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    sgm

    @sgm_md
    相模。思いついたネタ書き散らかし。
    ネタバレに配慮はしてません。
    シブ:https://www.pixiv.net/users/3264629
    マシュマロ:https://marshmallow-qa.com/sgm_md

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    sgm

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    去年の交流会でP4P予定してるよーなんて言ってて全然終わってなかったなれそめ曦澄。
    Pixivにも上げてる前半部分です。
    後半は此方:https://poipiku.com/1863633/6085288.html
    読みにくければシブでもどうぞ。
    https://www.pixiv.net/novel/series/7892519

    #曦澄
    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation

    追憶相相 前編

    「何をぼんやりしていたんだ!」
     じくじくと痛む左腕を抑えながら藍曦臣はまるで他人事かのように自分の胸倉を掴む男の顔を見つめた。
     眉間に深く皺を刻み、元来杏仁型をしているはずの瞳が鋭く尖り藍曦臣をきつく睨みつけてくる。毛を逆立てて怒る様がまるで猫のようだと思ってしまった。
     怒気を隠しもせずあからさまに自分を睨みつけてくる人間は今までにいただろうかと頭の片隅で考える。あの日、あの時、あの場所で、自らの手で命を奪った金光瑶でさえこんなにも怒りをぶつけてくることはなかった。
     胸倉を掴んでいる右手の人差し指にはめられた紫色の指輪が持ち主の怒気に呼応するかのようにパチパチと小さな閃光を走らせる。美しい光に思わず目を奪われていると、舌打ちの音とともに胸倉を乱暴に解放された。勢いに従い二歩ほど下がり、よろよろとそのまま後ろにあった牀榻に腰掛ける。今にも崩れそうな古びた牀榻はギシリと大きな悲鳴を上げた。
    「江宗主、申し訳ない」
     心からそう思っての謝罪だった。だが江澄には通じなかったようで強かな舌打ちの音が聞こえて来た。二回目だ。
     舌打ちなど今まで生きてきた中でされたことなどあっただろうか。なかったように思う。
     そのため、どう反応したら良いか分からずに困ったように藍曦臣は江澄を見つめた。血止めをし治療を施した左腕が妙に重たく感じられた。
     怪我は雲夢江氏と姑蘇藍氏と合同で行った夜狩で受けた傷だった。
     雲夢と姑蘇の間にある山中に、麓の郷人が見たことのない小さな紫色の花が突然群生し始めた。その場所に迷い込むと気が狂うらしい。更に悪いことにそこに鬼が現れた。
     鬼が現れ花を呼んだか。花が現れ鬼を呼んだか。
     どちらが先かは分からない。花気と鬼の怨念執念情念が互いに反応しあい、妖となったのか。妖だけであればその場に足を踏み入れさえしなければ良いのだが、鬼となれば自ら動き出す。邪祟が近隣の郷人を襲い、山道を通る旅人を襲った。
     藍氏と江氏に陳情があがり、合同で邪祟退治をすることとなった。
     藍氏は藍曦臣が、江氏は江澄がそれぞれ指揮し、藍氏が邪祟を追い詰めた。
     逃げうつ邪祟を陣で抑え、邪祟に止めをと朔月で突き刺そうとした瞬間、藍曦臣の脳内に金光瑶を突き刺した時の感覚が蘇り動くことが出来なくなった。
     藍曦臣の動きが止まったその隙に、邪祟が出した攻撃を避けたが避けきれず、左腕を負傷した。自分の血を見るのは久しぶりだった。自分の血を見て、突き刺さった朔月を伝って流れる金光瑶の血の色を思い出してしまった。
     腑抜けのようにその場に立ち尽くした藍曦臣を庇うようにして妖鬼に止めを刺したのは江澄であった。
     藍曦臣が傷の手当てを受けている最中、江澄の采配で後始末はなされ、郷で江氏藍氏はともに一泊することとなった。眠る前に夜狩での不始末の詫びと礼をと江澄にあてがわれた部屋を訪ね、部屋に入った途端に胸倉を掴まれたのだった。
    「死にたいのか? 死にたいならば他人に迷惑のかからないところで勝手に死ね」
     怒りが収まらぬのか、藍曦臣を睨みつけたまま江澄が静かに言い放つ。死にたかったのだろうかと胸中で己に問うてみるが、死にたいわけでは無かったと思う。
     「死ね」などとは初めて言われる。いや、射日の征戦の時に剣を交わした温氏の修士には言われていたかもしれない。こんな面と向かって死を望まれたのは二回目としてもいいだろう。
     一度目は一緒に死んでくれと言われた。けれど結局生かされた。今は生きる気力がないのならばとっとと死ねと言われている。
     普通に考えれば他家の宗主に面罵されているのだ。怒り、場合によっては剣を交えてもおかしくない状況なのに、藍曦臣は怒りを覚えることはなかった。家規に従ったからではない。自分を睨みつけてくる江澄の瞳がどこか悲しそうに見えて、怒りよりも申し訳ない気持ちになった。
     反応を返さない藍曦臣に江澄が大きな溜め息を吐く。彼は己の額に手を当てた。
    「……申し訳ない。とんだ無礼を。いくらなんでも言い過ぎました」
    「あ、いえ。江宗主のおっしゃる通りなので……」
    「茶を、入れます」
     藍曦臣の返事を待たずに、江澄が茶の用意を始める。藍曦臣は少しばかり迷ったが、腰掛けていた牀榻から部屋の中央にある卓へと移動した。その間に江澄は着々と茶の用意を進めていた。しばらくして目の前に茶杯が置かれた。
    「ありがとうございます」
     礼を言うと江澄の眉間に皺が寄る。怒りというよりは困惑しているようだった。江澄が座ったのを確認してから藍曦臣は茶を口に含む。思いのほか喉が渇いていたのか、決して良い茶葉ではないだろうがずいぶんと美味く感じた。
     そっと対面に座る江澄の様子を窺うと目があった。一瞬江澄の瞳が泳いだかと思うと、瞼が閉じられる。そして再び開いた瞳はじっと藍曦臣を捕らえた。
    「今一度、先ほどの無礼をお詫びします。申し訳ありませんでした」
     すっと頭を下げられて、藍曦臣は慌てて手を伸ばし江澄の肩を押えた。
    「いえ。江宗主のおっしゃる通りなので。……つい思い出してしまったのですよ。阿瑶、いや。金光瑶を朔月で貫いた時の感触を。朔月を伝う彼の血の赤さを。それで身体が動かなくなりました。情けないことですね」
    「……そうですか」
     沈黙が落ちる。微かに息を吐く音が聞こえた。
    「また失礼なことを澤蕪君。あなたに言わせていただく」
     まっすぐに藍曦臣を見つめる瞳には迷いはなかった。これから何を言われるのだろうかという思いとともに、迷いのないその瞳が少し羨ましくなった。
    「なんでしょうか」
    「雲夢江氏宗主として、合同の夜狩で相手先の宗主が腑抜けでは話にならない。次にもし雲夢江氏と姑蘇藍氏で合同の夜狩をするときにはどうか他の者を。そうでなければ藍氏は引いていただきたい」
     お前は役に立たないと遠回しに言われたようなものだった。それでもやはり怒りは覚えなかった。言葉を返さずにいるとさらに江澄が言葉を続ける。
    「姑蘇藍氏は門弟も優秀だ。だが門弟の力があったとして、指揮系統がおかしければその動きも悪くなる。指揮を出すあなたにもしものことがあった場合、私が姑蘇藍氏の門弟に動き方を指揮するのか? それもおかしな話だ。仮に私が姑蘇藍氏の門弟の指揮権を一時的に得たとして、私が藍氏の門弟の命を軽んじ、囮にしてうちの人間だけを守ったらどうされる。何かあった時は悪いが私は江氏の門弟を最優先に考える。たとえ目の前で藍氏の門弟が食われたとしても、だ」
     藍氏門弟は見殺しにすると宣言されたようなものなのだが、他家の門弟よりも自分の家の門弟を優先することは別におかしいことではない。むしろ、なんと誠実なのだろうかとさえ思った。
     一部の宗主は己の一門を大きくするために、他家の門弟を引き抜こうとする者もいる。あまり褒められた行為ではないが、より優秀な門弟を囲うことで夜狩の実績を上げることができるし、百家対抗の狩りがあればその功績によって得ることができる褒賞も増える。
     もしも江澄が一部の宗主のような人物であった場合、わざわざ自分にこのようなことを言ってこないだろう。
     それに、と藍曦臣は己の左腕の傷をそっと撫でた。
     自分の身を顧みずに藍曦臣を庇い邪祟に止めを刺すような人物が、むざむざと他家の門弟を見殺しにするとは思えなかった。もしも被害が出たとしたら、それはどうにもできなかった時だろう。
     自分は同じような状況になった時、相手の宗主に対してここまでまっすぐに注進することができるだろうかと考えてそっと目を伏せる。
     おそらく相手は澤蕪君ならば、姑蘇藍氏の門弟だけでなく他家の門弟ももれなく救うと勝手に期待してくるだろう。そして以前の自分であればその期待に何の疑問も抱かなかったに違いない。
     じわりじわりと胸の奥底に澱のようなものが溜まっていく。
     藍曦臣は伏せた目を上げ、目の前に座る江澄の瞳を見た。紫藤灰の色の美しい色をした瞳はまっすぐに藍曦臣に向けられている。その中には藍曦臣に対する過度な期待も、詮索もなく、そこにただいる人間を見ているようだった。それが妙に心地よい。
    「江宗主は……」
     私に何も期待はされていないのですね。そう思わず口にしようとした。だがとらえ方によっては勘違いをされそうな問いだと気がつき、続けようとした言葉を飲み込む。尻切れた言葉に江澄が小さく首を傾げる。
    「何か?」
    「いえ、江宗主のおっしゃる通りです。次もしも他家と合同で夜狩をするときは、私に何かあっても良いように、忘機とともに来るようにします」
     弟である藍忘機の名前を出した途端、一拍も置かずに江澄の眉間どころか鼻にまで皺が寄った。あまりにもわかりやすい反応に、思わず藍曦臣は瞬きを繰り返した。清談会などで見かける江澄は他家の宗主に決して内面を悟らせるような真似はしなかった。
     まるで昔座学を受けに雲深不知処に来ていた頃のような素直な反応に懐かしさを覚えた。
    「なにもそんなに嫌そうな顔をされなくとも。魏公子も忘機とともに夜狩に参加すると思いますよ?」
    「それが嫌なんだ。あの恥知らずども。人目も憚らずにべたべたとしやがって……。ッ失礼を」
    「いえ、構いません。あまり畏まらないでもらえると嬉しい。あなたの元師兄と私の弟は道侶になりましたので。いわばあなたと私は義兄弟のようなものでしょうから」
     正確には異なるが、弟の道侶となった魏無羨は藍曦臣の義弟であり、その元師弟である江澄はやはり藍曦臣の義弟と呼んでも差しさわりがないだろう。
     何となく思いついたまま口にした言葉であったが、江澄は随分と驚いたようで眉間の皺をほどいて、大きく目を見開いている。いつも他者を威圧するような視線を投げかけているから気がつかなかったが、杏仁型の大きく可愛らしい瞳をしていることに気がついた。
     瞳に見とれていると、江澄の口元が自嘲気味に歪む。おや、と思ううちに目を伏せてしまった。
    「義兄弟、ね」
    「江宗主?」
    「いや、なんでもありません」
     目を伏せたまま江澄は小さく首を振り、そのまま黙ってしまった。
     義兄弟と言ったことが気に障ったのだろうか。思いを巡らせ、自分で意識せずに口にした義兄弟という言葉に契りを交わした聶明玦、金光瑶、聶明玦の弟だから義弟も同じと面倒を見たつもりになっていた聶懐桑のことを思い出し、また胸の内に澱が溜まりそうになり、藍曦臣は目を閉じた。
     息がしづらくなる。
    「……腕の傷は、大丈夫ですか」
     声をかけられ顔を上げると江澄と目が合った。その目を見ていると、なぜか溜まりそうになっていた澱がほんの少しだけ散っていく。
     息が少しだけしやすくなった気がする。藍曦臣は理由が分からないまま口角を無理やり上げて頷いた。
    「えぇ。少しだけ痛みますが、大事ないです。ご心配、ありがとうございます」
    「それは、良かった。いや、良くないな。怪我をしたあなたの胸倉を掴んだ無礼、改めてお詫びします」
    「あ、いいんです。本当に。江宗主があの邪祟を倒してくださらなければ、私は動けないままもっと大きな怪我をしていた可能性がありますので」
    「わかりました。……あの邪祟、鬼となった者の魂については滅絶し、妖となったあの場一面に咲いていた花については、燃やしました。ここに花の一部が入っています」
     江澄が懐から乾坤袋を取り出し卓の上に置いた。
    「花の種類や調査についてはうちよりも姑蘇藍氏のほうがはるかにお詳しい。また、調べるための資料もあるでしょう。これはそちらにお渡しする」
    「よいのですか?」
     邪祟の元となったものは、物によっては魏無羨が陰虎符を作ったように、錬成することで強力な法器にもなりうる。今回のような植物は薬や毒に転じさせることもできる。故に、原因を欲する仙門は多い。一度己の手の内に置き、雲深不知処の蔵書閣にある情報の提供を求める家が圧倒的に多かった。
     それを易々と何の条件も付けずに引き渡すとは驚きを隠せない。
    「構わない。ただもしもそれがよい薬になるようであれば、効能は教えてもらえるとありがたい。雲夢で流行り病などが起こった時に、それが役に立つようであれば処方を聞くかもしれません」
    「それは、もちろん構いませんが……」
    「うちが持っていても結局は雲深不知処の蔵書閣を頼ることになるだろう。ならば、最初から姑蘇藍氏にお渡しした方が良い。それが何かになるかは分からんが、もし何かになるのであれば早いに越したことはない。うちにも植物学や薬学が得意な者もいるが、やはり藍氏の門弟には敵うことはないでしょうから」
     さも当然とばかりに言い切る。この乾坤袋の中に入っているもので、江氏の富や力を増やしたいという気が江澄には一切ないのだろう。
     薬になるのであればその効能を引き出させ、何かあった時の備えになればいい。そう考えていることが知れた。仙門百家全てのために、この大陸全体の民のためになどとは言わず、ただ己の民のためにというその主張で江澄の言葉が本心であることが分かる。
     藍曦臣は頷き差し出された乾坤袋を手に取り懐へと戻した。
    「分かりました。これは藍氏でお預かりして調べます。その結果はどんなものであれ江宗主にご報告します」
    「よろしくお願いします」
     静かに江澄が頭を下げる。すべき会話は済んでしまった。亥の刻も近い。自室へと帰るべきなのだが、藍曦臣はもう少しこの場にとどまりたくなった。未練がましく茶杯を手の中で転がしていると、茶壷が差し出され茶が注がれる。もう一杯分はこの部屋にいても良いと許された。
     茶を一口含み、喉を潤す。
     何か話題をと思うが気の利いた話題が思い浮かばなかった。閉関を解いたばかりの身で仙門百家の直近の状況はまだ把握が出来ていない。そもそも、藍曦臣は今まで江澄と二人きりでじっくりと話す機会を持ったことがなかった。それなのになぜこの場にとどまりたいと思ったのか。自問自答するが、答えは出てこなかった。自分は何にも答えを出せずにいるのだと自嘲する。
     閉関中、藍曦臣はずっと自分に問うていた。
     どうすればよかったのか。どうすべきだったのか。何を間違えたのか。何が正解だったのか。どこから間違えていたのか。正すことはできなかったか。
     聶明玦の言葉を全て信じて罰すれば良かったのか。だが雲深不知処から逃げ身を隠していた時、彼が自分にしてくれた恩を忘れるわけにはいかない。それとも、その親切心すらも金氏へと入り込むための謀略だったのか。
     結局、何も分からなかった。
     ただ無為に時間ばかりが過ぎていき、澱が溜まっていく。叔父に自分がすべきことを任せ、弟に心配を掛けながら、何も得ることができない。
     吹っ切ることもできず、かといって金光瑶が全て悪いのだと恨むこともできなければ、全否定することも全肯定することも出来なかった。阿瑶と呼び、義兄弟であった期間は決して短いものではなかったはずなのに。ただ己の無能さを痛感するだけだった。
     何も得られることのできない修行に一体何の意味があるというのか。それならば閉関をするだけ無駄ではないか。そう思い至り閉関を解いた。解くと決めた時の叔父や弟の顔を見て、どれほどの心労をかけていたのかと、また後悔をした。
     観音廟でのことは仙門には蘭陵金氏の宗主である金光瑶が、秣陵蘇氏宗主の蘇渉と共謀し姑蘇藍氏宗主の澤蕪君と含光君、献舎により戻った魏無羨、雲夢江氏宗主の江晩吟、蘭陵金氏の金如蘭、清河聶氏宗主の聶懐桑を捕らえ害を成そうとしたが、蘇渉は金光瑶に謀殺された聶明玦の霊によって、また金光瑶は澤蕪君によって成敗された。という表面的な結果のみが知れ渡っている状態だった。
     江澄の金丹を発端とした魏無羨が夷陵老祖にならざるを得なかった事実も、江澄の慟哭も、金光瑶の抱えていた闇も、藍曦臣の絶望も、聶懐桑の企みも知っているのはその場にいて、生き残っている六人のみだった。それ以外の者はこぞって元よりあった噂をもとに好き放題言っている。噂話の類には疎い姑蘇藍氏の元にも届いてくるほど声高々に。
     曰く、金光瑶の悪事に澤蕪君は事前に気がついていて彼の者を泳がせていたのだ。
     ──違う、最後まで信じたかった。何かをしていることには気がついていたけれど仕方のないことなのだと諌めることもせず、見ないふりをしていただけだ。知ろうとしなかっただけだ。
     曰く、金光瑶の号令で各地に作られた暸望台は本を正せば澤蕪君の発案らしい。
     ──違う、少しでも民が邪祟の被害にあわないようにと、民のことを考えた阿瑶が発案し、周囲の批判を受けながらも実現したものだ。あれは阿瑶の功績だ。自分はただ暸望台に異を唱える者たちと少し話をしただけだ。
     金光瑶の功績を何故認めないのか。必要以上に何故貶めるのか。何故、必要以上に己を持ち上げようとするのか。
     金光瑶の功績だと言えば、澤蕪君は未だにあの悪漢を庇いなさる。お優しいと言われ、己は何もしていないと言えば澤蕪君は謙虚だと言われる。ほとほと疲れてしまった。
     藍曦臣は目を伏せて茶を飲む江澄を眺める。
     そういえば彼は一度も自分に金光瑶のことを尋ねてはこなかった。彼が他の宗主と話題にしていることも聞いたことなどない。むしろ清談会や、宗主の集まりに彼がいるとぴたりと噂話が止まった気がした。
     閉関する旨とその間宗主代理に藍啓仁と藍忘機をたてる旨を各世家に対して通達した時も、大概の世家は藍曦臣を労る文面と合わせてなにかと探りを入れるような内容が殆どだった。しかし、雲夢江氏からの返信には承諾した旨と、閉関に飽きたら蓮でも見にくるとよい、と言った一文のみが書かれていた。気遣いというよりは社交辞令に近い文面が藍曦臣にはむしろありがたかった。
     そんな彼もまた、魏無羨が十三年前に死んだ時に今の自分のように、散々周囲に好き勝手なことを言われていたはずだ。彼はどう思い、どう乗り越えて来たのだろう。それに、彼もまた師兄であり義兄である魏無羨を他の世家とともに乱葬崗に追いつめた。詳細は異なれど、状況は義弟を手にかけた藍曦臣と似ている。
     彼は十三年間ずっと魏無羨を怨み、魏無羨と疑わしき者、邪道に手を染めた者は捕らえ拷問していた。
     今は魏無羨と少しずつだが会話をするようになったという。
     藍曦臣が閉関を解く直前に、魏無羨が蓮花塢に行ったと藍忘機が少しばかり不安そうな顔をして話してくれた。
     十三年の長きに渡り抱えていた怨みにも近い感情を、彼は昇華することができたのだろうか。だとすれば、それはどうやって。
    「不躾な質問をしてもよろしいでしょうか……?」
    「内容によります」
     聞くことは許されたと解釈する。両の手で茶杯を持ちその水面を見つめた。
    「江宗主は、魏公子を赦された、のでしょうか。赦されたのならば、それはどうやって?」
     赦すという言葉を使うのが正しいのかは分からなかったが、それ以外の言葉を思い浮かべることができない。そっと江澄を窺うと、彼もまた両手で茶杯を持ち、その水面を見つめていた。
    「どうなんでしょうか。私自身も……。よく、分からない。ただただ憎み通せれば楽だっただろう。ただ私と魏無羨はそう簡単ではない」
    「そう、でしょうね」
    「あなたはあの場にいたから恥を承知で言うが、今私の中にある金丹は、元は奴の物です。それを私はずっと知らずに己のものだと、己の力だと信じてきました。だが、それは違った。江氏が復興できたのも、いわば奴の金丹のおかげとも言える。自分の力で江氏を復興したのだと信じてきたが、そうではなかった。奴を悪だと断じるのは簡単です。だが、金丹を失わなければ、奴は乱葬崗に落とされることもなく、鬼道を産み出すこともなかっただろう。陰虎符も錬成されなかっただろう。何千人もの修士は死なず、姉も今も生きていたかもしれない。ただし、射日の征戦で奴の術と陰虎符が温氏討伐に大いに役立ったのもまた事実だ。温若寒を仕留めたのは金光瑶ではあったが、陰虎符と奴の鬼道がなければ射日の征戦は長引き、犠牲者も多く、場合によっては温氏を討伐することが出来ず、江家の復興もなかった可能性がある」
     藍曦臣は頷く。江澄の言う通りだった。射日の征戦で最終的な功績を立てたのは温若寒を仕留めた金光瑶ではあったが、不夜天城まで攻め入ることができたのは、魏無羨の陰虎符による功績が大きい。温氏討伐の一番の功労者が温氏残党を庇い、仙門百家から非難され討伐されたのは実に皮肉なことだった。
    「だから単純に奴を悪だと断じることが正しいのかが分からない。奴が庇った温氏の残党の中には、優秀な医者がいた。彼女が今も生きていれば救えた命がいくつもあったのだろう。その救えたはずの命を間接的に摘んだのは私たちだ。恩情をかけるべきだったのだろう。だが、誰もそれをしようとしなかった。私も、出来なかった。恩があったにも関わらず、温氏だからと切り捨てた。恩があったとしても仙門百家の中で江氏が孤立することを恐れた。私の優先順位で最も高いのは江氏だからな。立て直し中の江氏と宗主になったばかりの若造の私にあの時温氏の残党を抱えることなど出来ない。それこそ抱えた途端に難癖付けて潰されただろう。ただ奴だけが彼らに手を差し伸べた。そんなことを一つ一つ紐解いていくと、正直よく分からなくなった。恨むべきか、感謝すべきなのか。金凌の父母を、私の姉を結果として奪う原因となったのは奴だ。だが私が今生きていられるのも、江氏を復興させることができたのも、奴の金丹のおかげだ。怨と恩を天秤にかけてもどちらにも傾いてしまう」
     江澄が自嘲気味に口元を歪める。達観なのか、諦めなのか。なんとも形容しがたい表情を江澄は浮かべていた。そんな彼を見るのは初めてだった。
    「赦したのかと問われると赦せないことはある。だから赦そうとすることはやめました。その代わり恩を感じることも。奴にしてみれば前世のことらしいので。奴に向ける感情は全てやめました。とはいえ、相変わらず腹立たしいことはこの上ないですが」
    「やめることなど、出来るのでしょうか」
     思わず呟くと、小さな溜め息が聞こえて来た。
    「江宗主……?」
    「あなたが私に聞きたいのは、魏無羨と私のことなどではないのでは? 金光瑶のことではないのか?」
     まっすぐと見つめられ、藍曦臣はその視線に耐えることが出来ずに顔をそらした。江澄の言葉を肯定しているも同然だった。また溜め息が聞こえてくる。
    「私は……あの男のことはよく分からない。金凌を介したものと、宗主同士の最低限の付き合いしかしていないので。ただ金凌に対しての優しさは真実だろう。仙犬は多くないとはいえ、少しでも父親と同じようにと金子軒が飼っていた仙犬の血縁である仙子を探してきたぐらいだ。そんなことをわざわざする必要などあの男にはないのにそれをした。少なくとも金凌にとっては良い叔父だったはずだ。あの時までは」
     初めて知る内容に藍曦臣は驚き、そらした顔を江澄に向けた。金光瑶らしい気遣いだ。
     あぁ、そうだ。やはり彼は優しい男だったのだ。
    「だが自分が逃げるために、人質にとっても構わない。場合によっては、殺しても構わないと思っていたこともあの男の真実だろう。自分のために妻子を殺したのも、義兄である赤鋒尊を殺したのも、己の育った妓楼を燃やしたのも、それもまたあの男の真実だろう。瞭望台にしてもそうだ。アレのおかげで世家の拠点がない場所でも邪祟が発生したら早急に対処することが出来るようになった。だが、置かなくても良いところに建てられているのも事実。監視が真なる目的と考えられなくもない」
     続く江澄の言葉に藍曦臣は目を伏せる。
     「仕方なかったのです」と自分に訴えてくる金光瑶の姿が浮かんだ。何に対して仕方がないというのか。やはり彼を自分は止めるべきだったのではないだろうか。ぎりと噛み締めた奥歯が鳴いた。
     聶明玦は彼の本来の姿に気がついていたのに、自分がずっと庇っていたから聶明玦は死んだのだ。清心音は藍氏の術だ。教えるのはどうかと諫められたのに金光瑶を信じ切った自分は清心音を教えてしまった。そしてその清心音で聶明玦は害された。
    「あなたが後悔すべきはあの男を止められなかったことなどではなく、金光善を止められなかったことだろう」
     静かな声音で紡がれた言葉に藍曦臣は伏せた瞳を上げた。何故ここで金光善の名が出てくるのだろうか。江澄の言葉の意味が分からずに首を傾げた。
    「それは、どういう……?」
    「言っては悪いが、斂芳尊として金氏に所属したばかりの金光瑶は金光善に良いように使われていただけに見えた。その本心がどこにあったかは知らないが。金光善は温氏の後釜を狙い虎視眈々と陰虎符を手に入れようとし、結局鬼将軍をも裏で手に入れていた。己の息子の死を上手く使ってな。自分の立場を守るために金光善の命に逆らうことが出来ずに金光瑶は手を血に染めたというのであればそれはあの男の弱さだ。だが、その要因を諫めることが出来なかったのは、金氏に阿ることしかできなかった仙門百家全体の問題だ。金光善を諫められていれば、あの男もあそこまで血を流す必要はなかったのかもしれん。何もあなただけの責任ではない」
    「私だけの責任ではない……? ですが……」
    「金光善を止められなかったことならば、責任は私にもある。いや、私たちだな。あなたと、私と、赤鋒尊だ。五大世家は四大世家となり、一つの家が突出することは、温氏のことから良策でないことを分かっていながら、あの狒々爺を止められなかったし、罰することもできなかった」
     溜め息が江澄の口から零れ落ちる。
     彼は、こんなにも溜め息を吐くような人間だったのだろうか。藍曦臣の中の彼の印象とはかなり異なる。てっきり、金光瑶が全て悪い、それを諫めなかった自分が悪いと断罪されるかと思っていた。むしろ、それをどこか期待していたところがあった。
     金光瑶だけを悪だと罵り、その義兄である自分を。義兄である聶明玦を間接的に殺す手段となった乱魄抄を奏でるための琴を教えた自分を。己の見たいものだけ見ていた自分を。知りたくはない、と逃げていた自分を。誰も責めてもくれず、罰してもくれなかった。彼ならば責めてくれるのでは、と思ったのに。
     藍曦臣の胸中など知らぬ江澄は、さらに言葉を重ねていく。
    「正直に言わせていただくが、藍氏は世事政治に疎く興味がない。啓仁先生であればまた違ったかもしれないが、あの頃、お父上の後を継ぎ藍家の宗主であったあなたは上辺だけしか見えていない。赤鋒尊は厳格な性質で決断が迅速ではあるが、腹の探り合いのような政治には向かない。悪と決めた物には温情を与えず全て悪とみなし許容を知らない。覇下の影響もあったのかもしれないが、詳しいことは私には分からない。あまり赤鋒尊とは関わり合いはなかったので。うちは私が他家のことよりも江氏を復興することしか考えられていなかった。そのことについては後悔はしていない。私にとっては江氏と蓮花塢の復興以外はどうでもよかった。これが父であれば温氏の残党を江氏で匿うことも、金光善を諫めることもできただろうにな」
     私には到底そんなことはできなかった、と江澄が目を伏せる。藍曦臣は慌てて茶杯を握る江澄の手に触れた。彼が自責の念に苛まれる必要などないのだ。自責の念を抱くべきは自分であり、責められるべきものは自分であるのに。
     探るような不躾な視線を向けられる。だんだんと江澄の眉間に皺が生じ、触れた手はそっと外されてしまった。
    「なぜそんな不満気な顔をしているんだ」
    「不満気な、顔?」
    「なんだ無自覚か。あなたは私に何を言って欲しいんだ? あなたが全て悪いと責めて欲しいのか? あなたはすべて自分のせいにしたいのか? 自分一人がいれば、一人の男の人生を救えたと? あの男が壊したもの殺したもの全てを救えたと? そう思っているのだとしたら、悪いがあなたはご自身のことを買い被りすぎではないだろうか」
    「そんなことは……。ただ、私は……」
    「ただ? なんです」
    「……」
     何も返せなかった。どんなに言いつくろおうとしても江澄の言う通りだったからだ。不満に思っていたことも、澤蕪君と誉めそやされ己を買い被りすぎていたことも。藍曦臣は急に自分が恥ずかしくなる。両手を膝に置き耐えるように拳を握った。
     こんな真情を吐露するのは藍家の宗主としてあるまじきが行為だ。もし江澄が金光瑶のように巧みに人の心に入り込み惑わすことが得意であれば、悪人であるのならば己の心の弱さを吐き出すことは隙を与え、藍氏を攻める口実を作らせることになる。わかってはいたが、どこかで江澄はそのようなことはしないという確信があった。もし仮にそうなったとしても構わないという投げやりな気持ちも少なからずあった。
     言葉が出たがっているのを喉をグッと絞めることで耐える。しかし口が勝手に開いた。
    「私は耐えられないのです。他の宗主や、修士たちは皆こぞって金光瑶を誅殺したと私を称える。あの子の功績すらも私の物だと言う。違うと否定をしても信じない」
    「あぁ……。それについては諦めることだな」
    「諦める……?」
    「奴らは自分の都合の良いように信じたいことを好き勝手に噂する。真実や事実などはどうでもいいんだ。噂をしている奴ら全員に藍氏お得意の禁言術などかけられれば強制的に口を閉じさせることはできるが、まぁ無理だろう。仮にあなたが藍氏宗主として声高々に金光瑶の功績を褒めたとしても、奴らは勝手に解釈してまた意味のない噂話をでっちあげて何の意識もなく広める。だから、まぁ諦めろ。魏無羨の奴でさえ死んで十三年経ってもあちこちで話題に上がっていた。今は含光君の道侶となったことで話題の内容はいくらか上書きされているがな。それでもろくでもないものばかりだ」
     魏無羨が死んだと直後のことを思い出しているのか、不快気に眉を顰める。江澄自身が嫌というほどに経験をしたことなのだろう。言葉に実感が深く籠もっていた。
    「あなたのそれは、あなたが何とかするしかない。金光瑶を赦したいのか、怨みたいのか。赦したいのに赦せないのだとすれば何が邪魔をしているのか。自問自答してあなたが納得する答えをあなた自身が出すしかないだろう」
     藍曦臣は眉根を寄せた。閉関して自問自答をずっと繰り返していたのだ。それでも答えが出ないから自問自答を諦めたのだ。こともなげに言ってくれるが、江澄は納得する答えが出せたのだろうか。
    「江宗主は、もう答えは出せたのですか?」
    「いいや?」
    「え?」
    「それか」
     即答された否定の言葉に藍曦臣は寄せていた眉根を思わず解き瞬きをした。言葉を途中で止めた江澄がにやりと唇の片端をあげる。今までのとりすました宗主の顔から、途端に悪巧みをする少年のような顔になる。
    「閉関も解かれたのだ。宗主としての政務をこなすだけこなして余計なことなど考える暇などないぐらいに働いたら良いのでは? あとは限界まで身体と頭を動かして徹底的に身体を苛め抜けば夜も余計なことを考える前に眠りにつけるだろう」
    「はは。なんですかそれは」
     思わず笑みが漏れた。
     そんな、何の解決にもならない方法。
     彼の表情も相まって冗談かとも思ったが、その何の解決にもならない方法で江澄は魏無羨が死んでから今日まで過ごしてきたのだろう。
     蓮花塢の復興と、金光善からの援助と言う名目の江氏への介入を退け、金光善の死後は唯一の肉親である金凌を金氏の派閥争いから守っていた江澄には立ち止まってゆっくりと考えを巡らす時間などなかったのだろう。ましてや自分と異なり雲夢江氏にはもう江澄しかいなかったのだ。閉関などしても宗主を代わってくれる者などおらず、嘆いて立ち止まったところで慰めてくれる者もいない。傍にいて共に雲夢江氏の復興を手伝ってくれる者もいなかったのだ。その江澄に比べると自分はどれほど恵まれ甘えていたのか。
     目の前の年下の宗主が途端に眩しく見える。彩衣鎮で、温氏清談会の狩りで、射日の征戦で、宗主になってからは清談会で。何度も江澄と接することはあったはずなのに、初めてまともに彼と向き合った気がする。とくりと胸中で温かい何かが動いた気がした。
    「あぁ、笑われたな。私はどちらかと言えばあなたの笑った顔のほうが好きだ」
     ふふ、と小さく江澄が笑い、やや伏せた瞳で藍曦臣を見た。無意識に息が止まる。
     藍曦臣の知る江澄は笑みなどほぼ見せず、常に他家に侮られぬようにと傲慢さと皮肉さを滲ませ暗い顔をしていた。笑みを見たことがあるのはまだ十代のころの少年のような笑みと、金凌に対して向けていた笑みばかりで、直接笑い顔を見せられたのは初めてだ。しかも、今何と言ったのだろうか。「好き」だと言わなかっただろうか。我知らず左手で心臓を抑えた。尊敬しているだとか、目標だなどと言われたことはある。けれど「好き」などと言われたのは初めてのことだ。
     まじまじと江澄の顔を見た。反応のない藍曦臣を不審に思ったのか、笑みを引っ込め小さく首を傾げる。それが勿体ないなどと思ってしまった自分に困惑する。
    「なにか?」
    「いえ、そんなことを言われたのは初めてなので」
    「そうなのか?」
    「えぇ。……ありがとうございます」
    「何が?」
    「江宗主と話をして、少し、気が晴れました」
    「……ならばよかった。まぁ、話を戻すが、あなたはしばらくは疲れて寝落ちするぐらい修練を積みなおしてから夜狩に出ることをお勧めする。それが無理ならば、政務に精を出されて、夜狩はあの恥知らずどもに任せればいいでしょう」
     話が今日の夜狩に戻った。この部屋に来た時に抱いていた申し訳なさのようなものが知らぬうちに胸中からは霧散していた。この江澄の言葉は酷く遠回しではあるが、自分の身を心配しての言葉だと感じ胸が温かくなる。
    「そうですね。修練を積み直しましょう。ぜひ次の夜狩も江宗主とご一緒したいですから。今夜のような醜態はお見せしませんよ」
    「そう願いたい」
     皮肉気に笑う江澄につられて藍曦臣も笑った。気がつけば観音廟から初めて笑った気がする。自然と笑えた自分に驚く。
     既に茶杯の中は空になっていた。名残惜しいがそろそろ自室に戻る時間だろう。
    「……それでは、亥の刻になりますので。私は、これで」
     椅子から揃って立ち上がり、拱手をしあう。自室へと戻りながら、藍曦臣は懐に入れた乾坤袋に触れる。早く調べて結果を江澄に伝えねば。伝えには自らが行かねばと、なぜだかそう思った。



    「澤蕪君。おかえりなさい。怪我をしたって聞きましたけど」
     雲深不知処に戻り、藍啓仁と藍忘機に夜狩の報告をし、蘭室を出たところで魏無羨に声をかけられた。まるで藍曦臣が出てくるのを待ち構えていたようだ。怪我の件はおそらく一緒に夜狩に出ていた若い門弟から聞きつけたのだろう。耳が早いと藍曦臣は口角を上げる。怪我の心配をしてくれてはいるようだが、聞きたいのは江澄のことだろう。
    「心配には及ばないよ。魏公子。江宗主のおかげで助かりました」
    「江澄が邪祟の止めを刺したんですよね?」
    「えぇ。私の不手際を江宗主が埋めてくれた。その後お礼をしに行ったら随分と怒られてしまったよ」
     見事な剣幕であった。部屋に入り、挨拶もそこそこ胸倉を掴まれて怒鳴られたことを思い出して笑っていると、魏無羨が驚いた顔をして藍曦臣をまじまじと見つめた後、小さく首を傾げた。
    「怒られた? 江澄に」
    「えぇ。怒鳴られて、胸倉を掴まれてしまった。胸倉を掴まれるなんて、初めて経験したよ」
     間近で睨みつけて来た江澄の瞳を思い出す。紫藤灰の中にキラキラと光が輝いていた。
    「えぇー。あいつ、そんなことを澤蕪君にしたんですか? しょうがない奴」
    「はは。まぁぼんやりとした私が悪かったんだ。ともすれば、邪祟に殺されていたかもしれないからね。本当に怒っておられて、死にたいのならば迷惑かからないところで死ね、と言われてしまった」
     今思い返しても結構なことを言われていたはずなのに、やはり怒りや不快さは湧き起こらない。むしろすがすがしい気さえする。
    「え、そこまで澤蕪君に言ったんですか?」
     あきれを隠しもしない魏無羨の声音が意外そうな色を持ち始めていた。藍曦臣の顔を見ては不思議そうに首を傾げている。ぽつりと「珍しいな」と呟く声も聞こえた。江澄の印象としては何かと金凌や門弟を怒鳴りつけている印象が強い。珍しくもないだろうに一体何が珍しいのだろうか。
    「魏公子? 何か気になることでも?」
     右手を顎に置きながらじろじろと不躾に藍曦臣の顔を見始める魏無羨に、少しばかり居心地が悪くなる。彼の左手では陳情がくるりくるりと器用に回されていた。何かを考えるように藍曦臣に視線を投げかけては右斜め上の虚空を見て「いや」「でも?」と自問自答をしているようだった。ぴたりと回されていた陳情の動きが止まり、魏無羨が大きく頷いた。
    「いえ、なにも? あ、江澄が怒鳴ったのって、澤蕪君を心配してのことだと思いますよ」
     にこりと人好きの良い笑みを浮かべている。何やら誤魔化されているような気もしたが、魏無羨の言葉には同意だったため頷いた。
    「うん、私もそうだと思う。優しい方だね。江宗主は」
    「優しい……くは、ないと思いますけど。でも、あいつは情が深い奴ですよ。凄く。口は悪いしすぐに手、というか紫電が出るけれど」
     ふは、と魏無羨が噴き出した。しみじみと紡がれた言葉に実感がこもっているのは、莫玄羽の身体を得たばかりの頃、紫電で打たれたからだろう。
    「情が深い、とは? 金宗主をとても可愛がっているのは知っているけれど」
     蓮花塢の住人達や江氏の門弟にも慕われているのだろう。激しやすく常に怒鳴っていると聞くが、江氏の門弟から江澄の不満のようなものは聞いたことはなかった。夜狩の江氏門弟の動きを見れば、宗主と門弟間で信頼関係が築かれていることは分かる。だが、それだけで情が深いというのだろうか。
     自分の知らない江澄のことを魏無羨は当然知っている。それが少し羨ましいし、知らない彼のことを知りたい。本人がいない所で、その人となりを知りたいと思うのは初めてのことだった。魏無羨が形の良い眉を上下に動かす。
    「知りたいですか?」
    「えぇ、教えてもらえるのならば、ぜひ」
     素直に頷く。自然と藍曦臣と魏無羨の足は寒室へと向かっていた。



    「よぉ、江澄。入れてくれ」
     「何しに来た」と江澄は問うことはなかった。珍しく蓮花塢に一人でやって来た魏無羨の顔を一瞥し、何も言わずに背を向ける。魏無羨が今日という日に何を目的でやって来たのか十分に理解しているのだろう。
     忘れもしない。
     生まれ変わったとしても、前世のことだとしても忘れられやしない。忘れてはいけない。今日という日は蓮花塢が温氏に焼かれた日だった。
     まっすぐに江氏の祠堂に足を向ける江澄の後ろを魏無羨も付いていく。
     本来墓参りであれば、清明節にすべきだとは理解していたが、江楓眠の遺体と虞紫鴛の遺体は温若寒によって焼かれ、江厭離の遺体は蘭陵にある。雲夢には何もない。あるのは衣冠塚と位牌の収められた祠堂のみだ。そのせいか清明節に参る気には魏無羨はなれなかった。
     美しかった蓮花塢の蓮の蕾が血の色に染まり、燃え、焼けたあの日と同じ日に参るのが何となく相応しい気がして、この世に戻ってから初めて魏無羨は燃えた日と同じ日に蓮花塢を訪れることができた。
     祠堂に入り江澄と並んで座す。祠堂に染み付いた線香の薫りで、毎日江澄が祠堂に参っていることが分かる。
     江楓眠、虞紫鴛、江厭離の位牌へと線香を捧げ三拝をした。同じように江澄も隣で三拝をする。無言のまま、二人で位牌を眺めた。
     魏無羨が胸中で位牌に語り掛けていたように、江澄もまた同じように位牌に語りかけているのだろう。一通り語り掛け終わり、ふと魏無羨が一息吐いたのと江澄が一息ついたのが同時だった。何も言わずに立ち上がる江澄に倣い祠堂を後にした。
    「少し付き合え」
     そう一言だけ告げた江澄は魏無羨の返事も待たずにすたすたと歩き始めてしまう。別に江澄に付き合って祠堂に参ったわけではない、という軽口も今日という日は出せずに、魏無羨は素直に江澄の後に続く。修練場の端に作られた碑に向かい線香をあげた後、再び私邸に戻る。途中厨房に立ち寄り、荷花酒を二瓶と酒杯を二つ手に取るとそのまま奥にある四阿へと向かった。
     荷花池では満開となった蓮がそろそろ蕾に戻ろうとしている頃だった。太陽は頂点にある。じりじりと肌が焼けるような太陽の熱と、熱に温められた空気によって何もせずとも暑さに汗がにじみ出る。魏無羨は太陽の光を反射し、キラキラと光る水面に目を細めた。昔はよく今日のように暑い日には、剣術の稽古をさぼって、江澄や師弟たちと一緒に荷花池に飛び込んだものだった。
    「なぁ」
    「なんだ」
    「荷花池を見るとあの夏のことを思い出さないか? 暑くてみなで鍛錬サボってたら師姉が西瓜持ってきてくれてさ。虞夫人に見つかって。師姉のおかげで逃げれて。蓮の実を獲ろうとしたら爺さんに殴られてさ……」
     懐かしくも愛おしい思い出だった。江楓眠と虞紫鴛の命がもっと長くあると信じていた。江氏が、蓮花塢が他家に攻撃されるなど思ってもいなかった。江澄が宗主となり、その隣には自分が立ち、将来江澄を支えるのだと疑ってもいなかった。騒がしくも平和で、それなりに幸せな日常がずっと続くと信じて疑わなかった頃の思い出だった。
     円卓に酒杯と荷花酒の瓶を一瓶、江澄が無言で置く。聞こえていないわけでは無いだろう。返事がないのを気にもせず魏無羨は目を瞑った。
     師弟たちの声は覚えていない。顔も朧気だった。その誰一人として今生きていない。皆、蓮花塢を守るために死んだのだ。
    「あの時騒いだ師弟たちは誰もいないんだよな」
    「……ふん。前世のことと俺に言っておきながら全く前世のことに出来てないじゃないか」
    「うるさい。お前は……思い出さないのか? 冷たい奴だな」
     痛いところを突かれて、魏無羨は江澄を睨みつけた。馬鹿にするような目でこちらを見ているかと思ったが、江澄の瞳は凪いでいた。魏無羨の言葉に鼻を鳴らすと、荷花酒を一瓶手にしたまま欄干へと近づいていく。一体何をする気なのか。
     江澄は手にしていた荷花酒の封を開けるとそのまま酒瓶を逆さにした。とぷりとぷりと音を立てて荷花酒が荷花池に注がれていく。荷花酒は水面に波紋を広げ、波紋の広がりに合わせて蓮の葉が小さく揺れた。
    「おい! 何してんだよ。勿体ない!」
     一人一瓶で二瓶持って来たのではないのだろうか。慌てる魏無羨を横目で見た後、江澄の視線は荷花池に向けられた。揺れる蓮の花たちをじっと見つめている。
    「……思い出すに決まっている。覚えているに決まっている。俺はあいつらのことを覚えていなくちゃならない。俺が忘れたら、誰があいつらが江氏の門弟だったと、ここで父上や母上に修練を受け、共に学びサボり笑っていたと覚えているんだ。俺しかもういないだろう。俺以外の誰があいつらの魂と共にあるんだ。俺が忘れたらあいつらがいた証しが何もなくなる」
     「この酒はあいつらへの手向けだ」と江澄は呟いた。
     頭を殴られたような衝撃を受けた。江澄の言葉通りだった。骸が納められた墓もない。衣冠塚もない。あるのは衣冠塚代わりの、死んだ門弟が多すぎて全員の名前も書けずに「温氏襲撃にて勇敢に戦った江氏英傑達の墓」とだけ掘られた碑だけだ。彼らの親兄弟が今も生きているかは分からない。射日の征戦で命を落としている可能性もあれば、修士でなければ老いて寿命で死んでいるかもしれない。今雲夢江氏の門弟たちのほとんどが江澄が宗主になってから江氏の門を叩いた者たちばかりだ。
     運よく蓮花塢の焼き討ちの時に遠方にいた古い門弟たちもいるが、彼らのうちどれほどの人間が魏無羨と江澄と同世代であった門弟たちのことを覚えているだろうか。おそらくほとんど覚えてなどいないだろう。
     魏無羨が死んでいた十三年間。江澄だけがかつての門弟たちのことを覚えており、彼らの死を悼み、生を懐かしむことが出来たのだ。その時の思い出を誰とも共有することもなく、一人で抱えていたのだ。彼と自分から姉を奪い、彼をただ一人にしたのは自分なのだ。
     喉の奥が痛い。ひくりと喉が震え、魏無羨は唾を飲み込んだ。
    「お前は……」
     辛くはないのか? たった一人で彼らを思うことは。
     口にしかけた言葉を飲み込んだ。
     江澄の手慣れた様子から荷花酒を荷花池に注ぎ手向けとする行為は今年が初めてのことではないのだろう。いつから一人でしていたのだろうか。江厭離は金子軒と結婚する前に金麟台に滞在していたから、魏無羨が江氏から離れてからだろうか。誰と共有するわけでもなく、毎年一人で死者を思っていたのか。
     荷花池に向けられていた江澄の視線が魏無羨に向けられた。その瞳は熾烈とも評される普段の江澄からは思い浮かべられないほどに穏やかなものだった。諦念に近いのかもしれない。
    「もう、慣れた。蓮花塢が燃える前よりも燃えた後に過ごした日の方が、もうすぐ長くなるからな。それほどの時間が経った。忘れはしない。忘れることなんて出来るはずがない。が、慣れはする」
     小さな笑みを口元に浮かべ、再び江澄は荷花池へと視線を戻す。揺れる蓮の花の間に師弟たちの姿を探しているのだろうか。
     魏無羨は目を細めて江澄の姿を見た。当の昔に師弟たちの魂はこの世から消えてしまっているだろう。藍氏の問霊をしてもおそらく答えることもない。それなのに魏無羨は江澄の周りに師弟たちの姿が見えた気がした。ぼんやりとした魂がいくつか江澄のそばに寄り添っているような幻を見る。
     「なぁ、気がついているか」と開きかけた唇を魏無羨は閉じる。拳を握り、下唇を強く噛んだ。
     あくまで魏無羨が利用するのは名も知らぬその場にある屍と、その場にある悪鬼霊魂たちだ。義城のような特別な事情がない限り、彼らがどのように死んだのかなど魏無羨はあまり深入りをしないようにしている。興味があるのは残虐さと凶暴さ。扱いやすいさと耐久力だ。彼らの怨みに同意はしても同情はしない。心を寄せてしまえば己の心が引きずられる。魏無羨にとって、利用する屍や魂はただの道具でしかない。
     夷陵老祖と呼ばれ屍を操る。悪鬼霊魂と共に生きていると忌み嫌われていた俺よりもお前の方がよほど死者の魂と生きているではないか。
     そう怒鳴って江澄の身体を揺さぶってやりたい衝動をこらえた。
     献舎の術でこの世に戻ってから、魏無羨の隣には長らく自分を待ってくれていた藍忘機がいる。失ってしまったと諦めていた阿苑こと藍思追もいる。では江澄の隣には誰がいたのだろうか。今はいるのだろうか。これから先はいるのだろうか。
     金凌も江澄にとっては心の支えだったろう。江氏の人間でもあるが、やはり蘭陵金氏の人間だ。自分にとっての藍忘機のような相手が江澄にはいるのだろうか。庇護をするのではなく、支えあえる相手がいたことはあったのだろうか。死んだ師弟の魂が江澄のことを手招いたとして、それを止めてくれる生きた人間が、誰か。
     目の前にある手つかずの荷花酒の瓶を握り、二つの酒杯になみなみと注ぐ。それでもまだ酒瓶の中には酒が三分の二は残っている。酒瓶を握ったまま立ち上がると、魏無羨は江澄の隣まで移動して、同じように酒瓶を逆さにした。とぷとぷと酒が荷花池へと注がれていく。一滴残らず注ぎ込み、酒によって水面にできていた波紋がなくなるのをぼんやりと眺めた。
    「来年も」
    「なんだ」
    「来年も、来る」
     もう一人で死者の魂と向き合わせることはさせまい。この日だけは、元雲夢江氏の大師兄として死んだ師弟たちのことを思おう。運命さえ違っていれば、雲夢双傑として毎年ともに荷花酒を注ぎ、彼らの思い出を語っていたかもしれないのだ。せめて、これからは。せめて、江澄にこの日ともにいる誰かが現れるまでは。
    「……勝手にしろ」
    「あぁ、勝手にするさ」
     手にしていた酒瓶を、江澄が手にしていた酒瓶に軽くぶつける。江氏の銀鈴とはまた違った涼やかな音がする。音の狭間に「無羨師兄」と呼ぶ声が聞こえた気がした。



    「江宗主は弔いを今までずっと一人で……」
     魏無羨の語った内容に、藍曦臣はゆっくりと瞼を閉じ、瞼の裏に江澄を思い浮かべる。なんと情が深いのか。
     雲深不知処も温氏の焼き討ちにあい、多くの藍氏門弟が傷つき倒れた。蔵書閣に収められている最重要書物を抱えて身を隠し、再び雲深不知処に戻りついた頃には藍啓仁を筆頭に長老たちと生き残った門弟たちが死んだ者たちの衣冠塚を建て供養を済ませていた。
     射日の征戦の後に温氏を滅した報告を兼ねて衣冠塚を詣でた。それから衣冠塚には日に一度役目を担う門弟が線香をあげている。藍曦臣自身が自ら詣でることは決して多くない。藍曦臣の情が薄いわけではなく、そう言うものだからだ。
    「毎年かどうかは確かめていないから分からないけれど、俺が来たから初めてやった、って感じじゃなかった」
    「そう……」
     「江家だけは怒らせるな、江澄だけは怒らせるな」と江氏以外の修士たちから恐れられている人物からは、知らなければ想像もできない姿だろう。藍曦臣も少し前であれば、魏無羨に言われても疑うことはしないがその姿を想像することなど出来なかっただろう。
     今まで一人きりで手向けていた江澄の姿が脳裏に浮かび上がる。誰もともにいてくれる人はいなかったのだろうか。誰かと思い浮かべてみるが、誰も思い浮かべることができない。藍曦臣は自分が驚くほどに江澄のことを知らないことに改めて気がついた。
     藍家と江家は良い関係を長年築いていた。藍曦臣が藍宗主となり、江澄が江宗主となってからも変わらない。ただ私的な交流があったかというと、なかった。藍曦臣は今はもういない義兄と義弟と交流をし、清談会以外で蓮花塢に訪れたことなどない。聶明玦が憤死する前の四大世家の時も、聶氏が凋落し三大世家と呼ばれるようになった後も、江氏は、江澄は一人孤立していた。
     今思えば、義兄弟の契りを結び三尊と呼ばれていた自分たちの間に江澄が入り込むことは難しかったのだろう。江氏の復興に全てを注ぎ、夷陵老祖と呼ばれ玄門百家から異端とみなされた魏無羨を抱え、彼が死んでからは唯一の肉親となった金凌の育成に力を注いでいた江澄には、そもそも自分たちの中に入り込もうとする余裕などもなかったのか。そして藍曦臣も特別江澄に対して気をやった記憶はない。清談会の時に挨拶を交わし、金麟台に金光瑶を訪ねた時、金凌に会いに来ていた江澄と会えば挨拶は交わした。
     聶宗主が聶懐桑になってからは、雲深不知処での座学時代からの交流が聶懐桑と江澄の間では続いていたのか不浄世でも見かけたことはあった。その時もやはり交わすのは挨拶程度だった。あくまで宗主同士の関わりしか持ってこなかった。何故もっと彼と交流をしなかったのだろうか。もしも交流をしていたら江澄に一人で弔わせることなどしなかっただろうに。
    「来年も江宗主は一人で?」
    「俺が行きます。江おじさんと、虞夫人と、師姉に祠堂で挨拶して、墓代わりの碑に供物をささげて、荷花池に荷花酒を戻す。俺以外の誰が出来るって言うんだ。あの日死んだ人間を金凌は誰一人と知らないし。……まぁ、誰か江澄にいい相手が出来て一緒に皆を弔ってくれる相手が出来たら、その誰かと代わるかもしれないですけど」
    「いい相手?」
    「そう。俺にとっての藍湛みたいな。別に男でも女でもどっちでもいい。あいつの隣に立って、あいつを支えてくれて、あいつを一人にさせない誰か」
     魏無羨がまっすぐに藍曦臣の視線を捕らえた。探るような視線に藍曦臣は思わず目を伏せた。
     魏無羨にとっての藍忘機というと、道侶ということか。
     道侶でなければ江澄の隣には立てないのだろうか。
     友ではだめなのか。
     それか義兄であれば……。
     はたと藍曦臣は自分の思考に気がつき、目を見開いた。
     自分は何を考えているのか。
     何を望んでいるのか。
     江澄を金光瑶の代わりにしたいのか。
     彼は決して庇護や手助けなどを望まないだろう。そして必要もない。場合によれば昨夜の夜狩のように彼に守られることもあるだろう。
     空いた義弟という席に彼を座らせたいのか。己のことながら節操がなさすぎる。そういえば先日、江澄に「義弟のようなもの」と無意識に口にした時、彼に不快気な反応をされたのは己の節操のなさを見透かされたためか。であれば、なんと恥ずかしいことか。
    「澤蕪君? どうかしたんですか?」
    「いや、なんでもないんだ」
     名を呼ばれ慌てて藍曦臣は視線を魏無羨に戻した。可愛らしく小首を傾げてこちらを見ている。藍曦臣は頭に浮かんだことを追い出すように首を横に振った。魏無羨が「ふぅん」と鼻を鳴らし、腕を組んだ。
    「ただまぁ、そう簡単にはいかないだろうなぁ。仮に。仮にですよ? 江澄のことが好きだって奴が現れたとしても、江澄が好きだって相手が現れたとしても、あいつの性格を考えるとそう簡単にまとまるとは思えない。なんせ、針の穴だから」
    「針の穴、とは?」
    「確かに江澄は情が深いけど、その対象は身内とか気を許した相手に限定されるし、誰もかれも簡単に受け入れるような人間じゃない。江氏であれば比較的通り抜けやすいと思うけど、そうでなければ、あいつの好意を向ける対象になるのはちっちゃい針の穴を通るようなもんですよ。ただ、通り抜けてしまえば、そのあとは無尽蔵に情を注いでくる」
     魏無羨が唐突に言い出した比喩に瞬きを繰り返していると、「そうだな〜」と言いながら魏無羨がキョロキョロと首を左右に振りはじめた。
    「澤蕪君の部屋には流石に天子笑はないから……あ、これでいい」
     空の茶杯を二つと茶壷、そして自分の通行玉令を取り出す。茶杯のふちを指先でくるくるとなぞり始める。彼はこれから何をしようとしているのか。
    「これ、口が広い。なんで、上から茶を注ぐ時、口の上からなら大体どこから注いでも茶杯に入る。澤蕪君がこんな感じ。基本的に大体受け入れる」
     茶杯の上から、動かしながら茶壷を傾け茶杯に茶を注ぐ。溢れることも零れることもなく茶杯はいっぱいになった。
    「別に全てを受け入れるわけではないけれど」
    「細かいことは気にしないでください。比較の比喩として使っただけだ。懐の入り口が広いって言いたいだけ。で、江澄ですけど」
     空いた茶杯をもう一つ用意し、その上に通行玉令で蓋をするように置く。
    「こんな感じ。情の深さや幅は澤蕪君と同じとして、入り口がすこぶる狭い。どこから注いでも入る、なんてことはない」
     少しだけ茶壷を魏無羨が傾ける。一滴ぽつりと落ちたが、茶杯には入らず通行玉令の上に小さな滴を作った。魏無羨は通行玉令の紐を通すため穴が空いた真上に茶壷の注ぎ口を移動させ、再び茶壷を傾けた。
    「金凌とか、江氏の門弟、蓮花塢の住人とかならこの穴を通って江澄の情をかけられる対象になる。こんな感じに」
     するすると穴に向かって細く茶が注がれる。今度は通行玉令に阻まれることなく、茶杯に注がれていった。ただ、少しでもずれれば通行玉令に阻まれて茶杯には届かないだろう。
    「言いたいこと、通じました?」
     通行玉令を茶杯から外し、付いた水滴を袖で拭きながら魏無羨が訪ねてくる。通行玉令を顔にかざして、小さな穴から藍曦臣のことを見てくる。藍曦臣は頷いた。
    「どうすればその穴を通ることができるんだろうか」
    「通りたいんですか? どうして?」
     通行玉令で半分近く顔が隠れてしまって、魏無羨の表情が藍曦臣からはよく見えない。どうしてと問われ返答に窮する。限られた者しか通れないその穴を通って、江澄の情を受けたい。自分の情を受け取ってもらいたい。そう思うのは確かなのだがこれが一体自分の感情の何から来る欲求なのかが分からない。
     通行玉令で隠れていない魏無羨の口元がゆがんだのが見える。
    「ま、一番手っ取り早いのは江氏の門弟になるか、蓮花塢の住人になることでしょうね」
    「それは……」
    「澤蕪君には残念ながら無理な方法だ」
     通行玉令を顔から離し、魏無羨が肩をすくめた。
     魏無羨の言う通り、藍氏宗主に戻った己が江氏の門弟になるわけにもいかないし、蓮花塢の住人になるわけにもいかない。では、どうすればよいのだろう。そもそも何故こんなにも彼の隣に立ちたいと思うのか。
     くつくつと沸き上がる初めて抱く欲求に藍曦臣は混乱する。この欲求は一体どこから沸くのか。そして何なのか。弟である藍忘機を慈しむ感情とも違う。その生い立ちと控えめな性格故正当な評価をされず自分が支えてやらねばと金光瑶を慈しんだ感情とも違う。
     支えてやりたいと思う気持ちは弟、義弟にも抱いていた。同じ気持ちのはずなのに、明確に質が違う。
     これは、なんだ。
     とくとくと心の蔵から身体にめぐる血の速度が上がる。
     無意識のうちに藍曦臣は右手で左胸を抑えた。布越しでも己の鼓動が早くなっているのが分かった。困惑している藍曦臣に何かの言葉をかける気にはならないのか、魏無羨は藍曦臣だと例えた茶杯を掴み飲み干した。茶杯を卓に置きながら窓の外を眺めた彼の口元が綺麗に弧を描く。
    「お! 藍湛だ! 澤蕪君、お茶ご馳走様でした」
     窓越しにこちらへと向かってくる藍忘機の姿を目ざとく見つけ、魏無羨は早々に寒室から出ていく。寒室の入り口まで彼を送り、藍忘機と魏無羨が並びながら歩く姿を見送った。
     時折り顔を寄せて笑いあう姿が微笑ましい。それと同時に酷く彼らが羨ましくなった。今まで弟とその道侶の姿を見ても微笑ましいと思うことはあっても羨ましいと思うことなどなかった。自分も江澄と並んで歩き笑い合い、「藍渙」「江澄」と彼らのように名で呼び合えたらどれ程良いだろうか。
     藍曦臣は「あぁ、そうだ」と胸中呟いた。
     義兄などではだめだ。
     友でも駄目だ。
     彼の隣に立ちたい。
     今ぽかりと空いた彼のその場所に収まりたい。そしてその場を誰にも譲りたくない。
     話をもっとして、出来ることならばあの笑みを自分だけのものにしたい。兄や友ではその場所を譲らなければいけなくなる。それは嫌だ。
     できれば彼らのように寄り添いたい。彼ら二人になぞらえば、自分のこの気持ちは恋や愛と呼ばれるものなのではないだろうか。



    「まさか、澤蕪君自ら来られるとは」
     目の前で穏やかに佇む澤蕪君に驚き、江澄は瞬きを繰り返した。澤蕪君から夜狩の時に預かった花の調査が済んだため、蓮花塢に報告に行くという文は確かに受け取ってはいたが、まさか澤蕪君が訪れて来るなどとは思いもしなかった。子どもでも出来るような使いだ。てっきり金凌と懇意にしている藍氏の内弟子が二人して、もしくはどちらか一人がやってくるかと思い込んでいた。それがまさか藍家宗主が直々にやってくるとは。
     一寸の狂いのない完璧な拱手をされ、江澄は内心の動揺を隠し同じように拱手を返す。宗主自らが伝えに来なければならないような重要な内容だということだろうか。であれば、大庁に通さずに人払いもしやすく結界なども張りやすい私室に通すべきだろうかと思考を巡らせる。しかしさほど親しくもない間柄で私邸内、ましては私室に通すのも可笑しいだろう。
    「申し訳ない。先日江宗主とのお話が楽しかったので、つい自分で来てしまいました。迷惑だったでしょうか」
    「あ、いや。別に構いませんが……。では、大庁へとお通ししましょう」
     口ぶりから重要な内容ではなさそうだと判断し大庁へと案内しようとすると、藍曦臣が戸惑うように視線を彷徨わせた。大庁だとなにか不都合なことでもあるのだろうか。じっと眺めるとそっと目を伏せられた。
    「図々しいお願いだと承知ですが、出来れば蓮花塢自慢の荷花池を見ながらお話をしたいのです」
     荷花池を見ながらとなると私邸内にある四阿となる。蓮の季節はとうに過ぎ去り、枯れ始めた葉と茶色に変じ種を身の内に抱いた果托ぐらいしかない。
    「秋の蓮池など見てもあまり楽しいとは思えないが、それでもよろしければ」
    「えぇ構いません。江宗主がいつも見ている景色を私も見てみたいのです。蓮の花は来年の楽しみに取っておきます」
     何やらおかしなことを言われた気がする。聞き間違えだろうかと藍曦臣の顔を見るが、特段変わった様子はない。勘違いかと思い直し、そして思い出す。そういえば藍曦臣が閉関する際に送って来た文に対して、蓮を見に来いと言った社交辞令を書いた。そのことが藍曦臣の頭の中にあるのだろう。だから蓮を見たいなどと言い出したに違いない。
     一人納得すると、江澄は門弟の鍛錬を側近に任せると、家僕に茶を持ってくるよう指示し藍曦臣を四阿へと案内した。
     物珍しそうに風に揺られてからからと果托の中の種が鳴る音を聞きながら荷花池を眺めている藍曦臣の背中を江澄は眺めた。私邸内に藍曦臣を迎える日が来るとは思わなかった。
    「夏はこの池全てに蓮が?」
    「えぇ。春先から葉が茂りだし、夏になると蕾が出来その蕾が美しく咲きます。朝になれば一斉に蕾は美しく開き、太陽が頂点を過ぎた頃に蕾へと戻る。見物ですよ。秋は今ご覧になっている通りです。冬には更に寂しくなりますね。冬は寒くてこの四阿で過ごすこともないですが」
    「なるほど。是非全ての季節の風景を眺めてみたいものですね」
     にこやかに微笑まれ、江澄はいささか居心地が悪くなる。藍曦臣が温和で高潔であることは今に始まったわけでは無いが、何やら以前と様子が異なる気がしてならない。覚えた違和感に胸中戸惑っていると、家僕が茶を運んできた。
    「澤蕪君。お座りください。茶を淹れます」
     声をかけて藍曦臣が座ったのを確認すると、江澄も座り茶を淹れた。茶杯を差し出しながら問う。
    「それで、花が何か分かったとか?」
    「はい。本来であれば、もう少し北方、清河の山で夏から秋にかけて咲く花のようです」
    「なるほど。清河の山は雲夢の山と比べると寒いはずだ。道理で雲夢の方では見たことのない花だとは思った」
    「えぇ、姑蘇でも見ることはありませんね。雲夢よりは涼しいとはいえ、清河ほどではありませんので」
    「では、鬼に花が呼ばれたのか……?」
    「あそこにいた鬼の元はお分かりに?」
    「確証はないが、三か月前に、麓の郷に住んでいた女が一人首を吊ったと聞いています。金持ちになって迎えに来ると言って郷を十年前に出た恋人をずっと待っていたそうだ。だが、どうやら相手の男は出た先で女を裏切り、妻を娶り子をなした、と。それを耳にして絶望して怨みを抱きながら死んだと。よくある話です」
    「なるほど。おそらくはそれなのでしょうね。花そのものには特段強い毒性のようなものはありませんでした。根は、咳止めや身体を温める効能があります。乾燥させたものを煎じて飲むと効果があるとか。少し陰の気が残っていました」
    「たった一人の念であそこまで花を呼び妖に変じさせるとはどれほどの情念だったのか」
    「鬼に襲われた郷人旅人の前に、あの場に足を踏み入れて気がおかしくなった者がいたと言います。その者たちの気や魂を吸って育った可能性があるかと」
     藍曦臣の言葉に江澄は小さく頷いた。最初は小さな念でも、条件が整えば手に付けられないほどの邪祟になることもある。滅絶し、花も藍曦臣に渡したもの意外は全て焼き払ったので、問題はないだろう。夜狩の最終的な結果としては上々と言える。
     江澄は改めて目の前で茶杯を傾ける藍曦臣の顔を見た。そして小さく首を傾げる。これだけの話をするために舟を使い雲夢まで来たというのか。先ほどは自分と話したのが楽しかったなどと言っていたが、本当にそれだけなのだろうか。
    「澤蕪君。あなたの目的はなんです。わざわざこれだけの話をしに雲夢まで来られたわけではないでしょう?」
     くだらない腹の探り合いなど時間の無駄だとばかりに江澄は単刀直入に尋ねる。藍曦臣相手に声を荒らげて問いただしたところで効果があるとは思えない。少しの表情の変化も見逃すまいと江澄はまっすぐに藍曦臣を見た。藍曦臣が驚いたように瞬きを繰り返し、はにかむ様に笑う。
    「先ほども言った通り、江宗主とお話がしたかったんです」
    「は? 藍氏は暇なのか?」
     藍曦臣の言葉を聞いて一拍もおかず、思いついた言葉がそのまま口から飛び出した。口にしてから流石に失礼だと江澄は手で己の口をふさいだ。
    「申し訳ありません。失礼を」
    「いえ、そう思われても仕方がないかと」
     怒るわけでもなく、不快気に眉を顰めるわけでもなく楽しそうに藍曦臣は笑っている。己の口の悪さは周知の事実であるために、気にしていないのか。どうにも調子が狂う。
    「はぁ、そうですか」
    「あの、江宗主。折り入ってお願いがあるんです」
    「何でしょうか」
    「私の道侶になっては貰えないでしょうか」
    「は?」
     今この目の前の男はなんと口にしたのか。「道侶」と言わなかったか? 礼儀など彼方に追いやり、藍曦臣に不躾な視線を江澄は送った。当の藍曦臣は小首を傾げた後、己の口にした言葉に気がついたのか、袖で口元を隠した。恥ずかしそうに目を伏せる。
    「申し訳ない。まずは、友になっては貰えないでしょうか?」
     なんだ言い間違えだったのかと江澄は安堵した。しかし「まずは」の言葉に引っ掛かりを覚える。「まずは」つまり「初手は」ということは、次もあるのかと疑いたくなる。
    「何故、突然? 私と友となったところで何の利もないと思いますが」
     胡乱気に睨みつけると、藍曦臣が目元を弛ませた。
    「友になるのに利など求めましょうか? もっと江宗主のことが知りたいんです。先日お話をして、私は自分の愚かさや弱さ、見識の狭さを改めて自覚しました。江宗主のおかげです」
     嬉しそうに紡がれる言葉に何ら嘘も裏もなさそうだった。そんな大した話をした覚えのない江澄は、藍曦臣が一体自分との会話のどこにそれほどまで感銘を受けることになったのかがちっとも理解できない。
     どう返事をしたものかと眉間に皺を寄せたまま黙り込んでいると、次第に藍曦臣の表情が曇っていく。寂しさすら漏れ出始めた藍曦臣に、江澄はそうかと気がついた。
     寂しいのだ。この人は。
     義兄が死に、義弟を刺し、義弟を刺すように唆したもう一人の義弟とはまだ話す気にはなれないのだろう。実弟は己の道侶のことばかりで、藍曦臣と共に語り合ってくれる相手がいなくなってしまったのか。己の周りにある埋まっていたはずの席が全てぽっかりと空いてしまって新しい誰かで埋めていきたいのだろう。
     そう考えれば、藍曦臣の申し出には理解ができる。おそらく自分は丁度良いのだ。
     江氏は藍氏と蜜月のような関係性を築いたことはないが、比較的友好的な関係を築いている。大世家同士が懇意になりすぎても、小さな世家としては警戒をするが、藍氏のその特性からかあまり他家と懇意になっても藍氏の平等性が薄れることはないため危険視されることはなかった。むしろ小さい世家が必要以上に懇意になる方が、穿った視線を浴びせられることとなる。更に言えば江氏には江澄しかいないため、藍氏と血縁関係を結びたいのだろうなどとは思われることもない。
     新たに知己を作るよりはそれなりに面識があり、年齢も実弟と近い江澄は好都合だ。何よりも本人が言っていたではないか。江澄の元師兄の魏無羨が藍忘機の道侶になったことから、義兄弟のようなものだ、と。とはいえ聶明玦や、金光瑶と交わしたような義兄弟の契りを交わすほどの価値はなく、寂しさが薄れれば己への興味も失せていくに違いない。
     江澄は自嘲気味に口の片端を持ち上げた。藍曦臣の瞳が戸惑うように揺れる。
    「江宗主? お嫌でしょうか?」
    「……いや。構いません。藍氏と今後も良い関係を続けていくのは、江氏にとって願ってもないことですので」
     一瞬、藍曦臣の眉が小さく顰められた。指摘をする前に誤魔化すかのようにゆっくりと瞬きをして、藍曦臣の煙水晶のような色をした瞳が再度現れた時には、眉間にできかけていた皺はなくなっていた。
    「ありがとうございます。では、手始めになんと呼んだら良いでしょうか?」
    「今まで通り江宗主で良いのでは?」
    「それでは友とは呼べないかと。まずは字で呼んでもよいですか?」
    「構いません。私はどう呼べば? 澤蕪君ではあまり変わりがないですね。曦臣兄か藍兄とでも?」
     確か聶懐桑や金光瑶はその様な呼び方で藍曦臣を呼んでいた記憶がある。義弟、弟代わりであればその辺りが妥当なはずだ。頷くかと思った藍曦臣は首を横に振った。
    「兄はやめてください。出来れば字か。あ、もしくは名でも構いません」
    「字で」
     名を呼ぶほどの親しさなどではない。
    「そうですか。気が向いたら是非名で呼んでください」
    「いや、字以外を呼ぶことはないでしょう。友だというのであれば尚更」
     酷く残念そうな顔をされ、江澄の眉は小さく跳ねた。一体なんだというのだろうか。
    「まぁ、それはおいおい。あと、宗主同士の時以外は、是非魏公子と話す時のように話して貰えないでしょうか」
    「はぁ」
     おいおいとはどういう意味だと問う前に更なる要望が続き、江澄は気の抜けたような声を出した。魏無羨と会話する時のように、ということは礼など必要ないということか。
    「それは、つまり礼節を弁える必要はないということですか?」
    「友なので、畏まった話し方ではない方が嬉しいのです」
     藍曦臣の言葉にも一理ある。江澄も友と呼べる相手は多くないが、聶懐桑と話す時は取り繕う必要もないため比較的気安い話し方をする。だがなぁ、と江澄は目の前で穏やかに笑みを浮かべ自分の返答を笑みを浮かべながら待っている男の顔を見た。相手は澤蕪君で三尊と呼ばれた人間だ。江澄も澤蕪君に対してはその修為の高さと、藍氏故の博識さ。自分にはない穏やかさは修士としても、宗主としても尊敬をしていた。その相手に唐突に気安く話せと言われても戸惑いしかない。
    「駄目、でしょうか?」
     飼い主に置いて行かれた犬の悲しそうな瞳と、なぜか目の前の藍曦臣の瞳が重なる。江澄は脳裏に浮かんだある種無礼な想像を追い払うように小さく頭を振った。一つ息を吐く。
    「分かった。宗主としてやり取りするときは、『澤蕪君』と呼ばせてもらうし周囲の目もある。今まで通り話させてもらう。これでいいな?」
    「えぇ。針の穴はこれから通りますので、今はそれで十分です」
    「針の穴? 何のことだ。さっきから今は、だとかおいおいだとか……。何かこの先企んでいるのか? あと、人に畏まった話し方はやめろと言ったんだ。あなたもやめたらどうだ」
     腕を組み睨みつけてやると、美しい所作で茶を一口飲んだ藍曦臣は満足げに微笑んだ。
    「あぁ。そうだね。あなたのいう通りだ。……晩吟」
     藍曦臣が彼にとって大切なものを呼ぶかのように、己の字を口にするのを聞いて、江澄は何故だか酷く気恥ずかしくなった。だが、悪い気はしなかった。



    「今、なんと言った? 藍曦臣」
     声がうわずる。 
     江澄は目の前の友だと信じ始めた男が奪舎でもされたのではないかと疑いを掛け、思わず紫電をはめた右手を強く握った。パチリと主の感情に呼応するかのように小さな紫の光が閃いた。
     すぐに飽きるかと思ったが、季節が一つ過ぎても藍曦臣は江澄のことを江晩吟と呼び、季節が二つ過ぎる頃には名で呼ばれていた。これは、魏無羨が江澄と呼んでいるのだから、自分も名で呼んでもおかしくないはずだと押し切られたのだ。
     アレは一応元師兄で子どものころから呼んでいたからだと言っても聞かなかった。では阿澄と呼ぶと言い出したので、最終的には江澄が折れた。自分も名で呼んで欲しいという願いは頑なに拒否した。
     友という関係になってから江澄は藍曦臣がただ温和で高潔な品性の持ち主なだけではないことを知った。意外と頑固なところもあるし、自分の意見を通そうとする時もある。そして思いのほか計算高いことを知った。それを知ったからと言って特段江澄の中で藍曦臣の評価は下がることはなかった。むしろこの人も人らしいところがあるのだと親近感が湧いた。
     三尊と呼ばれ江澄をはじめ各家宗主から尊敬を集めていた澤蕪君の藍曦臣と、友となった江澄だけが見ることの出来る藍曦臣と彼の本質は一体どちらなのだろうか。
     時折江澄は藍曦臣に「あなたがそんな人だと思ってもみなかった」と本人に向かって言うことがあったが、そのたびに藍曦臣は複雑な表情を浮かべた。
     友にと求められた時は藍曦臣の気まぐれか気の迷いだったのだろうと思っていたが、彼は飽きることなく江澄に文を送り、蓮花塢を訪ね、江澄が雲深不知処に行けば寒室に誘った。江澄の中で藍曦臣に対する壁のようなものは一枚一枚はがれていった。生涯の友になるかはまだ分からないが、それでもこの関係がずっと続けば良いと思い始めた、その矢先のことだった。
     春が終わりかけた頃だ。その日藍曦臣は蓮花塢に訪れていた。藍宗主として、雲夢江氏が得手とする水鬼に関して意見を聞きたいとのことだった。姑蘇藍氏自慢の蔵書閣にも水鬼に関する記述など山ほどあるが、実戦経験による知識に勝るものなしとの判断によるものだった。
     蓮花塢にある書物と合わせて、江澄が大なり小なり対応してきた水鬼退治での経験を語った。宗主としての仕事を終えれば友としての時間となる。場所を大庁から江澄の自室へと移した。
     家僕に茶と茶請けを持ってこさせ、他愛のない話をする。その他愛のない話が江澄は楽しかった。ふと気がつくと結局管轄する土地の抱えている大小様々な問題の話や、最近出没する邪祟の話になることもある。友としての会話なのか宗主同士の会話なのか判断が付かなくなることもあるが、宗主の体面を保った状態では相談が出来ない宗主としての悩みも、友としてであれば話題に出すこともできる。
     聶懐桑とも友として宗主としての会話をするが、彼の場合は一問三不知を装っていた頃は宗主としての会話をすることがほとんどなかった。
     何の腹の探り合いもなく、ただ思ったことを口にし、相手の言葉を聞きそれに応える。決して珍しいことではないのだろうが、雲夢江氏の復興と金凌の養育に力を注ぎ、江氏以外で気を許せる相手を作る余裕のなかった江澄にとってはそんな他愛もないことが新鮮だった。
     藍曦臣との会話が一区切りついた頃には茶も茶請けもなくなり、太陽も傾きかけていた。そろそろ藍曦臣も姑蘇へと戻る時間だろう。
    「陽がだいぶ落ちて来た。そろそろあなたも帰る時間じゃないのか?」
    「そうだね……」
     今までにこやかに微笑んでいた藍曦臣の表情が翳る。
    「どうかしたか?」
    「……うん」
     いつもとは違う藍曦臣の様子に江澄は眉を小さく顰めた。こちらの目をまっすぐに見てくる藍曦臣の瞳が迷うように卓の上を泳いでいる。暫くしてから再び藍曦臣と目があった。
    「あなたに、言いたいことがあるんです」
    「なんだ。改まって。悪いが金貸しは江氏はしないぞ」
     真剣な目を向けられ、江澄が真っ先に思い浮かんだのは友をやめたいと言われることだった。そんな言葉を聞きたく無くてわざと冗談を口にする。藍曦臣の頭が小さく横に揺れた。
    「いえ、違います。……あなたと友人になってから今日まで、何度か自問自答を繰り返しました。このままでも良いのではないのか、と」
    「つまり、俺と友人になどなったのは間違いだった、と言いたいんだな?」
     言われる前に自分から言った方が己の矜持が保てると、江澄は口の片端を引き上げた。友になりたいと言ってきたのはそちらだろう、と声を荒らげたくなる衝動をぐっと抑える。そんな縋るようなみっともない真似はしたくなかった。藍曦臣は安堵して頷くだろう。そう思っていたのに、彼は江澄の言葉に酷く驚いた顔をした。伸びて来た両手が卓の上にあった江澄の左手を包み込む。
    「後悔など! 私が言いたいのはその逆です。江澄。私はあなたのことが好きです」
    「なんだ。そんなことか。俺もあなたのことは好きだ。嫌いな相手と、わざわざ友になどならないだろう?」
     友人関係を解消したいわけではないことを知り胸中安堵する。藍曦臣の言葉を反芻し、何故今更そんなことをと首を傾げた。藍曦臣が困ったように眉尻を下げた。
    「そうではなく。あなたをお慕いしています。出来れば、あなたと友人ではなく、恋仲になりたい。そう言っているんです」
     言葉の意味を理解するのにたっぷり三呼吸分ほどの時間を要した。
    「今、なんと言った? 藍曦臣」
     意味を理解したが、意図が理解できず、聞き間違えかと思ったのだ。もしくは、目の前にいる藍曦臣に見える男は偽物か。つまり奪舎されたのではないか、と。江澄の困惑と疑惑に呼応するようにパチリと紫電が閃光を発した。
     江澄の手を握っていた藍曦臣の人差し指が紫電をするりと撫でた。
    「奪舎されていないですよ。もう一度言いうけれど、私はあなたをお慕いしています」
     こちらを見る藍曦臣の瞳に揶揄いや嘘の色はかけらも見えない。そもそも藍氏の家規で嘘は禁じられている。ここが雲深不知処ではないとは言え、わざわざ家規を破ってまで藍曦臣が江澄を揶揄うために嘘を言う理由はないだろう。故に藍曦臣の言葉が本心であることは江澄も頭では理解した。だが頭で理解が出来たからとて、感情が追いつくわけではなかった。
     江澄の中に真っ先に浮かんだのはいくつかの疑問だった。
     初めに、何故自分と恋仲になりたいなどと言うのか。気でもおかしくなったのか。
     次に、一体自分のどこがいいというのか。己の気性は己が一番よく知っている。
     更に、一体自分に何を求めているのか。
     最後に、一体いつから藍曦臣はそんな血迷った感情を己に抱いていたのか。
     浮かんだ疑問を藍曦臣にぶつけるべきかと悩んでいる内に、ふつふつと怒りと諦めが沸き始めた。
     友になりたいと藍曦臣に言われた時に抱いたいくつかの違和感を思い出したのだ。あの時点で藍曦臣は自分に対して友として以外の感情を抱いていたのではないだろうか。だとしたら、己は間抜けにもほどがある。友になりたい。その言葉を鵜呑みにして良い友が出来たと胸中嬉しく思っていたが、藍曦臣には最初からそのつもりなどなかったということだ。自分が一人から回っていたということか。
     よくよく考えて見れば、他家の宗主が下心もなしに自分に近づいて来ることなどあるはずがないのだ。今までだってそうだったではないかと胸中で自嘲する。大体が江澄の後ろにある江家を狙ってのことだったが、今回は江澄自身だったということだ。
     江澄はいまだに自分の手を握っている藍曦臣の手を強く振り払った。
    「あぁ、そういえば『道侶』がだとか、『おいおい』だとか言っていましたね。つまりあなたは最初から私と友になどなる気はなかったということですか。澤蕪君」
     友ではないのならば字で呼ぶ必要もない。気安い口調で語りかける必要もない。
     冷たい視線をなげると藍曦臣の顔が悲し気にゆがんだ。
    「確かに、私はあなたと友以上の関係になりたいと最初から思っていた。それは否定しない」
    「さすが藍氏ですね。素直に認めなさるとは」
    「なんとでも。友人としてのあなたはとても居心地が良かった。最初に抱いていた欲など忘れて、友のままでもいいのではないかと何度か思いもした。あなたは望まないだろうと。けれど、駄目だった。友などでは私は足りない」
    「それはあなたの事情でしょう。私の知ったことではありません。半年近くあなたを友だと思い込んでいた私を内心で笑っていたのでは? さて、澤蕪君。申し訳ありませんが、そろそろお帰りいただけないだろうか?」
    「江澄!」
     悲痛な呼び声と共に伸びて来た手が江澄の手首を掴んだ。ぎり、と骨がきしむほどに強く握られ、江澄は眉を顰める。
    「あなたに名で呼ばれる筋合いはない。弁えていただけませんか。澤蕪君」
    「嫌です」
    「嫌とはどういう了見か? 呼ばれる本人が嫌がっているんです。従うのが筋ではありませんか? 澤蕪君」
    「ならばあなたも私を澤蕪君と呼ぶのは止めて欲しい。二人きりの時は字を。出来れば名を呼んで」
     自分の口にした理屈で返され、江澄は舌打ちをする。睨みつけると必死な形相で縋るような目を向ける藍曦臣の顔があった。
     藍曦臣にずっと騙されていたのだと言う怒りと、易々と信じた己に対する自己嫌悪で江澄の胸中は満ちていたが、頭の冷静な部分が藍曦臣を憐れんでもいた。
     何故澤蕪君ともあろう人が、こんなにも自分などに必死に縋っているのだろうか。己を恋い慕うなどというおかしな考えから目を覚ましてやるべきなのではないか。
     江澄は心を落ち着かせるように調息を行う。
    「手を、放してください。痛いんです」
     込められていた力は緩まったが、藍曦臣の手は江澄の手首から離れようとしない。藍曦臣が小さく首を横に振る。
    「あなたがそのよそよそしい話し方を止めてくれれば放します」
     子どものような主張に江澄は大きな溜め息を吐いた。自分の心を切り替えるようにゆっくりと瞬きをする。
    「分かった。いいから放してくれ。あなたは自分の馬鹿力を知るべきだ。いい加減痛い」
     戸惑うように視線を揺らした後、ようやく手首が解放される。ちらりと視線を自分の手首に向けると赤い痕がついていた。
    「手首、申し訳ありません。……この半年間あなたを内心笑ったりなどはしていない。それは信じて欲しい」
    「はッ。どうだかな。あなたの目から見たらさぞかし間抜けだったことだろう」
    「そんなことはありません。私の目から見たあなたは、凛として美しく、そして誰よりもまっすぐで強い。あなたに会うたびに思いが募るばかりでした。あなたの横にいるのが当たり前のようになりたい。私にとってあなたは特別ですが、あなたにとっても私が特別になりたい、とずっと思っていました」
     言われなれない賛美に江澄は照れる前に眉を顰めた。
    「一体俺の何がいいんだ」
    「全て」
    「全て? あなたは馬鹿か。俺の一体何を知っている。何も知らないくせに」
     随分と簡単に言ってくれる。全てなどという言葉を江澄は到底信じることが出来ない。己の性格についても、己が他人からどのように言われているかも十二分に知っている。更に言えば、性質がそっくりだと言われ続けている母を見て来たのだ。他者が一般的に母や自分のような人間に対してどのような印象を受けるかも身を以て知っている。それを考えれば藍曦臣が口にした「全て」という言葉がいかに軽々しく、信頼に値しないものであるか分かり切っていた。「全て」など「何もない」と同じような物だ。
     江澄が抱いている内心の苛立ちなども知らず、藍曦臣が指を伸ばし、遠慮がちに赤くなった手首に触れてくる。
    「あなたが初めてだったんです。阿瑶……金光瑶のことを全て否定しなかったのは。彼が全ての悪で、私や大哥、自分たちはその被害者だと言う者が多い中、あなたは自分たちにも非があると言った。私は私にだけ非があるとばかり思っていたのに。それがどれほど傲慢であるのか気がつかせてくれた」
     藍曦臣の言葉で江澄の心はますます冷静になっていった。やはりそこかという感想しか頭には浮かんでこない。胸が小さな痛みを訴える。その痛みの原因が何かを考える前に、江澄は触れてくる藍曦臣の指から避けるように腕を胸の前で組んだ。
    「やはりあなたは勘違いしているんだ。他の者とは俺は違うと言うがそれはたまたまだ。金光瑶に対して似たような思考を抱いている人間は俺以外にもいるだろう。たまたま俺が一番初めに他の者とは違うことを言った。それだけだ。俺より先に誰かがあなたに似たようなことを言えば、あなたはその者に好意をいただいていただろう。生まれたばかりの雛が初めて見た者を親だと思い込むようなものだ」 
    「勘違いなどしていない。他の誰かではなくあなたがいいんです」
    「では聞くが。あなたはずっと俺のことなど視界に入っていなかっただろう? 射日の征戦以降は特にな。義兄が殺され、義弟を殺して、ぽっかりと空いた隙間にたまたまちょうど良く俺が収まっただけだ」
     自分でもずるい言い方だとは思ったが真実だ。ここまで言えば目が覚めるだろう。そう思ったのに藍曦臣は酷く悲しそうな笑みを浮かべた。
    「何故、私の心を否定するのですか? それほどまでに私の思いは信じるに値しませんか?」
     藍曦臣の思いよりも、どちらかと言えば自分が藍曦臣に思いを向けられることが信じられない。だが、それを伝えたところで果たして藍曦臣は理解できないだろう。
     江澄は深く息を吐く。埒が明かない。ここが雲深不知処であれば、冷泉にでも放り込んで目を覚まさせることが出来るかもしれないが、あいにく蓮花塢にあるのは冷泉ではなく荷花池か、蓮花湖だけだ。
     わざわざ自分への好意を口にしたのは受け入れて欲しいからだろう。苛立ちはあるが、不思議なことに嫌悪感はなかった。魏無羨と藍忘機を見慣れてしまったからなのか、それとも友として過ごしてきたからなのかは江澄にも分からない。だからと言って承諾する気にもならなかった。承諾したとして、長続きするとは思えない。自分の性格だ。すぐに思っていたものとは違うと言われるのが目に見えている。それに、もう少し時が経てば藍曦臣の目も覚めるかもしれない。江澄の頭に一つの案が浮かんだ。
    「一年」
    「え?」
    「もし、一年経ってもあなたが今と変わらずに俺が良いと言うのであれば、もう一度、今日俺に言ったことを言ってもらいたい。その時、俺もあなたの言葉になにがしかの回答を出す。その答えがあなたの望むものかどうかは分からんが」
    「それは、あなたの考える時間が欲しい、とそういうこと、ですか?」
    「……。どうだろう。俺の考える時間なのか、あなたが──」
     正気に戻る時間なのか、と続けようとして口を噤んだ。口にすればまた自分の思いは信じる値がないのか、と先ほどの繰り返しになる。
    「私が?」
     江澄は小さく首を振った。
    「いや、気にしないでくれ。受けるか? 受けないか?」
    「一年後の今日。私があなたにもう一度、恋仲になりたいとお伝えすれば、その時あなたの答えをもらえる、と。そういうことですね? であれば、待ちましょう。ではその期間、私はあなたの友として過ごせば?」
    「まぁ、そうなるな」
    「なるほど。しかし、私の気持ちはもうあなたに伝えてしまった。つまり、我慢もしなくて良い、ということかな?」
     先ほどまで藍曦臣の顔を彩っていた悲壮感はすっかりなくなっていた。何かを考えこむように顎に手をやり、江澄を見つめてくる。
    「我慢しなくて、とは?」
    「……恋仲になりたいということは、約束通り一年後まで取っておきますので、安心して」
    「何を?」
     綺麗な笑みを浮かべた藍曦臣に不穏な空気を感じ、江澄はひくりと唇の片端を持ち上げた。藍曦臣から答えはなかった。



     春以降も江澄と藍曦臣は今まで通り一応は友として過ごしている。
     江澄は早く正気に返るようにと、今まで多少は遠慮していたきつい言葉も藍曦臣に向けるようにしていたが、藍曦臣は眉を顰めるどころか何故だか嬉しそうな顔をする。江澄に嫌気がさして一年も経たずになかったことにしてくれ、と言ってくるかと思ったのだが、その様子はまったくない。
     一年後と言った約束は守るつもりらしく、江澄に直接的な好意の言葉を向けることはなかったが、「我慢しなくても良い」と口にした言葉通り、向けて来る視線はあからさまになっていた。
     雲深不知処に赴いた際、寒室で茶を馳走になった時、あまりにも嬉しそうに自分の顔を見てくるものだから、何が楽しいのかと聞くと美しいだなんだ男の自分には相応しくない美辞麗句を並べたてる。止めろと言っても、「どうして?」と返って来るばかりで、それが二度、三度続き、江澄は藍曦臣の好きなようにさせることにした。江澄自身、藍曦臣から向けられる視線は決して嫌ではなかったからだ。
     藍曦臣の乱心と江澄が信じて疑わないあの告白以降、視線以外にも色々と変わったことがある。
     まず、藍曦臣からの贈り物が増えた。
     ある時、香炉を贈られた。江澄は香を焚きこめることをあまりしない。嫌いと言うわけではないのだが、雲夢は暑く風通りをよくするために夏は屋敷の窓という窓を大きく開けていることが多い。そのために香を焚いたとしてもすぐに香りは風と共に湖に溶けてしまう。冬に気が向いた時に使う程度だった。
     贈られた香炉は繊細な雲と白木蓮の文様が彫りこまれた玉製の物で一目で非常に高価な物であると分かるし友人に贈るような品物ではなかった。こんな高価なものは受け取れぬ。貰ういわれがないと突っ撥ねたが、江澄の私室にあった香炉と交換することで押し切られてしまった。蓮花塢の小道具屋でたまたま見つけたその香炉は蓮の意匠が大胆に描かれていたのと、蓋の持ち手が珍しく犬の形をしていたのが気に入って購入したものだった。安い買い物ではなかったが、だからと言って藍曦臣の香炉には釣り合わない物だった。
     その香炉を手始めに、同じようなことが何度もあった。ただ貰うのは性に合わないために江澄の私室にあるものを代わりに渡したり、釣り合うようなものを贈ったりなどした。おかげで江澄の私室には藍曦臣から贈られた物が増えたし、雲深不知処の寒室に江澄の私室にあった物や、雲夢縁の物が増えていった。江澄の私室は蓮をなぞらえた家具や小道具が多く、それらは蓮の花が色彩豊かであることも踏まえて多彩であった。そのため藍曦臣から贈られた物が私室にあっても浮くことはなかったが、寒室では江澄が贈った物は色がありすぎて白と青を基調としたあの部屋では目立ってしまう。寒室に足を踏み入れればすぐにどこに自分からの物があるのか分かるし、それらが随分と丁重に、埃の一つもなく飾られているのを見る度に大事にされているのだと認識してしまい何やら妙に気恥ずかしい気持ちになるのだ。
     それ以外にも藍曦臣は江澄の手を取り、機会があれば抹額に触れさせようとしてくる。藍氏の抹額が私的な物であり、易々と他人が触れて良いものではないことは江澄も知っていた。触れてしまうと取り返しの付かないことになりそうで、江澄は頑なに触れることを拒否し続けている。
     季節が一つ過ぎた夏。毎年のように死んでいった師弟たちの弔いをしようと、去年に引き続き魏無羨がやってきたが、なぜか藍曦臣まで一緒にやって来た。魏無羨と共に弔いをしたい、と言い出したがあくまで江氏の師弟で藍氏には何ら関わりのない者たちへの弔いとなる。そのため丁重に断ったら、藍曦臣は酷く悲しそうな顔をし、魏無羨は「まだ駄目みたいですね」と藍曦臣の背中を叩いていたのが印象的ではあった。一体何がまだ駄目だと言うのか。魏無羨に問うてもこちらの話だと言うし、藍曦臣に問うても江澄の手を取るだけでろくな答えはなかった。
     傍から見たら友人というには近すぎるような距離で季節が二つ過ぎた頃、藍曦臣が江澄を抱きしめたいと言い出した。それは流石に友人同士ではしないだろうと抹額同様に固辞したが、藍曦臣が悲哀に満ちた表情を浮かべ「魏無羨とは肩を組んでいるのに、私とはダメなのですか?」と言い出した為、仕方なく許可をした。
     そっと大事なものを包み込むかのように抱きしめられ、焚きこまれた藍曦臣の香の薫りに包まれる。普段は微かに香る程度の匂いは、ここまで強くなる物なのかと驚いた。近くにある体温もりも心地よい。誰かに抱きしめられたのは、幼い金凌が抱き着いて来たことを除けば、生前の姉が最後だった。大事な者であるかのように包まれ人の体温を感じるのはこんなにも心地よいものだったのかと陶然とした。思わず抱きしめ返しそうになるのをこらえ、だらりと両腕を身体の横におろしたまま、そういえば、肩を組むのと抱きしめるのを同列には出来ないのではないかと思ったが、口に出すのは止めておいた。
     再度、藍曦臣から恋仲になりたいと伝えられたらどう答えるべきか。あの約束を口にした時は一年もあれば藍曦臣は目が覚めると思ったのだ。己の心をそろそろ決めなければならない。季節が三つ過ぎる頃、江澄は自分の心とようやく向き合い始めた。
     だが、向き合っても答えはすぐに出てこない。思い浮かぶのはどうにかしてこのままではいられないのだろうか、ということだった。恋仲になるのを拒否したら藍曦臣から向けられる友人にしては近すぎる視線や言葉、抱擁はなくなってしまうのか。それは少し惜しい。かといって受け入れてやはり勘違いだったと気がつかれ、気を遣うようにして同情でだらだらと恋仲のふりを藍曦臣に強いることは江澄の矜持が許さない。どちらを選んだとしても、今のぬるま湯のような心地よさがなくなってしまう。かといって、もう一年延長を申し出たとしても藍曦臣は流石に頷くことはないだろう。
     雲夢のこと、江氏のことであれば即断即決が出来るのに、江澄自身のこととなると上手く答えが出てこない。江澄の中で答えを出せぬまま、年が明け、約束の時まであと一か月となったある日、一つの陳情が江澄の元へと届いた。
     一年半ほど前、藍氏と合同の夜狩を行った山でまた花が咲いたということだ。
     藍曦臣が閉関後初めて参加し怪我をし、江澄が藍曦臣を怒鳴りつけた夜狩を行った山だ。鬼となった女の魂は滅絶し、妖気を纏った紫色の花は標本用に持ち帰り藍曦臣に渡した一株以外は全て燃やし尽くしたはずだった。だが、同じ場所にまたも薄紅色の花が前触れもなく突然咲きだしたという。
     薄紅色の花が狂い咲いた場所に足を踏み入れた人間は暫くすると魂でも抜かれたかのように腑抜けになる。良い夢でも見ているのか口元には笑みを浮かべてふらふらと徘徊をするとのことだった。凶屍と異なり誰かに危害を加えることはない。だが、食事を取ることも水を取ることもなく、眠ることもなく三日もしないうちに衰弱し最終的には幸せそうな顔をしたまま死ぬという。
     陳情をあげたのも前回と同じ郷だった。一度鎮めた邪祟が何事もなく再び出現することは少ない。有り得るとするならば根源が残っている場合だが、根源が残っているとしても一年半という期間は短すぎる。余程の陰の気が集まったのか、何かの関与があったのか。
     陳情を受け前回と同じ門弟を江澄は先に向かわせた。三日分の急ぎの仕事をこなし、大師兄に指示を与えると、自分も御剣の術で郷へと向かう。江澄は蓮花塢を出る前に藍曦臣に伝令符を飛ばした。藍氏のところにも同じ陳情が届いていないかを確認するためだ。返事は「是」だった。藍氏も同じように前回と同じ門弟を向かわせたとのことで、郷で落ち合い、今回も合同で夜狩を行うこととした。
     陽が沈みかけた頃、郷に到着すると既に藍氏を率いた藍曦臣もその場にいた。拱手を交わし共に陳情を上げた郷長の元へと向かう。郷長の屋敷に向かいながら、先に向かわせた門弟から状況の報告を受けた。
     陳情の内容に間違いはなかった。陳情では花が咲いた場所は明確に記されていなかったが、前回紫の花が咲き、女の鬼を滅絶した場所と同じ場所に薄紅色の花が咲き狂っているという。咲き始めた明確な時期は分からなかったが、最初に腑抜けた郷人が出たのは十日前のこと。男と女が二人で山に入り見たこともない薄紅色の花が狂い咲いているのを見つけた。場所は山の中腹で二里四方ほどの広さがある開けた場所だ。中心にぽつんと一本の木が生えている以外は、他の木がまるでその中央の木を避けているかのようだった。
     花が咲いているのを見つけ、男が珍しいと駆け寄り、女はその場所を怪しんで駆け寄ろうとした男を止めた。だが、止める間もなく男は花の咲く場所へと足を踏み入れた。その途端女の笑い声が聞こえたという。止めた女の耳には小鳥の鳴くような声が聞こえ、男の言う鳴き声は聞こえなかったという。男が「女の声が聞こえる」と口にしたのを聞いたとのことだった。「声が聞こえる。誰だ誰だ。あぁ、琳麗」そう口にして、男がふらふらとした足取りで女の元に戻って来たと言う。その時には、もう男は駄目になっていた。無事だった女は、まともに会話することも出来なくなった男を何とか連れて郷に戻り、ことの顛末を郷の人間に話した。駄目になった男は時折笑いながら「琳麗」と女の名前を口にし衰弱していった。
     山へ立ち入っても、決して花の咲く場所へは足を踏み入れないように。郷の人間にそう言い聞かせたがまるで呼ばれるように山に入り、花に誘われ、駄目になっていく。既に三人が死んでいた。魏無羨が定義した基準に合わせるのであれば十分悪鬼と言えるだろう。ただし前回のように鬼の姿はない。
     そこまで報告を受けたところで郷長の屋敷に辿り着いた。前回訪れた時と代替わりはしていないらしく、見覚えのある白頭の腰の曲がった老人が江澄と藍曦臣を出迎えた。簡単な挨拶を済ませ江澄と藍曦臣は今回の怪異の原因を郷長に半年の間、何か変わったことがないかを尋ねた。些細なことで良かった。普段は二度鳴き声を上げる鶏が三度鳴いた。誰かが何かを拾った。郷から誰かが出て行った。郷に誰かが戻って来た。一見些細ななんでもないことが邪祟の根源であることは多い。
     問うてみたが郷長は首を横に振る。この半年の間、婚姻もなければ山に入って駄目になった者以外の葬式も上げていない。家畜が死んだという話も特にない。直接山に入って行くしかないかと藍曦臣と顔を見合わせた時、郷長の後ろに控えていた彼の息子が口を開いた。息子曰く一か月ほど前に十二年ぶりに郷に戻って来た男が一人いるという。
    「その男の名はなんと?」
     江澄が問うと息子は郷長の顔を見た。郷長が促すように小さく頷いた。
    「桓春生と申します。十二年前にどこかの大きな街で成功して帰ってくるなどと豪語して郷を出ましたが、結局商売も迎えた嫁とも上手くいかずに戻って参りました」
     以前どこかで聞いたような話だと思いながら、江澄はその男の所在を尋ねた。出来れば話を聞いておきたい。
    「その方は今は?」
    「死んだようなものです」
    「死んだようなもの? それは一体どういう……」
    「はい。その、最初にダメになったのが、その男だったんです」
     陳情では、駄目になると三日で死ぬと書いてあった。だが、門弟の報告では最初の男が花を見つけたのは十日前だったはずだ。
    「生きて、いるのですか? 三日で衰弱死すると藍氏への陳情には書いてありましたが」
     同じ違和感を藍曦臣も覚えたのだろう。江澄は藍曦臣の言葉に頷いた。
    「江氏に来た陳情でも同じだった。最初に山で花を見つけたのは十日前と聞いていますが?」
    「他の者は皆、一日目は虚ろな様子で歩きまわり、口元に笑みを浮かべ、何かに話しかけるなどし、二日目には衰弱し動き回ることもできなくなり、三日目には幸せそうな顔をして死んでいきます。ですが桓春生だけは何故か分かりませんが辛うじて生きております。ただ、あれを生きていると言ってよいものか……。いっそ死んでしまった方が楽なのではないかと思うほどに哀れな状態です」
    「何故、その桓春生という男だけが……。門弟が既に男を尋ねたと思うが、我々もこの後、その男の家に行っても?」
     江澄の言葉に息子は困ったように頷いた。
    「ご案内は、出来るのですが……。果たして会っていただいて意味があるかどうか……。本当に酷い有様なのです」
    「構いません。あと琳麗という名に思い当たりはありますか? その桓春生が口にしている名前のようですが」
     郷長と息子が顔を見合わせた。
    「それは……。前回いらしていただいた時に、鎮めていただいた鬼になった女のことでございます。元々は桓春生と恋仲で将来を誓い合った仲でございました」
     江澄の記憶にあった点と現在の点が線で結ばれる。
    「なるほど。女は待っていたが裏切られたと知ったのですね。もう二つほど質問を。琳麗は何故桓春生が己を裏切ったと知ったのですか? 戻って来たのは十二年ぶりなのでしょう? そして、桓春生は何故山に入ったか聞いていますか?」
    「私からも、一つ。桓春生は山には女性と一緒に行ったそうですが、その女性は?」
     江澄の後に続けるように、藍曦臣が追加で質問をした。答えたのは郷長の方だった。
    「江宗主のご質問ですが、たまたま、郷から舒庸鎮に出かけた者がおりました。その者は桓春生の顔を知っており、舒庸鎮で桓春生を見た、と。妻と息子がいたと話していたのを、琳麗は聞いてしまったのでございます。もし話を聞いていなくとも決して大きな郷ではございませんので、すぐに耳には入ってきたでしょうが……。二つ目の質問ですが、琳麗が首を吊ったのがあの山の中でございます。花が今咲いている場所の、中央に一本ぽつりとある木。あの木で首をくくりました。あの木では今までもう何人も首をくくっております。祖父母の代よりもっと前から何人も。桓春生は琳麗の死んだ場所に行こうとしたのではないかと」
     郷長の言葉に江澄は片眉を小さく上げ藍曦臣を見た。藍曦臣も頷く。前回鬼になった女が首を括ったということは聞いていたが、その木で何人も首を括ったとは、江氏も藍氏も聞いていない。黙っていたというよりは、重要な情報だとは思ってもいなかったのだろう。ありがちなことだ。何人も首を括っているというのであれば、その木に首を括った人間の怨念や陰の気が蓄積され精怪に変じる可能性はある。
     胸中舌を打つ江澄の様子に気がつかず、郷長は言葉を続ける。 
    「藍宗主からのご質問ですが、一緒に行ったのは、梅麗という琳麗の妹でございます。よくできた娘で、本当であれば義兄になるはずだったのだから、と言って桓春生の面倒を今見ております。琳麗とは年の離れた姉妹でしたが、流れ者だった両親が亡くなってから琳麗が母親のように梅麗のことを育て、可愛がっておりました」
    「なるほど。ありがとうございます。これから我々は桓春生の元に行きます。そして明日、陰の気よりも陽の気が強くなった時刻から山中に入ります」
    「なにとぞよろしくお願いいたします。宗主のお二人の部屋は、我が屋敷に用意をさせていただきました。門弟の皆さまも、離れに部屋を用意しておりますので、お使いください」
    「お心遣い、感謝します」
     郷長に拱手をし、息子に男の家に案内される。男の両親は二年前に他界していたが、家はそのまま残っていたのだ。琳麗が死ぬまでは琳麗が月に一度掃除をし、琳麗が死んだ後は梅麗が姉に代わって同じように月に一度掃除をしていたらしい。
     男の家の前に辿り着くと扉の向こうから何やら小さな音が聞こえてくる。江澄にはその音が何か聞き取れないが、耳の良い藍曦臣には聞き取れ聞き分けることが出来たのか、痛まし気に眉を小さく顰めた。
     入ると部屋は薄暗く、燭台一つで室内は照らされている。陰の気がやや濃い。質素な牀榻に男、桓春生は寝かされていた。牀榻の傍に蹲る人影があった。
    「あの、どちら様ですか?」
     蹲っていた人物が藍曦臣と江澄に気がつき立ち上がり、こちらへとやってくる。齢は二十にも満たないだろう女だった。江澄にはその女の顔に覚えがある。一年半前、江澄が滅絶した琳麗の躯に縋って泣いていた娘だ。
    「あなたが梅麗ですね。私は雲夢江氏の宗主、江晩吟といいます。こちらは姑蘇藍氏の藍曦臣殿です」
    「江、晩吟……? あぁ、姉様を鎮めてくれたお方ですね」
     女も江澄のことを覚えていたのか小さく首を傾げてから頭を下げた。下げられた頭には場に似つかわしくない簪が刺さっており、女の動きとともにしゃらりと付けられた細い鎖が音をたてた。
     女ごしに江澄は牀榻の上の桓春生に視線をやった。入り口からでも男の四肢が牀榻に繋がれているのが分かる。
    「彼は何故、四肢を繋がれているのですか?」
    「暴れて自分の身体を傷つけるのです。かわいそうに」
     女の言葉を受け、江澄と藍曦臣は改めて男の様子を眺め目配せをした。
    「そうでしたか。……あなたは、彼と一緒に山の中に入ったのですよね? それは何故ですか?」
     江澄の問いに女が童女のようにことりと首を傾げた。簪の鎖が合わせてしゃらりと再び音をたてる。花の意匠を施されたその簪に江澄は既視感があった。一年半前見たからだろうか。だが同じ既視感を前回も抱かなかっただろうか。
    「あぁ、姉様の死んだ場所を見せたくて。それにあの場所は、姉様とその人の思い出の場所だと聞いていたから。その場所で、姉様の話をしたいと思ったんです」
    「あなたも咲いている花を見たのですよね?」
    「えぇ。美しい、花でした。まるで夢を見ているみたい」
     女が微笑む。目の前にいる江澄も藍曦臣も見えていないような恍惚とした笑みで、江澄は違和感を覚えた。
     女を問いただすべきか。だが、違和感の正体が朧気で掴めない。目の前の女が夷陵老祖の信奉者を名乗り、魔道を使う修士であるのならば、なんの戸惑いもなく紫電で打ったものを。
    「傍に行き彼の様子を見ても?」
     藍曦臣の言葉に女は逡巡した後、小さく首を振った。
    「今は、ご遠慮いただけないでしょうか。先ほどまで暴れて……。今、ようやく落ち着いたので、出来ればそっとしていただきたいです。朝から午の刻までであれば、落ち着いてるので。どうしてか申の刻以降、様子が酷くなるのです」
     申の刻から陰の気が陽の気よりも多くなる。暴れるというのであればそれが理由だろう。であれば、なおさら桓春生の様子を確認すべきだ。女に明日山中へ花妖を鎮めに行くこと。それに伴い可能な限り情報を収集したいと言うが女は頑なに譲らなかった。情報の欠如により夜狩で危機に陥る可能性がある。仮に何の成果がなかったとしても情報は集めるに越したことはないのだ。首を一向に縦に振ろうとしない女に、江澄は次第に苛立つ。桓春生の様子を確認しないことで、明日の夜狩で門弟たちが命を落としたらこの女は責任をとれるのか。
     怒鳴りそうになる気持ちを抑えるが、江澄の胸中にある怒気を察したのか、紫電がパチリと閃光とともに音を立てた。いっそ首筋に手刀を当て気絶をさせてしまおうか。だが、雲夢江氏の宗主として、一介の娘の許可がとれずに気絶させたなど外聞が悪いし、その様な真似をするのは江澄の矜持が許さない。
     パチリパチリと紫電が騒ぎ始めると、藍曦臣の手がそっと紫電に触れた。
    「分かりました。それでは明日お伺いしましょう。構いませんね?」
     今まで黙っていた藍曦臣が穏やかな口調で女に言った。女が安堵したように頷く。
    「朝であれば、お迎えする準備も整います。お待ちしております」
    「藍宗主。今確認すべきでは?」
    「朝であればとおっしゃっているのです。今確認するのも、朝確認するのも変わりません。それに、陰の気が鎮まることで彼の正気が少しでも戻れば、会話もできるかもしれない」
    「……分かった」
     藍曦臣の言葉も一理ある。このままここで問答をしても、目の前の女は自分たちを中に入れることはないだろう。
     不承不承頷き、もう一度女越しに牀榻を見る。蠢く影と小さなうめき声だけが聞こえる。小さな吐息を零すと女が頭を下げた。それを合図に、江澄も藍曦臣も来た道を戻り、郷長の屋敷へと戻った。
     郷長が用意していた部屋は一年半前と同じ部屋だった。江澄と藍曦臣は江澄にあてがわれた部屋へと入る。記憶の通り中には牀榻と小さな卓があった。茶の用意をし藍曦臣を座らせると、その対面に座り、藍曦臣の前に置いた茶杯に茶を注ぐ。
    「あなたは、どう見る?」
    「そうですね。彼女は何かを隠しているように見えます」
    「あぁ。俺たちにあの場では桓春生を見せたくないように思えたな。明日であれば良いと言っていたが。……今のうちに桓春生を殺しているかもな」
    「まさか」
    「半分は冗談だ。だが、あそこまで頑なに俺たちを入れないのには何か裏があるぞ」
    「陰の気は強かったですね。凶屍が紛れ込んでいるかのような。ただ、凶屍が大人しく牀榻の上で寝ているなどは有り得ないでしょう。彼女が邪道でも使って操っていない限り」
     江澄は頷いた。生きた人間しかいない場所にしては陰の気が強かったが、桓春生の命はほぼ尽きているのだと考えると、陰の気は集まりやすくなるため決して異常とまでは言えなかった。邪道は修為が低く金丹がなくとも扱えはするが、だからと言ってなんの鍛錬もしていない小さな郷の女が簡単に修められるものではない。余程の才能か、血、道具がなければ無理だろう。
    「姉を捨て、姉が死に鬼となった原因はあの男にあるため、怨みはあるだろうが……」
    「四人もの人間に何某かの作用が出来るとは流石に思えませんね。奪舎か献舎でもされていない限り」
    「奪舎するとしたら誰だ。姉か? だが姉は一年半前に滅絶している。戻っては来れない。献舎も金氏が集めたアイツの書いたものを彼女が手に入れているとは思えない」
    「えぇ。それも可能性としては低いかと。手に入れたとしても実行は出来ないでしょう」
     江澄は無意識の内に眉間に皺を寄せ顎をなぞる。伸びて来た指が江澄の眉間を狙ってきたため、触れられる前にその手を払った。
    「それに俺はあの簪をどこかで見た覚えがあるんだが……」
    「一年半前に見たのではなくて?」
    「いや、それよりも持った前な気がする」
     遠い記憶の片隅に何かが引っ掛かっているのだが、それが一体何なのかどうしても思い出せない。
    「駄目だ。思い出せん」
     考えても分からず、その違和感を拭い去るように頭を小さく振った。別の観点から思考すべきだ。梅麗のことはひとまず追い出し、桓春生と三人の犠牲者がおかしくなった場所について考える。
    「やはり花が咲いている場所に何かがいると考えた方がいいか。だが、前回の時あの場所にある木には特に陰の気も感じなかった」
     一年半前、鬼となった琳麗を滅絶したのはその木の根本だったか。周囲に妖気を纏った紫の花が咲いていたが、琳麗が首を括ったという木そのものには何の妖気も、陰の気も感じなかった。故に江澄と江家門弟、そして怪我をした藍曦臣を除いた藍氏の門弟で花のみを燃やした。その時の判断が間違っていたとなれば、今この郷で起こっている怪異に対して、江澄も一片の責任がある。
    「むやみに木精を刺激するのは得策ではありません。ただ、郷長が言っていた言葉が気になりますね」
    「あぁ、あの木で首を括った人間が何人もいるという奴か。だとすると花魄か?」
    「ですが花魄が幻覚を見せるなんて聞いたことはありませんよ」
     花魄とは三人以上が首をくくった木に、死んだ人間の怨み、苦しみ、憎しみ、無念が蓄積し固まって誕生する木精の一種だ。手のひらほどの大きさをした美女の姿をしている。その鳴き声は小鳥のようだと言われている。しかし具体的に花魄が悪さをしたという事例は江澄は聞いたことがない。藍曦臣ですら聞いたことがないのであればおそらくはないのだろう。
    「もし前回の時点で花魄がいたとすると、紫色の花もまた花魄のせいになるが……」
    「花魄が花を咲かせたと言う話も聞きませんね」
    「結局何も分からず仕舞いか。もう少し情報が欲しいが……。仕方がない。出て来たものを叩くしかないな」
    「頼もしい限りですね」
     短絡だと皮肉っているのかと睨んだが、藍曦臣の顔に浮かんでいる笑みはその言葉が心からの賛辞だと言わんばかりで、江澄は思わず藍曦臣から目をそらした。己の気を取り直すように一つ咳をする。
    「明日、我々江氏は山中に行き、周辺に結界を敷いた後に陣を敷く。藍氏はどうする?」
    「そうですね。藍氏も同行します。結界は藍氏のほうが得意だから藍氏が敷こう。ただ私は朝に桓春生の様子を見に行こうと思う。すぐに追いかけます」
    「そうか。では、そちらはあなたに任せる。俺は門弟たちとともに山に入る。藍氏が結界を、江氏が滅絶の陣を敷き、花の始末をつけるとしよう」
     明日の算段を付け、頷きあった。
     時刻は亥の刻になる頃だろう。そろそろ部屋に帰ったらどうだと手の中で弄んでいた茶杯から藍曦臣へと視線を移すと、藍曦臣は口元を抑えて小さく笑っていた。
    「ふふ」
    「何を笑ってるんだ。あなたは」
    「いえ、思い出してしまって。この場所で前回あなたに随分と叱られたなぁと」
     江澄は眉根を寄せた。確かに前回怪我をした藍曦臣が自分を訪ねて来たのはこの部屋だ。今思い返しても大して交流もなかった、知己とも呼べぬ家の宗主に随分な態度を取ったものだ。自分でも何故あそこまで怒りを覚え、本人へとその怒りを直接ぶつけたのかをあの時はよく分かっていなかった。常ならば他家の宗主など江澄にしてみればどうでもよいのだ。今思い返してみれば、憧れていた藍曦臣が腑抜けたことが江澄の中では許せなかったのだ。藍曦臣にしてみれば八つ当たりされたようなものだった。
     苦虫を嚙み潰したような顔をする。
    「覚えていたのか」
    「忘れるわけがありません。胸倉をつかまれたのも、あんなに人に叱られたのも初めてですから」
     藍曦臣の口元が綺麗な弧を描く。指が伸びて茶杯を弄んだままだった江澄の手の甲をなぞっていく。羽根でなぞられるような触れ方で江澄の肌が泡立った。動揺を悟られないように江澄は手を引き、カツンと音を立てて手の中の茶杯を置いた。
    「忘れろ」
    「嫌ですよ」
    「前回のように呆けてみろ。今回は助けないからな」
    「それは肝に銘じることにしよう。では、私はこれで」
     口元を袖で隠しながら藍曦臣は笑った。
     共に椅子から立ち上がり扉へと向かう。戸を開ける直前、藍曦臣が振り返った。
    「……ねぇ江澄。約束を覚えていますか? 期限まであと一か月です。残りの一か月で私の想いが変わることなどありえないのだから、あなたに答えを聞いては駄目?」
     藍曦臣の手が江澄の頬に伸ばされる。触れられる寸前で江澄は藍曦臣の手を払い睨みつけた。
    「……駄目だ。約束は約束だ。あと一か月待て」
    「それは残念」
    「今は目の前のことを考えろ。足元を掬われるぞ」
    「手厳しい。ですが、あなたの言う通りだ。気を引き締めましょう。答えは一か月後の楽しみに取っておきます」
     小さく笑って部屋を出ていく藍曦臣に江澄は強かに舌打ちをする。牀榻に腰掛けそのまま後ろへと倒れ、藍曦臣に指先で触れられた手をさすった。
     嫌ではないのだ。藍曦臣に甘やかされるのも触れられるのも。むしろ嬉しいのだ。
     ただ怖い。何故藍曦臣が自分などに、という理由が今も江澄には皆目見当がつかない。どうせそのうち愛想を付かされる。金丹を錬成した修士にとっては、一年や二年など長い人生のほんの一瞬だ。一年、二年程度で藍曦臣からの好意が続いたからと言って、それがずっと与えられるわけではない。たとえどんなに努力をしたとしても自分はダメなのだ。好かれたい相手ほど自分のことは好いてくれない。血の繋がりがある親にさえ上手く愛されることが出来なかった自分が、どうして赤の他人に愛され続けることができるのか。
     己の手中にあると信じたものは、気がつけばぽろぽろと江澄の両手をすり抜けて、伸ばしても届かない場所へと行ってしまう。犬たちも。父も母も。共に修行した師弟たちも。姉も、魏無羨さえも。江澄に残った唯一のものは金凌だけだ。
     指を開いて水を掬えば水が手から流れ落ちるように、自分の手には誰も残らないのだ。ほんの少し、手のひらの上に残る薄い水。それだけが唯一江澄の手の中に残る。右手の平の水が雲夢江氏と蓮花塢であれば、左手の平の水が金凌だ。それ以上は零れてしまう。藍曦臣が江澄の手の平とどまれる猶予などない。
     今まで十二分に傷ついてきたのだから、また傷ついたところで大したことでもないだろう。だから一時だけでも貰っておけと囁く声と、今まで十二分に傷ついてきたのだから、これ以上傷つきたくないと叫ぶ声が江澄の中で争う。
     江澄は細く長い溜め息を吐いた。藍曦臣に言った言葉を思い出す。今は明日のことだけを考えるべきだ。それなりに短期間で人を殺している邪祟なのだ。浮ついている場合ではない。
     江澄は目を閉じ、雑念を払うように何度かゆっくりと鼻から息を吸い、口から細く息を吐く。江澄ではなく、雲夢江氏宗主の江晩吟を自分の中に取り戻す。ほう、と最後に小さく息を吐き、身体を起こすと、明日の為に三毒を手にし鞘から抜くと、己の顔を映す剣身を磨き始めた。



    夜が明けきらぬ卯の刻。陰から陽の刻に切り替わり、陽の気が陰の気よりも多くなっていく刻限に江澄が率いる江氏門弟と、藍曦臣から指示を受けた藍氏門弟が御剣にて山へと向かった。その姿を見送った後、藍曦臣は一人昨夜訪れた桓春生の家へと向かった。
     昨夜と同じように家の前に立つがもう何の音も聞こえなかった。
     藍曦臣は急ぎ家の中に入った。梅麗の姿は見えない。自分の家に戻っているのか。
     牀榻に近寄りその上に横たわった男を見る。四肢は牀榻に繋がれ、眼窩はくぼみ、頬はこけ、やせ細った身体は骨が浮き出ていた。唇はカサカサに乾いているが、口角は上がり、光のない目はどこか陶然としているように見える。果たして、男は目を見開いたまま口もとに笑みを浮かべた状態で息絶えていた。
     眉を顰めながら男の両足の拘束を解き、左手首の拘束を解く。暴れるためと昨夜梅麗は言っていたがこんなにきつく縛る必要があったのだろうか。縄を抜くために手首を持つと、男の手首はぐにゃりと有り得ない方向に有り得ない角度で曲がってしまった。慌てて右手首の拘束を解くと同じようにぐにゃりと曲がった。明らかに両手首の骨が折れている。自分で暴れた結果だろうか。両手を腹の上で組ませ、藍曦臣は紐が結ばれていた牀榻の格子を確認した。暴れて折れたというのならば、格子にもヒビが入っているはずだ。だが、こにも牀榻が傷ついた様子はない。
     本当に男は暴れたのだろうか。小さな疑惑が藍曦臣の頭に浮かぶ。郷長の息子の話を聞く限り、三日で死んだ男たちは暴れてなどいなかったようだ。男だけが暴れたのか。
     眉を顰めながら首に不自然に巻かれた包帯を外す。包帯の下にはくっきりと首が絞められた痕があった。そっと触れると首はがくりと手首と同じようにあらぬ方向に簡単に曲がった。手首同様に首も折れている。
     男は幻覚によって衰弱死したのではない。首を締められ、折られて死んだのだ。首を締められたのは昨夜だろうか。手首はもっと前に折られていたのかもしれない。では誰が男の首を折れるほど強く締めたのか。昨夜の江澄の言葉とともに梅麗の姿が思い出される。世話をしていたはずの彼女が殺したのか。
     藍曦臣の瞳が戸惑うように揺れる。
     姉の代わりにこの家を月に一度掃除をするようなよくできた娘が、人を殺すなど有り得るのだろうか。
    胸中に浮かぶ疑問を否定することができない。藍曦臣はまず人の善性をみてしまう。観音廟の出来事を経ても、その行動にはやむを得ない事情があるのだろうと考えてしまう。やむを得ない事情があったとしても、全てを許せるわけではないと身を以て知ったにもかかわらず、なお人の善性を信じてしまう。
     藍曦臣は乾坤袋から琴を取り出した。幸いにもここに桓春生の身体はある。霊識が失われていなければ、問霊で桓春生に問うことが出来るだろう。藍氏の問霊に対して嘘を吐くことはできない。男から見た、男にとっての事実を知ることが出来るはずだ。
     指で弦を抑え、爪弾く。室内に琴の音色が響いた。霊が反応する。名を問う音を弾けば、琴語で「桓春生」と返って来た。藍曦臣はそのまま問霊を続ける。
     何故山に入ったのか。返って来た答えは、昨夜梅麗が言っていた通り、琳麗が死んだ場所に赴き彼女に詫びを入れるためだ、という。だが、どこか返ってきた琴の音色は怯えが滲んでいるかのように不安定であった。
     更に問う。山中の花はなんであったのか。答えは「花などなかった」だった。藍曦臣はピタリと指を止める。昨夜聞いた話と異なる。花に誘われて桓春生はその場に足を踏み入れ、そしておかしくなったのではなかったのか。であれば、なぜ彼はおかしくなった。
     藍曦臣は気を取り直して、更に琴を爪弾いた。何を見ていたのか。返って来た琴の音は随分んと弾んでいる。曰く、一番幸せだった時の記憶だという。この村を出る前、琳麗と将来を誓い合い共に過ごしていた時の記憶だったと。なるほど。ならば四肢を繋がれながらも、彼の口元に笑みが浮かんでいたのも、琳麗の名前を呼んでいたことにも頷ける。他に死んだ村人もまた彼らにとって憂いのない頃の幸せな記憶を見ていたのだろう。
     誰が殺したのかそして何があったのか。藍曦臣は最後にこの問いを投げかける。すると琴の弦が小さく素早く震えだした。耳障りな音が室内に響きだす。まるで、桓春生が怯え、震えているようだ。落ち着かせるようにそっと震える弦を抑えた。次第に弦の震えは止まり、代わりに解読できる琴語が返って来た。「死んでいない」と。桓春生だったものは更に続けた。
    『言われた』
    『琳麗と幸せだった時を思い出せと』
    『痛い痛い痛い』
    『刺すな刺すな刺すな』
    『嫌だ嫌だ嫌だ』
    『悪かった』
    『許して許して許して」
    『花が咲く』
    『花』
    『花花』
    『花花花花』
    『花花花花花花花花』
    『花花花花花花花花花花花花花花花花』
    『花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花花』
     悲鳴のような甲高い高音をかき鳴らして、ピタリと音が止まった。そこにあったはずの桓春生の霊識が砕け散ってしまったらしくどこにもその気配を感じない。最後の質問が彼を錯乱させ傷つけてしまったのか。
     藍曦臣は吐息を零し琴をしまうと、最後の彼の言葉を思い出す。問霊に対して霊は嘘を吐けない。琴語の解釈を聞く側が誤らない限り、霊から見た事実が語られる。藍氏宗主を務める藍曦臣は幼い頃から琴語を習得し、問霊の際に解釈を誤ることなどなかった。
     男は明らかに首が折れ死んでいるにも関わらず、自分が死んだと思っていなかった。死んだことに気がついていなかった。ならば男は活屍となっていた可能性がある。活屍であれば狂屍と異なり暴れることはなく牀榻に縛っておくことができるだろう。
     何故活屍となったのか。それに男は花を見ていないという。花が原因で男はダメになったのではないのか。であれば花はいつ何故現れたのか。郷長の語った話と矛盾する。郷長が嘘を吐いているのか。それとも、郷長たちが聞いた話が嘘なのか。嘘を吐いているのだとしたら、桓春生と共にいた梅麗ということになる。
     昨夜は奥まで入れなかった部屋を見回す。怪しい痕跡は何もない。陣が敷かれている様子もなければ消した様子もない。それどころか、悪霊避けの符すらなかった。この家は、ただの箱のようなものだ。邪祟が生まれることもなければ、邪祟から守ることも出来ない。
     ここにいても何も得る物はないだろう。男の霊識は壊れ、身体が起き上がることもない。ただのモノだ。
     藍曦臣は家の外に出て、道で見かけた郷人に声をかける。桓春生の弔いを頼み、梅麗の家の場所を確認して向かった。
     家の前で声をかけても梅麗からの返事はない。まだ寝ているのか。夜は完全に明け、時刻は辰の刻に差し掛かった頃だ。控えめに戸を叩き、返事を待つがやはり返事がない。それどころか中で人が動く気配すらなかった。逡巡した後、戸に手をかける。閂はかけられておらず、扉は何の抵抗もなく開いた。仄かに暗い室内に入り見渡すが、そこに梅麗の姿はなかった。入って左奥に牀榻があるが、その上には何もない。奥が厨だろうか。未婚の女性の家に、家主の許可なく入ることは憚られたが、藍曦臣は奥へと入る。そこにも梅麗の姿はない。この家に誰もいないようだ。では、彼女はどこへ行ったのか。
     昨夜の彼女の言葉を思い出す。「お迎えする準備が整う」と言っていた。てっきりあの場では桓春生の家で出迎える準備をする意味だと思っていたが、そうではなかったのか。では、何を、誰を、どこで、出迎える準備だったのか。酷く、嫌な予感がする。
     慌てて梅麗の家をでた。山を仰げば既に藍氏の結界が張られているのが見える。藍曦臣は朔月を抜いて飛び乗り、急ぎ山へと向かった。



     江澄は江氏門弟と藍氏門弟たちと山に入り、問題の場所へと向かっていた。
     藍曦臣とともにやって来た藍氏門弟たちは前回の時も、また他の夜狩でも見たことのある者たちだった。彼らの実力は江澄もよく知っており、藍曦臣が一時不在であったとしても十分にその役割をこなすことが出来るはずだ。
     中腹に差し掛かったところで藍曦臣と示し合わせておいた通り、藍氏の門弟が結界の陣を敷く。雪藍色の光を放ちながら姑蘇藍氏の巻雲紋が山頂よりも遥か高い中空に浮かび上がる。山を雪藍色の膜が覆う。修士や仙師であれば陣を視認できるが、普通の人間には膜を見ることは出来ない。山に入ろうとすれば膜が強固な壁となり中に足を踏み入れることすら出来なくなる。
     只人は入れぬよう。けれども結界の外ヘは出られるように。しかし邪祟は出ることが決して出来ぬように。出入りの条件を付けた陣を敷くのは容易ではない。人も邪祟もどちらも入らせず出さないのであれば比較的簡単ではあるが、条件をつけた途端に難易度は上がる。それを易々と藍氏の門弟たちは成し得た。今日連れて来た江氏の門弟たちではこうも易々とは陣を敷くことは出来なかっただろう。流石藍氏と言うべきか。
     剣術の特徴が各家で異なるように得意とする陣もやはり各家で異なる。藍氏は攻守で言えば守りを得意としていた。時間がかかったとしても極力化度にて鎮めることを重視しているためか、長く持ち細やかな条件を付けた結界をよく使う。一方江氏は攻めを得意とする。化度を試しはするが、藍氏ほど化度に対して時間をかけない。無理だと思えばすぐに鎮圧や滅絶を行った。
     江氏の元々の夜狩の傾向でもあるが、一度滅ぼされまだ門弟の数が少なく、入門したばかりの者が多かった時にその傾向は更に強くなった。人も能力も足りない状態では化度や鎮圧のように時間がかかる方法は採りずらい。化度の最中に邪祟が暴れだし人手の足りぬ状態で抑えきれなければ命にかかわる。修士として未熟な者が多かった頃は、持続力のある細やかな結界を敷くことがそもそも難しかったのだ。夜狩に出られるが未熟な門弟の組んだ結界が崩れる前に速攻で邪祟を滅絶する。それが江氏の夜狩だった。今は門弟たちも育ち細やかな結界を敷くことが出来る者も増えたが、それでもやはり得意とするのは攻撃のための陣であったし、結界を完成させるのに藍氏の門弟よりも一炷香は余分にかかっただろう。
     藍氏による結界が完成したことを確認すると江澄を先頭に問題の場所へと足を踏み入れる。聞いた話では薄紅色の花が咲き狂っているとのことだったが、そこには一輪の花も咲いていなかった。
     中央に一本の大木がある。この場の主と言わんばかりに横に太い枝を広げていた。枝は地面から十尺ほどの高さで広がりその真下には丁度人が一人乗り上げることが出来るような大きさの岩があつらえたように存在している。岩に上って枝に縄を掛け足を踏み外せば首も括りやすかろう。まったく嫌な偶然だ。
     その大木の下に人影があった。遠目でもその人影が誰か分かり、江澄は足を止めると片手を伸ばして江氏門弟、藍氏門弟が先に進むのを止めた。
     人影は梅麗だ。
     矢張りと胸中で江澄は納得する。それと同時に梅麗がこの場にいるということは、桓春生はもう生きてはいないだろうと予想も出来た。昨日のうちに紫電で彼女を縛り付けてでも桓春生の様子を見るべきだったと舌打ちし、桓春生を訪ねると別行動をしている藍曦臣の無駄足を嗤った。
     この場に陰の気は感じられない。だが江澄の勘がうかつに足を進めることを拒んでいる。周囲に視線を配り、足元に広がるむき出しの土やところどころに生えている名も知らぬ雑草にも意識をやる。陰の気も妖気も感じられなかった。
     目の前の大木の枝で十人以上も首を括っていると言うのであれば、あの大木が精怪に変じていてもおかしくない。木は目に見える枝と葉、気根だけでなく、目に見えぬ地中に伸ばされた根で攻撃してくることがある。慎重に足を進めた。
     三十歩ほど近づいた所で再び足を止める。
    「梅麗殿。何故ここにおられる? 桓春生の面倒は良いのか?」
     女の赤い口元が小さく弧を描く。この場に相応しくないほど女は着飾っていた。この距離であれば女が化粧を施しているのが分かる。どこぞの宴にでも呼ばれたかのような衣装に化粧。そして髪には昨日も見かけた花の意匠が施された簪をつけている。
    「えぇ。もう良いんです。昨夜のうちに壊しました」
    「壊した、とは?」
     江澄の問いに、にぃと女の口元が大きく弧を描いた。沸いた嫌悪感に自然に眉根が寄る。
    「そのままの言葉の通りです。首を折りました。まぁ、もうすぐ養分の役目も終わる搾り滓同然でしたし。丁度良い頃合いでした」
    「復讐のつもりか?」
    「ふくしゅう?」
     女が不思議そうに首を横に傾げた後、けたけたと嗤いだした。
    「まさか。私はむしろ感謝しているんです。あの男が姉様との約束を破ってくれたから、姉様はあの男を待って、待って、待って。誰のところにも嫁がずに私だけの姉様でいてくれたので。あの男にはちょっと罰を与えただけです。この郷の人間に見つかったっていうことへの。そのおかげで姉様は花を咲かせてしまった」
     ぴたりと女の嗤い声が止まる。丁寧に女が拱手をした。
    「私、江宗主にもとても感謝しているんですよ」
    「ほう? あなたに感謝されるようなことをした覚えはないが?」
    「姉様を壊してくださった。あの忌ま忌ましい紫色の花を焼いてくださった。姉様が壊れた時点であの花はそのうち枯れたでしょうけれど」
     壊したとは滅絶したことを言っているのか。女の言葉から琳麗であったものと、この場に狂い咲いていた紫色の花との関連が浮かび上がる。鬼となった琳麗が花を呼んだのだろうと当時結論を付けたが、実際は琳麗から咲いたということになる。だが咲くとはどういうことか。
     何をしたのかは分からないが、男も同じ状態であるのならば、今ここに狂い咲いていると郷長から聞いていた薄紅色の花は男から咲いたことになる。男が昨夜のうちに壊された為に枯れてなくなったということか。
     女はまるで独り言のように言葉を続ける。
    「姉様ったら私がいるのにあんな男の為に花を咲かせてしまって。花が咲くことは秘密だからこの木で首を括ったことにしたけれど。私がいるのに。私がずっと一緒にいるのに。花を咲かせる必要なんてないのに。そして咲いたのがあの紫色の花。忌ま忌ましい。本当に忌ま忌ましい。だから、花魄にあげたのだけれど。そうしたらおかしくなってしまって」
     困っていたのです、と悪びれもなく女は嗤った。
    「あの男には、姉様と恋人同士だった一番甘い幸せだった時のことを思い出させながら花を咲かせたからとても綺麗な薄紅の花が咲きました。昨夜壊したので、もう枯れてしまいましたけれど」
     酷く楽しそうに女は嗤った。
     女の口から発せられる断片的な情報を組み合わせると、一年半前も今回も目の前の女が原因であること。あの大木には花魄がいること。何某かの術で「花」が咲くこと。「花」は色によって意味があることは分かった。だが、その花が何によって出来上がるのかが分からない。どちらにしても正道では有り得ない。邪道の類だ。
     女が邪道の類を使うのであれば、女を捕らえ詰問せねばなるまい。
    「あなたにはいくつか聞きたいことがある。大人しく縛についていただこうか。江氏と藍氏から逃げられると思わないことだ」
     江氏の門弟と藍氏の門弟がゆっくりと散り始める。じりじりと女を囲むように広がっていく。女は江氏の門弟と藍氏の門弟の動きを目線で追ったかと思うと、小さく首を傾げた。傾げたまま手で頭に刺さっていた簪を抜く。
    「逃げることなどいたしません」
     簪をじっと見つめながら、女が指先で簪に付けられた花の飾りを弾いた。
    「ですが。私もあの幸せな記憶にずっと浸っていたいのです。さぁ花魄。私の身体もあげるから。好きに使いなさいな」
     嗤ったかと思うと女は手にしていた簪をくるりと回転させる。そして何の躊躇もなく簪を己の胸に突き刺した。うめき声一つ上げず口元に笑みを湛えたまま女の手は何の戸惑いもなく簪を押し込む。じわりじわりと簪が押し込まれた場所から血が衣に染みて模様を作っていく。まるで胸に鮮やかな花が咲いていくようだった。がくりと女の膝が地に落ちた。
    「クソッ。自害だと?」
     江澄は女の元へと駆け寄る。
     死なせてなるものか。
     胸を抱えるようにして地に膝をつき背中を丸くした女の肩に手をかける。ぽたりぽたりと簪を伝って女の血が簪から落ちた花の飾りに紅く染め、土に沁みこんでいく。
     肩にかけた手に力をいれると抵抗なく女の身体が上を向いた。まだ生きていることに胸中安堵したが、すぐに江澄の眉間には大きな皺が寄った。女は恍惚とした笑みを浮かべ、掠れた声で姉の名前を呼んでいる。口元からは一筋の血が流れ女の顎を通って喉を汚していた。
     まだそこまで血は流れ落ちていないため一命を取り留めることは出来るだろう。簪を引き抜き血止めの符と傷薬を塗りこめば応急処置としては十分だ。その後藍曦臣と合流し姑蘇か雲夢のどちらかで女の回復を待てばよい。そう瞬時に考え、女の身体を支えたまま江澄は振り向き江氏の門弟たちに声をかけた。
     ふと甘い香りが漂って来る。
     土の香り。草の香り。そして女から鉄さびのような嗅ぎなれた血の匂い。その血の匂いを覆い隠すように甘っったるい花の香りがする。
    「宗主!」
     声をかけた門弟たちが目を見開く。江澄は手の中の女に視線を戻した。
    「……花?」
     紅い血を流していたはずの女の口から花が零れる。小さな花が薄く開かれた女の唇から吐き出されていく。胸を染めていた血も花に変わり甘い匂いをまき散らしながら女の身体から咲いては地面に落ちていく。土に沁みこんでいった血も花に変じているのか、地面からも花が湧き水のように溢れ出て来た。
     江澄は反射で女の身体から手を放し、跳ぶようにして女から距離をとる。江澄の五感すべてが女から離れることを望んだのだ。近づこうとする門弟たちを手で制し、じりじりと摺り足で後ろへと下がる。ふと踵に何かが絡まった。女に意識を向けたままそっと視線だけ下に向けるとところどころにしか見えていなかったはずの緑が気がつかぬ間に広がっていた。目にも見える速度で葉が、茎が、蔦が伸びていく。
     江澄は強かに舌打ちをし、門弟たちに剣を抜くように指示を出す。女が己の身を刺したあの簪は法器の類なのかもしれない。でなければただ胸を突き血を流しただけで人体から花が咲きだすことなどはありえない。
     江澄は三毒と迷い火を起こしやすい紫電に霊力を注ぎはじめる。主の霊力と意識に反応して紫電がその身を本来の姿へと変えた。
     女の身体を中心にまるで陣を描くかのように薄紅色をした花が広がっていく。風もないのに花が舞い狂い視界をも遮り、江澄の視界から女とそのそばにある大木を隠した。甘い香りをまき散らしひらりひらりと瑞々しい花弁が舞い散るさまは息をのむほど美しく思わず意識を奪われる。

     ふと目を開けると江澄は自室で三匹の仔犬を撫でていた。
     撫でろ撫でろと江澄の手にしっとりとした黒く小さな鼻を押し付けているのは小愛。ぴょんぴょんと跳ねて江澄の身体を支えに後ろ足だけで立っているのが茉莉。江澄の懐に入り込んで口元を舐めようと狙ってくるのが妃妃。二か月ほど前に父が江澄のために連れてきてくれた仔犬たちだ。ようやく三匹ともお座りと待てを覚えてくれた。
    「ほらお前たち。姉上の所に行くぞ」
     三匹に声をかけ自室の扉を押し開けて姉の元へと走る。江澄が走れば三匹の仔犬たちも一緒になって駆けてくれる。それが楽しくて可愛くて仕方がない。小愛は一番身体が小さいから他の二匹よりも遅れてしまう。時折立ち止まって小愛が追いつくのを待っていると、一番やんちゃな茉莉は止まることなく先に走ってしまう。妃妃は江澄に合わせて立ち止まり首を傾げながら江澄を見上げてくる。そしてまた茉莉を追うようにして走り出す。それを繰り返しているうちに母と姉、そして父の姿が見えた。父がいると江澄は少し緊張してしまう。けれど、姉だけでなく母や父にも自分の犬たちがお座りと待てを覚えて賢い犬なのだと今なら自慢できるのだ。もしかしたら良く躾けたと褒めてもらえるかもしれない。
     少しの緊張と大きな期待とともに江澄は姉に声をかけた。父も母も姉も「阿澄」と自分の名前を呼んでくれる。それが嬉しくて自然と口元が緩んだ。飼い主である江澄の感情を敏感に察したのか犬たちも嬉しそうに尻尾を振っている。
    「父上、母上、姉上。茉莉と小愛と妃妃がお座りを覚えました」
     宣言をし江澄はしゃがむ。犬たちに頼むぞ、と小声で言ってから右手を挙げて「お座り」と命じた。落ち着きなくウロウロとしていた三匹だったが、最初に妃妃が小さなお尻を振りながらぺたりとお座りをした。江澄が妃妃を撫でてやると茉莉と小愛も倣うようにその場を二回ほど回るとぺたりと座り込む。三匹とも上手にお座りが出来、江澄は誇らしげな気持ちで振り返った。
     姉は「すごいわ」と犬たちを褒めてくれた。母は「よく躾けたわね」と江澄を褒めてくれた。父はどうだろうか。そうっと父を窺うと父の腕が伸びてきて江澄を抱き上げてくれた。突然のことに江澄はピタリと固まってしまう。まさか抱き上げてくれると思わなかった。お祝いの日でもないのに。たくさんのお客様がいるわけでもないのに。
     嬉しい、嬉しいと多幸感に包まれる。
    「すごいな阿──」
     リン。
     リンリン。
     リンリンリンリン。
     リンリンリンリンリンリンリンリン。
     せっかく父が江澄のことを褒めてくれているのに、腰に付けた銀鈴がリンリンと騒がしく鳴りだす。父の声が銀鈴の音にかき消されてしまう。
     煩い。
     煩い煩い煩い。
    「黙れ!」

     自分の出した声で江澄は正気に返った。目の前では花弁が相変わらず狂ったように舞い視界を遮っている。
     今見ていたのは幻覚か。だが、父に抱き上げてもらったのも母と姉に褒められたことも江澄の記憶にある。魏無羨がやってくる前、まだ父を江家の息子として独り占め出来ていた頃の記憶だ。幸せな記憶。
     呆然としていると、薄紅の幕の向こうからまっすぐ江澄へと向かってくる気配がする。江澄は手にした紫電をふるいその気配を払った。紫電の先が何かを捕らえ、その何かが抵抗する感触が江澄の手に伝わってくる。
     ぐい、と力任せに引っ張るとぶちっと音が聞こえ抵抗する力がなくなる。そのまま引き寄せると紫電の先には剣のように鋭く尖った木の根が巻き付いていた。あのまま銀鈴が鳴らずに記憶に浸ったままであれば木の根に身体を貫かれていただろう。
     周囲を見渡すと門弟たちの姿が辛うじて見えるが皆一様に惚けている。江澄と同じように過去の記憶に囚われているのかもしれない。門弟たちを狙うように幾本もの木の根が伸びていることに気がつき、江澄は三毒を抜き飛ばした。三毒は江澄の命に従いまっすぐに江氏門弟と藍氏門弟を狙う木の根を切断していく。三毒が起こす風で江氏門弟たちの腰に付けられた銀鈴が音を立て門弟たちが正気に返っていく。
     三毒を鞘に収めながら自分に起こったことから江澄はあの花はこの場にいる者にその人間にとって幸せだった頃の思い出、記憶を見せるのだろうと推測する。修為の高い江澄でさえも見せられた。只の人であれば、その思い出に囚われ返ってこられなくなる。桓春生以外に死んだ郷の人間は桓春生から咲いた花に魅せられ囚われ死んでいったのだろう。琳麗の時も同じだったに違いない。
     であれば、と江澄は目を細め薄紅の幕の向こうを覗き見ようと試みる。幕の切れ目に女の身体が見えた。
     琳麗も凶屍となった。桓春生が大人しかったのは凶屍ではなく活屍だったのだろう。梅麗も同様に活屍か凶屍になってもおかしくない。女の言葉を思い出す。女は姉の身体を花魄に与えたと言った。そして琳麗は人を襲い、琳麗から咲いた花もまた人を捕らえた。三か月続く前に陳情が上がり江澄が仕留めたが、陳情が上がって来なければ確実に悪鬼となっていただろう。
     女は死に際になんと言った。花魄に己の身体を好きに使えとは言わなかったか。
     ばちりと紫電が爆ぜ、周りに漂っていた花弁が電光に触れては燃え上がる。
     悪鬼になるだろうものをむざむざと凶屍にするわけにはいかない。
     紫電を握る右手に力を込め女の身体めがけて江澄は腕を振り上げた。紫電は江澄の意志に従い周囲の花弁を燃やしながらまっすぐに女の身体へと伸びていく。女の身体を先に燃やせば女の言葉通りならば枯れていくだろう。だが枯れる前に燃やし、花魄を産み出したあの大木も燃やす。花魄そのものは決して力のある妖ではない。放っておけば干乾びて朽ちていく。元の木を燃やせば気の供給も止まり花魄の力は弱まり、仮に仕留められなくとも数日のうちに死に絶える。はずだった。
     紫電が女の身体にあと少しで届く。その直前に女の身体が、糸で持ち上げられた傀儡のように跳ね上がり、大きく後ろへと下がり紫電の届かない位置へと移動した。
    「遅かったか!」
     何の感触もなく戻って来た紫電に江澄は盛大に眉根を寄せる。
    「女は凶屍となった! 藍氏の!」
     江氏門弟に声を掛けた後、江澄は藍氏門弟へと声をかける。藍曦臣はまだ来ない。
    「花弁かこの香りかは知らんが花に囚われると身動きが取れなくなる。うちの銀鈴が有効だ。琴で清心玄曲を弾くことは可能か?」
     藍曦臣の代わりを務める藍氏の門弟が大きく頷いた。
    「誰か一人、藍氏の者を守れ。藍氏の琴の音を途切れさせるなよ。凶屍か精怪に狙われる可能性がある。他の者は大木と花を燃やせ! 凶屍の相手は俺がする。いいか! 藍氏の琴の音が聞こえる位置で動け! でないと花に囚われるぞ」
     「是」と声が上がる。続いて琴の音が聞こえてきた。江氏門弟たちが呪符を使いだす。花弁の幕に視界はさえぎられながらもところどころで緑色の炎があがっていく。
     江澄は紫電を握りしめ前方を見据えた。花弁の隙間からだらりと両手を下した女の姿が見える。足を踏み出し霊力を込め紫電を大きく払った。紫電がうねり弧を描きながら周囲に散る花、地に咲く花を焼いた。女への道筋ができ、江澄は地を蹴った。沓の下で咲いた薄紅の花を踏みつぶしながら一気に距離を詰める。手首を翻し紫電を女に向けたが易々と避けられた。胸中舌を打つ。動きが予想よりも早い。俯いていた女の顔が持ち上がった。花はもう口から吐き出されてはいなかったが、口元は良い夢でも見ているかのように弧を描き笑っている。血の気のない顔に虚ろな瞳。口元に浮かべられた笑みと微かに聞こえる笑い声は全てがちぐはぐだ。胸元にはいまだ簪が突き刺さっている。
     虚ろな瞳が江澄を捕らえた。徐に女の右腕があがり左胸に刺さった簪を掴み引き抜いた。胸から血がさらに溢れ出る。だが、既に凶屍となった女には痛みももうないのだろう。口元の笑みが歪むことはなかった。
     手の中の簪を眺めた後、女が突然江澄に向かって来た。簪の先を江澄に向けている。怨嗟の目を向けられるわけでもなく、笑みを浮かべたまま簪を小刀か何かのように持って向かってくる様は酷く不気味だった。
     女が間合いに入るのを冷静に見極める。跳躍力もあるため間合いの外からでも一気に詰めてくる可能性がある。こちらから仕掛けるよりは、向こうから来るのを待った方が良いという判断だ。けたけたと笑い声をあげながらまっすぐに向かって来た女が江澄の間合いに入る一歩手前で上へと跳んだ。自分に向かって落ちてくる女の身体を紫電で強かに払う。紫電の先が女の身体を打ち、女の身体は後方へと飛ばされ大木に打ち付けられる。打ち付けられた時に身体の骨が折れたのだろう。女の身体は不自然な方向へと周り、弧を描いたままの唇から少量の花が咲き零れた。
     骨が折れても狂屍となった女はあらぬ方向に身体を捻じ曲げ笑い声をあげながらまっすぐと江澄へと向かってくる。既に身体は人間ではなくなっているのに、霊識だけは人であった頃の最も幸福だった記憶に浸って笑っているのは酷く哀れだった。
     江澄は紫電を戻し、三毒を引き抜いた。三毒の間合いに入った左胸を狙い踏み込む。そのまま女の心臓を三毒は貫くはずだったが、女の身体が直前で大きく揺れ狙いがそれた。すぐに江澄は手首を回転させ斜め上へと三毒を薙ぎ払う。三毒の先が女の脇に潜り込み女の左腕を切断した。身体から切り離された左腕は後方へと飛んでいく。それでも女の身体は倒れることはなかった。切り口から身体に残った血が流れ出ていく。その血は身体から離れた途端血から花弁へと変じていった。血の量に比例して花弁の量も多く、花の甘ったるい香りが強まる。まずいと思った時には既に、江澄は紫電で燃やしたはずの花弁の渦に再び飲み込まれていた。聞こえていたはずの藍氏の琴の音が遠くなっていく。
     銀鈴を──。

    「あ、晩吟師兄、無羨師兄! 見てください!」
     弓を手にした六師弟が江澄と魏無羨に向かって大きく手を振っていた。
    「今日は俺が一番高い凧を射止めたんですよ!」
    「まぐれだろ」
    「まぐれでもなんでも射止めたことにはかわりないだろ!」
    「お、どれどれ?」
     他の師弟と言い合いをする六師弟が手に持っていた凧を魏無羨と江澄は覗き込んだ。凧の中心ではなく右下すれすれではあったが、確かに矢が突き刺さっていた。
     六師弟はあまり射が得意ではない。どちらかと言えば数や書の方が得意だ。だからいつも他の師弟に負けて凧を拾う役をしていた。
    「ちょーっと、っていうかだいぶ中心からずれてるな」
    「あぁ。だが、低い凧の中心を射るよりも、高い凧に当てる方が難しいからな。高い位置まで矢を飛ばせるほど腕力が付いてきたってことだろう。やるじゃないか」
     江澄が褒めると六師弟は鼻の下を掻いた。
    「へへ。晩吟師兄、ありがとうございます」
    「お、珍しいな。江澄が素直に褒めるなんて。いっつも自分が届かない凧狙って外してるから六師弟の気持ちが分かるのか?」
     魏無羨の軽口に江澄は魏無羨の足を蹴った。
    「煩い。黙れ」
     大げさに痛がってしゃがみこむ魏無羨を無視して江澄は六師弟に向き直る。
    「射は確かに苦手だが他の奴よりも六師弟は数が得意だからな。俺はある程度まで出来るようになったら得意なものを伸ばしていった方がいいと思っている」
    「はい! 晩吟師兄が宗主になったら数や書で役に立ちます! 剣や射は無羨師兄に譲りますよ」
    「じゃあ、俺は楽で!」
    「お前なんにも弾けないだろ! あ、俺は右筆やりますよ」
    「お前こそ字へたくそだろ」
     ワイワイと師弟たちが俺は、俺はと口にしだす。本当に得意な物を言っていたり適当に言っているものもある。ただここにいる師弟たちがいつか江澄が父から江氏宗主を譲り受けた後、雲夢江氏の中心になっていく世代の者たちだった。
    「あー待て待て。お前ら。俺を忘れていないか?」
     しゃがんでいた魏無羨がすくりと立ち上がり自分を指さした。
    「無羨師兄は何やります? あと残ってるの厨番ぐらいしかないですよ?」
    「ぬかせ。俺は江澄と雲夢双傑として、なんかこう、名を轟かせるっていう大事な役目があるんだよ」
     ぐい、と魏無羨に肩を組まれ、江澄は腕を組んだ。
    「えー。それじゃ無羨師兄は主管ですか?」
    「お、それがいいな」
    「たわけ。お前が主管の役目を大人しく出来るわけがないだろう。夜狩の時に留守番できるのか?」
     肩に乗せられた魏無羨の腕を払う。主管は江氏門弟全般の管理や宗主不在の時、かわりに家を預かる立場だ。つまりほとんど夜狩に出ることがない。外へと出たがる魏無羨が江澄が夜狩に出ている時、大人しく蓮花塢に留まっているとは思えない。
    「うーん。無理」
    「じゃあ、やっぱり無羨師兄は厨番だ」
     六師弟の言葉に江澄も師弟たちも一斉に笑いだす。
    「みんな、甘藷を焼いたのよ。そろそろ休憩にして食べない?」
    「師姉!」
     優しい笑みを浮かべながら姉が近づいてきた。師弟たちが一斉に駆けだす。
    「あ、一番でかいのは俺がもらうからな!」
     魏無羨が師弟たちの背中に声を掛け、先に行く、と江澄と姉を置いて駆けだした。
    「ふふ。阿羨たら。阿澄は急がなくていいの?」
    「俺は別に大きさはなんでもいいよ」
    「阿澄は優しいのね。でも、我慢しなくていいのよ?」
    「我慢なんて……」
     していない。そう続けようとした。
    「江澄!」
     誰かに呼ばれた。大人の男の声だ。だが、父は自分のことを阿澄と呼ぶ。自分のことを江澄と呼ぶ大人の男はいない。
     突然何かに押されるように身体がぐらついた。
     リンと銀鈴が鳴る。
     
     目の前に白い帯状のものが現れる。何度も見たことのあるその白い帯に思わず手を伸ばし、触れる間際にそれが藍氏の抹額であることに気がつく。なぜこんなところに藍氏の抹額が、と疑問が頭に浮かび、視線を巡らせ自分と女の間に藍曦臣の身体があることに気が付いた。
    「藍、宗主?」
     藍曦臣の左胸に簪が深々と刺さっているが見え、江澄はひゅっと喉を鳴らした。
     なぜ。どうして。という言葉が頭をよぎる。
    「あぁ、良かった。目が覚めた」
     女の身体には深々と朔月が刺さり、身体の向こう側に朔月の剣先が見えている。笑みを浮かべていた女の顔から笑みが消え、女の身体は動かなくなっていた。
     よろける藍曦臣の身体を抱えながら江澄はその場に座り込む。腕の中にある藍曦臣の身体を見ると、簪は心臓よりも少しずれたところに刺さっていた。藍氏の真っ白な校服に血が滲みだし薄紅色の花弁が一枚零れだす。江澄は慌てて簪を引き抜き、己の霊力を藍曦臣に流し込み藍曦臣の血を止めた。花に囚われた自分を藍曦臣が庇ったのだとようやく思い浮かんだ。
     視線を女に移すと、女はピクリとも動かなくなっていた。舞い散っていた花弁も止まり、地面は花弁で覆い隠され、土も見えなかった。
    「藍宗主。藍曦臣。何をやっているんだ! 俺を庇ってどうする!」
    「大丈夫ですよ。大した傷では、ありませんから……。そんな顔をしないでください」
     ゆるゆると藍曦臣の手が上がり江澄の頬を慰めるように撫でていく。その手を江澄は震える手で握った。
    「あの簪はおそらく何某かの法器だ。あなたの血も花弁になった。すぐに、すぐに雲深不知処に連れて帰るから」
    「そんなに心配しないで、だい、じょうぶ」
     藍曦臣が目を閉じる。慌てて手首を取り霊脈を確認した。とくりとくりと脈に合わせて霊脈の暖かな流れが感じられる。江澄はひとまず安堵の吐息を零した。藍曦臣を抱えたまま紫電を鞭へと変じさせた。藍曦臣に視線を向けつつ紫電を繰り、動かなくなった女の身体をまずは捕らえた。紫電を女の身体を巻き付けたまま更に霊力を込め大木へと再び叩きつける。バチバチと紫電から放たれる閃光によって大木から火の手が上がった。その火を補助するように江氏門弟の符が一斉に大木へと放たれる。耳ざわりな高い鳥の声が山中に響き渡った。



     意識の戻らない藍曦臣を抱え、江澄は簪と藍曦臣の血から生じた花弁一枚。そして土に生えている花を一つ乾坤袋に入れると、後片付けは残った江氏と藍氏の門弟に任せ、藍氏門弟の一人とともに雲深不知処へと向かう。
     門弟たちには徹底的にあの山に邪祟の気があれば大小にかかわらず全て潰せと命じた。また、郷に戻ったら女の家にある物を全て持ち帰るように命じた。雲深不知処には先に伝令符にて状況は伝えてある。
     腕の中にいる藍曦臣はまるで眠っているかのようだった。心臓を外れた簪の傷は浅い。血止めもしているため、血が足りぬこともないだろう。凶屍化や活屍化の兆しはない。簪の効力によって呪がかけられているとしても藍曦臣ほどの修為を積んだ者と、只の人間である梅麗たちとでは影響も異なるが傷は浅いのに意識がないこと自体がおかしい。
     雲深不知処に到着すると藍曦臣を藍氏の門弟に引き渡し、藍啓仁と藍忘機に簪と藍曦臣の身体から生じた花弁と地に生えていた花を差し出しことの経緯を詳細に伝えた。合わせて己を庇ったことで藍曦臣が怪我をしたことを詫びた。
     医師の見立てによると胸に受けた傷は大したことはなく身体上に問題はないという。となれば、問題は矢張り簪が何かであることが重要になってくる。
    「私はどこかでこの簪を見たことがあります」
    「どこか、とは?」
     簪を手にしながら藍啓仁が問う。一通り眺めてから隣に座る藍忘機へ、その後魏無羨へと手渡された。
    「少なくとも俺の発明品ではないな。こんなもの覚えがない」
     魏無羨が簪の飾りを指先で弾いた。しゃらと鎖が小さく鳴くだけで何の変わりもなかった。
    「一年半前にその、梅麗の頭に刺さっていたのを見たんじゃないのか?」
    「いいや。その前だ。実物というよりも、絵に描かれたようなものだったと思う」
    「……藍家の蔵書閣で見た覚えはない」
     江澄は頷いた。何度か蔵書閣を利用させてもらった覚えはあるが、藍忘機が言うように江澄も蔵書閣で見た覚えはない。
    「これが法器だとすると目録であろうな。大体どの家も所有する法器には目録を作っている。だが、他家の目録などは見ることは出来ん。江家のものでは?」
     顎髭を撫でながら藍啓仁が口にした言葉に江澄は首を横に振った。
     江家の法器は二千四百以上あり、そのすべてを把握出来ているわけでは無いが紛失した、盗まれた覚えはない。あったとしたら蓮花塢が温氏に焼かれた時だ。だが結局法器は一部を除いて蓮花塢から持ち出されることはなかった。
     温氏は蓮花塢を制圧した後に自分たちが攻められるとも、奪ったものを奪い返されるとも思っていなかったため、分類はしたものの数が多くほとんどは蓮花塢の宝物庫に格納したままだったのだ。その持ち出された一部も、射日の征戦後参加した各家に自家の物は目録を元に返された。江氏のように元より目録がある家は三尊とその家と利害関係、敵対関係のない家の宗主の立ち会いの元に返され、家に目録がない場合は温氏の目録を元に戻された。管理のためかはたまた権力誇示の為か、温氏は奪った法器で目録がなければ、いつ、誰の功績で、どこの家から、どのような効力かを記した目録をご丁寧にも作っていた。
    「……温氏の目録?」
     記憶の先端を捕らえると、壺に入った紐をするすると引っ張るように忘れていたことが後から後から思い出される。
     あの時、射日の征戦後江澄は蓮花塢から持ち出された江氏の法器を立ち会いの下取り戻した。そしてどの家のものでもない法器については蘭陵金氏、姑蘇藍氏、清河聶氏で分配された。
     当然目録を元に分配されるが、目録は存在するが法器そのものが行方不明のものが十数個あった。江氏の宝物庫に行方不明の物が混ざっていないか。それを確認する為に江澄はその行方不明となっている法器だけを集めた目録を見たのだ。その中にあの簪があった。
    「あぁ。そうだ。温氏の行方不明となった法器を集めた目録の中にあの簪があったんだ」
    「行方不明の目録? 確かその様なものがあったな」
    「はい。その目録の中だったと思います。内容までは詳しく覚えていませんが……」
     郷長はあの姉妹の両親は流れ者だと言っていた。もしかしたら元々は温氏の客卿だった可能性がある。射日の征戦での混乱の最中、温氏を抜ける客卿は多かった。
    「なるほどな。で? その目録は今どこにあるんだ?」
    「おそらく金麟台にまだあるはずだ。あの時法器の配分は主に金光瑶が取り仕切っていたからな」
     途端に魏無羨が口の端を歪めた。
    「叔父上。急ぎ金氏に遣いをやり目録を借り受けましょう」
    「うむ。そうだな」
    「では、私が行きましょう」
     江澄の申し出に藍啓仁が首を横に振った。
    「いや、江宗主。そなたも夜狩の後で疲れているはずだ。行って帰って来るのであればうちの若い者でも出来る」
     ですがと言いかけて江澄は口を閉じた。一つ息を吐くと大きく頷く。
    「……分かりました。では、金宗主に一筆認めます。その目録の存在を知らないでしょうから。目録のことを知っているだろう金氏の者を私が知っています」
     その目録が活用された時、金凌はまだ生まれてもいない。金光善が生きていた頃から金氏におり、江澄も信頼を置いている金凌に仕えている者がいる。おそらくその者であれば目録のありかが分かるだろう。
     江澄は筆と紙を借り、金凌に向けて手紙を書き遣いを担うこととなった藍思追に渡した。
     その日、結局江澄は雲深不知処に留まることにした。蓮花塢に戻っても夜半になる。また、もしも目録が見つからなかった場合には江澄が金麟台へと赴くことになるが、蓮花塢よりも雲深不知処からの方が金麟台へは近い。そして何よりも、まだ目が覚めない藍曦臣のことが気がかりだった為だ。せめて目が覚めるまで、もしくは簪の正体が分かるまでは藍曦臣の傍にいたかった。
     二、三日であれば蓮花塢を開けても支障はない。夜狩に向かう前に多めに仕事は片付けている。伝令符にて状況を伝えたところ、主管からはいっそ休暇として十日ほど滞在しても問題ない、という返答があった。流石にそこまでは滞在する気はない。
     客房にて一夜を明かし、雲深不知処特有の薄味な朝餉を取る。何度も口にしたことのある雲深不知処の食事だが何故だか味がまったくしなかった。
     午の刻を過ぎた頃、藍思追からの伝令符にて目録が見つかったとの連絡があった。雲深不知処に戻るのは申の刻ほどであろう。まずは目録が見つかったことに安堵し、江澄は藍啓仁と藍忘機の許可を取り藍曦臣が眠る寒室へと向かった。
     友となってから一年半ほど経過しているために藍啓仁も藍忘機も江澄が寒室へと向かうことに違和感を抱いていないようであった。
     通いなれた寒室へと立ち入る。常ならば迎え入れてくれるこの部屋の主は奥の牀榻に静かに横たわっていた。行儀よく手を胸の上で組み、束冠は外されているが額には抹額が巻かれたままだった。鼻の下に指を当て呼吸を確かめる。規則正しい暖かな息が江澄の指に当たり、安堵の吐息が零れた。少しだけ江澄の心に余裕が生まれる。
    「あなたが俺を庇ってどうするんだ」
     話しかけるが当然返事はない。戸惑うように指先を伸ばし、頬にかかる髪を避けてやる。初めて触れた藍曦臣の頬は少し温かで滑らかだった。
    「俺はあなたを庇ったあの後に胸倉を掴んであなたを罵ったんだぞ? あなたも起きて俺の胸倉を掴んで罵らんと割に合わんだろう?」
     一年半前のことを口にした。思えばあれが切っ掛けだった。あの夜狩であの夜のやり取りがなければ藍曦臣が自分に興味を持つことなどなかっただろうと江澄は思っている。切っ掛けとなった夜狩では藍曦臣を江澄が庇い江澄が邪祟を仕留めた。そして今度は藍曦臣が江澄を庇い藍曦臣が邪祟を仕留めた。まるで対のようではないか。それなのにどうして藍曦臣は起きないのか。対ならば怪我するのは自分のはずではないのだろうか。
     藍曦臣との関係が以前のままであったら、こんなにも心が乱されることなどなかっただろうと江澄は自嘲する。同じ四大世家の宗主ではあるが藍曦臣と自分は混じることのない平行に走る川のようなものだと思っていた。藍曦臣の弟藍忘機と、江澄の元師兄の魏無羨とが道侶であるという関わりはあるがそんなもの細く浅い、いつ消えてなくなるかも分からないような支流が辛うじて繋がっただけでしかない。その支流を藍曦臣が無理やり広く深くした。おかげで江澄の藍曦臣に対する感情は認めたくないが変わってしまった。
     寒室内を見渡し、いたるところに江澄が交換した品、贈った品が飾られていることを確認する。たったそれだけのことで心が浮足立ち、満たされていく事実を認めるしかあるまい。そして、いつ自分たちは夜狩で命を落とすか分からない身なのだ。自分が傷つくことに怯えて差し出された手を取らないのはもったいないことに気が付いてしまった。
     江澄は身体をかがめ、そっと藍曦臣の耳元に唇を寄せた。
    「澤蕪君。藍曦臣。……藍渙。あなたが望んだ呼び方で呼んでやる。少し早いがあなたの申し出にも答えよう」
     身体を起こし藍曦臣の様子を観察するが起きる様子はない。江澄は深く溜め息を吐いた。
     これ以上、ここにいてもなににもならない。そろそろ藍思追が目録とともに戻ってくる頃だ。雅室で待っているほうが良いかもしれないと背を牀榻に向けた時、小さなうめき声が聞こえた。江澄は慌てて再び牀榻に向き直る。
     ピクリと胸の前で組んだ藍曦臣の指先が動く。汚れることを知らぬ澄んだ瞳を彩る長いまつ毛が小さく揺れた。一拍を置いてゆっくりと瞼に隠されていた二つの琥珀が現れた。江澄は息をのんだ。 
    「……ここ、は?」
    「目が覚めたか? 藍渙」
    「……江、宗主?」
    「あぁ、そうだ。あなたは夜狩の時に俺を庇ってから一日近く眠ったままだったんだ」
     あぁ、良かったと思わず江澄は藍曦臣の手を取る。だがそれはすぐにそっと離されてしまった。
    「江宗主を、庇って?」
     額を支えながら起き上がろうとするのを背中を支えて補助する。
    「どうした? どこか痛むのか? 藍渙」
     藍曦臣が困惑の表情を隠しもせずに江澄を見てくる。その瞳にどこか他人行儀な色を見つけて、江澄は嫌な予感がした。
    「いえ、あの。江宗主。大丈夫です。ですがその、何故先ほどから私の名を? 名で呼ばれるような仲ではなかったかと」
     己の血の気が下がる音と言うものを江澄は久々に聞いた気がする。指先が急に冷たくなる。
     梅麗は恒春生は幸せだった頃の記憶をずっと繰り返してみながら花の養分になったと言った。梅麗もまた狂屍になりながらも薄紅色の花を咲かせ幸せだったころの記憶を見続けていたのだろう。簪に刺された人間は花の養分となって幸せだった頃の記憶を見続けるのだとしたら? 簪で刺された藍曦臣の身体からも薄紅色の花弁が一枚零れた。藍曦臣もまた花の養分にならずに済んだが、幸せだった頃の記憶に囚われる可能性はあるのではないか。
     では、藍曦臣が幸せだった頃とはいつのことなのか。口内が急速に乾いていく。舌が上顎にくっつき上手く声が出せない。
    「……あぁ。失礼、した。……澤蕪君」
    「いえ、分かっていただければ」
    「江澄! 分かったぞあの簪のこと! って澤蕪君目が覚めたんですか?」
     結構ですと続けただろう藍曦臣の言葉を遮るような大声を出しながら、魏無羨が寒室に飛び込んで来た。身体を起こしている藍曦臣を見て瞬きをしている。藍曦臣は訝し気に眉を顰め、彼にしては珍しい不快気な表情を浮かべた。 
    「……君は?」
    「え?」
     誰何の声に魏無羨が固まる。
    「どなたか知らないが、何故寒室に君と江宗主はいるのだろう? 私は入室を許可した覚えがない。申し訳ないが出て行って貰って良いだろうか。私は不浄世で赤鋒尊と斂芳尊と約束をしているんだ」
     赤鋒尊と斂芳尊。その二人の名前で藍曦臣の幸せだった頃の記憶がいつのことなのか江澄は分かってしまった。
     莫玄羽の身体をした魏無羨のことを知らず、赤鋒尊と斂芳尊が生きている頃。つまり、江澄とはただの知人、宗主同士の関わりしかなかった頃だ。
     江澄は俯いて唇の端を歪めた。
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    sgm

    DONE去年の交流会でP4P予定してるよーなんて言ってて全然終わってなかったなれそめ曦澄。
    Pixivにも上げてる前半部分です。
    後半は此方:https://poipiku.com/1863633/6085288.html
    読みにくければシブでもどうぞ。
    https://www.pixiv.net/novel/series/7892519
    追憶相相 前編

    「何をぼんやりしていたんだ!」
     じくじくと痛む左腕を抑えながら藍曦臣はまるで他人事かのように自分の胸倉を掴む男の顔を見つめた。
     眉間に深く皺を刻み、元来杏仁型をしているはずの瞳が鋭く尖り藍曦臣をきつく睨みつけてくる。毛を逆立てて怒る様がまるで猫のようだと思ってしまった。
     怒気を隠しもせずあからさまに自分を睨みつけてくる人間は今までにいただろうかと頭の片隅で考える。あの日、あの時、あの場所で、自らの手で命を奪った金光瑶でさえこんなにも怒りをぶつけてくることはなかった。
     胸倉を掴んでいる右手の人差し指にはめられた紫色の指輪が持ち主の怒気に呼応するかのようにパチパチと小さな閃光を走らせる。美しい光に思わず目を奪われていると、舌打ちの音とともに胸倉を乱暴に解放された。勢いに従い二歩ほど下がり、よろよろとそのまま後ろにあった牀榻に腰掛ける。今にも崩れそうな古びた牀榻はギシリと大きな悲鳴を上げた。
    66994

    sgm

    DONE江澄誕としてTwitterに上げていた江澄誕生日おめでとう話
    江澄誕 2021 藍曦臣が蓮花塢の岬に降り立つと蓮花塢周辺は祭りかのように賑わっていた。
     常日頃から活気に溢れ賑やかな場所ではあるのだが、至るところに店が出され山査子飴に飴細工。湯気を出す饅頭に甘豆羹。藍曦臣が食べたことのない物を売っている店もある。一体何の祝い事なのだろうか。今日訪ねると連絡を入れた時、江澄からは特に何も言われていない。忙しくないと良いのだけれどと思いながら周囲の景色を楽しみつつゆっくりと蓮花塢へと歩みを進めた。
     商人の一団が江氏への売り込みのためにか荷台に荷を積んだ馬車を曳いて大門を通っていくのが目に見えた。商人以外にも住民たちだろうか。何やら荷物を手に抱えて大門を通っていく。さらに藍曦臣の横を両手に花や果物を抱えた子どもたちと野菜が入った籠を口に銜えた犬が通りすぎて、やはり大門へと吸い込まれていった。きゃっきゃと随分楽しげな様子だ。駆けていく子どもたちの背を見送りながら彼らに続いてゆっくりと藍曦臣も大門を通った。大門の先、修練場には長蛇の列が出来ていた。先ほどの子どもたちもその列の最後尾に並んでいる。皆が皆、手に何かを抱えていた。列の先には江澄の姿が見える。江澄に手にしていたものを渡し一言二言会話をしてその場を立ち去るようだった。江澄は受け取った物を後ろに控えた門弟に渡し、門弟の隣に立っている主管は何やら帳簿を付けていた。
    5198

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     江澄は藍曦臣の衣の背を握りしめた。
     差し込まれた舌に、自分の舌をからませる。
     いつも翻弄されてばかりだが、今日はそれでは足りない。自然に体が動いていた。
     藍曦臣の腕に力がこもる。
     口を吸いあいながら、江澄は押されるままに後退った。
     とん、と背中に壁が触れた。そういえばここは戸口であった。
    「んんっ」
     気を削ぐな、とでも言うように舌を吸われた。
     全身で壁に押し付けられて動けない。
    「ら、藍渙」
    「江澄、あなたに触れたい」
     藍曦臣は返事を待たずに江澄の耳に唇をつけた。耳殻の溝にそって舌が這う。
     江澄が身をすくませても、衣を引っ張っても、彼はやめようとはしない。
     そのうちに舌は首筋を下りて、鎖骨に至る。
     江澄は「待ってくれ」の一言が言えずに歯を食いしばった。
     止めれば止まってくれるだろう。しかし、二度目だ。落胆させるに決まっている。しかし、止めなければ胸を開かれる。そうしたら傷が明らかになる。
     選べなかった。どちらにしても悪い結果にしかならない。
     ところが、藍曦臣は喉元に顔をうめたまま、そこで止まった。
    1437

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     藍曦臣は眠っただろうか。
     江澄はそろりと帳子を引いた。
    「藍渙」
     小声で呼ぶが返事はない。この分なら大丈夫そうだ。
     牀榻を抜け出して、衝立を越え、藍曦臣の休んでいる牀榻の前に立つ。さすがに帳子を開けることはできずに、その場に座り込む。
     行儀は悪いが誰かが見ているわけではない。
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     明日別れれば、清談会が終わるまで会うことは叶わないだろう。藍宗主は多忙を極めるだろうし、そこまでとはいかずとも江宗主としての自分も、常よりは忙しくなる。
     江澄は己の肩を両手で抱きしめた。
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     藍渙、と声を出さずに呼ぶ。抱きしめられた感触を思い出す。 3050

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    「おかげさまで、俺は無事だったが。しかし、あなたがそ 1337