見てはいけないユメを見た「鋭心先輩って、キスシーン撮ったことありますか? 仕事で」
興味深げにパソコンに繋がれた音楽機材を覗き込んでいた鋭心に、意を決して、何気なくを装って聞けば、その時々直視出来なくなるほどに整いすぎた顔が上げられた。来客に椅子を譲らないのも悪いと思って腰掛けていたベッドから見上げた鋭心の顔は、二つしか変わらないのに随分と大人に見えた。
「ある」
その言葉に、改めて忙しくなったものだと思った。デビューしてすぐの頃はそもそもソロの仕事はほとんどなかったし、ユニットメンバーの仕事は全部お互いに確認し合っていた。今はもう、他でもない彼の出演作なのに見ていないものがあるぐらい、全員仕事がそれなりにしっかり詰まっているのだ。そのシーンを、見た覚えがないほどに。
そのシーンがあることを、予め調べてはいたけれど。
「それがどうした?」
「俺、7月クールのドラマで、初めてキスシーン撮るんですよね」
「そうか」
ついこの間高校の卒業式を迎えた。特に明文化されているわけではないけれど、この事務所では自主規制としてその手のシーンは高校卒業までは撮らせないことにしているようで、ラブコメの脇役カップル役でぐらいなら出たことがあっても、それなりにメインで恋愛する役は初めてだ。尤も、振られ役ではあるが。
「……鋭心先輩にお願いがあるんです」
「なんだ。……心構えか何かを聞いておきたいか?」
相手役共々デリケートな演技になるから、教えてやれることなら、と言いかけた鋭心に向かって一歩踏み込む。精一杯真面目な、でもなんでもないことのように、いつものように、仕事のアドバイスを求めるときと同じ顔と声を作って。
この心が、滲み出てはいけないと、ポケットの中で手のひらを握りしめて。
「初めては…………信頼できる人としたい。鋭心先輩、俺と、キスしてください」
好きな人と、だなんて口にしてはいけない。何度も練習した。大丈夫、間違えていない。今のところ完璧なはずだ。
鋭心の芝居の時以外はあまり大きく動かない鋭い目元が、一度、大きく瞬いた。こちらを真っ直ぐに見つめるその緑色。ここで目を逸らしたら台無しだ。奥歯を噛み締めてから、静かに息を深く吸う。
「プライベートでも、まだしたことないんです。まあ当然、完璧にこなしてみせますけど。ただ、初めてが仕事以外で話したこともない人と、演技でっていうのは、俺的にもったいない気がして。……ちょっと、ロマン抱き過ぎですかね。18にもなって」
「いや、それは問題ないだろう。変に芸能界で擦れていなくて、むしろ良いことだと俺は思う。現在恋人がいないのなら、せめて信頼できる者と、というのも理解できる。だが、信頼できる者、というのなら俺以外にもいるだろう。百々人には頼んでみたのか?」
「百々人先輩にはまだそういう仕事来たことないはずだから、それは申し訳ないなって」
これは真実。その点を突っ込まれないために百々人のここ一年の出演作品はすべてあらすじと、ついでにSNSでの感想を1話単位で確認した。キスシーンより先に連続快楽殺人犯役が解禁されていたのは方針として本当にそれで良いのかやや気になるところだが、禍々しく唸りを上げるチェーンソーを手に血溜まりの中微笑むシーンの評判は大変上々だったらしい。怖くてドラマ本編はまだ観ていない。
「プロデューサーは…………論外だな」
「当然でしょ」
その選択肢は、わざわざ理由を探すまでもなく潰せる。絶対的な信頼を寄せているのは間違いなくとも、プロデューサーは芸能人ではない。演技でそんなことをする経験も必要もない職業である。そんな人に頼めるわけがないことは、確かめるまでもなく共通認識だ。ユニットメンバーに並ぶほど、あるいはそれ以上に強い信頼を寄せている人物がいることも鋭心は知っているはずだが、同じ理由で彼のことも候補から外しているだろう。
ただそれでも、一瞬でも名前が出てきたぐらいには、自分が引き受けることを回避したかったのだろう。心臓がずくり、と痛む。
「鋭心先輩にしか頼めないんです。ねえ鋭心先輩、鋭心先輩にとっては、仕事仲間からの演技の仕事の依頼だと思ってください。嫌なら、断ってくれていいですから」
「秀……」
これ以上迫りはしない。ここまで頼んでダメなら諦めると決めていた。理解はできると言ってもらえた、気持ち悪い、お門違いだとなどとは言われなかったから、失ったものはまだないはずだ。引くならここだ。
断られても仕方のないこと。普通の相手なら頼むことからまずあり得ない。それでも、少しは可能性があると踏んだのは、彼が演技の仕事に身を置く者だからだ。好きでもない相手と、なんの感情もなしに、キスをしたことがある人だからだ。仲間としての信頼と、守るべき後輩としての感情しかない相手にだって、できるかもしれないと。
(だけど、ユニットの仲間だといろいろ気まずいのはわかるし、俺の個人的な依頼だし。まあダメ元だったから)
初めてが仕事なのは嫌だ、だけど鋭心は仕事と思ってくれていい。矛盾はしないが、ずれはある。その点に着目しないでくれ。断られてもいい、本当の理由さえバレないなら。けれど。
「…………了解した」
あの長い足で一歩の歩幅を詰め、ベットの隣に腰掛けた。体重に、子供部屋のシングルベッドのマットレスがわずかに軋む。
「いいんですか?」
「ああ」
距離を詰められる。揃えた足が触れた。自分から頼んでおいて、びくりと身体が震える。好きな人の、体温。撮影で密着したポーズを求められることもあるし、人数に対してソファやベンチが狭すぎるときにぎゅうぎゅうに座ることだってよくある。なのに触れたところからどんどん熱くなるみたいだった。
「俺がリードするか? それとも」
「お願いします」
散々ネットで調べてはみたし、以前何かの仕事の時にもらったマネキンを引っ張り出してきて練習はしたものの-勿論、鋭心とのためではなくて、仕事のためにだ-、ぎこちないところを見せたくなかったし、鋭心が不快に思うようなキスはしたくなかった。
すっと鋭心の手が背中に回されて抱き寄せられた。緊張していることも気づかれたくない。体の震えは、抑えることができているのだろうか。
「……すみません、こんなこと、引き受けてもらって」
「気にするな。俺もそうだったから、気持ちは理解できる」
「鋭心先輩は……その時、どうしたんですか」
「どうもせずにそのまま撮影を迎えた」
「俺たちに頼もうとは思わなかったんですか?」
「お前たちはまだ未成年だっただろう。こんなことを頼めるわけがなかった」
「…………ですよね」
仕事に奪われてしまうなら、自分がもらいたかった。こんなにも自分が2つも年下であることが勿体無いと思ったこともない。けれど、もしも同い年だったら、頼めていたかはわからない。鋭心が自分のことをユニットの仲間であると同時に、守り導くべき後輩としても大切に思ってくれていることを知っているから、少々無理があるお願いであっても、断られることはあるにしても、今後の関係に支障が出ることもはないだろうと判断したのだ。
「それに、覚えていないだけで乳幼児の頃に親なり親戚なりとキスしたことぐらいあるかもしれない。それならば、演技でする分についてはノーカウントとしていいと考えた。………………お前にもそう考えろと強制しているわけではない」
彼の言っていることはなにもかもがもっともで、やっぱり少しでも不快なら、断ってくれていい。そう言おうとしたとき、後頭部に手が添えられて。
「お前は、これが初めてだと思っていろ」
本当に、文字通り目の前に、大好きな人の顔があって、直視できないのに顔を逸らすことなんてできないほどの近さに、思わず目をぎゅっと瞑った。
そっと頭が引き寄せられるのを感じる。まだ触れてないけれど僅かに温かい空気。思わず強張る身体。それが伝わったのか、優しく背中を撫でられた。
「秀」
ああ、もうその声だけで十分すぎるぐらい贅沢だ。
聞いたことがないほど優しく名前を囁かれて、心臓がぎゅっと握られたような感覚を覚えたのと同時に、唇が重ねられた。
押しつけられる柔らかい感触に、妄想していたのと違うな、というのが最初に頭に浮かんだこと。もっと軽く、唇の先を触れ合わせるだけのものかと思っていた。お互いに舌を相手の口に入れあう、性行為の合図みたいなキスがあることは勿論知っている。けれど、触れ合わせるだけのものが思ったより力強いことも、その少し先にこんな唇を食むようなキスがあるのも、知らなかった。
(鋭心先輩に、求められてるみたいだ……)
リードを任せてよかった。こんなこと、知識だけではできないし、ありえない幻想を、今だけは抱くことができる。鋭心の背に手を回した。鋭心の唇の感触も体温も呼吸も鼓動のリズムも、全部、全部この身体に刻みつけておきたい。これも音楽や仕事のインスピレーションになるかもな、なんて頭の片隅に浮かんでしまったあたりで、人としてはわりとまずいんじゃないかと思ってしまって思考を振り払う。そんな余計なことを考えているのが勿体無いと思った。今この時は、鋭心がくれるすべてを感じていたかった。
頭がぼんやりとしてくる。そういえば、息ってどうやって吸えばいいのだったっけ。酸素が入る隙間がないほどに、鋭心で満たされている。
やがて唇が離れていく。それに引かれるように目を開いた。鋭心の頬がわずかに上気しているように見えるのは、光の当たり方のためだろうか。
「えーしん、せんぱい……」
頭も口も喉もどこかふわふわするままに、子供のような声が漏れた。
名残惜しい、でも、もらった時間があまりに贅沢で、このままだともっと欲張ってしまいそうになる。離れなくては。それでも、この夢から、できるだけゆっくり覚めたい。もう少しだけ、浸っていたくて、鋭心の肩に顔を埋めようとした。
「……秀」
けれど、それはかなわなかった。それよりも早く、再び頭が引き寄せられる。
目を閉じる暇もなかった。力なく弛んでいた唇が割られ、軟らかくて濡れたなにかが捩じ込まれた。
「んぅ……っ!?」
それが鋭心の舌なのだと気づくまでに、少し時間がかかった。秀の舌に擦り付けるように動くそれに、どうしていいかわからなくなる。自分の体が、五感が、自分の意志から離れて、鋭心にされるがままになっている。何が起きているのかが理解できない。鋭心に舐められている箇所から、ぞくぞくと知らない感覚が拡がっていく。頭までそれが届いたら、おかしくなりそうだ。現に、心臓はもう壊れたみたいにばくばくと狂ったリズムを刻んでいる。やばい、これ以上は。でも、もっとこうしていたい。そう思うけど、単純に呼吸も限界で。
「っう、げほっ……ぐっ……」
どちらのものかわからない唾液が気管に入って咽せた。
「! すまん、大丈夫か!?」
鋭心の顔がさっと離れ、背中をさすってくれる。落ち着くのに、それすらどこか苦しい。
「平気、です、変なところ、入って」
呼吸を整えながら答えると、少しほっとしたように一瞬表情が緩んで、けれどすぐに緊張したような、硬質な表情に戻った。
「……すまない。これ以上はもうしない」
「…………はい」
わかっている。背中を優しくさすられながら顔を上げれば、鋭心の姿越しに見えるのは、自分の机とその周りを埋め尽くす音楽などの機材。ここは、住み慣れた自分の部屋で、現実だ。
夢から、覚めなくちゃ。
「ありがとうございます、鋭心先輩。こんなことさせてしまって、すみません」
「俺こそすまなかった。苦しくなかったか?」
「大丈夫です」
苦しいのは体じゃない。心だ。ここまでしてくれても、自分はユニットの仲間で、後輩という関係でしかない。勿論その関係性が「恋人」のそれと比べて劣るなんてことは絶対にありえない。
だけど、それでも、求める気持ちが、抑えきれない。
「秀、本当に大丈夫か?」
鋭心の指がそっと目元に触れた。その指先が僅かに濡れていて、初めて自分が泣いているのだと気がついた。
「嫌だったか。それとも、例のドラマの撮影がつらいのか。もしそうなら早くプロデューサーに言え。不本意な仕事を強要するはずがない」
「違います。俺が、学園恋愛ドラマの仕事がしたいって言ったんです。そういうの経験してこれなかったから興味があったし、音楽やパフォーマンスの表現の抽斗も増やせると思って」
これは何一つ嘘偽りのない本当のことだ。実は本当は茶番オーディションで、ほぼほぼ内定していた大手事務所の本命がいたのに、そんなこととは知らない原作者が秀を気に入り反対を押し退けて合格させたという経緯をスタッフから耳打ちされたときは、思わずガッツポーズをしたほど嬉しくて誇らしかったし直ぐにプロデューサーにLINKした。原作も脚本もとても面白く、天才である自分の初の連ドラメインに相応しいと思う。
ただ、ふと考えてしまったのだ。
これを口実に、偽りでもいいから、鋭心に触れることができるんじゃないかと。
だから、この涙は、自分の浅ましさと、虚しさと、それでも触れられたことに対する喜びと悲しみがぐちゃぐちゃになったものだ。早く止めなくては。枕元のティッシュケースから何枚か引き抜いて目元に当てても、じわじわと濡れてくるばかりで、それでも、心配そうに頭や背中を撫でてくれる鋭心の手が、どうしようもなく好きでたまらないのだ。
『秀さん!トレンド1位おめでとうございます!』
最終回の放送終了から1時間後、プロデューサーからテンションの高いLINKが飛んできた。リアタイした友人知人たちからは『最高だった』『私ならそっちを選ぶ』『ヒロイン見る目ないな』『あの振られっぷりが最高だった。幸せになって欲しい』といったLINKが続々届いていて、スマホの通知は鳴りっぱなしだ。
『当然だね』
脚本はヒロインを奪い合う男子ふたりのどちらにもスポットが当たるように書いてくれていたし、自分はそれを完璧以上に演じた。話題にならないはずがない。最終的にヒロインと結ばれたキャラクターの名前ではなく、自分の演じたキャラクター、そして「天峰秀」がトレンド入りしたという結果は、心から誇らしい。
けれど、
「あんたの気持ち、よくわかるよ」
原作のページを捲り、何度も読み返した、一番の見せ場を開く。
自信過剰な少年が、はじめて意のままにならなかった恋の前に立ち尽くし、ひとり涙する。
「……完璧に演じられるに決まってるじゃん」