ひとりぼっちの夢の話と、僕らみんなのほんとの話 --これは、夢の話。
「ねえ、鋭心先輩」
ぼやけた視界に見えるのは、鋭心先輩の赤い髪。もう、手も足も動かない。ここは南の島のはずなのに、多分きっとひどく寒くて、お腹が空いて、赤黒くなった脚が痛い。声だけはしっかり出た。
「なんだ、秀」
ぎゅっと手を握ってくれたけれど、それを握り返すことができない。それができたらきっと、助かる気がするのに。これはもう、助かることのできない世界なんだなとわかった。
鋭心先輩とふたり、無人島にいた。百々人先輩は東京にいる。ふたりで協力して生き延びようと誓った。
俺はこの島に超能力を持ってきた。魚を獲り、木を切り倒し、知識を寄せ合って食べられる植物を集め、雨風を凌げる小屋を建てた。よくわからない海洋生物も食べた。頭部の発熱器官は鍋を温めるのに使えた。俺たちなら当然生き延びられると励ましあった。だけど。
「そんな顔しないでくださいよ、鋭心先輩」
俺がもうちょっと、突っ走らないでいれば、ちゃんと鋭心先輩の話を聞いていたら、こんなことにはならなかったのかな。頼りになって、落ち着いていて、いつだって格好いい鋭心先輩に、こんな顔をさせなくて済んだのかな。
また俺は、失敗したのかな。
「先輩は、生き延びてください」
鋭心先輩が唇を噛み締める。あと数日生き延びたら、助けが来るかもしれない。きっと百々人先輩は助けようとしてくれてる。でも、俺たちは知ってる。とっくに食料も尽きて、その上俺という大事な戦力も欠ける。……こうなっちゃった今はもうお荷物なんだけど。
知ってることは全部伝えた。後はもう、先輩のためにしてあげられることはこれしか残されていなかった。
「俺を、食べてでも」
「……っ、そんなことが出来るわけないだろう!」
面食らった顔はしないんだな。やっぱり、先輩もそれ、考えてたんだ。
「腐っちゃったらもったいないですよ。あんまり食べるところはないかもしれませんけど、新鮮なうちにどうぞ。……ああでも、できれば死んでからがいいです。痛いのは、嫌なんで」
「そんなことを言うな。もうすぐ助けが来る、それまで」
「保たないのは、わかってるでしょ?」
ああ、だんだん体が冷たくなる。だんだんなにもわかんなくなって。先輩の、言葉の意味も。
「すまない、秀…………っ」
先輩の声も、握ってくれる手の温度もなくなって、たったひとり、ただただなにもない冷たさに落ちていく。
「…………っ!!」
ひどく身体が寒くて目を覚ました。何も見えない。体の芯から寒くて、喉がからからだ。ここはどこだ。わかんない。心臓がばくばくと鳴って息が苦しい。
なにもない視界の中で小さな四角い光が浮かび上がった。縋る思いでそれを掴む。触れたのは慣れた硬さ。スマホだとわかるまでに少しだけかかって、全身から力が抜けた。
「夢、か……」
なにも見えなかったのは、目がもう使い物にならなくなったからじゃなくて、まだ夜だからだ。寒かったのは身体から血が流れていったからじゃなくて、布団を跳ね飛ばしてしまっていたせい。大丈夫。ここは無人島なんかじゃない。俺の部屋で、俺は、生きてる。怖いことも痛いことも苦しいことも、何も起きてない。この部屋にいるのは俺ひとりで、今にも泣きそうな、自分を責めるような顔をしていた鋭心先輩もいない。そうだ、視界がぼやけていたはずなのに鋭心先輩がそんな顔をしていたとわかるのは、あれが夢だからだ。
「最悪だ……」
ひどい夢だった。鋭心先輩とふたりで無人島で遭難して、俺が無茶して怪我して、最終的に先輩の食料になる夢。きっと本物の鋭心先輩は、追い詰められてもそんなことはしないと思う。たぶん。
(でも、俺が、先輩の話をちゃんと聞かなかったせいで怪我して迷惑かけちゃうことは、あるかもしれないよな……)
夢の中で腐りかけていた脚が痛んだ気がして、思わず目を閉じて歯を食いしばる。瞼越しに感じる明かりが落ちていくのがわかって、咄嗟に画面を触った。また真っ暗になるのが怖かった。
「そういえば、なんの通知だったんだろ」
再び明るくなった画面を改めて確認すれば、表示されていたのは「花園百々人」の文字で、すぐにタップしてLINKを開いたけれど、C.FIRSTのグループには新規のメッセージはなにもない。どうやら送信を取り消したらしい。誤爆だったのだろうか。
(ていうか、百々人先輩こんな時間に起きてたんだ。どうしたんだろ)
彼の生活習慣まで詳しく知っているわけじゃないけど、こんな平日のど真ん中に、高校生が起きてていい時間じゃないのは確かだ。それは、俺にとってもそうで、一刻も早く寝たほうがいいのはわかっている、だけど。
「お腹、空いたな……」
昨日の晩飯だってちゃんと食べたはずなのに、何故かどうしようもなくひもじくて、寒くて、どうしてか寂しくて耐えられない。
こんな時間に家族を起こすわけにはいかないし、心配もさせたくない。足音を立てないように気をつけながら、台所へ向かった。
--これは、夢の話。
どんどん秀の手が冷たくなっていく。少しでも温めてやりたくて強く握っても氷のようで、だけど力が入ってない指は、俺の手に合わせてだらりと柔らかく動く。
「鋭心先輩は、生き延びてください。俺を、食べてでも」
温めてやれないのは、俺の手も冷たいためだ。もうしばらく、何も食べていない。せめて秀には食べさせてやりたいのに、役に立てなくて申し訳ないから、と水すら口にしなくなった。
「……っ、そんなことができるわけないだろう!」
もうすぐ助けが来ることを知っている。だが、それまで秀の体力が保たないこともまたわかってしまっていた。
秀とふたり、無人島にいた。百々人は東京にいる。ふたりで協力して生き延びようと誓った。秀さえ連れてきたならば大丈夫だと思った。秀の知識や判断、島に持ち込んだ超能力で食料を確保し、寝床を作り、それなりに快適に暮らした。島に生えていた木々から果物を採集したり、捌いたタコの腹から出てきた海洋生物も、タコが食べられるなら人間だって大丈夫だと秀が判断したので食べた。口の中の強酸は調味料として使えた。このまま生きていけると思った。
ちゃんと俺が目を配っていればよかった。年齢のわりには振る舞いには落ち着きがあって冷静なほうであるとはいえ、一度スイッチが入ると周囲が見えなくなりがちな面が秀にあるのはわかっていたのだから、危険が伴う状況でこそ気をつけてやらなければならなかったのに。
俺と比べれば白かったはずの足が、赤黒く壊死しかかっているのが痛々しい。だからこそ、腐っちゃったらもったいないですよ、新鮮なうちにどうぞ、などという強がりに、頷きそうになって振り払う。大切な後輩に、秀に、俺はなんて考えを。
「……ああでも、できれば死んでからがいいです。痛いのは、嫌なんで」
「そんなことを言うな。もうすぐ助けが来る、それまで」
「保たないのは、わかってるでしょ?」
俺の気休めを遮るように、秀は続ける。諦めさえしなければ、きっと秀は助かるのに。だが、できることはもう、意識が落ちるまで手を握っていてやることと、声をかけてやることしかないのに。
「すまない、秀……っ」
最期に聞きたい言葉はきっとこんなものではないとわかりながら、声にできたのは、それだけだった。
取り残されたのは、俺と、秀の命の抜け殻。秀が最期に残してくれたもの。
数日分の食料としては十分な、タンパク質と脂肪とその他の成分による構成物。
大事にケアしていた顔や首回りを傷つけたくはなかった。俺たちはアイドルだ。
腕や足を見てみた。一切無駄な脂肪がついていないしなやかな手足はそれでも棒のようとは言わず、それなりにちゃんとした筋肉がついている。石のナイフで削ぎ落とすのは、骨の折れる作業に思えた。
服を脱がせて腹を確認した。レッスンで鍛えた腹筋に守られていてもそれは他の部位に比べれば柔らかかったし、その向こうには内臓が詰まっている。火を通せば、食べられるだろう。そう判断してしまったことに罪悪感を覚えるが、それは他でもない秀が望んだことだ。それでも生き延びてほしいと。
その腹にナイフを突き立てた。それはなんの抵抗もなく深々と刺さって、盛大に血飛沫が飛び散って顔に生ぬるいそれを浴びる。少し動かせば、柔らかな肉は簡単に切り分けられていく。パズルみたいに、血の滴る一切れは、難なく外すことができた。
猛烈な飢えと、己がやろうとしていることへの嫌悪感が同時に湧き上がる。新鮮なうちにどうぞ。秀の声が聞こえた。
その一切れを、秀だったものを、口の中へと運んで。
サイレンが響いた。俺の罪を咎められたのだと思った。当然だ。早くこの許されない行為を止めて、罰してほしい。けたたましい警報音の出元を真っ暗な視界の中必死で探せば、四角い明かりが目に飛び込んだ。よく聴けば、その音は慣れたスマホの通知音だ。そう理解すると同時に、それは鳴り止んだ。
「夢か……」
それはそうだ。人間の体はおそらくあんなに簡単には切り裂けない。料理番組でしかやったことがないが、ブロック肉を切るのだってもっと難しかった。死んだ人間の体からはあれほど勢いよく血飛沫は噴き出さないし腸だって蠕動しない。スプラッタ映画のゴア描写に関してよく出る話題だ。なにより、秀があんなにあっさりと、己の死を受け入れるとは思えなかった。
だが、秀にもしもあのようなことが起きたら、気が動転するあまり、秀の言うがまま、普段の己なら絶対にしないようなことでもしてしまうかもしれない。そして、秀のことを頼りにしすぎて、秀の身の危険を過小に評価してみすみす危ない目に遭わせてしまうことも、あり得るかもしれないと思った。あのいつも自信に満ちた秀が、先輩、と慕って頼りにしてくれているのだから、その信頼に応えてやらなくてはならないのに。
いつのまにかスマホの画面は暗くなっていて、先ほどの騒々しさはまるで夢の一部だったかのように名残すらもない。そういえば昨日は絶対に見落としてはいけない連絡が来る予定だったから、LINKの通知音を長い物に変更して、音量も上げていた。寝る前にいつものものに戻すのを忘れていたのだろう。そんな日に限って、こんな時間に誰からだろうか。そう思い、未だ目覚めきっていない視界の中、指先でのろのろと画面をタップする。
しかし、そこにあったのは「送信を取り消しました」の文字だった。
「間違いか?」
こんな時間に傍迷惑なことだと、通知音を戻し忘れていたのは自分であることを棚に上げて少し苛立つ。音を元に戻し、ついでにマナーモードにして、再び目を閉じた。
だが、もしもあのまま、夢の続きを見ていたら。
俺は、秀の味を、知ってしまっていたのだろうか。
途端、猛烈な酸っぱさが胃の奥からせり上がってきて飛び起きた。なんとか部屋の照明はつけたものの、廊下の明かりまでつける余裕はなく住み慣れた記憶を頼りに暗闇の中手洗いに駆け込んでそのまま嘔吐した。吐いても吐いても罪悪感はおさまらず、もう胃液しか吐くものがなくなって、やっと呼吸を取り戻した。
胃の中は空っぽのはずなのに、夢の中で決して食べてはならないものを口にした代償なのか、まったく空腹を感じない。
こんなに早く朝が来てほしいと思ったのはどれだけ久しぶりだろう。事務所に行って、秀と百々人がいつも通りにそこにいることを早く確かめたかった。
だというのに、日が昇るにはまだ遠い、午前2時。
--これは、夢の話。
マユミくんとアマミネくんが無人島で遭難したんだと気がついたとき、僕は東京でぬくぬくしていた。
助けにいかなくちゃ。船に乗るために海まで走ったけど、僕が動かせる船なんてない。助けて、と叫んだのに大きなタンカーも、フェリーも漁船も、僕に見向きもしなかった。叫んだと思ったのに、声が喉に引っかかって出ていなかったのに気付いたのは、手の届かない船だけじゃなくて、僕の目の前を歩く誰もが僕の前を素通りするからだった。
明日になったら助けに行けるかな。……明日まで、ふたりは無事でいてくれるかな。
せめてその場にいれば役に立てるのに。アマミネくんのような何があっても崩れない前向きさや機転も、マユミくんみたいな頼り甲斐や落ち着きもなくても、ふたりのお手伝いぐらいなら、なんだってやれるはずだ。
東京からでも、なにか、できることはないかな。3人だったら、きっとどんなことだってできるのに。
せめて、助けにいくから、待っててと伝えられたなら、希望になれるんじゃないか。とにかくそんな気がして、スマホを出して、LINKを起動した。C.FIRSTのグループを開く。メッセージは空欄だ。なにもなかった。
なんでだろう。指が思ったように動かない。
僕がついてるよ、大丈夫だから、必ず助けるから、待ってて。たったそれだけなのに。気持ちだけがばたばたと急く。どうして、なんで、たった数文字が形にならないんだ。
この言葉さえ届けば、ふたりは、僕らは、みんなで助かるはずなんだ。そう思った。3人ならなんだってできるはず。
だけど、ああ、突然に僕は理解する。
アマミネくんが、力尽きてしまったことを。
マユミくんが、どうやって生き延びようとしているのかを。
倒れ込んだ地面は、硬くて、冷たかった。涙が溢れて地面を濡らす。何も見たくなくて目を閉じた。
ああ、本当に僕は、なにもできなかった。
一緒にいれたら、少しでも助かるお手伝いができたのかな。
3人だったら、なにか、できたのかな。
やっぱり僕はひとりではなにもできない。
……それにしても、涙ってこんなにたくさん出るものだったっけ。さすがに干からびちゃうんじゃないかな。目元やほっぺたどころか口から首までも濡れて冷たくて、思わず目を開く。
「……あれ?」
そこは海なんかじゃなくて、見慣れた僕の部屋だった。中身が4分の1ほどまで減ったミネラルウォーターのペットボトルが、電球の明かりを反射している。こぼれた水が床に広がっているのに気がついて、慌てて立ち上がってティッシュを何枚か引き抜いて床を拭った。寝巻きも胸の辺りまで濡れていて、べとりと肌に張り付く感覚が気持ち悪い。
「夢? だったのかな……」
まわりの様子を確認する。つけっぱなしの電気、床に転がっていた自分自身とペットボトル、少し痛い体、ベッドの上にあるスマホには、充電ケーブルは刺さっていない。
スマホをいじってるうちに寝落ちして、寝相が悪くてベッドから落ちて、その拍子に蓋が緩んでいたペットボトルをひっくり返した、というところか。
「うわ、ちょっと間抜けすぎるなぁ……」
だらしない、を極めている気がする。こんな姿、絶対ぴぃちゃんやマユミくんやアマミネくんには見られたくない。だから、あんな夢を見たんだろう。
「夢……だよね」
あんなの、夢だ。シチュエーションはなにからなにまで全部めちゃくちゃだったし、自分だってどう考えてもおかしかった。
指が動かなかった。声さえ出せなかった。それに、現実であんなことが起きたら、まずぴぃちゃんに助けを求めてるはずだ。
変わらないのは、僕ひとりではなにもできないこと、それだけ。
「夢の中でぐらい……すごいことができたっていいのに」
ペットボトルを片付けて、着替えながら、ため息が溢れた。
充電ケーブルに繋ぐために手に取ったスマホが重力を検知して点灯し、午前2時を示す。何時間、中途半端な眠りの中にいたんだろう。そうだ、明日のレッスンに少し遅れちゃうかもしれないから、時間をずらしてもらえないかってLINKを送って、返信を待っていたんだっけ。学校でちょっと抜けづらい用事ができちゃったから。
返事、来たかな。スマホに顔を翳せば、寝落ちする寸前まで見ていたようで、すぐにC.FIRSTのグループ画面が開く。
“McA*いgy8”
「うわっ」
途端わけのわからない文字列がメッセージ欄に転がっていて、変な声が出た。右側に吹き出しがついているということは、送ったのは僕だ。寝ている間に間違えてタップしちゃったんだろう。急いで送信を取り消した。こんなのが真夜中に突然送られてきたら完全にホラーだ。既読がつく前でよかった。考えてみればこんな時間にふたりとも起きてるわけない。明日も学校があって、放課後にレッスンもあるんだ。きっと、起きているのは、僕だけだ。
「……夢、だよね。こんなの」
ちゃんと、みんないるよね。
実は何もかもが夢で、この部屋が世界のすべてで、本当に世界にたったひとりきり、僕だけがこの夜を起きているんだとしたら。そんなバカみたいな考えが急に浮かんできて、スマホを覗き込む。そこには間違いなくぴぃちゃんと、アマミネくんと、マユミくんの名前が、言葉があって、ゆっくりと息を吐く。大丈夫、これは現実だ。
『ごめん、やっぱり予定変更しなくて大丈夫になった』
手早く打ち込んで、指が止まる。早くみんなに会いたかった。頑張れば当初の予定に間に合わせられるかもしれない。ううん、間に合わせたい。だけどそう言っておいてもし間に合わなかったら迷惑をかけちゃう。
打ち込んだ文字を消して、ぼんやりと画面を眺める。
「……早く、会いたいなぁ」
こんなに、ひとりでいるのが不安な夜は、いつぶりだろう。
朝が、明日が待ち遠しくて、窓から外を見上げれば、星ひとつ見えない薄曇りの夜だった。朝は、いつ来てくれるかな。
そして、現実の話。
「あれ、百々人先輩早いですね」
昨夜連絡していた時間よりもかなり早く着いたにもかかわらず、事務所のリビングでは天峰がスマホをいじっていて、百々人は少し驚きながらも、ほっと全身が弛むのを感じた。できる限り早く学校の用事を片付け、一分一秒でも惜しくてタクシーに飛び乗ってから、結局予定の変更連絡を送っていなかったことを思い出す。それでもプロデューサーはいるかもしれないし、早めに着いて悪いことはない。なのに、まだいないだろうと思っていた目的の人物が、いつものように寛いでる姿に肩の力が抜ける。よかった、と声に出そうになって飲み込んだ。
「うん。思ったより早く用事終わったんだ。アマミネくんも早いね。レッスン、少し遅くしてもらったのに」
会えて嬉しい、とはっきりと書いてある顔を見て、気分が良くないわけがない。早めに来たはいいものの、誰かが来るのを待っていたのだろうか。クールに見えて、彼は誰かと一緒に行動することを好むから。
「俺は元々予定なかったんで。事務所ならいろいろ食べたりしながら宿題やったりできますし」
確かに学校より自由で快適かもと思いながら、テーブルに目をやって、少しぎょっとした。テーブルには、宿題一式のほか、コーヒーがなみなみと注がれた彼の愛用のマグカップ、季節限定のチョコレート、ネットで話題のコンビニスイーツの新作、赤飯のおにぎり、ちょっと季節外れの中華まん、野菜スティック、サンドイッチに菓子パン、カップ入りの鶏の唐揚げ……とたくさんの食べ物が他に誰もいないのをいいことに所狭しと置かれている。椅子に置かれたままのコンビニの袋からは、カップ麺が覗いていた。
「……すっごいたくさんあるね。お昼、食べてなかったの?」
彼はしっかり食べる方では確かにあるけれど、それにしたって多すぎる気がする。そんなにお腹いっぱい食べたら、声出しがきつくないだろうか。そんなことを柔らかく指摘すれば、少しだけ困ったように眉を下げた。
「なんか今日ずっとやけにお腹すいてて、それでつい買い過ぎちゃったんです。さすがにちょっと多いかな……。よかったら好きなの食べてください」
「うーん、じゃあこのパンもらおうかな」
体調が少しおかしいのだろうか。ちらっと顔を見れば、大きな青い目がややいつもより弱い光を湛えて揺らぎ、その下にはうっすらと隈が浮かんでいる。いつもならただただ綺麗なその目が、今日は海を連想させて、呼吸が、止まる。
海は、陸と陸を隔てるものだから。
一瞬、凍りかけた心が、ドアの軋む音ではっと動き出す。
「おはようございます。……秀、百々人。ふたりとも早いな」
「鋭心先輩! おはようございます」
その姿を認めるなり、まるでネジを巻かれたおもちゃのように、天峰がぴょこんと立ち上がった。その動きにどこか違和感をおぼえる。確かに彼は自分たちによく懐いてくれているし、感情がわかりやすいタイプではあるけれど、年齢の割には振る舞いには落ち着きがある。よほどなにか重要な知らせ……大事なオーディションの結果であるとか……を待っている時でもなければ、こんな反応は見たことがなかった。
けれど、自分たちふたりを視界におさめた眉見の様子もまた、いつもと違うように見えた。
(アマミネくんを見て、なんかほっとした顔をしてから、……目を逸らした?)
普段の彼なら、人から目を逸らすことなどありえない。ましてや、相手がユニットの仲間であるならば。天峰と百々人に対して彼が後ろめたい真似をするわけがないからだ。その視線は今度は自分へと向けられたが、それが不自然に逸されることはない。ただこちらも、いつになく不安そうな気配の残滓が、見えるような気がした。
「ねえ、アマミネくんがたくさん差し入れ持ってきてくれたんだ。マユミくんもどうかな」
どこか様子のおかしいふたりに心がざわつく。それだけのことで、昨夜の不条理な不安が一気に喉元までこみあげそうになって、とにかく空気を変えたくてそう言った。差し入れではないし、現時点では自分が選んだパン以外はまだ全部彼の私物だ。勝手なことを言ってはいるが、これくらいで彼が気を悪くすることもないだろう。一応横目で天峰の顔を確認すれば、頷いていたのでほっとする。問題はなさそうだった。けれど。
「ああ、俺は…………いや、いただこう。感謝する」
「あ、いえ……」
少し迷ってから、野菜スティックのプラカップを手に取る。その手を、それからそれをゆっくりと運んだ先の口元をじっと見つめていた天峰が、心配そうに尋ねた。
「鋭心先輩、もしかして体調悪かったりしますか? 顔色もあんまり良くないですし……」
「……ああ。今日は少し食欲がなくてな。悟らせてしまったか、すまない」
常になく歯切れの悪い言葉を受けて、天峰はそっと眉見の手にあるカップへと手を伸ばした。
「無理して食べなくて大丈夫ですよ」
「いや、食べる。腹の具合が悪いわけではないから、何か入れておかないとむしろ胃を痛めてしまう」
「それなら、レトルトのお粥のほうがいいと思います」
「そんなのまであったんだ」
カップ麺が見えていたレジ袋の下から、温めれば食べられるタイプのお粥まで出てきて、流石にそんな言葉が出た。彼が持ち込んだ食料は、全部合わせれば3人分ぐらいにはなりそうに見える。先日一緒に撮影の仕事をした先輩たちなら、どちらもひとりで平らげてしまいそうともふと思ったけれど。
眉見に食料を差し出して、心配そうに見上げる天峰。
その構図に、あの夢の中で、見てもいないのにわかってしまった出来事を思い出して、全身の血が抜けて行くみたいな冷たさを覚えた。
大丈夫、今は、現実だ。だって説明のつかないことや唐突なことなんか、何も起きてない。言い聞かせるように、言葉に出ないように、心の中で唱える。
「昨日僕たち一緒に晩ご飯食べたのに、アマミネくんはすごくお腹空いてて、マユミくんは食欲ないんだ。ちょっと変な感じだね」
「百々人先輩は?」
「僕は普通だよ」
自分の食欲については。朝も昼も普段となにも変わらなかったし、適当におやつも食べて、今もいつもの放課後と同じように空腹だ。普通じゃないのは、ふたりの様子を、つい昨日の夢と関連づけてしまうこと。それだけ。
「ていうか、鋭心先輩、ホントに大丈夫ですか? レッスンも無理しないほうが……」
「いや、本当に食欲がない以外はなんでもないんだ。だからこそレッスンのためにも、なにかしらカロリーは摂取しておきたい」
「それなら、ゼリーが一番良さそうですね。ちょっと取ってきます。冷えてないやつの方がいいですよね」
天峰はすっと立ち上がって倉庫へと向かった。栄養ゼリーの在庫はそれなりにあるはずだ。
「……情けないところを見せてしまったな」
「大丈夫だよ。誰だって体調悪いことなんてあるし。実は僕もちょっとあんまりよく眠れなくて、少し眠いんだ」
「そうなのか」
「ちょっと夢見が悪くて。……アマミネくんも、元気だけどちょっと変だよね。なんか、テンション高いっていうか」
「やはりそう思うか」
ひそひそ、とまでは言わないまでも、倉庫には届かないぐらいの音量で話すうち、目的のものをすぐに見つけた天峰がぱたぱたと早足で戻ってくる。
「お待たせしました」
差し出してきたのは、事務所に常にストックしている3種類のうち、ここぞという時に飲む用の一番高いものだ。ありがとう、と礼を言って受け取り、キャップを外して口をつけるも、やはり食欲がないのか、中のゼリーが吸い込まれていく様子はない。よっぽど体調が良くないんだろうか。
「ねえ、マユミくん……」
今日は休みなよ、と言いかけたとき。
天峰の腹の虫が盛大に鳴った。
「っ…………!」
咄嗟に腹を押さえて大きな目をまん丸に見開き、やがて顔を赤くして、少し恥ずかしそう、あるいは悔しそうな顔をしてこちらを見上げている。高いところからうっかり落ちた猫がこんな顔をしているのを見たことがあるな、と百々人は思った。
「あ、パン僕もらっちゃったけど、パン以外ならコーヒーじゃないほうがいいよね。アマミネくん、どれから食べる?」
「えっ、……じゃあおにぎりで」
「了解。それならお茶だね」
ちょうど昼休みに買ったものの結局飲まなかったまま鞄に入っていた250mlの緑茶のペットボトルを渡すと、急に変わった話の流れに戸惑った顔をしながらも、一言礼を言ってからごくごくと半分ほどを一気に飲み干して、おにぎりの袋を破った。
「いただきます」
猫を思わせる口を大きく開けて齧りつき、しっかり噛んだ後に飲み込む。ごくりと喉が上下した。
ただそれだけのことから、目を離せなかった。青い目が大きく光を反射した。口角がわずかに上がる。二口、三口と口に運んだところで、はっと顔を上げた。
「…………あの、ふたりとも、そんなにじっと見られてると、食べづらいんですけど」
「え、あ、ごめんね。美味しそうに食べてるから、つい」
そう言ってちらりと眉見を見れば、同じくその端正すぎてあまり表情の起伏がないように見える顔に、微かな動揺を浮かべて頷いた。
「俺、そんなにうまそうに食べてました?」
「ああ。……お前が食べているのを見ていたら、俺も少し食欲がわいてきた」
「え?」
「どんどん食べろ。レッスンに支障がない範囲でな。すまないが、このお粥をもらっていいか」
「はい!」
ぱっと青い目が輝き、お粥のパックを手渡した。それを片手で受け取った眉見が、まずはゼリー飲料のパックをどんどん凹ませていくのを確認して、俺食べっぷりも良いんだな、食レポの仕事とってきてもらおうかな、と呟く声は、すっかりいつもの調子を取り戻していた。
「ところで秀、お前も体調に問題はないか? 目の下に少し隈があるが……」
そう言われ、おにぎりの最後の一口を入れようとしていた手を止めた天峰は、少し眉を下げて答えた。
「あー、昨日、ちょっと夢見悪くて変な時間に起きちゃったんですよね」
「え、アマミネくんも?」
「俺もだ」
「鋭心先輩も?」
眉見が頷く。ちらりとこちらを見た天峰がなにか口を開きかけて閉じたのは、あるいは百々人が起きていたことを知っていたのかもしれない。あのLINKの通知を見られた、とか。
「僕もだよ、アマミネくん。……すごい偶然だね、昨日一緒にいたときに悪い夢見る原因になりそうなこと、なにかあったっけ?」
「特に、いつもと変わらなかったと思いますけど……」
放課後に仕事の打ち合わせがあって、その帰りに一緒に夕飯を食べた。打ち合わせ場所は初めて行く制作会社だったけれど、まだまだ駆け出しの自分達にとってはいつものことだ。変わったことと言えば、帰りがけにレジェンダーズの葛之葉をその制作会社の付近で見かけたことぐらいだが、そんなことが悪夢の原因になるとは思えない。
「先輩はどんな夢見たんですか?」
「うーん、……よく思い出せないや。アマミネくんは?」
嘘。あんな鮮明な夢、しばらく忘れられそうにない。あんなにも理不尽でわけがわからないのに申し訳程度の起承転結があるストーリーも、あの身体中の血が全部抜けてなくなってしまったみたいな、生々しい無力感も。
「俺は…………すみません、あんまり言いたくないです」
自分で言い出しておいて、天峰は不明瞭に言葉をもごもごとさせる。
「言ったら、余計思い出しちゃいそうで……」
最後の一口のおにぎりを飲み込み、続いて唐揚げのカップに手を伸ばす。爪楊枝を刺したところで、事務所のドアが開けられた。
「よぉC.FIRST、お疲れさん。なんだ、夢の話か?」
事務所のドアが軽く軋みながら開いて、入ってきたのはつい先程思い出した人物だった。
「おはようございます雨彦さん。今日、俺たち3人とも、変な夢見ちゃって」
「昨日なんかあったっけって話してたんだけど、心当たりがないんだよね」
そう言えば葛之葉は、ほぉ、と呟き、3人にぐるりと視線を投げかけてきた。
なんだか落ち着かない。彼の視線はなにかを見透かしているみたいだから。素直すぎてなにもかも全部表に出てしまう、見透かされて困ることもきっとそんなになさそうに見える天峰ですら、どこか居心地悪そうにしている。
しばらくこちらを見た後で、ニヤリ、に近い、けれどおそらく微笑みと呼んでいいのだろうものを顔に浮かべ、こう呟いた。
「ま、お前さんがたならもう大丈夫だろうよ」
「え?」
「3人で話すといいさ。悪い夢はひとりで抱え込まないで、誰かに話せば正夢にならなくなるって言うからな」
3人で。その言葉に誰より早く頷いたのは百々人だった。
いまなら大丈夫だ。
ちゃんと、3人いるから。きっと怖くない。
その様子を見て、続いて天峰が顔を真っ直ぐに葛之葉へ向けた。座っている天峰からは、ただでさえ非常に長身の葛之葉を、限りなく垂直に近い角度で見上げることになる。
「ありがとうございます。確かに、話すことで内容を整理できますし、先輩たちとならお互いに話せばそんな夢を見た思考の原因もわかりそうです」
ね、先輩。そう言ってこちらを見て笑う姿はいつもの天峰だ。
「ああ、そうだな。ありがとうございます、葛之葉さん」
「よく言われる話なだけさ。じゃあな、レッスンまでにしっかり汚れはきれいにしとけよ」
「はーい」
レッスンまではあと1時間ほど。それまでに大量の食べ物やらなんやらで散らかったテーブルは片付けなくてはならない。
「それじゃ、早速始めましょう」
「うん。ふふ、ご飯もたくさんあるし、なんだかパーティみたいだ」
「そうだな。それでは改めて、いただきます」
「いただきます!」
しっかり手を合わせた天峰と眉見に倣い、自分も手を合わせて目を閉じる。
いただきます、と口にして、直ぐに瞼を開けば、ちゃんとそこにはふたりがいた。
これは、ひとりぼっちの夢を見た、3人の現実の話。