いつかその手をつかまえて どうせ何もないだろ。結婚式は出会いの場って言うからな、なんて浮かれたことを言いながらそわそわと出かける想い人に対して抱く感情がそれでいいんだろうかと思いながら、きちんとした細身のスーツに身を包んだ先生を見送った。ちゃんとした格好さえすればかなり見れる容姿だとは思うのだが、正直なんの不安もない。なにかあるとすれば、その場で何かトラブルに巻き込まれるだとかそういうことだし、新郎のこれまでの所業を思えば、刃傷沙汰の巻き添えにならないかどうかは心配だ。
先生は今日、かつての患者とかつての意中の女性の結婚式という、文字だけ見れば複雑な感情の席にお呼ばれされている。たぶん、先生としてはもう純粋に寿ぐ気持ちしかないだろうけど。
「悪ぃなクロ、留守番頼んじまって。夕方にはお土産持って帰っから」
「かまいません」
ちょうど読みたい本がたくさんあった。家にいようと先生のいない神社だろうと、休日の過ごし方はさして変わらない。
「ハンカチとティッシュは多めに持ちましたか? 友人代表でもないのに新婦の手紙で誰よりも号泣したりしないでください」
「しねーよ多分!」
絶対ではないらしい。
よく晴れた土曜日、大安。新婦の日頃の行いが良いからかの絶好の日和、新郎の日頃の行いについては知らない。どうしてあんな男がモテたのか、かつての所業を知りながら結婚まで至ったのか、僕にはわからないしあんまりわかりたくもない。
(先生の方が絶対にいいのに)
確かに動きも顔も口も何もかもがうるさい。間違いなくヘタレ。身体は貧弱だしファッションセンスは最悪。人目を引いてしまう華やかな髪色も、この国ではあまりよく思われないことのほうが多い。兎に角、第一印象で損をする。僕自身、誤解した側の人間だから何も言えない。だけどそれでも思う。
みんな、見る目がない。
留守番用にと、先生が作って置いていってくれた焼き菓子をつまみながら、この診療所の主のことを考えた。でも、みんなに見る目があっても困るのだ。先生の数えきれないぐらいのいいところをみんなにちゃんとわかってもらいたいという気持ちと、誰にも奪われないでほしいという気持ちが入り混じる。たったひとりの弟子で助手でいたい。それ以上の先生の、たったひとりの大切な何かにだってなりたい。
誰かを独り占めしたいなんて、思ったことも、なかったのに。
いつでもここで笑っていてほしい。不遜な顔で、励ますように明るく、あるいは楽しそうに。その隣にいるのはいつだって僕がいい。僕だけが、いい。正面は、患者に譲るにしても。あとは時々、いたずらに引っかかって困っていてほしい。いろんな顔が見たい。
そんなことを考えていると、扉の開く音がして、こんにちは! と鈴を転がしたような声がした。
「あれ、先生は……」
「こんにちは、琴さん。先生から軽口急須は預かっています」
そう言えば彼女は、露骨にがっかりした顔をした。そして取り繕う気もあまりないらしい。仕事中以外は感情をはっきりと表に出すようになった琴さんは、前よりもずっと健康的で、ただ、これから映画で少し長めの地方ロケがあるから、念のために貸してほしいということだった。
「帰ってきたらお土産持ってくるって、先生に伝えてね」
軽口急須を大事そうに抱え、石段の下で待っていた母親の車に乗ると、笑顔で大きく手を振る。仕事柄か、年齢の割に他人の内面を深く理解する彼女は、「見る目がある」ひとりだ。おそらく、念のために、というのはほぼ完治していることを考えれば口実で、本当は先生に会いたかったのだろうなということはよくわかる。受け取りにこれるタイミングが今日しかなかったそうなのだが、電話口でこの日に来ても先生はいないと伝えなかったのは、意地が悪かっただろうか。
彼女を見送りに出れば、相変わらずの見事な快晴で、眩しさに慣れるのに少しかかる。時々通りかかる車、少し気の早い蝉の声、風が木の葉を揺らす音。境内はひどく静かだ。落ち着かなくて蔵の中へ戻った。
先程の件で頼まれた用事はもう終わり。それだけ済んだら帰ってもいいと言われたけれど断った。先生が帰ってくるまで待っている、急な来客があるかもしれないし、わかる雑務は片付けておくからと。そう言えば、じゃあきっと引き出物でいいお菓子もらえるだろうから、帰ってきたらお茶飲むか、折角の休みに悪いな、と先生は申し訳なさそうにしていた。
僕が待っているなら、披露宴が終わったら、すぐに帰ってきてくれる。いい出会いがあるかも! なんて、招待状を手に浮ついた様子で話していたことも、全部忘れて。わかってて、留守番を申し出た。先生の良さを見抜けるひとはそうはいなかったとしても、先生が誰かの良さを見つけてしまったら、そう思ったら怖かった。
僕のこんなずるい部分は、どうか見抜かないでいてほしい。まだ伝えられていない、この気持ちも、どうか、まだ、誰にも見られたくない。
暗い蔵の中、目が文字を上滑りするみたいに、本を読んでもどうにも頭に入らない。先生のいないこの場所は、太陽がどこかに連れて行かれてしまったみたいで、部屋の明かりを全部つけて、窓を開け放した。
居眠りをしてしまっていたようだ。夕陽だろうか、差し込んで来た明かりに目を覚ます。
「おーいクロー、ただいまー」
先生の声がした。時計を見ればだいたい四時を回ったところ。
「おかえりなさい、先生」
出迎えれば、とりあえず汚れたり刺されたりした形跡はない。式は恙無く終わったようだ。
「目、腫れてますよ。そんなに泣いたんですか?」
「だって……志保子ちゃん本当キレイで、親御さんへの手紙とか……すげー感動的で……」
「はいはい、思い出して泣かないでください。ハンカチ足りましたか?」
「ギリ……」
「出会いはありましたか?」
「言わんといて……なんで思い出させて泣かせようとするん……?」
なかったらしい。安堵が顔に出ていなければいいと思った。
「引き出物でいいバームクーヘンもらったから、とりあえず食おうぜ」
微妙に肩を落としつつ、スーツのジャケットを脱いで、奥に向かう先生を追いかけた。
「お茶淹れます」
テーブルに置かれた紙袋から取り出された箱は、新郎新婦の幸せのお裾分けだ。それを切り分けてくれる先生の手を、ついガン見してしまう。いつもの捲った袖から出た生腕ではなく、きちんとボタンを締めた、白いシャツの袖から覗く、骨っぽい手。あの日、僕を暗闇から救い出してくれたこの手を、他の誰かが掴んでいってしまう日がいつか来たら、今日よりももっと格式の高い正装を、他の誰かのために着る日が来てしまったら、僕はどうなってしまうだろうか。
「……クロ?」
ナイフを置いた先生の手が、ひらひらと僕の顔の前を行ったりきたりして、はっと我にかえった。
「どーかしたか? ぼんやりして」
「いえ、美味しそうだったので、つい」
「あー、これすげーいいやつだからな。俺もいただきものでしか食べたことねーよ」
切り分けてくれたものは、やっぱり僕の分の方が大きい。
「少し日持ちするし、残りは月曜日のおやつにしよーぜ」
「はい」
当たり前のように交わされる、とても近い未来の話。それをする相手が僕じゃなくなるのが、すごく、嫌だ。
知りたくなかった。自分の中のこんな感情。先生に出会うまで、先生に恋をするまで、きっと、僕の中になかったもの。
「……クロ、どうした? 元気ないぞ。俺がいなくて寂しかったかー?」
そんなことを言って、わしゃりと頭を撫でてくるから。
「……ここが静かなのは、落ち着きません」
少しだけ、素直に返す。全部はとても、言えない。
僕の頭に乗せられたままの先生の手は、今は、僕だけのものだ。だけど、それは先生がそうしてくれているから。先生の頭にはまだ、僕の手は届かない。
早く大きくなって、その手を掴みたい。僕だけのものになってください、と告げたい。今はまだ、素直な年下の顔をして、先生の手がこちらに伸びてくるのを待っているだけだけれど。いつか、必ず、できるだけ、早く。
頭の上にある先生の腕に、手を伸ばそうとした。