思い出してトーマ EX-1「犯罪だとは思わなかった…か」
「うっせーな話しかけんな」
バイト先の店長──藍染が店の奥のキッチンから顔を出す。ゆったりと歩く姿は、目に映る景色の中を滑るようだ。人間離れした美しい顔を、ブン殴ってやりたかった。鷹揚とした透明な声が耳の奥に染み込むのも、苛立ちを助長した。
マジの犯罪だとは思わなかった?
イタズラだと思った?
そんなわけがない。赤の他人の飲み物に眠剤を入れてくれなんて欲求、たとえ双子でもアイコンタクトだけで理解できるほど、俺はナチュラルボーン犯罪者ではない。
この店は個人経営とは言え、バイトだけが回しているわけではない。店長は主にキッチンにいるとは言え、接客ができないわけではない。むしろ、顔もいい・声もいいコイツを目当てに通い詰める若い女も多かった。
一護や友人たちも例外ではない。一護は「店長さんの雰囲気、いいよな」なんて言って憚らないし、友人の中には「あの人見てるとヘンな気分になる」と曰う変態もいる。
コイツは相対する人を酔わせ、一瞬のトランス状態にする『人間』だ。表情も、声も、話術も、全てが他人をコントロールするためにあるような男だ。
だから、5年前のあの日、俺は、2度目の生の中でコイツを視界に入れてしまった俺は、その時点で既に負けていたのだろう。
でも、負けていたのは俺だけじゃない。コイツも同じ穴のムジナだ。
つい数分前、俺たちは同じ負け犬に成り下がったのだ。
「お前、なんで顔出さなかったんだ」
「あぁ…、過剰な刺激を与えるのは悪手だと思ってね。魂を揺さぶられている状態に下手に重ねれば壊れてしまいかねない。」
「へぇ、じゃあ尚更顔出してやりゃよかったじゃねーか。助舟でも出せば、お望み通り穏便に事が進んだかもしれねーだろ」
「…………」
口をつぐむということは、言いたいことがあると示していることと同じだ。隠すのは上手いくせに、隠していることを隠すのは下手な男だ。俺の前でだけ、コイツはガードが甘い。
斬月──御影夜月は、週一レベルで通う常連だった。あの人も、いるだけでそれなりに画になる。俺は藍染と違って、店に来る全ての客の顔を覚えているわけではないが、一護の友達があの人を見ながらヒソヒソと「イケオジだね」などと言っているのを憶えている。
その話を、一護が知らないわけはなかった。
一護も俺のバイト先であるこの喫茶店に入り浸っていたからだ。勉強をしたり、駄弁ったり、ただ涼みにきたり。
「すげーイケオジがいるんだってよ、見たことある?」
「あー、週一くらいでいるぜ」
背が高くてスラっとしている、外人じみた彫りの深い顔、色素の薄い瞳、肩につくくらいの柔らかい癖毛。一護が斬月の容姿を誉めるときによく使っていた語彙だった。
「へー」
電話越しの声は、微塵も関心を滲ませない。
斬月さんも同じだ。
初めて彼が店に来たのは、酷い通り雨が降り始めた正午だった。濡れ鼠になった彼にタオルを貸して熱いコーヒーを淹れた。ひとしきりPCやスマホの生存確認をした後で、ふぅと息をつきながらコーヒーを楽しむ彼に声をかけた。
「大変だったな。この辺は住宅街の路地だから、店を見つけるのは苦労したろ」
窓の外を見ていた彼は顔を上げた。
「そうですね、初めてきたものですから。」
そう言って彼は口の端を上げた。そんな顔、見たことなかった。そして彼はまた窓の外に向き直った。
それ以来彼はよくこの店に通うようになった。コーヒーを気に入ったそうだ。
俺を見る目には少しのブレも無かった。人の目をよく引く俺の容姿にすら、まるで興味がない様子だった。若い気さくな店員と、寡黙な常連客。それ以上の関係にはならなかった。
「俺、双子の弟いんだよ。カラチェンみてーで笑えるから見てくれよ。平日の夕方くらいによくいると思うぜ。」
「それは是非見てみたいものだな」
斬月さんが休日の正午以外に来ることは、ほぼない。
斬月さんが店に通い始めて3年、一護が店に通い始めて2年。
2人は、一度も同じ空間にいたことがなかった。まるで何かがそれを阻むように。
だから、今日この日までは、俺たちは負け犬なんかではなかった。スタートラインにすら立っていなかったのだから。でも、
「なんで俺じゃダメだったんだろうな」
あえて、悲しみの一片も隠さずに素直に曝け出す。傷ついた自分を隠すことは手負いの獣のすることのようだと感じたからだ。「まるで堪えてませんよ」などと強がることは、それ自体が弱さだとわかっていたからだ。
「…そうだね」
コイツが、同じように感情を曝け出すのは予想外だったが。
「生まれた時からずっと一緒だった君でも、孫の顔まで見た私でも、ダメだった」
藍染が、目を細め、僅かに視線を下げ、笑みを引っ込め、静かに応えた。刺すような西陽に横顔が浮かぶ。飴色の睫毛が燦めく。揺らぎの波を持った声が、芳ばしい香りに溶ける。溶け残ったものが俺たちの間に重苦しく横たわる。
触れる者に痛みしか齎さないそれを、大事に抱えて離すことが出来ない獣が2人ここにいる。
凶悪と畏れられる獣が、情けなく腹を見せているような優越感。その腹に、恐る恐る手を伸ばす。
「でも俺たちは、アイツにとっての『日常』だ。それは…かけがえのないことだろうが」
アイツが聞いていたら俺らしくないなんて笑うだろうか。もしそんなことを言われたら、俺も笑って言うだろう。「お前は大切なことを誤魔化したり、皮肉って笑いごとにするような人間かよ」と。クサい台詞を臆面もなくクソ真面目に言うのは、お前の専売特許だろう?
「まるで彼のようなことを言うんだな」
「意図的にエミュってやったんだ、喜べよ」
「飢えた人間の目の前に食品サンプルを置くかのような愚行だよそれは」
油を差したようによく回る口だ。やっと当たり前が戻ってきたような感覚に、肩の力が抜ける。傷を舐め合うのは趣味じゃないが、今回は流石にそうでもしないと共倒れしてしまいそうだった。後ろ手に刃を突きつけ合う俺たちは、それだけで正気を保っているからだ。俺だけじゃない。コイツも同じなのだ。
「いやでもマジで拉致は予想外だったな。どう収集つけんだコレ。普通に犯罪だぞ」
「そうだね、まさか初手で強硬手段に出るとは。これはあの男に頼るしかなさそうだな」
「それもっとややこしいことになるフラグじゃね???」
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