書きかけずっと世界は変わらないと思っていた。例えどんなに大変なことが起こったとて、朝日が登れば何事もなかったかのように世界は回り出すのだと、そう信じ切っていた。
浮上するような感覚とともにラファエロは目を覚ます。
薄いマットレスに軋むベッド。薄汚れた天井と全く役に立たない遮光カーテンが目に入る。
薄い壁は外の車の往来をダイレクトに伝え、心なしか揺れている気がする。
普段起きる時間と大して変わらない時間を示す目覚まし時計に顔をしかめ、渋々と昨晩の深酒が残った体を引きずるようにベッドから出る。
カーテンはそのままに洗面台に向かい、歯磨きを咥えながら昨日そのままにして寝た安酒の瓶を片付ける。
片付けなくてもいいのだが、放置してるとどこからともなく兄弟の声が聴こえてきそうでついつい手を出してしまう。
じっとりと暑さを感じる夏の終わり、ラファエロは地上のボロいトレーラーハウスで1人で暮らしている。
その年、宇宙人の襲来という未曾有の出来事を機に、政府は宇宙人の存在と彼らとコンタクトをとっていること、そして彼らの副産物であるミュータントの存在を公表するに至った。
世界は歴史上類を見ないほどの混乱に陥り、人々は新たな隣人と影に潜むフリークスたちに戸惑いを隠せなかった。
しかし、宇宙人の熱心な説得と活動家たちのおかげで、宇宙人とは恒久的な平和を、ミュータントは新しいアメリカ市民として受け入れることになった。15年前のこの日、アメリカはまた一つの壁を越えることができたのだ。
「はぁー」
滔々と似たような内容を繰り返し流すテレビにラファエロは深いため息をつき、アスピリンの容器を無造作に机に放り投げる。
現在、知性があると判断されたミュータントは制限付きの市民権を発行されほかのアメリカ市民と同様に街で暮らすことが許されている。しかし、それはアメリカ市民と同じ義務を背負わされていることと同義であり、ラファエロも例外なく労働の合間の貴重な休日を謳歌しようとしていた。
なにをしようかというより、なにをしなければならなかったかを考えていると耳障りなチャイムが鳴る。
この家に訪れる人物は限られている。盲目の大家と嫌そうな宅配便と政府関係者とそれから身内。
そして前触れなく訪れるのは兄弟のうちの1人で、そいつは先週来たばかりだ。
心当たりのない来客に居留守を使おうかと思案するが、それを見越したようにもう一度チャイムが鳴らされる。
例え憂鬱な休日だとしてもこうして邪魔されるのは解せない。新入りのセールスは自分を見れば帰るだろうし、ラファエロは意を決して薄い玄関ドアを開けた。
「よう」
そこにいたのは盲目の大家でも嫌そうな宅配便でも政府関係者でも前触れなくくる兄弟の1人でも、ましてや新入りのセールスでもなかった。
大柄に見えるその男は夏だというのにダボついた長袖のパーカーにフード、キャップ、サングラスまでかけている。
サングラスから覗いた肌は鮮やかな緑色で、特徴的な三本指がおろしたサングラスからは青い目が覗いていた。
「ッ……レオ、ナルド」
「久しぶり、ラファエロ」
そこには下水道を出て以来、15年間消息を絶っていた一番上の兄、レオナルドが佇んでいた。
「お前よくその面下げて会いに来れたな!!」
レオナルドの胸ぐらを掴み今にも殴らんばかりの剣幕で怒鳴りつける。もはやここが往来であるなどということを考える理性は残っていない。
「15年だ!15年間オレたちがどんな思いでお前を探したかわかってんのか!?」
白熱するラファエロをよそに、当の本人は軽薄な笑みを浮かべ全く響いた様子はない。
「レオ!お前聞いて」
「あのさラファ、ここじゃ目立つし。それにガキもいるんだ。中で話そうぜ?」
「ガキ……?」
レオナルドに似つかわしくないその言葉に虚をつかれたラファエロは思わず聞き返す。
レオナルドが視線で背後を示し、それに従って後ろを見やるとトレーラーハウスの階段下に小さな人影がぽつねんと佇んでいた。
レオナルドと同じようにフードとキャップを目深に被り、リュックの肩ベルトを握る手は手袋に覆われてるがその上からでもわかる特徴的な指。
そして伺うようにしたから見つめる目は見覚えのある青。
「レオ……お前まさか」
「そんなわけないだろ」
ラファエロの言葉を遮り、胸ぐらを掴んでいた手を払う。
「おいで、Jr.」
レオナルドに声をかけられおずおずと階段を登ってくるその子ども。
「レオナルドJr.。俺の子ども」
ラファエロを見上げてくる顔は隣で複雑そうな表情を浮かべるレオナルドに驚くほど似ている。
「俺さ、人間の女と結婚してたんだ」
その言葉を聞いてラファエロの顔は目に見えて青ざめた。
下水道から出ることになったその日、兄弟たちはバラバラの進路を進むことを決めていた。ミケランジェロは遊園地のキャストになりたいと夢を語り、ドナテロはどこかの研究所に所属したいといった。これといった夢がなかったラファエロは頑張れよと肩を叩くしかなかったが、その姿が輝いて見えてなんだか誇らしかった。
『レオはどうするの?』末っ子の無邪気な言葉に長男に視線が集まる。
「俺か?そうだな。すこし地上歩いてみるさ。地球を救ったヒーローなんだからすこしくらい休暇をもらったっていいだろ」
そういって茶目っ気のある表情で笑うレオナルドに兄弟たちは笑い、ラファエロはその時もう借りる予定であったトレーラーハウスの住所を渡してその日は別れた。その日を境にレオナルドは消息を絶った。
行方はようとして知れず、唯一政府関係者からなにも知らされることがなかったのとニュースにもなっていないことからどこかで生きているという希望に縋るしかなかった。
だというのに、ラファエロはダイニングの椅子に座って我が家のようにくつろぐレオナルドを見て、頭痛を抑えるようにこめかみに手をやった。
兄弟になんて連絡すればいい、15年行方知れずだった兄がこぶつきで帰って来たなんてスマホのメッセージで送るには重すぎる内容だ。
「なんかないか?オレンジジュースとか、Jr.に飲ませたいんだけど」
「ああ、ミルクなら…」