届く微かな光の粒も「お化け屋敷も絶叫マシンも高いところも怖くてアンタ夢の国に何しに来たんですか?」
「おそろいの……耳つけて歩きたくて…………」
だったらなんで陸地じゃなくて海にしたんだ。ショー以外のアトラクションはだいたい船か列車か絶叫マシンだ。地球の中心部を爆走するコースターから降りた後、先生はよろよろふらふらという形容詞がどうにも似合う様相で歩いている。そこそこ硬い素材でできているはずの耳が、ぴにょんと力なく丸まったように見えるのは多分気のせいだ。どうしてこれのファストパスを取った時点で止めなかったんだ。浮かれていたのか。
「デートっぽいこと、したくて……」
出かけたため息が、その言葉に霧消する。我ながらちょろい。
それと同時に、あまり性質の良くない誘惑が首をもたげる。あとあの子と握手してー、あの前で写真撮ってー、パレード見てー……など、かわいいマスコットとか着ぐるみ好きの先生らしく列挙される平和なやりたいことリストと、己の企みの温度差がえぐい。
「先生、どうしても乗りたいものがあるんですが」
見上げた先には恐怖の塔。ちょうどてっぺんの窓がぱかりと開いて、数瞬の後、悲鳴。視線の後追いをした先生が逃げの体勢に入るが、首根っこを掴んだ。
「お化け屋敷と絶叫マシンと高いところフュージョンさせんなよ! 鬼か!」
いい歳して半分涙目で騒がしく抗議するその姿を、愛しく思うようになったのはいつ頃だっただろうか。
怖い場面に遭遇するたびに、どんなにどついても振り払ってもひっついてくることに、なぜか満たされるようになったのは、きっと、少しは頼りにしてもらえているのだと思えるようになった時だ。一旦スイッチが入ってしまうと、恐怖心もなにもかも消えてしまう人だと知っているから、どこまで本気なのかわかりかねる部分はあるけれど。
「怯える恋人の手を握って怖いものに乗る、みたいなデートっぽいこと、僕もしたいです」
そう返せば、わあわあと騒いでいたのがぴたりと止まって大人しくなった。オフの先生は、ちょろい。
恋人っぽいことをしてみたい。とはいえ、恋人っぽいことってなんだろう。
長い長い拗らせた片想いがやっと実ってはや数ヶ月。いつも通りずっと一緒にいて、一緒にご飯を食べて、時々神社で布団を並べてお泊まりして、いつも通りだった。変わったことといえば、ごくたまにキスをすること、あとは僕が先生の恋人であり、先生は僕の恋人だという認識だけだった。とてつもない変化だ。今日も先生がセンスが崩壊した変な服を選ぶのに付き合い、隣を歩いていても他人のふりをしたくならないギリギリのラインで手を打たせ、ペアルックの誘いを断った。次は書店に行くのに付き合ってもらい、会計を済ませると、図鑑コーナーに置いてきたはずの先生らしき金色の頭が、入り口の雑誌コーナーの棚の向こう側に見える。
「何見てるんですか?」
隣に並んで覗き込めばそれは東京近郊の歩き方的な雑誌の最新号だった。最新のトレンドだというまだ近所では見かけたことのない謎のカラフルなドリンクや、果たして現物を前にして食欲をそそられるかどうかわからない形状の、難しい名前のスイーツ、そして有名リゾートやテーマパークの写真。目玉は新しいアトラクションだそうで。
「なあクロ、旅行行かねー?」
何気ない風に雑誌からあげられた先生の顔を見て、心臓が跳ねた。
見慣れたはずの楽しげな表情。なのに金色の目に浮かんでいたのは、ほんの少しの迷いと躊躇い。かなりの歳の差があるとは言っても、いくらいつもと変わらない行動をしていても、その違いがわからないほど、子どもではない。
いまの先生は、恋人の顔をしている。
「行きます」
即答すれば、ほっとしたように目元が和らぐ。じゃあどこ行くかこれ見て決めっか、と雑誌を掴んでレジに向かう後ろ姿を抱きしめたくなるのを必死にとどめた。
新幹線と電車を乗り継ぎ到着する。すぐにでも闇雲に動こうとする先生を入ってすぐのスーベニアショップに一旦残し、地球の中心を爆走するコースターのファストパスを取ってきた。
なるはやで戻れば先生は既にカゴに例の耳やら大きな手袋やらを2人分放り込んでいて、ため息が出かけた。やっぱりアレをつけるのか。今はあの有名なキャラクターがセンターにでかでかと描かれたシャツを見て、どれにしようか思案しているところで、なんとなく猫のキャラクターはいないかと探してみたけれど、あまりに可愛すぎてこれはちょっと、キツい。
「おっ、クロ、おかえりー。なぁ、お前はこれどっちがいい?」
「こっちがいいです」
「三択ですよねみたいな顔して拒否すんなよ!」
自分の着ているシャツを指差せば、発言意図を正確に汲み取った先生がむっとした顔をする。
「せっかく夢の国に来たんだぞ。これ着なくてどーすんだよ! こんなにかわいいのに」
「先生いつもこんなの着てません?」
「見間違いじゃね? 夢の国のシャツは持ってねえよ。誰かと来たの初めてだし、おみやげにもらったこともねーし」
こっちが中学生の頃はやれ学校楽しいかだの友達できたかだのうるさかったわりに、過労気味でほとんど人付き合いがないのはむしろ先生のような気がする。仕事上のつながりは大事にしていても。
「ばーちゃんの修学旅行のおみやげでクランチチョコはもらったけどな。琴がロケのおみやげっつってくれたのはオルゴールだったし」
選曲に好意がダダ漏れだったのは覚えている。
「なークローせっかく夢の国に来たんだし満喫しよーぜー? 絶対クロも似合うからー」
「似合わなくていいです」
ぐいぐい来る先生をぐいぐい押し返す。お揃いのシャツに、ここ以外で使うことはまずないであろう例の耳。持って帰っても置き場所に困るし、捨てるのも少し気が引けるし、部屋に置いておいてうっかり家族に見つかるのは最早今更だけどすごくめんどくさい。でも、つまりは。
(ここでなら、先生と変な服お揃いで着ても、目立たないし、恥ずかしくもないのか)
そんな、浮かれた思考が頭を走った。色違いの方がいいか。顔立ちも瞳の色も髪の毛も華やかな先生と、いかにも塩顔の自分とでは、似合う色が違うから。せっかくなら、一番似合う色を着て欲しい。
「わかりました。僕はこっちがいいです。先生はこれが似合うかと」
全体的にひとつひとつのパーツのつくりが大きめの顔に、ぱっと広がるやんちゃな印象の笑顔。
「でもその手袋はやめましょう」
「えー」
「手が繋げません」
せっかくなので浮かれポンチついでにそう言えば、先生の動きが停止した。この口から自分に対して甘い言葉が出てくるのには、まだ慣れていないのかもしれない。こっちだって慣れていない。
なにせ地元では、恋人の顔ができる場所が少なすぎるのだ。神社の中ではどうしたって弟子と師匠の関係だし、元々神域であり、仕事場であるところではそうありたいのは共通認識だ。もうちょっと頼りにしてほしい、寄りかかって欲しい、程度の関係の変化は望んでいるけれど。さほど大きくない街では歩いていればそれなりの頻度で知り合いに遭遇する。実家住まいの身の上だから、うちは一番ありえない。先生もあまり自宅には上げてくれないし。
「なんか、クロがこんなに甘いと……怖ぇーな」
「失敬な。これでも先生の彼氏ですから、こんなときぐらい彼氏ヅラします」
「お、おう」
彼氏、を強調すれば、また狼狽える。こういう先生自体は見慣れているけれど、照れたような表情はあまり見ない。この顔が見られるなら、喜ぶ顔が見れるなら、今日が終わればきっとせいぜい寝巻きぐらいにしかならないであろうシャツを高いとは思わなかった。だから普通にお金を出そうとしたらなんの話もなく先生が会計を済ませてしまい、財布を出しそびれてしまったけれど。
やっと子ども扱いはしないでくれるようになったけれど、年下扱いはやめてくれない。先生は一生先生で、年齢差が縮まることはありえないし、相変わらず5歳児じみたいたずらこそするものの、大局的にはいつだって二枚三枚は上手だ。少し悔しい。だからせめて、知識だとか、体力だとか、人間関係以外の頭の回転みたいな、先生よりは自信があるところでは、役に立ちたいと思った。ファストパス取るためにこの広い園内を人にぶつからないで速足で移動するとか。
「で、クロ。お前どこ行ってたの?」
「ファストパス取ってきたんですよ。あれの」
イタリアの有名な火山を模したランドマークを指差せば、おー、さすが気が利くー! と褒めてくれる。頭を撫でようとしてくる手は躱した。
そして、そのさらに数時間後、恐怖の塔の天辺。怯える先生の手を強く握る。重度の怖がりと恐怖心の麻痺の両極端を行ったり来たりする、先生の不安定な心の針は、前者に大きく振れていた。少し罪悪感を覚える。でもどうしても乗りたかったのだ。
いつもうるさい先生も、さすがに他に大勢の人がいる場所で迷惑をかけるほど騒ぎはしない。その分、ガタガタと震え、握り返してきた手は痛いほど。さすがに怖がらせすぎてしまった。大人になってからついにその所業の意味を理解できてしまった、先生の師匠のような趣味はないのに。
ぱかりと一瞬、壁が開く。外よりも先生を見る。先生も僕を見ていた。バカップルか。
全力で重力に逆らわずに落ちていく箱の中で、無数の悲鳴の中、たったひとり、僕の名前を絶叫する先生の声だけを、この耳は心地よく拾っていた。
「うええええんクロの鬼! 悪魔! よくもこんなえげつない行為をいともたやすく」
「本当に悪かったと思ってますごめんなさい」
出てきたところでなにかの糸がぷつんと切れたのか、それまで半ば放心状態で大人しかった先生は、堰を切ったようにキレ始めた。
「水晶の骸骨は諦めますから許してください」
「俺なんかお前の気に障ることしたかぁぁぁああ⁉︎」
ギャン泣きするいい大人の姿はあまりにも目立つし、カップルがこちらを二度見しながら通り過ぎていくが、完全に自分が悪いので何も言えない。奇異の視線を甘んじて浴びるしかない。通り側に立って壁になり、少しでも先生の姿を人目に晒さないようにするのがせめてもの償いだった。
「たまには僕を頼る姿が見たくて……ごめんなさい」
「いっつも頼りまくってんだろぉぉおお……クロいなかったら俺死んじゃうぅぅう……」
「……そうですね」
大袈裟じゃないから困る。十分な安全確保の上で頼って欲しかった、というのはわがままな望みなんだろう。
ひとしきり文句を言い終えると、そのうち疲れたのだろう。ゆっくり深呼吸をするとすっかり落ち着きを取り戻していた。スイッチをオンオフするみたいに、先生のテンションはどうも連続性がなくていつもすぱっと切り替わる。
「もう絶叫は嫌だかんな」
「はい」
そう答えると、いつも通りのにぱっとにやりの入り混じった笑顔に戻る。
「じゃあこっから先は全部俺の希望な!」
ぎゅっと手を握って、今にも駆け出そうとする。
「疲れるので走らないほうがいいですよ」
「へいへーい」
走るのはやめてくれたがスキップで、そこに人気のキャラクターがいるのだろう、人が集まっている方を目敏く見つけて歩き出した。怖がる姿も愛しいけれど、もちろん嬉しそうな姿だって愛していて、その嬉しさに少しでも貢献できているのかな、なんて考えながら、手を引かれるままに進んでいった。
お目当てのキャラクターグリーティングを満喫して写メも撮りまくり、映画の世界や世界の名所を模した街並みを散歩し、これまた行く先々で写真を撮った。時には近くにいた人にスマホを預け、ふたりで写真も撮ってもらった。僕のスマホの写真フォルダが、笑顔だったりキメ顔だったり映画のモノマネをしていたりする先生で溢れていく。ただの小さな長方形の板が、宝箱になっていった。
そのうち、じわじわと陽が落ちていく。先生が歩き疲れていたこともあって早めに移動を開始できていて、夜のショーがそれなりによく見える場所を確保した。やがて、作り物の海にあかりが灯り、音楽が響き始める。キラキラの音と光が空と水に踊っているみたいだ。
だけどその光が、僕らの目にまっすぐ届くことはない。遮るように視界を常にうようよと飛び交う、怪。誰もが目を輝かせて見ている輝きの中をどこか淋しげに漂う、誰にも視てもらえなくなったものの、残滓。こんなに光や笑顔、歌や歓声に満ちた場所でも、それは消えてくれない。それでも。
「先生」
「ん?」
同じ世界を視る人を呼ぶ。こちらを向いてくれた大好きな人はきらきら輝いてみえた。
「……綺麗ですね」
「そうだな」
ずっと怖くて怖くて仕方がなかった僕の世界が、そんなに怖くなくなったのは。綺麗なものが、この世界なりに綺麗だと思えるようになったのは、先生が手を引いてくれたからだ。
「来てよかったです」
「だろ?」
肩を寄せ合う。僕たちが視ている世界は、一緒にいれば、きっといつも綺麗だ。この視界に、先生が映っている限り、ずっと。
「また、来たいです」
「おう。次はランドもいいな」
「あと海とか山とかロッキーのスカイウォークとか2時間サスペンスの崖とか峡谷の大吊り橋にも行きたいです」
「なーほんと俺なんかした?」
「綺麗なものをたくさん、先生と視たいんです」
ひとりだったら、こんなに綺麗には視えない世界を、あなたとふたりで。
先生は頭をわしゃわしゃと掻いたあと、軽いため息をつく。
「わーったよ。俺だって、クロいるならそんなに怖くねーし」
そっと握られる手。握り返せば、少し照れ臭そうに笑った。
「怖くないですよ、きっと」
ふたりでいれば、なにも。