から見て江澄と金光瑶の関係は決して悪いものではなかったはずだ。仮に金光瑶を貶める為だったとしても荒唐無稽が過ぎる。しかも、まるで未来視でもしたかのような口ぶりだった。
     それに何故江澄は藍曦臣が金光瑶に藍氏の術である清心音を教えたことを知っていたのか。金光瑶が江澄に言ったのだろうか。金麟台で江澄と金光瑶が共にいるところを見かけたことはあるが、世間話や自分のことなどを彼らが話していることを聞いたことはない。常に金凌のことばかりであった。聶懐桑とは仲が良いようだから彼から伝わったのだろうか。だが、乱魄抄のことを知っていたのは何故だ。あれは藍氏の禁室に格納されたものでありその存在を他家の江澄が知っているはずがないのだ。
     彼のことが分からない。分からないことだらけだと頬を打った右手のひらを眺める。人の頬を打つことなど藍曦臣の人生では初めてのはずだ。なのに何故か既視感がある。
    「江宗主以外を打った覚えなど……」
     ない、と呟こうとするとずきりと頭の奥が痛んだ。卓に手を置き額を抑える。痛みに耐えるように眉間に皺を寄せ目をきつく瞑ると見たことのない情景が浮かんで来た。
     どこかの廟で床に金光瑶が跪いている。その前に自分は立ち何かを話している。
     バクバクと心臓が早鐘を打ち始めた。潤したばかりの喉が酷く渇く。眩暈がして思わずその場に蹲った。うわんうわんと耳鳴りがし、音の結界にでも閉じ込められたようだ。なんだこれはと気力をふり絞り顔を持ち上げると、寒室の入り口に人影が見えた。白と、黒。慌てたように白が近づいてくる。かすむ視界にそれが弟の藍忘機であると分かる。だが、藍忘機は今は謹慎という名の静養をしているはずだ。
    (あぁ、忘機。動けるようになったのか)
     己の口から出ているはずの言葉が何も聞こえなかった。後ろにいる黒い人物は誰だろうか。どこかで見たことがある。金麟台だ。確か莫玄羽という名の金光瑶の異母弟だったはずだ。だがその彼が何故雲深不知処にいるのか。
     藍忘機と莫玄羽の口が動いているのが見える。声は相変わらず聞こえない。藍忘機が莫玄羽に心を許しているように見える。そんなはずはないのに。先ほどの江澄といい、何かがおかしい。莫玄羽のように見える黒い男が遠慮もなく寒室を歩きまわっている。飾ってあった香炉に手を伸ばした時、藍曦臣は止めねばと思った。
     アレは「彼」に贈った物なのだ。
     「彼」のために見つけた物なのだ。
    あぁ「彼」とは誰なのか。
     痛む頭、煩い耳鳴りを抑え、香炉を取り戻そうと無理に立ち上がるが平衡感覚は既になく膝がガクリと抜けそのまま後ろに倒れそうになる。衝撃は来なかった。ぼんやりとした視界に白い物が見え、支えられながらどこかへ移動している感覚だけがあった。一歩足を踏み出すごとに、耳の奥でうわんと音がする。
     うわん。うわん。うわん。
    (しあわせなことだけをおもいだしましょう)
     うわん。うわん。うわん。
     音の狭間に女の声が聞こえた。
     うわん。うわん。うわん。
     目は何も見えなくなった。瞼を閉じているのか、開けているのかも分からない。
     うわん。うわん。うわん。
     微かに何かの匂いがする。香だろうか。嗅いだことのないような香りだった。
     うわん。うわん。
     うわん。
     唐突に耳鳴りが止んだ。
     耳鳴りは止んだというのに、周囲の音は何も入って来ない。寒室にいるはずなのに暗闇の中に立っていた。今目が覚めているのか。意識を失っているのか。それすらも分からない。
     広いのか、狭いのかも分からぬ空間に立っていると絵が浮かび上がって来た。藍曦臣を中心に幾枚の絵のような物がくるりくるりと回る。灯籠作りを得意としていた蕭氏が作る走馬灯の中心にでも立っているような気分だ。絵を視線で追うとそこには幼い藍曦臣がいた。
     亡き母の隣に座り、大きな母の腹に己の耳を寄せている。口角を小さく上げて母の胎内にいる藍忘機の鼓動を聞いている。とく、とく、とく、と規則正しい小さな小さな藍忘機の鼓動が聞こえてくる。あぁ、幸せだった。
     幼い藍忘機と共に逆立ちで修行をしている情景、座学にやって来た江澄、魏無羨と藍忘機とで彩衣鎮に向かった時の情景。様々な見たことのある情景が浮かびあがり、声や音が聞こえる。そのどれも懐かしみながら、これは自分の記憶であると理解した。記憶を映した絵は藍曦臣が産まれてからをなぞるように記憶を再生しパラパラと変わっていく。
     温氏による雲深不知処の襲撃。書を乾坤袋に入れられるだけ入れた逃亡生活。射日の征。そして今。三尊として聶明玦、金光瑶と兄弟の契りを結び、共に歩んでいこうとしている。義理とはいえ、新たな家族ができた。藍曦臣の心は満ちていた。絵はもう終わりだろう。そう思うのに、まだ絵は変わる。
     聶明玦の遺体のない葬式。泣き止まぬ聶懐桑を金光瑶が支えている。
    (赤鋒尊も死ぬ。あなたが金光瑶に教えた洗華の中に乱魄抄と呼ばれる曲を混ぜては赤鋒尊に聞かせ、憤死させ、その死体はバラバラに切断される)
     江澄の言葉が思い出された。
     絵が変わる。
     金光善の葬式。噂好きの宗主たちがひそひそと「腹上死だそうだ」と囁きあっている。
    (金光善も金光瑶の手によって殺される。腹上死だ)
     また江澄の言葉が蘇り、絵が変わる。
    金松の葬式。嘆き悲しむ秦愫の肩を金光瑶が抱いていた。
    (あなたの願った金光瑶、秦愫殿、金松が幸せに過ごすのはほんの数年だけだ)
     藍曦臣は両手で耳を塞いだ。江澄の言葉は全て真実だというのか。では。
     次の絵を見たくなくて目を瞑った。見たくなければ見なければよい。見なければそこにないはずだ。だが藍曦臣の望みもむなしく、目を瞑っているのに絵が見えた。耳を塞いでいるのに笑い声が聞こえてくる。
     胸に深々と剣を突き刺された男が狂ったように笑っている。
     嫌だ、と藍曦臣は頭を振った。それは知りたくない。その先は知りたくない。見たくない。
     胸を突き刺した剣を握っているのは藍曦臣だった。引き抜かれた剣、そして突然金光瑶に突き飛ばされた己の身体が見えた。
     藍曦臣はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。心臓が鷲掴みされているようにぎりぎりと痛み、息が上手くできない。それなのに涙ははらはらと零れ落ちてくる。そうだった。あの幸せだと思っていたのはただの記憶で、今ではない。
     藍曦臣の状態など構いもしないのか、絵はまた変わった。何故か絵は水墨画で書かれたように白と黒だけで構成されていた。記憶は藍曦臣の心の状態を酌んでいるのか。
     寒室で閉関をしている自分の姿が浮かび上がる。何も答えが出せずにただただ無為に時間を消費していた。あまりにもその姿が滑稽で哀れで涙がまた零れた。
     閉関を解き家宴に参加した時の絵では、宗主の勤めを果たせているとはお世辞にも言えない姿が見える。まったく酷いものだった。
     閉関後初めて清談会に参加した時の絵に変わる。藍曦臣の周りに他家の宗主が集まっている。口々に藍曦臣の復帰を祝い、金光瑶を罵り藍曦臣の功績を褒め湛えている。
     ──流石は澤蕪君。
     ──あの悪漢めの本性を見抜いておられたのでしょう。
     ──いやいや庇う必要などありません。なんとお優しいことか。
     なんと言っても彼らは藍曦臣の言葉を勝手に好きなように解釈する。耳を塞いでも目を瞑っても無駄なことは理解していたため、ただ涙を流しながら藍曦臣は絵の上に浮かび上がる情景を見せられていた。
     ピタリ、と声が止まる。江澄がやって来たのだ。江澄は言葉を発するわけでもなく、藍曦臣を囲み雑音を垂れ流していた宗主たちを睥睨し皮肉気に口元を歪めた。それだけで藍曦臣の周囲にいた宗主たちが一人、また一人と離れていく。ぽかりと人がいなくなった空間に江澄が収まり、拱手を交わす。
     ──澤蕪君、お元気そうで何よりです。
     ──おかげ様で。
     たったそれだけの言葉を交わし、江澄の口角が小さく上がる。
    「あ……」
     白と黒。陰影で彩られた絵に、ぽつりと彩を持つ染料が落とされたように江澄の瞳が色づいた。
     余計なことも気遣わし気な視線も表情も何もなく、ただ挨拶だけを観音廟の事件がある前と同じようにして江澄は背を向けた。それがまず嬉しかったのだ。特別な人間などではなく、一介の宗主であると言われたようで安堵したのだ。
     絵の中の去ってしまう彼の背中に指先を伸ばした。絵に届く前にまた情景が変わる。今度は閉関後に初めて夜狩に出た時の物だ。
     動けず怪我をし江澄の元へ向かい胸倉を捕まれた。きつく睨んでくる瞳はやはり白と黒で構成された絵の中で唯一色を纏っていた。
     江澄と会話をしている絵の中の自分を酷く羨ましい気持ちで藍曦臣は眺めた。知らず内に涙は止まっていた。江澄の言葉の一つ一つに藍曦臣は頷く。そのたびに絵に色が戻ってくる。
     ──あぁ、笑われたな。私はどちらかと言えばあなたの笑った顔のほうが好きだ。
     やや伏せがちな瞳で藍曦臣を見てきた江澄の顔に、絵の中の自分と同じく藍曦臣も息を止めた。
    「──そうでした。江宗主……」
     色の戻った絵はその後の藍曦臣の記憶を映し出す。魏無羨との寒室での会話。江澄と友になるのだと意気込んで向かった蓮花塢。友では足りず生まれて初めて欲しいのだと駄々を捏ねた春。約束を取り付けその時までに何とか彼に好かれようと思いつく限りのことをしていた。
     そして再び訪れた郷での夜狩と簪の術にかかった一か月間の情景が流れていく。藍啓仁と藍忘機に迷惑を掛け、門弟にも気を遣わせ、術にかかっていたとはいえ、なんと未熟なことか。何よりも、何故自分は三尊であった頃の記憶を望んだのか。何となく答えは自分の中で分かっている気がする。
     記憶も終盤に差し掛かる。絵には寒室での江澄との会話が映し出された。
     自分が発している言葉を聞き、羞恥に眉を顰めた。記憶の檻に閉じ込められていたとはいえ、なんと自分の言葉は滑稽なことか。分かった上で聞けば江澄にも金光瑶にも、秦愫にも随分と自分勝手なことを口にしていたのかと自覚する。江澄が怒りを覚えるのも仕方ない。江澄の言葉が正しいのに自分だけが憤っている。
     江澄の口元が「好きだ」と動き唇が合わさるのを見て、藍曦臣は両手で顔を覆った。
    「あぁ、晩吟。江澄。ごめんなさい。あなたは約束を守ってくれたのに。私が……。私は……」 
     彼の心を、頬を打つことで傷つけた。絵に映し出される江澄の顔には明らかな諦念が浮かんでいた。早く、彼の元に行かなければ。彼のくれた答えに応えねば。約束通り彼に問わねば。手遅れになる前に。
     藍曦臣の周りをくるりくるりと舞っていたはずの絵が一枚もなくなった。見せる記憶が無くなったということか。一寸の先も己の手の平すらも見えない暗闇で藍曦臣の意識はぷつりと途切れた。



     目を覚まし、最初に飛び込んできたのは藍忘機の嬉しそうな顔だった。その傍にいた魏無羨は「もっと嬉しそうな顔をしたらいいのに」と嘯いていたが、藍曦臣には弟が自分が目を覚ましたことに安堵し喜んでいると知るのは容易かった。それからバタバタと藍啓仁と藍家の医師がやってきて藍曦臣の脈をとり、藍曦臣が術にかかっていた一月あまりの藍家の様子、藍曦臣の様子、簪が温氏の行方不明になった法器であること、その効能についてを一刻ほどかかって語られた。
     藍曦臣にかかった術を解いたのは紫の花だった。花の色によって見る記憶が変わるというのであれば、違う色の花を宛てればよい。幸いにも全ての記憶を見せる紫色の花は、琳麗が咲かせ一株は雲深不知処に保管されていた。紫の花に辿り着くまではさほどの時間はかからなかったが、そこからが問題であった。なにせ雲深不知処に一株しかない。その一株も効用を調べるために使われ花は数えるほどしか咲いていなかった。花弁を一体どのように使えば良いのか。煎じて飲ませればよいのか。夜狩に参加した門弟の話を聞くと香りがどうやら怪しい。ならば香だと思いつき、花弁一枚香炉で焚いたところ、藍曦臣の記憶が跳んだ。一度跳んでからは香を焚かずとも記憶は跳び、その間隔は狭くなっていった。
     紫の花はもう一株、雲夢にあったがいざという時のための予備として確保しておくべきと、同じ花が自生する清河へと藍忘機と魏無羨が赴いた。ただ、本来であれば夏から秋にかけて咲く花で、木蓮の咲くこの時期には蕾もまだ付いていない。株を見つけるのに時間がかかり、見つけた後、霊力を注いで無理やり咲かせた。香として利用ができるように花を現地で摘み、乾かし十分な量を用意して急ぎ戻って来て、寒室で蹲っている藍曦臣を見つけて慌てて花を焚いたとのことだった。
     魏無羨の説明を聞きながら、藍曦臣は自分が暗闇の中で見せられていたことを思い出していた。紫の花弁は全ての記憶を見せる。故に、幼い頃から今までの記憶を絵に浮かぶ情景として見せられていたのだろう。琳麗が鬼となった時、琳麗の出した紫の花にあてられたものは狂って死んでいった。その理由が分かった気がした。藍曦臣が見せられたように過去の記憶を良い物も忘れたいほどの辛い記憶も全て見せられるのだろう。藍曦臣は一周で済んだがそれを何周も見せられれば、狂いもするだろう。
     一しきり話を聞いて、藍曦臣は改めて藍忘機と魏無羨に礼を述べた。
    「ありがとう。それで、江宗主は?」
     藍曦臣が香によって意識を失ってから目が覚めるまでに一刻。目が覚めてから今までに一刻。合わせて二刻と少し、江澄が寒室を出てから経過している。二刻であればもしかしてまだ雲深不知処のどこかにいるのかもしれない。そんな淡い期待があった。
    「江澄は帰りました」
    「そうですか……」
     魏無羨の言葉に藍曦臣は目を伏せる。一つ息を吐き室内を見渡した。そこかしこにあるべき物がなく、ないはずの物がある。
    「澤蕪君。これを」
     魏無羨の言葉に顔をあげると、彼の手の中には見覚えのある通行玉令があった。小さく息をのむ。それはほとんど使われることがなかったが、江澄に渡したものだった。
    「江澄が自分には必要がないから澤蕪君に返すように、と」
     眉間に皺が寄るほどに強く目を瞑り魏無羨に通行玉令を渡している江澄の姿を思い浮かべる。バクバクと心臓が早鐘を打ち自分の頭に血が上るのが分かった。それを耐えるように強く拳を握る。行かねばなるまい。すぐにでも。幸いにも藍啓仁からはもうしばらく休めと言われている。
    「忘機。我が侭を一つ言ってもいいだろうか。叔父上の言葉に甘えようと思うが、いいかな?」
    「はい」
    「ありがとう。私は、雲夢に行こうと思う」
    「……澤蕪君。雲夢に行ってどうするんですか?」
     手の中で通行玉令を弄んでいた魏無羨が首を傾げた。藍忘機へと向けていた視線を魏無羨に向ける。
    「江澄に会いに」
    「会ってどうするんです?」
    「話をします」
     ふうんと魏無羨は鼻を鳴らすと、手にしていた通行玉令を顔にかざした。透かし彫りで雲紋と蓮が描かれた翡翠の隙間から魏無羨の片目が見える。
    「前にした江澄の情の入り口の話、覚えてますか?」
    「えぇ。情は深いが入り口はとても狭い、という話だったね」
     怪我をした夜狩から帰った直後に魏無羨から、弔いの話の後に聞いた話だ。
    「そう。澤蕪君は入り口を通ったように思えた。けど、もう閉じられてしまった」
     パタリ、と通行玉令を塞ぐように手をかざす。彫りの隙間から見えていた魏無羨の顔が見えなくなる。行っても無駄だと言いたいのか。それとも己の江澄への気持ちを測りたいのか。おそらくはその両方だろう。
    「そうですね。だから、行くんだ」
    「無駄になるかもしれないのに?」
    「無駄にはならないよ」
    「あなたにとって幸せなのはここ最近ではなくてアイツとは交流がなかった三尊の頃だと知られているのに?」
     少しばかり非難するような物言いだった。藍曦臣にとっての優先度は結局は江澄ではなく今は亡き義兄弟たちの方が高いのだろうと暗に言われているようだった。あの頃は確かに良かったが、藍曦臣があの頃を見たいと願った理由は勿論別にある。ただその理由を今魏無羨に語ったところでなににもなるまい。江澄にこそ説明すべきだ。
    「えぇ。それでも」
    「自分なら閉じてしまった穴を通れると? 凄い自信ですね」
     口元は弧を描いているが、魏無羨の目は笑っていない。藍曦臣は穏やかに微笑んで見せた。
    「魏公子。あなたが通れているのですよ?」
     あれほどの確執がありながら、結局は江澄は魏無羨への執着にも似た情を捨てられずにいるのだ。口では全て捨てたと言いながら。
    「だって、俺ですから」
     当たり前でしょう? と言わんばかりの表情に藍曦臣はますます笑みを深くした。魏無羨の隣で黙って座っている藍忘機が、藍曦臣にだけは分かる複雑な表情を浮かべている。自分の道侶が江澄の情を受けることを当たり前だと思っていることに引っ掛かっているのか。自分の兄が自分の道侶と江澄からの情を競っていることに引っ掛かっているのか。それとも、藍曦臣の中に生じた自分の道侶への苛立ちを敏感に感じ取ったのか。そのどれもだろう。
    「ならば私も通れましょう」
     藍家の男の執着を、あなたは身を以て知っているはずだと目で問えば、魏無羨が大仰に溜め息を吐いた。
    「……その自信折れないといいですね」
    「心配をありがとう」
     不貞腐れたように小さく唇を尖らせながら、魏無羨が江澄の通行玉令を手渡してきた。
     藍忘機と魏無羨が去った寒室で、藍曦臣は蓮花塢へと向かう準備を進める。江澄に渡し、術がかかっている間に自分の行動のせいで戻ってきてしまった香炉、茶器など全ての寒室にあるべきでないものをかき集めて乾坤袋へと入れていく。
     藍啓仁にも蓮花塢に向かうと伝え、翌朝、卯の刻に起床後すぐに蓮花塢へと御剣で向かった。

     蓮花塢に到着したのは未の刻を少し過ぎた頃だった。校場では若い門弟たちが修練を積んでいた。指導している年嵩の門弟の幾人かは夜狩で見かけたことがある顔ばかりだった。
     足を向ける先から見知った顔が小走りにやって来た。江氏の主管だ。藍曦臣が大門を通り過ぎた辺りで奥に連絡が入ったのだろう。
    「澤蕪君。本日おいでになるとは藍氏からも宗主からも聞いておらず、出迎えずに申し訳ありません」
     拱手をしながら探るような視線を向けられた。藍氏宗主として今日訪れることは伝達しておらず、江澄にも私的に訪れることは伝えていない。伝えてしまえば江澄は不在にすると考えたからだ。不在にして三日やそこら蓮花塢には戻らず、どこか別の場所で宗主の仕事をすると考えた。
    「お気になさらず。本日は藍宗主として江宗主に会うためではなく、藍曦臣として江晩吟殿に会うために参りました。江宗主はおいでだろうか?」
    「それが、大変申し訳ございません。宗主は本日不在でして」
     主管はにこりと微笑みながら江澄の不在を告げる。
    「いつ、お帰りだろう? どうしてもお話せねばならないことがある」
    「本日か、明日か……。明後日か。戻られましたらこちらより雲深不知処へ伝令を出しましょう。本日は申し訳ありませんが、どうかお帰りに」
    「いつお戻りになるか分からない……」
     嘘だなと胸中で吐息をこぼした。予想していたことではあったが、居留守を使われてしまったことに少々傷つく。
     藍曦臣は「そうですか」と呟いた。藍曦臣の来訪は既に江澄に伝わっているはずだ。そして伝わっているからこそ、主管には藍曦臣を通すなと伝えたのだろう。でなければ、いつ戻るか分からないなどと言うはずがなかった。主管と目を合わせると、藍曦臣が不在と言われて納得すると思ってもいないようで、同情の色が見て取れた。
    「では、待たせていただいても? 邪魔になるような真似はしない。本日戻られないのであれば夜は外で。どこか宿でも借りましょう」
     主管が苦笑する。
    「なるほど? いつ帰るか分からないのに? うちの宗主をお待ちになると? 藍氏の方は良いので?」
    「暫く休みを貰っているので」
     笑みで返せば、面白そうに主管は目元を弛ませた。
    「分かりました。ではひとまず大庁にご案内しましょう。外ではうちの門弟たちが澤蕪君に見られていると浮き足立ちかねませんしね。あぁ、ちなみに宿は不要です。私的に来られたとはいえ、澤蕪君を客房に通さずに放り出した、など江氏の評判に関わりますので」
     どこか楽し気な主管に大庁に通された。実際面白がっているのかもしれない。手土産だと天子笑の入った乾坤袋を差し出すと「もしかしたら宗主は今日帰ってくるかもしれませんね」と満面の笑みを浮かべられた。賄いと思われたのかもしれない。
     大庁の端に座り耳を澄ませた。大庁内は静まり返っていたが、校場での修練の声が風に乗って藍曦臣の耳に運ばれてくる。修練の中で笑い声が混ざるのは藍氏では考えられないことだった。江氏の九弁蓮に象られた窓から爽やかな風が入り込み、大庁内に引かれた水の上を浮く蓮の浮葉をゆらゆらと揺らしていった。もう少し経てば立葉が生え、蕾ができ、夏になれば美しい花を咲かせるのだろう。昨年の夏に蓮花塢に訪れたことを思い出し、口角を小さく上げた。
     ほぼ動かずに待つこと二刻。窓から差し込む陽の色は綺私室な橙色をしていた。更に半刻。外は暗くなり、等間隔で置かれた蓮の花を模した燭台に火が灯される。
     今日はもう会うことは叶わないのかもしれないと目を伏せると、ゆらりと燭台の火が風で揺れた。
    「藍氏は暇なのか?」
     広さのある大庁に凛とした声が響く。一月ぶりにその声を聞いたような気分だった。主管に渡した土産が効いたのだろうか。顔をあげれば抜き身の剣のように冷たくこちらを刺してくる美貌がそこにあった。
    「お帰りなさい」
    「ふん。白々しい」
     強かな舌打ちの音が響く。
    「何をしに来られた」
    「あなたに会いに」
    「ならもう会った。お帰り願おうか」
     取り付く島もないとはこのことだが予想はしていた。一段高い位置にある宗主用の椅子に座し、足を組みながら指にはめた紫電をいじる江澄を見つめた。藍曦臣などそこにいないかのような態度だった。
    「話をさせては貰えないだろうか」
    「特にあなたと話すことは私にはない。もう一度言おう。澤蕪君。今なら御剣で戻れば亥の刻までに雲深不知処に戻れるだろう。急がれてはいかがか?」
     呼称が「澤蕪君」であることに心臓が痛む。曦臣と字で呼んでくれていたのに。口調も他の宗主に対する時のようによそよそしい。まるで閉関前に戻ったようだ。
    「まずは、礼を」
    「あなたに感謝されるいわれはないが?」
    「夜狩で倒れた私を雲深不知処まで運んでくれたと聞いています」
    「あなたは私を庇って倒れたのだ。当然のことをしたまで。藍氏には既に江氏から礼の品を届けてあり、また藍氏からも返礼を受け取っている。あなたが改めて言われるようなことではない」
    「それでも礼を」
     拱手し深々と頭を下げた。顔を上げ江澄を見つめる。礼は藍宗主として江宗主に対して伝えるべきことだったが、ここからは藍曦臣が江澄に個人的に伝えたい本題となる。このままここで話して良いものかと逡巡する。江澄も気がついていると思うが、第三者がこちらを窺っている気配がする。主管だろうか。大庁でやり取りをする限り私的とは言え他家の宗主の訪問となる。主管が何かあった時のために控えているのは当然とも言える。それとも藍氏ではあり得ないが、門弟たちが何の連絡もなしにやって来た自分が己らの大事な宗主に何を言おうとしているのか覗き見ているのだろうか。
     今一度江澄を見つめた。藍曦臣としては江澄に対する己の感情に後ろめたいことは何もないため、これから言うことを誰に聞かれても構わない。そのまま口を開いた。
    「次に、謝罪を」
    「謝罪? あなたに謝罪されるようなことをされた覚えはない」
    「術にかかっていたとは言え、私はあなたに言ってはならぬことをいい、頬を打ちました」
    「それがどうしたのです。術にかかっていたのでしょう。そんなことをいちいち気にしていられない。その程度で四大世家として、藍氏との関係を悪化させるほど私も愚かではない」
     気にしていないのならば、どうしてその態度なのか。
     藍曦臣は術にかかっていた間のことをあの走馬灯のおかげで自分が何をしたか、何を言ったか、何をされたか全て覚えている。江澄が口にした音なき言葉も、江澄からされた口づけも全て。本来ならば心が受け入れられたと喜べるはずなのに、江澄は友であったことすらなかったことにしようとしている。それほどまでに自分は傷つけてしまったのだと奥歯を噛み締める。
    「約束を果たしに来ました」
     紫電をいじっていた江澄の指がピタリと止まった。紫電に向けられていた視線がようやく藍曦臣へと向けられる。
    「一年前、交わした約束を──」
    「澤蕪君」
     藍曦臣は開いていた口を閉じ言葉を止める。江澄の眉間には盛大な皺が寄っていた。
    「はい」
     わざとらしい溜め息とともに江澄が立ち上がった。
    「場所を移動する。ついて来られるといい」
     盗み聞きをされている状況で話す内容ではないと判断したのだろう。隠れてこちらをひっそりと窺っている何者かを叱らないのは、藍曦臣も気がついているとは分かっているだろうが、他家の宗主との会話を盗み聞きするような門弟が江氏にはいると思わせたくないからか。
     江澄の後をついて大庁を出ようとすると、柱の陰にいた主管と目が合う。聞き耳を立てていたのは矢張り主管だった。笑みを浮かべていたから土産のつもりで渡した天子笑がまだ賄いとして効いていたのかもしれない。
     ところどころ蓮を象った灯篭が回廊を照らしていた。前を無言で歩く江澄との距離は二歩ほどだ。たかが二歩だが隣に立って歩けない。ただそれだけのことなのに酷く隔たりを感じてしまう。
     いくつかの角を曲がり、辿り着いた先は江澄の私室だった。私室に案内されたことに安堵し、随分と久しぶりのような気持ちで足を踏み入れた。室内に視線を巡らせ藍曦臣は眉尻を小さく下げた。己の懐にある乾坤袋の中にあるのだから当然と言えば当然なのだが、自分が江澄に贈った物が室内には一つもなかった。奥の飾り棚に置かれていたはずの香炉は、藍曦臣の部屋にあるはずの物に代わっている。江澄の部屋に一つ、また一つと自分が贈った物が受け入れられ、飾られるのを藍曦臣は楽しみにしていたのだ。彼の私的な領域の中に自分という存在が入り込むのを許されている気分だった。今すぐにでも乾坤袋の中から江澄に返されたものを取り出して交換したい衝動を抑える。
    「座られよ」
     卓に付くことを促され、香炉に後ろ髪を引かれながらも藍曦臣は江澄の言葉に従い座った。向き合い茶を淹れる江澄の顔をじっと観察する。昨日自分が打ってしまった頬の腫れは引いているようだった。痣や、唇が切れている様子もない。適切に処理がなされたようでそれに安堵する。見た目は問題なさそうだが、触れると痛みがあるなどはないだろうか。無意識のうちに江澄の頬をめがけて手が伸びる。あと一寸の所で手は強く横に払われた。
    「何のつもりだ」
    「あ……。申し訳ない。昨日私が打ってしまった頬の様子が気になって」
     払われた手を諫めるように逆の手で押さえた。江澄はふい、と顔を横に向けてしまった。
    「あの程度、別にどうということもない」
    「けれど、背中も柱に……」
     江澄の口元が歪む。
    「平手で打たれた程度でよろけたのは私の修為が澤蕪君に遠く及ばないということだ」
    「そういうことを言いたいわけではない。江澄。私はあなたのことを心配しているのです。私があなたを傷つけてしまった」
    「傷つけた? あの程度で私が? 澤蕪君。ご自分を買い被りすぎでは? あの程度で私は傷つけられるほど弱くはない」
     藍曦臣は江澄の言葉を否定するかのように首を横に小さく振り手を握りしめた。身体の傷は大した事がないことは分かっている。藍曦臣が言いたいのは江澄の心の方だ。江澄とて藍曦臣が言いたいことを分かっているはずなのに、わざとはぐらかしている。
    「では何故私を澤蕪君と号で呼ぶの? ここはあなたの私室で、私たち以外誰もいないのに。どうして字で呼んでくれないんですか?」
     小さな舌打ちの音が聞こえた。普通ならば憤るべきなのだろう。だが藍曦臣は胸中で安堵する。舌打ちをされる程度にはまだ気安い。
    「私はちゃんと覚えています。術にかかっていた時の自分の行動を。絵物語でも見ているような感覚だったけれど。私があなたに何をして、何を言ったのかも。あなたが私に何を言って、何をしたのかも」
     袖から乾坤袋を取り出し江澄の前に差し出す。江澄が胡乱気な視線を乾坤袋に向けた。
    「これは?」
    「全てあなたの物です。私があなたのこの部屋に置いて欲しくて。私が選んだ物があなたの側にあることを欲して贈った物です」
     中に何が入っているか察したのか江澄が眉を顰めた。手を伸ばそうともしない。藍曦臣は音もなく立ち上がると、江澄に断りもなく室内を歩き寒室に飾られていたはずの香炉を手にした。背後で江澄が立ち上がった音が聞こえた。気配が近づく。藍曦臣はゆっくりとした動きで振り返った。間に何の邪魔もなく、手を伸ばせば届く距離に江澄がいて自然と目を細める。江澄から目を離さぬまま手にある香炉を別の乾坤袋にそっとしまう。
    「おい。何をしている」
    「これは私の物ですので。持ち帰ります」
    「人の断りもなく何をしている! あなたがいらんと突き返してきたのだろう」
    「術にかかっていただけです。術が解けた私には必要な物です。それにいらなかったんじゃない。あなたに何かを差し上げたかったんです」
     術がかかっていた時、見覚えのない香炉に藍曦臣は江澄を思い出していた。渡せば喜んでもらえるのではないか。江澄と何かの繋がりを持てるのではないかと考えていた。魏無羨の話では自分は中途半端な状態で術にかかっていたそうだ。故に過去のある一定時期に記憶は囚われながらも、今の自分の感情も上乗せされていたのだろう。その推測は藍曦臣の中にしかない推測であるため、江澄は藍曦臣の気など知る由もなく、ただ訝しげに藍曦臣から視線を反らした。
    「その香炉はあなたの私室には似合わないだろう。この中身を持って帰ったらどうだ」
    「嫌です。似合う似合わないではないのです。側に置いて共にありたいかどうかです」
     江澄の手にある乾坤袋を指先で奪い取ると中から藍曦臣が贈った香炉を取り出した。藍曦臣が乾坤袋にしまった香炉があった場所に置く。彩のある江澄の部屋に白一色の香炉は自分の代わりにこの部屋にいるようで満足気に頷いた。
    「あなたは三尊と呼ばれた澤蕪君だろう。あなたと知己になりたい人間など山のようにいるだろうし、あなたの情を受けたいと望む相応しい相手もいるだろう。俺に必要以上に拘る必要がどこにある」
     忌ま忌まし気に吐き出された言葉を受け藍曦臣はゆっくりと振り返った。眉間に皺を深く寄せた江澄は疲れたきった表情を浮かべていた。
     自分の想いが江澄にそんな表情を浮かべさせていることに深い悲しみを覚える。しかし、そんな表情を江澄にさせるのは江氏か金凌か魏無羨が関わることぐらいしかない。江澄にとってかけがえのない者と同じ存在に近いところまで自分が位置づけられたのだと思うと、昨日魏無羨と交わした会話も思い出して仄かな喜びを覚える。好意を抱いている相手を悩ませているのに相反する悲しみと喜びという二つの感情を抱え、一体自分のどこが「尊」であるのかと自嘲する。自分をありがたがる価値などどこにもないのだ。
    「……何が三尊ですが。一人は頑なで許すことができず、一人は己の保身のためだけに他者を蔑ろにし、一人は愚かにも見たくないものには全て目を瞑って何もしなかった。どこに尊さなどがあるのでしょう。どこにもない。あなたの方が余程尊い」
    「それは買い被りすぎだ。俺は江氏のことと金凌のことしか考えていなかった。昨日の会話を覚えているというのであれば、金松が生まれた時俺が何を思ったか分かるだろう」
    「それがなんだと? 思っただけでしょう? たった一人で江氏を立て直していたあなたに、どうして私はもっと手を差し伸べなかったんだろうか。藍氏として江氏に援助を──」
    「あなたはそれで、金光瑶を失ったのだろう」
     吐き捨てるように江澄が言葉を遮った。どうしてここで金光瑶の名が江澄の口から出てくるのかが分からず首を傾げる。
    「見たくないものを見なかった。なるほど。確かにそうだ。だが、見たいようにしか見ていないとも言える。仮にあなたが当時の俺に手を差し伸べたとして、俺がその手を取ると思うのか? 感謝はするだろう。だが、藍氏からの助けを易々と享受することなどあり得ない」
    「また、私は……」
     自分の思い上がった思考を指摘され藍曦臣は拳を強く握り羞恥に俯いた。溜め息が聞こえてくる。
    「……分かっただろう。俺は、あなたを傷つけることしか言えない。今は物珍しいだけだ」
    「同じことを……一年前にも言われました。そのための一年だったはずです」
    「あなたが人生で幸せだと感じていたのは、その一年じゃなかっただろう」
     怒るわけでもなく、諦念とともにまるで自分に言い聞かせているかのように江澄が呟いた。藍曦臣はそっと江澄の手を両手で握る。骨ばって細く、剣と紫電を握り固くなった指先が自分の手の中にある。振り払われないことに安堵する。
    「幸せな記憶とは何なのでしょう。何故あの時の記憶を見ることになったのか考えていました。幸せと言うのであれば世間のことなど何も知らず母が生きていた幼い頃か、ここ一年と少しあなたと過ごした時の方が幸福でした」
     自分が囚われた記憶が何故三尊であった頃なのか術が解けてから藍曦臣はずっと考えていた。温氏の目録には「薄紅色の花は幸福の記憶を見る」とあったが同じように幸福である時期が複数あった場合は何をもってその記憶が選定されるのか。あの簪にかけられていた術は被術者の内面的なことに大きく左右されているように思えた。
    「何が言いたい」
    「幸せだと思う。つまりそれはその時代に戻りたいとも言えるのではないかと」
    「だからあなたにとっては三尊の時代が戻りたく、幸せで浸りたい記憶だったということだろう?」
    「いいえ。戻りたいと幸せだと思う記憶は異なります。少なくとも私にとっては」
     江澄と目を合わせたまま藍曦臣はゆっくりと首を横に振った。母が生きていた幼い記憶。幸せだが戻りたいかと言われれば否だった。閉関を解いた後、江澄と共に過ごしたこの一年と半年ほどの記憶はとても幸せだった。だが戻る必要はないのだ。これから先も続いていくと信じていたのだから戻る意味も浸る必要もない。
    「確かに幸せではありましたが……。むしろ戻ってやり直したいと強く思いました。太哥を救いたい。金光瑶を止めたい。あなたに手を差し伸べたい」
     自分に都合の良い願いを抱いていた。苦笑してみせると江澄の瞳が戸惑うように揺れた。藍曦臣は再び口を開いた。
    「そんな人だと思わなかった」
    「え?」
    「あなたは時々私に言いますよね。では、どんな人だと思っていたの? あなたの思う澤蕪君は三尊の頃の私でしょう?」
     江澄が口にするその言葉に深い意図はないと理解をしてはいた。他の誰に言われたとしても気にしないような言葉だった。けれども、江澄から言われる度に歯がゆい思いをしていたのも事実ではあった。言うつもりなどはなかったがあの頃の記憶に囚われた一端が江澄にも起因するのだと伝わったほうがよい気がした。
    「……俺のせいだと?」
    「いいえ。私の図々しさのせいです。三尊の頃の私からであればあなたの心を確実に手に入れることができるのではないかと、そう浅ましく思っていたのです」
     伝えたことで江澄の眉間に皺がよる。微かな怯えと戸惑い。罪悪感のようなものが江澄の瞳に浮かびあがっていた。それを正確に感じ取り藍曦臣は胸中で思った通りの反応を江澄が返してくれたことにうっそりと微笑んだ。それと同時に生まれて初めて知った自分の狡さにも驚きを覚えた。
     藍曦臣が己の新たな発見に向き合っている間、江澄は何度も何かを言おうとして口を開きかけては閉じてを繰り返していた。言葉を選んでいるのか、言うべき言葉が見つからないのか。結局大きな溜め息が一つ聞こえた。
    「……澤蕪君。あなたは俺の何がいいんだ」
     絞りだすようにして出された言葉に藍曦臣は応えようと唇を微かに動かしかける。だが、すぐに禁言術をかけられた年若い門弟のように唇を結んだ。なにも応えない藍曦臣を江澄が訝し気に首を傾げる。
    「号では返事をしないことに決めました」
    「は?」
    「先ほども言いましたが私は全て覚えているんです。あなたが私に言ったこともしたことも」
    「ならば、俺に構う気など失せただろう?」
     江澄が皮肉気に唇の端を歪めた。藍曦臣は首を何度も横に振る。賢い人のはずなのに、どうして自分のことになると紗でもかけてしまったかのように認識が曇るのだろうかと不思議でならない。江澄に言われた言葉は全て藍曦臣の中では腑に落ちている。
    「自分がしたことを忘れてしまったの? それとも忘れたふりをしているの? あなたは約束を果たしてくれた。本来ならば私があなたに問わねばならないのに」
     一年前に蓮花塢の四阿で江澄から口にした約束だ。もう一度江澄に慕っていると。恋仲になりたいと問えと。問えば江澄が一年間保留とした答えを返してくれると。
     術にかかっていた藍曦臣から問うことはできなかった。だが江澄は確かに昨日藍曦臣に答えをくれた。
    「口づけをくれました」
    「……」
    「好きとも」
    「言っていない」
    「唇はそう動いていた」
    「勘違いだ」
     一つ大きな舌打ちがして、きつく睨まれる。藍曦臣はその強い視線に微笑みで返し、握りしめていたままだった手に力を籠める。
    「あなたの心は私と同じはずです。そうと知ってどうして諦めましょう」
    「術が解けたらあなたの目が覚めると思ったんだ」
    「だから本心を言ったと?」
    「澤蕪君。俺は──」
    「藍曦臣です。私はあなたの友ですらなくなったの?」
    「……藍曦臣。俺はあなたの思うようにはなれない」
    「私が思うように、とは? 私のことを見たいようにしか見ていないと言うのであればあなたもそうでしょう」
    「どういう意味だ」
    「私はあなたが思いたいほど高尚な人間ではない。欲しいものを諦めることもできず、事実に目を背け、己のことすら理解もできずにただ無為に生きて来ただけだ。さっきだってあなたに辛そうな表情をさせてしまったにもかかわらず、そんな表情を私のためにしてくれるようになったと思ったら、嬉しかった。魏公子に少しは並べたのかなと」
    「……なんでここで魏無羨が出てくるんだ」
     訝し気に眉を顰められ、藍曦臣は藍忘機が江澄を厭う気持ちがようやく理解ができた。誤魔化すように笑みを深める。
    「ねぇ江澄。あなたは一体誰に、何を、遠慮しているの? 私のため、と言うのであれば諦めて私の手を取ってください」
    「嫌だ」
    「どうして」
    「すぐに目を覚ます」
    「一年覚めませんでしたよ」
    「足りなかったんだ」
     握っている手を忘れてしまったかのように振り解こうとはしない癖に一向に江澄は頷いてくれない。
    「では逆に。私から決めた期間は私の手を取ってください。それで約束の時が来たら継続か見直すかしませんか? とりあえず手始めに十五年ほどでいかがでしょうか。共に結丹済みですので普通の人よりは時間がある」
    「なんだそれは。その前にあなたの目が覚めたらどうする」
    「目が覚めるとあなたは言うけれど。私の目はちゃんと覚めてますよ」
     江澄の言葉を一つ一つ丁寧に潰していく。流石にもう理由をあげることができないようで江澄の言葉が止む。藍曦臣が江澄を説得する番だった。
    「私がどう思うとか周囲がどう思うかは全て忘れて、あなたが私を必要としますか?」
    「……あぁ」
    「それは世家の宗主同士として? 知己として? それ以上として?」
    「…………」
    「教えてください。どんな内容でも構いません」
     黙ってしまった江澄に懇願するように問うと、ウロウロと視線を彷徨わせた後、江澄が渋々口を開く。
    「……全て」
     ようやく江澄から前向きな言葉が聞け藍曦臣の鼓動が早くなる。握った手から江澄に鼓動が伝わってしまわないだろうかとどうでも良いことが気にかかる。とはいえ、手を離すつもりはなかった。
    「全て、とは?」
    「江氏宗主として藍氏宗主のあなたは使える存在だ」
    「そうですね。私もそう思います。四大世家となった今、金宗主はまだ年若く金氏を立て直している最中ですし、聶氏は表立って大きく動くようなことはしないでしょう。とはいえ藍氏か江氏のどちらかが温氏や射日の征直後の金氏のように台頭しようとするのはあまり良い状況になるとは思えない。均衡を保つためには私とあなたがそれぞれの家の利益を守りつつも協力しあう必要があります。では知己として私が必要というのは?」
    「俺は友と呼べる相手が少ない。立場を考えても思いつくのは聶懐桑ぐらいだ。宗主としてではなくただの一個人として飯を食ったり、茶を飲んだりできる相手がいるのはありがたい」
    「私もなんだかんだで友と呼べる人は少なかったから、あなたと他愛のない話をするのはとても心が弾んだよ。ではそれ以上とは?」
     一番聞きたい最も重要な部分を促す。どんな言葉を紡いでくれるのだろう。心持ち緊張しながら江澄の言葉を待つが、江澄は目を伏せ口元をただ歪めただけだった。江澄の心を江澄の言葉で聞かせて欲しくて藍曦臣は握る手の力を強くする。すると今までされるがままだった江澄の手が藍曦臣の手の中から逃げるな動きを見せる。逃がすまいと更に力を籠めると「痛い」と呟かれ慌てて力を緩めた。藍曦臣の手から己の手を取り戻すことを諦めた江澄が疲れたような溜め息を零す。
    「俺は……駄目なんだ。愛せないし、愛されない」
     江氏だけは怒らせるな、江澄だけは怒らせるなと末端の修士にも恐れられている人とは思えないほど弱弱しい声だった。紫電をふるい、邪宗を斃し、邪術を使ったものを容赦なく捕らえ拷問し、自分にも周囲にも厳しい江澄も彼の本質なのだろうが、壊れそうなほど繊細で傷つきやすいこの姿もまた彼の本質なのだろう。
     江澄の父である江楓眠と江澄の関係が複雑であったことは藍曦臣も知っている。また魏無羨に対しても義弟という立場でありながら劣等感を抱いていたことも知っている。せめて魏無羨が江澄よりも十離れていれば能力に違いがあったとしても年齢によるものと諦めることができただろうに。
     江澄が他者を愛せないなんてことはないはずだ。金凌には確かな愛情を抱いているのが傍から見ていても分かる。厳しく接しながらも、藍曦臣が妬心を覚えるほどに常に気にかけている。そして愛されないなどということもない。金凌や江氏の門弟たち、蓮花塢の住人をみれば江澄が慕われているのは明らかだった。藍曦臣が伝えたところで江澄は納得しないだろうし、愛とは違うと言うだろう。それに何より藍曦臣としては自分を愛してくれて、自分に愛されてくれればそれでよい。言葉で納得ができないのであれば、なにであれば江澄は藍曦臣からの想いと、藍曦臣への想いを認めるだろうか。ことりと小さく首を傾げた拍子に、ふわりと舞った抹額の端が視界に入った。
    「どうしたら認めてくれる? 天命だったら諦めがつく?」
    「は?」
    「私の抹額に触れてください。藍氏の抹額については知っていますよね? あなたが触れて私の抹額が自然と緩み、落ちればそれは天命です。あなたは私の天命の相手なのであなたがなんと言い訳をしようが諦められるでしょう?」
     随分と乱暴なことを口にしていると自分でも理解はしていた。案の定江澄の表情から悲壮感が抜け、理解ができぬと言わんばかりに器用に片眉だけがあげられている。
    「それで落ちなかったらあなたが諦めるのか?」
    「落ちないはずがないので、諦めません」
    「俺にとって不利な状況でしかなくないか?」
    「ふふ。そうかな」
     江澄の手をごと自分の両手を額の位置まであげた。そこでそっと江澄の手を解放する。額を差し出すように頭を少しばかり下げる。解放した江澄の手は下げられることなく清流の中で泳ぐ魚のように指先がゆらゆらと揺れた。指先だけ戸惑うように伸ばして、触れる間際で引っ込める。なかなか触れてこない指先に額をこちらから突き出そうかと思案し始めると、すっと江澄の手が下がった。
    「やっぱり、いい」
    「じゃあ、認める? 私があなたを知己以上に心から慕っていることも、あなたが私を慕っていることも」
    「……」
    「阿澄」
     唇を幼児のように引き結び、足元を睨みつけている江澄を初めての呼び方で呼んだ。ぱっと江澄の顔が上がる。
    「そう呼ぶことを許していない」
    「では、今から許して。そして私のことは諦めて名で呼んでください。もう誰も呼ぶ人はいない私の名を。あなたが呼んで。あなただけが呼んで」
     母以来誰にも呼ばれていない。名を呼ばせたいと思うほどに親しい相手が今までいなかった。それを江澄に呼ばせることで、少しでも彼が自分にとって特別だと思ってくれればよい。そう思った。
    「……いちねん」
     「藍渙」と彼の口から自分の名前が紡がれると思っていたが、江澄が口にしたのは自分の名前ではなく、藍曦臣は首を傾げた。
    「?」
    「一年後、確認する。毎年確認をする。目が覚めたから止めるのか。それとももう一年続けるのか」
     藍曦臣が先ほど提案した内容と似たようなことを口にした。期間が一年とは随分と短い。
    「一年なんてあっという間ですよ? 十年ぐらいにしておいた方が良いのでは?」
    「一年だ! これは譲らん」
     腕を組んで睨みつけるその様はまるで毛を逆立てた猫の用で微笑ましい。藍曦臣は苦笑を浮かべながら頷いた。
    「分かりました。毎年継続することになると思うけど」
     両手を伸ばし、抱き寄せようとすると江澄の手が藍曦臣の前に出される。
    「あと、この間みたいなことは止めてくれ」
    「この間みたいなこと?」
    「俺を庇うな」
    「それは……」
    「あなたは藍宗主だろう。門弟たちも周りにいた。あなたは藍氏門弟の身を真っ先に気にかけろ。俺も、そうする」
    「……分かりました」
     頷いて同意すると、江澄が息を吐いた。前に出していた手がだらりと下がる。
    「俺はもう、俺より先に死なれたくないんだ」
     囁くように零れた言葉ごと受け止めるために江澄を藍曦臣は抱きしめた。抵抗もされずに腕の中にある江澄の身体に全身が歓喜する。江澄の背中に回した腕に力を込めて、秘密の話をする小さな子どものように江澄の耳に唇を寄せる。
    「はい。では死ぬときはあなたの一炷香後に死ぬようにします」
     江澄から答えはなかった。ただ自分の背中に腕が回され、強く抱きしめ返される。それで十分だった。

     浮葉についた水滴が夏の日差しを浴びながらきらきらと美しく輝いている。風に立葉とふっくらと膨らんだ蕾は躍り、開いた蓮の花は微かな芳香を放っていた。
     ゆらゆらと揺れる花を眺めながら私室で昨晩片付けきれなかった書類を裁いていると、主管から来客を告げられた。すぐに向かうと告げてから、江澄は手にしていた筆を置き、風で跳ばぬように翡翠の文鎮を紙の上に置いた。
     立ち上がり一つ伸びをして、私室を後にしながら四阿に視線を向けて目を細めた。今年も美しくちゃんと咲いている。
     温氏から蓮花塢を取り戻した直後、蓮花塢の敷地内にある蓮花池は数年蓮が咲かなかった。無残に放り投げられた江氏門弟の死体と怨で土と水が汚染されたからだ。それを毎年少しずつ浄化し、幼い頃に当たり前のように毎年見ていた情景を取り戻せた時、江澄は漸く蓮花塢を復興できたのだと一人涙を流した。
     それから毎年、夏になれば江澄は一人で江氏を守るために戦い死んでいった師兄、師弟の弔いをしている。二年前からその弔いに魏無羨が加わった。
     大庁へと向かう途中、すれ違った家僕に三瓶荷花酒を四阿に用意するように言付ける。二瓶は荷花池へと弔いとして注ぐため。もう一本は魏無羨と飲むためだった。
     大庁に辿り着くと魏無羨だけではなく藍曦臣もいた。一緒にやって来たのだろう。魏無羨の金魚の糞だと密かに思っている藍忘機がいないことに江澄が片眉を上げると、聞いてもいないのに魏無羨が「藍湛は外で待っている」と言ったの言葉は聞こえないふりをした。
    「あなたはどうして一緒に来たんだ?」
     拱手をした後、藍曦臣に問うと曖昧に微笑まれる。
    「祠堂と修練場の碑にいかれるのでしょう? 私は四阿で待っているよ。誰かに案内を頼んでも?」
    「あぁ。分かった」
     藍曦臣と魏無羨を大庁に案内した門弟に藍曦臣を四阿に連れて行くように頼み、江澄は魏無羨と祠堂に向かった。
    「澤蕪君も一緒にくればいいのに」
    「普通は他家の祠堂に家主の断りなく入ることはないし、請われても余程のことがないと入ることはないんだ。澤蕪君はきちんと礼節を弁えている」
     言外に江澄だけでなく、江家に使える人間の誰にも断りもなく魏無羨と藍忘機が祠堂に忍びこんだことを指摘すると、分が悪いと思ったのか魏無羨が口を噤んだ。鼻を鳴らしてそのまま二人無言のまま祠堂に入り、江澄の両親と姉。そして祖先の位牌に三拝をする。祠堂を後にし、次に向かった先は修練場の端に作られた碑だった。揃って線香を添える。次は四阿だと足を進めたが後ろから魏無羨がついてくる気配がしない。立ち止まり振り返ると魏無羨は碑の前に立ったままだった。
    「どうした。来ないのか」
    「今年からは俺はここまでにすることにした。蓮花への弔いは埠頭の方からやらせてもらう」
    「? どういう意味だ」
    「今年から澤蕪君と一緒にやれ。っていうか来る途中俺は藍湛の御剣に乗せてもらってたけど、並走していた澤蕪君からの圧が強かったんだよ。むしろ一週間前から無言の圧をかけられ続けたんだ。このまま四阿までついていったら一体どんな圧がかかってくるか……」
    「意味が分からん」
     魏無羨の言っている意味が一つも分からず、江澄は眉間に盛大に皺を寄せた。たまたま横を通った年若い門弟が「ヒっ」と小さな悲鳴をあげたがそれは無視する。
    「分からないなら澤蕪君はもっと努力が必要かもな。それは俺が雲深不知処でちゃんと言っておくわ」
     じゃあとひらひらとあげた片手を振った魏無羨の背中を見送りながら、江澄はますます眉間に皺を深めながら四阿へと向かった。
     蓮花池を渡す回廊の先に建てられた四阿に藍曦臣が佇んでいるのが遠目からでも分かる。空の青、池に広がる緑と、白や薄紅の彩に全身白い姑蘇藍氏の校服はそこだけが色を忘れたかのようだった。
    「おや。思ったよりも早かったね。魏公子は?」
    「あいつなら、意味の分からないことを言ってもう帰った」
    「おやおや。気を遣わせてしまったかな」
    「あなたの圧が凄かったとか言っていたが。一体何なんだ」
     知っているのだろうと睨んでみるが、微笑みを深められただけだった。舌打ちを一つして、円卓の上に置いてある酒瓶を一つ手に取る。三本用意させたが二本無駄になってしまった。瓶を掴んだまま欄干へと近づくと、同じように酒瓶を手にした藍曦臣が並ぶ。
    「今年からは私が魏公子の代わりに注いでもいいだろうか」
    「あなたは一年前もそんなことを言っていたが……。これはあくまで江氏の弔いだ。あなたは関係ないだろう?」
    「うん。そうではあるのだけれど。あなた一人ではさせたくなくて。だからと言って誰かにも譲るのは嫌なんです。たとえ魏公子でも」
    「それは、構わんが……」
    「阿澄。お願い」
     「阿澄」と呼ばれ江澄の身体は小さく揺れる。初めて呼ばれるようになって早三か月ほど経つがちっとも慣れず藍曦臣から顔を背けた。
    「勝手にしろ」
    「はい」
     藍曦臣の言葉が嬉しそうなのには気がつかぬ振りをして、江澄は瓶を開け中の荷花酒を荷花池へと注いでいく。
     師兄として次期宗主として守れなくてすまない。一緒に死んでやれなくてすまない。毎年謝罪ばかりだった。今年もその謝罪を胸中で唱える。その謝罪を受け取ってくれるものは誰もいない。隣の藍曦臣は一体何を思い浮かべて酒を荷花池に注いでいるのだろうか。
     江澄が酒を注ぎ切るのとほぼ同じくして、藍曦臣の手にしていた酒瓶からも酒がなくなった。空いた酒瓶を受け取ろうとすると、伸びて来た藍曦臣の手が江澄の肩を抱いた。日中いつ家僕に見られるとも分からない状態での藍曦臣の暴挙に江澄は声を荒らげる。
    「おい!」
    「これでまた一つあなたと共有する大切な記憶ができました。来年も感謝を述べるために共に弔いをさせてください」
    「……感謝?」
    「えぇ。あなたの大切な江氏を守るために戦ってくれてありがとう。一人江氏を立て直していたあなたを見守ってくれてありがとう、と」
     穏やかな笑みを向けられ、江澄はぽかんと藍曦臣を見た。自分は謝罪しか思い浮かばなかったのに、この人は自分のために感謝を思い浮かべてくれたのか。ジワリと目が熱くなり、喉が詰まるような感覚がして、江澄は慌てて藍曦臣から顔を背けた。酒瓶を持たぬ左の手を藍曦臣の背中に回し抹額の端を巻き込みながら彼の外衣をぎゅうと握る。
    『晩吟師兄が宗主になったら数や書で役に立ちます!』
     簪の術で見せられた記憶の中にいた師弟たちの声が聞こえた気がした。
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    sgm

    DONE去年の交流会でP4P予定してるよーなんて言ってて全然終わってなかったなれそめ曦澄。
    Pixivにも上げてる前半部分です。
    後半は此方:https://poipiku.com/1863633/6085288.html
    読みにくければシブでもどうぞ。
    https://www.pixiv.net/novel/series/7892519
    追憶相相 前編

    「何をぼんやりしていたんだ!」
     じくじくと痛む左腕を抑えながら藍曦臣はまるで他人事かのように自分の胸倉を掴む男の顔を見つめた。
     眉間に深く皺を刻み、元来杏仁型をしているはずの瞳が鋭く尖り藍曦臣をきつく睨みつけてくる。毛を逆立てて怒る様がまるで猫のようだと思ってしまった。
     怒気を隠しもせずあからさまに自分を睨みつけてくる人間は今までにいただろうかと頭の片隅で考える。あの日、あの時、あの場所で、自らの手で命を奪った金光瑶でさえこんなにも怒りをぶつけてくることはなかった。
     胸倉を掴んでいる右手の人差し指にはめられた紫色の指輪が持ち主の怒気に呼応するかのようにパチパチと小さな閃光を走らせる。美しい光に思わず目を奪われていると、舌打ちの音とともに胸倉を乱暴に解放された。勢いに従い二歩ほど下がり、よろよろとそのまま後ろにあった牀榻に腰掛ける。今にも崩れそうな古びた牀榻はギシリと大きな悲鳴を上げた。
    66994

    sgm

    DONE江澄誕としてTwitterに上げていた江澄誕生日おめでとう話
    江澄誕 2021 藍曦臣が蓮花塢の岬に降り立つと蓮花塢周辺は祭りかのように賑わっていた。
     常日頃から活気に溢れ賑やかな場所ではあるのだが、至るところに店が出され山査子飴に飴細工。湯気を出す饅頭に甘豆羹。藍曦臣が食べたことのない物を売っている店もある。一体何の祝い事なのだろうか。今日訪ねると連絡を入れた時、江澄からは特に何も言われていない。忙しくないと良いのだけれどと思いながら周囲の景色を楽しみつつゆっくりと蓮花塢へと歩みを進めた。
     商人の一団が江氏への売り込みのためにか荷台に荷を積んだ馬車を曳いて大門を通っていくのが目に見えた。商人以外にも住民たちだろうか。何やら荷物を手に抱えて大門を通っていく。さらに藍曦臣の横を両手に花や果物を抱えた子どもたちと野菜が入った籠を口に銜えた犬が通りすぎて、やはり大門へと吸い込まれていった。きゃっきゃと随分楽しげな様子だ。駆けていく子どもたちの背を見送りながら彼らに続いてゆっくりと藍曦臣も大門を通った。大門の先、修練場には長蛇の列が出来ていた。先ほどの子どもたちもその列の最後尾に並んでいる。皆が皆、手に何かを抱えていた。列の先には江澄の姿が見える。江澄に手にしていたものを渡し一言二言会話をしてその場を立ち去るようだった。江澄は受け取った物を後ろに控えた門弟に渡し、門弟の隣に立っている主管は何やら帳簿を付けていた。
    5198

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    PROGRESS長編曦澄17
    兄上、頑丈(いったん終わり)
     江澄は目を剥いた。
     視線の先には牀榻に身を起こす、藍曦臣がいた。彼は背中を強打し、一昼夜寝たきりだったのに。
    「何をしている!」
     江澄は鋭い声を飛ばした。ずかずかと房室に入り、傍の小円卓に水差しを置いた。
    「晩吟……」
    「あなたは怪我人なんだぞ、勝手に動くな」
     かくいう江澄もまだ左手を吊ったままだ。負傷した者は他にもいたが、大怪我を負ったのは藍曦臣と江澄だけである。
     魏無羨と藍忘機は、二人を宿の二階から動かさないことを決めた。各世家の総意でもある。
     今も、江澄がただ水を取りに行っただけで、早く戻れと追い立てられた。
    「とりあえず、水を」
     藍曦臣の手が江澄の腕をつかんだ。なにごとかと振り返ると、藍曦臣は涙を浮かべていた。
    「ど、どうした」
    「怪我はありませんでしたか」
    「見ての通りだ。もう左腕も痛みはない」
     江澄は呆れた。どう見ても藍曦臣のほうがひどい怪我だというのに、真っ先に尋ねることがそれか。
    「よかった、あなたをお守りできて」
     藍曦臣は目を細めた。その拍子に目尻から涙が流れ落ちる。
     江澄は眉間にしわを寄せた。
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    PROGRESS恋綴3-5(旧続々長編曦澄)
    月はまだ出ない夜
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     とん、と背中に壁が触れた。そういえばここは戸口であった。
    「んんっ」
     気を削ぐな、とでも言うように舌を吸われた。
     全身で壁に押し付けられて動けない。
    「ら、藍渙」
    「江澄、あなたに触れたい」
     藍曦臣は返事を待たずに江澄の耳に唇をつけた。耳殻の溝にそって舌が這う。
     江澄が身をすくませても、衣を引っ張っても、彼はやめようとはしない。
     そのうちに舌は首筋を下りて、鎖骨に至る。
     江澄は「待ってくれ」の一言が言えずに歯を食いしばった。
     止めれば止まってくれるだろう。しかし、二度目だ。落胆させるに決まっている。しかし、止めなければ胸を開かれる。そうしたら傷が明らかになる。
     選べなかった。どちらにしても悪い結果にしかならない。
     ところが、藍曦臣は喉元に顔をうめたまま、そこで止まった。
    1437

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    PROGRESS恋綴3-2(旧続々長編曦澄)
    転んでもただでは起きない兄上
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     けれど彼を拒否した身で、一緒に寝てくれと願うことはできなかった。
     もう、一時は経っただろうか。
     藍曦臣は眠っただろうか。
     江澄はそろりと帳子を引いた。
    「藍渙」
     小声で呼ぶが返事はない。この分なら大丈夫そうだ。
     牀榻を抜け出して、衝立を越え、藍曦臣の休んでいる牀榻の前に立つ。さすがに帳子を開けることはできずに、その場に座り込む。
     行儀は悪いが誰かが見ているわけではない。
     牀榻の支柱に頭を預けて耳をすませば、藍曦臣の気配を感じ取れた。
     明日別れれば、清談会が終わるまで会うことは叶わないだろう。藍宗主は多忙を極めるだろうし、そこまでとはいかずとも江宗主としての自分も、常よりは忙しくなる。
     江澄は己の肩を両手で抱きしめた。
     夏の夜だ。寒いわけではない。
     藍渙、と声を出さずに呼ぶ。抱きしめられた感触を思い出す。 3050