夜更けの旋律 大した力もないこの腕でさえ、今ならへし折ることができるんじゃないか。だらりと下がった猫のような口元。穏やかな呼吸。手のひらから伝わる、彼の音楽みたいに力強くリズムを刻む、脈。深い眠りの中にいる彼を見ていて、そんな衝動に襲われた。
湧き上がるそれに、指先が震える。けれど、その震えが首筋に伝わってもなお、瞼一つ動かしもせず、それどころか他人の体温にか、ゆっくりと上がる口角。
これから革命者になるはずの少年を、もしもこの手にかけたなら、「世界で一番」悪い子ぐらいにならなれるのだろうか。
欲しいものを何ひとつ掴めたことのないこの指が、彼の喉元へと伸びていく。
その日は珍しく、天峰とふたりきりの帰途だった。プロデューサーはもふもふえんの地方ライブに付き添い、眉見は地方ロケが終わるとすぐに新幹線に飛び乗り、今頃はどこかの番組のひな壇の上、爪痕を残すチャンスを窺っているはずだ。日頃の素行の賜物、22時におうちに帰れる時間の新幹線までならおふたりで遊んできても良いですよ! と言われた百々人と天峰は、高校生の胃袋でもって名物をいろいろと食べ歩き、いろんなアイドルが頻繁に行く場所だからもう持ってるかもしれないな、と思いながらも、プロデューサーのためにお土産を買った。きっと仕事柄、ボールペンならいくらあっても困らないはずだ。チャームがついているものは、捨てにくそうだし。隣で天峰は家族のためにだろうか、袋ごと温めれば食べられる煮物の類が入った紙袋を持ってほくほくした顔をしていた。
旅先の食事に勝る無難な話題はない。2時間ちょっとの自由時間が気まずくなるようなこともなかったし、新幹線に乗ってしまえばあとは寝ていればいいだけ。
それだけで、今日は終わるはずだったのに。
「あー……これ、今日はもう動かないっぽいですね」
片手にあるのは仕事に使う用のスマホ、もう一台はおそらく彼の私物だ。片方でおそらく今の状況を調べながら、もう片方でまた何か別の調べ物をしている。
「じゃあ僕、ぴぃちゃんに新幹線止まっちゃったって伝えるね。今僕たちどこにいるんだろう、名古屋出て20分くらいだったから……」
今すぐに在来線に乗り換えても東京への終電にはきっと間に合わない。どこまでなら行けるだろう。どこまでだったら迎えにいくって言ってくれるかな、でももし迷惑だと思われたら。そんなことを考えながら、LINKを開いていると、天峰のてきぱきとした声が飛んだ。
「たぶん豊橋が一番近いんですけど、名古屋にもきっとすぐ戻れます。名古屋の方が泊まるとこも多そうだし、明日の新幹線も便利っぽいので戻りませんか? ホテル押さえていいかと金額いくらまでならOKか、それと宿泊費の支払い方法も聞いてください。俺は候補探して仮押さえしとくんで」
「え?」
「プロデューサーの返信待ってたら、埋まっちゃうかもしれないでしょ?」
相変わらず2台のスマホをそれぞれ器用に片手で操作しながら、なるべく駅近で、禁煙で、ツインで……などぶつぶつと呟いている。
「百々人先輩、なんかこだわりあります? 畳の方がいいとか、大浴場とか、マットレスとか枕のブランドにこだわってるところもあるみたいですけど……」
「……お泊まりするの?」
そう聞けば、天峰は小首を傾げて、するしかなくないです? と答えた。手元のスマホにささっと何かを打ち込み、表示された情報に視線を向ける。
「夜行バスなら、まだとれますけど……もしかして、明日の午前中に外せない予定入ってたりしますか?」
夜行バス、と口にした時、かなり嫌そうに目元が歪んだ。乗りたくないのはわかる。乗ったことはないけれど、眠れないとか、体が痛くなるイメージが、某有名なローカルバラエティ番組のせいであるから。きっと喉にも良くないし、万一それで体調を崩して、プロデューサーに迷惑をかけるようなことがあってはいけない。
「特に予定はないよ。……そうだね、泊まろうか」
そう答えて、プロデューサーへのメッセージに、天峰から指示された内容を書き足していく。ほどなく返信があり、内容を確認した天峰は、候補の一つの決定ボタンを押した。
(キミは、僕とふたりっきりで、平気なの?)
名古屋行きの振替バスを待っている天峰が、まだ営業中の駅ナカの衣料量販店がないか検索するのを背中越しに見ながら、百々人は声には出さず、心の内でつぶやいた。
なんとか高校生の常識的な就寝時間を迎える前に、今晩の寝床へと辿り着いた。手洗いうがいを済ませるとまず天峰は複数台持ちのスマホの充電を始める。ベッドはコンセントに近い方を譲った。その姿を見ながら、プロデューサーに無事着いた旨メッセージを送ると、百々人はしばし部屋の中を見回した。殺風景な部屋だ。ベッドが2つとその脇に読書灯代わりのやや古いめのスタンドライト、通路とも呼べないような最低限の隙間、それにごく小さなテーブルと、椅子が1脚、あとは湯沸かしポットと空気清浄機。カードキーを差し込むと同時に点いた壁掛けテレビは、無音でホテルの設備ガイドを表示している。眠るだけなら十分だ。むしろ、寝るしかできないだけ、お互いに気を遣う時間が短くて済む。
天峰のスマホが鳴った。通話着信を告げる音に、すみません、と一言口にして、画面にタッチする。
「もしもし、爺ちゃん? ……うん、今ホテル着いたからもう大丈夫」
祖父からの通話に、宥めるように応える。どうやら状況自体は既にメッセージで伝えていたようだが、それでも心配で連絡してきたのだろう。
ベッドサイドに置かれた自分のスマホの画面は、暗いままだ。
「明日新幹線乗ったら連絡する。大丈夫だって、俺なんだし、それに、百々人先輩も一緒だから安心だし」
その言葉に、目を見開いた。いつのまにか通話は切られていたようで。
「すみません、家からで……百々人先輩?」
「え? あ、うん」
「疲れてます? 風呂先入ってもらっていいですよ」
「ううん、いいよ。僕、まだ先にやっておきたいことあるから」
嘘だった。天峰が話している間に必要な荷物は出してしまったし、これ以上の整理は入浴が済んでからじゃないとできない。できることは、プロデューサーからの返信を待つことだけだ。
「わかりました。なるはやで上がりますね」
「キミも疲れてるでしょ? お風呂RTAとかしなくていいからね」
「RTAなんて言葉、知ってたんですか」
「アマミネくんがゲーム部のみんなと話してるの聞いて覚えちゃった」
正直詳しいことはよくわからない。ゲームをクリアするタイムを競っていることだけは知っている。それを言うと、少し、天峰の目が、驚いた猫のように丸くなった。
「どうしたの?」
「いや……百々人先輩、俺たちがゲームしてるの見てたんですね。興味ないかと思ってました」
「え?」
それってどういう意味かな? と声にするより早く、それじゃ、お先に、とバスルームの中へと入って行ってしまった。ほどなくして水音が聞こえてくる。
全然、わからない。天峰秀のことが。
寝心地の良さそうなところがいいなぁ、という要望と呼んでいいのかも曖昧なリクエストを受けて選んでくれたホテルのベッドに背中を倒せば、確かにほどよい硬さのマットレスが、良い感じに衝撃と体重を分散させてくれる。なのに、思考はぐるぐると絡まりあって、握って丸めた輪ゴムみたいにぐちゃぐちゃだ。
苦手とされている、というか、少し怖がられている、というのはなんとなく感じている。良くも悪くも素直で考えていることや感情を顔にも言葉に出す天峰は、多分他人の内心を探るのはあまり得意ではないし、そのことを自覚してもいるのだろう。自分に裏表があるとは思ってないし嘘をついているわけでもないけれど、心の表面にいつも蓋というか、仮面のようなものが貼りついて離れないことには、きっと気づかれている。その中身を見通せないことが苦手な理由なのだということは、彼が自分に話しかけるときに、少し様子を伺っているようなところからわかる。他の人と接するときには、そんな態度を取らないから。
だから、その素直な彼が、苦手なはずの自分をまるで警戒していないどころか、一緒だから安心とまで屈託なく言ってくれることが、感覚として不思議でならなかった。
彼を見ていると、目には見えないどこかが、じくじくと膿んだように痛むのに。
上がりました、と澄んでいるのにやけに耳に響く青い声がして、閉じていた目を開く。日中はふわりとセットされている髪は濡れてぺしゃりと顔に張り付いていて、いつもより幼い印象を受けた。手に持ったままだったスマホを見れば15分も経っていなくて、本当に急いでくれたのがわかる。
「すみません、寝てましたか?」
「ううん、大丈夫。それじゃあ僕もシャワー入るね。先に寝てていいよ」
そう言えば、わかりました、と素直に頷く。おそらく夜型の天峰だけれど、まだ高1の子が起きているには遅い時間だし、撮影に観光にアクシデントに、と流石に疲れているのだろう。洗面所から持ち出したドライヤーを持って、姿見の前へと向かう立ち姿は、いつもの凛と背伸びをした佇まいとは違って、どこかふわついている。それを横目にしつつ、浴室へ入った。熱めのシャワーを浴びて頭をすっきりさせようとしても、天峰の気配が強く残る狭いユニットバスでは、どうしても天峰のことばかり思考に割り込んでくる。どうして彼は、天峰秀は、こんなにも人の目を、心を、奪って離さないのか。
天性のセンター。ユニットの中では誰もが対等で序列なんかないはずなのに、どうしたって、彼はC.FIRSTを引っ張るはじまりの光だ。ブロマイドの売れ行きは百々人の方が上だし、それを悔しがっていたことも知っている。だけどそれすら彼にとってはネガティブな感情を齎すものではなく、次は勝ちたいという前向きな努力の理由と、それはそれとしての純粋な百々人への賞賛にもなってしまうのだから、こちらとしては本当に思いの持って行きどころがなくて、心の底のほうへどろどろとしたものが沈殿していく。それなのに、その眩しさに導かれて一緒に走っているときは、あんなにも心も体も、なんの重さも無くなったみたいに高く飛べるのだ。
3人でなら、自分だって一番になれると、信じてしまうほどに。
シャワーを浴び終わり、バスルームを出れば、天峰は布団をかぶって目を閉じていた。上から覗き込み、アマミネくん、と控えめに声をかけてみたが返事はない。既に眠っているようだった。
いつも揺るぎない自信に輝く青い瞳が見えないだけで、こんなにも印象が柔らかくなるのか。普段は目つきも相まって猫を思わせる口元も弛んでいて、なんの警戒心もなく熟睡する飼い猫の子猫のように見えた。野良猫はこんな顔をしない。
思えば他に誰もいないところで、彼が眠っているところに居合わせるのは初めてのことで、つまりは他の誰にも守ってもらえない場所で、少し苦手に思ってるはずの百々人の側でこんなにも油断した姿を見せてくれるなんて思ってもみなかった。
(寝てるところを誰かに突然起こされたり、目が覚めたら大事なものが奪われていたことなんて、ないんだろうな)
世界の変革をあんなにも高らかに宣言しながら、世界が自分に危害を加えるなんて、考えたこともないんだろう。
目が覚めたくないなんて、思ったこともないんだろうな。
(いいなぁ)
羨ましい。心底、そう思う。
柔らかい照明が、彼の髪に反射してきらきらと青に散る。あの印象的な目が閉じられている時でさえ、眩しい。あまりにも眩しく光を放ち、周りの光を反射してますます輝く、闇を切り裂く最初のヒカリ。
ふと、手を伸ばしてみたくなった。触ってみたくなった。
本当に、自分なんかと同じ種類の生き物なのか、確かめたくなった。
「アマミネくん」
もう一度、小さくその名を呼ぶ。なんの反応もないのを確かめて、手を伸ばした。
自分の肌と大差ない手触りと温度がそこにあった。
(そりゃそうか)
少しだけ力を込めて触れれば、どくどくと打つ脈が伝わってくる。
(アマミネくんも、人間だよね)
そんな当たり前のことをわざわざ確かめるなんて、どうかしている。
穏やかな呼吸。手のひらから伝わる、彼の音楽みたいに力強くリズムを刻む、脈。天峰秀という人間の、命が燃える音。それはきっと、革命の歌の根底を流れる旋律。
(こんな音が、僕の中でも鳴ってればいいのに)
同じ種類の生き物から、同じ仕組みで鳴っているはずなのに、どうしてこんなにも違うんだろう。
世界を変える唯一無二の音色と、なにをしても中途半端にしかなれない、この音。
もしも、この音をこの手が止めたなら。世界から彼を奪ったら、自分は世界で『一番』、悪い子にぐらいはなれるのだろうか。
いまなら、簡単になにかの、一番になれるのだろうか。
全体的に華奢な骨格のその頸は、なんのスポーツでも一番を取れなかったこの非力な手でも、簡単にへし折れそうに見えた。
どくどくと、自分の音が、うるさい。耳の奥が重たくて、頭の中で思考が反響する。指先が震える。なのに心は、凍りついたみたいに、動かなかった。
指先が、首の付け根の柔らかなところへ、ずぶずぶと沈んでいく。硬いものにぶつかって、感触が変わって。そして。
げほっと、不規則に詰まった音が、天峰から出て、はっと心に血流が戻った。頭の反響は収まって、目の前には呼吸を乱した天峰が、いて。
(僕、いま、何を考えてたの?)
思わず飛び退いた。ベッド脇に置いてあった天峰のスニーカーが蹴飛ばされてスタンドライトに当たり、がしょん、というそこそこ大きな音が立つ。勢いでコンセントが抜け、部屋の灯りがひとつ消えた。慌てて戻って確認したが、人体の急所を、命と声を司る部分を押さえつけられても、こんなに騒々しくても、天峰は起きる様子を見せなかった。よほど眠りが深いらしい。それほど、安心して眠っているんだろう。
残された明かりの影になって、自分の手は暗くてよく見えない。自分の、頭の中さえも。指先が一気に冷えた気がした。天峰の温度が、名残惜しい。あの一瞬、魔が差して、その熱を奪おうとしたというのに。
(そんなことしたら、ぴぃちゃんに嫌われちゃうね)
それでも、プロデューサーに見捨てられさえしなれば、生きてはいける。
だけど、プロデューサーがいても、天峰秀がいなければ、C.FIRSTがなければ、自分は、翔べない。一番を目指すことは、きっともう、叶わなくなる。
そして、彼のいない世界は、きっとひどく無味乾燥で、なにもかもが空っぽなのに重たくて、輝きが、足りないのだ。
「…………寝なきゃ」
きっと疲れているせいだ。天峰が眠って、ひとりぼっちになったせいだ。この夜が、あまりにも暗いせいだ。
光が、欲しいと思った。
その輝きを手に入れることができたら、この目に見える世界が変わる気がした。
この手がもう一度、眠る天峰の、幼い顔へと伸びていく。その光のほんのわずかなかけらだけでも、どうしても欲しくて、温かな頬に触れて。
「ごめんね、アマミネくん」
輝く瞳を覆い隠す瞼に、そっと唇を落とした。
眩しさが差し込んだ。今日は、目が覚めたほうが良かったと思える朝なんだろうか。ずっと眠っていたいのに、思わず目を開く。
「あ、百々人先輩、おはようございます。すみません、起こしちゃいましたか?」
開きかけのカーテンから差し込む光の中に、天峰が立っていた。
「……おはよう、アマミネくん」
何度か瞬きして目を慣らせば、群青がオレンジに染め上げられていく明け方の空。普段起きる時間なら見ることのできない、初めて見る、魔法みたいに鮮やかな景色だった。