Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    onsen

    @invizm

    まれに文字を書くオタク。

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 24

    onsen

    ☆quiet follow

    クロラム
    アニメの夜声真珠のイメージ映像から錬成した前世パロです。なんでも許せる方向け。
    初出2021/3/31 支部

    ##怪ラム
    #クロラム
    chloroform

    ヨルコエシンジュウ 江戸の冬空は、青く抜けているのだろうか。常と変わらず、薄らと灰色の幕が張ったような空を見て、少年は思った。
     年季が明けたら戻るよ。体を売れって言われてるわけでもねーんだし。心配すんな。
     そう言って頭を撫でてくれた、年上のひと。それが安心材料ではないことを、少年は薄々理解している。確かに、遊女として売られていくわけではないし、借金を返し終えたらこの国に戻ってこれるのだろう。なんだかんだ頭が切れるこの人なら、当初の予定よりも早くその時がくるかもしれない。けれど、弱い立場に置かれることは間違いないし、建前はそうであっても、実際には客に春を鬻ぐことを強要する店も少なくないという下世話な噂も耳にした。もし万一手込めにでもされたりなんかしたら。そもそもその借財は、彼女に愛を注いでなんかくれなかった親が残したもので、どうして、そんな人たちのために、こんな目に遭わなければならないのか。
     ふたりで何処か遠いところへ逃げましょう。手を取って訴えた。他人のために己を削らせたくなんてなかった。それでも、あのひとは遠い江戸へと旅立ってしまった。南蛮人の血が混ざってるだとか、いや物の怪の子であるだとか、いろいろと噂されることもあった金色の髪と瞳のひとは、少年の毎日から消えてしまった。たったひとつ、奇妙な巻貝の殻を残して。
     耳に当ててみた。なにもきこえない。
     男女が使うと、離れていてもお互いの声を届けることができるのだという怪しげな品を、どこからか彼女が手に入れてきたのは、この国を発つ、少し前のこと。
    「声が聞ければ、寂しくないだろ?」
     そういうあのひとこそ、ひときわの寂しがりであることを少年は知っていた。
    「でも、あんまり普段から使ったら駄目だ。これは使った分だけ、人の声を奪う。その度にここに真珠が育って、それを食ったら……ああ、まーそれはいっか」
     普段はきはきと喋るあのひとが、妙にもごもごと歯切れが悪かったような気がしたのが、印象に残っている。
    「だから、どうしても、声が聞きたい、声を届けたいときにだけ使おうな。いつでも持っててくれ。…………呼びかけた時に、すぐ、気づけるように」
     慕ってやまないあのひとの声を、聞き逃したくなんてない。その貝殻はいつも、着物の懐に大事にしまっている。あれからふたつ蝉の声を数えたけれど、この貝殻から彼女の声がきこえたことは一度もない。
     きっといま、あのひとの大切な大切な声は、他の誰かを楽しませるために使われている。

     あのひとが売られて行ったのは、芸者置屋だった。元は遊女として売られそうだったところ、あまりにも痩せて、どれだけ食べても何故か肉がさっぱりつかない体が客には受けないし、あるいはすぐに弱って死んでしまいかねないので、とてもじゃないが売り物にはならないと判断された。加えて、物の怪の娘、などという風評。客寄せの話題にできるか、いや下手なことをしたら障りがあるのではないか、で意見が割れ、後者が勝ったらしい。他人の心を見透かすような底知れない眼光や物言いも、その評価の一因になったのではないか。
     それだけだったなら、江戸に売られる話自体消えるはずだったろう。せいぜい近辺で奉公人としてこき使われるぐらいで済んでいただろうし、いつかなんとか金を工面して、少しでも肩代わりできたなら、と考えていた。彼女の運命を変えてしまったのは、天女のようとも、人を惑わす化生のようだとも喩えられる歌声だった。飾りとして置いておく分には、あの珍かな見目も客を呼ぶのに使えると判断されたのだろう。本格的な雪解けとともに、あのひとは江戸へと連れて行かれてしまった。

     恋しさに耐えられなくなりそうになるたびに、まるで見透かしたように文が届いた。江戸の町の季節の移り変わり、江戸に来て初めて口にした食材や味付けのこと、置屋の女主人がとても良い人で、時々叱咤されながらも大切にしてもらっていることなどが認められている。
     その度に返事を書いた。この町の季節を、日々の出来事を、少しずつ変わっていくことも、変わらないでいることも。あのひとが帰ってくるまで変わらずにいるために守っていることは、敢えて書き伝えてはいない。
     元服からしばらく経って、特別豊かでも貧しくもない、そこそこの格の家の三男坊。ありがたいことに周囲からは文武両道との評もあり、豊かな商家から格上の武家まで、婿養子にという話はいくらでも来ていた。
     将来を誓ったわけでもない、待っていると約束してもいない、あのひとが江戸で誰かに身請けされないまま、年季奉公を終えて帰ってきてくれる保証もない、それどころか、この想いすら伝えていない。けれど、それらの誰がどう見ても勿体無い良い話は、総て断った。物の怪の娘に魅入られている、などと陰で言われていることは知っている。
     それでも、恋しい。ずっと、ずっと前から、あのひと以外はなにもいらない。それなのに、どうして、困ったように笑いながらほどかれた手を、もう一度掴めなかったんだろう。
     誰もいない岩場で、何度も読み返して擦り切れた便りを広げれば、乾燥した指先に、紙がざらついた。ざばりと波が岩を叩きつける。舞い落ちる波の花から文を守るように、海に背を向けて抱え込んだ。羽織越しに水が滲みて、冷たさに身を震わせる。寒い。けれど、この場所でなら、あのひとの声を代償にしなくても、この文の文字がきこえるような気がした。
     おさない頃から、よくともに過ごした場所だった。ひとりぼっちのあのひとは、海水に痩せた足をだらしなく遊ばせながら、よく鼻歌を歌っていた。ざばり、ばさり、という波音の中でも、その声はひとかけもすることなく耳へととけていく。聴いているうちに吸い込まれるように眠ってしまい、岩場から転げ落ちそうになってからは、寝入る前に必ず膝を貸してくれた。ほとんど骨と皮ばかりみたいな腿も、ぺたりとしたなんの柔らかさのない腹も、触れるとどうしようもなく安心した。降ってくる声も、時々撫でてくれる手のひらも、大好きだった。そこそこ年上であるはずなのにそんなことを忘れさせる、時折見せる大人気ない振る舞いも、見ていて飽きなかった。遊んでいるうちに自分もむきになってしまい、海に落ちかけた陽に慌てて背を向けて帰ることもあった。茜色の光が金糸のような髪に弾んで、見惚れるほど、綺麗だった。
     握った手をほどいて、眉を下げて笑った顔さえ、目が離せないほどに、美しかった。あの日以来、あんな鮮やかな色を目にしたことはない。
     どうしてあの時、もっと強く言えなかったんだろう。あなたがそんな目に遭う必要ないから、じゃなくて、好きだから、一緒に生きたい、離れたくないって言えなかったんだろう。その声を、噛み潰してしまったんだろう。
     風がひときわ強く吹いた。着物の濡れた場所から、首の後ろから差し込む冷気が、ぞわざわと骨の髄から広がっていくようで、気持ち悪い。それでなくとも、ここのところひどく寒くて、首の周りが腫れて痛む。文を貝殻と一緒に懐に仕舞い、己が身体を抱え込むように腕を回し、岩場を後にした。

     家に帰り、濡れた着物を着替え、湯に浸かって、火鉢に当たっても、寒気はおさまらなかった。できる限り温かくして、早めに床についた。
     次の朝も、その次の日も、体の髄から染み出すような寒さは止まなかった。風邪薬を飲んでも全然効いている気がしない。寒くて寒くて仕方がないのに、喉だけが熱く腫れ上がっているような感覚がした。白湯を飲んでもひどく沁みた。声が、まともに出ない。
     四日目にもなると、頭が回らなくなってくる。どろどろのお粥ぐらいしか口にできない。大きなものを食べようとしても、腫れた喉に引っかかるような感じがして、飲み込めなくて吐き出してしまう。起きていられない、でも、苦しくて眠れない。時々、腫れ物の一部が破れたような激痛がして、現に意識が引き戻されるからだ。
     家族が医者と話している声が聞こえる。ぶちぶちと途切れる言葉。長い文章を理解できないぐらいに動かない頭。どうやら、このままだと遠からず衰弱死しそうだということだけを、他人事のように拾った。途中から、枕元に来るのが胡散臭い語り口の誰かになっていた。まともな医者には見放されたのだろう。
     こんなに早く死んでしまうなら、何もかも捨てて追い縋ればよかった。無理やりでも手を引いて逃げればよかった。いつか、待ってさえいれば、そう思っていたんだ。そのときはわからなかったけれど。
    (最後なら、せめて)
     懐に抱え込んだ貝殻を取り出す。先端についているのは、まだ真珠とはとても呼べない、小さな小さな粒。
    「声、が、ききたい」

     
     こんな形で、故郷に残した年下の幼馴染の気持ちを知りたくはなかった。
     この怪しげな貝殻が、「愛し合う」男女の声を届けるものなのだと離れる時に言えなかったのは、ひとえに自分が臆病だったからだった。聞こえなかったところで、「やっぱり御伽噺だ」と笑って誤魔化せるように。
     芸者置屋に売り飛ばされて、いつ帰れるかも、生きて帰れるかもわからない自分を待ち続けて、将来有望な少年の前途を潰すようなことはあってはならないと思った。それと同じぐらい、彼が自分のことをどう思ってるのか、聞くのが怖かった。あの少年がいなければ、自分は本当に、この世でひとりぼっちになってしまうのだから。
     だから、この貝殻から、途切れ途切れの声がきこえたとき、心の底から歓喜した。それと同時に、そのぼろぼろの声に、少年の身に何かが起きたことを察して、恐怖が、悲しみが、全身を走り抜けた。
     故郷に残してきたたったひとりの大切なひとが重病なのだと告げれば、すぐに駆けつけてやるように、と、路銀まで持たされて見送られた。年季奉公の身だというのに、ここまで良くしてもらっていいんだろうか、というのは道中も半ばを過ぎたあたりでやっと思い至ったことだった。正直、江戸を飛び出してからここまでどうやって来たのかもあまり覚えていない。
     声がききたい。
     ずっとききたかった声で、告げられた願い。
    「声が聞きたかったのはっ……こっちの方だ……」
     こちらの声が届かなかったら、と思ったら、怖くて呼びかけられなかった。
    「きこえてるか? 今そっちに向かってるよ」
     何度でも、何日でも、呼びかける。そのたびに、声が掠れていくのがわかる。
    「だから、待っててくれ」
     ぎゅう、と、貝殻を握りしめる。
    「お前の声が、ききてぇよ」


     ちゃんと眠れるようになった。起きられないことは変わらない。歌がきこえた気がした。ずっときいていたいのに、吸い込まれるように眠りに落ちる。
     頭を撫でてくれる手のひらの感触は、夢か現かわからない。
    「生きてて、よかった」
     どうしようもないほど恋しいひとの声。それが、二重できこえたような気がした。右耳に囁かれて、左耳に反響するような。
    「……お前の喉、治すには、これしかねーんだとさ。ちゃんと調べればあるのかもしれねえけど、もう、お前がもたない」
     これしかないって、なんだろう。止めなくちゃいけない。でも、身体が動かない。声が、出ない。
     掠れきった声で、子守唄がきこえる。歌うたびに声が、どんどん小さくなっていって。
     最後に、名前を呼ばれた、ことはわかった。きこえなかった。ぱきり、という硬いものが割れる音がして。
     口の中に落とされたそれは、飲み込んではいけないものだと、わかっていたのに。

     喉の痛みがすうと引いて、息ができた。瞼が少しだけ動く。ぼやけた視界の中で、なにかが瞬くのが見えた。外から差し込む光が、金色に乱反射していた。
     急激に意識が覚醒した。なんとか目を開いて、ゆっくりまばたきする。だんだん形がくっきりとしてきた世界で、あのひとが、手を握っていた。
    「………、…………っ」
     途切れに途切れた、微かな声しか出なかったけれど、なんとか、名前を呼んだ。
     はっとその金色の目が開かれる。少年の顔を覗き込んで、そして、その大きな目から涙がこぼれた。
    握り締められた手のひらに、額を擦り付けられる。涙で、手が濡れていくのがわかった。
     違和感が、どんどん大きくなる。息ができるようになったはずなのに、呼吸が、できない。
     どうして、泣き声が聞こえないんだろう。

     声をなくした。江戸へと赴いてそのことを伝えれば、置屋の女主人は深く深くため息をついた。
    「あなたって娘は…………」
     そこで、言葉を失った。何をどう言ったものか、迷っているように見えた。
    「年季も残ってるっていうのに商売道具なくしてどうするのよ」
     そう言って喉を撫でる手は、怒りではなくて、呆れと、悲しみが滲んでいるように柔らかい。女主人は目を伏せる。
     少年の喉の病を治すために、自らの声で作った真珠を飲み込ませた。そんな荒唐無稽にも思える話を、彼女は戸惑いながらも信じてくれた。いつも件の貝殻を後生大事に持っていたことから、その謂れを聞いていたのだという。少年の危篤を察して故郷へ戻ることを許してくれたのも、その貝殻伝いに聞いたのだと言えば信じてもらえたのだそうだ。日頃、どれだけこのひとが、周囲の人たちに信頼されていたのかがよくわかった。そんなひとの大切な声を奪ってしまった。
     声をなくしてしまったことを詫び、なんとかして借金を返したいこと、歌えなくなってしまったからには身体で稼ぐ覚悟もある、と書いた紙を見せれば、女主人はもう一度、深く深くため息をついた、
    「本当のところ言えば、あなたにはもう十分稼いでもらっているのよ。まだ約束の期間が残ってたからいてもらったけど。とはいえ、まだいてくれるつもりでこっちもいろいろ考えてたわけで……」
     身を縮こまらせながらも、目は逸らさない。何を言われても仕方ない、という覚悟をした様子で女主人を見つめていた彼女に、けれど、掛けられた言葉は何処までも優しかった。
    「とりあえず、料理でもしてもらおうかしら。あとは、そうね、繕い物とか、楽器や小物の手入れ。あなた器用だからそういうこと得意でしょう。そっちの想い人の彼も一緒に来て、用心棒になるのはどう? 見るからに腕が立ちそうだし」
     ここまでの温情は予想外だったのか、金色の目にみるみる涙が溜まって行く。けれど、少年にとってもその言葉は、思いがけないものだった。
    「想い、人……?」
     そう、口にすれば女主人は首を傾げる。
    「その貝殻、愛し合う男女の声をお互いに届け合うものだって聞いてたけど、違うの?」
     隣に立つ人の顔を見れば、先程まで優しい言葉に紅潮していた頬から、ざあと、血の気が引いているのがわかった。いつの間にか、同じ高さにあった目が、気まずそうに伏せられるけれど、金糸のような睫毛では、その目を隠すことはできていなかった。口が利けなくても、それはもう、答えを口にするのと同じだった。
    「……なんで、なんで言ってくれなかったんですか」
     そう言ってくれていたら。愛してくれているのだと知っていたら、なにがなんでも、手を取ってどこかふたりで生きられる場所へ行こうと言えたのに。
     ……違う。
    「僕が、言っていたらよかった。あなたを愛しているから、一緒に生きたいって、あのとき伝えてればよかった……」
     その言葉に、彼女が膝から崩れ落ちた。顔を手のひらで覆っていても隠し切れないほど、涙がぼろぼろとこぼれ落ちて床を濡らしていく。
     なのに、泣き声が響くことは、なかった。

     泣き腫らした顔が、行灯の明かりに照らされている。初めて褥を共にして目の当たりにした体は、着物の上から見るよりももっと痩せていて、こんなにもなにもかもが足りてないような身体から、大切なものを奪ってしまったのだと突きつけられた気がした。
     破瓜の痛みに涙を流し、爪を立てられた背中が今だって痛むのに、きこえるのはただただ、布の擦れる音、肌がぶつかり合うねばりつくような水音、互いの荒い呼吸、それに、堪え切れずに漏れる、愛するひとを犯している、自分の声。
     ああ、うるさい。
    「きこえていますか」
     やっと手に入れた最愛の人の右耳に囁く。その隣には、貝殻。左耳にはその片割れを。
    「どうして、あなたはずっとそうなんですか。あなたのせいじゃない借金を返すために身売りさせられて、……僕のために、声まで捨てて」
     彼女に入れ知恵した胡散臭い拝み屋を締め上げた。肝の病には生き肝を、それと同じように、喉の病には声を。この貝の噂を耳にしていたそいつは、特に根拠もなくそんなことを彼女に告げていた。結果的にそれは当たっていたわけだが、どうしてその代償を、このひとが負わなくてはならないのか。
    「……あなたは声をなくしてしまったけど、僕も、あなたの声をなくしたんですよ」
     そんな自分勝手な言葉を、ぶつけたいわけじゃなかった。残りわずかな声は、もっと優しい言葉に、愛の言葉に、愛し人の名前を呼ぶのに使うべきなのかは、わかっていた。
    「好きです。ずっとずっと前から好きです。早く、言っておけばよかった。……あなたの声で、あなたの気持ちをききたかった」
     囁くたび、行灯の中に浮かび上がる真珠が、大きくなっていくのがみえる。
    「愛してます。……永遠に、一緒ですよ、…………」
     彼女の名前を呼んだ声が、音になったからわからない。
     ぱきり。
     己の声を餌に育った真珠を口に含んで、愛しい人に口付けた。



     ふと、誰かの声がした気がして、クロは顔を上げた。きょろきょろと周囲を見回すも、此処には自分とラムネしかいない。珍しく予約が一件も入っていないから、今日は怪具の手入れや薬の補充入れ替えに当たっていた。
    「どした、クロ?」
    「いえ、先生こそなにか言いました?」
    「? 俺はなんも言ってねーぞ」
     うちに変なの入って来れるわけねーしなあ……と言いながら、急患でも来たのかと様子を見に行くも、誰の影もない。
     手元にあったのは、いつぞやの治療に使った夜声真珠。ふたつ揃った貝殻は、寄り添うように箱に収まっている。
    「先生」
    「なんだ?」
    「……いえ、なんでも」
    「クロ、お前調子悪いの隠したりしてねーよな? ちゃんと寝てるか?」
     すたすたと寄ってきて覗き込むのは、医者の目をしたラムネ。体調不良を隠せる相手だなんて思っていない。彼の目も判断力も一流であることは、誰より知っているつもりだ。
     つかみどころのないひとだから、その本心が何処にあるのかは、よくわからないけれど。
    「絶好調です。むしろ先生こそ、目の下に隈が」
    「うっ」
    「うっ、じゃありませんよ先生」
     さっと距離を取ってそそくさと自分の作業に戻る姿に、ため息が漏れる。ここのところ比較的重篤な患者が続き、それこそ「荒療治」に走りがちで、結果ラムネが怪我をしたり無理をしたりすることも多かった。クロを含めて、周りに彼を心配している人がいるからなんとかぎりぎりのところで転げ落ちていない程度の状況であって、目を離したらあっという間に自分自身を捨ててしまうという嫌な確信がある。
     ああいうひとだから好きになった。だけど、そういうところが好きだというなら語弊しかない。
     簡単に自分を投げ捨てないでほしい。でも、言ったところで自分を曲げる人ではないことは、わかりきっている。
     自分にできることは、いざというときに手を掴むこと、その手を絶対に離さないこと、それだけだ。
    「大丈夫だって、今日終わったらちゃんと寝っから! クロのおかげですげー捗ってるし」
     埃ひとつないのを確認して、夜声真珠の入っている箱に蓋をする。手入れを任せてもらっている怪具は、触った程度では何も起こらない、危険度が低いものばかりだ。クロの勉強を目的に振ってくれている作業であることはわかっている。それでも、少しは戦力になれているはずだ。
    「なら、いいですけど」
     箱を閉じた瞬間、もう一度、誰かの声がきこえた気がした。知らない女性の声だと思うのに、名前を、呼ばれた気がした。
     箱の中には貝殻がふたつ。だれの声もきこえるはずがないのに。
    「……先生」
    「んだよ」
     無茶を叱られるとでも考えているのか、少し低めに沈んだ声。けれど。
    「…………呼んでみただけです」
    「あ?」
     数をチェックしていた薬の瓶を棚に戻すと、パタパタとクロへと駆け寄ってくる。
    「どうしたんだクロお前、本当に大丈夫か?」
     熱はないな、リンパ節は腫れてねーな、などと言いながら、額や頸部に触れて確認していく。
    「耳も……妙な様子はねーな」
     最後に耳に触れて凝視していたが、特に気になるところはなかったようで、首を捻りながらも離れていく。
     一旦様子見か。そう呟く彼を、不安にさせたいわけじゃない。けれど、呼びかけた理由を、口にするのも躊躇われる。でももしも、ちゃんと伝えられたなら、何かが変わるのだろうか。
     先生を呼びたい。
     先生の声で、返事をしてほしい、名前を呼ばれたい、だなんて。
     閉めたはずの箱の中から、音がきこえた気がした。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    onsen

    DONEクラファ仲良し
    クラファの3人が無人島で遭難する夢を見る話です。
    夢オチです(超重要)。
    元ネタは中の人ラジオの選挙演説です。
    「最終的に食料にされると思った…」「生き延びるのは大切だからな」のやりとりが元ネタのシーンがあります(夢ですが)。なんでも許せる方向けで自己責任でお願いします。

    初出 2022/5/6 支部
    ひとりぼっちの夢の話と、僕らみんなのほんとの話 --これは、夢の話。

    「ねえ、鋭心先輩」
     ぼやけた視界に見えるのは、鋭心先輩の赤い髪。もう、手も足も動かない。ここは南の島のはずなのに、多分きっとひどく寒くて、お腹が空いて、赤黒くなった脚が痛い。声だけはしっかり出た。
    「なんだ、秀」
     ぎゅっと手を握ってくれたけれど、それを握り返すことができない。それができたらきっと、助かる気がするのに。これはもう、助かることのできない世界なんだなとわかった。
     鋭心先輩とふたり、無人島にいた。百々人先輩は東京にいる。ふたりで協力して生き延びようと誓った。
     俺はこの島に超能力を持ってきた。魚を獲り、木を切り倒し、知識を寄せ合って食べられる植物を集め、雨風を凌げる小屋を建てた。よくわからない海洋生物も食べた。頭部の発熱器官は鍋を温めるのに使えた。俺たちなら当然生き延びられると励ましあった。だけど。
    12938

    onsen

    DONE百々秀

    百々秀未満の百々人と天峰の話です。自己解釈全開なのでご注意ください。
    トラブルでロケ先にふたりで泊まることになった百々人と天峰。

    初出2022/2/17 支部
    夜更けの旋律 大した力もないこの腕でさえ、今ならへし折ることができるんじゃないか。だらりと下がった猫のような口元。穏やかな呼吸。手のひらから伝わる、彼の音楽みたいに力強くリズムを刻む、脈。深い眠りの中にいる彼を見ていて、そんな衝動に襲われた。
     湧き上がるそれに、指先が震える。けれど、その震えが首筋に伝わってもなお、瞼一つ動かしもせず、それどころか他人の体温にか、ゆっくりと上がる口角。
     これから革命者になるはずの少年を、もしもこの手にかけたなら、「世界で一番」悪い子ぐらいにならなれるのだろうか。
     欲しいものを何ひとつ掴めたことのないこの指が、彼の喉元へと伸びていく。

     その日は珍しく、天峰とふたりきりの帰途だった。プロデューサーはもふもふえんの地方ライブに付き添い、眉見は地方ロケが終わるとすぐに新幹線に飛び乗り、今頃はどこかの番組のひな壇の上、爪痕を残すチャンスを窺っているはずだ。日頃の素行の賜物、22時におうちに帰れる時間の新幹線までならおふたりで遊んできても良いですよ! と言われた百々人と天峰は、高校生の胃袋でもって名物をいろいろと食べ歩き、いろんなアイドルが頻繁に行く場所だからもう持ってるかもしれないな、と思いながらも、プロデューサーのためにお土産を買った。きっと仕事柄、ボールペンならいくらあっても困らないはずだ。チャームがついているものは、捨てにくそうだし。隣で天峰は家族のためにだろうか、袋ごと温めれば食べられる煮物の類が入った紙袋を持ってほくほくした顔をしていた。
    6475

    related works

    recommended works