だから、今は。 廊下に佇む人影を見付けて歩み寄って声を掛ける。わたしの呼び掛けに振り向いたその人は柔らかに微笑んだ。
「お疲れ様です、賢者様」
「お疲れ様です、リリーベル」
優しく落ち着いたこの女性は南の魔女であるリリーベル。治癒の腕を買われ、フィガロに賢者の魔法使い達の補佐をと推薦された女性だ。物腰柔らかく、いつも丁寧な大人の人。そう言うとわたしよりも長生きなだけだと笑われるけど。
「何を見ていたんですか?」
「彼らの授業の見学を」
リリーベルが視線を遣った先には実戦魔法の訓練をする東の魔法使い達がいた。少し前まで授業をすることに積極的でなかったファウストが先頭に立って授業を行っている。カリキュラムはしっかりと組み立てられ、座学も実戦もどちらもバランスよく行われている。シノは実戦授業ばかりしたがるらしいが、座学の壁にぶつかりながらもヒース達と協力しながら頑張ってこなしている。
南の魔女であるリリーベルが彼らの様子を気に掛けるのは縁のあるファウストがいるからだろう。誰にも公平に接するリリーベルだけど、ファウストとはどこかよそよそしいというかお互いに遠慮しているように見える。かつて革命軍で同じ戦場に立った仲間だそうだが、その最中に辛い目に遭っていたことを聞いたのはついこの間だ。かつての自分の行いに罰を求めたリリーベルをファウストが怒鳴りつけ、一時はどうなることかとハラハラしたけど無事和解して事なきを得た。一定の歩み寄りを見せた二人は魔法舎に帰ってきてからちょっとした会話をする姿を見掛けるようにはなったけど。
「あれからファウストとは話せてますか?」
「日常会話を少し交わすくらいには」
返ってきた答えに身を乗り出せば、リリーベルは苦笑と共に少し身を引いた。嘘でしょう、今までほとんど口もきかない、むしろ南の国にリリーベルを帰らせようとしていたファウストが二人で初めての共同作業みたいなことをするまでになったのに?依頼をこなす中で大分距離を縮められたのだと思っていたのに日常会話を交わすだけ?
「そんな急に打ち解けるわけないですって」
「遠くにいて聞こえないような声も拾ったのにですか?」
「あれは経験値もありますし……」
ファウストから零れた微かな呟きを、名前を呼ばれた気がしたからと応えたリリーベルの間には特別な絆の存在を感じたのに、リリーベルはかつて似たような経験をしたから予測できただけと片付けようとする。何度かあったっていうけど、だってそれ四百年は前の出来事ですよね?思わず疑わしそうな顔をするわたしにくすりと笑みを浮かべてリリーベルは窓の外を優しい表情で見ている。
「魔法舎に留まることを認めていただけて、少しでも普通の会話をしようとしてくださる。ここに来た当初のことを思うとすごい前進ですよ」
確かにリリーベルが魔法舎に来たばかりの頃、出会い頭に「ここは君が来る場所じゃない」と睨み付けながら吐き捨てられたと言っていたからそれに比べれば大分態度は緩和されているけれど。あの時は古い知り合いだとはいえ何てことを言うんだと驚いて言葉も出なかったけれど、この間のランズベルグ領での出来事を考えると額面通りではないんだろうなと思う。
厄災の邪悪な気に当てられて自死を選ぼうとしたリリーベルの元に真っ先に駆け付け、叱りつけていた。彼女の賢者の魔法使いを支えるという覚悟とかつての仲間を思う気持ちを汲み取っていた。危険も伴うと分かっていても魔法舎に留まると告げたリリーベルの決意を受け入れた。それらを見ているとファウストはリリーベルのことを大切に思っているのだと思う。上手く言葉に出来ないだけで、本当は心の底ではそうなんじゃないかって。自分のことを話したがらないファウストの気持ちなんて、まだまだ全然分かるわけじゃないけれど。
「……それに」
「それに?」
「レノックスが話してくれた、私の失踪した時の話ですが……」
かつてリリーベルが周囲に掛けられていた重圧に耐えきれず、自分の存在意義を見失って一人で苦しんだ末に革命軍から逃亡したとき、仲間だった魔法使い達は誰一人としてリリーベルの行方を追わなかったのだと言っていた。それなりに人数がいるはずなのに、申し合わせも何もなく足並みが揃うはずはないと。
「誰かが探さないよう号令を掛けていたんだと思うんです。人間に勘づかれても責任を取れて、皆を纏めて指示を出せる魔法使いが……そんなことが出来る人はほんのごくわずかです」
当てはまりそうな人物を咄嗟に思い浮かべてハッと息を呑む。リリーベルが誰のことを言わんとしているのか、考えなくても分かる。レノックスはそんな事実があったとは言ってないけれど、リリーベルは確信を持っているようだった。
「集団であれば一人や二人、聞き入れない者が出たっておかしくはないのです。それを誰一人違えることなくやりきったのならば、個々の判断でやったこととは思えないのです」
そう言って窓の外を見詰めるリリーベルの瞳は優しくて穏やかで、どこか切なそうだった。薄く笑みを浮かべる姿はそこにいるはずなのに、迷子になっているかのような不安定さがあった。
「……だから、それだけで充分なのです」
「リリーベル……」
「賢者様、どうかこの話はご内密に」
そう言って微笑を浮かべ、頭を下げてリリーベルは行ってしまった。ファウストのこともリリーベルのことも出会ったばかりのわたしにはまだまだ何も分からない。けれど、いつか二人が自然に笑い合える日が来ますようにと願わずにはいられなかった。