思い出してトーマ.3物心ついた頃から、高層ビルが好きだった。
青い空に映える透き通ったガラス、眩く柔らかい光を放つパネル、視界の中央に聳え立つ凛とした姿。首が痛くなるほどに見つめることが、幼い頃からの唯一の楽しみといえる時間だった。
だがその度に、心の底に物足りなさが堆積していくのを自覚していた。
「私なら、もっと高くするのに」という不満足。完全に空を割るに足らず、いつもぷつりと途切れてしまう先端の続きを、瞼の裏に思い描いていた。
次第に、空想は具現化していく。
瞼の裏に描いていた物を、空中に指で描く。
それを、ノートの余白に描く。
それを、ケント紙に描く。
それを、3DCADソフトで描く。
あくまで趣味の範囲で行っていた創作活動を兄が興味深そうに閲覧している場面を目撃したときは、何をやらされるのか軽く怯えたものだ。そんな私に兄は、
「ヨツキ、建築士になれ。これは決定事項だ。」
と告げた。当時22歳、既に父の経営する会社に会計士補として勤めることが決まっていた。しかし、兄が決定したことを覆せたことは人生で一度たりともない。関わるもの皆が諦める中、父は兄を説得しようと試みる。が、結局私は翌年には建築学科のある大学に入学することになった。
私の二度目の大学生活終了とほぼ同時期に、兄が突然欧州に飛び、連絡がつかない状況がしばらく続いた。どこぞでのたれ死んでいやしないだろうな、資格だけ取らされて放置なんて洒落にならないと訝しんでいた頃、兄の取り巻きの番号で着信があった。
「すまないな、携帯が水没していた。」
「レイ、今どこにいる。次は何をさせる気だ」
「今資料とチケットを送った。サインして明日7時発の便に乗れ」
「………。」
何か言い返そうとした時には既に通話は終了していた。無機質な電子音ががらんどうの頭蓋の中によく響く。何もかも放り投げて眠ってしまいたい欲求に抗い、PCのメールを開く。オランダ行きの電子チケットと、何やらパンフレットのような資料が添付されている。そして一言。
『私の会社で働け
■■CEO 御影 黎』
ぼすん、と柔らかい衝撃に襲われて意識が浮上した。
肺の底に澱んだ空気が溜まっているようで、思わず深呼吸する。息すら忘れて眠っていたのだろうか。鼻腔の奥が冷えて、ぼんやりとしていた思考が急速に覚醒する。
「わりぃ、起こしちまったな」
ほとんど耳元くらいの距離で吹き込まれた声に、反射的にそちらを向く。
悪びれもせず微笑んだオレンジ頭が、すぐそこにあった。恋人にでも見せるような緩んだ目元に無性にイラついて、顔面を左手で鷲掴んで引っぺがす。指先に触れるオレンジ色は、柔らかく指通りが良い。
青年の頭をグイグイと遠ざけながら体を起こす。体重を支える右手が受けるのは、もすもすとしたタオルケットの感触。背と膝の下には、生ぬるい他人の体温。姫抱きにされてベッドに運ばれたようだ。
「いてて」と言いながら、青年はなおも半笑いで纏わりついてくる。ベッドに下ろしたにも関わらず未だにがっしりと私の体を支えるたくましい腕を、気持ち悪がればいいのか、怖がればいいのか。
「あ、パソコンスリープにしといた。充電器はカバンに入ってたやつで良いよな」
「…中は、」
「見た。けど何書いてあるかはさっぱりだし、あんま弄るのも怖いから大したもんは見てねーよ。わかったのはアンタの苗字くらいだ」
清廉潔白な言い訳は期待していなかった。が、堂々と見たとのたまうくせに、途中で怖気付く臆病さが彼の本性であると感じた。
「他人のパソコンを見るのは悪いことである」と認識しているこの青年が、私を拉致監禁するに至るまでにはどのような事情があったのだろうか。
元より犯罪へのハードルが低い人間ならば、既に跳んだ拉致監禁というハードルより低いボーダーを跨ぐことを躊躇したりはしまい。
初対面の私を躊躇なく騙し、躊躇なく眠剤を盛り、躊躇なく自宅に連れ帰った。明らかに衝動的な犯行。「ごめんな」という言葉。
悪びれもしないのに、悪いことだとは思っている。その思考の序列の歪さ。
知りたい、と。
そう思ってしまった。
「そっち寄って、落ちる」
「落ちろ、床で寝ろ」
「俺家主なんだが?」
深夜2時を回った夜更けに、私たちは相変わらずくだらない戯れをしていた。ソファーで寝ると体を起こした私の肩を、青年はダメだとにっこり笑って再びベッドに沈める。
覆いかぶさる影。力強く肩を掴む熱い手のひら。一拍おいてゆっくりと近づいてくる整った顔。
まさか食われるのか?と唐突に湧きあがった危機感に身を固くする。青年の細く瑞々しい指がシャツにかけられ、いよいよ乱暴にされるのかと薄寒いものが背筋を駆け上る。
しかし、その指は第一ボタンを外しただけですぐに遠ざかる。青年の目が僅かに細められる。
「ビビった?」
「……」
「アンタが嫌がることはなるべくしない。うちのソファー小さくて寝れねぇからさ」
ボタンから離れた指が私の右頬をスッと撫でる。そのまま癖毛の先を巻き付けて弄ぶ指を、わざとらしくため息をつきながら退けた。
結局、壁際にグイグイ追いやられた私の背中に青年が蝉のようにへばり付く体勢で寝入ることになった。とても落ち着けやしないが眠剤の持ち越し効果なのか、眠気はまたにじり寄ってきていた。背中に感じる青年の体温が、じんわりと体の芯まで温めていくようだ。
そんなタイミングで、背中の蝉がボソリと語りかけてくる。
「なぁ、アンタ、名前は?」
「…みかげ」
「知ってるよ、下の名前は?」
「……よつき、だ…」
ふわふわと夢と現実のあわいを行き来する意識でどうにかそれだけ答えた。カーテンの上の隙間から差し込む街灯が、男子にしては片付いた寝室を青白く照らしている。
ミカゲヨツキ、と青年が口の中で唱える。そして、腹の底を這うような冷たい声で、こう言った。
「違うよな?」
ちがう。その言葉を咀嚼するのに、ゆうに3秒はかかった。何を言っているのかわかっても、何を言われているのかはわからない。その言葉で、青年の纏う空気が一変したのは確かだ。背中に貼りついていたあえない蝉が、一瞬にして得体の知れない化け物に成り代わる。
眠気の染み込んだ脳は完全に馬鹿になってしまったようで、論理的な思考を跳ね飛ばして、短絡した反応を返すことしか出来ない。
「なら私は誰だ?」
舌がうまく動かない。子音の潰れた問いかけに、青年は黙りこくる。その答えを訊く前に、私の意識は、眠りの中に落ちていった。