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    数年寝かせてたら、ファンコンのストで「正解」をお出しされてしまった気がする彩の話です。
    猫柳キリオが事故に遭う話。兄と母ちらっと出ます。

    ##SideM
    #彩
    #猫柳キリオ
    pussyWillowKirio

    猫の命は九つあれど 新しい根多があと少しのところまで出かかっていた、主演映画の宣伝のバラエティ収録が続いていた、酒だけはなんとか断ったものの、もう未成年ではないのだからと打ち上げにも遅くまで付き合わされた。心当たりは山ほどあるが、とにかく精も根も尽き果てて、気もそぞろだったのだ。
     半年後の公演に向けて稽古が始まったばかりの舞台、猫柳キリオが是非にと指名されたのは、超高層ビルの間を綱渡りする曲芸師の男の役だった。その名の示すように身軽でトリッキーなところがイメージにぴったりで、他の名前は候補にも挙がらない。そう言われて喜ばない者がいるだろうか。ここのところ無理をしている自覚はあれど、アクロバットへの興味も手伝い、二つ返事で引き受けてしまった。


     大変なことになった。それはわかれど他人事のようだった。思考が遠い。そもそもこれは思考なのか、己の頭はまだ働いているのか。別の現場にいるはずのプロデューサーに電話をかけているらしい声も聞こえたが、「猫柳さんが事故に遭って意識が」という話の中の「猫柳さん」が自分のことなのかすらどうもすとんとはまらない。かといって清澄九郎や華村翔真、或いはプロデューサーであるかといえばそんなことはないと言い切れるので、間違いなく自分は猫柳キリオなのだろう。
     左様ならば、しかし今真下に見えている少年は誰であるのか。それこそ猫柳キリオに他ならぬ。思案を重ねることしばらく。近づいてくるサイレンの音にその単語が引き出されたのは、いつだったかそんな映画を観たからだろう。
    (これはもしや幽体離脱というものでは)
     担架に運び上げられた己の左腕が、どう見ても曲がってはいけないかたちにだらりと垂れ下がっている。なるほど、あの体にいて、その痛みに耐えられる自信はない。倒れていた場所には、落ちた拍子に何かで切ったのだろう、頭部から流れ出た血の跡がべとりと残る。気に入りの練習着が汚れてしまったなどと、それどころではないはずなのに。
     騒然とする舞台、運び出されていく己の姿を真上から見下ろしていることなど、こんなこと、
     滅多にできることではない。
     危機感よりも、恐怖すらも、その興奮が軽く飛び越えてゆく。試しに飛んでみるならば、壁をすいと通り抜け、普段危ないからと近寄らせて貰えない天井付近の照明装置にも易々と近づけ、歴代の技師が残したものか、落書きのようなものも見つかる。ここの劇場に仕事として来たのは初めてであるのからして、こんなところにそんなものがあるなどと知るよしもなければ、機材のメーカーさえも知らないのだ。つまりこれは、自在に移動する己が、まさに今見ているものということになる。
    (にゃんと!)
     やっと飲み込めて来たこの状況、さて次は何を見るか。しかしいよいよもって自分が救急車に積み込まれ、止まっていたサイレンの音が再び鳴り始めるのが聞こえ、慌ててそのあとを追いかける。
    (やや! 待つでにゃんす、ワガハイ)
     自分で自分を追いかけながら見下ろした街は、平時と角度と高さが違うだけで、しかしまるで初めて見る世界のようだった。


     救急搬送されて2時間半ほど経ったか。ERにいる己の体には多数の管やらなにやらが繋がれており、そのいくつかは検査器具、そしていくつかは治療そのものに使うものなのだろう、なんとも物々しい。高度医療の知識などはほぼ皆無に等しいが、医療スタッフの動きや発言を見ていれば、仕組みはさっぱりわからずとも、どれがどんな用途に使われているものなのかは漠然とわかる。……一先ずは命に別状はなさそうだということも。
     ふわりと廊下に出てみれば、そこには焦燥しきった様子で佇む九郎と翔真、プロデューサー、金槌師匠、全員ではないものの都合のついた家族が雁首揃えて佇んでいた。他の三人は兎も角、キリオによく似た、と、似てるどころでは済まない例の双子にさえ言われる兄や師匠の沈痛な様子など初めて見たもので、成る程、もしも大切な家族に何かあったら、人はこんな顔をすることになるのかなどと考えた。見た目ほどは大袈裟な事態ではないと、早く彼らに伝えたい。
     猫柳さんは、ボーヤは、弟は大丈夫なんですか、助かりますよね。医療もののドラマでよく見る場面が目の前で展開された。それでも、基本的に理性的な彼らのこと、おそらくは大丈夫であることや面会時間などを伝えられると、大人しくその場で待ち始めた。プロデューサーは通話可能ブースに移動して、社長への報告やスケジュールの調整、各方面への連絡に追われていた。雰囲気に耐えきれなかったのか、兄が話をしようとしたがどうにも盛り上がらず、やがてすごすごと黙ってしまった。そうしているうちに別の患者の家族がやってきて、ほとんど同じシーンが何度も繰り返される。大丈夫ですよ、と言ってもらえない家族の、絶望に染まる表情も。そんな光景を、ふよふよと漂いながら見て回る。普段は入ってはいけない場所も、誰にも咎められることはない。病棟に手術室、ナースステーション、医師の仮眠室。流石に霊安室と、個人の病室は気が引けた。代わりにと言っては違うが、そうとは知らずに入り込んでしまった医師の仮眠室にて見てはいけない場面に出会し、さてどうしたものか、なかなか出会えぬ状況ではあるが、いくらなんでもぷらいばしぃというものが、などと思っているうちに、ふと何かを感じ取って、自分の体の方へと向かう。出て行き際に仮眠室をふと振り返れば、左手の薬指に煌めくものが見えたのが二人組の片割れだけだったという事実が、一番見てはいけないことだったように思える。
     戻れば一通りの処置が終わり、どこかへ移動させられる道中であった。場所が変わっていても、自分の体の在り処はわかる。どうやらそういうものらしい。病院着を着せられ、左腕にはギプス、流れ出た血はしっかりと洗われて傷口も縫合されたその姿は、如何にも怪我人というものではあったが、最初に上から見下ろした姿ほどはショッキングなものではない。あんなものを見てしまったら、九郎などは卒倒してしまうのではなかろうか。傷の位置も見た限り髪の毛に隠れる場所だったようでほっとした。アイドルにとっては顔も、九つある命の大切なひとつだ。
     個室に運び込まれ、ベッドに横たえられ己の体は、動けと願えど動かない。試しに触れてみたが、通り過ぎてしまった。どうやら今は戻れないらしい。
    (ふうむ、どうしたものやら……)
     思案しているとばたばたと騒がしく扉が開いて九郎が飛び込み、その後に落ち着きなさい病棟なんだから! と窘めながら翔真とプロデューサーと兄と師匠が続く。真っ先に駆け寄った九郎は蒼褪めながらも右手に触れて、ほっとしたように息を吐いた。それを、真っ正面、ごくごく間近で見る。目が僅かに充血していた。少し泣いたのかもしれない。普段は身長の差もあって、こんなにも近くで顔同士を突き合わせることはまずない。だというのに、此方には目もくれない。気づいてすらいない。
    (……本当に見えてないのでにゃんすなぁ)
     試しに九郎の顔を触ってみたが、予想通りすり抜けた。その向こうにはたぶん触ってはいけないものがあるはずなのだが、手はそのみどりの黒髪の向こう側に抜けて出ている。
    「……生きていてくれて、良かった」
     その声に、ぎゅうと胸が締め付けられるような思いがした。今、感覚などないのに。手を握られているのも、見えているからわかるだけで。
    「大丈夫よ九郎ちゃん。お医者の先生も言ってたじゃないのサ、アタマも身体も問題なし……とは言わないけど、2、3日もすれば目を覚ますって」
     病院内をあちこちと遊び歩いているあいだにそんな説明を受けていたらしい。2、3日。目安となる日数が示されたことに、ほっと安堵はしたものの、そんな風情の息は目の前の眠りこけた顔の口からは出てこない。果たしていま見えているこの景色は、なにがどうなって見えているものやら、皆目見当がつかないままで。
     少し落ち着いた様子で、それでも心配と不安を隠すことすら頭にないのであろう九郎の横に、その気持ちの上に九郎への気遣いを乗せて覆い隠しているように見える、翔真の優しい微笑み。
    「起きたらいっぱいくどくどくどくどくどくどくどくど言ってやりなさいな、どうしていつもは眠ってばかりなのにこんなときにだけ無理をしたのかって、どれだけ心配かけたのかって」
    「…………華村さんの中で私はそんなにくどくどくどくどくどくどくどしているという認識なのですね?」
     九郎の端整なかんばせの口元と目元が引き攣り始め、それを見た翔真とプロデューサーの表情が弛む。出会ったばかりの頃は、九郎はこういう場を和ませるための冗談、を理解することはなかったし、己もそのラインの見極めが出来ず、九郎を傷つけてしまったし……と記憶に浸っていたところではたと我に返る。走馬灯だなんて縁起でもない。
     翔真の手が横たわる己の髪の毛に伸びて、引っ込めた。きっと頭に怪我をしていたことを思い出したのだろう。
    「あんまり待たせるんじゃないよ」
     そういえば、何故ふたりがすぐに駆けつけられる状況にあったのか。ふたりは午後がオフで、舞台の稽古が終わったら合流して、夕飯を食べに行く約束をしていたのだった。今回の店選びは自分が食べたいもので合わせてもらっていたから惜しかった。味はもちろん量もたっぷりとあり、水菓子がとにかく美味しく、併設された和菓子屋の持ち帰り用の饅頭もとろける味わいなのだ。
     頭を撫でるかわりに握っていてくれた手がそっと離れる。感触もないのに名残惜しいと思った。


     プロデューサーに促されてまず先にふたりが帰り、やがて安否と状況を確認した家族と師匠も帰宅すれば、芸能人だからと用意してくれた個室はがらんと静かになってしまう。プロデューサーは別の現場でもトラブルが発生したらしく、先ほど帰ってしまった。
    (……暇でにゃんすなぁ)
     病院はあらかた探索し尽くしてしまい、夜になってしまえば病棟やERにしか人はいない。かといってページをめくれないから談話室にある本を読むこともできないし、テレビやラジオのスイッチを入れることもかなわない。転落する寸前に考えていたネタは、頭を打った拍子に宇宙の彼方に飛んでいってしまったのか、少なくとも今は思い出せそうもなかった。
     出掛ければ、なにか閃くだろうか。そもそも、今の自分はどこまで行けるのだろうか。
     ふわふわと浮かびながら、病院の屋根をすり抜けた。夜の街に色とりどりの光が浮かび、きらきらときらめいているのが見える。病院に程近い川を遡れば、思ったよりもスカイツリーが近い。スカイツリーの外壁に沿って浮上し、その天辺から見たものはまさに絶景、ヘリコプター以外からは見ることのできない景色だ。
     心か魂かはたまた生き霊か、浮き立つとはまさにこのこと。生身でないからこそ見られた景色に、頭の中で色とりどりのきらきらぴかぴかしたなにかが弾けたような感覚がした。こんなものを目にして、アイデアが浮かんでこないほうがどうかしている。まだ根多としてまとまってはいないが、インスピレーションが無限に湧いてくる。
    (これは!)
     獲物を前にした猫のように跳ね回る心のまま、東京の街を見下ろしぐるり飛び回る。あれは馴染みの寄席、ロケで行った店、普段は絶対に入れない夜の動物園の、猛獣の檻の中。眠っていた虎は此方を見て驚愕したように目を見開き、慌てた様子で飛びかかってきたが、するりとすり抜け爪も牙も当たらない。奇妙な闖入者に興奮した虎が吼えて騒ぎ出すと、それにつられて近くの動物たちが軒並み吼え出し、異常に気づいた当直の飼育係が飛び出してきてしまった。まずいことをしてしまったと思ったが、どうしようもない。パンダにしておけばよかったか。
    (これが野生の勘、というものでにゃんすか……人間には、まだワガハイに気づいたお方はいないでにゃんすなぁ)
     ふと、同じ事務所の仲間の顔がふたりほど過ぎる。誰もいない深夜の事務所に入り込み、ホワイトボードを確認すると、片や沖縄ロケ、片や海外のジャパニーズポップカルチャーイベントに出演のため、今すぐに会えそうにはなかった。
     ひとしきり夜を飛び回るうちに朝が来た。病室に戻れば相変わらずすやすやこんこんと自分と思しき少年は眠ったままで、己がいない間に目覚めて何処かに行ってしまうようなことはなかったようでほっとした。どうやらこれは本当に自分であるようだし、ただ今それを見下ろす自分も、また自分に相違ない。
     病院が目覚め、人が動き始める。直ぐに病室にも看護師がやってきて、再びストレッチャーに載せられ検査室に運び込まれる。昼前にやってきた家族やプロデューサーに告げられた結果は悪いものではないが退屈で、いつでも目を覚ましうるが、まず左腕以外の身体がしっかり動くまでには一週間ほどの絶対安静を要する、というものであった。痛みが取れるのも同じぐらいかかるそうだ。腕が元通りになるのには3ヶ月。いまはなんの感覚もないが、きっと身体に生じている痛みは相当のものに違いない。いくら鎮痛剤があるとはいえ、長時間体験したくはない。ないはずのぞぞ、という冷たい感覚をおぼえたように錯覚した。
     その結果は昼過ぎに見舞いに来た九郎と翔真にも伝えられ、ふたりはその顔に安心と喜色を滲ませてくれた。
    「復帰の目処が立ったので、スケジュールを練り直しました。長引くようなら根本的にいろいろ考えなくてはならなかったですが、このままであれば」
     スタジオ収録、ロケ、ダンスレッスン再開……、検査結果を受けて復帰までのロードマップが具体的に提示される。今回の怪我の原因となった舞台の練習に間に合うか降板となるかは微妙なところだが、それ以外の仕事についてはふたりが穴埋めすれば、キリオの復帰まで彩としてはなんとかさほど休まずに繋げるということになった。バラエティの単発ゲスト回については、事務所の他のアイドルに代役を頼むものもあるらしい。落語関係は金槌師匠にどうにかしてもらうことになったようだった。
     早く起きてもらってこの分もバリバリ働いてもらわなきゃね、と冗談っぽく笑う翔真に、九郎も頷く。
    「本当に、眠ってばかりいないでください……」
     その言葉を最後にみんなが各々の仕事のため出て行ってしまえば、ぽつんと部屋はまた静かになって、いくつかの医療機器の作動音だけが聞こえる。
     完全に己のせいではあるのだが、退屈極まりない。 身体を離れ、なんとなくプロデューサーの後を追ってみた。馴染みのスタジオで彼を待っていたのはDRAMATIC STARSの3人で、どうやらバラエティの収録であるようだ。
     中に入ればこれまた見覚えのあるセットで、そういえばこの番組は暫く前に彩も出演したことがある。チームのうちひとりが人質にとられ、仲間がミッションに失敗した場合、人質が罰ゲームを受けるという、よく言えば信頼関係が重要、悪く言えばうっかりすると人間関係にいい音を立てて亀裂が入りかねないコーナーが名物だ。天道はギャグと呼ぶなにかが油を引いた坂道の如くつるっつるに滑り、桜庭がテレビで見せていいのかどうかギリギリのラインの怒りと呪詛を顔一面に表してセンブリ茶を一気に煽っているが、まああのふたりは大丈夫だろう。その後控え室まで覗きに行けば、常に持ち歩いてでもいるのか、包帯で椅子にぐるぐる巻きに固定された天道が、思い切り口をこじ開けられてセンブリ茶を流し込まれているところを目撃する。その後ろにはサルミアッキの缶を持たされた柏木が控えていた。
    (ワガハイたちが出たときは……そうそう、くろークンが人質だったのでにゃんすなぁ。くろークンのあわあわ顔が見たくて、ついついギリギリのらいんをふうらふら……)
     本気を出せば余裕でクリアできるミッションをわざと失敗寸前のところまで落とし、そのたびに調理が一段階進む椎茸と、青くなる九郎の顔はそれはそれは視聴者にウケた。本番中は焦りに焦っていた彼が事実に気づくことはなく、無事にクリアして已の所で椎茸を口にせずに済んだことを半泣きで喜ばれたのであるが、後日オンエアを見て真相に気づかれてしまい、鬼の形相で詰め寄られたことも思い出す。
     隣のキッチンスタジオではやはり同じ事務所の九十九一希が多種多様な食材を前になにやら思案している様子だったが、最終的にそれらをきちんと下拵えした上で、全部鍋に突っ込んでいる。鍋の中身はいつぞやの合宿の二日目に生み出してしまった、例の海の家の壁にとてもよく似ていた。
     同じ現場でない限り、事務所の仲間の仕事を、本番当日の関係者席から、あるいは完成品として以外のかたちで目にすることはあまりない。興味深く見回れば、普段なかなか見られない彼らの表情や関係性が垣間見えて、これまた心がうずうずした。
     次は何処に入り込もうか、何を見に行こうか。ふわりとスタジオを屋根から抜けたところで、ふと、なにやら腕やら頭やら背中やら……おそらくは、昨日の事故で痛めたはずの部位が、急に痛み出したように感じて、声も出ないのに、ぎにゃあと悲鳴をあげた。己の身体になにか起きたのか。大慌てで病院へと飛んで戻る。触れても透けるこの身であるのに、心臓がどくりどくりと跳ねている気がする。
     病室に飛び込めば、相変わらず眠ったままで、けれど、苦痛にかその表情を大きく歪めている。確かに痛みだとか、慣れないベッドの微妙な寝心地とか、そういったものはしっかりと感じられた。見えているまなこを開こうとすれば、景色が一瞬霞んで、真っ白な天井が隙間から見えた。
    (いまならもう、この重たぁい瞼をうんしょよいしょと持ち上げれば、起きられるのでは?)
     そう思った瞬間、またどくりと心の臓が大きく跳ね、全身に激痛が走った。無理だ、目が覚めそうなのは鎮痛剤が切れたからなのではないか、だとすれば起きていたら、しばらくはこの状態が続くのか。思考すら儘ならないほどの痛み、一週間ほど続くと言っていたか。どのみちその間は立ち歩くこともできないはずで、かといってこの状態では本を読むのは勿論、ラジオやテレビの視聴であってもおそらくは耐えられないだろう。ならば。
    (まだ、起きなくていいでにゃんす! こんなの、無理無理無理でにゃんす‼︎)
     声なき声でそう叫んだ途端、全身を苛む痛みが残響すらなく消えた。
    (………………はて?)
     さっきのはなんだったのだろうか。また痛みも何も感じない。目の前で己は相変わらず眠ったままで、目覚める様子もない。表情は穏やかなものに戻り、あのような激痛に苦しむ顔には見えなかった。
     他には誰もいない病室に、機械の駆動音だけが響く。カーテンはもう夜の先触れで赤く染められている。今日はもう誰も見舞いには来ないはずだ。自分から不在にしているうちに家族が来ていたのか、実家の近所の和菓子屋の饅頭の箱が置かれていた。気にならないわけではないが、できることもなにもない。夜が来たとて瞼が重くなるでもなく、今宵は寄席でも覗きに行くか、スカイツリーを目印に、ふわり、窓をすり抜けた。


     次の日も、また次の日も。変化のないまま日が昇りまた沈む。いつになったら起きてくれるのでしょうか、すぐにと言っていたのに。そう言いながら九郎と翔真は帰っていく。ベッドサイドの棚に置かれた饅頭は、悪くなったらいけないからとプロデューサーが事務所に持ち帰った。
     そのまた次の日の昼ごろ、家族が病院に呼ばれた。母が泣き崩れるのを、兄が詰め寄るのを、師匠が茫然としているのを、まるでスクリーンに映された映像のように見ていた。この目も、この耳も、ここにはないからかもしれなかった。
     おそらく二度と目覚めることはない。医師の言葉はもう少しオブラートに包んだものであったが、つまりはそういうことだった。
     動けない間に血栓が脳に飛んだらしい。すぐに気づけば対処のしようもあったらしいが、意識がなかったため気づくのが遅れてしまったのだと医師は資料を挟んだクリップボードを、手の筋が浮き出るほど強く握って謝罪した。
     何度も何度も目を開けようとした。けれど、目の前で眠る少年の瞼はぴくりとも動かない。あのときみたいな、心臓の跳ねる感覚も、痛みも、何も感じない。
     数時間後、九郎と翔真も飛び込んできた。その整った顔に浮かぶものは、悲しみ以上に、怒りのように見えた。
    「何故、何故ですか‼︎ 見た目ほど大した怪我ではないと、すぐに目覚めると! 言っていたではないですか‼︎」
     叫んで、詰め寄り、ぐいと腕を掴む、その感覚も伝わっては来ない。ほそこく生白い腕には、その握られた形が赤く残っているというのに。顔にぽたりぽたりと落ちる、雫の温度も。きっとこの悲鳴は廊下にも響いていたけれど、その場の誰も、九郎を咎めることはしなかった。翔真は目を逸らさず、けれど目を伏せて、歯をぎり、と音が聞こえそうなほどに食いしばっていたから。
     彩は一先、活動休止と決まった。


     一日が経ち三日が経ち、一週間が経った。猫柳キリオが舞台稽古中に事故に遭い、回復の見通しが立たず活動休止というニュースはすぐに広まった。こんなことでネットニュースの見出しになんてさせたくなかった、とプロデューサーがこぼす。そういえばトップニュースとして名前が出たのは、これが初めてだった。
     具体的な病状は明かしていないが、本人のコメントが出ないあたりで、勘のいい人ならば状況はある程度察しているのだろう。プロデューサーがエゴサしている画面を覗き込めば、あの有名な噺に出てくる寄席に、猫柳亭きりのじ近日来演、などという書き込みが目に入った。こんな風に言われるようになりたいと思ったことがないわけではないが、そんなのはもうあと五十年は後の目標のつもりだったのに。今の状況でそんなことを言うのは、悪意でしかない。
     ふたりの精神状態が不安定になっているからと、バラエティやイベント出演などは全てキャンセルした。ソロで出演するドラマや映画、グラビアなどの撮影はほぼ予定通りに行なっているが、撮影の前後に心無いマスコミに捕まることのないよう、プロデューサーと渡辺みのりが中心となって、鉄壁の防御体制を整えている。
     余計な文字がつくほど真面目な九郎と、もとよりプロ根性の塊である翔真は、少なくとも表向きはすぐに立ち直って見せた。見舞いに来てくれているときや身内だけの場面では言葉数が目に見えて減り、ふたりのものよりふた回りは小さい衣装や猫の面、差し入れの饅頭を見たりするたびに沈痛な表情を隠さなかったが、それでも、一度撮影が始まれば、衣装を身に纏えば、その悲愴を振り切ってみせた。
     三ヶ月後、彩の二人での活動再開が発表された。猫柳キリオが回復した時に、戻る場所を守るために、清澄九郎と華村翔真だけでなく、猫柳キリオを忘れられないためにと。仕事の傍ら見舞いに来ては、いざという時に筋肉が衰えきらないために、また少しでもなにかの刺激になれば、と腕や足のマッサージをしてくれることもあるが、やはりその感覚を感じることはない。
    (そもそもワガハイの頭がぷすんと壊れてしまって起きられないのであるならば、いま、ぐるぐるあれこれ考えているワガハイは、……何者なのでにゃんしょ?)
     幽霊を題材にした噺は数あれど、勿論その答えを知りはしない。どこを使っているものやら見当もつかないままに思案していると、例の掃除屋の後ろ姿を見つけた。その視界に入り込んで見たところ、おそらくはこちらの姿をはっきりと捉えて、……しかし、常にもなく寂しげな顔を向けられただけだった。
     してやれることはなにもない。すまん。そういうことなのだろう。
     確かにしてほしいことは思いつかなかった。此処にいる、ずっと一緒にいる、とふたりに伝えてもらったところで何ができよう。眠っている間に抜け出してしまっているだけならまだしも、体が器質的に目覚められない状態にある以上、体に引き戻して貰っても仕方がない。かといって、まだ生きているのに、あの世に送ってほしくもない。
    (生きて……いるはずでにゃんす)
     あまり、自信はなかった。


     活動再開後の彩は、メンバーのひとりが大怪我で休業中、という悲愴な話題性もあって、三人で活動していたときよりも注目度が高まっていた。普通ならこのぐらいの知名度のアイドルには見向きもしないような週刊誌や番組が寄って来た。よほど面白おかしく扱うような失礼なオファーを除いて、基本的に彼らが仕事を断ることはなかった。彩を忘れられないためだと、語ることで猫柳キリオを思い出してもらうためにと。歌番組で披露するこれまでの歌では、ひどく不在を感じさせて、ファンの涙を集めた。原曲を一度も聴いたことのない人まで泣いた。
     それからしばらくして、新曲がリリースされた。トリッキーで明るい声が足りないこと、まだ振り払うことのできない悲劇のユニットというイメージから、しっとりした和風のバラードとなった。飛ぶように売れた。
     その頃には自分は実家からほど近い北関東の長期療養用の病院に転院していた。売れっ子となり忙しくなった彼らはなんとか時間をやりくりして見舞いに来てくれるが、それも月に一度ぐらいのこと。毎回、好きな店の饅頭を買ってきてはくれるが、だいたいは看護師に言われて持って帰る。まるで御供え物のようだと思った。
    (くろークン)
    (ちょうちょさん)
     呼びかけても、返事があるはずもない。届いてもいない。
     此処に来ては近況を話してくれるけれど、それは会話ではなくてまるでテレビのように一方的にしかならない。高座だってもっとずっと双方向だ。会話に混じる人の名前にも、知らないものが増えてきた。
     とりとめもない話が減った。内容のある話が増えた。まるで業務報告みたいに。
     己自身は、今や到底アイドルには見えぬ風体へと変わってしまった。痩せ細った手足、すっかり生まれつきの色に戻ってしまった髪の毛、たくさんの管を出入りする液体に支えられている命。この姿を見たところで、誰が猫柳キリオだとわかってくれようか。
     それに対し、九郎と翔真はみるみると垢抜けていった。人に見られる機会が増えれば増えるほど、アイドルは輝きを増すものだ。時折零していた不安も、次に見舞いに来てくれる頃にはもう飲み込んで、輝きへと昇華している。それでも、寂しい、三人がいい、と変わらずに言い続けてくれることと、宣材写真に自分がいることが、己が彩のメンバーであるのだと信じられる最後の縁であったのに。
    「いつまでもそんなことを言っていては、猫柳さんに心配をかけてしまいますね」
     そんなことないのに。
    「悲劇のユニット扱いなんてされ続けちゃ、ボーヤが作ってくれた元気で楽しい彩のコト、みんなが忘れちゃうんじゃないかって最近思うのよ」
     その先を聞きたくない。
    「だから、ちゃんとアタシたちは前を向く」
    「もう私達は大丈夫です。安心して見守っていてください」
    (嫌でにゃんす……)
     「私達」と「猫柳キリオ」を分けないでほしい。
     いなくても大丈夫なんて、言わないでほしい。
    出ていくふたりの足取りには、迷いもなくて。
    (行かないでほしいでにゃんす)
     猫柳キリオのいない彩を、完成させないでほしい。
    (ワガハイのいない彩なんて、嫌でにゃんす)
     叫べど叫べど声が出るわけもなく、無情にも病室の扉は閉められて。
     ほどなくして病室でたくさんの機械たちのアラートが不協和音を奏で始める。すぐさま飛び込んでくるのは焦がれる仲間ではなく看護師たち。次々と処置が施されるが、痛みも苦しさも何も感じない。
    (どんなに痛くてもつらくてもいいから、ワガハイは、みんなと……!)


    「さてさて、猫には命が九つあるとはよく言ったものでにゃんすが、前座を終えて二つ目の命、三つ目があるなどと油断せず、真に打ち込むはこの一生、ちょうちょさん、くろークン、プロデューサークン、皆々様とご一緒に、全身全霊えんじょいして参りたく、これからも末永ぁくよろしくお願いするでにゃんす!」
     深々と下がる猫柳キリオの頭は、傷が完治するまで髪染めが禁止されているために根本が3cmほども焦げ茶色になっている。長い付き合いになってきたが、地毛を見るのは初めてかもしれないと、清澄九郎は頭の片隅で考えた。それでも顔を上げて三人の顔をひとりずつじっと見つめた後、ぱっと弾けた笑顔は、いつもの猫柳だった。
     未だ左腕はギプスで固定され、よくよく見れば額にも傷がまだ残るものの、まずはラジオ収録にて復帰と相成った。久々のことだし無理もさせられないからしっかりと打ち合わせを、と集まった事務所で、彼は一席設けさせてほしい、と言い出した。
     あの事故から2ヶ月。意識不明の最中に脳梗塞を起こしかけ本当に危ういところだったものの、意識がその直前に戻っていたため初期症状で気付かれ処置が間に合い、大事には至らないで済んだ。いや、怪我自体が十分すぎるほどに大事ではあるのだけれど。覚醒と同時にあまりの痛みにあげたとんでもない悲鳴が病棟に響き渡ってすぐに看護師が駆けつけてくれたのも良かったそうだ。ともかく、大事なユニットメンバーでもありかけがえのない友達でもある猫柳キリオは今、まだ痛々しい様子ではありながらも概ね元気にここにいる。
     もしも彼が語った噺のようになっていたら。想像するどころか考えようとするだけでも背筋が冷たくなり、嫌な動悸がした。あまりにもその語り口は生々しくて真に迫っていて、そして、意識が戻って初めて面会できたときのことを思い出して。
     まだ体力が回復していなかった彼は、喋っているうちにすぐに疲れてうつらうつらとしはじめた。眠気に抗いながら喋り続けよう、とする様子にそろそろ眠ってください、私達も今日はもう帰りますから、と声をかけたところ、突然目をぱっと開いて、「まだ眠りたくないでにゃんす!」と叫び、九郎と華村の腕をぎゅっと掴んだのだ。「置いていかないでほしいでにゃんす」と。ひとりぼっちで病院で過ごすことが心細いのかとその時は思ったのだけれど、今思えばその声音に、震える手に、必死に目を開けてこちらを見る顔に滲む悲壮感は、それだけが理由ではなかったような気もする。
     ふと、横を見るとプロデューサーの顔色が心なしか悪いように見えて、大丈夫ですか、と声をかけた。プロデューサーもまた今回の件で心労を重ねたのみならずイレギュラーなやりとりや交渉、埋め合わせなどの業務に追われたので、ユニット仕事がほとんど流れてしまった自分たちとは違い、スケジュール的にかなり無理をしていたはずだ。
     猫柳も久々に長く話したことで疲れているだろう。全員分のお茶を用意しようと立ち上がろうとしたその時。
    「九十九さんのアレ、絵面がヤバすぎてお蔵入りになったやつなんですけど……」
    「えっ……」
     プロデューサーが震える声で呟いた言葉に、血の気が引いていくのを感じた。
    「? どうかしたでにゃんすか?」
     きょとんと首を傾げる猫柳はいつものように軽やかで。
    「いえ……」
     たくさんの思考や感情が一度に押し寄せて、そこまでキレの良いほうでもない己の頭ではいちどきに処理することはできなくて、それでも。
    「……猫柳さんがちゃんと戻ってきてくれて、良かったです」
     ただそれだけを口にすれば、「猫は家じゃなくて、仲間につく生き物でにゃんすよ」と言って笑った。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
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    onsen

    DONEクラファ仲良し
    クラファの3人が無人島で遭難する夢を見る話です。
    夢オチです(超重要)。
    元ネタは中の人ラジオの選挙演説です。
    「最終的に食料にされると思った…」「生き延びるのは大切だからな」のやりとりが元ネタのシーンがあります(夢ですが)。なんでも許せる方向けで自己責任でお願いします。

    初出 2022/5/6 支部
    ひとりぼっちの夢の話と、僕らみんなのほんとの話 --これは、夢の話。

    「ねえ、鋭心先輩」
     ぼやけた視界に見えるのは、鋭心先輩の赤い髪。もう、手も足も動かない。ここは南の島のはずなのに、多分きっとひどく寒くて、お腹が空いて、赤黒くなった脚が痛い。声だけはしっかり出た。
    「なんだ、秀」
     ぎゅっと手を握ってくれたけれど、それを握り返すことができない。それができたらきっと、助かる気がするのに。これはもう、助かることのできない世界なんだなとわかった。
     鋭心先輩とふたり、無人島にいた。百々人先輩は東京にいる。ふたりで協力して生き延びようと誓った。
     俺はこの島に超能力を持ってきた。魚を獲り、木を切り倒し、知識を寄せ合って食べられる植物を集め、雨風を凌げる小屋を建てた。よくわからない海洋生物も食べた。頭部の発熱器官は鍋を温めるのに使えた。俺たちなら当然生き延びられると励ましあった。だけど。
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    onsen

    DONE百々秀

    百々秀未満の百々人と天峰の話です。自己解釈全開なのでご注意ください。
    トラブルでロケ先にふたりで泊まることになった百々人と天峰。

    初出2022/2/17 支部
    夜更けの旋律 大した力もないこの腕でさえ、今ならへし折ることができるんじゃないか。だらりと下がった猫のような口元。穏やかな呼吸。手のひらから伝わる、彼の音楽みたいに力強くリズムを刻む、脈。深い眠りの中にいる彼を見ていて、そんな衝動に襲われた。
     湧き上がるそれに、指先が震える。けれど、その震えが首筋に伝わってもなお、瞼一つ動かしもせず、それどころか他人の体温にか、ゆっくりと上がる口角。
     これから革命者になるはずの少年を、もしもこの手にかけたなら、「世界で一番」悪い子ぐらいにならなれるのだろうか。
     欲しいものを何ひとつ掴めたことのないこの指が、彼の喉元へと伸びていく。

     その日は珍しく、天峰とふたりきりの帰途だった。プロデューサーはもふもふえんの地方ライブに付き添い、眉見は地方ロケが終わるとすぐに新幹線に飛び乗り、今頃はどこかの番組のひな壇の上、爪痕を残すチャンスを窺っているはずだ。日頃の素行の賜物、22時におうちに帰れる時間の新幹線までならおふたりで遊んできても良いですよ! と言われた百々人と天峰は、高校生の胃袋でもって名物をいろいろと食べ歩き、いろんなアイドルが頻繁に行く場所だからもう持ってるかもしれないな、と思いながらも、プロデューサーのためにお土産を買った。きっと仕事柄、ボールペンならいくらあっても困らないはずだ。チャームがついているものは、捨てにくそうだし。隣で天峰は家族のためにだろうか、袋ごと温めれば食べられる煮物の類が入った紙袋を持ってほくほくした顔をしていた。
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