深い深い森の奥、その少年は鼻をすすりながら歩いてきた。もう殆ど泣いているようなものだったが、声は漏らすまいと口をきゅっと結んでいる。
ああ、そんなに下ばかり見ていてはぶつかってしまうぞ。あんなに目に涙を浮かべていてはろくに前も見えないだろうに。木の根や岩が飛び出し、平らとはとても言えない地面の上をふらふらしながらやってくる。一歩、二歩...
「いてっ」
ああほら、やっぱりぶつかった。少年はようやく顔を上げ、そして僕と目が合った。
しまった、と思った時には遅かった。僕の姿を見たら、今度こそ少年は泣き出してしまうかもしれない。今からでも目を閉じてただの木のフリでもしようか、などとどうしようもない考えしか出てこない。
しかし少年は泣かなかった。涙の溜まった目を真ん丸にして、真っ直ぐに僕を覗き込んでいた。
驚かせてしまうかもしれないが、僕はこの少年が心配で仕方がなかった。腕を持ち上げる。ああ、体を動かすなんていつ以来だろう? 僕の腕はぎいぎいと鳴きながら少年の方へ伸びる。長い指を広げ、ゆっくりと彼の頭の後ろへ添える。そのまま抱きしめても少年は抵抗しなかった。
冷たい雨と風に晒されるだけだった僕の体に、彼の体温がじんわりと伝わってくる。
「あったかいな...」
そう少年がぽつりと零すので驚いてしまった。僕があたたかいだって? ほとんど枯れ枝のようになってしまったこの体が?
さっきまで泣きそうだった少年は穏やかな、安心したような顔をしてしばらく僕に包まれていた。
日が傾く頃になってようやく少年は起き上がった。もう戻らなくちゃ、と少し名残惜しそうな顔をしながら呟く。歩き出して少しするとこちらを振り返ったので、僕は微笑みを返した。つもりだったが、はて、きちんと笑顔を作れていただろうか?
数日して、またその少年はやってきた。今度はしっかり前を見ていた。
「やあ、また来たのかい」
と声をかければびくりと震えて歩みを止める。
「うわっ、しゃべった! ていうか女の人じゃなかったんだ......」
何を失礼な、見ればわかるだろう!......と言いかけたが、たしかにこの伸びきった髪と貧相になってしまった体ではわからないかもしれない。胸は無いが、それ以上に華奢過ぎるのだろう。
初めて会った時に話しかけなかったのは、きちんと声が出るのか不安だったからだ。体を動かすのも久しかったが、それ以上に声は出していなかった。もし化け物のような音が出てこの子を泣かせてしまったら暫く立ち直れそうにない。彼が帰った後に話す練習をしていたのはここだけの話だ。なんなら歌も歌えそうなので、いつか子守唄でも聞かせてやろうかと思う。
少年はあまり家にいたくないのだと言う。あの日は森の奥まで逃げてきて、偶然僕を見つけたのだと。
それから度々少年は僕の元を訪ねてくるようになった。よくもまあここがわかるものだ。僕自身ですら僕がどこにいるのか知らないというのに。
僕は大木の根元にもたれ掛かるようにして、毎日毎日、ただその日が終わるのを待っているだけの時間を過ごしていた。動こうだなんて思わなかったし、目を開けることすらしない日もざらにあった。
そんな暮らしをしていれば当然であろうが、段々と痩せ細り、ほとんど背にある大木と一体化しているような状態だった。
そんなところにやってきたのがあの少年、名をクロードと言った。初めは家から逃げるためにここへ来ていたというのに、いつしか僕へ会うために来るようになった。僕もそれが嬉しかった。
この頃は身体に葉が付くようになった。今にも折れそうだった指も生え変わって緑が戻った。そして胸元には花の蕾が付いていた。人間であれば、心臓のある位置であろう。
ある日現れたクロードはまた下を向いていた。
「なあローレンツ、やっぱりおれっておくびょうだと思う? いつもにげてばっかりだし......」
まつ毛の下からこちらを覗く瞳は滲んでいた。そして鼻を赤くしている。
「君は僕を怖いと思うかい?」
クロードは無言で首を振る。
「それに君は一人でこんな森の奥深くまで来れるんだ。勇敢じゃないか」
そうしてそっと抱きしめた。初めて出会った日を思い出させた。
「ほら、これをあげよう」
胸元に燃えるように咲いていた赤い薔薇をぷつり、とちぎってクロードに手渡す。
「暗くなる前にお帰り。僕もそろそろ眠ろうかと思っていたから......」
素直に頷いたクロードは、背伸びをして僕の頬に軽いキスをくれた。ああ、笑顔になってくれて良かった。森の外へ戻っていく彼が見えなくなるまで見つめ続けて、そして目を閉じた。
「花なんて育てたことないや......」
ローレンツからきれいな花をもらって浮かれていたんだ。帰ってきてからこの後どうすればいいのかわからなくて困ってしまった。茎も付いてないけど、水に浮かべていておけばいいのかな? 枯れちゃったらいやだし、明日もう一回会いに行って聞いてこよう!
外が明るくなってすぐ、クロードは家を飛び出した。太陽が出ていていい天気だけど、森に入るとすっと涼しくなる。
「あれ、ローレンツ?」
たしかこのあたりだったはずだ。いつもはローレンツがおれのことを見つけてくれて、長い手をふって教えてくれるんだ。
「やっぱりここだよな......」
大きな木の根元には、まるで人のような形をした蔓草のかたまりがあるだけだった。
結局あれからローレンツには会えなかった。日が落ちるまで森の中を彷徨って、泣く泣くあきらめた。次の日もその次の日も探したけどやっぱり見つからない。花の育て方は相変わらずわからないままだったけど、何日経ってもそれは枯れることはなかった。